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魔王の世界征服日記
第1部『魔王』まお


 ここはとある、まあよくあるふぁんたぢぃな世界。
 和製えせふぁんたぢぃRPGな世界観だ。
「はぁ」
 背中姿。
 ため息に合わせて大きく肩が上下した。
 大きな黒い執務机に、黒檀の巨大な椅子。そう、玉座とも言うべきものだ。
 黒い牛革張りにした内側に羽毛のクッションが埋め込まれていて、立派なソファである。
 そしてその両脇には、意味もなく竜を象った御影石の彫刻が飾られている。

  こり、こりっ

 首を左右に曲げて、とんとんと肩を叩く。
 年の頃は十五、十六と言ったところか。
 少女が、その椅子に座ってなにやら書類を書いていた。
 ……良くある、ちょっと薄手のドレスで。
 ふぁんたぢぃな世界観では、あまり季節感がない物が多い。
 理由は簡単。非常に乾燥した空気であり、初夏の爽やかさが永遠に続く世界だから。
 それでも北や南の果てに行けば万年雪があるし、ここでは時間ではなく場所で季節が変わる物なのだ。
「疲れたなー」
 うーん、と伸びをして言う少女。
「マジー。マジー、ジュースちょうだい。冷たい奴」
 へばった貌で草臥れたような声を出して、机に突っ伏しながら呼ぶ。
「陛下、私の名前はマジェストです。第一、冷たいジュースなんかありません」
 脇に控えていた、ローブのような物を着た優男が言った。
 よく見れば短い髪に丸眼鏡、糸目の美声年である。ちょっと色白過ぎるが。
 彼の名前はマジェスト=スマート。『魔王まお』の執事兼全軍団参謀である。

 そう、彼女、まおは世界を征服しようとしている魔王だったのだ。
 決してちちくさいちんまいガキではなかったのだ。

「え゛ー」
 前言撤回。
 唯のがきである。
 ふてくされた声で非難して、まおはジト目をマジェストに向ける。
「あれは北の果てのサッポロにしかありません」
「ね、ぢゃあサッポロに城を変えてよ」
「それは伝承により不可能です。魔王陛下の魔城は岩山か海中か火の山と決まっているのです」
 むすーっと魔王の貌がふくれる。
 こうしていると本当に唯の子供にしか見えないが、既に二百年以上生きた存在である。
 長寿なのではなく、死なないのだ。
 死ねない存在は、その精神が疲弊するのを防ぐために強力な忘却能力を備えている。
 それも、自発的に使用することが出来る。
 そのせいで性格は非常に幼いままに固定されてしまう事が殆どだ。
 これは学習能力がないという訳ではなく、『自我意識』と『肉体』が完全に別個に独立して存在できると、そう言うわけなのだ。
「だったら何とかしなさいよ。というか、何で世界を征服しようとしている魔王が、こんな目に遭わないといけないのよぉ」
 全くもってその通りだ。
「世界を征服しようとしている魔王だからです」
 こともなげにマジェストは言う。
「いいですか陛下。何百年も言い続けていますが、陛下は世界を征服しなければならないんです」
 直立不動のまま、困ったように眉を寄せて中指で眼鏡を押し上げる。
「世界を征服しない魔王はこの世に存在できません」
「……私の意志はないのぉ」
「ありません」
 だくだくと両目から涙を流して両手をばたんばたんと振り回すまお。
「え゛ー。なんでー。なんでよー。もうあきたよー」
 昔々。散々人間どもを蹴散らして遊び、蹴散らす軍団を作って遊び、全世界を恐怖のどん底に叩き込んで、勇者に倒されたはずの魔王。
 伝承に残る魔王。
 もし伝承と違う点があるとすれば、その外観だろう。

 よく考えて貰いたい。
 魔王の伝承が残っているということは、それが歴史的事実だったとして。
 メディアが発達しない世界ではこの手合いは通常口伝である。
 口伝というのは歪められる物だ。
 たとえ、それが命がけだったり人死にが出るような事であったとしても。
 通常、それは「真実とは違う形で伝承されてしまう」。
 魔王は残虐でも、暴虐でも、冷酷でも、まして世界征服を企んですらいなかった。
 彼女の望みはたった一杯の冷たいジュースで、遊べないことに不満を漏らす女の子だった。

「あーあ、昔は良かったなぁ。何でも思い通りにできたし」
「わがままを止めるヒトが居なかったのも事実です。あのまま放置していたら人間なんか居なくなってしまいます」
 じろ、とマジェストを睨み付ける。
「何。あんなゴキブリみたいな連中、滅びる訳ないじゃないの」
「陛下。陛下がそのような事を仰るから、我が軍団は士気が上がらないのです」
 マジェストの中指が再び眼鏡に伸びる。
 お説教モードに入るスイッチのようなものなのだ。
「良いですか。陛下は世界を征服しなければならないのです。軍団の初期設定が世界征服ですから」
 組織という物は必ず目的と方向性がなければ空中分解するように出来ている。
 意志のない人形がそろっていたとしてもこれは同じ。
 今度は『組織』という形がなくなってしまう。
「人間が弱くてはいけませんから、バランスを考慮した軍団設定にしておりますが、基本的に負けることはありませんが」
「判ってるけどぉ。……私に自由はないの?」
「ありません。伝承のとおりここにおられないと困ります」
 にや。
「陛下」
「こまるんだー。ふーん、困るのかぁ」
「一番困るのはあなたですが。勇者がいつ来るか判らないんですから」
 う。
「…うー……」
 いじいじ。
「でもさぁ。私魔王なんだよ?」
「ええ。だからです。休憩を終えてさっさと書類にサインを走らせてください。次の目標はサッポロですから」
 まおは自分の机の上にある書類に目を通す。

 『サッポロ攻略計画1 温泉とアイスクリーム強奪作戦』

「むきーっっっ!なんで部下ばっかりおいしい目にあって、私はここで書類にサインなんかしなきゃいけないのよ!理不尽だ!」
「それが世界を征服する魔王の仕事だからです」

 魔王まお。地下の牢獄で彼女の看板をしょった軍団の罰総てを一手に引き受けるための生贄だった。


「魔王陛下、献上品でございます」
 ここは謁見の間。
 飾り立てられた椅子に、赤い絨毯。金糸の刺繍がけばけばしい。
 豪奢な大理石の石柱がずらりと建ち並び、無意味に広い。
 そこにまおは足を組んで座っている。
 軍団長は彼女の側に傅いた体勢のまま、側に置いている物を差し出す。
「うむ」
 まおが唯一にして最大の楽しみが、各国を征服して帰ってくる軍団長の報告だった。
 何の情報も与えられないわけではないが、久々に見る懐かしい顔が話してくれる外の様子は面白いものだ。
 そして何より『おみやげ』がある。
 偉そうに受け取る。
 はこ。
 開けてみる。
 なかにちょこんと、小さな石ころがある。
「…………なにこれ」
「これは世界に二つとない、『命の雫』と呼ばれる…」

  ひゅ ぽい

「いらない。小さいし面白くないし」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
 世界に二つとない秘中の秘宝は、魔王の一言でこの世から消えてなくなってしまった。
「あんたサッポロ攻めしてる軍団でしょ。ジュースよジュース。アイスクリームは?あんな下らない物はいらないの」
 世界に二つとない秘宝は魔王にとって何の価値もなかった。
 世界中の魔法使いが垂涎の秘宝、有れば世界を征服するだけの魔力を手に入れるという宝石よりジュースらしかった。
 苦労して手に入れてきた軍団長は驚きのあまり崩れた顔のまま、茫然自失としていた。
「ねえ。ねえってば」
 魔王の声も聞こえなくなっているみたいだった。
 まおはため息をついて右手を振る。『あっちにいけ』の合図だ。
 するとマジェストが彼に近づいてロープでぐるぐるまきにして、見かけに寄らない膂力で軍団長を引きずって出ていった。
「役立たずねー。左遷しようかしら」
 サッポロ攻めは既に開始してから二週間が経過している。
 逐次報告は受けているが、この北の国はなかなか守りが堅い。
 面積は丁度、世界で一番広い大陸の四分の一。
 世界でも最強と言われる防御戦闘を得意とする将軍がいると言われている。
 事実魔王の軍団に攻め入られていない、人間しか住めない大陸の中では強固だった。
「やっぱりこっそりサッポロに行って」
「お願いですから陛下、そう言うことは口に出さずにお願いします」
 びくっと玉座で振り返るまお。
 いつのまにか、いつもの位置にマジェストが戻ってきていた。
「マジー」
「だから私の名前はマジーではありません」
 マジェストは言うと、懐から巻物を出す。無論羊皮紙で、羽ペンを使って書き込まれた報告書だ。
 パピルスでも紙でもないし、鉛筆やボールペンで書かれているわけではない。
「サッポロ最初の砦、トマコマイの陥落まで確認されたものの、こちらの軍勢も全滅」
 僅かにまおの顔が歪む。
「既に取り戻されているでしょう。やはりサッポロの『フユ将軍』はなかなか手強いようです」
 フユ将軍。本名を巳間桜冬(ミマオウ=フユ)という。
 若干十七歳にして前将軍から地位を引き継ぎ、魔物相手に驚異の防御戦闘を繰り広げるという。
 本人は古代魔法『言霊』の使い手で、並大抵の魔物ではとても相手にならないらしい。
「…『勇者』と比較してみたいな」
 顔は笑っていない。
 彼女の声色は笑っているが、決して――楽しむ風な声ではない。
 マジェストは片眉を少し上げて、魔王の視線を受け止める。
「陛下。勇者は人間です」
「判ってるよ。そのぐらいのことは」
 そう言って玉座から立ち上がる。
「でもサッポロに出る口実には、してもいいんでしょ」
「お咎めしたところで、無駄でしょう。…言っておきますが、お小遣いは三百エンまでですからね」
「え゛ー」
 どうやら魔王といえども買い物はするらしい。それも、人間の通貨で。
「それぢゃあジュース一杯しか買えないじゃないの」
「当たり前です。魔王軍は全世界に展開中、その食事と兵装を整えるだけで既に経済的に圧迫されているのです。温泉旅館で一泊などもってのほか」
 そう言ってマジェストが右手を振ると、黒子が数人、何かを抱えて現れる。
「サッポロ遠征される陛下は、この装備をお持ちになってください」
 箱を開ける。
「…冗談でしょ」
 ふかふかのコート。縁に毛皮があしらってあり、中には多分羽毛が入っている。
 そして、皮で出来た小さいポーチと、大きめの布の塊。樹で出来た骨組み。
 端的に言って。
「冬山用登山セットです。冗談ではありません」
「そう言う意味じゃないの。ないけど…」
「お食事については心配なさらないで結構です。毎日、決まった時間に同じ物をお届けします」
 彼女の食事は、専門のシェフが丹誠を込めた超バランス栄養食である。
 だから彼女の美貌と若さが保たれている。
 …訳ではないが、御陰で太る事も痩せる事も赦されていない。
「届けなくて良い。てー、何?私、魔王なのよ、魔王なのにっっっ」
「はい。世界を征服する魔王陛下だからです。お体を大事にしていただかないと」
「だったらどこか旅館に泊めさせて、せめて普通の屋根のあるところでー」
 だくだくと涙を流して懇願するまお。
 どこか爽やかすぎる笑顔で答えるマジェスト。
「駄目です。お金がありません」


 魔王まお。駄目人間禁止令強制装置マジェストに今日も虐められていた。


「うーっ、さぶさぶっ」
 魔王は魔法の使い手である。
 これだけは伝承と間違いはないんだが、所謂『瞬間移動』はできない。
 精確には危険で使いようがないのだ。
 魔法でも物理学の法則をねじ曲げることは出来ない。逆に言えば方程式に描けない術は存在できないのだ。
 この『魔導物理学』に提唱される魔法の中でも、『瞬間移動』だけは危険なのだ。
 『同時に同じ物体が二点に存在できない』理屈から速度を無限大に上げることが出来ないから、肉体を最小単位にまで完全分解して物理的影響をを極限にまで下げる事で世界に溶け込ませてしまい、望む位置で存在確率を復元する方法が提唱されている。
 これは自然界という巨大な枠組みのバグ(非線形方程式の解を含むことが出来る完全なモデルパターン)を利用しているのだが、誰も試した奴がいない。
 時間的偏在化をした場合でも同じである。物理学で言うところの『不確定性理論』に基づくミクロの世界の話だ。
 だから、どれだけ術を制御したって身体が欠けたりする可能性がある。無論、最悪の場合死に至るだろう。
 自然界は非線形から逃れられないから100%は存在しないのだ。
 だからここ北国サッポロ王国まで、彼女は徒歩できたのだ。
「なんで魔王の私が」
 ぶつくさ言いながら、彼女は唯一むき出しの顔をミトンの手袋で包む。
 体温がすぐに逃げていく寒さだ。
 ざくざくと、足下で音を立てる霜柱。
 ここは凍土にはならないようだが、それでも思った以上に酷いようだ。
「は、鼻水がでそう……」
 しもやけ気味の顔をなで回しながら、それでも彼女は前に進んでいた。
「陛下、お食事でございます」
「だからマジー、どうやって私に追いついてくるのよ」
 声に振り向くとマジェストが跪いて皿を掲げていた。
「魔王軍団参謀ですから」
「理由になっていない気がするのは私だけ?」
 言いながら、派手な銀色の蓋を開ける。
 四角い白い、穴の開いた厚手のクラッカーのような物が並んでいる。
 ケーキのようだが、どちらかというとビスケットの柔らかい物に近い。
「…これも飽きたなぁ」
「陛下。しかし、これ以外の食事を摂られてはその体型を維持できません」
「せめてチョコ味とかフルーツ味とかベジタブル味って作ってよ」
「版権の都合上無理です」
 あいも変わらず無碍に言い切るマジェスト。
「だからって、毎回レアチーズケーキ味じゃ飽きるよホント」
 主たる栄養源はこの食事だが、彼女、一応カロリー内でおやつが食べられる。
 金額に換算しておおよそ三百円。
 今回のおこづかいも、それが基準になってたりする。
「版権の都合で、一番近い味を選択させていただきました」
「…版権ってなに」
 マジェストは笑って誤魔化した。
「大体なんで私、こんな女の子の格好なわけ。しかも妙に受け狙いの」
 伝承と違う部分を指摘すると、マジェストは少しの間顎に手を当てて考え込む。
「その方が、やはり大衆受けするかと」
「大衆受けってなに」
 再びマジェストは笑って誤魔化した。
「だいたいー。マジーはいつもいつも何を言っても伝承の通りってすますけどぉ」
 横目で涼しい顔をしているマジェストを睨む。
「どうして伝承の通りの恐ろしい魔王じゃないのかなぁ、私は」
 くすり、とマジェストは小さく笑い、立ち上がって膝を払う。
「そうですか?」
 くい、と眼鏡をかけ直して彼は一礼する。
「私は陛下が伝承の通りの恐ろしい魔王陛下だと存じ上げています」
 一番付き合いの長い、側に仕える物として。
 そう言う風に作られたモノだから、でも。
「総ての伝承をお作りになり、それを一手に引き受ける世界最古のストーリーテラーである陛下」
 そこまで言って、一度首を傾げた。
 まおも眉を寄せて奇妙な顔をする。
「……陛下の外観は、陛下自身でお作りになられたのでは」
 まおは目をきょろきょろさせて、あははと笑って頬を押さえる。
「そ、そうだったっけ」
「陛下の望まれる姿。最終的に、今のお姿は陛下の望みのはず」
「物語としては、あまり嬉しくない展開かもね。……勇者にとってはどうか判らないけど」
 僅かな沈黙。
 マジェストも熟考する暇を与えられず、答えるしかなかった。
「陛下のお望みのままに。喩え、陛下が望まれた結果が訪れていないと感じられても」
 さもなければ、まおが安心することが出来ないから。
「総ては、筆をお執りになられる陛下の御心のままに」



