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魔王の世界征服日記
第2部 勇者?


「おお、陛下、たまには真面目にやっているものですな」
 マジェストの留守は結果的に丸一日だった。
 いつもの如く突如背後に顕れたかと思うと、さらりとそう言う事を言う。
「まじーぃ。今日というきょうはもうなんだか私赦せないかも」
 じろりというよりぎろりと彼女は貌半分を彼に向ける。
 彼女の後ろにはいつもと変わらないままのマジェストがいた。
 まおの正面には山積みの書類――でも、彼が現れるのと全く逆で、その書類の殆どは片づいていた。
 マジェストの言うとおりだった。
「失礼しました魔王陛下」
 だから彼女に対して頭を下げる。
「まじー。勝手に休んで何してたんだよ」
「はい陛下」
 そう言って、すいと箱を差し出す。
 何の変哲もない、白い箱。
 まおは不思議そうな顔をしてそれをうけとり、端に指をかける。
 ぺり。

  いょんよんよんよん

「……」
 じと。
「あっはっは。冗談でございます陛下」
 あかんべーをしたまおの顔が、箱の中から飛び出して揺れている。
 まおはその箱をぽいっと棄てると、マジェストはもう一個同じ形の同じ箱をだして見せる。
「またおんなじじゃないでしょーね」
「同じではございません。今度は私が」
 総て言い終わる前にまた投げ捨てようとするのを、慌てて箱を押さえて止める。
「今のも冗談でございます陛下、お願いですから中身を開けてください」
 はこ。

  いょんよんよんよん

「ばか」
 じと。
 じわ。
「あ、あわっ。わわ、のですね、その」
 焦ってマジェストはもう一度同じはこをだす。
「今度こそ同じではございません。ひらがなですから」
「ふんだ、もういいよ」
 相変わらずばねでふらふらと揺れるあかんべーのマジェストが載った箱をぽいすてする。
 本気泣き入り始めていた。
「いえ、どうぞ」
 仕方ないからマジェストは自分でそのはこを開ける。

  はこっ♪

 ひんやりした冷気が中から漂い、彼女の顔をなでる。
「…………」
 取りあえず涙は止まった。
 もう泣く事はないだろうけど、まだ顔はひねくれている。
 マジェストははこをそのまま差し出して顔に近づける。
「まじー」
 じろ、と少し赤くなった目で睨み付けて。
 でも気分は既にはこの中身にうつっている。
 ひんやりとした冷気は、このはこに敷き詰められた、雪のように細かく砕いた氷。
 そして、一つのカップ。
「はい魔王陛下。今回の『出張』の『おみやげ』でございます」
「またにせものなんでしょ」
 ぷいと口を尖らせる。
「そのとおりでござ待ってください」
 また総てを言う前に棄てようとする彼女の腕を押さえつける。
「でも二回あったことは三回だってやろうとするのがまじーだよ」
「そのとおりでございます。それが一番の醍醐味でございますから」
 酷い奴だ。
「ですがこれは本物です。溶ける前にどうぞお召し上がり下さい陛下」
 にこり。

 しゃくしゃくという氷の音だけが聞こえる。
 マジェストはにこにこと笑うまおを見ながら、少し嬉しそうに頷く。
――陛下は
 ちらり、と視線を外す。
 そこには岩しかない――床に敷き詰められた大理石。
 御影石を削った彫刻と、黒檀の机。

『マジェスト。あとは、頼んだぞ』

「まじー、それで何やってきたの」
 顔つきも、声も、そして外見年齢も違う魔王。
「はい陛下。陛下のためにシャーベットを購入して参りました。ちょっと手間取ってしまって一日かかりましたが」
 うそだ。
 さすがに頭も心も冷え切って落ち着いたまおは思った。
――まじーは本当のこと言わないから
 そして、彼の存在について疑問もわいていた。

  そもその疑問はわいてはいけないもの

 『魔王』という存在その物に対しても。
「ねーまじー。他の用事があったからでしょ。普段から経済云々いってるまじーが、私のためだけに動くことなんかなかったでしょ」
 今までに、何度虐げられたことか。
 魔王の側近であるはずのマジェストが、だ。
「当然でございます陛下。しかし、魔王陛下が腑抜けていてはダメに決まっていますから、そのために」
「私の為じゃなくて、魔王のためでしょ」
 責める口調ではない。
 勿論、つんけんと尖って拗ねるわけではない。
 ただ淡々と確認する。
 機械的に事務的に。
「無論でございます。陛下、陛下は一体なんだとお思いですか」
「私は魔王だよ。……ちがう?」
 確かめているようで。
 それは何かを探しているような問いかけ。
 感情もなく淡々と言葉を紡ぐ彼女に何の意志も感じられない。
 マジェストに仕掛けられたそれ――設定は、何の違和感もなく。
 だからマジェスト自身はそれに縛られることはなかった。
「陛下、何がご心配事が」
「……ううん」
 カップとはこを、先刻の箱と同じようにぽいっと棄ててしまう。
「まじーのことだから、きっと何か仕掛けをしてきたはずだもん」
 そう言うと、くるりと椅子を回して正面を向く。
 マジェストはそれに合わせるようにして、彼女の机の前に傅く。
「そもそもまじー。私に黙って私の側からいなくなることなんかなかったでしょ」
 これはこの数百年、彼女が魔王を始めて以来ずっとだ。
 初めてだったから、ひとりでふにゃーってなってたわけだが。
「と言うことは、絶対大事なことがあったはずでしょ。隠したって判るよ」
 マジェストはいつも通りの表情で、いつもと変わらない態度で応える。
「それは、言われずとも想像できるでしょう、魔王陛下。陛下が魔王をやめることが出来ないのと同じで私も魔王を補佐する役目があります」
 それは掛け値なしの行動。
「だから陛下の、ぐたーの原因を取り除くために少々手を加えさせていただきました」
 一瞬まおの顔が引きつる。
 顔を上げるまおの視界に映るのは、マジェストの眼鏡のランタンの反射光だけ。
 貌は見えない。
「原因?」
「――ウィッシュとヴィッツを使いました」

  がたん

 大きな彼女の座る、革張りの椅子が音を立てて揺れた。
 彼女の力ぐらいでは動きそうにない程、大きなそれが。
 足を床にたたきつけるようにして。
「まじー」
「嘘です」
 マジェストの口元が大きく歪み、笑みの形を作る。
「……と、言ったら、魔王陛下。……信用してくれますか?」
 但し、これが三回目の嘘かも知れませんがね。
 彼は言外に言葉を残し、うやうやしく一礼する。
「魔王陛下はこの場所で、勇者の到来をお待ち下さい。その時、勇者がふさわしくないとお思いでしたら」
 ちょん、と右手を自分の首元で水平に一閃する。
「やっても構いません。それはルールでございます、陛下」
「……その選択だけは、私は誰の邪魔もされずにできるわけね」
 まおはため息をついて机で両頬杖をついた。
「帰ってきたと思ったら、似合わないしりあすもーどなんか。……勘弁してよ」
「陛下には、よりふさわしい魔王としてあっていただきたい故、でございます」
 憂鬱。まおは久々に聞いた名前に少し頭がくらくらした。
 ウィッシュ=ニーオとヴィッツ=アレス。
 基本的に魔王軍の中でははぐれ者にあたり、彼らは『対勇者用魔物(たいゆーしゃようまぶつ)』として特別設計された設定と技術を持つ。
 実は彼らに限りまおがデザインしたものではない。
――まじーならホントに使いかねないからなぁ
 何のために、何故使ったのか。それは想像したくなかった。


 フユは司令官室から出ると眉を吊り上げていた。
 アキとの話し合いが――というよりも、一方的なフユの意向と言うべきだが――巧くいかなかったからだ。
 特務の取り下げは有り得ない。つまり――フユはナオを差し出して協力しなければならない。
 『ナラク』がきっかけだから。
「ふう」
 合わせてため息を吐いてみる。
 アキがいい加減なのは今に限ったことではない。
 だから止めるなら力尽くでしか方法はない。
――勇者、ですって
 それには否定的な意見しか思いつかない。
 彼女の術、『ナラク』は確かに多大なエネルギーを消耗する、大きな術だと言える。
 しかし何故それと勇者に関わりがある。
 いや、まだ確かに勇者という存在を規定するだけの論理はこの世に存在しない。
 何故彼が勇者であり、どうして勇者が存在するのか――それを説明する論理的理由が。
 もっともそれを説明するのは彼女の生業でも仕事でもない。
 ユーカの仕事だ――だから『特務』の存在がある。
 軍としてそれを追うには、無駄が多く出来れば切り捨てたい。
 でもそれを見落とすにはリスクがある――そんな場合、切り捨てても構わない存在として特務があるのだ。
――それはともかく
 ナオは渡さない。止めないといけない。
 そればかりが頭の中をぐるぐると回っていく。
 対魔軍司令部から出ると、今度は思いがけず大きくため息をついて貌を伏せる。
 特務の方が優先であり、もしナオを必要とするならそれを止める手段はない。
 何故だろう。フユは気がつかなかったが、こんなにもやきもきしたことはない。
 少なくともナオに対して特別な感情を抱くことはないし、今もそんな感情で動いているつもりではない。
 だからこそ不自然なその感情――ナオをまるで独占するかのような。
 フユにとって大切な人。だがそれは、大事なものという意味であって、決してそれ以上ではない。
 尤も彼女はまだ一度も恋を経験していないのも事実――その前に大きな子供に対しての母性だだもれだからとも、言われているが。
――だったらナオを捕まえてしまえばいい
  拉致監禁して好き勝手に――って、何?
 おかしい。彼女は自分の中に自分以外の、違和感を覚えて足を止めた。
 何故か自分の視界に映る自分の腕が、胸が、足が自分のようには思えない。
 身体の奥底が冷たく沈んでいるような、麻痺してしまった感覚。
 その違和感に気づいた時にはもう遅かった。
 そして肝心な何かに気づくより早く、それが視界を過ぎって彼女はそれを忘れた。
 ナオが彼女の方に向かって歩いてきていた。
 両腕を上げて後頭部を抱えて。
 いつものように木刀を腰に下げた訓練スタイルで、彼女の方向に歩いてきていた。
 周囲には誰もいない。他に誰も。
 彼女の視界には彼しか見えていない。
「〜♪、おう、姉ちゃん」
 片方の腕を上げて、彼女に挨拶をする。

――聞こえない何かが聞こえたような気がした。僅かな、小さな虫の音のような

 フユは暢気な態度の彼を見て苛々と眉を吊り上げる。
 当然だろう、フユをさっきから苛つかせているというのに、本人は何もなかったような貌をしているから。
「ナオ。こんなところをうろうろしていて大丈夫なの?」
 少し声色に刺々しさが混じる。
 突然怒鳴られたナオの方は困惑する。
 何も知らないのに、いきなり怒り顔の彼女を見れば当然だろう。
 家族にしか判らない尖った表情の彼女に、ナオは眉を顰めて見返すと口を尖らせた。
「姉ちゃんこそ何やってるんだよ」
 司令官の妹だが、副司令官ではない。でも軍と言うよりはどこか家族の印象を受けるここでは、フユの立場はあまり司令官と変わらない。
「特務のクガとカサモトに会っていないの?」
 フユは、疑問と言うよりむしろ疑念に近い印象でそう聞いてみた。

――羽虫のように聞こえるその音は、

 少なくとも、ミチノリは彼を捜し当てて捕まえるはずだ。
 ユーカとミチノリは、アキは勿論彼女にとって古い知り合いだ。
 彼女達姉弟とユーカ、キリエ、ミチノリは単純な言葉でくくると幼なじみと言う奴だった。
 ユーカやミチノリの行動は、考えなくても理解できる。たとえば抜け目のないユーカ当たりは、書類仕事をさっさと終えて彼を拉致していてもおかしくないのだが。
 だがナオを見れば、それはないらしい事が判る。
 彼がゆっくり首を振るのをフユはただ信じられないように眺めているだけで。
「何。いや?どうかしたのかよ、姉ちゃん」

――羽虫のような音は、彼女に判る言葉でそう、呟いた

「ううん」

  彼は自分の物だ。

 フユはゆっくりと口元を歪めて小さな笑みを浮かべた。

  捕まえてしまえ。自分の物にしてしまえ。

 普段から表情のない彼女にとっては、それは微笑みよりも少ない反応だった。
「ナオは、元気そうだけど」
 何を考えているのだろう。何がどうなっているのだろう。
 フユは自分で、自分の言葉が自分のものだと感じられなくなっている。
 まるで薄皮一枚、自分の感覚を隠すように覆い尽くしたものがあるような。
 彼女の身体も自分のものではないと感じていた。
 何故?
 彼女は自分の中に浮かぶ疑問を、何故か否定する。
 今の状態を肯定する――納得する。
 思い通りに動かない自分の身体を――自分の、意志だというのか。
「この間の湯治で、どこもおかしくない?」
 まるで人が違うような、というのはこう言うことを指して言うのだろう。
 妙に優しい口調が、フユの口をついてでる。
 別に普段が優しくないわけではない、ただ、あまりにもそれに不自然さが混じってしまう。
 普段から言っているわけではないから――でも、彼を心配しているのは事実なのに。
 彼女の足が一歩踏み出されて、彼に近づく。
「ん、ぁあ、うん」
 さらにもう一歩。
 今見えているのは、彼の上半身だけ。
 それも肩から上しか見えない。
 腕も足も胸も腰も、彼女には見えないし――多分見上げるナオ自身も、彼女の顔の周囲以外は見えていない。
「そう、それは良かった」
 だからだろうか、フユの表情が僅かに変化したように、見えた。
 フユは普段からさほど表情を変える娘ではない。
 家族でなければその違いが判らないほどである。
 知らない人間であれば、彼女はいつもやぶにらみで無愛想だとそう思うだろう。
 実、今も殆ど表情は変わらなかった。
 それだけが、彼女の自慢とも言えた。
 だから。
 今度こそ彼女の口元が笑みに歪んだ。
「じゃ、安心してお逝き」
 言葉に反応する暇など、与えてはくれなかった。

  じゃっっ

 空気を裂く金属的な音と共にフユの右手が走った。
 そしてそれが彼女の出来る精一杯の抵抗で、間違いなく彼女の意志だった。
 ナオの姿が一瞬かき消え、フユの視角外へと滑る。
「うわった、ちょ、姉ちゃんっ」
 上擦った声で、弟は焦った貌を彼女に向けて、一歩後ずさる。
「五月蠅い」
 声のする方に、右足を軸にして回転する。
 彼女の右手には、いつのまにか――背中に隠し持っていた鉄扇がまとめて握られていた。
 ばしゃ、と音を立ててそれが広がる。
 鋼を薄く叩き鍛え、要の筒には特殊な表面加工を施したタイトな物を使っている。
 怖ろしく鋭く、その表面に刻まれた複雑な文様と、穿たれた穴はただ振り回すだけで独特の韻律を奏でる。
 笛の原理を利用した『言霊自動発声装置』になっているのだ。
 ただ念を込めて振るだけで、刻まれた言霊が発動する、そう言う代物だ。
 そして今、封じられた言霊は、『ノリト』と呼ばれる邪気を払い浄化する為のもの。
「ナオ。あなたは、特務に連れて行かれそうになっているの」
 彼女はくるくると言霊扇を回すたび、ひょうひょうと音を立てる。
 見える人間には、それが魔力の霞をまとっているのが判るだろう。
「それとこれと、いったい何の関係が!」
 ぱしん。
 彼女は言霊扇を閉じ、自分の顔の前で両手を合わせた。
 ナオの必至の言及にも、フユは決して貌をゆるめようとしない。いや、緩みっぱなしだが。
 何故か彼の方を向いて言うのではなく、まるで自分に言い聞かせるように、手元を見つめて言う。
「あなたを連れて行かれては困るから。だから、いっそ私が引導を」
 本気だ。
 カタカナでマジと書いて漢字で本気と読むんだ。読めなかったとしても。
 彼女は顔色一つ変えずに、目の色だけゆらゆらと揺らめく色に変えて。
「渡してしまおう」
 花が開くように、言霊扇が鋭い刃へ再び姿を変える。
「ここらっ、口調変わってるっ、第一なんだその理屈はっ!」

  すい

 ナオは一気にしゃがみ込んで、難を避ける。
 滑らかな動きからの踏み込み。
 一気に間合いに入ると同時に襲いかかる鉄扇。だが、斜めに振り下ろされたそれをぎりぎりでかわした。
 揺れる視界の向こうに歪む姉の姿、それをまるで遮るように何か――はらりと視界を遮る物は髪、今し方姉に切り裂かれた前髪。
 直接触れたのではない。触れずにそれが切り裂いた――何もそれはおかしな事ではない。
 本来の鉄扇というのは、彼女のような細腕が振るう武器ではない。
 その形状と重みで叩き斬るという、比較的闇器の色の濃い、美しくない武器だ。
 だが彼女の『言霊扇』は違う。文字通り切り裂く為だけに研ぎ澄まされ、斬魔刀と同様の手法でミリグラム単位で軽さとバランスを兼ね備えた物。
 武器としての工芸品的価値に、技術の粋がそれを美術品の域にまで押し上げている。
 扱いを間違えば自分自身を切り裂く、怖ろしい武器でもある。
 彼女はそれを構え直すと、口元に浮かんでいた愉悦を消してナオを睨み付けた。
「――まだ化けの皮を被っていますか」
 つい、と目が絞り込まれる。
 屈強な男ですら震え上がるという『冷血』の表情。

 彼女は先程から感じていた違和感が完全に消えてしまった事に気がついていた。
 言霊扇が彼女の周囲を浄化するたび、半分寝ぼけたような半覚醒状態からの目覚め、鈍っていた思考と感覚がよみがえってくる。
 ナオを『絡め取ろう』とする『意志』を、何処か肯定していた自分。
 それを否定しようとしない自分を戒めるように、逆に彼女は鼓舞した。

  手に入らないなら、殺してしまえと。

 それも彼女の本心だったから、あっさりと束縛から逃れることが出来た。
 先程まで満ちていた他の気配と意識――違和感の正体は、彼女を取り巻く『言霊』の力が消失していた事だった。
 彼女程の術者になれば、殆ど無意識のうちに自分の念を浮かび上がらせる魔力を身に纏う。
 瞬時に、紡いだ言霊を『魔術』へと変換するために。
 呼吸と同様に行っているせいで普段は忘れてしまうのだが。
 今は大丈夫――フユは確信する。
――魔物風情が、私から術を奪うなどとは
「いい加減に本来の貌を、拝ませていただけません事」
 ぱしゃ、と彼女の右手の中で鉄扇が開く。
 きりりとワイヤーが軋む音が聞こえ、彼女の手の中で僅かに開き、数十枚に重ねられた剃刀の刃となる。
 隙間は僅か数ミリ、切り裂かれたなら縫合などできないだろう。
「姉ちゃんっ、何を言ってるんだよ!訳わかんないってば」
 尤もフユにも自信があったわけではない。むしろ疑っていた。
 自分が感じている違和感は、自分の中の変化なのではないか、と。
 忘れてしまうような違和感より、ナオの方が大事だったから、でも。
 見逃してはならない、一つの大きな間違いを犯した。
「黙りなさい化物(けもの)――よりにもよって弟の姿なんか」
 まるで周囲の冷気がそこに集められたかのような、鍛えられた鋼の如き冷たい声。
 既に彼女の『言霊』が影響を与え始めている。
 彼女は間合いを取ったままつい、と両腕を大きく振り上げる。
 そして、まるで舞でも舞うように大きく言霊扇を振り抜く。
「『柔らかい豆腐』」
 飛び退こうとして足下を踏ん張ったナオ――いや、ナオの姿をしたものは、思わぬ感触にバランスを崩した。
 今の今まで堅い地面だったそこに足首が埋まる程沈み込んでいる。
「わわ」
 尻餅をついた途端、一気に腰まで土に沈んでしまう。
 ついた両手もずぶりと深く沈んで、体勢を整えることもできない。
「っ」
「『岩』」
 両手だけは――そう思うより早く、次の『命令』が地面を変化させた。
 手首まで抜けかけていたのに、そこで突然、引き留められるように手首が動かなくなる。
 見た目は変わっていない。土は、フユの『命令』によってなりきってしまったのだ。
 『柔らかい豆腐』に、そして今は『岩』に。
 これが本来の彼女の戦闘能力だ。軍団に命令を与えて運用したり、莫大なエネルギーを必要とする術を使うこともできるが、1対1での言霊を使った戦闘こそ彼女の真骨頂。
 完全に動けなくなったナオの姿に、フユはゆっくり近づいていく。
「『湯治』の話を、今平気で聞いたでしょう」
 ぱしゃり、と鉄扇を閉じて右手に提げる。
 もう逃がさない、彼女はついと目を細めて彼を睨み付ける。
「そ、それが」
「ナオは、その話をする度に怒るから。貌を真っ赤にして」
 くすりと小さく笑う。
「『五月蠅い、もう二度と行かねーからな』って」
 見上げたナオの貌は、一気に血の気がひいて蒼くなっていた。
「ちょ、お願いだよ、頼むから止めて」
 逃げようともがくが、両手も足首も、まして腰が『岩』になりきった土の中に沈んでいる。
「ああ――断っておきますが、その姿を保つのならそれでも構いません」
 くすり、とフユは小さく笑って、右手の鉄扇をぱしゃりと開く。
 この距離で、この体勢なら逃げようがない。確実に殺すことができる。
「私は、弟を折檻する事に何の躊躇いもありませんから」
 ついと細められていた目が、笑みの形に歪んだ。
「ば、馬鹿野郎!俺はナオだぞ!そんな、死んでしまうっ!」
「それはそれで結構。いなくなってしまうぐらいなら私が殺してしまう方が余程いいから」
 話し合いの余地は残されていないようだった。
 右手の鉄扇をすいと自分の前に持ってくると、両手を合わせるようにして鉄扇を持つ。
 小さな金属音がしたと思うと、鉄扇は二つに分かれて両手に収まり、そのまま腕を交差させる。
「偽物でもそのままでいいですよ?『弟』を殺すなんて滅多にできませんからね」
「こ、この人でなしっ!」
 金切り声で悲鳴を上げるナオを、フユは何の感情も示さない貌で見つめる。
「ええ、よく言われます」
 彼女は。
 まるで何かを抱きしめるような仕草で、両手の鉄扇を音を立てて閉じる。
「――では予行演習ということで、覚悟」
 もう彼も必死だった。
 ナオの姿が幾層も平行線が走るようにずれて、かしゃりと硬質なものがぶつかり合う音が聞こえて。
 その下から、先刻の姿とは似ても似つかない痩身の女性が姿を現す。
 肩までの切り揃えた黒い髪に、優しそうな丸い顔立ちの女性。
 彼女の着込む服は薄手ではあるが、見た感じも堅そうな身体にフィットした物だ。
 ノースリーブシャツに半ズボン。長い前髪が鼻まで隠れる程で、僅かに覗く目は大きめ。
 多分普段なら可愛らしい顔立ちなのだろうが、今は両目に涙を湛え、死への怯えで顔をぐしゃぐしゃにしている。
 そしてナオより一回り小さい体――と言っても、手元がゆるむ程度でしかない。
「……人間臭い格好ですね」
 腰は緩んだが、手足は両方とも間接が埋まってしまっているから、少し緩んだぐらいでは抜けようがない。
 変身を解けば逃げられると思ったせいだろう――彼女の必死な表情が酷く痛々しい。
 フユは腕をそのまま背中に回し、鉄扇を再びしまう。
 今着込んでいるのは軍の簡易服で正装ではないが、それだけに戦闘を行うには申し分ない。
 尤も正装であったとしても、織り込まれた言霊と将軍としての特注の設計が術を強化する。
 今構えた服にも、鉄扇の他呪符を数枚仕込んでいる。
 でも今はそのどれもが必要ない。
「たっ…助けっ……」
「魔物に見せる余裕も、慈悲も私には在りません」
 彼女の武器は言霊、この状態で在れば詠唱を邪魔するものがないので、無駄に体力を消耗するより精神集中した方がよい。
――でも、こんな魔物……
 数ヶ月前のトマコマイを思い出しながら彼女は術の体勢に入る。
――違う、あの時の魔物はもっと魔力があったから、この程度の束縛なら振り切れるはず
 逆に言えば、人間によく似た魔物がまだ別に居るというのだろうか。

「っっ!」

 フユは唐突な真横からの圧力に転倒する。
 術の為に集中したせいで反応が遅れた。
 それは致命的な隙になってしまった。目の前の魔物が術を使えないなら、先刻までの『違和感』の正体は。
「望姉!」
 それは、今先程の魔物の前に立つ、女性型魔物だろう。
 顔形も先程の魔物によく似た、丸顔に大きな丸い目。
 そして、彼女の膝ほどまである長い髪、身体のラインが見えるような蒼いズボン。
 何故か左足は膝までしかなく、右足は同じほどの位置に白いリボンが巻き付けてある。
 上半身を包む革製のジャケットを大きくはだけさせていて、黒い、肩のラインを浮きだたせるノースリーブにハイネックのシャツが見える。
 両手に指ぬきの革製の手袋を填めていて、手の甲に幾つも見覚えのある錨を打ち付けている。
――あれは『強化』……!
「『Ash』」
 ばん、と空気が破裂するような音が聞こえた。彼女が地面を踏みつけたのだ。
「ヴィッツ、早く」
 視線をフユに向けたまま彼女は言う。
 先程まで捕らわれていた方の魔物の身体は、彼女の周囲は白い粉のようなものが敷き詰められているだけで、完全に自由になっていた。
 驚いたように一瞬見上げると、すぐ頷いて真後ろに走り出す。
「――おっと、動かないでね将軍。判ってるよね」
 髪の毛も長いが、身長もかなり高い。
 先刻の魔物に「望(のぞみ)」と呼ばれていたが、果たして彼女の名前だろうか。
 フユは魔物を見上げながら、既に思考は高速回転を始めていた。
――どうする、多分先程何らかの術で割り込んできたのはこの魔物だ
――先刻の魔物は直接手を下し、この魔物がサポートするということか
――しかし何より疑問なのは、何故こんな非効率的なことをするのか
「あなたが先程私に……」
 じり、と足下の砂が鳴く。
「そうだよ」
 返事が帰ってくると同時に、フユは再び両手を背中に回し、ばしゃりと音を立てて言霊扇を構える。
 多分彼女相手に、気を抜くことは出来ない。
 出来る総てをつぎ込まなければ勝てない。
「一応名乗っておかないとね。ボクはウィッシュ=ニーオっていうんだ」
 そして、可愛らしい顔立ちを暗い色に染めて笑う。
「良い夢、見れたかい?お姉ちゃん」

  ひゅぅ

「動かないでって言ってるんだよ!」
 甲高い金属的な音を立て、ウィッシュの目の前で金属が火花を立てるだけ。
 フユは自分でも驚くほどの速さで踏み込んだというのに、完全に防がれてしまった。
 振り下ろした言霊扇は、ウィッシュの眼前何もない空間で、彼女の力を押し返すように震えている。
 そして、その体勢のまま動けなくなる。
「っ」
 身体を動かそうとしても、何かに捕らわれているように引きつれる。
 ウィッシュは笑みを浮かべて、一歩下がると両肩をすくめた。
「不意をついたり、初めから罠を張っておくと案外脆いんだね」
「貴方は、魔物でしょう?魔物に魔術師なんかがいるんですか」
 先程の魔物と丁度立場を入れ替えたような形で、フユは空中に縫い止められている。
 どんな風に動こうとしても、まるで身体を押さえつけられているように上半身が動かない。
――この術は一体
 言霊ではない。言霊は確かに強力だが、直接何かを別の物に変えるような事は出来ない。
 先刻魔物を救う時、岩になった土を一瞬で灰にした。と言う事は。
「魔物で錬金術をやっていたらおかしいとでも」
 はん、と嗤いながら肩をすくめる。
「半分ぐらい独学だよ。判る?暗い何もない地下室に閉じこめられている苦痛ったらないよ。暇だしさぁ」
 ゆらりと、まるでそれが生き物であるかのように長い髪がひとりでに揺れる。
「でも、それでもボクの役には立ってくれるさ。実は殴り合いの苦手なボクにとってね」
 に、と笑みを浮かべ、彼女が両手を腰に当てて、動けなくなったフユの顔を覗き込み。
 そしてくるりと背を向ける。
「っ、待て、待ちなさいっ」
「ばーか、待つわけないだろー。逃げなきゃ殺されるからねー」
 右手をひらひらとさせると、思い出したように立ち止まって振り返る。
「そうだなー。でもヴィッツの分の仕返しはしておかなきゃね」
 くるり。
 思い出したように振り返ると、にやにやと笑みを湛えたままじろじろとフユを見回す。
「な、何をする気ですか」
 視線から逃れようとするように、彼女は身体をくねらせる。
 が、勿論その場から動けるはずはない。ただ少しだけ動くのが関の山だ。
 ぎしりと、全身を締め付けるような感触に顔をしかめる。
「どうしてもらいたい?ボクも慈悲のある方じゃないよ」
 明るい顔をずいと彼女の顔の間近まで近づける。
 呼吸が肌に触れる程、フユは彼女の顔の熱を感じて背を張りつめる。
「他の魔物達と一緒にされても困る。ボクら、これでも結構人間には詳しいんだ。食事にする奴らに比べれば、まだ可愛いかな」
 くすりと笑って顔を遠ざける。
――これが千載一遇のチャンス
 フユは。
 ほんの僅かなその隙を狙う事を忘れなかった。
「『切断』」
 彼女の身に纏った魔力が、その霞のような力の欠片が、一気に『言霊』を伝えた。
 ぱきぱきという音は空間を伝わり。
 ウィッシュは顔を強ばらせた。
「っ!」

  しゅ  ぎぃん

「あまい――ですね」
 術を解くには、その術がどんな物か判らなければならない。
 僅かな間合いしかなかったそこへ、自由になったフユの神速の踏み込みからの上段切り。
 振り下ろした言霊扇は、再びウィッシュの目の前で止まる。
 同じように火花を散らしながら。
「術ですら、長時間拘束はできません。まして私達に『物理的』束縛などは時間稼ぎ程度」
 フユの服は僅かに切り刻まれていて、両腕には蒼い痣が浮かび上がっている。
 まるで何かに縛られた跡のような細い痣だ。
「鋼糸の網とは気づくのが遅れてしまいましたが」
 ウィッシュは、何かをつかんでいるような格好で、両腕をピンと伸ばしている。
 言霊扇が立てる火花は、丁度その見えない何かに触れているようだ。
「なかなか――お見事」
 フユがさらに踏み込んで、左手の言霊扇を一閃する。
 だがそれより早く飛びのいて、ウィッシュは大きく自分の髪の毛を膨らませる。
「あははははは、殴り合いは苦手だって言ってるのに!」
 跳躍に合わせて右腕を振る。
 ちくりと痛みが走り、慌てて両腕で顔を庇った直後小さな痛みが腕を襲う。
「半分は正解さ!残念ながら半分な!」
 大きく跳躍して間合いを離して行くウィッシュ。
 幾ら急いだとしても絶対に間に合わない。
「くっ……」
 腕には何か見えない物が刺さっている。
 多分踏み込んでもまた同じ物が飛んでくるだろう。
「待ちなさいっ!」
「フユ将軍!やっぱり魔術の耐性は高いみたいね!それから弟に変な趣味は持たない方が身のためだよ!」
 大きな声で捨てぜりふを吐きながら、数回の跳躍で完全に彼女の視界から消えてしまう。人間には有り得ない跳躍力で。
「……そんな事を、大声で叫ばないでください」
 今日何度目かのため息をついて、彼女はそれを見送った。
 フユは顔をしかめて、自分の腕に刺さっている物を眺めた。
 それは細い、長い鋼糸のようなもの。
――意外と……深い
 顔に入っていたら、神経を潰されたかも知れない。
 丁寧に一本一本抜きながら、姿を見失ったことを後悔し始める。
――でも、何故あんな魔物が……今更
 フユは眉を顰めた。
 確かにサッポロはまだ魔物の侵攻は少ない。
 彼女の働きで、一歩もこの大陸に踏み込ませていないと、思っていた。
 それを覆す魔物。
 彼女の知る限り、ヒト型をしたこんな魔物はいない。
 魔物と言えば、単純な造形をした知性のない存在。
 ただ何の意志もなく突撃を繰り返し、意味もなくヒトを食い散らかす。
 生き物である限りは生命活動と言えるだろうが、群を作ったり雄雌の区別があるわけではない。
 知恵もなければ、『生き物』としての本能も、本当に存在するかどうか判らない。
 しかし先程の『生き物』は、人間に酷似して、言葉を操り。
――そう言えば
 この間見かけた少女の姿をした魔物も、強力な魔力を持ち、術を行使した。
――魔物の質が変わってきている?
 実は雑魚の魔物以外の魔物は、その数がとても少なく前線に立つ指揮官クラス位しか人間の前に現れない。
 それも実際に戦場になった都市にしか姿を現さない。
 フユのような戦いをしていたらまず貌を見ることはないだろう。
 しかし、今目の前にいるような「潜入型」の魔物がいるのだとしたら、その総ては否定されてしまう。
 既にもう何人――いや、何体も侵入しているのかも知れない。
 そこまで思考が回って――彼女は戦慄する。
 今まで砦をつくって守ってきたこのサッポロの「壁」だって無意味だということになる。
――でも
 しかし、今の魔物は、ピンポイントに自分を狙ってやってきたのだ。
 そもそも紛れ込んで侵入すると言うことは、特定の戦略的目標に対して攻撃する程度しかできない。
 彼女の知る魔物のように無秩序にただ破壊をまき散らす、というような行動とは全く違う高度な戦法だ。
 魔物が、ピンポイントに目標を絞り込むもの。
――勇者……まさか
 彼女は自分の思いついた結論に慌てて首を振った。
 そんなはずはない。ただ、魔物にとって邪魔な存在だと認識されて居るんだろう。
――対策を考えなければいけない
 アキに報告して、すべてはそれからだ。