 極寒の国サッポロ。
 名物は温泉と酒ホット。
 この世界のここ以外何処にも存在しない、麦以外の原材料で作られる酒。
 それを、寒いからという理由だけで暖めて呑んだらうまかったというのが最初。
「フユ将軍」
 土を灼き固めた大きめのコップに、湯気を立てる熱い酒を注ぐ。
 この国に住む人間は、麦を原材料にする酒は飲まない。
 理由は一つ。暖めるとまずいから。
「……なんですか」
 尤も、『酒』の概念は全世界共通らしく、何処に行っても名物の酒がある。
 飲み方と、その礼儀の違いがあるぐらいだ。
「トマコマイの防備、どういたしますか」
 今、サッポロの首都では簡単な酒宴の席が設けられていた。
 この間のトマコマイ攻防戦の勝利を祝う意味と、これからの戦のためのものだ。
 主賓は巳間桜冬。通称フユ将軍だ。
 肩で切りそろえた綺麗な黒いおかっぱ頭に、白いはちまきが巻き付けられている。
 吊り目が印象的な美人だ。尤も、全体的な幼さが目立つ感じがするが。
「そうですね」
 前回の魔物の攻撃で、トマコマイ砦は完全に崩壊していた。
 尤も、その後の奇襲攻撃が功を奏し、また砦に仕掛けられていた『罠』を利用して魔物は全滅に追い込むことが出来た。
 その惨事を思い出したのか、フユは目を閉じた。
「……『ナラク』を再度使用できるまで調整するには時間がかかりすぎますから」
 つい、と目を開き、やぶにらみがちな顔で発言した男を見る。
 こうして上目で覗く顔付きは子供っぽいだけではなく、大抵の場合反感を買う。
「少数の軍勢を用いて、トマコマイ自体を罠にするしか方法はありません」
「しかし、今罠は使えないと」
 にや、とフユの口元が歪む。
 ぴくりと男の頬が引きつる。
「誰も罠が使えないといった覚えはありません。トマコマイの防備が大切なのは確かです」
 サッポロが唯一開いている、魔王の軍勢が攻め込める場所はトマコマイだけだ。
 この砦でなんとか魔王の軍勢を止めることが出来れば、それ以上被害は広がらない。

 しかし、魔王の真の目的がアイスクリームとジュースだと知ったら、彼らはどう思うだろうか。
 トマコマイという名前の都市が丸丸消し飛ぶような惨事になったというのに。

「だから、トマコマイ砦で時間を稼ぐのです。もう一つ、私が罠を用意します」
 トマコマイ自体が罠。
 男は彼女の発言を訝しんだ。
「罠?」
「ええ。『ナラク』の構想自体が、『都市爆弾』ですからそうそう使えません。でも」
 『ナラク』というのはトマコマイの砦に仕掛けられた魔法だった。
 砦周囲に触媒を配置し、フユの呪文により動作するように設計された儀式魔法で、巨大過ぎる魔法陣により構成される。
 動作すると陣内総てに高周波が発生し、一瞬で生命は内部から灼き殺される。
 地獄の業火を思わせるその効果から、『ナラク』と名付けられている。
 欠点は魔力の備蓄と、効果範囲を設定するための触媒の調整で、そうそう簡単にはいくようなモノではない。
 出力や魔法陣を構成し損なったら、不発は愚か暴走して周囲を焼け野原にすることだって考えられる。
「『カタシロ』であれば、まだ間に合います。…但し、今度こそトマコマイを棄てることになりますから、後の事も考える必要があります」
 がたん、と男は机を揺らして立ち上がった。
「なんだと?!」
「もうトマコマイには人は住めません。実際、住んでいません」
「それはこの間の戦のせいだろう!お前は、自分の責任から逃れようとしているんじゃないのか?」
 一瞬席がざわめいた。
 男の発言は、陰で言われている事であったからだ。
 フユは、若すぎるあまり信頼を得られていない。
 そして、『魔法使い』というレッテルも彼女を異端視する一つであった。
 彼女が立てる奇抜すぎる作戦が受け入れられないだけでなく、失敗や損害が総て彼女の責任として扱われていた。
「逃れる?」
 可笑しそうに口元を歪めて応える。
 普段無表情な彼女は『仮面』を使って『言霊』の性能を引き出す。
 『言霊』は元々精神を操作する術。人間は、話をする人の顔に影響を受けやすいため、彼女は最大限度自分の意図する効果を補助するために『貌』を使う。
「私の責任は、損害を出さない事じゃありません。この国に、一歩でも、魔物を立ち入らせないこと」
 そして彼女はコップを手にして、軽く煽る。
 かたん、とコップが鳴り、空になった事を主張する。
「最悪の場合でも、魔物に多大な損害を与えて、こちらの時間を稼ぐ事。――違いますか」
 鋭く研ぎ澄まされた刃。
 刃物を思わせる笑みに、男は言葉の意味を良く考えた。
「つまり」
 酔いに染まった貌が、驚愕に青くなる。
「お前は人の命なんか考えていないと」
「責任を果たすために必要なら」
 軍人として切り捨てる部分はどこにでもある。
 特に指揮官には必要な決断を迫られる事がある。
 だが、それを、若い身空で、しかもここまで冷酷に言い切る事は出来ないだろう。
「私の命ですら、捧げて見せましょう」
 彼女は右手をゆっくり自分の胸に当て、目を伏せた。
 男の発言は終わり、一言告げて逃げるように帰ってしまった。
 フユは平静を繕いながらため息をついた。
――あれは失敗でした……
 それは後悔ではなく、犠牲に対する同情の痛みでもなく、『ナラク』を使ってしまった事に対するものだった。
 『ナラク』が強力で有ればあるほど、使えない者にとっては使える者、つまりフユを危険視し始める。
 仕方のないことだとは言え、こう面向かって言われると『別の手段があったのではないか』とも思ってしまう。
 勿論彼女の考え方と発言は危険視に値するものなのだが、彼女にその自覚はなかった。


 変わり果てた姿で転がる砦、トマコマイ。
 木製の砦は攻撃を受け止めた疵を幾つも残したまま、そこにまだ建っている。
 だがその周囲に、幾つもの白骨が散乱している。
 屍肉喰らいのようなものにやられたようではない。
 当然だろう。
 『ナラク』の効果によって、その場に在った総ては芯から乾燥していた。
 それが――

「……酷い物ね」

 彼女の力だった。
 フユは自分の引き起こした惨状を再び見下ろしていた。
 遊びに来たわけではない。
 彼女の側に、もう一人人間が付き添うように立っている。
 巳間桜治(ミマオウ=ナオ)、彼女の弟である。
 つんけんとした髪型に、彼女によく似た鋭い目。
 でも、やはりどこか幼い感じを残した少年だ。
 ただフユと違いナオは、野性味のある焼けた肌に身体に似合わない大柄な鉈を携えている。
 無論、農夫とは違う凄味が感じられる。
「奴らも一応、生きた物だって事だろ」
 彼が見下ろしている風景には、人間の骨は一つもなかった。
 奇妙な形をした頭蓋、見たこともない骨が組み合わさった生き物たち。
 いや、元そうだったもの。
 それらの山が彼の見下ろす風景に混じっている。
「生身なんだったら同じ条件だから、俺だって怖くない」
 強がるように言うナオに、フユは無言のまま視線を向ける。
 眉を寄せてナオは彼女を見返す。
 丁度睨み合っているようにも見える。
 二人とも、複雑に表情を動かしているようで、二人とも逆に全く表情を変えていないようにも見える。
「怖くない、なんて」
 フユは一歩彼に近づく。
 フユの頭の高さより、ナオの方が僅かに高い。
 二人の歳を考えれば丁度背丈が入れ替わる位だから。
 でもフユは、自分より大きくなってもやっぱり弟にしか見えなくて。
 そのままぎゅっと抱きしめてしまう。
「ちょ、ね」
「怖くなりなさい。魔物は怖い物なのだから」
 ナオは子供扱いされたと感じて顔をしかめるが、フユをふりほどくことは出来ない。
 ゆっくり抱きしめてくるフユが、心地よくて。
「……うん」
 だから、子供のように素直に彼は応えた。
 それに応えなければ、彼女が解放してくれなさそうだったから。

 丁度同じ頃。
「なあ嬢ちゃん。順番ってもんがあるんだからな」
 涙目で頷くまおと、側でぺこぺこ頭を下げるマジェストの姿があった。
「すみません、本当に世間知らずでして、まだまだ教育が足りないのです、はい」
 マジェストが頭を下げていると、彼――ジュース売りの親父はにやりと笑って手を振る。
「いやいや、子供が間違うのは当たり前だ。俺は、当たり前に叱っただけだ」
 そう言うと、彼はカップ一杯に細かく砕いた氷を入れて、その上からすり下ろした柑橘類を惜しげもなく振りかける。
 そして、まだぐすぐす泣いているまおの目の前に差し出す。
「…ぁあ」
 ぴたりと彼女は泣きやんで、貌をほころばせる。
 が、カップには手を伸ばさない。
 何故か驚いたような、困った貌をしてマジェストを見上げる。
 マジェストはマジェストで、さっさと財布を取り出して小銭をじゃらじゃら言わせている。
「こりゃあ、俺の駄賃だ。間違いを正せたお嬢ちゃんにはプレゼントをあげなきゃいかんだろう」
 ほれ、とさらにまおに突き出される紙製のカップ。
 マジェストが何とか金を払おうとしているのだが、にこにこした親父はそれをどうしても受け取ろうとしない。
 そのうち、まおは怖ず怖ず手を伸ばしてカップを握った。
 両手で。
「うわぁ」
 すっとする柑橘類独特の香りに歓声をあげる。
 二人の目が彼女に向く。
「ほら。やっぱり子供は笑っているのが一番だ」
 がははと豪快に笑う彼に押されるように、マジェストは困った貌をしたまま肩をすくめる。
「次から、横から割り込むような真似をさせないでくれよな」
 でなければ、駄賃の意味がない。
 彼は言外にそう言うと親指を立てて見せる。
「判りました。肝に銘じておきます」
 ここはサッポロの最南端にある町、ムロラン。
 最もトマコマイに近い、人の住んでいる街だ。
 『何よりも先にジュースが飲みたい』
 そう言うまおの言葉に従って入ったのだ。
 ……そして、先刻の騒動というわけだ。
 まだ涙の欠片を頬に残したまま、彼女は機嫌良くシャーベット状のジュースをかじっている。
「陛下。人間の街で彷徨く時は、必ず私の言葉に従っていただきますからね」
 ストローでずるずるとすすりながら、ふいっと視線を彼に向ける。
「…判った」
 言葉数少なく応え、再びシャーベットに専念する。
 この辺りは寒さのせいか、室内の暖房設備が行き届いていて、暖かい室内で食べるシャーベットが最高の贅沢とされる。
 ものの、シャーベットそのものは格安で手にはいるし作ることも出来るため、贅沢品ではない。
 第一屋外で食べようなどと思う人間も少なく、売り子は屋外にいるが、大抵持ち帰る事になる。
 持ち帰る最中に溶ける程暖かくもないのがサッポロ。
 だからこそ成り立つ商売でもある。
「じゃあ、ここにいる間はマジェストはお父さんだ」
 え゛、と言う貌を作る彼を、くすくす笑って見上げるまお。
「それは順序が逆です、出来ればせめて兄にしていただきたい」
「ダメ、お父さん。決定」
 困った顔を見せるマジェストが嬉しいのか、終始にこにこで言うまお。
「……判りました。…さあまお、それじゃぁこれから礼儀とか『正しい人間の道』を教えようか」
 魔物が人間の道を説こうとしているのが、何となく不自然な気分だった。
「勿論間違ったらおしりぺんぺんの刑だ」

  きらりん

「やだーっっ!やだーっ!!うわーっ、離してーっっ!」
 マジェストの顔は、どことなく嬉しそうだった。



 カタシロという術は、複雑な手順を踏む。
 そもそも、高度な術は複雑な手順を必要とするのだが、そう言う意味ではない。
 カタシロはナラクと違い、性格が違うと言うべきか。
――あんまり使いたくはないのだけれども
 フユが嫌う理由は、それが耐えうる人間以外に使うべきでないから。
 そして、今からその術を付与する人間が、彼女の弟だという事が最大の彼女の悩みだった。
 術を与えるまでにかかる時間は、ナラクほどではない。
 その理由は一つ、調整が必要ないということだけだった。

「ふぅん、意外に面白味のない場所ね」
 そもそもトマコマイという砦は、平らな岩場に設置された砦であり、地形効果は非常に期待できない場所だった。
 逆にそのためにもうけられた砦でもある。
 最南端の最初の、そして最後の『防壁』としての役割を持つ砦として、何もないここに作らざるを得なかった、とも言える。
 最初で最後の砦トマコマイ。
「おんぼろだと思う。まじー?」
「私も、少なくとも新品には思えません」
 当然だろう。
 ここはサッポロでも最古の砦であり、しかもついこの間『ナラク』の一撃により大きく損害を受けている。
――強度だけは、逆に上がっているようですが
 マジェストは一瞥して砦を叩いてみる。
 木材で出来ているにしては硬すぎる。
 不自然な硬度だ。喩え無理に内部から乾燥させたにしてはここまで硬くならないはずだ。
 第一硬いのであれば脆く崩れるはず――
「陛下」
 視線を感じたマジェスタは、冷静に視線の方向を睨み据え、自分の身体をまおと視線の間に入れる。
 まるで抉るようなその視線が、やがて砦の向こう側から姿を現す。
 小さな、背の低い女の子。
「こんな所に、人間はこないでしょう」
 悠々と歩きながら、彼女は呟く。
 それは問いかけではなく、むしろ確信。
「何用ですか?」
 微妙な距離を保ち、彼女は二人を見据えた。
 僅かに風に揺れる髪だけが、軽く、柔らかい。
「用は」
「まずはジュース。取りあえず終わったけど」
 口を開きかけたマジェストの後ろから、紙のカップを投げ捨てながらまおが姿を見せる。
「そして、ちょっとした後始末に。……あなた、フユ将軍?」
 フユの前に現れた小さい女の子。
 少し垂れ気味の目に、ふっくらした頬はどう見たって子供だ。少なくとも自分より。
 顔は可愛いに分類される、幼い感じの顔。
――………まもの、ですよね
 だからフユは混乱していた。
 思わず可愛いと思ったことは内緒だ。
「ええ」
 念のため用意しておいた言霊を口腔で詠唱する。
 既に待機状態で彼女の周囲を魔力が飛び交う。
「…じゃあ、いいよね、マジェスト」
「おまかせします」
 振り向いて男に笑いかけたと思うと、その瞬間に暴風が吹き荒れた。
――!
 フユは両腕を上げて風から身を庇うように。
 腰を下げて、重心を低くして少女の方を見る。
 既に少女は先程までの愛らしい貌から、それをまるで皮肉ったかのような、冥い貌を浮かべていた。
「じゃあ、邪魔だから全部吹き飛ばすよ」
 さらに。
 回転数を上げたように暴風が激しく吹き荒れる。
――やっぱり魔物…それも『魔術師』級の?
 あれだけ幼い人間の格好をしているのだから、収めている魔力もさほどないはず。
 でも、今吹き荒れている暴風は局地嵐の倍近い規模のものだ。
 少なくとも、『言霊』でここまでの暴風を発生させることは出来ない。
 精霊だとしても、今度は人間で在れば人格は既に崩壊しているだろう。
――まさか、こんな大物にあたるとはね
 フユは知らない。
 彼女が、まさか『魔王』であるなどとは。
 そして勿論、魔王だと聞かされたところで「何言ってるの。その格好の何処が魔王なのよ」と言い返してきただろう。
 その実新手の精霊だと彼女は思っていた。
「魔王の軍勢も、本気って訳ですか」
 彼女の声は――不思議なことに、それでもまおに届いた。
 これだけ激しい暴風の中で、クリアではっきりとした声で。
 鋭く、金属のように甲高い声色。そしてそれこそが魔力。
「判りました。――では、目覚めなさい」

  ご

 まるでその様子は、暴風に合わせて地面が揺れたような、そんな感じだった。
「え――ええ?」
 引き続き地面が大きく揺れたかと思うと、砦が。
 ゆっくりと地面から、その身を引きずり出していく。
「陛下、お下がり下さい」
 言いながら既に首根っこひっつかまえているマジェスト。
 まるで借りてきた猫をゴミ箱に棄てる時のように、ひょいと。
「うにゃーっ」
 くるんと身を丸めてそれに身体を預けてしまうまおに、彼はやれやれとため息をつく。
 その間にも暴風は激しさを増し、普通の人間だったなら立っているのは不可能なほどにまで圧力が上がっている。
 にもかかわらず、フユは何もないかのように立っている。
 そして、彼女の前面に、それが大きく体を揺すりながら立ち上がっていた。
――使役言霊『カタシロ』。大規模な軍勢を相手にするのではなく、それも単一の目的で昇華した形で使用する。
 すなわち――対魔物用に研ぎ澄まされた形で。
 それは砦を一つの大きなゴーレムに仕立て上げていた。
「嘘ぉ」
 まおは魔術を操作しながら、目の前で起きている奇跡に唖然として声を上げる。
「こんなのきいてないよぉ!」
「ええ、誰も言ってませんよ!」
 そしてマジェストは、大きく身を逸らして雄叫びらしき物を上げるそれを見ながら、嘆息した。
「それに、今回はオチがないじゃないですか」
 まて。それは必要ないぞ、マジェスト。

――完全に乾燥しきっていて、硬化した砦のゴーレム……
 マジェストは計算するまでもなく、その拳の一撃がまおを粉砕しきるのには充分だと判る。
 まおは、いかに魔王と言えどもその肉体設定は『十代前半の少女』のものである。
 今あんな砦の一撃を食らえば、生き残る確率は皆無に等しい。
「陛下、ここは一旦引き下がりましょう!」
 マジェストの判断で下がる事は出来ない。
 喩え、彼女を抱きかかえて逃げ去る事が出来るのだとしても、それは行えない。
 人間に良心があるのと同じように、彼らにも『設定』という物が存在するためである。
 魔物は作られた物である。
 だから、設定に逆らうことが出来ないのだ。
「くふ」
 そして彼は今絶望の最中にたたき落とされてしまった。
 まおが笑ったのだ。
 それもここ百年間聞いていなかった愉悦の笑い声だ。
「ふふくふふふ。くふっ」
 時々のどの奥が詰まるような声で、彼女は笑い続ける。
「出てきてよかったぁ。こんな感じ久々だもん」
 物騒な物言いと同時に、だん、と強く地面を蹴る。
 ふわりとワイヤーに吊られたように浮かび上がると、彼女は透明なガラスの上に着地するように空中で静止する。
「全力なんて出せるのは多分――」

 この間の勇者以来。

 まおは、一瞬貌を歪めた。


 フユはついと目を細めてその様子を窺っている。
 勿論、魔力の切れ目を探しているのだ。
 砦を依代としてカタシロを使用したが、果たしてあの魔物にどれだけ効果があるか。
「ナオ」
 自分の弟の名前を呼んで、彼女は耐えられないように目を伏せる。
 この『カタシロ』は、何もただで巨大なゴーレムを作れる訳ではない。
 カタシロを『使う人間』を準備する事こそが、この言霊の最大の特徴なのだ。
 仮死状態にした人間の『意識』を、何か別の物に封じ込める。
 キーワードによって目覚めた人間は、封じられた物を肉体として動き始める。
 問題は、その時の理性が極端に下がってしまうことだけである。
 ゾンビのように、召使いにする事だって不可能ではない。
 ただこれだけ巨大な物を依代にすることが出来るのは、少なくともこの一帯の人間では彼女だけだろう。
 大きくなれば成る程魔力を消耗する代物なのだ。
「大丈夫、痛くないから」
 彼女は自分の目の前にいる砦に優しい声をかける。
 ナオ自身は彼女のすぐ側に横たえられている。
 防寒服というより、むしろ死体袋に詰められているような光景ではあるが。
「さっさと終えて、帰りましょう」

  くぉぉぉぉおおおおおおおおん…

 砦となったナオが、うなり声を上げて応えた。


 ごう、と風がなった。
 彼の耳にはそれは届かなかった。
 体中を駆けめぐる空気の流れが、彼の意識の中で形を作る。
 それが、たまたま音として認識できたのだ。
――……姉さん
 姉の声が聞こえた気がした。
 それだけで安心する。
 何を言ったのか理解できなくてもかまわない。
 だから、彼は、今彼に与えられたものを磨り減らそうとして、右腕を振り上げる。
 ごうごうと風が彼をふるわせる。
 でも、意に介せずに目の前のものに腕を振り下ろそうとする。
 二人の人影。
 それが、今の彼の敵。
 一つは長身痩躯の男、一つは――ふと違和感を覚える。
 もう一つ。
 彼の目――いや、はっきり彼の意識の中に、その姿が捉えられない。
 妙な胸騒ぎ。
 『見えている』訳ではないから、人間の感覚器官とは全く違う形で捉えられる『映像化された』感覚にとまどいがあるのかも知れない。
――敵
 姉の声が入力する目標。
 何も考えられない。
 彼はそのまま――腕を振り下ろす。

  ずっどぉぉぉぉぉん……

「いっひゃあっ」
 マジェストとまおは一緒になって地面を転がった。
 背の高い大木が切り倒されたようなものだが、速度と重さと堅さが違いすぎる。
「おっきな太鼓が響いたみたいだよぉっ」
 ごろんごろんと転がって受け身を取りながら、泣きそうな顔で言うまお。
「歯が立ちませんね」
 素早く立ち上がって、いつの間にか埃を落として直立しているマジェスト。
 再び砦ゴーレムが腕を引くのを、メガネを押し上げながら見つめている。
「これじゃあ……前回から全くギャグが使えないではないですか。困ったなぁ」
「そんな事で困るな!」
 でも全くである。
 このお話は、シリアスアクションではないのだから。
「冗談はともかく、魔王陛下。ここはひとたび撤退を」
「え゛」
 非難がましい顔でマジェストを睨み付ける。
 …まだあきらめてないらしい。
「危険すぎます。それに、勇者を確認していないんですよ、まだ」
 一瞬、彼女の我が儘な顔が揺れて、子供のように困った顔になった、気がした。
 僅かな瞬間の貌。もしかすると吹き荒れた風のせいでそう見えたのかも知れない。
 迷うように、疑うように、僅か二呼吸の時間をまおは沈黙する。
「だったら、あと一回だけ♪」
 にっこりと笑って答えると、真剣な貌で彼女は続ける。
「これだけ強いんだもの――勇者かどうか、確認したって悪くない」
 そう言って、彼女は――凄惨な、笑みを浮かべた。
「全く、魔王陛下と来たら」
 ため息をついて苦笑するマジェスト。
「勇者のことになるとキャラクタ間違うのですから、困りますね」
 言うとわざとらしく肩をすくめ、そして一歩彼女から離れる。
 既にまおの視界には、目の前のゴーレム以外入っていない。
 ゴーレムは右腕を大きく振り上げ――
「砕けよ」
 まおはごくごく簡単に、しかしよく通る声を発した。
 『言霊』だった。それは強力に物体に作用する言葉だった。
 だから、

  がががががが

 振り上げた腕が振り降ろされることはなく、ゴーレムの上半身だけがゆっくり前傾するに留まる。
 腕は、根本から崩れてちぎれ、その場で地面へと落下する。
 尤も一瞬でも遅れていれば腕は振り下ろされ――しかしその勢いでどこかに飛んでいっただろう。
「さあ、こんどはこっちから行くからね。しっかり受け止めてね♪」
 そう言うと思いっきり右腕を振りかぶる。
 彼女の腕の周囲でざざあと音を立てる積雪。
 まるで、何かが通り過ぎたかのように大きな跡を付けて流れると、まおはパンチを出す要領で腕を振るう。
 すると、彼女に大きな腕でもあるかのように、雪が、何かが舞い上がり「腕」を形作っていく。
 それは丁度ゴーレム程の大きさで。

  むぎゅ

 あまりに巨大な拳は、ゴーレムをめり込ませてさらに圧迫する。
 素材は雪。
 彼女の身体から、丁度まるでマジックハンドのようにのびていて、まおが踏ん張ればぎしぎしとゴーレムを後ろに下げていく。
 だからと言ったって、所詮雪だ。
 ゴーレムを砕くことができるはずもない。
 きっちりゴーレムの形にめり込んで、既に拳の形は失ってしまっている。
――むぎゅ
 ただし。
――………動けない
 ゴーレムは呼吸こそできないが、既に動きは完全と言っていいほど封じられていた。
「そーれっ」
 そして、そぐわない明るいかけ声。
「嘘」
 フユは目の前でおきている出来事に目を疑うしかなかった。
 巨大な雪でできた拳にめり込んだゴーレムが、拳と一緒に持ち上がっていく。
――まさか、そんな
 はっきり言って想定外、規格外の少女の魔力に彼女は混乱していた。
――それに先刻確かに言霊を紡いだ
 有り得ない。
 今目の前に起きている現象は、言霊で引き起こすのは異常に難しい。むしろ直接精霊に働きかけるのが普通だ。
 それは魔物でも同じ事。
 長く正しい方程式で刻んだ魔法言語が駆使できるとしても、触媒を利用しなければ自然現象を言霊で刻むのは難しい。
 それだけ微妙で、デリケートだからだ。
 精霊術であれば、精霊にお願いするだけで簡単に同じ事ができる。
 魔力総量から考えれば、精霊術でなければおかしい――はず。
 と、フユは思った。
 だが勿論まおは精霊を従えているわけではない。
 彼女の考えている事とは全く逆、「長く正しい方程式で刻んだ魔法言語」を使用しているのだ。
「どーしようか」
「魔王陛下、拾った物は元通りに返さなければなりません。持って帰ってはダメです」
「はーい」
 そして。
 無慈悲に拳は再び振り下ろされて――ゴーレムは地面に叩きつけられた。

 ここはサッポロ最南端の砦、トマコマイ。
 そして今は、最南端の廃墟――ただの荒れ地だけが残る、サッポロ最初の魔王の橋頭堡。
「…うっ……」
 酷い頭痛を残して、ナオは目覚めた。
 まるで酒ホットを飲み過ぎた後のような、強烈な頭痛とふらつきに彼は半身を起こしただけに留まる。
 じんじんと脳の中身が痛む感触に、ゆっくりと首を振りながら堪えると思い出した。
 自分がカタシロになったことを――姉の術で闘ったことを。
 そして、何故か非常に大切な何かを知ったような気がして、強引に顔を上げる。
「大丈夫」
 そこにはいつものように、藪睨みの少女がいた。
 言葉から一切の険を感じないから、その顔が生まれつきの物だというのは判る。
 見慣れた姉のその貌を見て、彼は安堵に胸をなで下ろす。
 まだ生きて居るんだ、と。
「ああ。…いつもより目覚めが悪いけどな」
「悪いはずよ。今日、貴方は負けたんだから」
 え、と彼は喉に詰まったような声を出す。
 記憶にはない。
 負けた――つまり、カタシロが壊された事を意味する。
 普通なら死ぬところを、自分の肉体ではないからフィードバックすら残すことなく、彼は無傷で生き返った。
 今の頭痛は術の名残、後遺症と言う奴である。
「まけ……た?」
「あっけなく叩きつけられて、バラバラになって。……」
 フユは無言でナオを見つめる。
 それは何かを言わなければならないと知っているからなのか。
「フユ姉」
「ごめんね、術を解かずにそのままにしたから」
「放置かよ!普通死ぬぞ!」
 ごめんどころではない。
 今の頭痛の原因は、どうやらその時のダメージが残ったからだろう。
「だからごめん」
 姉は表情を変えずに言う。
「…ったく……いいよ、別に。どうせ、まだ生きてるんだし」
 付け加えるとすると。
「ところでフユ姉、今回の魔物ってどんな奴らだったの?」
 相手の事が気にかかる。
 奇妙に、丁度喉の中に刺さった魚の骨のような、しこりのようにいつまでも疼く物。
 カタシロを破るだけじゃない。
 何故か奇妙なまでに残った記憶。有り得ない、無の中の記憶。
 忘れてはいけないような。
「身長3メートルを超える巨大な岩の巨人だったわ」
 フユは本当のことを言うのを躊躇いもせずやめた。
「あっという間に強化した砦を粉々に砕いてしまった」
「嘘はやめなよ、見苦しい」
 む。
 フユは僅かに眉を寄せて抗議する。
「…じゃあ、年端もいかない少女と青年の組み合わせは?」
「笑えない冗談だ」
 全くだ、とフユも思う。
「でもそれが真実だって言うんだろ」
 曖昧で、いい加減な記憶が。
 何故か彼女の言葉に一致する。
 振り上げた腕をたたきつけようとした、その姿は――青年のような姿と、子供。
 『目』で見た訳じゃないから、はっきりしないけど。
「ええ、そう。私の術はあのちんまいガキにしてやられた」
「口が悪いよ、姉さん」
 表情のない姉とは対照的に、くるくると良く変わる貌で応えると腰に手を当てて鼻を鳴らす。
「どうせまた会う。ここを破られたからには、魔物は間違いなく本格的に侵攻してくるだろうし」
「ナオ」
 彼は何故かそれが確実な予感として感じられた。
 また、会う。
 もう一度顔を合わせた時に判るかどうか自信はないが(何せ全く覚えてないから)。

「あーたのしかった。こんなに全力で暴れたのひさびっさ!」
 どうやら堪能したようだった。
「魔王陛下。サッポロ攻めは大成功に終わったみたいですね」
「大成功よホント。今時ここまで巧くいくことないよねー」
 両手にジュースとアイスクリームを抱えて。
「凱旋よ凱旋。きゃー♪」
「すぐに温泉旅行ですね。いい場所を確保できました」
 サッポロが次の魔王の軍勢との戦闘に備えようとしている間、暢気に魔王達は次の『サッポロ観光』について話していた。
「そーねぇ。じゃ、シエンタとアクセラに宴会の準備させて。はねのばそーよ♪」
「はい。たまにはよろしいかと存じます」
 サッポロは戦力を南の防護に慌ててさしむけたものの、あれだけ居た魔王の軍勢が襲ってくる気配はそれ以降なかった。
 様々な憶測が飛び交ったが、まさかその間に温泉旅行を堪能していたなどとは知る由もなかった。
「てことは、次回はおんせんりょこー!」
「良いネタですからね。次の侵攻は年明けでしょう」



 サッポロ攻めを終えて、現在計画中のサッポロ温泉旅行まで僅かに時間がある。
 参加メンバーは、まお、マジェスト以下主要幹部メンバー連中である。
 説明不要な連中はともかく、まおの側近小間使いを除いて四天王と呼ばれる4人、軍団長が4人である。
 まお直属の召使いとして、外観が小学生ぐらいの男の子が二人。
 シエンタとアクセラである。
 四天王はアール、カレラ、リー、ゼクゼクス。
 北方の長ドク、東方の長イズィ、西方の長エフ、南方の長シェアである。
 ちなみに、四天王というものと軍団長には大きく地位に差があり、明確には『領主』と『指揮官』との差と言うべきだろう。
 四天王が領主である。言うまでもないが。
「まお様も粋な計らいをなさる」
 アールは少し小太り気味に見える、ひげ面の中年である。
 しかし下半身は駿馬であり、四天王最速を誇る。
「ホントね。先代魔王よりもあたしゃ好きだね」
 吊り目でロン毛、派手目の化粧をしたカレラは、しかしその外見とは裏腹に非常に細やかな性格をしている。
 現在その繊細な戦術眼をもって、マジェストの下で参謀として働いている。
「…威厳はないがな」
 四天王の中では一番細身だが、その芯にある力は絶大と言われるリィ。
 何故か常に上半身裸である。
「威厳なんかなくったって、可愛いから良いと思うね」
 そして四天王の中で唯一領土を持ったゼクゼクスは、長身の優男である。
 恐らく最大にして最悪の、趣味の悪さを誇る。だからどうしたという感じだが。
「全く」
 同調して、アールは頷く。
「たまには世界征服を忘れてゆっくりと温泉で一杯」
「アール、馬、きちんと化けてからにしてよね。追い出されちゃ敵わないわ」
 四天王はその力と立場から、和気藹々としていた。
 ところが。
 軍団長はそうはいかなかった。
 ドクはサッポロ攻めの際の『命の雫』で一度泣きを見ている。
 エフは好物である甘い物をすっかり忘れて名物を献上したためにシメられた。
 シェアは既に次の戦闘準備を行っていて、イズィだけが今余裕を持っている状態だった。
 それに仕事の関係上、彼らに接触の機会は少なく、今回の温泉旅行にしても唐突に知らされた者すらいたぐらいだった。
 一触即発とは言わないまでも、ほぼライバル同士と言っていい彼らはあまり話す機会もないようだった。