 サッポロ防衛軍対魔軍訓練施設。
 出発は明日の朝。
 ナオとキリエは荷物をまとめる為に、一度ユーカとミチノリの二人と別れる事になった。
「そう言うわけで、明日の朝トマコマイ砦で落ち合おう」
「たのしみにぃ、待ってるよぉ〜」
 大きな手を大きく振りながら、ミチノリはユーカを抱きしめるような格好で去っていった。
 キリエと並んで宿舎に帰りながら、ナオは悩んでいた。
 別に、特務で彼らと旅に向かうのは構わない。何かそれに関わっているらしいこともあるなら尚更だ。
 だがそれとは全く別の事で気になることがあった。
――フユのことだ。
 特務とは言え、少なくともフユと離れることになる。
 実は今まで実戦を積んだ中で、必ずと言っていい程フユの手の届かない所はなかった。
 この間のトマコマイにしてもそうだ。最終的に自分が出張るような真似までしたぐらいだ。
 尤もあの時は彼自身『ナラク』に引きずり込まれそうになったのだが……。
――絶対に反対するよな
 もしかしたら妨害工作をするかも知れない。
 そこまでしなくとも、間違いなくアキの所に掛け合いに行ってるだろう。
――過保護すぎるんだよなぁ、姉ちゃん
 この間のユーバリの事を思い出して顔に血が上ってくる。
「どうした?」
「あ、いやなんでもねーよ。ちょっと姉ちゃんの過保護さを思い出しただけだよ」
 ぬっと覗き込んでくるキリエをあしらって、ぷいと顔を背ける。
 キリエもフユのことはよく知ってるだけに、笑って肩をすくめる。
「そーだよなぁ。フユ将軍、お前にべったりだもんな。……そう言えばお前、母親っていないのか?」
 もっともな質問に彼は首を振る。
「いーや。うちの母さん、アキ姉とそっくりでさー。今は自分の家から出てこないけど、うん。そう言えば何年会ってないんだろ」
 言ってから慌ててキリエを見返して、彼女が普段通り変わらない様子に胸をなで下ろす。
 彼の様子に気づいて肩をすくめてみせると声を上げて笑う。
「ばっか、何気にしてるんだよ。そんな前の話で」
「いや、お前普通気にするだろが。結構無神経だなお前も」
 何故か眉を寄せて困った顔をするナオに、にやりと笑みを浮かべて見せる。
「何だ心配でもしてくれるんだ。やさしーなぁお前」
「てめっ」
 噛み付こうとしたナオは、ふと視線を感じて顔を向ける。
 キリエも視線を向けて、笑顔を消す。
 話題の人が来たから――一応、偉い人だからだ。
「ナオ」
 実際に姉弟なナオはともかく、キリエに取っては上司の上司の上司ぐらいにあたる偉い人だ。
 緊張するばかりで、他の感情など沸いてこない。
「姉ちゃん。なんだよ」
 姉弟言うよりは母性愛だだ漏れの姉が、宿舎に向かう方向から姿を現した。
「特務の話は、聞いた?」
 いつもと変わらない口調。
 そもそも冷淡と言われる程、彼女の態度に大きな変化はないのだが。
――あちゃー。やっぱりこうきたか
 ナオは眉を寄せて困った顔をすると、ぽりぽりと後頭部をかいた。
「聞いたよ。明日、トマコマイで落ち合って出立するよ」
 姉は軍人である。いくら何でも妨害はないと思っていたのだが、この様子だと強引にでも止める気だろうか。
「姉ちゃん、止める気だろ?判ってるのか?ミチノリ達の目的」
 取りあえずの行き先、シコク連合。
 もしフユの元に届いている書類に何か他の内容が書かれていたのなら是非知りたい。
――そうでなくても止めるだろう、シコクのような危険地帯に向かおうとしているのならば。
 果たして、フユは足を止めてこくりと小さく頷く。
「ええ」
 手を伸ばせば届く距離。そこでフユは足を止めて彼を見つめている。
 いつもよりも厳しい表情で。
「知っているけど教えられない。教えたらついていくだろうし、ついていくなら私から聞かなくても良い」
 もっともらしく言うと、彼女は右手を自分の口元に運ぶ。
「ついていかないのなら、教えなくても困らない。……だから、教えない」
「ちょっと姉ちゃんっ!」
 いつもの怒声を浴びせて身を乗り出して、ナオは言葉を継げなくなった。
 驚いた。目を丸くして、振り上げかけた両腕を、ゆっくり姉へと向ける。
 彼女の顔に。
「……もしかして、泣いてる?」
 目許が腫れているし、よく見れば黒目がちな彼女の目も少し赤い。
 彼の指摘にフユははっとして、直後。
「うわっ」
 ナオの想像していなかった行動に出た。
 にょきっと両腕が伸びてきて、彼の後頭部を掴む。
「ちょ、姉ちっ」
「!」
 キリエも声なき悲鳴を上げて退いた。
 フユが、背丈の高いナオの後頭部を引き寄せて、口を重ねていた。
「☆△□○#$!」
 キリエが騒ぐのも、ナオが呼吸困難で暴れるのも構わず、丁度頭に抱きつくような格好で。
――姉ちゃんっ
 近づく、直前の貌。
 何故か頭を離れない。
 直後に伸びてきた腕。
 普段でも彼女の方が何故か強くて逆らえないが、今必死にしがみついてこようとする力は、何故かふりほどけそうな気がした。
 か細く、抱き寄せると言うよりしがみついていると言う印象で。
 解けなかった。
 そこまで頭も回せない。今違和感と共に彼女の舌が口の中に入っているからだ。
「はっ」
 するりと彼の頭が解放される。
 同時、ナオは打ちひしがれた貌で自分の姉を一瞥して、一目散に彼女を突き飛ばすように宿舎へ走った。
 彼の暴走をひらりとかわしたフユの真正面に、わなわなと震えるキリエがいる。
 つと視線が合う。
「お、俺っ」
 フユの表情は、普段の冷静なまま。
 キリエと比べれば滑稽なほどに彼女は落ち着いている。
「俺は将軍の事、尊敬していました、でも、もう俺、二度と信用できそうに有りません!」
 叫び、ナオの名前を呼んで彼が走り去った方向に駆けだしてゆく。
 ぽつんと独り、フユだけがその場に取り残されて。
 きゅと彼女は拳を握りしめた。

――姉ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃん
 彼は前も見ずにただ全力で自分の部屋へ駆けていく。
 後ろから名前を呼ばれたことにも気づいていない。
「よ、ナオってお前馬鹿っ、走るなっ」
 入り口から駆け込んで勢いよく階段を駆け上る様子を見て、タカヤは首を傾げた。
「?何だ?トイレか?」
 続いて駆けてくる音がして、そのまま顔を向けるとキリエが勢いよくブレーキをかけたところだった。
 ここ『男子専用寮』には女子は入れない。
――ははーん
 しかし、キリエはちょくちょく中にまで踏み込んで寮長である彼に怒られるのだが。
 今日は入り口で立ち止まった。それも酷く困った顔で。
「キリエ?どうかしたのかい?」
 いつものノリでにこにこと玄関まで出ると、素知らぬ振りでそう声をかける。
 キリエは彼の顔を見て困った貌を見せる。
「……タカヤ兄」
「あ、ありゃ」
 素でタカヤの方が困った。
 からかうつもりが、どうやら本当に触れるのが微妙な問題らしい。
「あー。あんまりもめ事おこすなよー。そうでなくてもお前ら、仲良すぎるって」
「明日から特務ででます。しばらくよろしくお願いします」
 ぺこりん。
 彼女が頭を下げるのに、応える間もなかった。
 来た時と同じ勢いで踵を返して走り去ってしまう。
「……何なんだ、今日は一体……」
 タカヤは肩をすくめて寮に戻ることにした。本当ならナオを絞って白状させたいところだったが。


 二人が走り去っていくのを、フユは見送ったまま立ちつくしていた。
 そこへ、ひとりの女性が現れる。
「大丈夫?お待たせ」
 膝まである長い髪の、ラフな格好の――そう、ウィッシュだ。
「ん……大丈夫」
 くるり、と声に反応して振り返る。
「サポート無しでよくやったね。って、うわ」
 ウィッシュは驚いて思わず目を丸くした。
「ちょ、本当に大丈夫?」
「え……あ」
 彼女、ヴィッツはそこで初めて、自分がぼろぼろと涙を流してる事に気がついた。
「これは効くよぉ。うん、このボクですら驚いたし」
 はしゃぐウィッシュ。
 でも、自分が姉と呼ぶ彼女のはしゃぎぶりを見ても納得できない。
 自分が涙を流している――自覚があるわけではなかったから。
 だから、両手で自分の涙を受け止めるようにして、呆然と彼女は。
「早く元に戻りなよ」
 ウィッシュはまるでつまらなさそうに彼女に言った。
 ヴィッツは、それをあまり快く思えなかった。
 だから。
「ううん、もう少しだけこのままで」
 彼女はウィッシュから背を向けて、ぼろぼろと涙を流し続けた。
――ああ、魔王様
 まだ両腕に温もりが残っている。
 感触が残っている。
 それが偽りで有ればどれだけ救われることか。
――そう、何ですよね
 きゅと自分の身体を抱きしめるようにして、それを大切に。
 消してしまうのが惜しくて。
――きっと
 魔城でマジェストに指令を受けた時の事を思い出す。
 『魔王陛下の御為に、この二人を始末しなさい』
 少年と少女。
「それは、今代の勇者なんですか」
 ウィッシュが聞く。
 マジェストは揺るぐ事のない澄まし顔で、眼鏡の向こう側の表情を完全に隠したまま。
「違う。魔王陛下の世界征服に支障があるからだ、お前達」
 表情のない、硬い貌で言うマジェストの科白。
 少なくとも今のヴィッツにはそれが理解できるような気がした。

「それは困った事になったわね」
 司令室でむうと唸っているのはアキ。
 その前で困った貌をしているのがフユ。
 困ったと言っても、やぶにらみなのか本当に困った貌なのかどうか判別はつきにくいかも知れない。
「はい。ですが、先程の魔物、そして以前に報告した少女型魔物を見るに、魔王軍の魔物の質が変わっています」
「それは本当と言える?実は昔からいたけど、人間の前に出ていなかっただけかも知れない」
 アキの指摘は正しかった。しかし、何故わざわざ知性のない、弱い魔物ばかり大地に放っているのか。
 フユはむしろ、魔王軍が故意に出し惜しみしているような気がしてならなかった。
 先程の魔物にいたってはまさにその最たる――『戦略的』な仕様の魔物だ。
「だからです、魔王軍が本気になったか、さもなければ」
 そこで一呼吸区切る。
「……さもなければ?」
「私が狙われています」
 アキの表情が僅かに硬くなった。
 そして、訝しげに眉を寄せ、首を傾げてあさっての方向を見つめる。
「トマコマイの件、ね。確かにあれは世界的な記録を見てもあまりない事例だし」
 『ナラク』規模の魔術が他にないわけではない。
 でも、トマコマイ砦を使った殲滅戦のような甚大な被害のモノは今まで歴史的に例を見ない。
 狙われる理由としては、前例がないというだけで考えられなくもないが。
「しかし、ヒト型魔物はまだ他にもいるという話でしょ。そっちは困るよね」
「私が狙われているのであれば、多分数は少ないかと思いますが。被害も考える必要はないでしょう」
 彼女は、自分の仮説を説明しながら魔物の行動について予測できることを報告する。
「……ですから、潜入している魔物はターゲットのみを殺害するということです」
「安心ではないけれど、被害は、こちらの方で何とか避けられるかも知れないということね」
 アキは、報告を受ける最中もずっと考え事をしてるのか、フユの方を見ずに顎を叩いていた。
 その右手の人差し指をくるっと反転させてフユに向ける。
「フユ、貴方は特務の間、この司令室にいなさい。これは命令ね」
 ぱちくり。
 フユは何を言われたのかを理解できなくて、瞬いて首を傾げる。
「簡単に言いましょうか。貴方をここに監禁します」
「アキ姉さん」
 だが彼女の顔は、今までの巫山戯た貌とは違い、至って真剣だった。
「魔物に狙われている将軍をほっぽりだしておけると思うの?冗談。自分で今言った癖に」
「……判りました」
 見て判るほど力無く言う彼女を見て、ため息をついてにたりと笑みを浮かべる。
「まさか、特務についていくつもりだったとかいうんじゃないでしょーね」
「いえ」
 短く即答。
「じゃ、判ってるよね」
「あの、姉さん」
 きっと顔を上げるフユの鼻の頭に、ぴしっとアキは人差し指を突きつける。
 機先を制されて、言葉も継げず顔を下げる。
「今日一日。魔物も体勢を立て直すはず。必ず明日朝までに『準備を終えて』ここに戻りなさい」
「はい、判りました」
 言うが早いか、彼女はそのまま振り向いて司令室を出ていった。
 実はこの司令室には、着替えを除けば殆ど泊まるだけの施設が整っている。
 準備などは着替えをとってくるだけだから一日も必要ない。
「まあ、正直なんだよね、あの娘は」
 不器用だけどね、と思ってクスリと笑うとポットを出して湯飲みに麦茶を注いだ。

 真っ暗なナオの部屋の中で、彼は毛布を頭からかぶってがたがたと震えている。
――うーわーあーうー
 ナオは取りあえず思考を停止させるために、口は閉じてても取りあえず何か叫んでいた。
 扉には鍵をかけている。誰かが叩いたかも知れないが、彼は聞こえなかった。
 まだ感触を覚えている。
 今まで無理矢理抱きかかえられたり、引きずられたり散々されたが、先刻頭にしがみついてきたような事はなかった。
 突然、今までの絶対者が、自分よりも弱く思える事がまずショックだった。
 過保護としか言いようのない彼女の態度に辟易しつつもそれが当たり前だった。
 この間会ったまおの影響かも知れない。
 だから彼の中で、『あのフユは別人だった』という結論に到達することはなかった。
 自分の中の変化に怯え、震えて。

  こん こん こんこんこん だんだんだん だだだだだだ

「くぉら出てこいナオーっ」
 半分ぐらい悲鳴を上げて、毛布を跳ねとばして起きあがる。
 扉が無茶苦茶な音を立てて鳴り響いている。
「飯だ飯、めしーっ」
「五月蠅ぇっ!壊れるだろう、やめろっ」
 音に負けないように大きな声を上げて、つかつかと扉に近寄って鍵を開ける。
 ばたん。
「キリエ。お前、何でここにいるんだ」
「そりゃ、俺同伴だからだよ、ナオ」
 扉の向こう側には、完全武装にバックパックという出で立ちのキリエに、にやにやした――というか、いつものように緩んだ顔のタカヤ。
「お前、明日から特務だって?俺に報告したか?」
 キリエは既に準備完了という感じで、多分報告したところなのだろうか。
「準備してるわけでもないし。……先刻、夕食にも集合した気配なかったが」
 咎めるような表情で、言葉尻を伸ばすように言うとひょいと部屋を覗き込む。
 勿論真っ暗で、せいぜい毛布がベッドから落ちている程度。
「何だ、寝てたのか」
「ああ。ちょっと調子悪くて」
 咄嗟に嘘をついて、キリエの方に視線を向ける。
 キリエは一瞬目を伏せてそれを避けると、今度は口をへの字に結んで上目に睨み付けて言う。
「何が調子悪いだ!お前、明日朝早くにトマコマイに行くんだぞ!」
 掴みかからんばかりの勢いで、がーっとまくしたてる。
「夕飯!」
 ばん、と右手に提げた弁当箱のようなモノを突き出す。
「先刻来なかった分、おばさんに包んで貰った物だ」
「喰え!そしたらすぐ準備を始めろ馬鹿!」
 あ。
 呆気にとられていたナオは、無言でさらに突きつけてくる弁当箱とキリエを見比べながら。
――こいつ
 彼女の顔が少し子供っぽく見えて、おかしくなった。
「判ったよ。飯喰いながら準備するから、良いからお前、もう戻って休んでろ。兄ぃ、頼む」
 ひょいと弁当を受け取って、彼は身体を翻す。
 何度か忘れているような気がするので重ねるが、ここは男子寮で女子は入ることは出来ない。
 で、キリエは勿論女の子だ、これでも。
「じゃ、用事も済んだから出ようか。キリエ」
 身体を引っ張られて扉が閉じるままに、キリエは引き剥がされる。
 目の前で閉じる扉。
――むぅ
 彼女にとってはそれが結構悔しかったようだった。
「判ったよ。出てくよ。ナオ!明日起こしに来るからな!覚悟しとけよ!」
 扉の向こう側まで聞こえる大きな声で叫ぶと、ふん、と鼻息荒く彼女は階段を下りていく。
 それに続いて、タカヤも階段を下りる。
「まあ、明日も入れるようにしておくから。あんまり暴れて他人を起こすなよ」
「判ってる。タカヤ兄、ごめん。迷惑かけて」
 ぺこりんと頭を下げる。
 ナオに対してはつんけんしてるが、彼に対してはそれなりに素直なのである。
 素直というか真面目というか。
「んーん。まあ餞別代わりだ。冗談抜きで、シコクはやばい場所だって聞くからね」
 真面目な顔でこくんと頷く。
「気を付けて、きちんと帰って来いよ」
「はい。俺にとってはここは家ですから。タカヤ兄は本当の兄さんだし」
 笑って応えるタカヤの額には何故か冷や汗が。
――言い切られたよ
 少しだけ哀しかったりしたりした。
「ああ、ともかく頑張ってこい」
 頷いて立ち去るキリエを見送って、タカヤは大あくびしながら自分の部屋へと引き返した。
 まさか、今晩に限ってもう一人の客が来るとも知らずに。

 荷造りは難しくない。そもそも遠征用の荷物は既にくくってあるのだ。
 保存食を厨房で貰って、着替えを詰め直して、武装を確認する。
 毎日のように研ぎ、磨き、丁寧に油を引いた斬魔刀。
 握りに巻き付けた革紐などは既に変色しているが、使い込んだ作りは彼の手にしっくり馴染む。
 包んでいた油紙を剥がし、持ち運ぶ際に傷が付かないようにする鞘に収める。
 こうしてみると、彼の身体に合っていないぐらい大きく見える。
 彼はそれをベルトに付けて、今詰め込んだバックパックの側に立てかける。
 後は寝るだけ。
 一息つくと、もうだいぶ時間が経っている事に気がつく。
――もう寝よう

  こつん

 その時、彼の部屋の外に気配がした。
 目を細めて顔を向けると同時、ノックの音がする。
「はーい」
『……ナオ』

  どくん

 今の今まで、先刻のキリエの御陰で忘れていた事を思い出して、まるでぶん殴られたように硬直する。
 扉の向こう側に、フユがいる。
 司令官権限でも使ったのか?思わず彼は有らぬ疑いをかけてますます自分を精神的に窮地に陥れる。
「ね、姉ちゃん?」
 取りあえず返事だけは返さないと怪しまれる。
 咄嗟に反応して、取りあえず呼びかけてみる。
『ナオ〜、鍵開けろよ、将軍が入れないだろう』
 入れるな馬鹿野郎。
 思わず口の中で悪態をつきながら扉に向かう。少なくとも、二人きりで会う事にはならない。
 少しだけ、その意味に安堵しながら彼は扉に手を伸ばした。
「はい」
 がちゃり。
 そこには、頭一つ分ぐらい背の違う二人が立っていた。
 背の高いタカヤと比べると、下手すれば子供にしか見えない。
「姉ちゃん、何だよこんな時間に」
 言いながらちらりとタカヤに視線を向ける。
 まさか本当に部屋に入れる気じゃないだろうな、と。
 睨まれても彼は顔色を変えないのだが。
「……どうしても、今夜のうちに話をしておかなければいけないから」
 じ。
 眼光に力がある。力強いといえば聞こえは良いが、逆らえないと言うとニュアンスがまた違ってくる。
 有無を言わせないその目を見て、彼は頷く。
――それは、こっちも同じ
 何故あんな事をしたのか。
 考えるだけで頭の中がパニックになる。
 せめて本人に問いたださなければ、この気は収まらない。
「付いてきて」
 ふいっと振り向いて、確認もせずに歩き始める。
 ナオは慌ててランプを切って、部屋を出るとタカヤを見上げる。
 彼が苦笑して肩をすくめるのを確認すると、フユの背中を追った。
「まさかねぇ。ま、姉として何か言うことでもあるんだろ」
 呟いて、今度こそと思いながら自室に向かう。
 でも次があるんじゃないかと思い直して、彼は秘蔵の睡眠薬を使って眠ることにした。
 そんな疲れたタカヤはともかく、ナオとフユは訓練場の中央付近にある樹に向かう。
 数本立てられていて、訓練用に布製のパッドや藁を巻き付けてあったり、ロープで木片がぶら下げてある。
 訓練するための場所であるが、この樹を植えた理由は、訓練の合間の休憩のため、である。
 小さな木陰、僅かな緑であっても充分心身共に癒しを与える。
 フユの提案で、アキが決めた物だ。
「サッポロはね、ナオ。私達が護ってきた国」
 フユはその中でも中央にある一番大きな樹の根本に立って、幹に手を伸ばす。
「サッポロ防衛軍は、魔物の進入を赦したことのない軍隊だって、誇りがある」
 視線を幹からナオへ。
 彼女は伸ばした手をそのまま幹に押し当てて、体重をかける。
「今回の特務は、違う」
 ナオとフユの間にある距離は少しだけ遠くて。
 手を伸ばしても届かない。
 ナオが警戒してそれ以上踏み込もうとしない。
 彼女はそれに気が付いているのか、いないのか、淡々と話を続ける。
「話は聞いた?」
 彼が首を振るのを見て、フユは幹から手を離して真正面からナオに向かい、じっと見つめる。
 ナオは顔を背けて地面を見ている。
「『勇者捜索』の旅だそうね。私達はサッポロを防衛するためだけにいて、彼らは――魔物を殲滅でもする気らしい」
 フユの足下の砂が鳴く。
 ナオはそれを耳ざとく聞きつけて、僅かに身体を引く。
「ナオ」
「待って姉ちゃん」
 僅かに目を見開いて、フユはナオの様子に驚く。
 黙っていたから気づかなかったが、彼は自分を睨み付けている。
「動くな。それ以上動かないで、動いたら俺はもう姉ちゃんを信用できなくなる」
 フユは言葉を探るように、そこに仁王立ちに立ちつくした。
 ナオはその様子を見て、言葉を継ぐ。
「姉ちゃんがなんて言おうと、俺は特務に行く。あいつらが俺を必要としているから」
 単純明快な、自分の決意を彼女に伝えるつもりで。
 かなり思い切ったつもりだったが、フユの顔色は全く変化しない。
「……だから?」
「え?」
 ナオは間抜けな声を上げて、眉を吊り上げる。
「だから、何なの、ナオ。特務に行くことは判ってるし、行かなきゃならない。……それで?」
 逆にナオは戸惑った。
 夕方に泣きながら引き留めたのは誰だ。
「私には」
 ふっとフユの貌に浮かぶのは、笑顔。
「その続きの方が大切。事実よりも――ナオ、貴方の決意はどうなの」
 顔つきは変わっていない気がするのに、強く睨み付けられているような気になって、ナオはたじろぐ。
「何度も私は言ってきた。『魔物は怖ろしいもの』だと。……魔物は怖い?」
「怖くなんかないっ」

  ぱん

 ほんの二歩踏み出して、フユの左手がナオの頬をはたいた。
 完全に呆然としている彼に、フユは眼光を変えずに言う。
「魔物は怖い物なの。判る?何度言えば判るの」
 ほとんど表情の変わらない彼女が、目をつり上げた。
 この貌はよっぽど怒っている時ぐらいにしか見ない。たった一度だけ、昔、子供の頃に見たっきりだった。
「あなたはこれから、魔物の巣窟に向かわなければいけない。今までみたいに待ち受けてる訳じゃない。怖さも知らずに行って生きて帰ってこれると思っているの」
 声色は変わらない。相変わらず淡々と、冷たい口調で彼女は続ける。
「ナオ。判る?魔物はまだ一度も見たことのない様な物だっている。あんななりをしていてもヒトを喰らう」
 強い。淡々と話しているが、語彙に含まれる「力」は、言霊使いとしての物に違いない。
 ナオは、今目の前にいる姉が『姉』だと強く実感した。
 これが俺にとっての姉なんだ。そう、彼は思った。
「……うん」
 だから逆らうことはできなかった。
 素直に聞き入れるしか、抵抗する術はない。
 頷いてから彼は姉を睨むようにして顔を上げる。
「でも姉ちゃん。俺、そう言う意味で怖くないんじゃない。別に魔物を侮ってる訳でもない」
 怖くない。それは、自分の中にある弱さであり、脆さであることを理解していればいい。
「慣れた訳でもない。でも、いざという時魔物が怖くて身体が動かなかったら、それこそ危ないだろ」
 ぎゅむ、と右手を握りしめる。
 きしりと自分の腕の筋肉が締まり、拳が小さくなる。
「誰かのためでも良いと思う。とにかく、斃さなきゃいけない相手を全力でしとめることができなくて部屋の隅で震えているなんて」
 ナオは首を振って、右腕を振り下ろした。
「俺はしない」
 きっと目をフユに向けて、睨むようにして彼女を見つめ――いや、窺う。
 フユの表情は変わらない。
「ナオ」
 彼女は右手をナオに向けて伸ばした。
 そして、ナオの頬に優しく触れる。
「――先刻、ここで魔物に襲われた」
「な」
 ナオは絶句する。
 その様子を見てフユはくすりと笑い声を零し、満足そうに頷く。
「良かった。ちゃんと信じてくれた」
 一歩、二歩。
 そしてむぎゅ。
「姉ちゃん」
 自分より少し背の低い姉でも、抱きつかれているというよりはやはり抱きしめられていると表現する方が正しくて。
「ナオ、私の側に居ればなにも怖がらなくてもいい。怖がらせるつもりはない。でも、今回は駄目」
 フユの手はナオの後頭部を優しく撫で、子供をあやすように落ち着いた声で言う。
「今回だけは」
 彼女はそこで言葉を止め、腕に力を込める。
 自分の頬をナオに押しつけるように。
「お願いだから私の言うことを聞いて怖がりなさい」
 そして突き放すように離れて、両腕で彼の肩を押さえる。
 ナオの目が少し丸く大きくなって、それが苦笑に変わる。
「変だよ、それ。姉ちゃん」
 姉の顔色は変わらない。睨むような貌でじっとナオを見つめている。
「もう俺は、子供じゃない。何時までも子供な訳ないだろ」
「でもナオ、あなたは私の弟です。それはいつまで経っても変わりません」
「姉……」
「弟である限り、私はあなたを」
 言いながら彼女は両手を彼から離し、さらに一歩退いて自分の両手を胸の前で重ねるようにして握りしめる。
「愛します」
 掛け値なしの言葉で、やはり顔色も声色もいつものまま。
 何の動揺もなく彼女は言いきった。
 フユにとって好きだとか嫌いだとか、迷惑だとかそう言う感情すら関係なしにただひたすら自分勝手で、我が儘な言い分で。
 彼が弟であるから当然であると、まるで自分の息子に言い聞かせる母親のように。
 実際彼女に感情的な物は殆ど感じられなかった。
 彼女自身何とも思っていなかった。
 それが『冷血』と呼ばれる所以だと言うことに、彼女は気づいていないのだが。
「そっか。じゃ、僕が姉ちゃんに逆らえるはずもないのか」
 ナオは微笑みを浮かべて彼女を見返す。
 表情は変わらない。変えようがない。
 ナオはくるりと背を向けて、彼女を無視してこの訓練場を見渡す。
 見慣れた風景。子供の頃から遊んだ風景の中に、ここがある。
 サッポロの外れの方が、彼の遊び場だった。
 僅かに暖かい日が、狙ったように緑の大地を覗かせる時には、今の同僚と駆け回った事もあった。
 その中で変わらない表情を浮かべて彼を見つめていたのがフユだった。
 フユはいつも側にいた。何故か、泣きはらした貌で彼女を見上げた記憶の方が遊んでいた記憶より鮮明に残っている。
 そう言えば何も言わずに抱きしめられたり、頭を撫でられた様な気がする。
 あのころのフユは顔色も変えなかったし、言葉も殆どかけてもらえなかった。
 だから、逆に、鮮明に記憶として残っているのかも知れない。
 じゃりと足音が彼の背中に近づいて、息づかいを背中に感じた。
「……何時帰ってこれるか、判らないんだから」
 すぐ側に、背中に彼女が居る。
「この風景を忘れないで」
「何時でも何処でも思い出せるよ」
 姉がいつも側にいて、今も側にいて、子供の頃の風景は今も変わらず。
 きっとこれからも変わらない。
「忘れようがない」
 彼の言葉に嘘はない。
「忘れられる訳ないじゃんよ」
 ぽすん、と彼の頭の上に、姉の手が乗った。
 子供をあやすように、彼女はそのまま頭を抱き寄せて、ゆっくりと髪の毛を指ですく。
 それも変わらない。
 日が暮れてから、こうしてずっと慰められていた様な気がする。
――……もしかして、いじめられっ子だったのかな
「怪我なんかしたら私が赦さない」
 笑いたくなったが笑うと後が怖いし、何より何が起こるか判らないからやめた。
「すぐに戻れないなら、必ず連絡を入れなさい」
「うん」
「変な女に絡まれたらまず逃げなさい。それから教えなさい」
 教えたら絶対ぶち殺すつもりだ。
 微妙に答えない方が良いような気がした。
「無事に帰ってきなさい」
 自分勝手で。
 いつも側にいて。
 身勝手に振り回しながら、間違いなく自分の事を大切に思ってくれているけど、こっちの事は一切合切考えない姉。
 でも、どうやっても嫌いにはなれなかった。
 そんな姉らしい不器用さが、可愛らしく思えた。
 思わず僕と呟いてしまう程、姉の側にいたいと思った。
「うん」
 答えを返して、しばらくそのままでいた。
「そしたら、また温泉に連れて行ってあげる」
「〜〜〜!フユ姉!」
 暴れて振り向こうとする彼を、彼女は嬉しそうに笑いながらそれでも離さない、としっかり抱きしめていた。
 少なくとも、今だけは彼は彼女の物だった。

 アキは書き物をしていた。
 丁度書類仕事がたまってきたので、或る程度減らさなければならないと思って、机の中からごそごそと定型を出して机に積む。
 これに、羽ペンに墨汁を載せてかりかりと書き込む。
 ちなみに定型は、職人が作ったガリ版である。
 巨大なローラーで墨をシルクスクリーンのような器械にかけて刷るのだ。
 一瞬巨大なゴーレムが、運動場をならすような巨大なローラーを右手に掲げているさまを想像してくすりと笑う。
 丁度25×20ぐらいの桶に、がりがり書き込んだ版を置いて、それに樽に二つも三つもある墨をどぼどぼと開ける。
 そして、コンダラもびっくりなローラーでぐしゃぐしゃと潰すようにして刷ってみる。
「くすくす」
 あんまりに面白そうなので、それはこんどフユに頼んでやってもらうことにして、取りあえず書類に色々書き込む。
 食事とか、着替えとか増加してもらわないと長期間の滞在になれば色々かさむ。
 今彼女がやっている書き物は、そう言った申請のための書類だ。

  こんこん

「はーい。開いてるから早く入ってきなさーい」
 扉の音に、彼女は声だけを扉に向けて書類の上にペンを走らせる。
 がちゃりと音を立てて入ってきたのは、フユ。
 ここまでは想像通り。
 彼女はちらと視線を向けるだけ向けて、書類仕事を続ける。
「早いじゃないの。もう終わり?まだ夜半も過ぎてないわよ」
「……はい。それよりもアキ姉さん、どうやって魔物を狩るつもりですか?」
 ぴたり、とアキは羽ペンを止めると、それをペン立てに立てる。
 別に書類が終わったわけではない。ただ、今のフユとの会話はきっと長引くだろうと思って、手を机の下に伸ばす。
「そんなつもり、毛頭ないけど。何?あなたの安全を確保したかった、じゃ駄目なのかな?」
 机の上に戻ってきた右手にはポットが握られている。
「私は麦茶は」
「残念、わたし手製の苔茶だけど?」
 う、とフユの顔色が変わる。
 実はサッポロ名産の苔茶だが、アキの苔茶はマニアたるフユの舌をも唸らせる代物なのだ。
 とは言え。
 フユはぎりぎりと歯ぎしりして、苦虫を噛みつぶしたような表情のまま続ける。
「……では魔物は野放しですか」
「まさか。それは考えてるけど。二人組で、目標に対して近づいて攻撃する一人と、何?術で押さえ込む一人の二人組なんでしょ?」
 魔物ですが、とフユは口の中だけで呟く。
「だったらさ、魔術を監視するようにお願いするしかない。違う?」
 魔術を行使すると、すぐにそれと判る『痕跡』を残す。
 これを『魔術痕』といい、あらかじめレーダーのように感知網を引いておけば魔術痕が発生――すなわち魔術が行使された事を知ることが可能だ。
「……そうです。確かにその手は有効ですが、ノイズや日常的な魔術も引っかかりますよ」
「その辺は高等術者のフユ将軍におまかせ」
 む。
 フユはじとっと睨み付けるとため息をつく。
「……それだけ策を懲らして最後は人任せですか。良いご身分ですね」
「私は司令だから、他人に仕事をさせるのが仕事」
 にこり。
 悪びれることもなくそう笑う彼女に、フユは草臥れた貌で笑う。
「わかりました姉さん。その代わり、後でその苔茶下さい」
 明日にはナオが出立する。
 それを見送ってやりたかったが、仕事もできたし今は離れられない。
――見てなさい、魔物。狩り立ててぶちのめして必ず追いかけて見せる
 音もなく静かに燃える彼女を、くすくす笑いながらアキは見つめていた。


 まおは難しい貌をして机の前で唸っていた。
 別に、書類仕事が難しいわけではない。
 そもそも彼女は作戦を作るわけでもないし、決して命令をするわけでもない。
 ただ魔王として魔王の玉座に座り、勇者を出迎えることが彼女の役割なのだ。
 逆に言えば。
――ゆうしゃってほんとにここまでこれるのかなぁ
 意外や意外、四天王と呼ばれるもの達はアレでもラスボス直前の中ボスである。
 目にも止まらぬ速さのリィ。
 幻惑魔法のカレラ。
 雄々しき戦士アール。
 だまし討ちのゼクゼクス。
 少なくとも、『勇者』でなければ彼らの相手などできない。
 ……はずになっている。最近まおも確認していないので判らない。
 ふと思い出すと、でもそれでも気になる。
 それにもう勇者は確定したのだろうか。
 もう一つ彼女が考えている事がある。
――ウィッシュなんかに邪魔されたくはないし
 この魔王城、実はまおでも迷う事がある。
 この間みつけたれこーでぃんぐるーむなんか、いきなり生えてきたのだ。
 実は魔城そのものも生きている『魔王』だとも言われていたりする。
 精確には判らない。
 まおは何も知らない。尤も知ろうともしないとも言う。
「とにかく」
 思わず口に出してしまって慌てて自分の両手で口をふさぐ。
――ここからでよう
 マジェストが帰ってきたから、何があるか判らない。
 でも先刻の科白を聞いて彼女はここに座っている事が苦痛に感じられるようになった。
 彼女は周囲をきょときょとと見回すと、ばん、と机を叩いて立ち上がる。
「をを魔王陛下、演説の真似事ですか?『萌えよ人民!』てなぐあいに」

  ずさささっ

 思わず思いっきり声から遠ざかるように後ずさるまお。
「な、なに!何だよいつもいってるのに、いきなりあらわれるな!」
「最近命令口調が激しいですな。何の影響何だか。おやつでございますぞ」
 とん、と机の上に置かれる銀色のお盆。きちんと隣に並ぶ、グラスに入ったストローとオレンジ色の液体。
 思わずじろ、とマジェストを睨みつける。
 何のことか理解できずに首を傾げるマジェスト。
「……どうかいたしましたか?陛下」
「おやつ」
 今の今まで、素直に何も言わずに出してくれたことはない。
 じとり。
「な、何でございますか」
「初めてだよね?」
 怪しい。
「いいえ。始めてではございません。以前にもケーキやジュースを」
「それって頼んだ時だけだよ。自分から持ってくることなかったよね」
 きらり。
 マジェストの眼鏡が光ると、ふむ、と彼は顎に手を当てて頷く。
「ですが魔王陛下、魔王陛下が自分で、私の居ない時に仕事をしていたのも始めてでございます。その御褒美なのですが」
 むう。
 まおは唸るとおそるおそる自分の机に戻る。
 かちゃりと、座った時に立てる音に、ごくりというつばをのむ音が重なる。
 目の前に横たわる銀色のお盆。
 上に載せられた蓋。
「……で、何が入ってるの?」
 にこり、と彼は笑う。
「おやつ、でございます」

  がたん

「もーいい」
「お待ち下さい陛下、まだ蓋を取るどころか座っただけではございませんか」
 まおは無言で机の向こう側へとずんずん歩くと、くるりと振り向いてマジェストを睨みつける。
「このパターンはもうあきたよ!どうせその中身に『おやつ。』とか書いた紙でもはいってるんだろ!」
 ぱちくりぱちくり。ぽむ。
「そうです、その手もありましたな」
 ぶちん。
「がー!」
 いつものように切れたまおは、そのまま執務室を飛び出していく。
「ああ、お待ちくださ」