 そんな、水面下での争いの様子はともかく。
「んー」
 まおは執務室で本を読んでいる。
 部下に休暇を与えて今回の温泉旅行を準備させているのだから、たまの暇なのだ。
「のーさつ、ねー」
 でも読んでいるのは何故か男性向けの写真集だった。
「まじー。のーさつってなに?」
「それを実行することで脳死に至らしめる必殺の攻撃のことでございます、魔王陛下」
「うそをつくな」
 即答するマジェストに本を投げつけるまお。
「いえ。ですからのーさつとは脳殺と書きます」
「書かない」
 ぼけ続けるマジェストにとどめを刺すように言い放つと、マジェストは困った表情で眼鏡をかけ直す。
「……わかりました、陛下。次の作戦の為の計画でございます」
 どさどさ。
 どさどさ。
 どさどさどさどさ。
「…………」
「陛下が遠征されていた時にたまっていた報告書でございます」
 どさ。
 どどどどどど。
 ぽふ。
「…まじー」
 泣きそうな貌で、困ったようにうなり声を上げるまお。
 マジェストの顔色は変わらない。
「魔王陛下が遠征されると、書類仕事が終わらないんです。疾く終わらせましょう」
「おんせーんー…」
 書類の山の中で泣き崩れるようにして机に突っ伏すまおに、冷静且つ簡単な言葉をかける。
「陛下。どうせ温泉旅行中仕事は為されないんですよね。であれば、旅行中も仕事はたまる一方」
 主要幹部連が全員休んでいるこの時期と、温泉旅行中にはたまることはありえないのだが。
 勿論、彼はそんな事を承知で話している。
「だったら今のうちに少しでも捌けさせていただかなければ」
「まじー」
「泣いても泣き言を言っても弱音を吐いてもダメです」
 うー、と唸りながら最初の書類に手をつけて始める。
「なんで、私魔王なのよぉ」
「ええ。魔王は、魔王だから忙しいのです。喩え部下が休んでいても、仕事を終わらせなければいけないんですね」
 そしてくいっと眼鏡を上げて、僅かに口元に笑みを浮かべる。
「いいですか。これがのーさつです」
「忙殺だ!」
「では、殴り殺すことでございます」
「それは殴殺(Oh-satu)だ!」
 それから延々下らない駄洒落につきあう羽目になり、結果二日間も徹夜で書類仕事に取りかかる羽目になってしまった。
 泣きながら書類の山と格闘しながら、ふとまおは思い出してマジェストに顔を向ける。
「ねえ、シエンタとアクセラの様子をみてきてよ」
 まだ計画が提出されていない。
 彼らは今、宴会の計画の真っ最中なのかも知れない。
「は。では魔王陛下、お覚悟下さい」
「…………なんでよ」
 む、とむくれた不機嫌そうな貌でマジェストの方を振り返るまお。
 マジェストはいつもの澄まし顔で、顎に手を当てる。
「私めがこちらに戻った暁には、その書類の倍の書類が、宴会の計画として再び山を作るでしょうから」
 そしてにやりと笑みを浮かべた。
「むーきーっっ!私魔王よ!魔王なのになんでこんなに冷遇されるの!書類書くために魔王やってるんじゃないわよ!」
 温泉旅行の計画すら、魔王にとってはまともに楽しみに出来る状態ではないようだった。
 半分以上、マジェストの差し金ではあったが。


 ムロランの街は温泉で栄えていると言っても過言ではない。
 ここの温泉は万病に効き、あらゆる怪我の治療に有効であるというからだ。
 風邪、急な発熱、刀傷は勿論の事、精神分裂症、恋の病から心的外傷までまるで嘘のように効く。
 …らしい。そもそも恋の病が治るってことは、在る意味困るんじゃないのか?
「ちょっと姉ちゃん」
 ちなみに付け加えて言うが、ここは混浴ではない。
 大浴場はスペースの都合上ついたてがあるだけだが、男女に分かれている。
「駄目。ちゃんと治療しておかないと酷いことになるから」
 温泉宿の前で、痴話喧嘩の如く姉弟喧嘩を繰り広げる二人がいた。
 説明するまでもなくフユとナオだ。
 ナオは顔を真っ赤にして眉を吊り上げている。
 勿論赤みの理由は、怒りではない。
 フユはそれに気づいていない。
 ちなみに、この間のカタシロの治療のために二人はここに訪れていたのだ。
 なかなか軍隊の暇というのが見つけられず、またナオが普通に入院していた為に治療自体が遅れたのだ。
「だからって姉ちゃんが一緒に入る理由にはならないだろ!」
「大あり。…言霊のダメージを抜くには、私の言霊が必要不可欠」
 殆ど有無を言わせない機械的で事務的な言葉に、あんぐりと呆れた顔をするナオ。
 時間が経てば抜ける事は抜けるが、精神に負荷がかかるために専門の治療が必要なのは実は本当のことだ。
 それがカタシロの欠点でもある。
「俺はもう子供じゃないっ」
「子供じゃないってむきになって言うのは、子供の証拠」
 むんず、と彼の腕を掴んで一件の温泉宿を選んで入る。
「やだ、やだってば姉ちゃんっ」
 だがあきらめようとしない、というか問答無用で引きずるフユ。
 何処にそれだけの膂力があるのか、腕力では敵いそうにないナオを片手で一ひねりという感じだ。
 ……在る意味、怖い姉さんのようだ。
「大丈夫、ムロランの温泉は怖くないし痛くないし」
「誰もそんな事言ってるんじゃない!」
 ぴたり。
「じゃあ、何でそんなに嫌がるの」
 無表情のまま首を傾げて不思議そうにナオの顔を伺うフユ。
 う、と言葉を詰まらせてナオは彼女の瞳を見つめる。
――これじゃ、なんだか……
 少なくとも、フユは何の感情も持っていない。
 疑いもないようだが、まあ、少しも気を回してくれそうにもないのも事実。
 ただあんまりにも彼女の表情の変化が乏しく、あまりに機械的に応える物だから、思わずナオも首を傾げる。
――もしかして俺が変に勘ぐりすぎたのか?
 フユの言葉に間違いはなさそうだし、何より平気で平然と彼女は言った。
 『一緒に温泉に浸かって、疲れを癒すから』と。
――…………
 少しの間考慮する。
 彼女の言葉を反芻する。
「だーっっ!やっぱりよくねーっっ」
「少しは黙りなさい。もう、昔はもっと聞き分けが良かったのに。ここ最近になってから変ね」
 ちなみにフユとナオの年齢差は二つ。
 無論フユの方が年上。言うまでもない。体格はナオの方が一回りほど大きく見える。
 元々そんなに体の大きくないフユは、弟にあっという間に追い抜かれた格好だった。
 にも関わらず、フユはいつまで経っても弟は手間のかかる可愛い弟にしか見えていないようで。
「だ、だってよぉ、姉ちゃん」
 ちなみにナオもフユに対しては押しが弱く、未だに『姉ちゃん』呼ばわりしているからこそずるずるとこうなっているのだが。
「すみません、家族風呂を貸してください」
「だーっ、俺の意志はなしかよ!」
「さーさ、どうぞこちらへ」
「うーわー」
 問答無用で脱衣所に放り込まれて、あっという間に身ぐるみをはがされてしまう。
 そしてそのまま温泉へ一直線。

  どぼーん

 ナオ、受難。
――くそー、姉ちゃんの奴っ
 ただ一つだけ救いは、彼女が家族風呂を選択したことだろう。
 そのぐらいに気は回るようだった。
「今服を脱ぐから、湯船に浸かって100数えなさいよー」
 脱衣所から影と共に声が浴びせかけられる。
「判ってるよっ、恥ずかしいから大声で声をかけないでよっ」
 ぼさぼさの頭も温泉に浸かってしっかり頭の形にぺたりとなってしまっている。
 これではやぶにらみの彼の特徴的な目だけが妙にとんがっている。
「ふう。全く…姉ちゃんときたら」
 彼もフユも、このサッポロの防衛軍に属した軍人である。
 普段激務と訓練で身体も精神も酷使しているため、休養施設の利用頻度は一般民間人のそれとは比べ物にならない。
 そのため、彼らは格安料金でそれら施設を使えるように待遇を良くして貰っている。
 だがそのせいで手違いというものや、料理の質が悪くなることはまま、在る話だ。
「………は、……」
 声が聞こえた。
 反射的にそちらに顔を向けて、僅かに身体を起こす。
 温泉に半身浸かっていると言っても、これでどんな行動でも対処できる。
 がさがさ、ちゃぷちゃぷという音がして、それは湯気の向こう側から顔を見せた――

 家族風呂というのは、温泉が沸くその場所に作る物ではない。
 通常プライベートで使用するために、それらしく作ったセットの中にお湯を引き込む形で作るのだ。
 尤も、まさに浴場であり、温泉っという雰囲気は少なくなる。
 この宿の家族風呂も、屋外に作られた石造りの風呂を除けば、さほど広い物とは言えなかった。
 とはいえ。
 入り口から洗い場まで遠く、間に挟んだ湯船も自然石で作っているせいか、やけに大きな物だった。
 温泉らしい、と言えばその通り。
 家族風呂というには広すぎた。
「うっわーっ!」
 申し分程度についた屋根。
 本当の自然石でできた湯船。
 半露天風呂と呼ぶべきか。
「これがおんせんかーっ!」
 初めて見る温泉に、まおはきゃいきゃいと喜んでいる。
 既にスタンバっているシエンタとアクセラは、料理と燗をいつでも出せるよう控えていた。
「魔王陛下、まずは肩まで使って100を数えますよ」
「うんうん!」
 ぱたぱたと走って湯船に飛び込むまお。
 それに付き従うマジェスト。
 完全に彼は、保護者のような役割そのまんまだった。
「きゅーじゅーろく、きゅーじゅーしち」
 そして事件は、彼女が百数えるよりも早く起こってしまった。
 貸し切りのはずの家族風呂で、入り口が開いて闖入者が湯船を叩いたのだった。
「やーっ、なになに、なんなのよぉっ」
 ばしゃん、という水音に、まおは数えているのも忘れて悲鳴を上げる。
『今服を脱ぐから、湯船に浸かって100数えなさいよー』
 一瞬マジェストはまおを見てしまった。
 まおはそれに気づいて無垢な貌を彼に向けた。
「子供連れが来たみたいですね」
「……そうだね」
 視線は、再び闖入者に向けられた。
「取りあえず、確認しましょう」
 湯船をざぶざぶと横断する二人。
 気づいたのか、人影が身じろぎした。
 そして――
「わ、わわっ」
 ナオは音の向こう側から現れたのが小柄な『少女』だったので慌てて顔を逸らせた。
 すぐ側に長身の男の姿も見えた――多分、彼女の保護者か何かだろう。
「失礼、ここは貸し切りのはずですが」
 え?とナオは首を捻りながら声のした方に目を向けた。
 保護者が、彼を見下ろしている。勿論見覚えなんかない。
「え、と…宿の人は貸してくれるって」
「ナオ、100までよ、きっちり数えて……」
 それに合わせたように、バスタオルで全身を隠し、頭に手ぬぐいを巻いたフユが現れた。
「……、姉ちゃん、先客、いたよ」
「?ナオ?」
 ナオは顔をフユに向けたものの、目を合わせようとしない。
 頬どころか、全身が真っ赤だ。
「失礼ですが」
 人なつっこい笑みを湛えたマジェストが、彼女に声をかける。
 やぶにらみなフユの無表情が、彼に向けられる。
「ごめんなさい。カウンターに声をかけたら貸してくれるっていうお話でしたから」
 背の高い男に、小さな女の子の組み合わせ。
 湯気で女の子の方はよく見えないんだが、親子に違いない。
「あ、いえ。もしよければご一緒でも構いませんが」
「えちょっと、ちょっと」
 ばしゃばしゃと女の子が焦る様子。
 多分恥ずかしがってるに違いない。
「姉ちゃん」
 顔を真っ赤にしてフユの方を振り返るナオ。
 ナオも恥ずかしがっているようだが。
「ちょっと、俺の治療……」
「本当ですか、助かります。まさかこの子を女湯に連れて行く訳にはいきませんし」
「姉ちゃんっっ!」
 しかし追い出されれば、あきらめないフユの事だから間違いなく有無を言わさず連れて行かれただろう。
 それに比べれば幾分かましか。
「いえいえ。丁度私達は身体を洗うので一度出るんですよ。ゆっくり浸かっていてください」
 男は暴れる少女をなだめるように奥へと連れて行く。
 水音が離れていって、安堵に胸をなで下ろすが――同時にすぐ側の水音に背筋を伸ばす。
 体温すら判る程、すぐ近くに姉の身体が在るのが判る。
「ほら、ちゃんと肩まで浸かる」
 フユの声が驚くほど近くに聞こえて、しかも両肩に怖ろしい力が加えられる。
 素直に湯船に身体を浸けるより他、選択肢はない。
 色んな意味で逃げ出したいんだが。
「いーち、にーぃ」
 無言で威圧するフユの視線に耐えられず、彼は小声で数え始めた。

「では綺麗にさせていただきます」
 マジェストは、本当に小柄な魔王の背中を流し始める。
 左手で動かないように押さえつけて、右手のタオルでごしごしと擦る。
「…まじー。なんで追い出さないの」
 恥ずかしがっていた訳はないようだ。
 自分専用と言われたのに、他の人間が入ってきたのが気にくわないらしい。
 むーと口を尖らせている。
「むげに追い出すのもどうかと思います。宿の手違いなのですから、文句は宿に言います」
 ちゅーとシャンプーを髪の毛に渦を巻くようにかける。
「目を閉じておいてください。沁みますよ…どっちにしても彼女達には悪い点はないんですから」
 しゃかしゃか。
 しゃかしゃか。
「このぐらいで腹を立てたり、追い出すのは良い印象を与えません」
 ばしゃー。
 マジェストは櫛を取り出して、彼女の髪を流しながらゆっくり丁寧にすかす。
 ゆっくり水が抜けていき、ぺたんと頭の形に撫でつけたような髪型になる。
「んー」
 気持ちよさそうな声を出すまお。
 タオルを受け取って顔を拭く。
「そうかな。……まあ、確かに悪いのは宿の人だし」
 少し機嫌が良くなったのか、気持ちいいからどうでもいいのか、落ち着いたみたいだ。
「じゃ、あいさつしてこよーかな」
「御意に。但し、滅多なことを話したり、お酒と肴を勧めないように」
「だいじょぶ。それは絶対勿体ないからしない」
 そう言う意味ではないのだが。
「それじゃ、流しますから」
 ばしゃー。
 ぷるぷるぷる。
「じゃ、ちょっと行ってくるねー」
 ばしゃーん。
 勢いよく飛び込んだまおを見送ると、彼はため息をついて隅にいるシエンタに声をかける。
「まだ準備は良さそうですね。一度身体を暖めて来ては」
「いいですか?……でも」
「たまには良い物です。行って来なさい」
 意外に、魔王ご一行様は妙にいいひとたちの集団のようだった。

「八十八、八十九」
 意外と呪文のように唱えていると、気が落ち着いてくる物で。
 いつの間にか声が大きくなっている。
 姉が準備のために側にいないのも、落ち着いている理由だろう。
 言われるままに数える素直なところは、やっぱり子供だった。
「ねえ」
「きゅうじ…………っ!」
 思わず飛び退いた――いや、つもりだけで、実際には僅かに動いただけだ。
 水の中だから、思ったよりも身体が動かないものなのだ。
 拳一つ分も移動しなかったから、彼の眼前に、両拳を自分の顎の下で合わせた格好の少女がいた。
 見えた。
 いや、側に来たのだ。
 かなり混乱をしたまま、彼は全身を硬直させる。
 立ち上がるのも立ち上がれずに、彼は彼女を見つめる。
 こんな、肝心な時に姉が居ない。
「ななな」
 一気に頭に血が昇る。
――何しに来たっ
 ナオはどうして良いのか判らず、驚いた顔で少女を見つめている。
 ちなみに。一応言っておくと、彼の視点だと、彼女の顔しか見えない。
「私、まおっていうの。キミは?」
 にっこり。
 首を傾げて聞く彼女が、どこか普通じゃない気がして、何がおかしいのか混濁する意識で考える。
 おかしいはずだ。
「お前裸なんだぞっ」
 自分もだが。
 まおは眉を寄せて首を傾げる。
「…私はまおだよ」
 そしてぴんと人差し指を一つだけ立てる。
「キミは?」
「……なお。…ナオってんだ」
「うん。今日はちょっとした事件が起きちゃったね。あとで宿の人、シメちゃおう」
 にこっと笑ってとんでもない事を言うと、くるりと彼女は背を向けて湯船から出ていこうとする。
 ナオは再び慌てて彼女から目を逸らせる。
「はちじゅういち、はちじゅうに、はちじゅうさん、はちじゅうに、はちじゅうご」
 真っ赤な顔で、殆ど棒読みになりながら――そして十も戻っているとは気がつかずに――再び数字を数え始めた。
「………ナオ」
 しかもしっちゃかめっちゃかに数えたせいで、いつまで経っても百に至ることはなかった。
 フユが身体を洗い終わって、ナオの治療の準備を終えた時には、彼は完全にのぼせてしまって湯船に倒れてしまっていた。
「…そこまで我慢しなくてもよかったのに」
 ため息をついてナオは彼を担ぎ上げて湯船の側に寝かせると、彼をタオルで巻き付ける。
 両目を閉じて。
 ゆっくりと精神集中する。
 言霊で歪に疵が入っている彼の心を、その細かいひびを元に戻すためには言霊を練り込む必要がある。
 すっと両手を彼の上に差し出して、彼女は神経を集中させて呪文をとなえた。
「いたいのいたいの、とんでいけー♪」
 無表情のまま、フユは明るい歌でも歌っているような声で、しかも右手をくるりんと返して人差し指を立てた。
 多分傍目には非常に間抜けな光景だったかも知れない。
 でも、これは必要不可欠な治療なのだった。