  ばたん

 最後まで言葉を言いきる事が出来ず、まるで取り残されたいや文字通り取り残されたマジェストは一人。
「……折角チーズケーキを焼いたと言うのに」
 はあ、とため息をついて盆を開ける。
 ブルーベリーの香りが鼻をついて、その場に甘い香りが漂う。
 そこにはマジェストには珍しく、本当にチーズケーキが載っていた。
 しかも1ホール。上からたっぷりとブルーベリージャムがかけられている。
 一人で食べきれるようなサイズではない。ある意味それは嫌がらせにも近いかも知れないが。
 ともかく彼にとって確かに、自分でここまでしたことはない。
「普段の行いが悪すぎましたね」
 ふう、と彼はため息をつくと腕を組んで首を捻る。
「しかし……」
 彼にはまおの態度が良く理解できなかった。
 最後のまおの貌が何となく泣き顔だったような気もした。
 あくまで彼主観なので本当かどうか判らない。
 しかし、少し苦笑いを浮かべるとケーキをそのままにして彼は立ち去ることにした。

 普段であれば。すぐに戻ってこなくてもその席は、まおの為にある席だから。

 でも今日は普段じゃない。
 マジェストはかなり油断していた。久々というか初めて良いこと(?)したから。
 その隙を逃さないまお――というよりも、そこまで計算してやれる魔王ではない。残念ながら。
 まずは感情的に飛び出して、ばたばたと走っていたんだが。
 ふと気がついて、そのまま足を緩めずに走った物だからまあ。
「…………ここ、どこ?」
 とりあえず、迷ってしまった。
 普段魔城から出る時は、何かしら案内かマジェストが側にいることが普通だ。
 見送りと言う奴である。
 そして何故か、そう言う時はすぐに出られるから不思議だ。
 今日は同じようにまっすぐ直線で走り続けたというのに、何故出口とか行き止まりがないのだ。
 まおはまだ果てしなく続く廊下の端に思わずため息をついた。
「どうなってるのよぉ〜」
 ここは魔城。魔王の居城。迷子で、しかも餓死などしたらギャグではすまない。
 勇者がやってきて、屍を調べて、『へんじがない。ただのしかばねのようだ』ったらしゃれにもきつい。
 少しその結果に貌が青くなったが。
 ぐ。
 まおは拳を握り込んできっと決意の表情をあげる。
 悲壮感どころか、何故か悔しそうな子供にしか見えなかったあたり、まおなのだが。
 ともかくー。
「何としてもここからでてやるんだ!」
 がっつぽーず。
 そして彼女はずんずんと奥へと歩いていった。

 良く晴れた朝、小鳥のさえずりが視線をよぎっていく。
 差し込んでくる朝の日差しが、斜めに部屋にコントラストを付けて浮かび上がらせる中。
 きゅ、と心地よい澄んだ音を立てて、絹でできた紐を縛っていく。
 絹というのは滑りが良く丈夫さにかけるため、礼装にしか使用されていない。
 だからこうやって着込む際は非常に違和感を覚える。
 戦闘装束に、何故儀礼的な部分があって、実用性に欠けるのか。
 常々ナオはその疑問を抱いていた。
 最後に鉢金を止めて終わり。
 サッポロ防衛軍の正装で、彼は荷物を見下ろして部屋の真ん中に立っていた。
 昨晩のままの荷造りに、今の恰好が妙に不釣り合いな気がして肩をすくめる。
 彼はその恰好のまま、荷物をおいて外に出た。
「よぉ」
 寮を出た瞬間真横から声をかけられた。
 そこには、やはり正装した――女子がいた。
 ストレートにおろした髪に、僅かに細い鉢金を巻いている。
「似合わないな」
「五月蠅ぇよ」
 キリエだ。
 出発前の報告に向かう為に、わざわざ正装してきたわけだが。
――こうして見ると、やっぱり……
 別にどうという事はないはずなのだが。
 サッポロ防衛軍の正装は、男女の差異がある。
 普段は男にしか見えない上、彼女に似合いの服なんかない。
 訓練しているか、略装でふらふらしているのが関の山だ。
 似合わないとはいえ、女の子の恰好というのは有る意味新鮮で、驚きだった。
「さ、いくぞ」
「ああ」
 特務に出発する報告。
 司令に一言言うだけだが、正装はあくまで礼儀だ。
「そういえばさ」
「ん?」
 一つだけどうしても言っておきたいことがあった。
「お前、今日起こしに来るんじゃなかったのか?」
 ひょい、とのぞき込むように首を傾げると。
 何故かぼんっと顔を真っ赤にして、きっと睨み返してくる。
「五月蠅い。次言ったら殺す」
 そう言ってぷいっと顔を背けると、ぶちぶちと小声で何か呟き始めた。
 彼にはよく判らなかったが、どちらにせよあまり面白くなくて、ため息をついて放置することにした。
 放置された方はというと。
「くそー、何で覚えてやがるんだよ、それにこんな日に限ってくそぉ」
 寝坊したわけではない。
 むしろいつもより早く起きて準備を万端に整えたつもりだった。
 それが仇になって、時間を間違えてしまったのだ。
 鏡を見て、着替え直して、髪を整えているうちに起こす時間などとうに過ぎて。
――間に合うには間に合ったけど
 既に司令の下に行かなければならない時間。
 起きて準備を済ませているはずのナオの元に行く暇など、あってないようなもの。
 で、入口で待ちかまえていたと言うわけだった。
――この借りは必ず返す!
 いや、借りじゃないと思うが。


 サッポロ防衛軍対魔軍軍司令。
 サッポロ防衛軍には、本来幾つかの軍隊が有ったと言われている。
 だが、爆発的に膨れあがる魔物を狩るために組織を構成した際に幾つかを統廃合した。
 それだけ魔物の影響が大きかったせいもある。
 世界的に人類の脅威として魔物が蔓延り始めたのは何時の頃なのか。
 少なくとも百年は既に過ぎてしまっている。
 魔物が世界を覆う直前まで、人間は互いに戦闘状態にあったと言われている。
 その中でも最大の戦力を保持していたのが――シコク。
「ナオ一兵卒及びキリエ一兵卒、特務につきます」
 びしっと右腕を水平に、自分の胸の前で拳を作って敬礼をする。
 元々は剣の柄を相手に向ける恰好から来たと言われている。
「うん♪」
 司令も正装で、二人の前に立っていた。
 その隣にはフユも居る。彼女は正式な『言霊師』の正装、簡単にいえば巫女装束だ。
「気を付けていってこい。キリエちゃんといちゃいちゃするなよ」
「するかっっっ!」
 ハモって叫ぶ二人。
「んー、じゃああのふたりと」
「冗談はやめてくれアキ姉」
 ふう、とため息をついて半眼でじろりと彼女を睨み付ける。
 アキは笑いながらばんばんと彼の肩を叩く。
「生きて帰ってきなさい。フユも待ってるから」
 こくり、と頷く。
 アキの隣のフユは顔色も変えずに彼を見て、その様子を窺うだけ。
 ふと。
 キリエが自分を睨んでいるのに気がついて、すいっと視線を向ける。
 するとびくっと彼女は視線を逸らして、アキに顔を向けた。
「シコクには、強力な魔物が住み着いている。それ以来あの地ではヒトが住まうには厳しい環境になっている」
 世界でも有数の軍事力を持ってしても、魔物には敵わなかったのだ。
 今では最も軍事力のない国で、魔物から守る術など皆無に等しい。
「魔物だって強力だけど、ユーカの話ではそこに勇者に関わる何かがあるって言う話だから。気を付けてね」
「はいっ!」
 二人で揃えた敬礼で応え、くるりと背を向ける。
 かつかつという靴音を立てて去っていく彼らを見送ると、フユはぽつりと呟いた。
「……何処まで情報を与えるのが正しいんですか」
 何故か苦々しい表情でアキを見上げる。
「そうね。心配させない程度かな。そもそも、ユーカ自身何があるか判っていない状態だってこと、教えて良いと思う?」
 フユの眉がきっと吊り上がって、怒りをあらわにする。
「初耳ですが?」
 勿論判っててやってることだ。
 アキはけろっとして口元に笑みを湛える。
「そうね、今初めて言ったから」
 一歩下がってフユの方を向く。
「勇者に関わる内容が、卦(け)に、シコクと出てたから向かう。ユーカは性格からウソはつかないし、そもそも勇者には不確定要素が多い」
 微笑みを湛えているが、目は笑っていない。
「喩え何もなかったとしてもそれは仕方がない」
「でもそれじゃ」
 噛み付かんばかりの勢いのフユに、アキは右手で制して言葉を継ぐ。
「みゅいみっ」
 舌を噛みかけて慌てて自分の口を押さえて右手を振る。
「今のなし、ノーカン」
「笑いますよ」
 言葉だけで笑うことなく、フユはため息をついてがくりと肩を落とす。
「無意味じゃないのよ」
 こほん、と一度咳払いをして続ける。
「魔物が戦略的に攻勢をかけてきた事が証拠。人間側からも行動しなければならない時期だと私は考える」
「……先刻のがなければ良い科白なんですけど」
 あははと笑うアキに、フユは草臥れた言葉で返して。
「いちいちアキ姉さんに腹をたてていても仕方ないんですね」
「判ってる癖に」
 ハイリスクハイリターン。今回の特務は、どれだけ認められるかで成功するかどうかが決まると言っても過言ではなかった。
「私達は、準備をしていい結果を残してくれることを祈るしかないの」
 いい加減なようでいて、実行すべき内容を彼女は踏まえているつもりだ。
 普段へらへらしていてもやらなければならない点だけはきちんと押さえて、指図する。
――こういう、姉さんですからね
 フユはそれを支えるしかないんだろうと諦めるしかなかった。

 トマコマイ砦へ向かう道は、彼らにとっては別段珍しいものではない。
 過去には馬車が通っていた御陰で足場は悪くないし、なにより距離も丁度良い。
 二人にとってはいつもの訓練用道路だ。
「……なあ」
「んだよ」
 キリエは正装のまま背負子を背負っていた。
 顔は真っ赤である。
「なんでその恰好のままなんだ」
「……五月蠅ぇ。これも軍服には違いないだろ」
 意地を張っているようにも見えるが、最近の彼女のよく判らない行動の事を考えると黙るのが正解かも知れない。
 でもこれで既に何回目か。
 仏の顔は三度まで。ほっとけ言えるのも三度まで。ちなみにほたてサンドはまおの大好物である。
 貝柱がぼこぼこ入ったツナとマヨネーズのサンドイッチである。どうでもいいが。
 どうでもいいが付け加えると、さらにチーズを挟んだほたてチーズサンドになるとまおは感激するらしい。
「お前。ここんとこずっと変だぞ?何かあったのか?」
 びくっとするが。
 そもそも、鈍感なナオ。絶対に気がついていないと自信満々である事が凄く哀しいキリエ。
 実は少し嬉しかったりする。
「何が変だよ」
 だからすねたように言って、じろっとナオを見返す。
「何がって……」
 思わず『今は着てるものが変だ』と言いそうになって思わず考え込んで誤魔化す。
――変なんだ。こいつ、こんなに……
 きょろ。じろり。
 びく。
 思わず見られて引くキリエ。
「お前、何かにつけて反抗的で、言うこと聞こうとしないだろ。最近お前の笑った顔見たことねーから」
 びく。彼女はいちいちびくつく。
 何をどう言って良いのか、まずそれに困る。
 どの言葉でどう表現しようか。彼女がない知恵絞って考えている最中にそれは起こった。
 できれば、彼女にとっては起こって欲しくなかったに違いない。
 まず真っ先に何が起きたかというと。
「ナオ――さんですね」
 二人の、女性が現れた。
 勿論ナオにもキリエにも見覚えのない二人。
「……誰だ」
 ナオは訝しげに二人を睨み付け、足下の砂利を踏みしめてかき鳴らす。
 キリエに至っては斬魔刀を下げて、既に戦闘態勢に入っている――一応言うが、相手は人間に見えるのだが。
 人の恋路を邪魔するからには、馬に蹴られない場合は斬って棄てるという覚悟満々と言うことだ。
「いえ、あやしいものですけど」
 髪の長い女性はにこにこと不穏当な事をさらりという。
「……姉さんみたいな奴だな」
「ちょっと、油断するなよナオ」
 何時でも噛み付かんばかりのキリエを、逆に制しながら、ナオは油断なく二人を見る。
 見たところごく普通の女性だ。
――こんな町はずれで、いきなり現れるんだから
 普通じゃないだろう。
「判ってるって」
 だから、彼女が戦闘態勢になっているのも判る。
「そうやって構えないでください。私達にも話し合いの好機を与えてくれても良いのではないですか」
 女性は言うとにこやかな笑みを二人に向ける。
 後ろの女性は、怯えているのかおどおどとナオを見るだけで何も言おうとしない。
「じゃあ、まず名乗れ」
「キリエ、剣を突きつけて名乗れはないだろ?」
 ぷっと頬を膨らませて、彼女を腕で制する彼を睨み付ける。
 勿論彼は動じない。
「私はウィッシュ。こっちはヴィッツ、魔法使いです。どちらに向かわれるのかは存じませんが、出来得ればお力になりたくて探して参りました」
 丁寧に述べてぺこりんと頭を下げる。
 それに合わせて、慌てて一緒に頭を下げる――ヴィッツ。
 キリエは面白くない。彼女の目には、きっちりヴィッツの貌が見えていた。
――何、あの娘
 間違いなく頬が赤い。
 第一キリエの方には少しも視線を向けようとしない。
 それだけで、既に殺害対象に含めてもおかしくない状況だった。
「――それで」
 ナオは一瞬ユーカとミチノリの姿が目に浮かんだ。
「何故だ?」
 しかし、彼女達と結びつく何かが足りない。第一、胡散臭い。
 警報は鳴りっぱなしだ。
 と、その時。

「てんがよび、ちがよび、ひとごよみ」

 甲高い、奇妙な声がその周囲に響き渡る。
 二人の女性はびくんと身体をすくませる。
「悪をたおせーっとひとまず睨む」
「っっ、どこだっ、姿を現せっ」
 長髪の、ウィッシュと呼ばれた女性が髪を振り乱して見回す。
「こっこだーっ」
 何故か。そう何故か声は遙か上の方から聞こえて。
 小さな影が、ナオと女性の間に割り込むように降ってくる。
「おまえらのあくぎょーざんまい!喩えだれかがゆるしてもおかみはだまっちゃーいない!」

  びしっ

 飛び出てきた小さな人影は、元気良く右の人差し指で二人を指して。
 頭にまいた、どっかでみたような飾り布が揺れてる事に、ナオは気づく。
「怪傑あおりぼん、参上!」
「って、お前まおだろ」

  びくん

 慌ててナオを振り返る、怪傑あおりぼん。
「ど、どーして!」
 いや、それだけびっくりしてりゃ、隠してもばれてるって。
「その頭に巻いてるつーか、顔隠してる布。フユ姉手製で、どこにも売ってないからな」
「わわわ、わたしはーっ」
 ぶんぶんと腕を振り回すと、壊れた人形のようにもう一度振り返ってずびしと二人を指さす。
「ゆるさーん」
 もう訳が分からなかった。


 ぼろんぼろんになりながら、魔城の罠をくぐり抜けて、迷いの回廊を抜けたのが三日前。
「や、やたー、外だ、そとだーっ」
 とまるでダンジョンから抜け出れた歓びに満ちあふれた冒険者のように、まおは涙を流しながら空を仰いだ。
 何故か、夜明けだった事を彼女は記憶している。
 ともかくそんな、誰も知らない努力の末に今の彼女があるのだった。
 まおは外に出てから真っ直ぐサッポロに向かって来たのだが、一つだけどうしても判らない疑問が残った。
――どうして、まじーは迷わず外に出られるんだろう
 閑話休題。
「それで、まおはあの二人知ってるのか」
 キリエは油断なく斬魔刀を構えている。
 それが判っているから、出来る限り知っているまおには声をかける事にした――一応、怪しいことこの上ないから。
「だ、だからっ」
 それでもまだ怪傑あおりぼんを貫き通そうとあたふた口ごもるまおに一歩近づいて。
 しゅるり。
「ほら、まおじゃねーか。……ちょ、なんで泣くんだよ」
 それは、そうだろ。
 恥ずかしさとか、巧くいかなかったこととか、まあ初めから間違っていたとしても胸張って堂々とでてきたからには。
 失敗したことが一番、彼女にとってくやしかったから。
「ないてない!」
 ずびし。
 でもまだ中身はあおりぼんのようだった。
 ナオの眼前に再び右手人差し指が踊る。
「あの二人は、知ってるもなにも……」
 だが、まおが言葉を継ぐより早く、ウィッシュはヴィッツと目配せしてその場に跪いた。
「まお様!」
 びくっ。
 今度は彼女達の大声に驚いて再び振り返る。
 はっきりいって、いいとこなし。
 また目尻に涙を浮かべている。
「ななー、なんだよぉ」
「失礼いたしました我が君。我が君御前において挨拶遅れました非礼、お詫びいたします」
 ぬ。
 まおは眉を寄せて顔をしかめる。
 これは先制攻撃だ。
 わざわざ魔王が、それと判らないように(ばればれだが)出てきたとあってはせめてそこには触れられたくないはず。
 どうせ邪魔しに来たのなら、むしろ手の内に引き込んで置いた方がよい。
 第一まおに駆け引きはない。まおはほぼ間違いなく、ヴィッツの直感と同時に論理的核心とともに彼らの知り合いである。
 否、どうやら彼だけだ。
 であれば、まおが説明するだろう。
 ウィッシュはそこまで考えての行動だった。
 案の定、困った顔をして否定することも肯定することも出来ないまおに、背中から声がかけられる。
「やっぱり知り合いだったんだ。……て、まおって、もしかして」
 ナオには思い当たる節があった。
 あの、風呂で会った時に居た後ろの男。
 態度がおかしかったが――あれは執事か?
「貴族?侯爵とか、もしかして公爵令嬢だったのかよ!」
「えとー、あの、違う違う、違うからそんな引かないでよ。こらー、ウィッシュにヴィッツもー」
 否定をしながら、慌てて振り返り間延びした棒読みで二人に言うまお。
「いえ、まお様」
 一つだけ安心したのは、魔王ではなく、陛下でもなく、『まお様』と呼ぶ二人だったことか。
 それに配下の連中と違い、支配力も通じにくい。
 むしろこの二人で有ればごまかしなどいくらでも――まおはそう思った。
「公爵令嬢がこんなこまっしゃくれで、あんな真似するはずないだろ」
「そそーって、何だよ何酷いこと言ってるんだよおまえ!」
 さらりと酷いことを言われて、思わずずびしっと人差し指を突きつけるまお。
「ふん、本当の事じゃないか」
 じろり。
 キリエは一瞥して、手元の斬魔刀を腰に戻した。
 取りあえず切り伏せることは出来ないようだったから。
「で、と。うしろのー」
「はいはいはいっ!後ろの二人は、私の弟子なの!ちょーっと騎士道入っててお堅い奴でさー」
 弟子。
 弟子は良いが騎士道ってなんだ。
 再びウィッシュとヴィッツは目配せする。
「はっ、ナオさん、我々はまお様に魔術を習っております」
 まおは複雑な表情で振り返る。
――いまのは助けられたのか?
 いやいや、君は利用されているんだ。
「あー、あーあーあー」
 ぽむ。
 結構失礼な事を思いついて合点がいった顔のナオ。
「成程ね。んだったら、三人はどうして、俺の手伝いをするって決めたんだよ」
 ぐ。
 まおは『既に二人の仲間』扱いされていることが気にくわなくて顔を歪めた。
 まあただ困っているようにも見えたかも知れない。
「我が魔術を、この世の為に使うために。占術によれば、ナオさんの手伝いをすることが最も最適であると」
 まただ。とナオは思う。
「魔術師ってのはいつもそうなのか?その、占いだとか訳の分からない理由で……」
 そう言って首を傾げると、ウィッシュは口元を歪める嗤いを見せる。
「……それ以外の理由を、お教えさしあげましょうか……」
 にたり。
「っわわ、なんて事!あんまり魔術師がぺらぺらしゃべっちゃだめっていってるでしょ」
 ぶんぶん。
 二人の間に入って腕を振り回し、大慌てで遮る。
「な」
「まお様、ただシコクに向かうという理由ぐらいは構わないでしょう」
 にこり。
「あ、あう」
 既にまおには、逆らうだけの能力はなかった。
 初めからあおりぼんで貫き通して、取りあえず二人を排除できれば問題なかった。
 総ていれぎゅらーな(彼女にとってだが)理由によって、もうなすがままだったのだ。
「え?うーん」
 今断ったとしても、彼女達は一緒にシコクに向かうのだろう。
 ナオの頭の中では、単純な式が浮かび上がっていた。
「…じゃあ、まあ、道連れって奴か」
 む。
 彼の言葉に貌を歪めるキリエ。
 今から――まあ二人きりではないが――旅に出るというのにおまけが付くのは戴けない。
 思わず斬魔刀に手が伸びるのを止めようともしない。
「あー、はははー」
 一番の理由を何とか達成できたのだから満足するべきだろう――まおはそう結論づけて、総て笑って誤魔化すことにした。
 でもまだ一つだけ気になることがある。
 わざわざあのマジェストが関わろうとしたこと。
 ここまで積極的に、それもこの封印していた二人を起こしてまで関わろうとしていた理由を、まおは知りたくなった。
 だから。
「丁度同じ方向に行くんだから、ついでに手伝うのは問題ないでしょ」
 もっとも有る意味厄介なことになっている事を、まおは理解していないようだ。
「でもシコクに何の用事があるのかはないしょ。それだけは言えない」
 言えるわけがない。本当は用事がないだなんて。
 でも何を快く了承したのか、ナオは嬉しそうに頷いた。
「ああいいよそれは。じゃ、旅の主催者にも紹介しなきゃいけないよな」
 ちらり。
 そこで初めてキリエに目を向けるナオ。
 無論キリエは、ものすごく嫌そうに顔を歪めて、斬魔刀に伸びた手は誤魔化す。
「……まあ、ナオがいいって言うなら、全部ナオのせいにしてナオが説得しなよ」
 ぷい。
 キリエはタコ口のように尖らせて貌を背ける。
「ああ?いいぜ」

  ぶ つん

 ひゅ か

「あのなー、客人の前で危ない真似はするなよ」
 落ち着き払った声で、神速の抜き手で下から放たれたキリエの斬撃を、まるで読んでいたように斬魔刀で受け止める。
 ナオの貌と声こそ落ち着いていたが実はかなり冷や汗ものだった。
――こいつ本気で振り抜きやがった
 事実、殆ど全体重をかけていたというのに、刀身が揺れて手を添えなければならない程それは強力だった。
 とはいえ。
「……手加減したから」
 それだけで落ち着いたのか、彼女は斬魔刀をしまうとふいと背を向けた。
 すたすた、何も言わず歩き始める。
「では行きましょうか」
 何の意にも介さないウィッシュとヴィッツ。
 何となく判ったのか、おろおろとナオの側で慌てるまお。
「あ……あ」
 釈然としなかったが、置いて行かれるわけにはいかないと思い直したナオ。
 色んな想いが交錯したまま、シコクに向かう事が決まってしまった。
 まだ肝心の、思惑を持って現れた二人に話をする前から既に混乱は始まってしまったのだった。
――水晶の示した『運命の動き』なんて、小さなことかもしれない
 最初にそう思っていたユーカですら。
「ナオ?これはどういうことだ。納得いくように説明して貰えるってことだな」
 さすがにここまでおかしなことになると眉を顰めざるを得ないようだった。
「ああ。全部俺が悪いんだよ」
 そう言って肩をすくめるナオに、俯いたキリエ。
 笑ってごまかしつづけるまおに、どこか紅潮したヴィッツとにこにこ笑うウィッシュ。
「遠足じゃ、ないんだぞ」
 ちなみに待ち合わせにしたこのトマコマイ砦跡もおいそれと遠足するような場所ではない。
 念のため。

 当初の予定通りナオが総てを説明した。
 すなわち、彼女達はシコクへ向かうのだということ。
 魔術師であり、一緒に向かうのが得策だと言うこと。
 一応、占い云々や手伝うため云々は避けておいた。
 何となく言いたくなかったというか、そんな感じで。
 それがどれだけ伝わったのか、相変わらずの表情でじっとユーカは彼を見つめる。
 実は本当に眠いだけなのだが、その草臥れたような目で微笑む様は、まるで何かを見破ったようにも相手に感じさせる。
 彼女のルックスは、そう言う意味で『魔術師らしい』といえるのかも知れない。
 良いことである。……多分。
 でも実は何も判らなかった。ただ、面白そうと思って笑っただけだった。
「そうか」
 別に実はどうでもよかった。
 彼女自身、占いによって今の進退を決したのだ。
 水鏡や水晶球の占いではっきりするのは、流動する未来。
 ある選択が正しいとか、これから起きる未来が見える訳ではない。
 ある意志に対し、どの事象がどう動くのか。それが曇り具合や光の反射具合で決まる。
 どの選択が、最も期待する動きを産むのかを選択した結果が――これだ。
――こんなにイレギュラーが入ってくるとは思わなかった
 それが正直な感想だった。
 過去に水晶占いである旅を決定した時にはここまで事態が動かなかった。
 というか、動きすぎである。
「まあ、良いだろう。別にたまたま同じ方向に行く人間を、遮る趣味はない」
 何となくユーカは嬉しそうに答えた事に、ナオは不思議そうに目を丸くした。
 普通、妙な邪魔が増えれば嫌気がさすものだ。
 それも得体の知れない(ユーカに言うときっと文句を言うだろうが)魔術師の三人組だ。
 怪しさも倍増どころか三乗増しと言うべきだ。
 増えすぎである。
「そ、そう?」
 何故かまおが嬉しそうに答えてえへへと笑う。
 もうまおは先刻から笑いっぱなしで、まるで壊れた人形のようだ。
「ん、キミの知り合いは、わざわざ自分の側に居るヒトに嫌がらせをする趣味でもあるのか?」
 あは。
 あははははー。
 まおは、何故かさらに声を大きくして、冷や汗を浮かべながら笑い続けた。

 そして、ようやくメンバー全員が揃ったという事で。
「では、いこうか」
 ユーカの言葉によって、全員シコクに向かうことになった。
 シコクはここトマコマイから南へ向かい、一旦陸づたいにサイタマへ向かう。
 サイタマからチバにあるオオアライ港へ、あとは海路である。
「シコクまでは結構距離があるよなぁ」
 空は抜けるような青い色、見える大地は、怖ろしく広いサッポロらしい大地。
「今日は天晴れだよねー」
「それを言うならニホン晴れだ」
 ナオの呆れた声にてれてれと笑って返すまお。
「あ、そーだっけ。そーとも言うね」
「そうとしか言わねーだろうが」
 今度はやたらとドスの利いた、苛々した声でキリエが言う。
 でもまおの顔は変わらない。
 その後ろをウィッシュとヴィッツが並んで歩いている。
「ほぉ、独学で錬金術を」
「はい。まお様には魔術を習っておりますが、どうしても自分で学習すべき物も」
 殆どウィッシュとユーカしか会話していないが、彼女達は結構馬が合うみたいである。
 一応なりとも魔術に関する知識は半端ではない。
 ……というか、魔そのものでもあるんだが……。
 キリエ、まお、ナオ、ヴィッツと言う感じで、まおより後ろにヴィッツが居る。
 歩き始めてからもヴィッツだけは無言だ。
 ただその場所を譲ろうとはせず、ナオの後ろを歩いている。
――ううん
 ナオは少し困った顔を正面に向けた。
 総勢七人、普通に会話をできるのはよくて三人。
 キリエは他の連中の会話には参加しないだろうし、ミチノリはふらふらと予想外の行動をしている。
 今は道ばたにいきなりしゃがみ込んで花を摘んでいた。
「お前、放っていくぞ」
「えーキリちゃん生理ぃ〜?」

  ぶちん

「あ」
 修羅の形相でミチノリに飛びかかるキリエ。
 笑いながらひょいひょい逃げ回るミチノリ。
「なにやってるんだかぁ……」
 ナオが気づいた時には既に抜刀して襲いかかるところだったので、足を止めて後頭部をかく。
 それに合わせるように、ヴィッツも足を止める。
「ヤキンとポアズに関する論文は?」
「まだそこまでは……。実はその辺はさわりほどしかやってませんので」
 ウィッシュとユーカの二人は、既に誰もついていけない(まおも魔術は全く判らない)ところまで話を盛り上げている。
 歩き始めて数分でこれだ。
「あの」
 ヴィッツがおずおずとナオの側まで近づいて、彼を見上げる。
「ん?」
 ストレートの綺麗なショートカットがさらりと揺れる。
 背が低いのでどこか幼い印象を受けるその仕草に、ナオは『妹が居たらこんな感じかな』と思った。
 何せ、姉ばかりいた家族だったからだ。
「……ご迷惑じゃ、ないですか?」
 どこか怯えたように見える彼女に、ナオは力一杯否定する。
「いやまさか!」
 ぶんぶん、と両腕を目の前で振ると、大きく腕を広げて――でも残念にも笑顔は無理だったが――応える。
「ユーカも退屈してないみたいだし、キリエとミチノリは、ありゃいつものことだ。むしろ人数が多くて賑やかでいいよ。うん」
 半分ほど冷や汗ものだが、まま間違ってはいない。
 道場で殴り合いをやりかねないキリエとミチノリに、破天荒なユーカ。
 結構長い付き合いではある物の……物静かに落ち着いた事は一度もない。
 自慢ではないが。
「本当ですか?良かったです……」
 そう言ってヴィッツは俯く。
――むしろそうしていられる方が、迷惑だったりして
 先刻から無言で真後ろについているのがどうにも気になって仕方がない。
 まだぎゃーぎゃー騒いでいる連中の方が、五月蠅いだけで気にならないのに。
――先行き、暗いなぁ……
 がくん、と彼は肩を落とした。
 サイタマまではしばらくかかる。普通に陸路を歩いて二日ほど。
 良くて一泊、街道沿いの宿場か、間に合わなければ野宿になるだろう。
「――ユーカ」
 ふとそれに気づいて振り向く。
 既に置き去り全開の魔術談義から、ユーカは顔を上げた。
 つられてウィッシュも目を向ける。
「泊まりか?ああ、悪いが宿泊費は一切貰ってないからな、全部野宿だ」
「まてまてまてっ、待てぃ!お前、路銀なしでどうやってここからチバまで行くつもりだっ!」
 全くである。
 オオアライまで下手すれば一週間ではすまない旅程である。
 馬車を借りるにせよ、宿泊するにせよ、何にしたって金はかかる。
「ふむ」
 しかし、ユーカはその言葉が理解できていないのか、相変わらず眠たそうな顔でナオを見返す。
「ではナオ、幾ら持ってきた」
「あ……ああ、一応旅費になるぐらいは持ってきた」
 ちらり、と彼女はウィッシュに目を向ける。
「ああ、おかまいなく。同じ部屋に泊めて貰えるなら安く上がりますし、助かりますが」
 ぽむ。
「それだな。ああ、いや、ナオ。金を一切持っていないわけではないから大丈夫だ」
「……先刻の会話でそれを理解しろと?」
 そう言うと、にやりとユーカは口を歪める。
「アキの奴はけちんぼだからな、特務の予算がないそうなのだよ。全部ポケットマネーって奴だ」
 う。
 なんだか虐められているような気がして、ナオは眉を寄せる。
「あー、なんだ、そのー。……もしかして結構怒ってる?」
「いや怒ってなぞいない。自分のお金で旅をするのは普通だからな」
「そぉだよぉ、ゆぅちゃん怒ったら怖いんだもんねぇ」
 だき。
 いつの間にかキリエの攻撃を避けたミチノリが、ユーカの真後ろから思いっきり抱きつく。
 ひょこっと彼女の後ろから顔を出したのだが――何だか、彼の巨大な手袋に二人が抱きしめられているようにも見えなくない。
 その、二人分並んだ顔のうち、一人分が段々蒼くなっていく。
「……ミチノリ?」
「ご、ごめんなさぁい……ナオちゃん、ゆぅちゃん怒ってるよ……」
「怒ってなどいない」
 ずるり、べちゃ。
 力無く拘束を解かれたユーカの後ろへ、ぐらりとバランスを崩したように倒れていく。
「大丈夫だナオ、私は怒っていないからな」
「いたぃいたぁい痛ぃいぃ」
 ぐりぐりぐり。
 倒れ伏して、おなかを抱えるように蒼い顔で震えるミチノリを、容赦なく踏みにじるユーカ。
 顔は晴れやかに笑っている。
「ナオには」
「あ、そですか」
 ふと目を向けてみると、キリエが肩でぜいぜい息をしていた。
 さすがに剣を鞘に収めて、目も落ち着いている。
「落ち着いたか?」
「……何とかな。……クガ!今度なんかやったら今度こそ覚えてろよ!」
「私もからだ、ミチノリ。次、『他の女』に何かやったらお仕置きだ」
 あー。
 ナオは何となく理解できたような気がして、両手を合わせて彼を拝んだ。
――成仏しろよ、ミチノリ
 まさかそれが、自分に降りかかってくるなどとは夢にも思っていないナオだった。
 結局、最初に見つけた宿場まで辿り着いたのは、日が完全に暮れてからのことだった。
「私達は別の部屋にしますね」
 と、さっさと3人部屋を確保したウィッシュ達が去った後。
「ゆぅちゃんといっしょー」
「待て待て待て待てっ、それじゃ三人分部屋を確保しなければいけないだろうがっ」
 二人部屋を二つ確保しようとするユーカに、まるで絡むようにして後ろからそうせがむミチノリ。
「えぇぇー。キリちゃんと一緒で良いじゃない」
「良くない!」
 キリエとハモりながら一息に否定する。
「じとー」
「な、何だよ」
 半眼で、普段見せないような視線をキリエに向ける。
 ミチノリはゆっくり顔を近づけながら――ちなみに、身体はユーカの背中に張り付いたまま――呟く。
「ついでにやっちゃえばいいじゃない」

  がすん

 全部言い終わる前に、ナオの容赦のない拳が凄まじい音を立ててミチノリの頭部を直撃した。
「俺とお前で同じ部屋だ。旅の最中にいちゃつかれてたまるか」
「そうか。しかしできれば今日中にお仕置きをしてしまいたいんだが」
「ユーカっ!お前次だって先刻言っただろうが!」
 ち、とあからさまに舌打ちするユーカに呆れた視線を向けながら、二人を押しのけてカウンターに向かう。
「二人部屋二つ!男二人と女二人で!」
 乱暴に叫んで宿帳にサインして差し出すと、主人は奇妙な顔で首を傾げた。
「あのう、お客さん」
「何」
 彼は四人を見比べるように見回してこう言った。
「失礼ですが、男はあなた一人ではないですか」

  かぽーん

 そんな音がする。
 ようするに風呂。
 この作品でお風呂のシーンが多いのは気のせいである。念のため。
「ぷふー」
 幸せそうに、風呂桶の中でとろけた表情を浮かべるのは、先刻女性に間違えられた、性別を間違えて生まれたミチノリ。
 ちなみに男風呂なので、隣にいるのはナオだ。
 一緒に入っているのは別に他意はない。
 ちなみに一緒に入ろうとねだったのはミチノリであることを附記しておこう。
 彼の(どっちだ)名誉のために。
「本当にお前、幸せそうだよなぁ」
 歳に似合わない程草臥れた表情で、ナオは呟いて背中を湯船に預ける。
「えー。これでも悩んでるんだよぉ」
「どこがだ」
 全く説得力に欠ける声で、にこにこと笑いながら応える。
 素早いナオの突っ込みにも全く揺るがないその貌。
 彼はそのままこてん、と首を傾げる。
「しかたないよぉ。みっちゃんは祈祷師だもん」
 祈祷師総てがそうであるわけではないが、確かに祈祷師という職業についている人間はかなりの確率でおっとりしたぽやんという雰囲気を湛えている。
 脳天気、という言葉がぴったり合う。
「なんだそりゃ。あんまり祈祷師には会ったことはないけどさ、みんなそうなのかよ」
 んー、と鼻から抜ける声で首を傾げると、頭の上に乗っていた手ぬぐいがぽたりと湯船の端に落ちる。
 彼はそれを拾わずに、そのまま頭をもう一度起こすとにこにこ顔を崩すことなく言う。
「みっちゃんみたいなのはいないよぉ。でも、祈祷師ってね、お祈りを捧げるのを力にするんだよ」
 魔術と一口に言ってもかなりの種類が存在する。
 実際に魔法と呼ばれる、神や魔の力は単純に1種類しかないと判断されていて、それを行使するための技術として魔術がある。
 人間が、神に近づく一つの手段。
 それが魔術であるが、魔法に至るまでの経路による差は実はかなり大きい。
「まあ、それは知ってるが」
 祈祷を行い何かを成す。
 それは一番魔法に近い方法。
「一番、回りくどい方法なんだよぉ。時間もかかるし何よりぃ、素質ぅ〜かなぁ」
「何が言いたいんだよ」
 ミチノリはふと笑みを消した。
 唐突に周囲に満ちていたものが張りつめ、ナオの背筋にも冷たい物が走る。
「判ったかなぁ」
 にぱ、と笑みを浮かべ言葉を継いだ途端、その気配が消えて元に戻る。
 直前までの気配がまるで嘘のような落ち着いたいつもの空気。
 何もしていない。何も起きてない。変わらない世界――ただ、側に彼がいるだけ。
 祈祷が世界を変える――それは精神的に世界の再構築を繰り返しているということ。
 下手に精神が動いただけで世界が変わる――それがどれだけ偉大な素質であるか。
 尤も実際には世界を塗り替えている訳ではない。
「結構大変なんだよぉ。ちょーっと揺らいだだけでこんな感じかなぁ」
 尤も、今はすぐ側にいるからだけど、と彼は付け加える。
 祈祷師は基本的に精神的に働きかけて、肉体治癒力の向上や、能力付与を行う。
 催眠術とあまり変わらない。根本的には違うが、効果としてはそれ以外望めない。
 より強力な催眠術と言っても過言ではない。
「あ、ああ」
「やろうと思えばぁ、ナオちゃんがみっちゃんを好きになるぅ、なーぁんて簡単にできちゃうよぉん」
「できなくていい、つーかやめてくれ、俺が悪かった」
 くふふと含み笑いをしてもう一度小首を傾げ、嬉しそうに湯船に背を傾ける。
 彼ら祈祷師は、どれだけ自分の言葉を信じられるか、どれだけ相手に信じさせるかがポイントなのだ。
 これっぽっちの疑いも赦されない、だから。
――難しいな
 奇跡ともいえる程の能力を持った祈祷師になるには、やはり奇跡に近い程の鍛錬が必要となる。
 それに耐えうる素質を持っていない場合、極稀に幼児退行、廃人になると言われている。
 何となく、ミチノリが早く結婚した理由が判った気もした。

「さて、じゃあはっきりさせとこーかな」
 ぱたん、と軽い音を立てる扉を確認するように振り返り、まおはウィッシュとヴィッツを見比べるように視線を向ける。
 最初に部屋に入ったウィッシュは荷物をぽてぽてとベッドの下に置き、そのままベッドの上に腰掛ける。
 ヴィッツは既に上着を脱いでくつろぎモードに入ろうとしている。
「なんですか。早く温泉に行きましょう、まお様」
「はなしをきけー」
 殆ど聞く気なし以上無視未満で応対する二人に、思わず棒読みになるまお。
 ふうとため息をついて両手を腰に当てると何となくそれらしくなるように眉を吊り上げてみたりする。
「話ですか。私達は別にまお様に話はないですが」
「だからっっ!ええぇい!牢屋に永久封印してるはずの二人がどうしてこうして暢気にしてるっ!」
 思わず二人は顔を見合わせて、互いに首を傾げたりして。
「マジェスト様に牢からだして戴いたんですが」
「そーじゃない、あのねー。……いいや端的にいう。私もお風呂行きたいや」
 色々と言いたいことがあるし聞きたいこともある。
 でもなんだか全部のらりくらりと逃れられそうだと思った彼女は、一番大事な一番聞きたい事だけに絞ることにした。
「今何を企んでいる」
 しん、と一瞬静けさがその場を覆う。
 挙動不審にウィッシュがヴィッツとまおを見比べている。
 ヴィッツは、こちらは対照的にまおを睨み据えている。
「企んでなかったらどうするおつもりですか」
「うそー。嘘だよそれ。すぐに判る嘘じゃん、なんで私の邪魔をするように言われてるはずのあんたらが、私の仲間の振りをするの」
「仲間の振りをした記憶はありません。――はっきり言うと、まお様を利用させて戴きました」
 びく。
 がたん。
 驚いたのか、まおは一歩後ろに下がって、ドアにぶつかってしまう。
 ヴィッツの目は真剣で、睨み付けているように
「やっぱりなにかたくらんでるぢゃん。利用したんでしょ、私を。魔王であるこの私を」
「ああ、まお様。すみませんが魔王陛下を利用したわけではなくて」
 ウィッシュはにこやかに、両腕を大きく広げて立ち上がるとヴィッツの背をちらりと見て言う。
「人としてのまお様を利用させていただいたのです。どうやら、あの方とお知り合いのようでしたので」
 まおは頭の上に大きな?を浮かべて眉を寄せ、首を傾げる。
「望姉さん」
「ヴィッツは黙ってて。そして、目的は彼らの籠絡。そも――」
 にたり。
 彼女は口元だけでいやらしく笑みを形作る。
「魔王陛下?陛下がお知り合いだという彼らは、勇者ではないのでしょう?」
 う。
「ま、まだ決まった訳じゃないっていうか、そのー」
「私達は何故永久封印されましたの?」
 特別調整され設定を加えられた対勇者用魔物。
 彼女達の目的は勇者の殲滅ではない。
 勇者の周囲にいる人間に紛れて、内側から勇者のパーティを全滅に誘い込むのが目的だ。
 『誘い込む』のが目的なのだ。
「……勇者が未熟なうちは、最大の難関だからでしょ。二人とも容赦ないから」
 すくなくともまおは、自分にあたる前の最大の難関というか。
 勇者に会う確率が減るから、こいつらを封印しておきたいと感じていた。
 それは――ほぼ記憶と間違いはない。
「違います」
 だが、封印されていた本人はそれを否定した。
「私は――」
「任務には何の間違いもない。まお様の言われる通り。でも、それなら私達は何だと思われますか」
 まおは何も言えなかった。
 何の言葉も思いつかなかった。何故なら、『対勇者用』……その言葉の真意は。
「直接勇者を攻撃することもなく、ただ危険な場所へと導く私達は、今まで常に何処にいたのか判っていますか」
 ヴィッツの言葉を遮って、まおが黙り込んだのを良いことにウィッシュは言葉を続けた。
「――まお様、あなた様亡き後勇者の最も近い場所にいるんですよ。だから」
 ウィッシュが言葉を続けようとするのを、まおは鋭い吐息で遮った。
 ウィッシュも、それ以上言葉を続けず、一度つばを飲み込んだ。
 果たしてまおがどうでるか。
 少なからず、今のは動揺を誘う事が出来たはずだ。
 まおの記憶がいい加減であることは彼女達も良く知っている。
 彼女達が魔王から作られていながら、魔王から独立できる存在であるという利点はある意味で欠点でもあった。
 まお(魔王)の思惑から、どうしても外れる存在になってしまうという事だ。
「やっぱりあんたら、嫌いだよ。絶対好きになれない」
 まおは珍しく眉を吊り上げて言い、空いた三つ目のベッドに荷物を放り投げる。
 そして、いそいそと着替えを取り出してタオルにくるむと、きっと二人を睨み付ける。
「おふろいくよ!おふろはいって夕飯食べるよ。取りあえずあんたら、私の弟子扱いなんだからね」
 苛々して足音を大きく、彼女は先頭で部屋を出る。
 扉の向こうに消えようとするまおを見て、二人は貌を見合わせて。
「……取りあえず、いこか」
 考えるのは後にした。どうせ、時間は幾らでもある。

 女風呂。
 この宿は風呂が大きく、大浴場一つだけで宿泊客全員分まかなえる程ある。
 同時に全員入れる風呂というのはまずないが、このニホン大陸の殆どの宿が大きな風呂を持つ。
 場所によっては露天だったり温泉だったりするのだが、ここは普通の『風呂』である。
「なんだキリエ、風呂に入るのが怖いのか?」
 ユーカは脱衣所で服を籠に放り込みながら、後ろでもじもじしているキリエに声をかけた。
「そ、そんなんじゃない」
 実際良く保養施設にも出かける。ユーバリとか。
 女性だが、よく言えばあっけらかんとしていて、悪く言えば恥を知らない彼女。
 端的に言って、ユーカにこんぷれっくすという奴を持っているのだ。
「手ぬぐい一つだぞ。風呂にタオルはいらない」
「判ってるっ」
 もたもたしているうちに全裸になったユーカは風呂へと向かう。
 髪の毛は纏めて紐で縛り、アップにしている。
 じと。
――身体のラインとか、綺麗だよなぁ
 じろ。

  ぺたん

 ぐすん。
 ため息を盛大について、がくんと項垂れる。
――……別に、クガはどうでもいいけど
 もう一度目を向けたときには、既に湯気の向こう、扉の向こうに姿が消えている。
「いい?お風呂ってのは遊んじゃダメなんだよ」
「そんな事を知らないのはまお様、あなただけです」
 ぎゃーぎゃー言う声が、入口のほうから聞こえてくる。
 のれんをくぐって――と言っても、のれんに手をかける必要があるのはウィッシュだけだが――先刻の三人が姿を現した。
 キリエは思わず手ぬぐいを自分の身体の前に垂らして、早足で風呂場に向かう。
「キリエさん、今からお風呂?」
 ウィッシュはにこにこと声をかけるが、キリエは困ったような笑顔を返して小首を傾げる。
「え、ええ」
 ウィッシュもすらりと背が高く、スタイルは良い方だろう。
――なぜ魔法使いばかり
 貌を引きつらせて挨拶して、逃げるように彼女は風呂場へと入った。
 そそくさと洗い場で身体を洗って、ざぶざぶと頭からお湯をかぶる。
「隣、いいですか」
 前髪に垂れる雫を右手で払い、声にキリエは顔を向ける。
 ちょこん、と自分より小さな女の子がそこに座っている。
――おかっぱ……確か名前は
「ヴィッツさん?」
「ヴィッツで良いですよ。キリエさん」
 にこり。
 どう見たって、自分より年下の女の子が自分を見上げている。
 彼女も笑みを浮かべてそれに応える。
「じゃあ、俺もキリエでいいよ。かしこまられたら、こっちが気にするから」
「そうですか?でも……呼びにくいのでさん付けはします」
 ちょっと目を伏せて考えるように言葉を切って、彼女はそう言い切った。
 見た目はこんな感じだが、もしかすると同じぐらいの歳かも知れない。
 彼女はもう一度頭からざぶざぶとお湯を被り、隣のヴィッツを観察するように見た。
――子供、だよなぁ
 桶をおいて、頭を洗い始めたヴィッツを見て、彼女は湯船へと向かう。
「うにゃー」
「ほらほら、動かないでくださいまお様。目にも口にも入りますよ」
 何故か、湯船の向こう側の洗い場で、ウィッシュはまおを洗っていた。
「いや、つーかアレはどうなんだろ」
 精確に描写してみよう。
 ウィッシュが長い髪を纏めて、頭にタオルを巻いている。まあこれはいい。
 彼女の腕は大きめの泡の塊に突っ込まれている。
 泡の塊からは、時々妙な声が聞こえたり、亜麻色の触手が伸びてきたりしている。
 呼吸でもしているのか、一カ所から泡がぽふっ、ぽふっと定期的に吹いて。これに声が混じるのである。
「……まあ、いいか」
 嬉しそうなウィッシュが妙に印象的だった。
「遅いぞ」
 湯船に足を入れると、先に入っていたユーカが明るく声をかけてきた。
 背を預け、両足を伸ばして組んで居るのが見える。
「ごめんごめん」
 自分も、彼女と向かい合わせになるぐらいの位置で同じように座り込む。
 桶の音、先程から聞こえる奇妙な声をBGMに、ユーカはとろんと眠そうな笑顔を浮かべている。
 いや、いつも眠そうだが、今回のは妙に幸福そうだともいえる。
「でも鍵なら俺の服にあるの、キリエ判ってるだろうが」
「駄目だ。私は、喩えそれが宿の鍵であろうと人の服から取る真似は出来ない」
 硬い奴だ、と思う。
 キリエは頷くでもなくユーカの顔を見つめて鼻を鳴らす。
「そうかー。ま、ユーカは昔からそんな感じがあったよな。……だからクガを選んだとか?」
 ミチノリは、孤独だった。
 あんな性格と見た目だが結構過酷な人間関係を持つ。
 父親は不明。母も幼いうちに亡くなっている。
 その後は祈祷師についていって、実質の親子と言えるのが彼の師匠になるのだという。
 しかし彼もミチノリを独り立ちさせてすぐに亡くなっている。
「……そうだな」
 意外にも、彼女は目を閉じたまま考え込むように応える。
「それもあったのかもしれない」
 自分の前に伸ばした両腕を、ちゃぷんともう一度湯の中に付けて、腕を組む。
「キリエ。自分は、本当の所どうなんだ」
 そう言って目を薄く開いて湯気の向こうを見透かすようにして、キリエを見る。
 う、と顔を引きつらせると首を傾げて答える。
「本当って。……まあ、最近気がついたって言うか、その……すぐ側にいるからかなぁって思う事もある」
「まああれだけドツキ合いしてるから、仲が良いのは知ってるが。お前は『これでいいのかな』とでも思ってるか」
 ふう、とため息をついてキリエの反応を見る。
 キリエは時々瞬きを繰り返しながら、目を逸らせた。
「今だけど言うが」
 『だけど』か。『だから』じゃないのか。
「横からかすめ取られそうになると、烈火の如く怒るのは考えた方が良いぞ」
 ふう。
 ため息をつくように小さく吐息で水面を揺らす。
 ふわりと湯気が舞い、一瞬キリエとの間がクリアになる――尤もそれはほんの一瞬。
「……どういう意味だよ」
「はっきりさせておけと言っているんだ。まあ、ナオがあれだけ鈍感……まあ、お前にも問題はないわけではないが」
 キリエは腰を浮かせて睨みながらずいっと彼女に近づいてくる。
「何だよ」
 湯気の向こう側でも、上気したキリエの頬はよく判る。
 ユーカは片方の眉を上げるようにして、口元を歪めて答える。
「一度『これだ』って決めて見ろって言う話だ。別にそれで結婚する訳ではないし、何か迷う理由でもあるのか」
 ん?と鼻を鳴らして聞く。
「それ以降気まずくなったりするかも知れん。だがそれはそれだ。……後で占ってやろう。どうだ?」
 キリエは怒り顔のままその位置で固定する。
 顔も。
 身体も。
 目の前の夫持ちが言っている言葉は正論だ。
 このまま何事もない事を望んでいるならまだしも。
「あう……じ、じゃあ、占って貰おうかな。うん」
「素直じゃないな。だがまあいい。私はキリエのそう言うところは気に入って居るんだ」
 くすくすと笑って、真っ赤な顔のキリエを見つめる。
「じゃあ、取りあえず落ち着け。離れて座れ」
 真っ赤な顔でそのまま、まるで巻き戻すようにしてずるずると戻っていく。
「あ、あのさ」
「失礼しますね」
 先刻まで聞こえていた奇妙な声が悲鳴に変わる。ウィッシュが容赦なくまおにお湯をどばどばかけているところだ。
 そんなテンポで、話を続けようとしたキリエの側に声が割り込んできた。
 ヴィッツだ。
「私もお話に参加していいですか?」
 断る理由はない。
「……ああ。そうだな、まだ顔を合わせた程度だ、まず自己紹介をお願いして良いか」
 キリエより早く、まずユーカが提案した。
 もっともだ。
 ヴィッツは笑いながら頷いて、自分の名前を言った。
「ヴィッツ=アレスです。一応魔術の勉強をしてることになってますけど、実際にはウィッシュ姉さんのお手伝いみたいなものです」
 ユーカは小さく二回頷く。
 だいたい見立て通りだ。このヴィッツという娘は魔力自体小さい。
 修行中にしては魔力を感じなさすぎる。制御できている高位術者ならともかく、だ。
 ユーカの見立てはそんな感じだが、実は大きな間違いである。一応、念のため。
「姉さん……って」
「ああ、それは私が勝手に呼んでるだけです」
 きっぱり。
 キリエの質問にすぱっと断ち切るように答え、にこやかに続ける。
「姉さんはウィッシュ=ニーオって言います。望姉さん、ウィッシュさんはご自分で錬金術も修得なさってますから、尊敬します」
 両手を合わせて祈るような仕草。
 きらきらきらと星が散っているようなその光景に、キリエは少しひく。
 さっきまで顔が上気していたのまでひいて、冷静になってしまった。
「そうか。なら納得したよ。私はカサモト=ユーカだ。あの大きな手袋の男の妻だ」
 きょとん。
 ぱちくりぱちくりと二回またたいて、困った顔でおそるおそる聞く。
「……手袋のヒト、ですか?」
「ああ、そうだ。ああ見えても男だあいつは」
 はあ、と気のない声で答え、彼女は首を傾げる。
「まあ見えないよね。アレは」
「あなたはどうなんですか?」
 顔毎くるりとキリエに向けるヴィッツ。
 声をかけておきながら、びっくりしてのけぞるキリエ。
「お、俺?」
「そう、あなたです。その――ナオさんと」
 ぼんっ、と音を立てそうなぐらい顔を真っ赤にして、卒倒しそうなぐらいのけぞる。
「ああ、あ、あ、あああ、ああ、ああ」
 上擦った声で何を言いたいのか、「あ」から言葉が先に続かない。
 焦ったキリエは一度自分の口を押さえて、ごくんとつばを飲み込んだ。
「なんで俺はナオが?」
 てにおはがおかしい。
「おいおいキリエ。調子おかしいんじゃないか?もう風呂から上がった方がいいぞ」
 笑いながら、ユーカは有無を言わさずキリエをつかむと強引に引き起こす。
――いいから落ち着けよ
 笑いながら、目でそう言う。
 キリエは貌こそ何ともないが、明らかに目はおかしい。
 きょときょとと落ち着く動いている。
 首根っこひっぱたいて、そのまま湯船から引き上げる。
「あうあうあう」
「判ったな」
 こくこくこく、こくん。
 まったく。ユーカは苦笑いをして呆れて見せた。
――素直なんだか、素直じゃないんだか……
 そして、ついさっきまで身体を隠してたことまで忘れて、ふらふらと立ち上がる。
「もし何の関係もないのでしたら、声を掛けさせていただきます」

――!

 凍り付く空気。
 あからさまに身体を緊張させるキリエ。
――いきなり何を言うかこの娘は
 ユーカですら、今のヴィッツの言葉に含まれる棘のようなものに声が出なくなってしまった。
「待てこら」
 だが、その沈黙を破ったのは、さっきまで溺れそうなぐらいお湯をかけられていた娘だった。
 まおだ。
 無論しっとり濡れてぺたんと頭の形が見えるまん丸い頭で、顔に張り付いた前髪のせいでますますまん丸い。
「あーんん?ちょっとー、そこまでつらーかしてもらおぅか」
「まお様、思いっきり棒読みでございます」
 とは言いつつも、ウィッシュは彼女を止めようとしない。
 ヴィッツもまたつん、とすまして彼女を無視する。
「まお様。おっしゃってる意味がわかりません」
「判りませんじゃないーっ。なーにとぼけた事いってるんだー」
 つかつかつか。とぷん。
 まおは眉をつり上げたままとことこと湯船に入り、ヴィッツに近づく。
 こうして見れば特に判るが、ほとんど首までつかってしまっているヴィッツはかなり小柄である。
 小さめのまおと並んでもさらに小柄だ。
「まぢゅつしはできる限り俗世から隔離するんだぞ」
 どこでそんな言葉を覚えてくるんだか。舌も噛みそうだぞおい。
 ウィッシュはにこにこというよりは苦笑いを浮かべて二人を見比べ、視線をユーカ達に向ける。
 もうさっきのショックから回復したらしいユーカは優雅に(いや、ギャグではない)お湯につかって楽しんでいる。
 キリエは湯船の外で元が判らないぐらい顔を崩して驚いたまま、固まっている。
――ごめんね
 まおの頭上で右手を立てて、ユーカにウインクする。
――まかせた
 ユーカはそれに応えて頷き、ざばっとお湯から上がる。
「ほら、早く上がるぞキリエ。ほら」
 彼女はそのままキリエを連れさらうようにして、ずるずると脱衣所へと向かう。
「何を考えてるんだ!いってみろ!」
 まおも周囲が見えていないようで、片腕をぶーんと振り上げて叫ぶ。尤も、全然怖くないが。
「何?……それはまお様、お聞きにならなければならないほど鈍感なのですか」
 ついと目を開けてヴィッツは上目遣いにまおを睨み付ける。
 にらみ。
 じと。
 半眼でじとーっとにらみつけているまおと目が合う。
 無言。

  ぱぁん

 その二人の間に、突然差し込まれる甲高い音。
 それが手を打ち合わせたのだと気付くのに一呼吸。
「はいはいはい、終了終了ーっ。もう誰も周囲にいないから、いいでしょ?ヴィッツ、まお様」
 びくん、と驚いて背を反らせた二人に、ウィッシュは言う。
「の、」
「うぃっしゅ。……あんた何か知ってるでしょ」
「知ってるでしょ、じゃありませんまお様。全く何しに来てるんだか……」
 と呟いてからはたと気付く。
「…………。何しに来てるんでしたっけ?まお様?」
 かぽん。
 どこかで桶が音を立てて、湯気がゆらゆらと揺らめいた。

「だから、あーもう……キリエ、占って欲しいんだったらもっと閑かにしてくれ」
 カードや水晶球をぶちまけた状況で、ユーカは耐えきれなくなって叫んだ。
 自室に帰ったユーカは、取りあえず茫然自失になっているキリエを正気に戻らせようと着替えさせた。
 『占って』という彼女の言葉を聞いて占いを始めたまでは良かったんだが。
 このありさまである。どうやらまだ完全に『向こう側』にいるようだった。
「え……ううん、閑かにしてるよ」
 いつもよりも気の抜けた声で、彼女は答える。
「それだけ気が抜けてりゃ、普通は閑かな物だ。それをお前は」
 大きくため息をつく。
 今彼女は、キリエと向かい合わせて座っている。
 彼女が抱くように持っている水晶球の前に、完全にぼけっとしているキリエが居る。
 キリエは、彼女の前でゆらゆらと身体を前後に揺らしたり、何が楽しいのか両手が机の上で踊ってたりする。
 どうやら頭と身体が完全に別物のようだ。
「……珍しい症状だな。サンプルとしては面白いかもしれないな」
 呟いて肩をすくめる。
――告白されてこれならそれなりに理解できるんだが
 取られそうになってぼけるというのはどう言うことか。
 ユーカは頭が痛くなった。
「一つ提案させてもらっていいか?」
 左手でこめかみを押さえ、片方の眉根を上げて困ったような表情で言う。
「豪快に振られるなりした方が良い。告白してこい」
 すると、それまでぼぉっとしていた彼女の顔に血の気が戻りというか流れ込みというか。
 一気に真っ赤になって、そのまま勢いよく真後ろにふらりと。
「わわっ、こらキリエ!」
 焦って椅子を蹴って彼女の後ろに回り込み、倒れる彼女を支える。
 完全に――気を失っていた。目を回して。
 思いっきりため息をついて、呆れたように笑って彼女をそのままベッドへと運ぶ。
「もういい、判ったキリエ。まずは慣れないと駄目みたいだな」
 考えてみれば彼女は女の子の自覚自体まだ慣れていないようだし。
「ここは一つ私が一肌脱ぐしかないな」


 かぽーん。
 2度目の桶の音がして、やっとこさまおは口を開いた。
「……そう言えば、なんでウィッシュは私の世話役してるの」
「それは私の趣味です」
 がく。
「しゅ、」
「誤解を生むような表現で申し訳有りませんまお様。でもボクはちっちゃい娘が好きなんです」
「そっちかい!」
 世話好きなのかと思わず納得しかけたまおは両手を突っ張って叫ぶ。
 ウィッシュはあっけらかんとした表情である。
 ヴィッツは相変わらずじろりとまおを睨んでいるのであるが。
「まお様ってば丁度良いんですよ、ボクの好みで。この位の娘は抱きやすいし撫でくり回すにも」
「待て待てぃ!だれもあんたの趣味なんかきーてなーいっ」
 ずびしっと右裏拳をウィッシュの胸元に、もとい鳩尾辺りに決める。
 寸止めで。
 いわゆる突っ込みという奴だ。
「では何を」
「なにをじゃない!こら、ヴィッツも知らぬ顔でかえるな!」
 既に半身さらして湯船からでようとしていた彼女に背中からどやしつける。
 ヴィッツは舌打ちして、まるで逆回しするように元の体勢に戻る。
「望姉さん、もっと巧くやって下さい」
 目を閉じて言う彼女に、ぺろりと舌を出してみせる。
「ごめんねぃ。魔力だけだったらまお様に絶対敵わないから」
 そう言って、一瞬和みかけた空気を。
「仕方ないよね」

  ぱきぃ

 その一言で凍り付かせる。
「っ、な」
 取りあえず素早く、大きく飛び退いてまおも身構える。
 魔術を行使するというのは、術を手順通りに執り行い、自らの魔力を必要最小限度投射しコントロールすることで魔法という効果を引き出す物。
 実体は魔力。そして魔力をコントロールするということ。
「だからまお様。――私達の目的のために、排除します」
「死なれては困りますが」
 ウィッシュの言葉をヴィッツが継いで、ゆるりと湯船からあがる。
 一度きょろきょろと見回して、とてとてと風呂場の端にあった手ぬぐいを身体に巻き付ける。
「……」
 脇と腰にちょっと大きめの結び目をつくって、わざと綺麗に整えてみる。
「あのー」
 胸を張ってみる。腰を横に動かしてみる。
「よし」
 即席の水着みたいな恰好である。尤も動き回れば関係ないだろうが。
 そこで二人の視線に気づいて、顔を上げて二人を見る。
「何を惚けた顔をしてるんですか」
「……いや、ヴィッツ……」
 さも当然と言う風に返してくる彼女に、ウィッシュも言葉を失っている。
 まおも呆れた顔というか。
 緊張感を殺がれた顔であんぐりと口を開けていた。
「な、何ですか、望姉さんまで」
 ちなみに念のために書いておこう。
 まおは魔力の量だけはばかげていて、簡単に喩えればトーキョーでかえっぐ一個分だとしよう。
 25mプール並のヴィッツに、健康ランドの温泉全てのウィッシュ。
 戦闘能力としてはヴィッツは最も少なく最弱である。
「あー、いやその」
 ぽりぽり。
 明後日の方向を向いて、ウィッシュは後頭部をかいた。
 まおも頭の上にくしゃくしゃの線を浮かべるとかくんとうなだれる。
「なんだか、いきなりどうでも良いような気がしちゃったよ」
「取りあえずあがろー。なんだかもういいや。部屋で話したって一緒じゃないの」
 草臥れた表情で疲れた声を出すウィッシュは投げやりに言うまおに顔を向けるとこくこく頷く。
「な、望姉さん」
「ヴィッツもいいからあがろか。風邪引くよ」
 とてとてとて。
「そう言えばここ、『サッポロ名物あいすくりーむ』とか売ってたよ」
「おいしそうですねぇ。そう言えば晩ご飯はなんでしょう?」
 からからから。
 ぱたん。
「あ、あのー」
 一人残されるヴィッツ。

  かぽーん

 そんな感じ。
「あう、えーと。……とりゃー」
 一応何かやっておかないと気が済まない彼女だった。
 いいから早くいけ。
 先に上がったまおとウィッシュは、既に脱衣所で着替えて彼女が上がってくるのを待っていた。
「ほらほら、これこれ。名物だからって、こんなところで売ってなくても良い気もするけど」
 四角い機械にでかでかと丸い書体で書かれた文字。
 自動あいすくりぃむ販売機だそうだ。
「まお様、ここはサッポロの端ですから」
 そう、外気温は結構高め。というか、サッポロ中心部に比べると暖かい程度だが。
 それでもジュース売りのおっちゃんのように、常時シャーベットを維持できるような寒さではない。
 結果、非常に手間ではあるがこのような機械を設置することになる。
「そだねー。まあこんな暖かいところで食べる冷たいアイスってのも結構ぜいたくよねー」
 買ってみようかな。
 そんな風に和んでいると、手ぬぐいをとった姿の(ようするにまっぱだかの)ヴィッツがあがってきた。
「ヴィッツ、早くしてよ」
「おそいぃ」
 二人揃って声を上げる始末。
 疲れた表情のヴィッツが、次の瞬間ぶち切れたとして誰が止められただろう。
 というかまあ。
 普通切れるわな。
「望姉さん!一体どっちの味方なの!」
 身体から湯気をもうもうとたてる彼女は、身体から滴る雫を振りまくように大声で叫び。
「んー。……」
「マジェスト様の言いつけだって」
 殆ど絶叫に近い声。
 よく見れば、彼女は湯気やお湯とは関係なく両目を潤ませている。
「私はっ」
「ヴィッツ。私は魔王の為の存在、誰の味方かと言われたら、魔王の味方で勇者が敵」
 彼女が黙り込むのを見てから、ウィッシュは続ける。
「少なくとも、あなたの味方をするとは限らないから」
 ふん、と鼻を鳴らすと、ヴィッツは目を丸くした。
「え……?」
「魔王陛下の御為に、あの二人を始末する。……勿論あなたを優先するけど」
 まおも目を丸くしてすぐに声を荒げようとして――ウィッシュは手で彼女を制して続ける。
「それにヴィッツ?その様子じゃ、少なくとも女の子の方はどうしようもないんじゃないの?」
 彼女の指摘に、ヴィッツは答えることも出来ずに声を詰まらせた。
 それを見てふふ、と笑う。
「じゃあ敵対するだけ無駄。いいつけをまもるって、そのためには和解した方が得策」
 そう言って彼女は笑うと腕を組んで、視線をまおに向ける。
 まおは何故かびくっと一歩退く。
「まお様」
「はは、はい」
 一応上司というか、魔王なんだが。
「まお様は。キリエさんとナオさんをどうするおつもりですか」
 それは重要な点だ。非常に重要だ。
 その回答如何によっては、ウィッシュに考えがある。
「私は……」
 まおだって遊びでここについてきたわけではない。
 かといって、目の前にいる二人――ウィッシュとヴィッツを排除しないことにもいかない。
「……護る。あんたらー、対勇者用魔物にとって喰われちゃ困るもん」
「とって喰うって、ああ」
 ちらっとヴィッツを見る。
 ぼんっと音を立てて顔をまっかにしてウィッシュをにらみ返す。
「あってるけど殺しはしませんよ。私達の任務は『始末』すること」
「それって殺すことぢゃん」
 ぶーっと口を尖らせるまおの言葉にウィッシュは続ける。
「ええ、後腐れなくするにはそれが一番かも知れません。でも、籠絡して手中にした方がいいんです」
 始末する。
 この壮大なゲームにおいて勝利条件は、勇者に殺される前に世界を征服すること。
 魔王が世界を征服するために邪魔な勇者は、殺された瞬間次の勇者の資格を持つものへと権利が移る。
 尤も、今のように勇者不在の空位状態も、或る程度の期間存在する事がある。
 それは勇者を拒否し続けたり、自覚がなかったりする場合だ。
 勇者は血筋でもなければ特殊能力でもない。
 その引継は、条件を満たした人間の意思による。
 現状がどうなのかまだ判らない。だから。
 もし今回ターゲットの二人が勇者で有れば。
 籠絡してしまえば、彼らが老いて朽ち果てるまでの間勇者は『魔王の敵ではなくなる』。
 が、殺してしまった場合には、次の勇者がすぐに決定してしまう虞がある。
 それは魔王にとって得策ではない。
 人類にとっては――
「邪魔者はいなくなりますから」
 ついと目を細めて。
 ウィッシュは彼女を見つめた。
「魔王の世界征服の支障になる障害――勇者を『留める』ことこそが、本当の意味での始末」
 まおはごくりと喉をならし、彼女の視線から逃れようと顔を背ける。
「最初に申し上げたとおり。キリエさんとナオさんは、私達二人の『もの』にします。殺す訳じゃありませんから」
 だから。
 どうする?
 言外に彼女は質問を、まおに与えた。
――だから?
 まおは彼女が笑っている事に気づいて、眉を寄せて困ったように口を噤んだ。
「邪魔だよ」
「?」
「私はあんたらが邪魔だって思う。嫌だ。はいそうですかって渡せるもんか」
 まおが眉を吊り上げてウィッシュにそう伝えると、彼女は不思議なことににっこりと笑みを浮かべて。
 まおが訝しがるより早く、声を立てて笑った。
「じゃあまお様?ボク達は敵同士じゃない。ライバル同士って訳です」
 そう言って手を差し出して――気がついて首を傾げた。
「ああ、でも、だったらキリエちゃんだけ別かぁ。……ボクは一抜けかな?」
 くすり。
 笑った。
 脱衣所での会話。
 それは本当にそれだけで終わった。
 帰るというまお。
 風に当たるというヴィッツ。
 二人を見送ってからウィッシュは牛乳を買って、一人で飲んだ。