「……おさしみと酒ホット、いらなかったね」
 シエンタとアクセラは顔を見合わせて、ため息をついた。
「今度から確認しようぜ。…安くないんだから」
 全く当たり前のことを、大きく肩を落として確認していた。


「もーへたくそー。いいよまじー、櫛とポニーテールはあとで自分で出来るから」
 まおは文句を言いながらマジェストを振り払い、髪をタオルでまとめた。
 脱衣所で浴衣に着替えたまおとマジェストは、全身から湯気を出しながら廊下に出る。
 この温泉宿は、この辺にしか生息しないヒノキという名前の木材を使った、独特の香りがする廊下が続いている。
 一歩歩くだけできゅ、きゅと木が擦れる時に立てる音がする。
「あ」
 出てすぐにある休憩所に牛乳瓶を片手に先程の少年と話す少女が居た。
 売店が併設されてある。大抵、飲み物が売っていて団扇が『ご自由にお使い下さい』と並べられている。ここも例外なく団扇があった。
「先程はどうもすみませんでした」
 彼女の方が気づいて二人に頭を下げる。
 男の子の方はそれに吊られて顔を向けるが、すぐ元に戻す。
 ちなみにシエンタとアクセラは既に厨房に走っている。
 温泉宿の定番、宴会の準備である。
「いえいえ。ここの宿の手違いですから、気に病まないでください」
「よっ」
 ぴっと右手を大きく挙げて、にこっと笑いながらナオに挨拶するまお。
「先に上がってたんだ」
 木製のベンチに腰掛けてコーヒー牛乳を飲むナオは、険しい顔でコーヒーと彼女を見比べる。
 まおはむうと口を尖らせるとててててっと近づく。
「おいしそう」
「こらっ」
 慌てて全身で彼女を避けようとするナオ。
「こらこら、飲み物だったら買ってやるから」
 『人間』の前での役割にすぐ戻るとマジェストは娘『まお』に叱咤の声をかける。
「ホント?じゃ、おんなじの」
「コーヒー牛乳を二つ。おいくらでしょう?」
 即答で答えるまおに、彼は売店の親父に声をかける。
 まおはにこにこしながらナオの隣に座る。
 外観だけであれば、ナオとまおは同じぐらいに見えるだろう。
「温泉には良く来るの?」
「……別に。…怪我をしたりしたら、治療に来るんだ」
 無愛想に顔を向けもせずに言う。
「ふぅん。私こんなところ初めてだから、ちょっと浮かれちゃって」
 えへへと笑う。
 ナオはちら、と視線を彼女に向ける。
 にこにこ、終始笑っている。
 その向こうでまおの隣にフユが腰掛けるのが見えた。
「そう。観光か何かで来てるのかしら」
「うん、温泉に入ってみたくて」
「そうなの」
 にっこり。
 ナオは、フユが今まで見たことないほどはっきりした笑みを浮かべるのを見た。
 どんなに嬉しい事があっても、どんなに戦闘で優位に立っても、彼女が笑うことはなかった。
 子供の頃からそれだけは不思議だった。
 フユの顔は、きっと感情を浮かべる事はないだろうとまで、彼は思ったことがある。
「またいらっしゃいな。私達サッポロに住む人間は、誰も拒まないから」
 フユが目を細めて彼女の頭を撫でる。
 ふにゃーと嬉しそうに声を上げて、撫でられるままにする。
「ナオ、行くわよ」
「はい、姉ちゃん。…じゃあな」
 無愛想に一言いって背中を向けたナオに、まおは両手をぶんぶん振って見送った。
「行ってしまいましたね」
 コーヒー牛乳を手渡しながら、マジェストは言う。
 休憩所には二人以外には、売店のはげた親父しかいない。
「うん。……うわ、これって面白い」
 既に彼女の意識はコーヒー牛乳に向けられている。
 先刻まで側にいた少年の事など、脳裏の片隅にもない。
――……気づいていたのでしょうか
 少なくともまおは気づかなかった。
 向こうの少年も、気づいていなかった。
 だがあの少女は。
 僅かに形のいい眉を歪めて、マジェストはコーヒー牛乳の瓶に口を付ける。
――……風呂場で顔を合わせた時に何故気がつかなかったのでしょうか
 故意に?それとも互いに自然に?
 どちらにせよ、まさか魔王がこんなに幼い子供で、温泉に浸かりに来てるとは誰も思わないだろうが。
 だが、確かに彼女はトマコマイで鉢合わせた、あの『言霊使い』に違いない。
 マジェストは僅かに険しい顔で、もう見えなくなった廊下の先を睨み付ける。
「おいしいね。おいしいよ♪」
「そうですね」
 まおの隣に腰掛けると、残りをあおって呑む。
――気がついていないのなら、それを護るだけですね
 わざわざ教えて不安を煽る必要はない。
 いきなりちょっかいを出させるのも、これはまた問題だ。
 まるで子供のようにコーヒー牛乳を飲んでいるまおを見て、僅かに肩をすくめた。

 シエンタは宴会場をばたばたと走り回っている。
「あー、それはここ!これはそこ!うんうん、後これも追加して!」
 アクセラは厨房で指示をしている。
 彼らはまおの世話係にして小間使い、召使いでもあると共に、尤もまおに近い位置にいる。
 好みも何もかもまおを忠実に再現された『設定』を持つ。
 だから魔王が死ねば、彼らも『再構成される』。
 今の魔王がまおなので、二人はこんな風に子供の、しかも男の子の姿をしているのだ。
 ちなみに先代魔王の時の彼らの設定は、グラマラスな美女二人組だった。
 名前は変わらないんだが……
 さて――彼らが宴会の準備をしている間、四天王と軍団長はまだ温泉だった。
 大浴場の男湯を占拠する勢いで、八人が湯船に浸かっている。
「ふぅいー」
「って、カレラ、お前男だったのかよ」
「ふぅん、悪かったわね、男で。人を外観で判断して欲しくないわね」
「わねって、お前」
 相変わらず騒がしい四天王たちに対して、相変わらず陰鬱とした軍団長。
「なあ、ドク」
「なんだイズィ」
 じろり、とにらみ返すドク。
「……宴会、だろう?」
 心なしか、顔色が悪い。
「宴会と言えば、宴会芸だな」
 エフが、やはり蒼い顔で言う。
「……こういう場合、うちらの出番やろ」
 黙り込んでしまう三人に合わせるように、シェアが言う。
 ドクも小さく頷く。
「用意してるか?」
「……いや」
 魔王が代わってから、魔王に捧げる宴会芸のネタが難しくなってしまった。
 今までは腐っても『男性』型だった魔王には、それなりで良かったが。
「女の子だからなぁ」
「そやなぁ。……困ったなぁ」
 再び黙り込む軍団長。
――ついてくるんじゃなかったなぁ
 でも魔王の命令は絶対なのだった。
 宴会芸は、命令していなかったのだが。
 全員まるで合わせたように肩を落としてため息をついた。


「えー、では皆様お待たせしました」
 幹事は(これはまおが決定する)シエンタが取り仕切っていた。
 ぐるりとコの字に取り囲んだ席に、正面2つの席。
 四天王、軍団長、そして隅っこにアクセラとシエンタの席。
 真ん中二つは、右にマジェスト、左にまおの順番だ。
「それぞれ酒ホットは行き渡りましたでしょうか!」
 酒ホットの正しい飲み方はこうだ。
 瓶ごとお湯で熱して、さわれないぐらい熱いこれを、土を灼き固めたトー器と呼ばれる分厚いカップに注ぐ。
 そして、縁を酒で溶かした塩で飾って、舐めながら呑むのだ。
 塩の飾り方が巧い女がもてるのが、ここの流儀らしい。
 どこの世界でも、男は雑である。
「おー!」
「では乾杯の御発声を、まお様に行っていただこうと思います」

  わー ぱちぱちぱち

「こほん。みんな、よくがんばったよ。温泉は逃げないから、ゆっくり休んでね!じゃ、かんぱーい」
 怒号のような轟きのような唱和の声。
 そして、一斉に酒ホットに口を付ける。
「あちあちあちあちっ、ふー、これ、少しづつしか飲めないのね」
 真っ先に口を離したのは、火傷しかけたまおだけだった。
「では、皆様ご歓談下さい」
 まおは、こう見えても子供ではない。お酒の経験もある。
 但し酒ホットは初めてだった。

 雑然とする喧噪。
 一部では既に酒ホットが呑めなくてビールに変わっていたりするが、まあそれはご愛敬。
 宴会特有の雰囲気の中、アールは気持ちよく杯を空ける。
「んー、なかなかの良い酒ですな」
 アールは文字通り舌鼓をうつと食事に箸を延ばす。
「うんうん、おみやげに持ってかえろうか」
「お、おもちかえりですか?」
「うわっ」
 突如聞こえた声に、思わず仰け反る。
 食事の上に頭がある。
 というよりも、思いっきり上目遣いで、彼の食事の手元にまで顔を突っ込むシエンタ。
 …幹事なんだが、明らかにダメになる程酔っている。
「お前、何を」
「こらシエンタ」
 よく見れば真っ赤な顔で何故か目を潤ませて見上げている。
 そんなシエンタを猫でもつまむように、後ろからアクセラがひっつかむ。
 そして、ずるずると引きずっていく。
「……なあ」
 隣で面白そうに笑みを湛えて、大きな盃を傾けるカレラにアールは困った顔を向ける。
 カレラはくすりと笑って、大きな盃を空ける。
「なぁに?」
「いや。……何だか、気分的にお前さんに聞いてみたくなっただけだ」
 困った顔でため息をつきながら、右手を振って会話を断ち切るアール。
 カレラはさらにくすくす笑い、盃のお代わりを頼む。
「お前、呑むなぁ」
「そりゃあ、こんなおいしいお酒は滅多に呑めないんだから」
 そう言う意味で聞いたんじゃないと、否定しようとする目の前でさらに大きく呷る。
「うっぷ。見てる方が気分悪くなる……」
 時間にするとおよそ半時間。
 宴会らしく、既にあちこちでそんな状況が発生していた。
「誰?シエンタに呑ませたの」
 今度はまおに両腕を預けるようにして、とろんとした目で迫っている。
「まおさまぁ、おいてかないでくださぁい」
 半泣き状態で首を振る振る。
「こらしえんた」
「アクセラ。あんたも平仮名で喋ってるよ」
 一応セットの片割れがとんでもなくなってるので、まともにしようとしているのは判るのだが。
 二人とも充分に酔っているらしく、ダメになっている。
「……こいつら、弱すぎ」
 ジト目で呆れながら、まおは器の縁の塩をなめる。
「酒ホットは危険なぐらいすぐ酔いがまわるのです、魔王陛下」
 そう言うマジェストは、いつもの白い顔を通り越したような真っ青な顔である。
 冷や汗を額に浮かべてまおは彼に無言の視線を向ける。
「ね、まじーは酒に強かったっけ?」
 つう、と彼の額からおとがいまで一気に汗が流れる。
「…………人並みには」
 魔物が人並みなどという比較を。
「あちゅあ〜ほあーっ」
「そーそーっ!話わかるぢゃん、意外にっ」
 リィとゼクゼクス。
「……宴会芸、誰からいく?」
「お前、ネタは?」
「くっ…相方が居れば漫才できんのに」
 酒が入ろうが入るまいが、ずーっと陰鬱とした雰囲気の軍団長軍団。
「まじー。ね、この宴会、しっぱいだと思うんだけど」
「魔王陛下。少なくとも宴会は失敗ではございません。このような酒宴は、気晴らしや気分転換、鋭気を養うのには外せません」
 いつものように言い切る物の、彼の悪い顔色が妙に説得力をかき消してしまう。
「ですが、酒ホットと温泉の組み合わせが……恐らくは悪いのではないかと」
 酒は、まおの住む付近で造られているワインに近いものだ。
 まお自身、ワインなら樽一つ空ける自信はある。
 だがワインは普通温めると痛むから、そんな事はしない。
「……うん。……異常にまわってる」
 自分の感覚を表現しようとして、めまいするような感覚にふらりと身体をかしがせる。
「温まった体に、暖かい酒は予想以上に回るようです。尤も酔いが早ければ抜けも早いはずですが」
 それは事実である。
 だが、少量で羽目が外れる程酔いが回ってしまえば、悪酔いや宿酔いはなくてもそこで終わってしまう。
 理性も記憶も意識も、酒に流されてしまうから。
「……ま、いっか」
 そう言ってまおも、自分の酒を覗き込む。
 まだ半分以上残っていて、欠けたように少し塩の山がなくなっている。
「たまにはいーかな」
「先刻と言ってることが変です、陛下」
 くふふ、とまおは笑う。
「それは変じゃないでしょ。変なのはお互い様じゃないの」
 あ、と目を丸くして口元に掌を当てるマジェスト。はっきり言って、二度と拝めないだろう。
「私もよってるもんねー。ねー」
 そう宣言してかっと一気に呷る。
「ぷーはーっっ!ほら、ほらぁってば、まじー。あんたものめっ」
「ちょ、陛下っ!」
 まだまだ、宴会は始まったばかり。
 でも、もう半数以上がおわりかかってたり。
「まおさまぁ」
「こらーしえんたー」
「……なあ、カレラ」
「なに?」
「……そろそろ、何とかしないとな」
 くすくすと続ける嗤いを、カレラはひときわ高い声にかえる。
「そーかしらねー。くすくす」
 ゆっくりと宴会は、次の演目に続こうとしていた。
「意外とシエンタちゃんってば、呑めないんだよねぇ。くすくす」
 言うまでもなく、それは仕組まれた物だった。
「はいはいはーい、みなさーん」
 ぱんぱんぱん。
 カレラは立ち上がって両手を叩く。
 甲高い音を立てる彼の掌がひらひらと舞う。
「まおさまぁ」
「こらーしえんはー」
「のめー呑むんだー」
「魔王陛下、もう勘弁してください」
 でも誰も聞いちゃ居ない。
「む」
 どん、と一度大きく床を蹴って、もう一度大きく手を打ち鳴らす。
「はいはーいっ!聞きなさいってばぁ」
 どんどんどん、と合わせて床を蹴ると、さすがに静まりかえる周囲。
「そろそろ宴もたけなわではあるよぉ」
「おい、それじゃ意味不明だぞ」
 アールの突っ込みを無視して、カレラは続ける。
「ね、そろそろ芸の一つも欲しくないかしらん?」
 本来であれば、シエンタが色々と仕込んだネタでもって、もう少しイベントがあったはずだった。
 だが等のシエンタは今やただの酔っぱらい。
 酔っぱらったアクセラに背中を引っ張られながら揺れてるだけ。
「今から一人一芸!どう?」

  ををおおおをををう!