「好きです!」
 ぶっちゃけて言ってしまえばそれだけの問題のはず。
 それ以上どう言葉をこねくり回したって間違いじゃないし。
「それだと直球過ぎる。いや、悪い訳じゃないがな」
 だが、彼女は素っ気なく言うと顎に指を当てた。
「じゃあどうしろと」
 ここはキリエとユーカの部屋。
 ユーカは椅子に座り足と腕を組んで、映画監督さながらキリエを見ている。
 キリエは、机をどけた簡易なステージで滑稽な寸劇を行っている。
「どうしろもなにも……。そうだな。それだけだと君の感情しか伝わらないな、キリエ」
 とんとんと腕を組んだまま右手の指で叩く仕草をするユーカ。
 そのままその右手を自分の右のこめかみへ運ぶ。
「どうしたいのか、身体で示すか言葉で示せ」
「どうしろっての!」
 顔を真っ赤にして叫んで、叫んでおきながらふらぁっと身体を揺らす。
「あー。安心しろキリエ、ナオも相当の奥手だ。それじゃ伝わるどころか『だから?』で終わる」
 安心して良いのか駄目なのか微妙なところだ。
 キリエは顔を真っ赤にしたままじとーっと睨んでいる。
「じゃあ」
 そのまま、はずかしげに顔を背けて、もじもじとしながらちらりとユーカを見る。
「こ、これからはおんなのことして見て」
 ぷ。
「あ、悪い」
「がーっっ!」
 切れた。
 いや、切れるだろう。
「どーしろってんだ!こら!巫山戯やがって!死ぬほど恥ずかしいんだぞおい!」
 ずかずかと歩み寄って掴みかかると、胸倉をぐいと引きつけて鼻先が触れるほど顔を寄せる。
 くすり。
 だが、勿論そのぐらいではこの女――ユーカは揺らぐどころか身じろぎすらしない。
 そのかわり。
「!」
 笑みに歪ませた口を開いて、すぐ側にあるキリエの口を吸う。
「まあこのぐらいはしないとな」
 今度は大げさに足音を立てて、一気に部屋のはしにまで下がると、腰を低く構えて怯えた貌で彼女を睨み付ける。
「こーこーこー、ざざざっ、ちっっちち」
「……壊れたラジオか?全く……」
「ユーカは極端なんだ!クガみたいな奴だったらどうとでもなるんだろうけど!」
 何気に酷い事を口走りながら、涙目で真っ赤な顔ををして腕を振り回す。
「もういいっ!」
「あー、キリエ?」
 どかどか。ばたん。
 勢いよく彼女は走り去ってしまった。
 部屋にユーカを放置して。
 彼女は無言で立ち上がり、机とイスを元通りに戻して、再び自分はイスに座り込む。
 ぺたりと。
「ちょっとからかいすぎたか?」
 呟いて水晶球に手を載せた。
 水晶球は、純度と結晶の成長方向によりその硬さと濁りが決まる。
 掌に乗る、テニスボールサイズのものは通常自然界で手に入るぎりぎりのサイズだ。
 全く濁りのない、結晶方向のそろったものは、だ。だから魔術師はこの手の宝石を手に入れることに腐心することがある。
 彼女が手を載せたのもそんな一つだ。だがそれは自然なものではないようだった。
 手を載せた時、急に純度や密度の高い物質に変わったように透き通ったように見えた。
 実態は判らない。が、ユーカはそれに少し眉を上げて、そのまま無言で腕を組む。
 そして、部屋を出た。

――全く全く全く全く全く全く全く全く全く全く全く全く全く全く全く全く全く全く全く全く
 扉をどうやって閉めたか覚えていない程彼女は興奮していた。
 どかどかと廊下を蹴飛ばすような勢いで、どこに向かっているかも理解していなかった。
「あら」
 だから、風呂に向かう廊下から顔を出したウィッシュに声を掛けられて、びっくりして足を止めた。
「どうしたの。そんな顔をして。喧嘩でもしてきたような顔だけど」
「何でもない」
 ぷいっと避けようとして、ウィッシュが彼女の前を遮ってそれを拒んだ。
 顔を上げると、にこりと笑った彼女がまだキリエの顔を見つめている。
「何でもないって、その様子じゃかなり興奮してるから落ち着いた方がいいよ。はい」
 そう言って懐から小瓶を差し出した。
 白い磁器の、親指ほどの小瓶に小さなコルクの蓋がねじ込んであるものだ。
 よく見れば、瓶にはいくらか文字も刻まれている――読める代物ではないが。
 多分魔術に関連する文字ではないだろうか。
「……これは」
「香水。蒼いバラから作った、きもちよくなるくすり」
「いや、それはいらない」
 ぷいと顔を背けた彼女に、慌ててウィッシュは弁解した。
「ああうん、危ないものじゃないよ。癖にならないし、香りを嗅ぐだけでも落ち着くから。ほら」
 そして目の前で彼女は蓋をとって、その手で払うように彼女の顔に香りを送る。
 鼻腔をくすぐる程度の軽い薫りと、脳髄に染み渡る冷たさのような感覚。
 言葉では説明しにくい、その薫りを感じた瞬間にすぅっと視界が消えて白く無くなるような。
――これは
 たった一呼吸をしただけだというのに、ただ感じただけだというのに。
 引きずられるように。これは――
「どう?」
 声を掛けられるまで。
 ウィッシュが覗き込んでいることまで判らなかった。
 判らなくなった――まるで、周囲を取り囲む光の壁でも現れたかのように。
「……」
 キリエの惚けた様子にウィッシュは笑みを浮かべる。
「気に入ってもらえたようだね。瓶毎あげる。きっと気に入ってくれると思ったよ」
 ウィッシュは嬉しそうに体を起こし、長い髪を揺らせて。
 何故かその仕草一つ一つまで、先刻までとは違うように思えて。
「え、いや、そんなの」
 おどおどと断ろうとするキリエの前にさらに瓶を突きつける。
「じゃ、あとで瓶だけ返してくれれば。簡単に作れちゃうから、気にしなくてもいいよ」
 言いながら彼女はキリエの両手をとって、それを無理矢理握らせるとぽん、と両肩を掌で叩く。
「頑張ってね♪」
 そしてキリエの側をすり抜けるようにして、彼女はキリエが歩いてきた方へと去っていった。
――……何を頑張るんだろう
 思わずそんなことを考えて、そして数回ぱちくりと瞬くと。
「……まずは、夕食かな」
 とりあえず部屋に戻ることにした。
 もうその時には、先刻までの興奮はなくなってしまっていた。
 その代わりユーカにどうやって声をかけようか、それを迷っていた。
――……迷っても仕方ないよなぁ
 完全に落ち着いた御陰か、吹っ切れていた。が、扉のノブにかけた手はなかなかまわろうとしなかったんだけど。
「ゆーか……あれ?」
 部屋はもぬけのからで少し肩すかしを食らってため息をついた。
 そのまま、ユーカの座っていたイスに腰掛けようとした。
「?」
 イスは半分ひかれている。
 机の上には水晶球が置かれている。
 水晶は、いつもより幾分か深く暗い色を湛えているようにも見える。
「……これは……」
 普段なら気にも留めないのだが、どうしてもその水晶球が見せる光が気になった。
――先刻はこんなに光ってたっけ?
 いや。気にならなかった。ということは光ってるか変化してるはずだ。
――まさか、ユーカはこれを見て
「ごはんだよっ」
 ばたーん、と思いっきり扉が開いて、元気のいい子供の声が聞こえた。
「ゆうごはんっ!……あれ、一人?」
 振り向くと、一人の小さな少女がいた。先刻も会ってる、泡の塊だった娘だ。
「あ、ああ、うん。すぐ戻ってくるよ。ご飯?」
「うん、一緒に行こう、って思って呼びに来たんだけど」
 名前は思い出せないと言うか、はっきり聞いてないというか。
――てき?
 認識だけは間違っていないようだった。
 しかしこうしてみればみるほど。
――……子供
 むねぺたん。
 ちんまい。
 どう見ても年下。
――……勝った
 何をどう比べたのか、少しだけ安心したキリエだった。
「……来るよね」
 思いっきり開いた扉に身体を預けて、両腕でまるで通せんぼするように覗き込んでいる彼女。
 上目遣いに――必然的に上目になるんだが――彼女を見つめる様子は、子供子供していて少し怯えているようにも見える。
「うん?どうしたの、すぐ行くよ」
 だから安心させるように笑って彼女の側まで近づくと肩を叩いた。
「そんな風にぶら下がってると通れないから」
 何となく、邪険にするには幼さが酷く目立ってしまいそれ以上は考えないことにした。
 取りあえずいい。
 キリエにとってのまおは、そんなスタンスに落ち着くことになった。


 水晶球に見えた揺らぎは、非常に特殊な物だった。
 怖ろしく澄んだ輝き。それは探している、周囲をも揺らがせるものではない。
 魔力だ。
 近くにある魔力に感応して、水晶が輝きを増したのだ。
 人間であれば魔術を行使した直後、魔法という効果が発生する際に生じる『魔法風』規模の魔力が静的に存在しているというのだ。
 有り得ない。
 もしくは人間以外の存在であるか。
 方向は判らないが、そんなに強烈に魔力を発散すれば生身でも感知できるに違いない。
 そう思って部屋を出て、取りあえず出口に向かってみることにした。
 魔物なら危険だが、きっと周囲にいる人間は騒いでいるから判る。
 そんな気軽さで歩いていると――
「おや」
 ばったりと、いかにも風呂上がりという浴衣姿のナオとミチノリがベンチに腰掛けていた。
「よっ」
「あーゆぅちゃんだぁ」
 相変わらずどこか抜けたような感じをほわんと醸しているミチノリ。
 よく見れば、片手に何かを持っている。
 泡が乗った樹のカップ。
「おい。いきなりエールか」
「えー。だって、ここって酒ホットがふつーなんだもん」
 そう言う問題ではない。
 ちなみにそれをジト目で眺めるナオ。
 見下している目で見つめるのがユーカ。
 嬉しそうにお代わりしているのがミチノリ。
「おかわりするな!」
「えー。だっておいしいんだもん」
 おいしいではない。
「ミチノリ」
 ぴたり。
 彼の腕の動きが止まり、逆回しにカップを元の位置へと戻そうとする。
「そうそう。今日はもうお酒は飲まないのだな」
「はぁい、みっちゃんはお酒をのみませぇん」
 ミチノリの顔色は、真っ青で血の気が引いていて、その声色も今にも消え入りそうなぐらい震えている。
――……よっぽど怖いんだろうなぁ
 殆ど暴走気味に行動する彼だが、ユーカの言葉には素直に従う。
 素直というよりも従順というべきだろうか。
「もうすぐ夕食だからな、夕食に一杯というなら判らないでもない」
「はぁい、判らぁないでもなぁいです」
 がたぶる。
「もう駄目だ」
「もうだめでぇす」
 よく見れば涙目で貌も蒼い。
「どうした?顔色が悪いな。病院にでも行くか」
「いいえたいちょうはぁわるくはぁないでぇす」
 完全に抑揚が無くなってきた。多分もう感情の方が麻痺してきたんだろうか。
 それを見てユーカは口元を歪める。
 彼女のような顔立ちだと、何の悪意がなくても何かを企んでいるようにも見えなくない。
「悪かったって」
 むぎゅ。
「ミチノリ、お前が悪いんだからな」
「……うん」
 恋人同士というよりは親子である。
 ナオが抱いた印象はそんな感じだった。
「それより魔法だ。どこかで魔術を行使したか、魔物が現れたはずだぞ」
 ミチノリを真後ろから抱きしめたまま、顔をナオに向けて言う。
「……何も感じなかったか?」
 え?と目を丸くして首を傾げる。
「いや?」
「みっちゃんもしらないー」
 ミチノリは魔術に敏感と言う方ではない。
 ナオはこれでも『触媒』だ、魔術に慣れているだけに感覚は判るはず。
「本当かよ。またあの変な占いか」
「変なというな。これでも歴とした技術だし、はっきりして居るんだ……が」
 こっちではないのかも知れない――と、彼女が思った時、風呂場の方向から足音が近づいてくる。
「あ」
 上気した顔が足音と共に顕れて、3人の目の前で停まる。
 そして大慌てでぺこりぺこりと頭を下げる。
「よ」
「うぃ」
 手を挙げて挨拶するナオに、奇妙な声で応える。
「まおちゃん。ああ、ちゃん付けもおかしいな」
 ぶんぶん。
「ええええ、いいですよーどんなよびかたしてもー」
 てれ。
 上気していた頬に朱が差して、顔全体が真っ赤になる。
「まお、お前、なんか変な奴見たりしたか?」
「変なでは通じないぞ」
「まおちゃぁん、まものぉがでたらしぃんだけどぉ、見なかったぁ?」
 どきり。
 一瞬焦ったまおだが、少なくとも正体はばれていないはずだ。
 ばれてれば態度も聞き方も違うだろう。
――いや、まさかウィッシュとかヴィッツあたりかっ
 結構真剣に考えた。
 でも応えなんかでるはずもない。
 つい先刻のお風呂場での話なのだから尚更だったりする。
「ああ、怖がらなくても大丈夫。この二人が居れば取りあえず怖くないからな」
 キリエが居ないから前線戦闘力に若干欠ける物の、ナオが居てミチノリの手というか手袋が有れば、彼女一人ぐらいどうとでもなる。
「え?ううん、うん、見てないみてない。しらないよ」
 内心冷や汗たらり。
 でも、彼女の動揺したような顔や怯えた感じは、逆に魔物が怖いものだと思われたようだった。
「盾になってやるんだな」
 にやにやと背中を叩かれて咽せるナオ。
「あのなぁっ」
「えー、だいじょぉぶだよぉ、ナオちゃんもみっちゃんが護ってあげるよぉ」
 にひ、と笑みを浮かべたままでぴとーっと体を寄せる。
 無論背中には、椅子を挟んでユーカを乗せたままだ。
 かなりものすごい光景である。
「も、もうへやかえるね!」
 どうにも耐えられなくなってまおは叫ぶと、ばたばたと自分の部屋へと急いだ。
 遅れてそこへウィッシュが姿を見せた。
 まだ全身から湯気を立てている。
「これはこれはみなさんお揃いで。何かありましたか?」
 空とぼけた様子で、ナオの向かい側に座る。
――キリエさんが居ない
 さっと視線を飛ばして三人を見比べると、そんな感慨を受けた。
「そうだ、ウィッシュなら判るだろう、先程強烈な魔力があった。魔物でなければ、魔術を誰かが行使したに違いないが」
 真剣な話をしているというのに、彼女はミチノリの頭越しに言う。
 そのぐらいなら気にならない――と言うよりも、事の発端である彼女にとって人間のマナーやルール、礼儀など考える余裕はないが。
――はっ、どうしようかな
 まさか先刻のがばれたとは思いたくなかったが、他に思いつかなかった。
「あちゃ、すみません。私ですよそれ。もしかして何かやってましたか、ご迷惑をおかけしました」
 え、といったユーカの顔に、少し照れ気味にウィッシュは言う。
「思わず魔法を使いそうになってしまったんですよ。ああ、結局何もしてないですから」
 半分本当で半分嘘。
「ちょっと見境なくなったもので……。大丈夫です、魔力を絞りましたが術を唱える事はなかったので」
「あ、……そう」
 案の定ユーカの反応は鈍く、別の意味で鋭い。
 人間を遙かに上回る静的魔力だと思っていたのだからますますである。
「しかし」
 術を行使しなかったならば、あれだけの魔力は指向性を伴わずに放出されたとするべきである。
「だったらとんでもない魔力を持ってるんだな」
 冷や汗を浮かべてユーカが言う。
――まだ疑われるより良い
「よく言われます。たまたま判っただけではないですか?私も無限に魔力がある訳ではないです」
 しかし彼女は首を傾げ、「そうだ」といって、ぽんと手を叩く。
「まお様とかヴィッツもいましたから、二人分加算でしょう?きっとそうですよ」
「んまぁ……それなら理解できなくもない、判る気もするが」
 まだユーカは納得していなかった。
 理解できるが腑に落ちない事があるのだ。あるから、納得しきれない。
 実際に確認したわけではないし、その結果手元にある訳ではない。
――疑うべきか
 しかし、既にやったと自白している人間がいて、今のところ平和で実害もなさそうだ。
 だから納得するしかない。
「でしょう。ああ見えてもまお様の魔力はずば抜けて凄いですから」
「……嘘だろ?」
 これはナオだ。
 何せ、最初に会った時はゴーレムだったので覚えていない。
 覚えているならばきっと信じていたというか、魔物だと思っただろうし一緒に旅することもなかったんだろうが。
「うふふ。続きは食事の時にでも。私この恰好じゃ風邪をひいてしまうので部屋に戻ります」
 ぺこりと頭を下げて、ひたひたと廊下の向こうへ消えていく。
 それを見送ると三人は顔を見合わせた。
「……ナオ。あいつらと知り合いなんだろう、アレは一体なんだ」
 もっともな質問だ。
 しかしナオが会った事があるのはまおだけだ。
 首を横にぶんぶんふると思いっきり否定する。
「知らね。つーか俺だってまおに会っただけで知らないよあんな連中は」
「でもぉ、みっちゃんはねぇ、あの人達がぁ悪いぃ人にはね、思えなぃんだぁ」
 険しい顔をしているユーカを見上げて言う。
 手を重ねて軽く叩いて。
「落ち着いてぇ。焦ったところで変わる事は何もないぃんだよぉ」
「お前は落ち着きすぎだがな」
 ぎゅ。
 ミチノリの頭を抱きしめて応え、体を離した。
「まあミチノリの言うことも確かだ。でも信用しない方がいいだろう」
「元々信頼していないだろ。ま、まおはあんな子供だし」
「それがぁ、止めた方がいいって言うんだよぉ」
 いつになく強い視線を向けて、ミチノリはナオの言葉にかぶせるように言った。
「先刻も言っていたがまおは魔力を相当量持っているということだしな。まあ、見た目通りではあるまい」
 じゃあ部屋に、と続けようとした所に、まおがぺたぺたとスリッパの音を立てて再び現れた。
「夕食、できたよー」
 宿の作りとしては結構ちゃちだが、廊下がぐるりと周囲を取り囲むような形をしていて、どこからでも何処へでも行ける。
 廊下には部屋が外向きに配置され、四隅に部屋が配置される極簡単な間取りだ。
 そして露天風呂を含め浴場はこの外側にあり、廊下で繋がっている。
 囲まれた内側にあたる部分に家族風呂がある。
「おう、もう飯か」
 ナオは応えると立ち上がり、まおの歩く方向へと向かう。
「キリエさんはもう先に行ったからー」
 とユーカに告げる。
「お、そうか」
 丁度ここから見れば、部屋は通り道にあたる。寄って呼んでから行けばいいんだが。
 どうやらまおは、来る途中で先に寄って行かせたらしい。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「うん」
 夕食は、階下にある食堂件酒場の、少し広い間取りになったところでとれる。
 階段は少ししゃれた作りにしており、上から覗き込むように食堂が眺められる。
 連れだって降りていくと、階下でキリエと合流できた。彼女は階段のすぐ下で立ち止まっていた。
「キリエ、何ぼーっとしてるんだよ」
 頭の上から声をかけられて、びっくりして顔を上げる。
 ナオ、ユーカとミチノリ、まおの姿を見てにたりと笑みを浮かべる。
「なんだよ、お前ら遅いぞ」
 そして、追いかけてくるようにウィッシュとヴィッツの姿が現れる。
「考えて見りゃそうだろ?お前が食いしん坊なだけだ」
 無言で眉を吊り上げるキリエ。
「ああん?」
「あーんじゃないって。ほら、どこか席取るぞー。結構人数あるから……」
 と言いながらテーブルを眺めると、四人がけばかりの円形テーブル。
 並べるにもつなぐ事もできない円卓だ。
「…………。二組に分かれようか」
 ユーカが言葉を継いで、それに頷くしかなかった。
 テーブルは部屋の隅の並んだ二つ。
「さて」
 と言うと、ナオの左右にぴとりとくっつく感触。
 まおと、ヴィッツ。
「あー」
 選択の余地なし。
 結果、ユーカとミチノリとウィッシュ、キリエとナオとまおとヴィッツという非常に修羅場な組み合わせで意見の一致を見た。
 いや。
 意見が収束したと言うべきだろう。
 悲しむべき事に。
 席に着いた途端に張りつめる空気。
「隣ぃ、酷いねぇ」
 あっさり言ってのけるミチノリと、笑ってスルーするユーカ。
「まずは夕食を注文しましょうか。すみませーん、ちゅーもーん」
 喧噪の中から返事が返り、とてとてと寄ってくる女給。
「はいはい、何にする?」
 メニューとお盆片手に、彼女は笑顔でウィッシュの方へ近づくが。
「……!」
 隣の緊迫した空気に思わず凍り付いて、笑みを何とか崩すことなく言葉を続ける。
「ご注文、おきまりですか?」
 いや、決まったから呼んだんだけど。
 思わずそんな突っ込みを入れたくなるような、マニュアルどおりの言葉だった。

  きーん

 言葉にするならそんな音。
「はは、な、何なんだよ一体」
 彼の左にまお。
 右にヴィッツ。
 真正面、真向かいにキリエの構図である。
「なんでもねぇよ」
 全然何でもある雰囲気で、ドスの利いた口調で言うキリエ。
「早く注文をなさってください」
 冷たく淡々と突き刺すような口調で言うヴィッツ。
「あははー。じゃあ私おむれつー」
 判ってるのか判ってないのかそれとも狙っているのか、流していくまお。
「肉あったかな」
「スペシャルリブステーキ二つ、ナオ、パンはクロワッサンかスライスかどっちがいい?!」
 ほとんど重ねるようにしてキリエが叫ぶ。
 いや、注文する。
「同じ物を」
 追い打ちをかけるようにヴィッツが顔をぎんっと向けるとそう告げる。
「かしこまりました」
 そして逃げるように、全ての注文を終えても居ないのにばたばたと女給は走り去っていく。
 相当いたたまれない何かがあったか、心にやましい物があるに違いない。
 セットのパンを覚えていないからクロワッサンにしてしまえとか、残り三人の注文は別の誰かにまかせようかとか。
「あー……もしかして私達の分は全部ステーキですか?」
 間抜けに声を上げるウィッシュに、ユーカはジト目で疲れたように言う。
「注文に呼ぶぞ。おーい、ウェイトレース」

 こちこちこちこち。
 言っておくが時計の音ではない。金属と木がぶつかり合って立てる独特の高音だ。
 硬質ではあるが、それでいて堅さを感じさせない柔らかい響きがある。
――神経質な音だな
 半分ぐらい現実逃避で、ナオはそう思ったりした。
 音を出しているのは――まおだ。
「ごはんまだかなー」
「まだです」
 その音にいらいらしているのか、やはり鋭く応えるヴィッツ。
「行儀悪いですから、食器でテーブルを叩かないでください」
「ああ、五月蠅ぇぞ」
「あなたもです」
 どうにも。
 この三人だとどうもすぐに争いが起きそうな気配だ。
 ナオもさすがに堪えているのか、冷や汗を垂らしながらようやく気づいたように言う。
「もう少し仲良くできないのか?お前ら……。飯を食うってのになにいがいがしてるんだよ」
 間が悪すぎた。
 何より宣戦布告したまおとヴィッツとキリエだ。
 一同に介して、目の前にナオが居るならまず敵意むき出し。
 まおとキリエはそれなりに――風呂の時に直接対決しているわけでもないし――緊張感はないが。
「そ、そうだぞお前ら、もう少し女らしくだな」
「それは他人に言えた義理では御座いませんでしょ」
 む。
 さすがにまおもキリエも目をつり上げた。
「あのなぁ」
 しかし彼女達に出番はなかった。
 見るに見かねたナオの登場である。
 というのんか、でるの遅すぎ。
「二度言わねぇぞこら。し・ず・か・に・な・か・よ・く、だ!」
 びしぃ。
 びくぅ。
 ナオが突きだした人差し指が、ヴィッツの眉間を差して。
 彼女は驚いて仰け反って。
「し、しずかになかよく」
 思わず棒読みで、一応繰り返してみたりする。
 そしてじわりと目に涙を浮かべる。
「…………」
 黙り込んでうつむき、思いっきり小さくなってしまう。
 ナオは言った手前引っ込めないし、ふん、と鼻を鳴らして座り込むが、回りの二人は逆に可愛そうになってしまう。
 どうしていいものか、戸惑いながら――結果、目をナオに向ける。
 じとー。
「なんだよ」
 取りあえず責めるべき対象が見つかった御陰で安心する二人。
 じとー。
「っ、ひっく」
 しかも間の悪いことにヴィッツがしゃくりあげ始める。
 じとー。
「ナオ、女の子泣かすのはよくないよ」
 とキリエ。
「ちょっと酷すぎたかもね」
 とはまお。
「おーまえらなぁ……一体誰の味方なんだよ」
 つい先刻まで一触即発の空気だった癖に。
 と思ったが、ナオもそれ以上言わなかった。
――意外と仲良いのかこいつら
 そうかも知れない。
「え、だって泣いてる女の子には味方が必要なんだよ」
 本当か嘘か判らない様なことを言うまお。
「ねぇまおちゃん。確かにヴィッツはちょっとつんけんしすぎてる気がするけどさぁ」
「キリエ、お前もか」
 ヴィッツは――多分、聞こえてる――肩をふるふると震わせて、目に大粒の涙を浮かべ始める。
 その涙の粒はもう大変。
 ぷうと大きくなって、顔がくしゃりと歪んで。
――ああ、やばい
 がたんと椅子を蹴ってウィッシュが立ち上がり、慌ててヴィッツを真後ろから羽交い締め……もとい、抱きあげてぺこりと頭を下げる。
「ちょっと落ち着かせてきますー」
 と、返事を待たずにどたどたと彼女を抱えたまま食堂をでていった。
「……うーん」
 後味の悪い沈黙に、思わずナオは唸って。
「悪いことしたなぁ」
「ちょっと、私もいってくるよ」
 ぴょんと椅子から飛び降りて、まおは彼女達の後を追った。
「騒がしいというか何というか……ナオ、お前女の子の扱い方間違ってるぞ」
「というよりあれは完全に子供だろうが……。俺は子供は苦手なんだよ」
 たはー、とため息を付くと大きく背もたれに体重を預けて、後頭部をがりがりとかいた。
「どうしてこうなるのかな。全く。ユーカ、魔術師ってこんな子供ばっかりで大丈夫なのか?」
「ウィッシュを除けばらしくない連中だと、私も思うぞ。……二人とも、いいか?」
 少し考え込む風に頷くと、彼女は二人を手招きする。
 ちらりと入口を気にしながらも、ナオは彼女の側まで行って、先刻まで誰も座っていない席に着く。
「これは私のあくまでも推論だが」
 キリエはその向かい、ウィッシュが座っていた席につく。
「もしかすると、あのウィッシュというのは魔術師なのではないかと思う」
「そうだな、一番らしいが……いや、まおはだったらどうなんだ」
 うむ。
 ユーカは頷いて腕を組み、右手の人差し指を立てる。
「彼女は実際に魔術師ではないだろう。ヴィッツはウィッシュを追いかけてきたらしいから、まあ魔術師だとしても低位なのは間違いない」
 どういう関係かは判らないが、と付け加えると腕を解いてコップの水を手に取る。
「ではまおはどうか。最初もいきなり二人の前に現れて割り込んできたから、それにどんな意図があったか判らないが――あ、食後のコーヒーを今くれないか?」
 水に口を付けようとして、目に入った側を通る女給に声をかけた。
「う……ごほん」
 二人の視線に、思わず咳払いをして続ける。
「まあそのなんだ。なにか訳有りなお嬢様なんだろうと私は思うぞ」
 そう言って、ちらりとナオに目を向ける。
 キリエの顔がぴくりと反応し、ナオも嫌そうに眉根を寄せてユーカをにらみ返す。
「そうかも知れないけどな……だからなんだよ」
「彼女達の狙いは、ナオ、お前の可能性があるって事だよ」
 ユーカの言葉にキリエとナオの二人が引く。
「初めからお前を狙って近づいてきたってことだ。……なにか身に覚えはないか」
「狙ってって、ユーカ!」
 キリエが激昂すると、彼女は頷いて口元に笑みを湛える。
「ああ、お前の想像してるとおり、命じゃないな」
「そうぞっ」
 ぼん。
 一気に顔を赤くしてそのまま黙り込む。
 くすくす笑って聞き流すと、再び――気づいていないナオに声をかける。
「一度他に何処かであったとか、誰かを助けたとか、誰かに名前を聞かれたとか」
「いや、確かに家族風呂で姉ちゃんと入った時に会っ……」
 すぐ自分で自分の口を塞いだが、遅い。
 何となく言葉にしがたい雰囲気というか。
 そう、文字で現すと『ごごごごごごごご』という雰囲気だ。
「そのだーっ、俺は何にもしてないぞっ!というか俺だって無理矢理姉ちゃんに風呂に入れられてだなっ」
 ユーカはあきれ顔で彼を見ると肩をすくめて言う。
「お前どつぼ過ぎだ。女の子の扱い方以前に、気を付けた方がいいな」
「だーっ」
 ナオが力一杯否定して力一杯キリエに振り返ると。
 修羅の形相のキリエがいた。
「……ナオ」
「きー、キリエ、なな、何がどうしたんだ、どうしてそんなに怒ってるんだ」
「怒っていない。……席に戻ろう、ナオ」
 淡々と言うとくるりと背を向けて、自分の席に戻る。
 馬鹿みたいに唖然としていると、彼女の眉がつり上がって催促してくる。
 慌ててばたばたと席に戻り、ミチノリはそれを見ながら呟いた。
「尻にぃ敷かぁれそうぅ」
「だな」
 くすくすと笑うミチノリとは対照的に、ユーカは浮かない顔をしていた。
――偶然ではないと思っていたが
 この道中。
 得体の知れない不安から、目に見えて何か事件に巻き込まれそうになってきた。
 ユーカは二人の様子を見ながら大きくため息を付いた。

 少し時間を遡って。
 ヴィッツを連れ出したウィッシュは、入口で付近にヒトが居ない事を確認して彼女の両肩をつかんで向かい合う。
「しっかりしなさい」
 既にヴィッツは顔はぐしゃぐしゃで、肩を震わせてしゃくりあげていた。
「あーん……」
 ウィッシュは困ってうなり声を上げる。
 ヴィッツは、彼女とは違いかなり情緒不安定である。
 そもそも安定性に欠けるところはあったが、以前――丁度ナオを襲った時からおかしい。
「この作戦を決行しようとしたのもおかしな話だったけどさ。ヴィッツあんた」
 しゃくりながら彼女を見上げる。
「……何ですか、望姉」
 目は真っ赤。でも目尻を吊り上げてやっぱり強気。
 それを見るとウィッシュは頭の上にくしゃくしゃの線を飛ばしてどうでもいいような気分になった。
「あー、いいやもう。別にどうでも」
 そう言ってぽんぽんと頭に手を乗せて、ぐりぐりと撫でる。
「あんたのそう言うところ、きっと可愛いと思うんだけどね」
 少なくとも自分はそう思う。
 全然話の内容が逸れてる気がするが、彼女は取りあえずヴィッツが機嫌を直してくれる方が先だと思ってそう言った。
 少し強めでも乱暴に感じない程度にぐりぐりと頭を撫でられて、ヴィッツは猫が目を細めるように気持ちよさそうな顔で。
 ぐりぐり。
 目尻に涙のあとがあるが、それも気にせずに気持ちよさそうに頭を揺らす。
「……を、まお様」
 そこにとことことまおが近づいてきた。
「どしたの。だいじょぶ?」
「まお様に心配されるような事はありません」
 と答えながら、ぷいと顔を背ける。
 まおもぷっと頬を膨らませるが、それ以上何も言わずに代わりにウィッシュに目を向ける。
 ウィッシュは苦笑いを浮かべてぺこりと頭を下げて、そしてぎゅっとヴィッツを抱きしめながら言う。
「怒らないでくださいね、まお様。もう、この娘ったらちょっと恥ずかしがっちゃって」
 むぎゅむぎゅ。
 もがくヴィッツ。
 勿論腕をゆるめたりしない。
「大丈夫です。すぐ席に戻りますよ。ね、ヴィッツ」
「むぐむぐむぐぐぐっ、ぷはっ」
 やっと腕が緩んで、大慌てで彼女から体を引き剥がして大きく呼吸する。
 耳まで真っ赤なままで、肩を大きく上下させてきっとまおの方を睨み付ける。
「望姉の言うとおりです、まお様は戻ってください。すぐ追います」
「ほら、言うとおりだって。恥ずかしがり屋だからちょっと先言ってくれませんか」
「望姉!そっちじゃありません!」
 思いっきり叫ぶヴィッツをくすくす笑いながら、まおにウィンクをして。
「もう少し落ち着かせます。ホント、先行ってください」
「んーあー。そう?……判った」
 まおは少しむくれた顔のままで、むーと口を尖らせるとくるりと踵を返す。
 妙に人が良い――まあ、魔王で彼女達は部下だが――まおは複雑な貌で首をかしげながら引き返していく。
 取りあえずヴィッツは何ともないらしい。
 今席に戻れば、キリエはいるがナオの隣でゆっくり話せる。
 でもどうにもヴィッツが気になる。
 別に、ヴィッツがどうだろうといいはずなのに。
 あの様子では勿論何かを企んでいるようには見えないし。
――んー、もーかえろーかなぁ
 ウィッシュにヴィッツだったら、キリエとか他の人間もいる中では何にも出来そうにない。
 この様子ならついていくだけ無駄かも知れない。
 そもそも、この二人、ナオを殺す気はないようだし。
 食堂の入口をくぐったのはそこまで思考した時のことだった。
 丁度、ナオとキリエが机を挟んで嫌な緊張と沈黙の中にあった。
 入口から見ても、気まずそうな雰囲気が漂っている。
――うーわぁ
 やばい。
 というよりも、あのキリエという女も、いや女に見えなかったが。
 あからさまにナオを狙ってる雰囲気である。
 今頃気づいたわけであるが。
――こういう修羅場は、私あんまり好きじゃないしなぁ
 とてとてと近づきながら二人を見比べて、小さくため息をついた。
「ただいまぁ。もうすぐ戻ってくるよ」
 とてん、と席についてナオに言い、キリエをちらりと見る。
 キリエは目をつぶって聞いてない振りをする。
「そっか。まおは……あ、まおはオムレツだったよな」
「え?うん。私は卵料理好きなんだよ」
「いや、ウェイトレスがパンを聞きに来たから……っと」
 かたん、と音を立ててヴィッツが戻ってきた。
「ヴィッツ、先刻はごめん。ちょっと言い過ぎた」
 取りあえず真っ先に謝る。
 椅子に座ろうとしていた彼女は目を丸くしてナオの方を見て。
 一瞬固まって、座ろうとした体勢のままで慌てて頭を下げて。

  ごちん

 激しい音がした。
「あちゃぁ」
 痛そうだった。
 いや訂正する。相当痛いようだ。
 一瞬そのままで硬直して、顔を上げると額が真っ赤で。
「……。いいえすみません。私も今度から気を付けます」
 でも何事もなかったかのように答えて、目尻に涙を浮かべる。
 取りあえず。
「で。ウェイトレスが、セットメニューのパンを聞いてきたからクロワッサンにしておいたから」
 みんな一緒で良いでしょ、とキリエが言う。
 ヴィッツは特に反対せずそのまま頷いた。
 ほどなくして。
「お待たせしました、特製オムレツでございます」
「あ、はいはーい♪」
 ごとん、と軽い音を立てて卓に置かれるのは、大皿の上に乗った大きな卵の塊。
 黄色い綺麗な単色のラグビーボールサイズの卵の上に、これでもかという縦横無尽に走るケチャップのライン。
 白い粉チーズに、パセリの緑が彩りを添えている。
 ちなみに小皿にクロワッサンが二つ、バターと一緒に並んでいた。
「じゃ」
 きょろきょろと左右を見回す。
 憮然としたキリエに、苦笑しているナオ。
 ちょっと怯えたような貌のヴィッツ。
 彼女は――多分、羨ましいのかも知れない――まおではなくオムレツをじぃっと見つめている。
「お先にいただきます」
「いいよ、冷めたらまずいからな」
 ナオの言葉ににこっと笑って、ナイフとフォークを嬉しそうに取り上げて。
「いっただきまーす♪」
「あれ?お前左利きだったのか?」
 え?
 まおは目を丸くして自分で握ったナイフとフォークを見比べる。
 右手にフォーク。左手にナイフ。しかも裏表逆。
「えーと」
 言われて気づいて、一応左右を取り替えてみる。
 でも刃先が手前のナイフと、腹が見えたフォークはどうしようもない。
「いやあの。あはははは」
「まお様はこういう食べ方をされたことがありませんので」
 と言うとすとふところからヴィッツが差し出したのは。
 『おてもと』である。
「さあどうぞまお様」
 まだ両手でナイフとフォークを構えたまま、こまった顔でヴィッツと睨み合いをする。
 うけとる。
 ぱきり。
「ちょ、まお、お前それはないぞ」
 二つに割った割り箸を、一本づつ両手で持って構えてみる。
「……じょうだん、じょーだん」
 たらりと冷や汗を浮かべながら箸を右手に持ち替えてみるが、勿論使い方は判らない。
――こんな二本の棒でどうやって食べるんだろう
 そもそも彼女の食事は、ソフトなチーズケーキ味版権やばしな四角いビスケットもどきだけである。
 食器の使い方は、実は全然知らなかったりする。
 じりじりと迷っているうちに、女給がリブステーキセットを持って現れる。
――や、やた、てんのたすけか!
「いっただきまーす」
 だがリブステーキは骨付きで。
 ナオは骨をつまんでかぶりついた。
「こらナオ、お前行儀悪いぞ」
 と言うキリエも、フォークでぶっすりとステーキを刺してかじりついた。
 どっちもどっちである。
 ともかく、まおの参考には全くならなかったのは言うまでもない。