 わき起こる歓声。
 いや、半ば強引な罵声だろうか?
 想像していただけに、多分予定通りのものだろう。
「んじゃあいくわよ。まずはあたしから」
 そう言うと、先刻から呑んでいた大きな盃を手に片膝をつく。
 あの盃、量にするとそれだけで瓶一本の酒が入る。
 そこへ文字通り一瓶の酒を注ぐ――彼は酒ホットで呑んでいない――。

  んく んく んく んく んく

「ぷはーっっ」
 朱塗りの盃を飲み干して、それを勢いよく自分の後ろへと投げる。
「役にもならんっっ!」
「それは色々まずいだろう」
 ぼそりと言うアールの言葉はほぼ無視されて、おそまつさまと頭を下げるカレラに拍手が響き渡る。
「をーをーっ、カレラちゃんって意外と呑めるんだぁ」
 意外と、どころではないが。
 ともかくまおには大受けだったようだ。
 ちなみにちゃん付け、これをまじー同様の縮め方をしないところがいいところ。
「……次ぎ、俺らか」
「絶対そうだ。煽ってやがる」
 目で合図をする軍団長たちのなかで、ひとり。
 すくっと立ち上がった。――西の軍団長、シェアである。
「貴公ら、我が先陣を切る。後は……頼んだぞ」
「にばんっっ!」
 悲壮感溢れる軍団長、涙ながらの別れのシーンを、絹でも裂いたような完全に音程を外した声が響く。
「あくせら、泣きます!」
 振り向いた彼の前で、舞台代わりの宴席の中央で、無意味なぐらい元気に、明るくそう言った。
「………え?」

  しばらく お待ち下さい。

「まじー、酒吐かせて温泉」
「御意に」
 叫び声と共にアクセラはその場に突っ伏しておいおい泣き出した。
 泣きながら床を叩いての熱演(?)やむなく、早々に拘束されてしまう。
「ううー……しえんたのやつぅ」
 ほぉ、と草臥れたため息をついてまおはジト目でそれを見送る。
「随分ため込んでたんだねー」
 そう言いながら、肝心のシエンタを探す。
 シエンタは既に床で突っ伏して眠りこけていた。
 …俯せで。
 ちょっと見間違えば、凄惨な格好である。
「こっちは既に泣き疲れて眠ってるし」
「参番っ!不肖、西方軍団軍団長シェア=ラィトウェイトが…」
 既に幹事も死亡、お付きはその連れを介抱に行った。
 やんややんやと騒ぐ四天王に、滂沱と涙して声援する軍団長を見るだけでも充分宴会芸のような気がする。
 頭の痛くなったまおはすくっと場を立つ。
「ちょっとといれ!」
 女の子だが、気にしない娘だった。

「全く……少しは気にして欲しいよ」
 呟く男の子。
 月明かりの下で、やっぱりしなっと柔らかくなった髪型のまま、ナオは手すりに身体を預けて街を見つめていた。
 この宿場はその立地条件から若干遅くまで店が開いている。
 酒場の集中した盛り場に至っては朝から晩までって事もしばしばだ。
 その灯りは、彼が護るべき灯り。
 ヒトの生活。
 そんな枠の中に収まらなければならない――そう、誰かが呟いたのかも知れない。
 ナオはそれを『禁忌』とか『倫理』という言葉で覚えている。
 魔物というのはその枠を超えた所に存在している。
 そして、枠を壊そうとして、壊して、この生活そのものを消し去ろうとしている。
――でも、どうして魔物っていうのはいるんだろう
 色んな魔物がいる。でも、普通の生物のカテゴリに入らない物が多い。
 存在としては生命体であることは確かだ――心臓や、脳を弱点として、生き物の素材でできている――。
 それを滅ぼすためには、人間を超えた生命体を殺すためには、人間を越えるだけの修行が必要になる。
――実はその時点で、人間でなくなったのではないだろうか。
 ナオは時々思う。
 ヒトを越えなければならないなんて。
「滑稽……」
 にこにこ。
「…………」
 じろり、と左横から覗き込んできた人影を睨む。
「滑稽だな、お前」
 ナオは先刻温泉で会った(会いたくて会った訳じゃないが)女の子が側にいる事に気づいた。
 というよりも気づかされた。
「何が?」
「俺を見て何が楽しい」
 頭をがりがりとかいて、身体をひっくり返す。
 宿のテラスの手すりに二人で並んで穹を見上げる構図。
「えーと。……ううん、なんか、凄く寂しそうだったから」
「寂しそう?俺が?」
 こくこく。
「違った?先刻のお姉さんは?」
 む、とナオは口を尖らせて彼女から顔を背ける。
「別に。ちょっと喧嘩しただけだよ」
 実際には、あんまりべたべた構ってくるので厭になって逃げてきたのだ。
 似たような物だが。
「そ?私もちょっと風に当たりたくなったんだよ。丁度良かったよ」
 にこにこ。
 どうにも無邪気に笑う彼女が、彼は逆に苛ついた。
「そうかよ」
「あれ?…何か悪いこと言ったかな……ごめん」
 ぺこり。
 いきなり、それもこの流れでは何処も誰も悪くないのに頭を下げられてしまった。
 会って間もない女の子に、だ。
――困った
 自分勝手なぐらい応えない姉を相手にしていると、つい他人に対してやってしまうと後悔する。
「あ、いや」
 まおが顔を上げる。
 僅かに上目遣いに彼を見上げる。
「謝るんじゃねえ、お前は何も悪いことをやってない」
 でも口をついてでるのは、やっぱり怒声だった。


「18番!あくせら、吐きますっっ!」
 まだ同じような調子の宴会芸は続いていた。
 既に三周ほどしているようだった。
 アクセラ自身も既に三周目のようだった。
「こらこらこらっ」
 もう大慌てでどたばたと走り回る軍団長。
 それをけらけら笑いながら見るカレラやアール。
 未だにまともな言葉を発さず、隣のゼクゼクスと会話し続けるリィ。
「もう収集ついてないわね」
 思わず漏らした感想に、マジェストは律儀に応える。
「始まった当初からです、魔王陛下」
「今度からシエンタはこの手の幹事はやめね。明日お仕置き」
 こくりと頷くマジェスト。
「さあっっ!これで終わり!終わりだかんね!」
 まおは怒鳴るように元気に叫ぶ。
 そして自分の席につくと、酒の器を手に取る。
 素早く横から注ぐマジェスト。
「んじゃ、かんぱーい!」

 強引に宴会を閉めると、意外にも素直にぞろぞろ自分たちの部屋に引き上げていく。
 この辺り真面目なのが、ちょっと意外でおかしいかも知れない。
 魔物なのに。
「魔王陛下、先程までどちらに」
 まおは自分一人専用の部屋が確保されていた。
 隣にマジェストの部屋。
 途中までは同じ方向だ。
「ん。先刻の子供のところだよ」
 そしてくすりと小さく笑う。
「あの子、強がって大人ぶってるけど、お姉さんに弱いの。おかしかった」
 自然な笑み。
「左様でございますか」
 マジェストは、彼女の笑みを皮肉に感じた。
 あまりにも自然、ごく綺麗な彼女の笑みは崩すにはあまりにも惜しい。
 でも間違いなく彼女はその笑みを失うことはないだろう。
 同時に良かったと思う。
「後で夜這いにいきたいんだけど、多分お姉さんと一緒に寝てるよ」
「お待ち下さい陛下。不穏当な発言はキャラクタを疑われます」
 あはは、と明るく笑って首を振る。
「まあ、半分冗談だよ。ホントにあの子は子供だし」
 何を半分か。思わず呟きそうになってため息をつく。
「ホントにお姉ちゃんと一緒に寝てそうだし、それを確認したくないしね」
 確かにそれは同感だった。

『姉ちゃん邪魔だよ』
『五月蠅い、おとなしく寝なさい』

 思わず想像して吹き出すまお。
「本当に、楽しそうでございます」
 マジェストは言って、細い目を嬉しそうに歪める。
 偶然と言う言葉は。
「そう?」
 きっと、その後に続く必然のためにある。
 運命の皮肉とか、いや、そもそも『運命』などという言葉すらここでは生ぬるい。
 先日戦った相手だと言うことにもまおは気付いていないのだから。
「どちらにせよ、今回の旅行はいい気分転換になったようですね」
 まおはくすくす笑う。
「気分転換というよりも……また、これでしきり直しって感じがする」
 うん、と両腕で大きく伸びをしてくるりとマジェストの方に振り向く。
 まおの背丈では、くびをうんと傾けて見上げる位置にあるマジェストの顔。
 マジェストは僅かに腰をかがめて、少しでもそれを低くする。
「まじー?私は、魔王だよ?」
「何を今更」
「『魔王』は世界を征服する。でも、私は違うんだよね?――まじー」
 少しだけ驚いたように背筋を伸ばし、マジェストはにっこりと笑みを浮かべる。
「貴方は――魔王陛下は、『魔王』です」
 さすがに。
 マジェストは、予想していた事とはいえ僅かな驚きと、敬意と、そして創造主への皮肉を込めてまおの頭を撫でる。
 まおはくすぐったそうに笑い、マジェストはそれに抱き始めた疑いをぶつけようと試みる。
 果たして――魔王とは、何であるのか。
 まおではない彼にとっては、それは抱くことの出来ないはずの疑問であり、そして知り得るはずのない答え。
 彼が少しでも惑うならば、『魔王』が前を向いたまま進むことが出来ないから。
「でも、魔王陛下、貴方が魔王なのです。陛下が魔王として行動しなければ、我々がいなくなってしまうのです」
「判ってるよそんなこと。全く、誰だろうね、こんな因果な話、作ったの」
 全くだ。
 マジェストが頷くと、まおはけらけらと小さく笑って背伸びして彼の頬をぺちりと叩いた。
「陛下」
「じゃ、おやすみ。また明日」
 そして彼の目の前でくるんと渦を巻く彼女のテール。
 律儀に纏めた二つの房が互い違いに揺れて、扉の向こうに消える。
「お休みなさいませ、魔王陛下。きっと明日も良い日になりますよう」

「んくー」
 魔王用に宛われた部屋。
 畳に、ふかふかの布団が敷かれている。
 それもかなり大きなサイズらしく――有り体に言えば、まあ、二人用だ――その中で眠るまおはいつにも増して小さく見える。
「すー」
 まだ幸せそうに寝息を立てている。
 よく見れば、時々笑みを浮かべているようだ。
 俯せで。
 枕を懐に抱き込んで。
 顔を真横に向けて。
 こうしてみれば、猫が丸まって眠っているようでもある。
「んくー」
「魔王陛下、おはようございます」
 襖を勢いよく、でも閑かに開いたのは――まあ、言うまでもなくマジェスト。
「さあ、もう起きていただきますよ」
 これもマジェストの日課だった。
 布団を剥いで、掛け布団にしがみついたままのまおを引き剥がして、それでも丸くなって眠っている真央を蹴り起こす。
「さっさと着替える!もう朝ご飯はできているんですよ!」
「ふみーん」
 世界を征服する魔王が、朝は低血圧で遅いうえに執事に蹴り起こされているのだった。
 多分、人間が見たら頭が痛くて敵わなかっただろう。



 酷い臭いと、激しい音。そして、気がついた時には死と、痛み。
 それが彼の記憶している、戦場の気配。
 右を見ても左を見ても、どこもかしこも同じ気配。
 違いはそこに響く絶叫と雄叫びの絶対数。
 サッポロの最南端、トマコマイは人類史上最大にして最悪の激戦区となった。
 投入された人類側部隊は、全部で200単位。
 そしてそれら総てが全滅したのだ。
 魔物の損失も大きかった。大型魔獣含む約32単位の魔物が全滅した。
 一単位有れば一国の軍隊を相手できると言われているが、そもそも完全に組織化されている訳ではない魔物は、戦術単位としては数えない。
 たまたま人類側軍隊に近い構成であるから、そう呼ぶだけの話だ。
 無論それも普通の場合だ。
 その時のソレは、『普通ではなかった』。
 だから赤き将軍、ナツ中将が討って出る必要があったのだし、蒼き将軍フユも配備されたのだ。
「おいグロッグ!ついたてだ!何でも良いからもってこい!」
 彼――グロッグは無言ですぐ側の破壊された攻城弓にとりつき、木ぎれを拾うと引き返して男に渡す。
 男は手早くそれを宛い、釘で打ち付けていく。
 見ればそれが殆ど無駄な作業だとすぐに理解できる。それほど被害は甚大だった。
「ぼやぼやしていられない。いつ奴らが攻めてくるか判らないんだ」
 グロッグは彼の言葉に頷き、崩れた城塞の隅にとりついて南方を眺めた。
 ここトマコマイは大陸でも最も狭い地形に切れ上がった所に砦を築いている。
 魔物も、否応なしにこの砦を越えなければサッポロには攻め入ることは出来ない。
 だがこの特殊な狭い地形の御陰で、他の砦のように力押しすら難しいのだ。
 取り囲めない。
 それは人類にとって有利な唯一の点だった。
 防衛する為の防人の人数が少なく、攻撃するための武器も消耗、既に残された僅かな武具で白兵戦を主体にするしかないのだから。
「しっかり見張れよ!我らサッポロの大地を、魔物に蹂躙させる訳にはいかん!」
 別に、魔物が跳梁跋扈していようと、国を保つのは簡単だ。
 前述したとおり、魔物は戦術行動を起こすような行動はまずとれない。
 簡単な砦を築くだけで、街を護ることも出来る。
 事実サッポロを除く大地は、殆ど魔物が闊歩している状態なのだから、ここほど完璧に魔物を閉め出している国はない。
 逆に、サッポロ内部ほど人類にとって安全なところはなかった。
 簡単に言えば他の国で街単位でやるところを、大がかりに国単位でやっているようなものなのだから。
 だから本来なら、ここまで苦戦するはずはない。
 グロッグは胸にぶら下げた双眼鏡を手に、さらに遠くを眺めようと身を乗り出す。

――勇者?

 思わず反論した言葉。

――俺は辞退する。そんな物には興味はない

 彼の取り柄は、よく見える『鷹目』と身軽な身体だった。
 この戦でもそれがいかんなく発揮されている。
「…?」
 見えた。
 グロッグは双眼鏡ごしに、それに目を向ける。
 煙のような物、それは超高速で駈けてくる魔物の一軍だった。

「あーあ、もう戦闘かよ。新しい刀を用意する暇すらありゃしない」
 そう呟きながら、小刀程の長い砥石に料理油程度のさらさらの油を浸し、一気に刃を研ぎ上げる。
「いっそ、勇者様がここに現れてくれて、魔物を一掃してくれれば良い物を」
「馬鹿な」
 グロッグは仲間の言葉に眦を吊り上げる。
 彼の様子に、仲間――コルトは驚いて目を丸くした。
 グロッグは話せないわけではない。それは判っているが、滅多に口を開かない事は確かだった。
 その彼が。
 目を爛々と輝かせて、怒りに顔を引きつらせている。
「そんな物信用するな。そんな名前、言葉、二度と貴様の口から聞きたくはない」
「あ、ああ、ああ判ったよ。約束する」
 コルトの言葉に、グロッグはじろりと壁の外へとその視線を向けた。
 止まっていた作業を再開し、取りあえず魔物に備えなければならない。
 魔物の侵攻を止めるために。
「来るぞ」
 短く、グロッグが言葉を継いで。

  再びそこは戦場という気配に包まれる。

 剣を手に取り、兵士達が飛び出していく。
 意味不明な、そして特徴有る魔物の叫び声が、彼らの怒声を上回る勢いで迫ってくる。
「げれげれへれ」
 文字にすると、もうそんな感じ。どうしよう。
 多分、魔物達を描写してもそうだ。
 折角シリアスなのに、可愛らしい顔立ちのねこの頭(○に、△が乗ったような奴)のついた雑魚『ねこかぶと』とか。
 女の子(というよりも、キュー○人形)の身体にいぬの頭の『いぬむすめ』とか。
 言葉にするにもあまりに酷い連中が、わんさかそこに居るのだった。
 そやつらが日本語じみた怪しい叫び声で迫ってくるのだから、これは悪夢と言うべきだろう。
 だから、勘弁して貰いたい。
――勇者なんか
 グロッグは、サッポロの兵士独特の大きな鉈状の叩き斬り専用刀『斬魔刀』を握りしめた。
 彼自身はそれほどこの刀を使えるわけではない。でも、今はこいつしか信用できる武器はない。
「そんなもの、どこかで誰かがやればいい」
 何かに操られるような、そんな存在はごめんだ。
――それに、勇者など……お話だけの存在だ
 これだけの魔物を相手にしている自分達と何処が違うというのだろうか。
 同じ人間じゃないのか。
 そんな彼の中の疑問が彼に辞退させるだけの理由になった。
「俺は勇者を認めないし、勇者になんかなるものか」
 彼は叫び、壁を乗り越えて魔物の群へと突撃した。