 まお。
 目の前にあるのは、いつもの執務机。
 黒檀で出来た美しい調度品に囲まれた執務室――とはいえ。
 そこは、一度勇者によって汚された場所。
 実はこの机にしても、魔王の血で染まり一時期は使えないものかと思っていた。
 だが今は見てのとおり、彼女がぺたりと寝ころぶ位には使えるようだ。
「ではございませんぞ魔王陛下」
「うきゃっ」
 ぺたりとねころんでいたまおは、跳ね上がって両手を振り回す。
 真後ろに現れたマジェストは、彼女のその様子に眼鏡をくいと押し上げる。
「よろしいですか魔王陛下。ここはそのように遊ぶ場所では御座いません」
「……じゃ、何だっていうの」
「お仕事をなさる場所で御座います。よろしいですか?陛下はここで書類業務を行わなければなりません」
 いつの間にか彼は両手一杯に書類を抱えており。
 どん。
 跳ね起きて涙目のまおに容赦なくそれを突きつける。
 ますます怯えるようにして、仰け反るまお。
「え゛ーっ」
「さあさあ。これが終わらないと軍団が動きませんぞ!」
 かたかたかた。
 小刻みに震えて、涙目で訴えると大きくしゃくり上げる。
「でも、でもでも」
「でもでは御座いません。魔王の世界征服のため、そにょ1でございます」
 まおはむくれてぷいっと顔を背ける。
 口を尖らせて。
「まおう、って私じゃないの」
「はい、陛下は魔王で御座います、魔王陛下。しかし、魔王は世界を征服しなければいけないのです」
 まったく。
 言外に呆れたと言わんばかりのため息を隠して続ける。
「陛下。まさか、陛下は世界を征服するのが、い・や・だ、とか、おっしゃるおつもりでございますか」
 高圧的かつ決定的に、マジェストがずいと迫る。
 ちなみに眼鏡が光っている。
 貌は伺い知れない。実は笑っているが。
「えー。めんどくさい」
 くい。
 眼鏡を中指で押し上げて、おせっきょうもーどをおんにする。
「へ・い・か?」
 そして、眼鏡の隙間からその鋭い目をちらりと見せてまおを見下ろす。
 びくっ。
「ごめんなさい」
 いかに魔王といえど、お説教は苦手なようだった。
 これはこれで、もう何年前になるんだろうか。
 マジェストの頬を涙が伝う。
「わー」
 いつのまにかシーンが変わっている。
 まおが野原を駆け回っている。
 いや、ここは野原ではない。
 一つの街だったところだ。
 先程のシーンよりさらに戻っているようだ。まだまおが、生まれて間もない頃の話だろう。
 よく見れば、まおはさらに一回り小さく見えるし、何より振り回している魔力が今の数倍ではすまない。
 そのせいで魔力がDMA(だいれくと・まぎっく・あくせす)チャネルを介して彼女の思考を一気に現実化させ、人間の手に負えない状況を作っている。
 DMAチャネルというのは、脳を介することで遅れる現象を少しでも早く発現させるために考案された『式』だ。
 その性能故に魔王ぐらいしか使いこなせないのだが。
『えーい』
 それだけに殆ど局地災害の勢いでまおは暴れていた。
 勿論止めに入ったマジェストもただではすまない。
「ああ、あの頃は凄かったですよ、陛下。私なんかものともせずに突っ走っておりました」
 実際幾つの街を滅ぼしただろうか。
 あの災厄とも言うべき事実は、人間の歴史の中では『激動の七日間』と言う名前で知られているばかりだ。
 だがその七日は、ある事実を境に一気に収束してしまう。
 それは、マジェストがまおによって大けがをしてさえいなければ防げたであろう事故。
 まおが暴走しているのは、その事件により停まったが、それ以来まおはコンプレックスを持ってしまった。
「うう、おいたわしや陛下。あれ以来まともに魔力を振るう機会をお失いになられた」
 と言いながら今度は彼の右手は四角いものに伸びていた。
 小さなボタンが幾つか並ぶそれを左手に乗せると、右手でぽちぽちボタンを叩く。
 すると今まで見えていた画像がきゅるきゅるとノイズ混じりに回り始める。

  こん こん

「まじぇすと様ぁ、何をっ……」
 執務室の扉をノックして現れたのは、シエンタだった。
 執務室は真っ暗になっており、まおが座っているはずの執務机の向こう側にまおの姿が映し出されている。
 執務机には映写機が置かれており、反対側に並べられたソファの一つにマジェストが腰掛けて両目から涙を流していた。
「何をなさっているのですか」
 さすがに呆れた口調でシエンタは言うと大きくため息をつく。
「何?何だと?!」
 がたん。
 何を興奮しているのか、マジェストは大げさに立ち上がり周囲のソファを蹴散らす。
「魔王陛下との思い出をこうして上映会しているというのに、それを何だと?!」
「私は別にそう言う意味で言った訳ではないです。まじぇすと様、アクセラから報告です」
 シエンタがズボンのポケットから小さな紙切れを出すと、彼はえーと、と言いながら報告する。
「ワレ モクヒョウ ハッケンデキズ シキュウ キトウキョカモトム」
「だめだ」
 即答。
 どうやら駄目らしい。
「陛下を見つけるまでかえってくるな!魔王陛下を連れて帰ってこない場合には処刑する!」
「まじぇすと様、暴走しすぎです」
 シエンタは、両目からだくだくと滂沱と雨霰のように涙をまき散らす彼に、あきれ顔で言う。
「全く……。まお様の事になると目が眩むというか」
 両手を握りしめて天を仰いで泣きはらす彼の姿は、とてもいつもの魔王軍軍団参謀とは思えない。
 これではまるでどこかのマニアかオタクか走り屋の友人である。
「何ですと!私のこの忠義!何が悪くてどこがおかしい!」
「あー。いえ、別におかしくは御座いません、まじぇすと様」
 ただ大人げないというか。
 その言葉は飲み込んで頭を下げて、するすると執務室から退場する。
「くぅーっ!まおーへーかーぁっ!」
 と泣き叫びながら再び幼い頃のまおのビデオ鑑賞を始めるマジェスト。
 というか、何処でどう撮っていたのか判らないようなアングルもあったりする。
 その辺はまあ、マジェストだからして。
 まおが居なくなったのが判明したのは、執務室のチーズケーキが腐ってしまってからだ。
 まおがあんな性格だけに居なくなってしまうのも多々或る話で、マジェストも気にしていなかった。
 いや、盲目に信じていたとも言える。今回はそれを見事に裏切られたようなものか。
 だからではないが。
 まず真っ先にケーキが腐った事を悲しむと、彼はその処分を掃除の鉄人に任せて即座に全幹部を招集した。
 『まおを探せ』、である。
 少なくとも城内で迷っていない事だけは判ったが、まだ姿を確認していない。
 いちだいじ、である。
 こんな事はマジェストが魔王に仕えてこのかた、少なくとも一度もない。
――マジェスト、生涯の不覚
 少なくとも魔王が殺されたとしても、彼は死なない。
 何度か、魔王の代わりに殺されたこともあった。
 でもその時でも、魔王より早く魔王軍を再生した。
 そして、常に魔王の側にあり魔王を、魔王の道へと導く為の手ほどきを続けてきたのだ。
「こんなところで、こんなところで魔王陛下を失う訳にはいきませんぞ!!」
 右手の拳を握って、自分の肩の高さでぷるぷると震わせて。
 どちらかというと画面に見入って感動しているというか。
 ふきだしを付けて「もえー」とか描くと似合うというか。
 もっとまじめにやれ。


 どたばたの食事を終えて、取りあえず食堂から引き上げる一行。
「あ。先、帰ってて」
 何か思いついたのか、まおはそう言い残すと部屋とは反対方向へと歩いていく。
「あれ、まお様、何か御用事ですかー」
 ウィッシュが声をかけると、貌だけ向けて手を振る。
「……。ま、いっか」
 ちらりとウィッシュの方を見上げるヴィッツの頭を撫でると、逆に彼女を促して部屋へと向かう。
「じゃあおやすみだな」
 こっちはこっちで。
 そう言うユーカは右腕にミチノリをぶら下げている。
 いや、もとい。
 ミチノリが絡んでいるというべきか。
「お前なぁ」
「んー、だいじょぶだいじょぶぅ。ちょこーぉっと向こうではなししてくるだけだからぁ」
 と言って、明後日の方向を指さす。
 ユーカの表情に揺らぎがない、というか、彼女は何をやる時も平静なので感情をつかみづらいところはあるが。
「少しは夫婦の時間をくれ」
「……そりゃ」
 とは言う物の、四六時中べったりの気もする。
 もう一つ付け加えると、やっぱり夫婦に見えないんだが。
「好きにしてくれ」
 行くぞ、と言い残し、左手を挙げて去っていくユーカ。
 廊下の向こう側に消えようとするウィッシュ達。
 既にいないまお。
「あーあ。あいつらいつもあーなのかなぁ」
「そうなんじゃないか」
 はからずも二人きりである。
 キリエにとってはチャンスとも言うべきなのであるが。
「なぁ。お前、このぐらいの時間っていつも何してる」
 振り返り、キリエに言うナオ。
「えあっあー、あ。うん、その」
 驚いたのを誤魔化して考え込む振りをする。
――この時間に何やってるかって?
 大抵訓練を終えて夕食が終わると、風呂にはいってから部屋で読書だ。
 意外であるが彼女は文学少女なのだった。
「そうだな。結構勉強してる方だと思う」
 これも事実である。
 彼女達が属する対魔軍は、昇進試験があり試験の成績如何でどんどん上に上がる。
 毎回トップで満点なら勿論昇進も早く、逆に試験を受からなければ永遠に一兵卒である。
「ふーん。…」
 ナオはこの時間であれば大抵隣の奴か友人を誘って遊んでいる様な時間だ。
 しかもここは温泉である。
 彼の脳裏に浮かんだものといえば、アレだ。
 キリエは、急に視線を逸らせて沈黙するナオに、こっちはこっちでどう反応が来るのかどきどきものだった。
――な、何か変なこと言ったかな
 外観とやってることは男と変わらないと言っても、中身はおんなのこ。
 でもそこまでナオも気づいていないというか一生気づくことはないだろうが。
「ぴんぽんは判る?」
「え?」
「ほら、このぐらいのラケットでこのぐらいの軽い弾を打つ奴」
 と、ラケットを持って素振りする真似をする。
「見たことぐらい。やったことはない」
「ロビーに有ると思うんだけど。時間つぶしにやらねぇ?」
 いつも通りに笑うナオに、半分ため息をつきながら、口元を歪めてにやりと笑みを見せる。
「勝負か?何か賭けるか?」
 それでもここは、何かが変わるより良いような気がして、いつもと同じ方が良いと思って、ナオの背中を叩きながらロビーへと向かった。

 夜穹。
 サッポロの夜の空気は、肌を切り裂く程冷たい。
 こうやって見上げていると、空で瞬く星の一つ一つが嫌になる程、隅々まで行き渡っているのが判る。
 でも、それすら無駄なことのようには思えない。
 まおはテラスに体を預けるようにして、ぼぉっと惚けた顔で空を見上げていた。
 魔城から見上げる空とは大きな違いだ。
 時々、マジェストに連れられるようにして魔城最上階、俯瞰の間において臨める夜穹は、お世辞にも星穹とは言えなかった。
 回りの岩山に囲まれた、ある種プラネタリウムのような景観だ。
 それに比べればここは何もない。
 側には誰もいない。
 急に世界で自分一人だけが穹を見上げて、その他全てが闇の中に沈んでいるような錯覚を覚えてぶるっと体を震わせる。
「世界……」
 そして、今度は下を見下ろす。
 ここは高い場所ではない。
 俯瞰の間で見下ろすのは、魔城城下にある人間の町並み。
 小さくて、まるでゴミ粒のように人間が動いているのが見えた。
 数百年前に、トーキョーを壊滅に導いた時のこと。
 あの日だって、人間はゴミよりもゴミだった。

  お待ち下さい陛下っっっ

 ぶんぶん。
 マジェストの声が聞こえたような気がして彼女は頭を振る。
 あれ以来、勇者は姿を現していない。
 百年以上空位というのは珍しい事らしい。
 これは、既にウィッシュの封印が二百年を越えていた所からマジェストが算出した時間であり、ほぼ間違いない。
――世界を征服しなければいけないなんて
 それが魔王の存在意義だと。
 そう言う風に設定されているものなのだと。
 何度も聞かされた。
 何度も聞いてきた。
 実際、幾つかの街も滅ぼしてきたけど、それは違うのだそうだ。
 魔王は魔城の中で魔軍を動かして、人間を脅かし続けなければならない。
 勇者という人間の手駒が、それを阻止できれば人間の勝ち。
 勇者にはその褒美が与えられる。
「じゃあ、私はなんなの」
 この壮大なゲームは、人間を何万と殺戮しながら繰り広げられる。
 まおは手をテラスから差し出すように伸ばし、思いっきり伸びをするように指を大きく開く。
 その間から見える建物は、人間の町並みだ。
 彼女がその指に力を入れれば一瞬で消し飛ぶ砂の城だ。
 目をぎゅっと閉じて。
 そして力無く腕をだらんと降ろす。
 強大な魔力を持って、世界を征服するために様々な陰謀を巡らせる。
 魔軍を用いて人間と言う人間を平らげる。
 でも、そんな事をして何になるのか。
 『魔王』が成し遂げたいのは、本当は何なのか。
「……」
 始まりは勇者を、一刀のもとに斬り殺した事だった。
 寿命がない彼女にとって、それからの年月というのは長いようで非常に短かった。
 何をしていたのか――まあ、魔王は勤勉ではないのだから。
 あっちを攻めては休み、こっちを滅ぼしては休みしていて、まるで人間の回復を待ち続けるようにだらだらしていただけだ。
 なぜ。
 だが彼女自身、その理由は判らない。
――こうやって、人間の側で見てても思うんだよね
 くるん、と体を返して宿の方を眺める。
 宿は木で出来た簡素な作りをレンガで固めるという構造をしていて、密閉された中空が断熱効果をもたらす。
 よく考えられた作りだ。
 暖炉が中央ではなく、建物の四方にある塔の様に設えた部分に備わっていて、客室は中庭側に存在する。
 中央中庭は吹き抜けだが、この構造の御陰でそのままでもかなり暖かく過ごせる仕組みだ。
 人間はこういう物を、経験の積み重ねだけで造り上げていく。
 大自然という驚異をものともせずに。
 世界を大きく作り替えていく。
 自らを変えてしまう。
――私の居場所がここにはない
 人間の社会には変化がある。
 魔王の世界には変化はない。
 人間の寿命は短い。
 魔王の寿命はない。
 小さくため息をついて項垂れる。
「何しに来たんだろー」
 殆ど本能的に何も考えずに城を飛び出してきた訳だが、一度城を出てしまえばまおは何も出来ないような気になってしまった。
 まるでただの迷い子。
 そうなのかも知れない。
 ただ勇者のためだけに存在しなければならないのかも知れない。
 まおは大きくため息をついて、テラスから体をひきはがした。
「いーや、ねよねよ♪」
 がらがらがら、と窓を開けてロビーに入ると、聞き慣れないテンポのいい音がロビーに響き渡っていた。
 ふと見ると、卓球台で、ナオとキリエが目を血走らせてラケットを振り回していた。
「ふっ」
「はっ」

  ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽん

 その速度は、先刻までやってなかったとか言っていた初心者のスピードではなく。
「負けるかぁぁぁぁぁっっ」
 かつん、と僅か高く跳ね上がったピンポン玉に、体を仰け反らせて。
「きやがれぇぇぇえええ!」
 すまっしゅ。
 かきーん、と甲高い音を立てて、ナオの放ったスマッシュがキリエのすぐ側を弾けて。
「いいいいゃっしゃーっっっっ!」
「いや、まだだっ!まだ俺の方が2勝多いぞ!」
「バカ野郎、アレが勝ちだと?俺が今ので勝ち越しだっ!キリエ、いい加減に諦めろっ!」
 まおの目の前で繰り広げられる、子供の喧嘩というか。
 唖然として二人を見つめるまお。
――…………。たのしそーだなぁ
 というか。
 何故艶っぽい話にならないお前ら。
 呆れ顔のまおに最初に気づいたのは、というか気付けよ、振り返ったナオだった。
 何故キリエが気づかなかったかというと。
 それはナオに神経が全て向いていたからに他ならないのであって。
「お」
 という彼の態度に、初めて彼女がその小さな存在に気がついたと言う事を責めてはいけないだろう。
「まおじゃん。あれ、もしかしてそこのテラスにいたのか?」
「あー。うん。寝る前に夜穹をみたかったんだー。こっちの方って、ほら、そらがきれいでしょ」
 にこ。
 体全体でゼスチャーしながら、まるで全身で感情を表しているように話す。
「丁度いいや、まおもやってみるか?」
 といって彼は手にしたラケットを振り回す。
 後ろに控えるキリエは苦笑するような顔で彼らを見ている。
「え、えーと」
「ほら、教えてあげるから」
 遠慮というかかんがえもーどに入ろうとするまおに、助け船のようにキリエが手招きする。
 キリエとナオの二人だけだと、どうにも力が入りすぎる嫌いがある。
 別に悪いことではないのだ。
 真剣勝負というか、二人とも負けず嫌いというか。
 遊びのつもりで、初心者もいいとこだったはずの二人が凄まじいボレーの応酬をしていたのも実はそこにある。
 これ以上続けると体力が続かない。
 丁度勝負もきりのいいところだったから、休憩したいところなのだ。
「あー」
 そして、そうやって誘われるのもまおはきらいじゃない。
 ナオに言われたし、キリエも笑っている。
 参加しないのはバカだ。
――参加するバカと参加しないバカ、同じバカにゃりゃ参加しにゃきゃ損損
 何故か心の中の声なのに舌が回ってない。こころのなかだけでもう一度がっつぽーず。
「うん、教えてくれれば判るし、だいじょぶ」
 にっこり頷くと、キリエが彼女の側に来て引きずるように自分のコート側に連れて行く。
「じゃあ、ほらほら。このラケットをこう持って。ね。人差し指を立ててここに添えて」
 冷たい。
 キリエに比べれば小さくて柔らかい手が、夜の冷気に冷やされていたせいで気持ちいい。
――はっ
 とか思わず素に戻ろうとするが、体は何事もなかったかのようにルールの説明をしていたりする。
――結構可愛いかな
 背もキリエに比べれば頭一つぐらい小さいし。
 どちらかと言えば、丸みを帯びた顔は羨ましいぐらいだ。
 でもどうみてもまおは、女の子というよりも子供の可愛らしさの方が強い。
 素直にふんふん頷いて目をくりくりさせているのを見ていると、なんだか恥ずかしくなってしまう。
「ん?」
 不思議そうに首を傾げて見上げられて、思わず頬を染める。
「どうしたー、キリエ、お前そっちのけがあったのかー」
「あるかバカ!」
 怒鳴り返して、そしてまおをおして卓球台の端に立たせる。
 そして、構えさせると。
「ぷ」
「ははっ、まお、結構……その」
 まおの両肩が何とか卓球台から覗いている。
「こら、笑ってないで高さ下げるぞ。ごめんねー、でりかしーのない奴で」
 まおはキリエの言葉に笑って返したが、やっぱり笑顔がぎこちない。
 ともかくなんとか卓球ができる高さになるまで下げると、キリエはまおの真後ろにつく。
「ね。こうやってラケットをふって」
 まおの手首を噛んで、ラケットを振らせる。
 文字通り手取り足取り教える。
「こう。で、ナオはこの辺が弱いから、慣れてきたらスマッシュであの辺を狙って」
「こらこら」
 苦笑いして、呆れた顔で自分のラケットを卓球台に押しつけるように体重を僅か預ける。
「じゃ、俺のサービスからでいいか?」
「うん。いいよー」
 ぶんぶん。
 少し左右に体を跳ねさせてみて、素早くラケットを振ってみる。
 あ。
 ナオの貌が引きつった。
――……巧い
 何故か、まおの動きを見てキリエはにやりと笑う。
「さー、かかってきな!」
「おい。なんでお前が得意げなんだ」
 まったくである。
 しかし、まおもやる気満々でラケットを構えてポジションについた。
 渋々トスを上げて、軽くラケットを振る。

  かん

 甲高い音を立てたラケット。
 ピンポン玉は殆ど同時にコートにぶちあたり、少し低い音を立ててまおに躍りかかる。
「えい」

  ぱきん

 なんだかそんな音がしたような気がした。
 まおが振り抜いたラケットは、見事にピンポン玉を弾いた。
 それも手首を切り返し、全身を振り抜くような恰好で。
――おっ
 油断していた訳ではなかった。
 しかし思わぬ速度で、絶妙な角度でコートが弾いたピンポン玉は、思った以上に高く上がる。
「わっ」
 振り抜かれるラケットをかすめて、それは彼の真後ろに向かって吸い込まれていく。
「ふっ、や、やったーっ」
 目を一瞬丸くして、両手を自分の胸の前に合わせるようにして、嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる。
 相当嬉しかったのだろう。キリエが。
「ちょっっとまて」
 ナオは突っ込みを入れながらも愕然とした顔を崩せない。
 何せ、今しがた知っただけのまおに思いっきりカウンタースマッシュを喰らって反応できなかったのだ。
「へっへーんだ、まおちゃんの勝ちは俺の分だ!当然だ!」
 むぎゅ、と真後ろからまおを抱きしめて勝ち誇るキリエ。
 恥ずかしそうに迷惑そうな顔をするまお。
 実はかなり嬉しかったりする。
「……♪」
 どうして良いか判らないみたいで、もじもじしている。
 まあどっちにせよ面白くないのはナオで。
「よ、よーし判った。それでいい、こいまお!キリエの雪辱に汚辱を塗りたくってやる」
「なんだとー♪じゃあまおが負けたらキリエに文句をいってやるー」
 妙なテンションでラケットを構える二人。
「何だか他人が俺をよってたかって虐めてる構図だよなー」
 いや、間違っていないかも知れないぞ、キリエ。

 とはいえけっきょく。
「やたーっっ!やった、やったよーおとーさーん」
 ぴょんぴょん飛び跳ねて喜ぶまおと、それに合わせて体を揺らして応えるキリエ。
「誰がおとーさんかーっ♪よくやったーっ」
 げっそりした顔のナオ。
 とんとんとテンポのいいまおのステップと、微妙に腰のひねりを入れたスマッシュはピンポン玉に不規則な回転を与える。
 跳ね返る方向がその度違うせいで、来るのが判っても何処に跳ねるか判らない。
――何でだよ
 結果、遊ばれるように左右に振られて勝てなかったというわけだ。
「まお、おまえ、本当に初心者か?」
 え?と首を傾げてナオを見返す。
「えー、しらないもん。ナオが弱いんじゃないのー」
 がびん。
 思わず顎が外れそうになって、めまいに額を押さえるが、すっと彼の顔に影が差し掛かって愕然とする。
 気がついて顔を上げた先には、にやにやと笑うキリエ。
「……何だよ」
 ぴしっと空気を裂くような感じで、右手を掌を上にして彼の眼前に差し出す。
 一瞬の沈黙。
「ほれほれー、俺らの勝ちだろ〜♪」
 ぶんぶん。
 にやにや。
 ナオは疲れた顔だったのが、ゆっくりと顔つきを険しくしていく。
「お前じゃないだろうがっ!」
「まおちゃんの勝ちは俺の勝ちだって言っただろうが!」
 逆ギレ。
 ぶちキレ。
「あー。あのー」
「だからなんでお前が偉そうなんだよっ」
「うるせーっ」
 ばちばちと火花を散らす間で、まおはおろおろと二人を見比べて、どうしていいやら取りあえず声をかける。
 でも、勿論そんなこと耳に入る二人ではなくて。
「だったらやるかっ」
 先刻までまおが持っていたラケットをすちゃ、と構えるキリエ。
 それを見てにやりと口元を歪めるナオ。
「ふん」
 そして、隣でおろおろしているまおを自分の手元にひっぱる。
「ひゃん」
「今度はこっちにまおを戴くっ!いーかキリエ、自分だけが良い思いをすると思うな!」
「な」
 ずびし。
 人差し指を突きつけられて仰け反るキリエ。
 仰け反るというか。
 どちらかというと驚きのあまり一歩引いたというか。
 でも、間抜けな顔はその一瞬だけで、すぐにきりきりと目をつり上げる。
「ナーオーおーまーえー」
 目だけならまだしも、それが怖ろしく凶悪な顔へと変わっていく。
 さすがに様子がおかしいことに気づいたのか、ナオははたと冷静になって今度は彼が一歩引く。
「ちょ、キリエ」
「あの、あはは、あはー」
 一緒になって萎縮するまお。
「あー。あー、ごめん、悪かった、俺の負けで良いよ、な、な、そこのアイスクリームでいいか?」
 な?とまおの顔も覗き込んで――ウィンクする。
 一瞬何が起こったのか、目をぱちくりさせるが。
「うんうん、私あいすくりーむ好きだよ」
 と言うとキリエの方を向いてにぱーっと笑ってみせると、キリエの方に近づいて彼女の袖をとる。
「あっちにあったよね、たしかー」
「あ、おいちょっとまってよ」
 ぐいと思わぬ力で引っ張られて、焦って、思わず振り返った先にナオの苦笑いがあった。
「アイスで良いだろ?」
 ぽりぽりと頬をかく彼の姿に、キリエはふいっと顔を背ける。
――そりゃ怒ってるよなぁ
 でも足は有無を言わせないまおについて行ってる。
「……二つ」
「え?」
 ぼそり、と答えたキリエの声は彼には届かなかった。
「ふたつだ!」
 怒鳴るが――振り返らない。
 ナオは乾いた声で笑って、返事をする。
「ああ、いいよ」
 彼の答えを聞いて妙に頬が熱くなってくる。
――うぁちゃー、なんだか子供に気を遣われてる親みたいだよなぁ、この構図って……
 思いの外子供が大きいがな、キリエ。


 平和なまお達を取りあえず放置すると。
 いい加減まおの幼い頃を堪能したマジェストは、一人まお様上映会を終えて。
 芳しい成果の上がらない中、彼は一人思い悩んでいる。
――一体どうなさったというのだ
 彼にとって一摘みでしかなかった疑いが、今は一つの塊へと変わっていた。
 まおの叛乱。
 そもそもまおを魔王として育てなければならない彼の任務ではあるが、以前から気になることもあった。
 違和感、それよりもはっきりした、言うなれば『間違い』。
 魔王という名前の群体がその統率を維持するためには不可欠であるべき、『信頼』。
 まるでそれが欠けているようだった。
 そもそも安全装置として設定された『疑い』が機能している事それその物が、既に魔王を一枚岩――いや、一つの存在として疑うべきことなのだ。
 今の『魔王』は、魔王ではない。
 マジェストに仕掛けてあったはずの安全装置も、既にトリガーが引かれていた。
 それは最も危険であり、最も外すべきではないものであった。
 まおは何故まおなのか。
 彼は何度か問うた。自分自身に。
 先代魔王陛下に何度聞こうと思ったことか――それは無駄だと判っていても繰り返し考えた。
 そも、魔王が勇者に滅ぼされてからその姿を得るがために、何らかの法則があることは彼も周知だ。
「魔王陛下、貴方は何を望んでそんなお姿を選びなされた」
 顔は暗い影の中で、眼鏡だけが光を反射してその存在を主張する。
「どうして」
 彼に迷いはない。
 だが、選ぶべきものを選択せねばならない。
 そして、彼も『魔王』だ。
――私には権限はなく、魔王陛下なくしてはその存在意義は薄れ
 主の居ない執務室では空虚な冷たさと、本来の静けさだけがそこに鎮座し。
 それが本来ではないことは彼が一番良く知っていて。
 何より、有るべき姿へと戻す為に彼は動かなければならない。
 どんな手段を尽くしたとしても、やらなければならない。
「シエンタ」
 今や魔王軍団の中で魔王捜索隊副隊長という名目だけの立場に居るシエンタ。
「はっ」
 何となくまおが居ないとマジェストに引きずられてしまう彼。
 跪いて項垂れるシエンタに、マジェストはまじーな顔で言う。
「幹部を招集。我が軍団に号令をかけるべく各隊長に連絡を」
「御意」
 すくっと立ち上がってぱたぱたと駆けだしていく。
 何となく危なっかしくて思わず止めたくなる程。
――本格的に動く必要がある。私は魔王陛下を捜すことを、取り戻す事を重視して、魔王軍を代行として運用することだけはできる
 もっと早くから行動する事も出来たはずだった。
 しかしそれも出来なかった。切羽詰まらないと動けない体質とでも言おうか。
 今は逆に言えば、それだけ危険な状況とも言えるのだ。

 目標はまお。できる限り早く玉座につかせる必要がある。

 魔王を違える事は出来ない。
 まおが魔王である限り、この魔王軍団もまおの命令でしか動けない。
 もし――いや。
 そもそも魔王軍というものは、何なのか。
 もしまおが帰ってこない、それが死を除いたものだとして、そんな状況になったのだとしたら。
 今のマジェストには考えることができる。それは目的とは違うと言っても、以前から抱いていた疑惑――まおの必要性を。
 もう少し精確な表現をしよう。
 魔王の軍団の中で、『魔王』と言う立場にある彼女を取り除いて、軍団が軍団足り得るのか?
 実質的に答えは『応』である。
 張り子の虎は、どこまでいっても『虎』であることをやめようとしない。
 竹籤と和紙で出来たものであることは、水をかければ気づくだろう。しかしその直前まで虎の姿をしているのだ。
 まおを失った魔王軍は、『ただそれだけでは』魔王軍として活動をすることは可能だ。
 そも、現在魔王軍の参謀たるマジェストが実際に軍団を運用しているからだ。
 では。
 何故まおが必要なのか――魔王という存在が必要で、それがなくなったならば魔王軍は存在できなくなるのか。
 軍団が軍団ではなくなるのか。
 勇者によって滅ぼされる――これはありだ。
 まおが勇者に滅ぼされる事によって、『魔王』存在は消滅する。
 世界から魔物がいなくなって、世界は光と平和に満たされる。
――何故か。
 では魔王は代々続くものなのか。
 この答えも否。マジェストはそれを良く知っている。
 魔王は世代を重ねるものではない。魔王は『一代限りであり交配せずただ単一存在として』在る。
 故に男女の差はない。精確には両方であるといえる。
 またそれが故に滅びは即ち魔王存在の滅びである。
 だが何故、魔王の死は魔王存在の滅びにつながるのか。
 何故魔王が必要なのか。
 結果として人間が魔王に脅かされるのは全く同じなのだ。
 これは、今までは考えてはいけない事だった。考えられないことだった。
 今だから。
「誰か新しい魔王を定位置に付ける事は出来ないのだろうか」

 『『魔王』は世界を征服する。でも、私は違うんだよね?――まじー』

 それは難しい。
 魔王とは存在だ。
 魔王とは群体だ。
 だからマジェストも、アクセラもシエンタも、四天王ですら――魔王だ。
 魔王の一部だ。
 魔王が作り、魔王が育てた軍団は魔王にとって手足――爪や牙、そして意のままに動く腕や脚。
 魔王の戦闘力の象徴が四天王。
 魔物の強さを、その能力を順に並べて頂点に君臨するのがマジェスト=スマート。
 能力ではなく、立場だけで最も側にいるアクセラとシエンタ。
 それは忠誠ではなく、自分自身のために。
 マジェストの眼鏡が光を反射し、彼の顔は影に沈む。
――理性と、本能のせめぎ合いでございますか……
 思索に耽るマジェストの目の前で、アクセラががたがたと椅子を並べ始める。
 まお付きの彼も、まおが居ないせいで様々な雑用をやっている。
 でも、まおの部屋の掃除は欠かさないし、何時帰ってきてもまおが今まで通りの生活ができるようになっている。
 いままででもそうだった。
 出張にでたときも。
 気まぐれで外出したときも。
 彼にとっては当たり前で考えることもない――彼らには考えるような、『疑う』ようなことはない。
 まお――いや、魔王に愛されていた頃から変わらない。
 くすり、とマジェストは笑った。
「アクセラ」
「はい、マジェスト様」
 パイプ椅子をおいて、その場で直立不動、マジェストに正対する。
「切れ長の目を持ち、貢ぎ物は成人になる前の子供で、『吸血皇女』と呼ばれた女はもう居ない」
「……マジェスト様。何かあったのですか」
 アクセラは相変わらず顔色を一つも変えず、少しだけ怪訝そうに眉を動かして聞く。
「魔王陛下が今ここにおられない」
「はい。……もしかして私はまた捜索に赴くのですか」
 あ。少し顔色が蒼くなった。
 マジェストがぶちきれて帰ってきたら処刑とか言ってたからだ。
 しかし、彼がここにいるのはマジェストが呼び戻したからであって。
 決して無断ではないことを一応書いておく。
「いや、少し昔のことを思い出しただけです。アクセラ、引き続き準備を」
「は」

 全員が作戦室に集合した。
 執務室は元から魔王用なので狭く、とても集まれるようなものではないし、そもそのために謁見の間が存在する。
 謁見の間で魔王に作戦計画の認可を得、報告する際に使う謁見の間も今は使わない。
「ここに集まっていただいたのは、魔王陛下捜索の結果と、今後の方針を明確にするためでございます」
 いつも通りのマジェストがそこにあった。
「現在魔王陛下は行方不明、浮き足立っていることでしょうが」
 捜索結果は、魔王の足取りをつかむどころか全く成果なし。
 その報告を受けて、作戦室はざわめく。
 だが――非難の声などあがらない。

  あがるはずはないのだ。自分の右腕を捜す男が、自分に苛立ちを覚えるだろうか。

「魔王陛下は、残念ながら人間のお姿をされている。ねこかぶとでも一かじりできる。尤も魔王陛下にそんな事は有り得ないですが」
 くい、と眼鏡を中指で押し上げる。
「軍団長、あなた達は軍勢を率いて全国に向かいなさい。四天王、あなた達は領域を監視しなさい。魔王陛下を見つけ次第――」
 何故か、マジェストの口元が歪んだ。
「捕獲・拘束して魔城へ後送してください。他、有益な情報が在れば逐次報告すること。以上」


 物語としては少し時間を巻き戻す。
 丁度、ユーカに絡みついたミチノリと二人で、『夫婦の時間』の為に別れた後の話。
 二人はあまり人気のないところを選んで、廊下の壁に寄りかかるようにしてもつれている。
 ミチノリを壁に押し当てるようにして体を密着させているが――多分、周囲には判らないだろうが――呼吸が判るほど顔を近づけて話をしていた。
 こうしていれば誰も近づかない。
 にこにこしているミチノリにしても、『何をしているのか』は理解していた。

 仕事の時間だ。

 万が一誰かが来ても、何を話しているのかすら耳を背けるだろう。
 どうせ睦言だろうと――しかし、彼らが話しているのは全く違う事だった。
「……ナオ達にも隠すべきだ」
 ユーカはミチノリの耳元で囁く。
「ん〜、どうしてぇ?協力を仰いでおいてぇ、それでぇ、まるで騙すぅみたいだょぅ〜」
 耳に息を吹きかけながら(無論わざとだが)いつもの間延びした口調で話す。
「判ってる。しかし、そもそも彼らについてきて貰う事自体は騙しているようなものだ」
 ふにょりと柔らかいミチノリの頬に自分の頬を押し当てて、きゅと彼の背中に回した腕で抱きしめる。
「ミチノリ……息を吹きかけるだけなら止めろ」
「うふふふぅ。ゆぅちゃんまじめすぎぃ」
 ごそごそと腕を動かして、ユーカの腰に手を回す。
 こうしてみれば、抱き合っているだけに見えなくもない――事実抱き合っているが。
 しかしミチノリの表情は、笑顔で固まってしまっていて、むしろ笑っていなかった。
「ゆぅちゃぁん。世界には意思がぁあると思ってるぅ?」
 ミチノリは魔術を知らない。
 でも、彼も或る意味では魔術を行使する事ができる――理論派なのか、感覚派なのかの差はあるが。
「そうだな。我々はそんなものは人間が照らし合わせた擬人化の一つだと受け止めている」
 彼女を含め魔術師は論理的だ。
 非論理とも言うべき事柄は論理的になるようにへりくつを作る、そんな人種だ。
 たとえば趣味嗜好、感情、そんなものですら法程式や細かい理論で裏打ちする。
 今こんなふうに肌を合わせているのも、彼女自身誤魔化してはいない。
「前も説明しただろう」
「うん、もう一度確認したかったんだぁ。じゃ、さ。『故意に』世界が自分で自分を歪めるなんて事はあるとぉ、思っていないんだよね」
 ミチノリは純粋に信じ、祈り、それを徹底することで極める魔術だ。
 考え方も比較的子供っぽいし素直だ。
 そして何より率直だ。
「言葉がおかしいからな。世界……むしろ、勇者というものを人間の中から輩出するシステムというものがある気がする」
 うんうん、と小さく頷いて、ミチノリは彼女の鎖骨に自分の額を預けるようにする。
「お、おい」
「みっちゃんはね、そうは思ってないけどねぇ。やっぱり意思みたいのがあるんじゃないかなぁ」
 神。そう言うようなものは彼らは信じない。
 でも、そうとしか呼べない何かがあるような気になる。
 ユーカはあからさまに顔をしかめて――不意に顔を上げたミチノリは彼女を見てくすりと笑い。
「っ」
 口を重ねる。
 しばらくそのまま――後ろにある気配がぱたぱたと慌てて逃げるのを確認してから彼は離れた。
「うふぅふぅ」
「気色の悪い笑い方をするな、馬鹿者」
 顔が見えるように、ミチノリはこつんと後頭部を壁にぶつける。
「だっておもったとおりの貌してるんだもん。ゆぅちゃん、じゃあ、ゆぅちゃんはシステムをうごかすヒトがいると思ってる?」
 ユーカはどこか赤らめた顔のまま、ついと視線を逸らせた。
「ヒトではないが。……魔王がいるだろう?魔王は人間じゃない。だから私は、そんなシステムの一部が魔王ではないかと思っている」
「『世界』って、どぉしてもぉ、言わなぁいんだぁねぇ」
 もしくは神――ミチノリはそれは言わないことにして続ける。
「じゃぁあ何ぁ故そんなシステムがぁ、あるのぉ」
「……勇者を生み出す。魔王を斃す。ではミチノリ、この古びたかび臭い英雄譚、何回、何故繰り返される」
 くすくす、とミチノリは小さく笑う。
「それが目的なんでしょぉ。繰り返さなきゃいけないんでしょぉ。みっちゃんはそぉ思うょぉ」
 神の意志、そう言うものが、魔王を生み出し人間を疲弊させようとする。
 そして人間は、この魔王に打ち勝ち、一つの栄光と栄華を夢見る。
「では人間を滅ぼすことが目的じゃない」
 食物連鎖の頂点に立つ存在は、その下の存在を食い尽くしてしまえば滅ぶしかない。
 魔王と勇者は光と影――どちらかが欠けても存在としては不充分。
「何故繰り返さなければならない?――ミチノリ、もう一つ考えておきたい事がある」
 なぁに、とミチノリは小首を傾げ、ユーカは彼の頭に腕を回して抱きしめる。
「これから向かうシコクは普通の状態ではない。判ると思うが、あの国は始めに魔王が滅ぼした国だ」
 ミチノリの後頭部から指を差し入れて、彼の髪を手くしですく。
 まるで子供か、手入れを怠らない女性のようなさらさらの綺麗な髪。
 細くて柔らかくて、艶やかな髪。
「そぉなの?」
「そうだ。元々強大な軍事国家だったあの国が、今では見る影もないが」
 もう一度彼の耳元に口を持っていく。
「魔王は、まずあの国を潰さなければならなかったのか?確かに、人間が魔王に反抗するには最大の戦力だった」
 ひょい、とミチノリの手が腰を離れて、今度はユーカの後頭部にぱたりと乗せられる。
 耳元から髪に指を差し入れる。
 ユーカは女性らしい艶と弾力のある髪をもっているが、ミチノリほどきめ細かい訳ではない。
「うん、娯楽の王国、でしょぉ?」
「そこの技術が、まだ残っているらしいのだ。実は、一人知り合いがいるっ」
 不意に耳たぶに冷たい感触が襲って、ユーカが体を引きつらせた。
 ミチノリの歯が、耳たぶに触れたのだ。
「こら。真面目に聞かないと怖いぞ」
「ふぅえ……ごめんなさい」
 ミチノリが本当に萎縮したのを確認して、おかしそうに笑うと体を離すユーカ。
「もうおしまいだ。大体話したし、これ以上いるとおかしくなりそうだしな」
 彼女の言葉に、ミチノリは寂しそうな物欲しそうな、小動物の目で彼女を見上げる。
「ゆぅちゃぁん」
「ダメだ。真面目に聞かないだろう」
 そう言うと、元来た道を戻りながら、ミチノリを急がせる。
「ね、ね、ゆぅちゃん、知り合いって」
「知り合いの名前はキール=ツカサ。シコクに隠れ住み、未だに過去の技術である『リロン』を研究してる」
 とてとてと後ろから追い抜いた彼に、にやりと笑みを湛えて右手の人差し指を立てる。
「男だ」
 がーん。
 彼の顔が、まるで何か叩かれたような驚きを浮かべて、そして急に涙ぐんだ。
「わーん、みっちゃん捨てられるんだぁ」
「そんな訳ないだろう馬鹿者」
 おかしくなって、笑いながら彼の腕をとって、自分の腕を絡める。
「考え方の影響を受けた事は確かだが、それ以上はない。恐らく、今も研究が進んで何かをつかんでいるはずだからな」
 魔術に頼るだけで判らない事を、過去のオーバーテクノロジーも駆使してつかめないだろうか。
 それほど遠くない遠回りかも知れない。
「どうせシコクに向かうのだから、運命に頼るだけではなく直接切り拓く事も重要だろう?」
 確かに占術によれば、彼女達がただシコクに向かうことで何かが起きるという。
 それは彼女達に意思を持たない結論になる。
「……それだったら、ナオちゃんをだましてる事にはならない?」
「いや、結局そうなると判っていて連れてきてる訳だ。……荒事になる事は二人も予想してるだろうが」
 良心がうずくのか、それに妙にこだわるミチノリの頭をぐりぐりと撫でる。
「嘘じゃない。騙してる訳でもない。これでいいか?」
 少しの間逡巡して、目が踊るが。
「良いことに、しておくぅよぉ」
 彼は、自分の妻を見てにっこりと笑みを浮かべた。
「それはぁそれぇとしてぇ、ねぇ〜ゆぅちゃぁあん」
「ダメだって言ってるだろう。駄目だダメだ。早く部屋に帰れ」


 次の日、旅支度を調えたナオとミチノリは食堂で向かい合っていた。
 朝食にはまだ少し早いが、コーヒーぐらいは出せるらしく、二人の前にカップが二つある。
 その真ん中に、地図を広げて自分の人差し指と親指で尺取り虫を作るナオ。
「あと三日の旅程で駅につく。駅からは乗り合い馬車で二駅ってところか」
「駅まで遠ぉいねぇ」
 ミチノリはそれを見ながらにこにこしている。
「ナオちゃんはぁ、このぉぐらいのぉ行軍だぁったらぁ」
「楽だよ。全然。気楽だし……ちょっと大所帯だからそれだけ気になるかなぁ」
 少し語尾がミチノリ語がうつりながら、ナオは先手を打ってかぶせるように言う。
 む。
 ミチノリは口を尖らせて拗ねる。
「むーぅ、みっちゃんの言葉をぉ先取りぃしないでぇ」
「お前のんびり過ぎるからな」
 と会話していると、とんとんと軽い足音がして、女性が現れる。
「おう、おはよう」
「起きてたか、二人とも」
 やはり、既に旅装束に身を包んだキリエとユーカだ。
「ちょっと地図を確認してたんだ。後どれだけ距離があるか見ておきたくてね」
 答えるナオに、振り返るミチノリ。
 振り返った彼に、ユーカは目配せする。
「危なぁいかなぁ」
「危ないと言うほどじゃないけどよ。……俺達だけだったらの話だよな」
 まるで当たり前のように二人の間に座るキリエ。
 その向かい側にユーカが腰を下ろして、両手を自分の顎の下で組む。
「それは何処まで含むんだ」
 キリエに投げかけた言葉を、ユーカが返す。
「ここにいる全員」
「あいつらを除くって事だな」
 キリエも納得したように頷く。
「どれだけ行軍できるか判らないあの3人、一緒に行動するとして休憩にどれだけ時間をとらなきゃいけないか判らない」
 まおを除けばかな。とナオは考え直す。
 まおはどう見ても子供――彼よりも年下だ。しかし彼は、まおがサイタマより遠い魔城から徒歩でここまで移動したことがある事を知らない。
 ある意味無茶苦茶だが、それは人間と比べての事だ。
 彼女は人間ではない。
「そうだな。訓練を受けてる俺らとは大きく違う」
「それも駅までの辛抱ではないか?どちらにせよすぐ駅につかないか」
 ナオは苦い顔をする。
「……それが」
 彼は地図の端を叩くように指さして言う。
「昨日の移動距離、計算してみたけどこのぐらいなんだよな。これじゃ、予定の半分ぐらいしか進んでない」
「つぅまぁりぃ、この」
「三日かかる」
 話をしようとするミチノリを遮って、大声で結論だけ言う。
 またミチノリは哀しそうな顔をして拗ねてしまう。
「うーうー、昨日ぅからぁ、みっちゃんの扱ぁいぃがそこはかとなぁく酷ぃよぉ」
 机の上にのの字を書いてぐすんと鼻をすする。
「そうか。――少し行軍速度を上げよう。それでついてこれないようなら考えればいい」
「んー……」
 ユーカの言葉にナオが言い淀んで腕を組む。
 キリエは僅かに眉を吊り上げて、彼を睨んだ。
「何だよ、他に方法はないだろう。どうせ二日程なんだ」
「いや、まおの事だよ。あいつ完全に子供だろ?」
「まおちゃんはぁ、みっちゃんが何とかするよぉ」
 にこにこ。
 殆ど無責任に笑っている彼に、一瞬全員の視線が集まる。
 勿論それも意に介さないミチノリだが。
「歩く薬箱がこう言ってる事だし」
「ユーカ、時々お前ミチノリに対してかなり辛辣だな」
 さすがに眉を顰めてナオは言うと、ミチノリを見る。
 相変わらずにこにこしている。
 こうしていれば頼りなさ気な雰囲気があり、実際華奢な彼だが、どうしてか行軍や戦闘では丈夫さを発揮する。
 体力があると言うよりは頑丈という言葉の方が正しいだろう。
 もしかすると、バカに付ける薬がないのと同じで、彼は疲れないと信じているのかも知れない。
「うんうん」
「堪えてないよなぁ」
 キリエも呆れてため息をつく。
「判っているだろう。ミチノリの治療は間違いない。ミチノリの抱擁は気力体力の回復と滋養強壮に効くんだ」
「滋養強壮にはきかないよぉ」
 小声で反論するミチノリ。
「おきゃくさーん、地図どけてくんない?すぐ朝食持っていくよ」
 カウンター越しに威勢のいい言葉がかけられる。
「やれやれ」
 彼はぱたぱたと地図を折り畳みながら肩をすくめた。

 ほとんど同時刻。
「まお様、早く起きて下さい」
 やはり身支度を終えたウィッシュとヴィッツが、まだこんもりと山を作るまおのベッドに声をかける。
「毎日毎日これだとこれからが思いやられます」
 ふう。
 ヴィッツはあからさまにため息をついて、ジト目でまおのベッドを睨み付ける。
 ウィッシュは強引に布団をはぎ取る。そりゃぁもうばらりと。
「うひゃん」
 奇妙な声が聞こえて、猫のように丸まったまおが顔を上げる。
 焦点のあっていない目つきで、ぱちくりと瞬きしている。
「早く着替えてください」
「もう朝食の時間です。食べたらすぐ出ます。用意は手伝いませんよ」
 とヴィッツは既に部屋から出ようとしている。
「あーヴィッツ、ボクを待つぐらいは部屋にいてね」
 と声をかけると、まおを見下ろす。
 まおは何とか奇妙な声を上げて、体を起こそうとしている所だった。
「まお様、荷造りは?」
「だいじょーぶだいじょーぶ。着替えたらすぐいくよー」
 ふにゃふにゃと答えてベッドから下りて、自分のバックパックに取りついて荷物を引っかき回す。
「じゃあ、先に行ってるから、食事したら出られるようにして下さいね」
「ふぁい」
 パジャマをゴミのように投げ捨てて、下着一枚になる。
 ちなみに胸はないので下だけだ。みたまんま子供である。
 そして、お気に入りだろうワンピースにごそごそと袖を通す。
 髪の毛を出して、ゴムでくるくると二つのお下げを作って。
 そこで初めて気が付いた。
「……あの、ウィッシュ?」
「何ですか?まお様」
 ウィッシュは部屋の入口でじーっとまおを見つめている。
「先に行くんじゃなかったの?」
 言いながら、まおは投げ出した服を荷物に押し込む押し込む。
 その様子に思わず首を傾げて、ウィッシュは答えた。
「気が変わって、まお様の着替えを見つめてました」
「……」
 じとー。
「ああやだなぁまお様。ボクの趣味は知ってるじゃないですか」
「うるさい行くぞ!あさごはんあさごはんっ!」
 そんなこんなで、結局三人で食事に向かう。
「あー、誤解しないでくださいよぉ、まお様ぁ」
 と、嬉しそうな声でにこにこ笑いながら言うウィッシュ。
「何が誤解か!一緒にいたらいつか襲われそうだよっ」
「良ければ何時でも襲って見せます。夜討ち朝駆け寝入りに闇夜」
「うるさい!」
 物騒な事を言うヴィッツを一喝して、ぷいっと背中を向ける。
「全くもぉ。朝っぱらから何だってのよぉ」
 食堂に向かう彼女達の元に、ぷぅんと朝食の良い香りが漂ってくる。
「ぉ」
 まおは、それまで眉を吊り上げていたのに。
「うん、これはボイルしたウィンナーですねぇ」
 にへらーと相好を崩す。
「おいしそー」
「嫌いな人は珍しいです」
 それまでの不機嫌はどこへいったのか、かつかつと食堂へかろやかな足取りで向かう。
「子供ね」
 ため息をついて吊り目で睨むヴィッツの頭をぽんぽん、と叩いて、ウィッシュはまおの背中をにこにこしながら見つめている。
「ええ、可愛い可愛い♪」
 既に朝食を囲んでいるナオ達も彼女達に気づいて、食堂の入口をくぐるまおにナオが手を挙げる。
 まおはにっこり笑って両手をぶんぶん振って飛び跳ねる。
「おはよー」
 隣の卓について、ナオとキリエの間から朝食を覗き込む。

  むんず

「まお様お行儀が悪いですよ」
 しかし、まおは突然の浮遊感に遮られて後ろに引きずられてしまう。
「おはようございます」
「ははは。どっちが師匠なんだか判らないな。おはよう」
 むーと悔しそうな顔をするまおを、片手でぶら下げるウィッシュ。
「朝食を三人前」
 さっさと注文をするヴィッツを横目に、まおを卓に降ろして自分も隣に腰掛ける。
「朝食後すぐ出る。実は遅れ気味だから強行軍になる」
 キリエは振り向きながら、素っ気なくまお達に言う。
「まお、あんた……」
「んーん、だいぢょーぶだいぢょーぶ。急ぐなら急いで行った方が良いもんね〜」
 へらへら。
「……。まあ、本人の許可もおりたし」
「なあ、ナオ。俺思うんだけど、もしかして無駄な心配してるんじゃないか?」
 多分ではなく、間違いなくである。


「うわーっっ!」
 それから、ナオの心配をよそに強行軍は行われた。
 勿論心配の必要なんかないぐらい、いわば元気いっぱいなまおに、逆に押されてたりしたがそれは別のお話。
 結局、それから二日で最初の駅にたどり着いた。
 乗合馬車は主要街道沿いに幾つか駅を持っていて、これをいわば繋ぐ形で一日に何本も走っている。
 料金は格安で、安宿の一日の平均的な宿泊費のおよそ四分の一ぐらいで乗り込むことができる。
 大体500エンから1000エン止まりである。
 これは、維持費と人件費が殆どを占めるだけではなく、各国が協力して援助を行っている為である。
 国と国を繋ぐ、魔物との争いのための生き残る知恵。
 いわばそんなものなのである。
 馬車は戦闘用に改造された重馬車であり、戦車に近い物が殆どだ。
 幌馬車なんか魔物の牙を止める役割を持たない。当初は走っていたが、今では鉄枠か木組みの馬車である。
 もちろんまおは初めて見る。
 駅というのは、丁度何台もの馬車を集めておける施設と、飼い葉桶の並んだ厩舎と、簡単な安宿を組み合わせたようなものであり、大きなものは馬車を百台近く収める事ができるようになっている。
 このアキタの駅は百とはいかないまでも相当数の馬車を収める事のできる、一番近い巨大な駅だった。
 ここが最北端、ここから南はナゴヤにも行けるが、陸続きのヤマグチが最南端の駅になる。
「ぁー、まお様元気いっぱいですねぇ」
 ウィッシュはのんびりと言うと、額の汗を拭う。
「ねーねーみてよみてよっ!ほら、すごいよっ」
 ウィッシュの腕を持ってぶんぶん振り回して、ともかく気を引こうとするように馬を次々に指さす。
「……なんであいつはあんなに元気なんだ」
「同感ー。前々から凄いと思ったけどさ」
 ナオとキリエの二人とも肩で息をしている。
 荷物が重いのは当然だが(武装してるだけに重いのだ)、それ以上に強行軍だったからだ。
 先にへばるだろうと思っていたまおが、むしろ大はしゃぎという感じで全く堪えてなかった。
――絶対におかしいよ
 キリエは、負けた悔しさのようなものを感じて。
――まおって、実は俺より凄いんじゃねーか。さすが魔法使い
 ナオは素直に感心したりしていた。
「やっぱり体内に保持できる魔力の差がそのままでてくるのでしょう」
 本当か嘘か判らないものの。
 ヴィッツは蒼い顔をして呟く。
「いやー。ただ単に子供なだけだと思うね」
 ウィッシュは呆れたような、どこかすがすがしい顔で言う。
「それにしても、凄いです。まお様ではありませんが」
 彼女はうっとりとした顔で駅を見る。
 馬馬馬。馬車にヒト。もうそれも街で見かけるようなレベルの話じゃない。
「これだけの規模の駅は、もう近隣にないからな」
 ユーカの記憶では、これ以上北に駅が作れないのは、凍り付く為らしい。
 万年凍った世界には馬も生活が困難なのだろう。
「まお、もしかして馬車を見るのは初めてか?」
「えー。いや、違うけど乗るのははじめて」
 ナオの言葉に目をきらきらさせて応える。
「のってみたかったんだー。こんなに人がいるのを見るのもはじめてだし」
 初めてづくしの世界。
 まおにとっては、それら全てが大切なもののように感じて、自分のものにしたくて仕方がない――そんな風に見えた。
「まあ、普通こんな所はこないだろうし、滅多にこれだけの人間は集まらないよなぁ」
 もっともな呟きにナオは納得したように言う。
 彼にとって、多くの人間が集中する場所や馬車、特に戦闘用の戦車は珍しいものではない。
 軍隊とはそう言うものだ。
「こういうものって、良く作れるよね。どうやって考えつくんだろ」
 同意を求めるような、気持ち語尾にアクセントが強い言葉。
「そうだな」
 ユーカが漏らした言葉に、ナオも素直に頷いた。
「これは、どんな強力な魔物が襲ったって、壊す事は出来ても消し去る事は難しいだろうな」
「当たり前だ。それが人間の営みって奴だろう」
 彼女はナオに同意というよりも、そんな疑問など浮かびもしないという風に呟き、相変わらず腕に絡みついているミチノリの手を握りしめる。
「へへへ。ゆぅちゃんかわいい」
「いきなりなんだっっ!」
 ぶちきれるキリエ。
「騒がしいなぁもぅ」
 ウィッシュに呆れられながらも、一行は駅に入った。
 スケジュールは黒板にチョークで書き加えられていく。
 ほぼ決まっているが、路面の状況や魔物の出現によって若干誤差が出て、駅で時間を調整するのが一番確実だからだ。
「えーっと……次のサイタマ行きは14時38分だね」
 まおはくるり、とみんなの方を振り向く。
「えー」
「何故に棒読み」
 ヴィッツはウィッシュを見上げて、何故か眉根を下げる。
「今は12時ですから」
「……棒読みの回答はなしな訳だ。とは言え、確かに時間があるな」
 ユーカはため息をついて、ナオに顔を向ける。
 気づいて、彼は自分を指さすと、ユーカは一瞬ウィンクをして。
「ゆっくり食事でもとろうか」
「さぁんせーぃ」
 きゃいきゃいと殆ど女の子のノリで騒ぐミチノリ。
 ナオは彼女の合図の意味が判らなくて大急ぎで思考回路を回転させる。
「ね、ね、じかんがあるならさ」
 まおはナオの袖を引っ張りながら言う。
 ユーカは苦笑いをしながらあごをしゃくる。
――ああ
 何となく言いたいことが理解できた。
 物欲しそうな貌をして見つめているまおに、ナオはおかしそうに笑って応えると言った。
「駅の周りを回ろうか?ついてくる?」
「はい」
「はいっ」
 む。
 同時に声を上げて、同時に睨み合いを始めるまおとヴィッツ。
「あ、じゃあいく」
「じゃあってなんだよ」
 気が付いたようにウィッシュが手を挙げて言う。
「いえ、別に深い意味はありません、まお様。ただ私一人だけ置いていかないでください」
 まおの表情が少し苦くなる。
 否定しきれない理由を上げられれば何も言えないはずだ。
 ヴィッツの方は素知らぬ顔だから、別に連携ってわけでもないらしい。
「私達は別に珍しいものでもないが」
 ちらりとキリエに視線を向けるが、そっぽを向いていて何も言わない。
「初めて見るなら良い経験だろう」
「まあ、初めてだったらね」
 ぶすーっとしたまま、むくれた声で言うと、キリエはちらりとナオに目を向ける。
 が、ナオが視線に気づいた時にはユーカの方を向いていて。
「取りあえず食事にしよう。確か宿とかもあるんだろ?」
「ああ。しかし」
 食事は一緒に摂っても、と言おうとして止める。
 今のキリエは何を言っても絶対反対する様な気がした。
――ああ、だからさっさとはっきりしておけばいいのだ
 くすりと小さく笑って、ぶら下がったミチノリを引きずるようにして、彼女に応える。
「良い店を知ってるのか?」
「あー……そんな訳じゃないけど……」
 慌ててしどろもどろになる彼女に、おかしそうに笑いながら助け船を出すことにする。
「だったら私に選ばせてくれないか?旅の際気を付けておくと良い事を教えよう」
「ホント?じゃ、任せる。行軍とか訓練じゃ、旅とは違うから勝手が判らないんだ」
 嬉しそうに応える彼女の様子に、少々大袈裟なものを感じてユーカは笑う。
――ナオ、私は手助けはしないからな
 この二人がどうなるのか面白くなってきた。
 折角だから日記でもつけようか、と思いつつ、ユーカは彼女とそのままレストラン通りへと向かった。
 取り残されたようなナオだが。
「あー、あれあれ!ほら、あれなに?」
 妙に興奮してあれこれと聞きまくる、もう無邪気な子供でしかないまおと。
「うんうん、こんなまお様が見れるから着いてきたかったんだよ」
 それをにこにこ見つめるウィッシュと。
「あー五月蠅い」
 まおにぶつぶつ文句を言いながらもナオの一番側に陣取るヴィッツ。
 見た目は、仲の良い兄妹で遠足しているというよりは。
「親子だよねこれじゃ」
「だれがですか望姉」
 ぷい、と振り向くヴィッツ。
「否定するなら、まず腕を放しなさい」
 しっかとナオの右腕にしがみついて離れようとしない彼女を見て、ため息を付きながらウィッシュは言った。
 勿論聞こうとはしなかった。


 ユーカのすすめで入った店は、こってりとして味の濃い料理ばかり並べる店だった。
「お前位体を鍛えてる人間だったら、旅の最中はこういう物を食べればいいぞ」
 内臓もまた鍛えていなければいけないがな、と笑う。
「脂っこいものが良いっていうのか?」
「いやいや。あんまり油がこくてもダメだ。そこは限度というものがあるが、疲れていれば塩味が濃い方が良いし、よりタフに歩くには多少は油が欲しいものだ」
 それに、と彼女は付け足す。
「味気ない乾燥肉や干し米の携帯食料しか食べていないのであればなおさら、こういう物が不足するようになってるから」
 心配しなくても美味いはずだ。
 ふうん、と気のない返事をして、キリエは特製ベーコン入りクリームシチューのセットを頼む。
 セットとはクロワッサン二つ、サラダにコーヒーがついてくるものだ。
 ほうれん草と茄子のパスタを選ぶミチノリに、チキンドリアを頼むユーカ。
「シコクって」
 お冷やが届いて、なめるようにそれを飲みながらキリエは言う。
「娯楽国家だって聞いてるけど」
 ユーカは一息に飲み干すミチノリを眺めて、自分の分も差し出しながらキリエの方に顔を向ける。
「確かに」
 シコク。
 国家としてはまだ存続しているものの、実際に政府や王族が国を治めるような形は取れない状態 が続いている。
 軍隊も以前存在した精鋭部隊や兵器は、過去のものになっている。
 今現在は、有名な盗賊がNo.1の座に着いたギルドが人間を仕切り、表だって『自治政府』を名乗っている。
 国としての体裁はそれだけだ。
 実際には国として国交を持てる訳でも、貿易をしているわけでもない。
 できないからだ。
 と、ここまではほぼ彼らの常識の中にある。
「何も生産しない、出来ない、そんな収拾のつかないところで何とか生きる事のできる人間なんて犯罪者しかないからな」
 『自治政府』が産業として興している殆どは、他国では違法とされるギャンブル、人身売買、娼館、薬販売だ。
 故に『娯楽国家』と呼ばれる。
 世界のありとあらゆる娯楽を。
 ニホンの全ての快楽をここに。
 ユーカの表情は変わらないが、キリエの眉はきっと寄せられて、嫌悪感をあからさまにする。
「娯楽だなんてな」
「勿論そうなった理由もある。私は、シコクに知り合いが居るんだ」
 ここからはキリエには判らない内容のはずだ。
 ユーカは一言警告するように言い、ミチノリが飲み干したグラス二つを目の前に持ってくる。
 ガラス製品としてはごく普通の、安物のグラス。
「キリエ。シコクは昔軍事大国だったことは知っているか」
 こくん。
 昔昔、まだ人間同士が争っていた頃のニホンでは、シコクに存在した軍事国家が最も軍事力を持ち、簡単に人間を滅ぼす力を持っていた。
 それこそボタンを一つぽんと押すだけで世界が滅びるような兵器だ。
「なぜ今、他では見られないような強力な魔物が跳梁跋扈する国になったと思う」
 しかしキリエの回答を、彼女は待っていなかった。
 グラスの一つをくるんと回して逆さまにテーブルに立てる。
「中身が気に入らなかったからだ。こうすれば水は全てぶちまけられて、もう二度と水も入れられないだろう」
 とんとんとグラスの底だった、今の天井を叩く。
「……?何が言いたい」
「つまりシコクというのは、このガラスコップだ。中に入っていた水は、軍事力――『リロン』と呼ばれる、人間の技術だ」
 キリエの顔がますます険しくなる。
 理解していないのだ。
 ユーカはふっと笑い、コップを弾く。
「精確にはこのコップは、リロンってものを作った技術者さ。ガラスコップもただ作られた訳じゃない。放っておけば汚れるしほこりを被り、使えなくなる」
「あー、つまりー」
 その時女給がカートをごろごろと引いて現れる。
 注文の品全てを載せて。
 彼女がテーブルに料理を並べている間に、話が中断している間にキリエはくるくると思考を回転させる。
「……つまり、リロンが邪魔だった、と」
 誰が?
 何故?
「私は推論は嫌いだ。理屈と内容を良く吟味してから判断する」
 そう言うと、彼女はスプーンを持ってドリアに取りかかる。
 キリエは少し不機嫌そうに顔をしかめ、やはり目の前のシチューへスプーンを差し入れる。
「おいしぃねぇ」
 野菜ばっかりのパスタを口にほおばりながら、ミチノリは明るく言う。
「魔物だってぇ、バカじゃないものぉねぇ。人間を滅ぼすには一番邪魔だったからぁ」
「こらミチノリ、喋りながら食べるな」
 鈍い音が彼の頭で響く。
 ユーカの拳が容赦なくミチノリの頭に沈んだ。
「痛ぁいぃ」
 それだけ言うと、黙ってパスタを口に入れ始める。
「……お」
 シチューはかなりこくのある、牛乳とバターの香りがするものだった。
 普段ならこんなに濃いものは受け付けないが、何とも言えずおいしく感じた。
 彼女のその様子に、ユーカは少しだけ嬉しそうに目尻を下げる。
「美味いだろう」
「おう、これは……」
 二口目。
「美味い。いや、成程、ふんふん」
 機嫌を直したように料理をぱくつくキリエを見ながら、ユーカは感情を感じさせない声で続ける。
「キリエ。最初に謝っておかなければならない。シコクは危険だ。多分、魔物の強さは段違いだ」
 口の中に広がるコンソメとバターの風味。
 キリエはそれを水で押し流すと、口を拭って言う。
「謝られても困る。それが仕事でついてきているんだ」
 と、一口。
 ベーコンの食感に、彼女は口を動かす。
「ああ。しかし、礼儀だから言っておかなければな。そして目的地はトクシマの中央、城跡のある街だ」
 シコクは4つの国から形成される連合国家だ。
 牛耳っているギルドが存在するカガワ、元軍事基地の遺跡のあるトクシマ、最も人口の多いエヒメ、広大な土地のあるコーチからなる。
 未だにまともに人間が住めるのはエヒメとカガワしかない。
「敵の目の前というか」
「そうだ。化け物の巣に突っ込むようなものだ。そこに、私の知り合いがいる」
 気のない返事を返して、シチューを飲みながらキリエは彼女の様子を窺うように眺める。
「……名前は」
「キール=ツカサ。リロンの研究を続けている。それが『勇者』と関わりがあるかどうかじゃない、ただ――」

           きぃ           ん

 そんな金属音にも似た、弦楽器が立てる甲高い音のようなものが聞こえた、気がした。
「多分私達は何かを忘れて居るんじゃないかと思っているんだ。それがリロン、シコクにある」
 いつの間にかシチューはなくなっていた。
 もう残っていたとしても味は判らなかったかも知れない。
「どうした、蒼い顔をして」
「べ……蒼くない」
 キリエはコーヒーを一口すすって、それが冷え切っていることに気づいて。
 ユーカはにやりと口元を歪めて笑う。
「早めにナオには告白しておけよ。遅くなってからではダメかも知れないからな」
「ああ……ああ。あー、お前、前の宿で散々っ」
 立ち上がりそうな勢いで、でも何とか理性が声量を押さえて叫ぶ。
「そうだ。そう言う理由も在ったんだよ。全く意気地なし」
「……それは女に言う台詞じゃない」
 ぶす。
 むくれて頬を染めると顔を背けて、口を尖らせる。
「まあな。別に男女の関係になれとは言ってない。パートナーだろう、お前達二人は」
 これ以上押しても無駄だと判ったが、ユーカはこれだけは言っておきたかった。
「戦場で今のままだと、危ないのは判っているだろう。感情を抑えるか、わだかまりだけは払拭しておいてくれ」
 たきつけて悪かった。
 彼女が付け足した言葉はキリエに届いただろうか。
「……勘定、頼む」
 金貨をテーブルに置くと、それだけ言って彼女は立ち上がった。
「ちょっとナオに話してくる。悪いな」
「ああ」
 レストランから駆けだしていくキリエを眺めながら、彼女はコーヒーを飲み干す。
「しっかり戦って欲しいからな。我々と違って戦闘力のある二人には」
「そぉだねぇ」
 砂糖とミルクをたぷたぷに入れた甘々なコーヒーをちびちびなめると、ミチノリはユーカの方を見つめる。
「ゆぅちゃんは、本当ぅに何もないと思ってないでしょ」
 いつもより真剣な口調。のんびりと伸びた感じは変わらないが、彼の語尾が緊張したように短い。
 ユーカは彼に笑みを見せながら言う。
「当たり前だろう、占いは確かだ。しかし、お前ほど信じている訳ではない。ただ」
 まおのことを思い出す。あんな変化があったのだ。今回はきっと大きな収穫がある。
「理論的に実証できる証拠が在れば別だ」