 トマコマイ砦での攻防戦はまだしばらく続く。
 魔物の侵攻は激しさを増し、まるで嵐のような攻勢が続いた。
 そんな激戦のある一幕での出来事だった。


 ぱちぱちと小枝の爆ぜる音。
 魔物との戦争では人間との戦争と大きく違い、戦術的行動がまず持って違う。
 魔物というのは数と力だけでごりごりと目標を押す。
 相手の戦力など気にしない。
 どこから沸いてくるのか、それとも初めからとんでもない数の魔物が居るのか――ソレは判らない。
 ただ延々と目標に向かって前進、邪魔な物を排除していくやり方だ。
 まさに蹂躙。
 だから、煮炊きの煙を隠す必然もあまりなかったりする。相手が気にしないのだから。
「……喰えると思うか?」
 だが、隠している訳でないそれが、今では最初より遙かに少なくなった。
 これは何の冗談でもない。
――人間が減りつつあるからだが、もう一つ理由があった。
「さあな。少なくとも、焼けばまともかも知れないだろう」
 グロッグが串刺しにして焼いているのはねこかぶとの頬肉。
 頬、と言ったってそこが外観上頬なのであって、あばらのような横骨がみっしり走った板状の肉だ。
 雰囲気的にはリブステーキだろうか。
「まともな食事がとれなくなってるんだ。これでも我慢して喰うしかないだろう」
 既に兵糧はつき、その気温から腐ることなく保存されている肉・魚介類すら既に備蓄を失っていた。
 結果、どこかの食料も持たずに潜った地下迷宮の冒険者の如く、魔物を料理して食べるしかない。
 チーズ味のキノコの化け物が居るわけでもなく、異常な生態を持つ魔物を料理するのは難しい。
 外観と中身が常識と一致しないのはまるで当然だったりする。
 いぬむすめなどは背骨が有るべき場所には何もなく、頭のような犬型の頭部分に背骨から何から詰まっている。
 『むすめ』の部分は、『もつ』になってるらしく、斬魔刀では切り裂くことも難しい。
「いぬよりましだろ?見た感じも肉だ」
 そう言って切り分けて、グロッグは真っ先に口にくわえる。
「……少し筋のある歯ごたえのある肉だ。喰える」
 味は豚肉に近い、匂いの強いものだ。
 その方が目も覚めるし、何より薬みたいで良い。
 彼はそう思いながら、骨をしゃぶりながら一本一本吐き出した。

 既に崩壊の始まった砦は、砦の役に立たない。
 役を為さないそれを、どうやって支えるのか。
――否。初めから、砦にする必要なんかないのだ。
「ではフユ将軍、トマコマイをどのように使うおつもりか」
 僅かに目を伏せた彼女は、問いにこう答える。
「――貴殿らは、魔物の侵攻を止めればよいとおっしゃるのであろう」
 何の感情も移さない、冷淡な表情。
 澄まし顔、それが彼女の固定された仮面。
 くるりと振り向き、そこにいる全員に言い渡す。
「トマコマイであれば、既に私が準備を終えている。魔物は――止める」
 手段を選ばないので有れば。
 だが彼女はその言葉を継ぐことなくもう一度振り返り、砦のある方向を――煙の上がる谷間に視線を向けた。
 明日には向かわなければならない。
 既に部隊としては殆ど何の役にも立たなくなっているという報告からすれば、既に全滅していてもおかしくはないのだから。
――ナオ
 前線にはナオが居る。
 何とか連絡も取りたい。
 だが魔物の拠点を叩きに行ったナツ中将は、根っからの剣士で言霊で会話すら出来ない。
 そもそも、彼女も撤退してしまっていて、仮に連絡がついたとしても意味がないだろうが。
「すぐに出立する」
 目指すは――トマコマイ。

 腹ごしらえが済んだら、彼らは再び持ち場へととりつく。
 身を隠せそうな砦の城壁にとりつき、南方を見渡す。
 既に投擲武器も、弓矢も尽きた。
 攻城兵器は破壊された。
 残るのは肉弾戦しかない。
「なあ」
 グロッグは自分の側にいる少年に声をかける。
 少年は斬魔刀とは形がよく似た、もう少し小振りの剣を研いでいる。
「…なんだ」
「お前、誰か、大切な人はいるか」
 見たところ少年はまだ十代前半といったところか。
 とても前線に出るには早すぎるとしか思えない。
 逆に――このぐらいの少年が出ざるを得ないような、現状なのか。
「何の話だよ」
 やはり子供っぽい声で、眉を寄せてグロッグを睨み付ける。
「支えになる人間のことだ。それがなければ、戦場は死に場所になっちまう」
 そう言う人間を厭と言うほど見てきた。
 グロッグの口調はそんな感じがする。
「あんな、得体の知れない魔物なんかに殺されちゃ、間抜けだろ」
 若い、少なくとも自分より若いこの少年は死ぬべきではない。
「同感だね。その程度の力量で生き残れるって思ってたんだろ」
 だが少年の言葉は、まるっきり正反対の反応だった。
「あの程度の奴ら、何とでもなる。殺されるなんて間抜けのやることだ」
 そう言うと、小さな砥石をポケットに戻し、今度は柄の紐を解き再び締め始める。
「お前」
「第一もうすぐ姉ちゃんがやってくる。安心しろよ、あの「青の将軍」だぞ?」
 そして、彼は年相応の笑みを湛えて親指を立てて見せた。
「……そうか。じゃあ、この戦いも終われるのか」
 グロッグは言うと再び城壁の向こう側に視線を向けた。
 彼の胸元でちりん、と金属音がする。
 小さな宝石を飾り立てる金色のブローチ。
――ベレッタ
 彼はお守りに貰ったそれを見て、自分の家にいるはずの彼女の事を思い出した。

  勇者なんか、人でなしの代名詞よ

――今の自分と、勇者を選んだ自分と、どう違うんだろうな
 彼は、彼女を置いてどこかに行きたくはなかった。
 彼女の側にいなければならないと思った。
 だから今、ここでこうして戦っている。
 でも――それが、結果どうして離ればなれにならなければ。
――勇者って何なんだ
 英雄って言うモノは、他の人間と何がどれだけ違うというのか。
 他人よりも戦わなければならないのか。
 魔王を倒す必要があるから――何故、勇者はひとりで魔王を殺しに行かなければならないのか。
 軍隊を率いて、魔王というモノを滅ぼせないのか。

  勇者の資格がある

 じゃあ勇者って何だ。
 何もかもと引き替えに魔王を倒さなければならないなんて、一体何故そんな滑稽な事を。
――誰が選ぶって言うんだ
「来たぞ!」
 誰かが叫んだ。
 再び戦場の気配へと突入する合図が。
 今度こそ、最後の戦場になるように。
 グロッグは祈って斬魔刀を握った。


 今回のサッポロ攻めは、魔王としては初めてのことだった。
 軍隊として行動する際、指揮官としてそれぞれ担当する部署の軍団長が就く。
 北方の長ドクはマジェストより計画と命令を受け、魔物を軍勢として指揮し始めた。
 その途端、突如統制を取って何万というねこかぶとといぬむすめに代表する雑魚がわらわらとトマコマイ目指して前進を始めた。
 バラバラのベクトルしか持たない。群れないあれらが突如同じベクトルを持って押し寄せれば。
「単純な力押しでも、充分効果はある」
 ドクは津波のような魔物の群を見ながら呟く。
「とはいえ……」
 滑稽な姿をした魔物の群が押し寄せる様は、無表情な可愛らしいこねこの魔物とぬいぐるみのような犬の魔物が津波を作る様子は。
 色んな意味で不気味だった。
「魔王陛下は、こういう趣味なんだろうか」
 目の前で繰り広げられるB級ホラーばりの光景に、思わずドクは頭を抱えた。
「なあ」
 すぐ側にいる、彼の小間使いをしている魔物に声をかける。
「はい?」
「魔王陛下のご趣味……なんだったっけ」
 何かおみやげを手に入れなければならない。が、肝心の『何が好みか』を忘れている。
「もう、旦那も手が早いですなぁ。しかも相手は魔王陛下ときたっ」

  ごすん

「下らないことを言うな。馬鹿者」
 彼はため息をついて、この戦の報告は出来ればしたくない物だ、と思った。
 それほど劣勢で、なにより、おみやげをねだられるのが悩みの種だった。

 繰り返すが、グロッグの武器はその鷹目だった。
 魔物が群をなし、いかにも統率されて動いているように見えるこの中で、唯一にして無二――特異な姿をしたモノが居る。
 普通なら遠すぎて見えないだろう。
 群に隠れて判らないだろう。だが彼にははっきりとその姿が見えていた。
 ヒトと変わらない姿をした――魔物の姿が。
「……!」
 距離にしておよそ、ぎりぎり弩弓が射かけられる距離。
 巻き上げ装置付きの弩弓はあるが、太矢がない。
――勇者って奴が特別で、魔王を倒せるっていうんだったらな
 代わりに彼は、手近な瓦礫をレールに乗せる。
 真っ直ぐ飛びはしないだろうが、これで充分だろう。
 そして彼は、それを自分の視線の上へ合わせる。
――俺は、選ばれたんだから――
 照準を合わせて、引き金を引き絞る。
 ばつん、という独特の音がして、弦が岩を弾いた。
 それはきちんと狙いを定めたとおりに、放物線を描いて落下していく。
――当たれっ!

 はっきり断言しよう。
 軍団長は眠かった。
 何で眠かったのか。彼は良く覚えている。
 眠れなかったからだ。
 何故眠れなかったか。
――うーん、どうしてもいい結果が出ないよなぁ
 このトマコマイ攻めの芳しくない結果のため、おみやげを何とか捻出したいところだった。
――陛下が悔しそうな顔をするのも、嫌そうな顔をするのも、怒るのも嫌だなぁ
 まあ、どんな顔をしても可愛らしいの一言で片の付く話ではあるが。
 ドクは少なくとも、まおが不快な感情を抱くのが辛いのだ。
 だったらという話も在るかも知れないが――まだ彼は知らないが、この努力は報われない。
「……ねむ」
 大きくあくびをする。

  ひゅぉぉぉぉぉおおおおおん

 がり。
「むに?」
 がりばりぼり。ごくん。
「……なんか、飛んできたな?」
 重ねるようだが、姿形は人間である。
 中身は人間どころでは、有り得ないのだからして。

「んな馬鹿な」
 グロッグも思わず声を上げていた。
 まさか狙ったとおりに飛んでいくとは思っていなかったが、それにしたってたまたま大口を開けた中に入るだろうか。
 平気な顔でばりばり岩も食べてしまったようだが。
「おい、逃げるぞ」
 ぽん、と肩を叩かれてはっとする。
 遠くを眺めていたからだろう、周囲へと注意がおろそかになっていたらしい。
「大丈夫か?弓の名手」
 それは先刻声をかけた少年だった。
 右手に提げた斬魔刀には血糊が残っているところを見ると、どうやら前線から引き返したパターンだろうか。
「おい、しかし」
「さがらねーと事だって。もう姉ちゃんこっちに来てて準備終えてるって話だ」
 巻き込まれるのはごめんだ、そう彼の目が言っている。
「準備?」
「ああ、広域殲滅用の『都市爆弾』だってさ。つい先刻、『砦から離れろ』って、伝令が走ってた」
 もう既に、砦には魔物がとりついている。
 何とか壁を崩されずに残っている部分もあるが、それも時間の問題だろう。
――急がないと
 ナオは思った。
 間違いなく、フユは『撃つ』。
 多少の人的被害を無視してでも魔物を殲滅することを、一歩でもサッポロの大地を踏ませないよう、何よりも優先する。
 だったらナオにできるのは一つ。
 彼らを少しでも助け出す事。
 目の前の厳つい男は優しすぎる。叱咤するとそれでも立ち上がって走り始めるが。
「……お前」
 グロッグの言葉に、走りながらナオは振り向く。
「この戦いに、何の疑念もないのか?」
「変な奴だな」
 ナオは、相手が年上だろうとお構いなしにそう言い切ると、逆に片方の眉を歪めて聞く。
「俺は、あんたみたいに消極的な理由がむしろ聞きたい。何故魔物を倒すことを躊躇う、いや…」
 そうじゃないんだ、彼は呟いて後頭部をかきむしる。
 だが、そんな風によそ見をして喋っていたせいで、彼は足下の瓦礫に爪先を引っかけてしまう。
「わっ」
 そのままの勢いですっころぶ。
 前方に投げ出されたみたいにごろんと一回転。

 その時、『世界』が暗転した。
 甲高い音がして、総ての音が消え去ったかのように錯覚する。
――え?
 僅かな。
 本当に僅かな、一歩の差でグロッグは取り残され、彼は圏外へと脱出していた。
 考える余裕もあればこそ。
 光の加減で見える境目がナオとグロッグの間にある。
 グロッグは引きつった顔で、その壁を破ろうとして――間に合うはずもなく。
「!」
 彼の目の前で、グロッグは白熱して――あっという間にただの白骨へと姿を変える。
 ナオまで熱量が伝わるわけではなかったが、それが怖ろしく高温だと言うことだけは判る。
 砦周辺にいた総ての物は、今この瞬間に灼き殺されただろう。
 今目の前にいる男のように。
――……何で、あんたは、消極的だったのかな
 まるで彼に向けて祈るように、グロッグの白骨は彼に向かってゆっくりと倒れる。
 ちゃりん、と何かが音を立てると一瞬だけ彼の視界が歪んだ。
――!
 何だったのかは判らない。
 ただそれが、あまりにも異常な出来事だったので、フユの言霊の影響か何かかと彼は思った。

 グロッグは自分が何か異常な物に取り込まれたことを知った。
 『青の将軍』が直々に赴いて行動する。
 それは『言霊』を使った攻撃をすると言うことであり。
 彼は歪んでいく周囲の景色を見ながら――それがほんの一瞬を思い切り引き延ばした僅かな時間だという事にも気がついていた――死ぬのか、と思った。

  次の勇者が決定した

 そして、何故だろう、彼は声を聞いた。あの時、自分に勇者の資格を語った声だ。
 自分の胸元にある小さな欠片が、僅かに胸元で揺れて。
 彼の脳裏に、ベレッタの顔が過ぎった。
 感じられる域を超えた高温が襲いかかり、彼は一瞬で蒸発し――そこで意識は途絶えた。



 ぱきん、とガラスが砕ける音がして、ベレッタは顔を上げた。
――え?
 それが何の音なのか、慌ててネックレスを探る。
 グロッグと対で持っていた石。
 元は一つのある欠片から切り出したと言われるその石は、彼女の先祖代々から伝わる宝物だった。
 多分売ればかなりの値段になるだろうし、そうとうの値打ち物だろうというのは判る。
 だからこそ、お守りになるだろうとグロッグにブローチを渡した。
――割れてる
 本来は綺麗な翡翠で澄んだ色をしていたはずなのに、表面に細かく罅が入り、真っ白く濁ってしまっている。
「グロッグ」
 彼女はそのペンダントをきゅっと握って、前線が有るはずのトマコマイへと視線を向けた。
 そこは、赤い光に包まれていた。

 はっきり言って大誤算。
 ドクは悲惨な戦場を見渡してため息をついた。
「あーあ。滅茶苦茶やってくれたもんだ」
 これはまぢなおみやげが必要っぽい。
 彼は両目を涙に満たしたまおの顔を思い浮かべて大きくため息をついた。
――女の子の魔王なんて、仕えたことがないから判らない
 どうやって機嫌を取ればいいかも判らない。
 皮肉というか、何というか。
 ふらり、と砦の周囲を回っていた時、彼の目にそれが飛び込んできた。
「ん?」
 小さな翡翠色の輝き。普通ならそんなものに目もくれることはないんだろうが、その光が尋常ではなかった。
 魔力のこもった光だ。
「これは……」
 まず普段見ることの出来ない欠片だ。
 このぐらい小さな欠片で有れば、確かにまだ手に入る可能性があるが。
 命の雫と呼ばれる結晶体である。
 尤もここにあるこのサイズでは(人間にとってはともかく)足しになる程度の魔力しかないが。
――確か、最後に手にしたのは……
 何代前かの勇者がこれを使って魔王を倒した。
 その時は大きな球体で、確か――そう、その時の先代の魔王が遺した物だったはず。
「これなら魔王陛下のお気に召すかも知れない」