 幼稚園の保父さん状態で駅を回るナオ。
「悪い、まお、ウィッシュにヴィッツ……そろそろ腹が減ったんだが」
 うんうんと頷くウィッシュは、ぽんと手を叩くと屋台を指さした。
「こういう場所でああいう所では如何でしょうか」
 にっこり。
「あ」
 ぱっと顔を明るくしたまおだが、すぐに心配そうにナオを見上げた。
 ヴィッツは黙ったまま、ナオの視界ぎりぎりの位置にいる。
「んー、何だろう」
 ぷぅんと何かの肉が焼ける匂い。
「スペアリブだよー。スペアリブおいしいよー」
 思わずねこかぶとの頬肉を思い出したが、あれはあれでおいしい。
 しかし量的に足りるかどうか。
 そう思って聞こうと思った時にはみんなの目はもう屋台にしか向いていなかった。
「もうスペアリブにするしかないね」
 ウィッシュが笑いながら言うのを聞いて、ナオは肩をすくめる。
「いや、反対はしないけどね」
 ぞろぞろとスペアリブの屋台に並ぶ。
「すみません、スペアリブえーと」
「うちのスペアリブは大きいからねー。食べ応えあっておいしいよー」
 確かに。
 いったい何の肉なのか、房単位で売っている。普通房で売らないだろう。そも房ってなんだ。
 『一房』も在ればステーキ数枚分に相当する量が焼けているようだが。
「4つ下さい」
「ありがとうございますー」
 と、耐油紙の紙袋にどさどさ放り込みながら、片手で金勘定をする。
――豪快だなぁ
 豪快と言うよりいい加減というか。
「まいど」
 そう言って差し出す紙袋は片手じゃ持てないようなサイズで。
 何というか金額の割に多すぎた。
「あの、こんなにいらないです」
「あ、そう?じゃおつり」
 ひょいひょいと何本か抜き取りながら、一房分お金を返してくれる。
 それでも結構な量だ。
「これじゃおなか一杯食べられるね」
「……壊れる程食べられそうだけどな」
 いい匂いにうきうきで言うまおに、油でぎとぎとになりそうだと思いながら応えるナオ。
 ウィッシュがてきぱきと場所を探して確保してくれた御陰で、ナオは重い紙袋を何時までも持つ必要はなかった。
 駅側の小さな丘の上、敷き詰められた草がまるで絨毯のような場所に腰を下ろし、中央に紙袋を置く。
「いただっきまーす」
 一本あたりの大きさは丁度大きめのバナナほど。
 本当に何の肉だろうか。
 ナオが危惧していた程油っこくない。
 一口かじると弾力のある肉から肉汁が染み出してくる。
「ふぉいひい」
「まお様、口の中にモノがある状態で言葉を出さないでください」
 ナオはつい、と視線を駅に向けた。
 駅からは何台も馬車が飛び出し、逆に何台もの馬車が乗り込んでくる。
 がらがら、がらがらと。
 こうして外から眺めていれば、それがまるで大きな生き物か、別の存在のようにも思えてくる。
「どうしたの」
 まおが片手にスペアリブを握ったまま、彼の隣に座る。
「んー、駅を眺めてたんだ。別に……」
「えきって凄いよね。人間が作ったものでも、ここまでのものがあるとは思わなかったよ」
 素直に喜んで、彼女も駅を眺める。
 スペアリブを、並んでかじりながら。
「ナオ様、駅には何度か来られてるんですか」
 こちらは2本も食べれば充分、と手も口もナプキンで拭いて何も持たずにすぐ側に寄ってくるヴィッツ。
「あー。うん。あのさ。できれば様づけはやめてくれよ」
「あ、その……気を付けます。つい」
 ふいっと視線を逸らせて俯く。
「ごめん、別に悪い訳じゃないけどさ、なんだかむずがゆいから」
「――さて、ナオさん。ではこの大盛りスペアリブをどうしましょうかー」
 まるで割り込むタイミングを考えていたかのように、ナオの背後からがしっと肩を掴む。
「ボクもヴィッツももう食べられませんって感じなんですが」
 え。
 一瞬硬直する空気。
 思わず顔を見合わせるまおとナオ。
「……見つめ合ってる」
 違うぞヴィッツ。
 というか無理矢理にこじつけてないか。
 ともかく、そんなこんなで。
 無責任に背後で応援する二人を尻目に、まおとナオの目の前にででんとスペアリブが並んだ。
 ちなみに、一房ほどである。
 房じゃ量が分かり難いとのご要望に応えまして、ステーキ換算ですとスペシャルキングサイズ3枚分であります!
 ちなみに、既に二人ともそれなりの量を食べた後の話なので。
――ざっとステーキ4枚か
 自分の頭の中で肉の塊に換算するナオ。
 一応大食い大会で同サイズのステーキを4枚平らげて、ナオは堂々3位の成績だった。
 どうでもいいがキリエは4枚食べきれなかった。
「……勿体ないけど捨てようか」
「うー、たべれるだけたべよう。いきなり捨てるのはどーかと思わない?」
 正論である。
「ふれーふれー」
 棒読みちっくに応援するヴィッツを睨んで、むんずと取りあえず一本掴む。
 このスペアリブという食物は結構くせ者である。
 最初は確かに美味い。実際結構良い肉だと思う。でも、冷えてしまうとその脂がいのちとりである。
 肉汁となっていた脂身が、そのまま白く固まってくる。
 もう旨味なんか感じない。
 さらに、なにせ大量に摂取した後の話なのだ。
 脂がこってりとしつこく口の中に残る。

 もう食べられない。
 そんなかんじ。
 でも、後2本ほど食べればもう登頂なのだ。
 まおはいっぱいいっぱいながら、何故か悦びを覚えつつあった。
 ちなみに、隣でスペアリブをかじるナオは妙に事務的だった。
 その時、にゅといきなり三人目の手が二人の間に差し入れられる。
「!」
「無理しなくて良いだろ」
 そして、スペアリブを一本ひょいと取り上げて、くるくるともてあそぶ。
「キリエ」
 ウィッシュもヴィッツも驚いて目を丸くしている。
 そしてぱくっとかじる。
「お。美味いじゃん。……あ、ごめん、食べたかった?」
 まおが目をうるうるさせて彼女を見つめるので、ばつが悪くなって思わず言う。
「えー、いいよぉー。うー」
 全然良さそうではなかった。
 ナオはこれ幸いと残りを押しつけるように差し出す。
「くってくれ、きつかったんだ」
「いや、その……」
 ちらり。
 まおはぶんぶんと首を振る。
「もうたべられない」
 別に食べたいわけではなかった。ただ登頂したかっただけだ。
 もう少しで頂上と言う時に、いきなり頂上が張りぼてのように崩れて消えてしまっただけだ。
 キリエは複雑な表情をして渋々受け取ると、ナオに向き直る。
 普段なら何とも思わないナオだったが、その雰囲気に気づいて息を呑んだ。
 いつもより真剣な表情で、丁度立ち合いをやってる時の貌そのものだ。
 違うのは、殺気を帯びているのか否か――違うもの、鬼気迫るものを感じた。
「何だ」
「……頼む」
 キリエはそう言って、腰に下げた斬魔刀を――いや、差し出されたそれは木刀だった。
「おい……お前、出発した時妙に荷物多いなぁと思ったけど」
 この斬魔刀の木刀は結構な重さがある。
 樫の木ではなく、俗に『鉄の樹』と呼ばれる普通の鋸では切れないような木材を使って作っている。
 水に沈む程の樹なので、これで作られた棍は鉄の保護帯を必要としない。
 ちなみにそんなもので本気で殴り合うのだから、怪我ですめば良い方だと言われる。
「一勝負」
「勝負って」
「頼む。お願いだからやらせてくれ」
 断る理由はない。
 良く差し出された木刀を見ると、見覚えのある傷が入っている。
「……俺の木刀まで用意してるなんてな」
「訓練場からかっぱらって来たんだ、別の誰かのを持ってくる訳にいかないから」
 ナオは口元を歪めて笑い。
 それを受け取って、一度握りに手を通してくるんと回す。
「いいぜ。体を鈍らせるのは良くない。――やろうぜ」
 キリエに何か考えがあったのか、と言われたら、彼女は多分顔を真っ赤にしてふてくされるだけだろう。
 ナオが答えて、いつもの挑戦的な笑みを浮かべた時には、彼女は安心して思わず笑みを浮かべていた。
 純粋に嬉しかった。
「じゃあ」
「ううん、わかったよー。うしろでみてるー」
 とてとてとまおは、ヴィッツとウィッシュを追い立てるようにして下がる。
 二人は渋々まおに従って、キリエとナオが距離を置くのを眺める。
 斬魔木刀をもっての訓練は危険だ。
 いつもミチノリが彼らの訓練場にいるのもこの為だ。
 悪いと死人がでてもおかしくない立ち合いなのだ。
 二人は木刀がぎりぎり触れる距離で、そっくりの構えで相対する。
 ただし、ナオは片手で木刀を扱う。実戦でも薄手に鍛えた斬魔小刀を使う彼は、左手はあくまで添えるだけだ。
 輪を利用して自在に刃先を向ける技術を駆使する。
 キリエは、片手分しかない握りに加えその輪を握りとして両手で扱う。
 女だてら斬魔刀を操る彼女は、逆に両手持ちのパワーファイターなのである。
 女性だから、ではない。斬魔刀でも大きめの物を、彼女は自在に振り回す。
――男に負けたくない。彼女の意志の顕れが、この形を産んだとも言える。
――女だから。
 そんな言葉が悔しくて、性格故に喧嘩っ早く、散々な暴れん坊として過ごしてきた。
 体つきが近く年も同じナオは丁度良い『定規』のようなものだった。
 ナオ自身性別を気にしないたち、というか、強烈な姉のせいでキリエのようなヒトがいたって別にいいじゃんと思ってたりする。
 だから早々に二人が馴染んだ。パートナーとして戦場を駆けた事もある。
 負けず嫌いなキリエはいつも何かにつけて張り合ってきた。
――今更
 はっきり言って、それは当たり前の事。
 彼女にとって大事な日常。
 既に彼の居場所が彼女の中にある。
 だからそれを変えたくない――変化する事が怖い。
 今更ナオが別の何かに代わる事は考えたくない。
 『ナオ』と言えば今目の前で木刀を構えて、自分の我が儘と気まぐれにつき合ってくれるヒトでなければならない。
 それ以上でもそれ以下でもダメなのだ。
 それが今はっきり判ったような気がした。
 ゆっくり大きく腹で空気を吸い込む。
 今度は、それ以上の時間をかけてゆっくり吐き出す。
 訓練されたその呼吸を繰り返していくうち、両手足に力がみなぎってくる。
 替わりに頭がクリアになり、目の前のナオだけが白い世界の中ではっきりと浮かび上がる。
 何度も繰り返した世界の息吹。
 やがて呼吸のテンポが上がり、心拍数が上がり始める。
 ナオもそうだ。
 同じだ。
 全く違う、同じリズムを刻む二人――やがて我慢出来なくなったように、キリエが木刀を振り上げる。
 切っ先が世界を切り裂き、ナオの右手で木刀がくりんと一回転する。

  がん

 衝撃は伝わらず、勢いは殺すことなく。

  ひゅ

 まるで見えない空気の刃が頬をかすめていく、そんな感覚。
 キリエが飛び込むように踏み込んだ所を、斜めに切り上げたナオの木刀。
 だが、それを読んだキリエは左腕で強引に切っ先を回し、はじき返した。
 ナオはその勢いを使って、キリエの突進に対して踏み込んでかわしながら、体を右に半回転させた。
 変則的な動きだったが、彼の木刀は狙いを過たず袈裟懸けにキリエを襲った。
 踏み込んだ勢いを利用して体を強引に止めた御陰でそれは、彼女の左頬をかすめたに過ぎなかったが。
「おおー」
「凄いですねぇ」
 既にまお達は観戦モードに入っている。
 ぺたりとその場に座り込んで、どこから出したのかお茶をすすっていたりする。
「……」
 何故かヴィッツは無言で二人の様子を眺めている。
 ずず。
「こらヴィッツ、お茶を音たてて飲まない」
「でも、そうしないと飲んでる気がしなくて」
 そんな外野を放り出して、一度間合いを切りなおす。
 体勢を崩したナオに一撃を入れるのは確かに容易だが、ナオは体勢を崩しながら攻撃するスタイルを持っている。
 わざと崩した体勢で相手を罠に誘う――平気でそう言う真似をしてくる。
「騙されないって」
「どぅだか」
 ゆるりと姿勢をとりなおして、斬魔木刀を構える。
 しゅるりと衣擦れの音がして重いはずのそれは手元で踊る。
「油断ならないってね」

  が しぃん

 今度はナオが踏み込んだ。
 キリエの足下を目掛けて斜めに切り割かれる空間。
 だが、ただ下げただけに見えた木刀によりそれは阻まれてしまう。
 刃を上に向けた木刀が。

  ごう

 一瞬遅れれば顎を砕かれたかも知れない。
 アッパーの要領で右腕を振り上げ、遅らせた左手が右手を支点にして一気に切っ先を跳ね上げた。
 互いに全力、掛け値なしの本気モード。
 軽快に踏み込んで大きく振り回しながらもコンパクトに急所を狙うナオに、大きな動きで重い刃を素早く切り返すキリエ。
 時折響く木と木を打ち合わせる音以外は、リズミカルに刻む二人の足音しかない。
「結構長いですね」
「そだね。でもこのぐらい訓練してるってことなんでしょ」
 まおの言うとおり、普段から試合でなければ彼らの打ち合いの時間というのは非常に長い。
 まるで呼吸を止めていられる時間を競うかのように、寄せては返し素早く何度も打ち合う。
 お互いに一歩も引かず、ただ自分の技を競う。
 もう一撃、もう一撃、次の一撃。
 踊るように、祈るように、謳うように続ける舞踏。
 腹式の戦闘呼吸を短く繰り返し繰り返しする事で、心拍数があがり肉体は脈動を続ける。
 踏み込むキリエ。翻るナオ。

  ふ ひゅ

 短く速い呼気が彼女から発せられ。
 遅れて空気を裂く木刀の風切りが伝わり。
 続けてがきんという鈍く低い音が、次の一撃を誘う。

  どん

 間合いを切るキリエの震脚に、倒れ込みながら追い打ちを仕掛けるナオの太刀筋。
 着地と同時に両手で支えた木刀でこれを受け止める。
 流して、反撃。
 肩の高さに水平に振り抜く木刀。
 片手とは言え、垂直に振り下ろした木の材質が材質だ、重みに耐えきれず地面へと沈み込もうとする。
「――!」

  がっ

「っっ!」
 体勢が崩れてしまっていた。
 水平に薙がれた刃をかわすしかなかったが、刃が地面に沈んだ事に一瞬気を取られてしまった。
 それが命取りだった。
 キリエも、勢いのついた刃を止めることは出来なかった。
 いかに木刀とはいえ、頭部への重い一撃。
 ナオはその勢いに負けて真っ直ぐ右に弾けて、地面に勢いのまま転がる。
「――!」
 総立ちになるまお達。
 焦って木刀を投げ捨て、駆け寄るキリエ。
「く、ミチノリを呼んできてくれっ、急いでっ」
「大丈夫だ、かすめただけっ」
 起きあがろうとするナオの腰を、右膝で体重をかけて押さえ込んで彼の右肩を左手で押さえて寝かしつけるキリエ。
「バカ動くなっ」
 叫ぶ彼女に圧されて、ぴたりと動きを止める。
「いいか、頭への直撃だ、今意識があって異常がないようでもすぐ動かしちゃだめだっ」
 必死。
 ナオは目をぱちくりさせて、激昂する彼女を見上げる。
「動いちゃダメだ」
「……喋っても良いか?」
 落ち着いた声で繰り返した彼女に、やっぱり落ち着いた言葉で聞き返す。
 こうして土の地面に横たわるのはどのくらいぶりだろう。
 草の感触と、土の冷たさがひんやりと火照った体を冷やす。
「何」
「巧く受け流した。ほら、ここんとここぶだけ出来てる」
 と、こめかみの上に自分の左手をあてて、べとりと液体の感触を覚えて苦笑いした。
「切れてるな」
「だから動くな、バカっ」
 怪我をしている本人より必死な形相で、だから見上げるナオの方が妙に落ち着いていた。
 道場ではない。
 ここは木の床じゃないから、切っ先を跳ね返すことができずにテンポが遅れた。
 しかし、気づいて柄を叩くようにして身体を逃したのだ。避けられなかった訳だが。
「大丈夫だよ、別に死ぬ訳じゃないし、そんなに酷くない。安心しろよ」
「できるかバカっ、頼むから言うこと聞いて黙って動かないで待っててくれよっ」
 訓練中に事故が起きるのは別に珍しい事じゃないが、木刀が直撃するような怪我は殆どと言って良い程ない。
「……今回は俺のミスだし、お前がそんなに慌てる必要はないだろ。痛いのは俺だ」
 こんな時は本人より状態の判らない他人の方が焦る。彼もそれはよく判っていた。
「平気だって。大丈夫、大したことないから」
 妙に落ち着き払って言うナオの言葉に、怪訝そうに眉を寄せて顔を近づけてくる。
「本当に、大丈夫なのか?」
「ああ。かすったから切れただけだし、こぶができてるけどその程度だよ。後で医者には診て貰う。これでいいか?」
 落ち着いた顔というのは、それを見た人間を落ち着かせる効果があるという。
 肩と腰の彼女の感触がふっと緩んで、ナオの拘束が解かれた。まだ足と手は載っかってるが体重は乗ってない。
「……悪かった。ごめん」
「だから、謝るなって。俺のミス。道場の床と勘違いして切っ先土に沈めちまったんだよ」
「バカ」
 多分。
 ナオは思った。
 多分、今までにもこれからも、絶対に見ることの出来ない顔だと。
 彼女は明るく笑いながら目尻に涙を浮かべて、おかしそうにおなかを押さえて。
「何やってるんだよ、ホントにバカ」
 酷く安心していた。
 ナオにはその貌をしばらく見つめて、目を閉じた。
「言っとくが、俺の上で泣くなよ。ミチノリが来たらなんていうか判りゃしない」
「わー、判……泣くかバカっ」
「でもぉ、もぉ遅かったぁりしてぇ」
 ひょい、とキリエの頭の上からいつもののんびりした貌を覗かせた。
「わわっっ」
 焦ってナオから離れるキリエ。
 まちがって声の方向に身体を逃がしたせいで、思いっきりミチノリを巻き込んで真後ろに転んでしまう。
「うわぁん、痛いじゃなぁいのぉ、キリちゃぁん」
 と、全く痛そうじゃない声を上げて、ミチノリは身体を起こして埃を払う。
「五月蠅いっ!お前なんかナオの治療をやってればいいんだ!」
 無茶苦茶な事を言いながら立ち上がり、ぶんぶんと右腕を振り回す。
 本当に何を言いたいのだろうか。
「でもぉ、ゆぅちゃんの言うとおりだったぁからぁ、良かったぁよぉ」
 にこにこ。
 そう言われれば彼の恰好は祈祷師の正装、この装束を持ってきていた事も驚きだがしっかり着込むにはかなり時間がかかるはず。
 旅装束の下に着ていたのかも知れないが。
 いつも旅の際にはつなぎに近いデザインのぶかぶかの服を着ているが、これは中に色々着込めるようになっているからだ。
 勿論祈祷師の衣装だ。
 何を着込むのか、と言われれば色々返答がある。祈祷を行う術者は全員が全員同じ恰好するわけでもない。
 あんな、馬鹿でかい手袋(しかも中身は謎のまま)を祈祷師全員がつけていたら多分誰も祈祷師にならないだろうし。
 邪魔で仕方ないし。
 それが理由ではないが、祈祷師の正装は精神的に安定する為に身につけるものとは別で、見た者にそれと判るように示す代物だ。
 幾重にも重なった上着や飾り紐を見れば、普通に着込む事は簡単じゃないのはすぐ判る。
「……何でそんな恰好なんだ」
 ちなみにそれでもあの手袋を着用するのは、彼自身のこだわりなのか?
「一応、この方が効果が高いぃから着てるんだよぉ」
 彼の場合術者自身への精神的効果の方が高いようだ。
 ずずい、と声の主の頭の側に正座すると、手袋で彼の両肩を掴み。

  だきっ

 どこか嬉しそうに彼を抱きしめる。
「うぅ〜ん、いたぁいのいたいのぉ〜」
 後頭部をさすりさすり。
「とぉんでぇいけぇ」
「そこは痛くない」
 あれ?と首を傾げてがばりと身体を離す。
「うわ、ナオちゃんちまみれ」
「今頃気づくな」
 てへり。
「ごめんちゃい」
 彼はにこにこ笑顔を崩さず、左の指で彼のこめかみをなぞる。
 指先が、赤黒い血の色に染まるのを意に介さずに彼に頬を近づけてそのまま頭を抱きしめてしまう。
「こらーっ」
「……何をしてるんですかあなたは」
 流石に色めき立つまお達。
 というか、いたんだよな、すぐ側に。
「静かにっ」
 きっと睨み付けて一瞬で沈黙させると、キリエは彼の様子をじっと見つめる。
「祈祷師ってのは、ただお祈りして治す訳じゃないんだ。良いから黙って見るの」
 ナオも目を閉じて、完全に力を抜いて彼に抱かれるままにする。
「いたぁいのぉ、いたぁいのぉ、とんでいけぇ〜」
 とろけるようなのんびりした口調で、静かに、まるで何かにお願いを続けるように、小さな囁きを続ける。
「いたくなぁい、いたくなぁい、大丈夫だぁからぁ」
 その様子は、何か大切なものを抱きしめているようにも見えて、確かに嫉妬しそうな光景である。
 声も顔形も女の子にしか見えないミチノリならではだが――いや、この祈祷の方法も彼オリジナルだ。
 安心して欲しい、筋骨隆々な暑苦しい祈祷師やひげもじゃの男が同じ事をする訳ではない。
 念を押すが、ミチノリは男ではあるが着ているものは全て女性用の祈祷師ルックである。
「……あ」
 まおは声を上げた。
 ミチノリの左指が出血を拭う。それまで拭っても拭っても溢れていた出血が完全に止まった。
 治癒していく。
 彼女は魔法を使うことができる、まるで意志のようにあらゆる物を実現できる。
 しかし、治療はできない。
 物を生み出すことは出来ない――何かを変化させる事は不可能ではないが。
「うわぁ、これが祈祷師の治療ですかぁ」
 ウィッシュの声、キリエの安堵の吐息。
 ヴィッツの嘆息にまおの驚き。
「よぉかったぁ。もういたくない?」
 両手で彼の頬を押さえて見つめ合う二人。
 いや、別に見つめたくないが彼が両頬を押さえて離さない。
 あまつさえ『何時でもキスできるぞ』みたいに顔を近づけるものだから、ナオも思いっきり引く。
「いいいいい痛くない痛くない痛くないから離せっ」
 しくり。
 本当は痛い。
 何の痛みか判らないが――右のこめかみに残る、鋭い痛み。
 酷い物ではないが、祈祷師の治療が万能ではないから医者には診て貰わなければならない。
 祈祷師ができるのは、『そう信じる事によって治癒能力を上げて』快復させるだけ。
 傷はふさがるが、もし内臓に何らかの障害を受けた場合、それは治すことは出来ない。
 ユーカの『歩く薬箱』の意味通りなのだ。
 普通なら一年かかる回復もほんの数秒で治してしまう。
 そう言う意味では凄まじい術であるが。
 余談になるが、一応落ちた腕をくっつける事もできる。勿論、動かないが血が通って生きた腕にはなる。
 フックや木の腕を付けるよりまし程度ではあるが、リハビリや治療次第で少しずつ動かせるようにもなるという。
「ほんと?」
 ミチノリは両手でずいと彼を引き寄せる。
「ほんとほんとほんとだってばっ」
 にっこり。
 彼はナオを解放して、すくっと立ち上がった。
「良かったぁ」
 そう言うとキリエの方をちらり、と見てウィンクする。
「じゃぁあ、乗り場で会おぉねぇぃ」
 ぶんぶんと大きな手袋を振り回して嬉しそうに言うと、てこてこともと来た道を下っていく。
「はやかったよ。私が呼びに走ったら、もう駅からこっちに向かって歩いてきてたんだよ」
 話が出来なかったから、まおは治療を終えたナオに近づくとそう言う。
「……ユーカが手を回したか?……」
 じろり。
 キリエに視線を向けると、ぶんぶんと彼女は首を振って否定する。
「何にも言ってない。何、俺が何かした?」
「今ここでいきなり木刀で殴った」
「それは被害者の物言いだろう?本当に殴ってやろうか」
 ずらり。
「まーまーまーまー、今折角治ったばかりだってのに、やめよーよ」
 慌てて彼女の前に割り込んで両手を大きく広げるまお。
 くりん、とナオの方を振り向いて笑う。
「だいじょぶ?」
「ああ、何度も聞くな。医者には診て貰うしな。……悪いな」
 そう言ってキリエに右手を挙げる。
「いいっていいって。俺も悪かった」
 キリエが頭を下げると、ナオは彼女の肩をぽんぽんと叩くと、ウィッシュとヴィッツにも手を挙げる。
 そして、去り際にナオは、顔を上げたキリエの顔を覗き込むようにして。
「ありがとう」
 口元を歪めて、にっと笑うとそのまま駅の病室へと去っていった。
「おーい」
 ぶんぶん。
「……へんじがないなぁ」
「ただのしかばねですね」
 こらこら。
 まおとヴィッツは立ち去るナオを見送るキリエの様子に怪訝そうに顔をしかめた。
 声をかけて反応がなかったのだ。
 ちなみに手を振ったのはまお。
「行きましょうかまお様。放り出しても気が付いたら来るでしょう」
「そだね。遅れそうになったら呼びに来ようか」
 すたすたすた。
 キリエは一人、その場に残されて立ちつくしていた。
 ナオの背中が遠くなっても、彼女は動けなかった。
「はぁ」
 大きくため息。
 はっきりと判ったことが幾つか有る。
 ナオが何時でもこうやって、応えてくれる事。
 ナオが倒れたら絶対に半狂乱になるだろう事。
 少なくともナオに今の想いだけは伝わった事。
――ナオが倒れる事だけは許せない
 それだけ考えていれば良いのかも知れない。
 ちょっとだけ先刻の言葉が嬉しかった


 馬車はほぼ時刻通りに発車した。
 相変わらずはしゃぐまおを乗せて。
 馬車と言っても色々あるが、彼らの乗った馬車は十二人乗れる三頭だてのものだ。
 結構大きい鉄馬車で、走る速度は決して速くないが、がらがらと歩くよりも速い速度で走り続ける。
 窓から見える風景は、今までに見たことのない前から後ろへと流れていく綺麗な草原。
 風が吹いている訳でもないのに、大きくたなびいているように見える。
 鉄製の枠に填められた丸窓に張り付くようにして、まおは飽きもせずに外を眺めている。
 前後3列、後ろの2列は4人座れる椅子が向かい合わせに付けられている。
「さてと」
 一番前の革張りの椅子に深々と腰掛けるユーカ。
 隣でまとわりついているミチノリを押しのけて、彼女は腕組みしてナオを見る。
 ナオの隣にはキリエ、一番後ろの席でウィッシュ達がきゃいきゃいしている。
 乗り合いだが貸し切りみたいなものだ。他に客は居ない。
「……なんだよ」
「何、ちょっと確認しておきたいことがあるんだ。ナオ、キリエ。お前達は泳げるか?」
 今何故か顔を蒼くしたミチノリはともかく、ナオは平然とした表情で言う。
「泳げるぜ。別に。一応軍の課程にあるからな」
「温水だけどね」
 ユーカは少し眉を寄せる。
「海とプールでは感覚が全然違う。海の方が寒いし、身体が浮きやすいが波がある」
「それって心配するほどの事か?」
 ナオは腕組みをして椅子の背もたれにぐーっと押しつけるように伸びをする。
 狭い馬車の中では時々身体を動かせる方が良い。
 キリエは足を組んだりしてみる。
「オオアライからはガレーシップだろ?」
 キリエの科白にもユーカは眉を寄せて苦い顔をする。
「確かにそうだ。が、シコクに向かうのだ。海上で魔物と遭遇する可能性がある」
 ぴく。
 ナオの顔色が変化する。
「海にも魔物が居るのか?」
「ああ」
 淡々とユーカは頷いた。
「シコク周辺では嵐が多く、そんな夜に限って出没する魔物がいるらしいんだ。だから魔物が嵐を起こしているとも言われている」
 ナオはふん、と頷いた。
 考えてみればさほど不思議なことではない。
――入るのも出るのも妨害しようってことか
 シコクに何故強力な魔物が居るのか。それは様々な噂が飛び交っている。
 しかし、少なくとも知っている限りそこに魔王がいるわけではないらしい。
 非常に変な話だが。
 それは常識として触れわたっている。
 曰く、魔王を倒す方法がそこに隠されているだとか。
 曰く、強大な軍事力が魔王にとって邪魔だったからだとか。
 しかしそれももう千年以上前の話であり、はっきりしていないのが現状だ。
 ともかく今は、人間が住むには非常に問題のある国になっているということ。
 そんな場所だから、人間が近づいてきたら追い出そうとする魔物が居てもおかしくない。
「もう勇者って奴は、そこで魔王を倒す方法なりなんなり見つけてるのかな」
 …………。
 キリエとユーカは目を合わせて思わず苦い顔をした。
 ちなみにミチノリは判ってるのか判っていないのかにこにこしている。
「悪いナオ。まだ言ってなかった。勇者を捜しに行く旅じゃない」
 がたごとがたごと。
 一瞬馬車の音だけが妙に耳について響いた。
「……何しに行くんだ」
 流石にナオは怪訝そうな顔をして、首を傾げる。
「ああ。私の知り合いにキール=ツカサという男が居る。とりあえずはそこを目的にする」
 言い切るユーカ。
「とりあえず?する?」
 流石に微妙な調子に気づいてナオは強調するように繰り返し、眉を寄せる。
 しまった、と思ったが、ユーカは顔色も変えずゆっくり頷く。
 彼女も人をだませるような人間ではないし、ナオも自分の命に関わる事には敏感だったと言うべきだろうか。
「悪かった。実を言うと特務として旅をしているが、シコクに向かう以外に目的はなかったからな」
 精確には確かに違う。
「騙していたわけではない。勇者、魔王に関わるモノを手に入れる為の旅だ」
 理解できるように説明しよう、と彼女は一度言葉を切ると真面目な顔をして二人を見ると、そのままミチノリに視線を向ける。
「……なぁにぃ」
「いや」
 きゅ、と彼女の腕に絡めた腕に力を込めて、彼はユーカを見上げる。
――ほら、やっぱり騙してたじゃない
 何となく責められているような気分になって、彼女はため息をついて視線を逸らせた。
「まず勇者と魔王の組み合わせが存在する。しかし、まずこの魔王というものがくせ者だ」
 ぎく。
 窓に張り付いたまま冷や汗を垂らすまお。
 勿論ふりかえったりしないが。
「創世の頃から存在した訳じゃない。いきなり、まるで降ってわいたように存在した。ついでに付け加えるが、既に何度も滅んでいる」
「知ってるぜ。おとぎ話だろ」
 ぶんぶん。
 ナオの言葉を否定するようにゆっくり首を振ると彼女は話を続ける。
「事実だ。魔王というのは、何度も勇者によって滅ぼされ、その後少なくとも勇者の存命中は生き返った記録はない」
 ごそごそ、とミチノリは動いてユーカから身体を離した。
 そしてちょこん、と座ったと思うと懐から巻物を取り出す。
「ありがとう」
 ユーカにひょい、と差し出すと、彼女はそれをくるくると開く。
「その間魔物は何故か消失し、平和と呼ばれる期間があった上で、再び魔王は魔物の軍勢を率いて復活する。世界を滅ぼす――征服するために」
 そう言いながら彼女は巻物を見せた。
 そこには年表のようなモノが書かれている。
「つまりこうだ」
 魔王の『復活』。勇者の『発生』。そして魔王の『滅亡』と平和の期間。
 きゅ、と赤い色で線を引いている。
「勇者が魔王を滅ぼしてから死ぬまで、この期間が平和の期間。それを除いて、この世界は魔物で溢れるようにできている。――まるで、そう定められているように」
 彼女は巻物を自分のほうに向けてくるくる、さらにめくっていく。
「この平和の期間、これはむしろ不自然な期間なのだろうと仮定すると、勇者が発生していない魔王だけの期間」
 はらりと裏返すと、今度は蒼い線を引いた図が載っている。
「これは比較的長く、25年も待たないかと思えば、200年以上続く今のような状況もある」
 両方存在するほんの数年よりも基本的に長い、とユーカは続けると巻物をミチノリに返した。
「つまり、この期間は非常に安定しているといえる。ここまではいいな?」
「あー、不安定とか不自然って」
「簡単に終わるって事だ。不安定なやじろべーみたいなものだよ」
 キリエは目をくるくるとさせて首を捻る。
「逆に、安定してるって事は変化させるのに力がいる。勇者という存在は魔王を滅ぼさなければならないから同時に存在するのは難しいし、勇者は魔王を滅ぼすから、魔王無しには存在しにくい」
 滅ぼされた魔王は、勇者が居ると存在できない。
 つまり、長期間勇者が居ない状態というのは世界としては細波すら立たない安定した期間。
「今という時期は、世界が安定している訳だ。力の揺らぎすら発生しないほど」
 ナオは首を傾げながら、ユーカの目を見つめる。
「それって、つまり世界としては問題ないって訳?人間が滅ぼされて魔物の世界になっても」
「元々世界は人間のために有る訳じゃない。そう言う事になるかも知れないが」
 では勇者とは何か。
 何故勇者が生まれて魔王を滅ぼすのか。
 魔王はなぜ勇者に滅ぼされなければならないのか。
「それ以前に、魔王が世界を征服する理由って、なんだろうか。という話になるだろう。今回はそれとは違う」
 困った顔を浮かべると、悔しそうに彼女は貌を歪める。
 自信たっぷりな表情しか見たことのない彼女が、こんな顔を見せることは滅多にない。
「つまり勇者という存在が顕れた瞬間、世界は揺らぐ。狭い世界の崩壊を、動揺を起こす為に」
「ゆぅちゃぁん、それって今思ったことでしょ」
「うー。五月蠅い。証拠が見あたらないんだ。魔術によっても力の動揺が発生するし、世界はその傾きを修正しようと動き始めるんだ」
 かーっと子供が言い訳をするように顔を赤く染めて、彼女は隣のミチノリに怒鳴る。
 ミチノリは相変わらずにこにこ、いやにやにやして彼女を見つめている。
「でもぉ、間違ぃなぁく勇者がぁ発生しぃたなぁらぁ、世界は歪んだぁ」
 くすりと小さく笑うと真正面からユーカに抱きつこうとして、彼女の掌にキスしてしまう。
 ユーカが差し出した掌でミチノリの顔はぐいと後ろの壁に押さえつけられていた。
「抱きつくな鬱陶しい。……私が推論を述べなければならないのは非常に、こう」
 どこか興奮した様子。
 普段落ち着いた彼女の事を知る二人には珍しい光景だったが、キリエは取りあえず落ち着かせようと彼女の言葉を継いだ。
「腹立たしい、とか」
「ああ腹立たしい。だが論理的に考えて、この間の世界の歪みはそれしか思いつかない」
 ぐりぐり。
 ばたじたばたじた。
 ユーカはミチノリをそのまま壁に押しつけている。
 呼吸が出来ないのかミチノリは両手足をばたばたさせている。
 彼女らしくない論理的じゃない対応だ。
「そう言う訳で、何故勇者が発生するのか、何故魔王が存在しなければならないのかを私自身頼れるのがキールしか居ないと言う訳だ」
「むばっもがっ」
 ぱ、と急に手が顔から離れて、椅子の上にぺたりんと崩れるミチノリ。
 顔が真っ赤で、涙目になっている。
「ゆぅちゃぁんいぢわるぅ」
「やかましい」
「その世界の歪みは誰かが故意に歪めたモノなのか、その誰かとは誰なのか。――結局手がかりのないまま、占いに頼ったのが現状だ」
 じっとしていても世界を知ることは難しい。だから行動するための指針が欲しい。
 占いにそれを頼ってしまう事は危険な賭けだが、今ある選択肢を未来へと予知する事でその選択肢を狭める手段としては有用といえる。
「結局遠回りになった、とか」
「占いでははっきり出ないからな。しかし、シコクに向かうなら戦力がいる。だからお前達を借りた。ここまでは間違いではなかった」
 うんうんと頷くミチノリ。
「ともかく――これからが本番だ。頼りない話。こんな話を聞いても付いてきて貰えるか心配だったから、はっきり目的を言わなかった」
 そう言って、彼女はぺこりと頭を下げた。
「すまない」
「え、えと」
 ナオとキリエは顔を見合わせて、互いに困った顔をする。
「謝られても。もう特務で出動かかってるんだし、なぁ?」
「ああ。やれることはやる。ナオ、お前の背中は俺が守る」
 に、と口を歪めて笑うとナオはユーカに不敵に笑みを湛えてみせる。
「俺はユーカ達を守る。それだけだ」
 思わず、ユーカは笑って頷いた。
 ありがとう、と言葉を出すだけでも精一杯だった。