「ひーん」
 書類の山の中で、必死になってはんこを押したりサインをしたりするまお。
「なんでこんなに今日は書類が多いのよぉ」
「丁度サッポロで戦いが始まりましたから、ちょっとした事務手続きがあるのです」
 本当か嘘か判らないが。
 どうやらそうらしい。
「……どーして」
 ジト目でマジェストを睨み付けるまお。
 既にその目の下に隈ができかかっている。
「魔王軍が動いているのです。糧食の輸送計画、魔王軍の補充計画、行進計画に戦闘状況報告、様々な書類が目に見えないところで動く物です」
 ……段々信用ならなくなってきた。
「ねえ」
 まおはジト目のまま、彼を睨み続けている。
「はい」
「その書類、どうして、どれだけ、必要なの?」
 マジェストは高らかに笑う。
「次の代の魔王陛下ご自身のためです」
「私、見たことないんだけど」
 再びマジェストは高笑いをして、咳払いをする。
「…まじー?」
「いやいや。あっはっは。おほん」
「一度にそんな事したら怪しさだいばくはつだよ。……で。よーするにこの書類の意味は?」
 まおは両肘を机について、じとーっとマジェストを眺めている。
「書類の形を取ってますが、魔王陛下の意志力を伝える一手段です」
 それも本当なのかどうか怪しいが、まおには実は確かめようがない。
「どうかお察し下さい」
 ぺこり。
 まおはまだむすーとむくれた感じの表情(まあ、疲れているのだ)で彼を睨んでいるが。
「……仕方ないよね、まじーも。判ったよ」
 インクを確認して羽ペンを立てる。
 そして、もう何度目になるだろうか、ため息をついて机に向かう。
「さーって、やるぞー。……なつやすみさいごのひに、ためた宿題をやるしょうがくせいの気分がよく判るよ、ね」
「本当ですか」
 素早く突っ込みを、冷静に入れてくる。
「……ごめん」
 自分でも何を言ってるのかまおは理解していなかった。

「ねえ、まじー?勇者ってどうやって決まってるの?」
 結構根本的な質問だった。
 今まであんまり考えたことはなかったが、先代の勇者を退けた時以来空位のまま既に100年以上が経過しているのだ。
「そうですねぇ。勇者と言っても人間ですし、別にそう、先祖が勇者だからって勇者になれるわけでもないです」
 だからこそ長期間空位になっていたりするんだが。
「そーなのよねぇ。ね。私が魔王なんでしょ?でも、私が選ぶわけじゃないじゃない」
 机の上で人差し指をぐりぐりと押しつける。
 何となくのの字を書いている訳でもないのだが。
「はい。私達には決めかねるのです。……ある程度、素養のある人間でなければ勇者になりえませんからね」
「でも人間が決めてるわけじゃないじゃん。……どうなってるの?」
 マジェストは僅かに首を傾げる。
「うーん……魔王陛下、さすがにその辺の事情までは私でも判りかねますね……」
 でも、誰かが決めている。
「案外神様あたりがダイスを振って決めているのかも知れませんね」
 どこかでくしゃみをする声が聞こえたような気がして、まおは両手を机に当てて、天井を見上げる。
 でももちろん、ただの岩壁しか見えなかった。
「じゃんけんとかくじ引きで決めてたら、何だか可愛そうだけど」
 そう言って、彼女は両肘を机について、顎を両手の甲に載せる。
「色々特典が貰えるしすてむなのよね。私を倒すと」
 こくり。
 マジェストは頷いた。
「洗剤一年分とか、二年分のじゃがいもとか」
「わっ、妙に庶民的な上やけに現実的な特典ね」
 棒読みかつジト目で冷たくマジェストを見つめるまお。
「……失礼いたしました魔王陛下、お許し下さい」
「ふーん。まあ、暖炉に世界を滅ぼされるよりかはましかもしれないけどさぁ」
 すっと目を細める。
「次の勇者って、どんな子なんだろうなぁ」
「魔王陛下はここでお待ちになっていれば良いのです。それだけで、遭えるんですから」
「伝承の通りって奴でしょ。判ってるよ」
 まおは肩をすくめて見せた。
 待つしかない身としては、つまらなく平凡で淡々とした日々を過ごすしかない。
 書類仕事でもしておけば気が紛れるのかも知れない。
「まあ、待ちましょうか」
「そね。今日だけはその意見に賛成ね」



「すー。すー」
 かなり不思議な、何というか預言めいた夢が、古い記憶とともなって現れた。
 ナオは、一月ほど前の砦陥落の際の、あの男の事を久々に思い出した。
 結局誰も助からなかったし、フユは術を止めなかった。
 勿論フユの『ナラク』がなければみんな死んでいただろうし、魔物も止まらなかった。
 そして、もう一週間以上前の、あの『カタシロ』。
 ……ふと、気づいた。
「すー。……んんん」
 思わず見ようとした掌も、何故か布団から上がってこないし。
 何より、後ろから妙な声が聞こえてくる。
――姉ちゃん
 時々こうやって、いつの間にか判らないがフユはナオを抱きしめて眠っていることがある。
 両腕を完全に抱きすくめられていて、彼も身動きままならない。
 子供の頃からそうだった。多分、フユにとってはまだよちよち歩きの赤ん坊と変わらないのかも知れない。
「……姉ちゃん、起きろよ」
 言いながらナオは呆れたジト目で、姉を見上げた。
 寝っ転がった体勢で見上げるというのも意味不明だが、ともかく見上げた。
 フユはまだ完全に寝入っていて、なのに両腕はしっかりと彼を捕まえていて離そうとしない。
 ふと見れば、もう一つの布団は既に畳まれてしまっていて――まあつまり。
――確信犯、って奴か
「ん」
 僅かに身じろぎして、フユは腕にさらに力を込めた。
 まるで逃げる彼に反応したように。
「……ナオ」
 ほどこうとして、彼女が聞いたことのない様な声を出したのに驚いて硬直する。
 彼女の手がナオの頭に伸びる。
 目が覚めたのかと、顔を上げても彼女はまだ目を閉じたまま。
――泣いてる?
 ナオは彼女の手が自分の後頭部に当てられているのを感じながら、何が起こっているのか理解できず。
 女中さんが起こしに来てからかわれて顔を真っ赤にしながらフユに文句を言うまで、そのままにせざるをえなかった。
 聞いても教えてくれなかった。
 覚えていないのか、教える訳にはいかないのか。
 ナオには判らなかった。

「まお様。朝でございます、朝食の準備が出来ました」
 まず、扉の前で小声で発声。
 二人の声が完全にそろっているのを確認したら、アクセラが頷く。
 シエンタはノックして入り口の襖を開ける。
 せーの、とアクセラのかけ声。
「まお様。朝でございます、朝食の準備が出来ました」
 二人同時、完全にずれのない発声で彼らの主君を呼ぶ。

  しーん……

 二人は顔を見合わせて、意を決したようにアクセラが部屋の襖を、開ける。
 そろそろそろ。
「!」
 ぼん、と音を立てそうなほど驚いて、アクセラの顔が真っ赤になる。
 首を傾げたシエンタが、ひょいと覗く。
「……」
 言葉なく、彼は蒼くなって顎をがくがくさせる。
 まおが、彼らの方を向いていた。
 いや。
 別に起きてたわけでもないし、睨んでたり怒ってたりしたわけではない。
 眠っていた。
 俯せで、幸せそうな顔で、でかい布団なのに身体を伸ばしていないのか、彼女の顔の回りがぽよんとまるくふくらんでいる。
 顔がこっちを向いている。アクセラは、幸せそうな彼女の寝顔に驚いて顔を真っ赤にして。
 シエンタは、その不気味な様子とまおの顔がこっちを向いているという事実に驚愕したのだ。
 先に我に返ったアクセラが、音もなく襖を閉める。
「…………マジェストさんを呼んでこようか」
「…………そうだね。その方が、良いと思う」
 結果、マジェストがいつものようにまおをたたき起こすという事になるのだった。
「別に私は構わないんですが」
 まだ髪の毛が眠ったままの状態のまおを正座させて、マジェストは眼鏡のまんなかをくいっと押し上げていた。
 まおの大嫌いな、お説教モードである。一月以上ぶりというところか。
「いいですか、魔王陛下。陛下は魔王で有る前に、もっとしっかりと部下にねぎらってやってやらねばなりません」
 ぐすぐすと涙目で、彼の言葉を聞いている。
「アクセラとシエンタがいつも自分のところに『陛下を起こしてください』って来るのはどういうことですか」
「ふみい。判りません」
「魔王陛下が起きていないからです。今も、起きなかったでしょう」
 ちなみに、小間使い兼召使いのアクセラとシエンタが起こしたり、着替えさせたりあまつさえ風呂に入れたり背中を流さなければならない。
 ……んだが。
 まあ、それはあの二人を見ればほぼ不可能であることは言うまでもなくて。
 シエンタ曰く『昔の魔王様は、こき使ったけどまだ出番があった』とのこと。
 まおが子供過ぎて(それに合わせて彼らも子供なのだが)巧くいっていないのも確かだった。
 結果、魔王軍一の良心であるマジェストが、両親代わりという悲惨な結果に。
「いいですか陛下、昔から良い子は早寝早起きと相場が決まっているのです」
「……私魔王……」
「陛下!」
「うううー、判りましたぁ……」
 こくこく頷いて彼女が答えるのを聞くと、マジェストはちらりと後ろを見る。
 そこには、襖に隠れるように覗き込んでいるシエンタとアクセラの姿がある。
「あとはお任せしますよ」
 不安そうな顔をしていた二人が、ぱっと貌を明るくして部屋に飛び込んでくる。
「まお様、今日の髪型はいかが致しましょうか」
 すぐに彼女の前にとりついて、ブラシやら――どこから取り出したのか、ドライヤーを手にして貌を覗き込むシエンタ。
 アクセラはすぐに布団を片づけて、いそいそとちゃぶ台とお茶の準備を始める。
「ん、昨日と同じ。しっぽ」
「判りました〜」
 ばたばたと慌ただしい朝の風景に、マジェストはようやくため息をついて廊下に出た。
 今日で温泉旅行も終わり。サッポロを出て再び魔城に帰らなければならない。
「私は売店で、おみやげでも探してきますかね」

 まおうご一行様の休暇も終わり。再び戦乱の火種となるはずだった。
 妙にいい人ぶりを発揮しまくった休暇だった。
「……私、良い子じゃなくて魔王なんだけど、まじー……」
 彼女の呟きもマジェストには届いていても無視されていた。


 サッポロ温泉旅行も終えて、将軍や四天王は自分の持ち場に戻った。
 まおは今日も執務室で書類と格闘していた。
 いや、別に拳を握って紙と戦っていたわけではないが。
「むー」
 彼女の前に、四角い箱が置いてある。
 丁度、大きめのケーキが収まるぐらいの奴だ。
 その上にまんまるくラインが引かれていて、中央にコンセントのような二重線が書かれている。
 そして。
 みょうにちんまいまおの人形と、マジェストの人形が向かい合わせに置かれている。
「てーい」
 両手で、箱の端に書かれた『PUSH!』という文字の辺りをばんばんとめったやたらに叩く。
 叩く叩く叩く。
 ひょいひょいひょいと二つの人形は踊り、そのうち停滞して中央付近でぐるぐる回る。
 相撲で言うところのがっぷり四つで動かない状態である。
「これ、PUSH!じゃなくてBANG!とかATTACK!とかの方があってるんじゃないのかな」
「TAP!が一番正しいでしょう」
 うわ、と思いがけない声に仰け反ると、マジェストの人形がぱたりと倒れて箱から落ちる。
「いぇーい、まじーのまけー」
「私の負けじゃありません、魔王陛下。…ちょっと目を離した隙にこれですか」
 呆れかえった表情で彼はまおを見下ろしていた。
「えー。だってぇ」
「だってではございません、魔王陛下。全く…」
 彼は眼鏡の中央をくいと。
 お説教モードのスイッチをくいっと入れようとした時、ふと気がついて眼鏡を押し上げるのをやめる。
 別にやめる必要もないのだが。
「魔王陛下?」
「ん?なに?」
 マジェストが口ごもるように彼女を呼ぶのは珍しい。
 というか初めてだろうか。
 何故か眼鏡が光を反射していて、その表情を窺うことが出来ない。
「その、いや。あまり陛下は髪型にはこだわっておられないのでは」
 数日前からおだんごあたま(後ろでまとめるアレ)かぽにーてーる(2本だったり後ろじゃなかったり種類はあるが)しか見かけていない。
 以前はその時の気分で全く違う髪型だったりしたが、ここのところ纏める髪型数種しか見かけていない。
 これは有り得ないことだった。拘らない事に拘っているようにも見えたのだが。
「あ?あ、あはは」
 追求されると笑って、頬を人差し指でぽりぽりとかいた。
「んー。この間の男の子にさ、リボン貰ったんだよ。飾ろうと思ったらこんな髪型しかなくて」
 濃い青い色、群青とも言える程鮮やかなリボンが彼女の言葉通り団子をくるんでいる。
「……ヘアバンド代わりにもなりますよ?」
「あ゛ー!」
 マジェストの指摘に泣きそうな半眼になって人差し指を突きつけてくる。
 よっぽど壺に入った指摘だったらしい。
「あやまれっ!あやまりなさいまじー!」
 何故か半狂乱で腕を振り回すまお。
「わ、わわ、申し訳有りません失礼いたしました。落ち着いてください、魔王陛下」
 暴れるのはやめて両腕を降ろした物の、まだ涙目でじとーっと睨み付けている。
 半分上目なので、子供がだだをこねているようにも見える。
 マジェストはため息をついて肩をすくめる。
「書類仕事はまだ有りますからね」
 今度こそ、彼はいつもの微笑みを浮かべ、まおに背を向けて執務室を出ていった。
 じと。
 彼が消えた方向を、半眼で睨む。
 きょときょと。
 周囲に誰の気配もないことを確認する。
 尤も、マジェストに至ってはどうやってるのか知らないが、突如彼女の側に現れる事が出来るので油断は禁物だ。
 特に、それ以上追求もせずに立ち去るなんて事は、これまでに一度もなかった。
「……まじー、何か考えてるのかなぁ」
 だからすぐ機嫌を直した彼女は、机に肘をついて頭の上に?マークを幾つも飛ばしてみる。
「さとりきってるとか!まあ、さとってるやつだけどぉ」
 ?が増えていく。
 ぽこぽこと増殖していく。
 彼女は両腕を伸ばしてそれをかき消して、首を振る。
「えーいやめやめ。……どーでもいいや」
 それよりやることがある。マジェストがすんなり引いたから忘れていたが、彼が本気になったら休む暇なんかないのだから。

――『『魔王』は世界を征服する。でも、私は違うんだよね?――まじー』
 完全に執務室から離れると、彼はまおの言った言葉を思い出して視線を落とす。
 勿論視界に何が入るわけではない、見えるのは石畳だけ。
「ええ、陛下。…陛下ほどご自分を理解された『魔王』は初めてです」
 もしかすれば、先代のうちに悟っていたのかも知れない。
 だからこそ今の魔王はあんな姿であり、そして彼女も自覚しているのかも知れない。
 この物語を。
――だとすれば、喜劇的な悲劇に過ぎませんがね……
 理解しているのであれば、もう少し『魔王』らしくなってもおかしくない。
 尤も彼女の性格では演じきれないだろうが――だとすれば、何故先代はあの姿を望んだのか。
「何も考えていなかった、と言うのが実だったりするかも知れませんね、魔王陛下」
 先代の魔王は、まお以上に何も考えず、周囲の迷惑も考えず突っ走るタイプだった。
 魔王としては魔王らしく、きちんと魔城で待ちながら勇者の来訪を待ち受けた。
 軍団長も、四天王も全滅、魔王は最後に執務室まで逃げ延びながら非業の最期を遂げる。
 まるで仕組んだような英雄伝を、彼は造り上げたと言っても良いだろう。
 マジェストは一度執務室を振り返る。
「魔王陛下。『魔王』は望んでもそれ以外にはなれないのです。そう言う風に設定されているのですからね」
 唯一の不確定要素である彼女であれば、もしかしたら。
 一瞬過ぎった彼の思いつきは、彼の設定によって強引に消去された。
 まおが、世界征服を躊躇う事がないように。



 微妙な噂が流れていた。
 妙なのではない。
「最近ナオの様子がおかしいんです」
 彼の治療を終えたフユは、それから一週間経って姉の元に訪ねていた。
 姉――サッポロ常備軍退魔防衛陣営、俗称サッポロ防衛軍司令官アキ=ミマオウはばかでかい湯飲みを両手で持って、一口中身をすする。
 中は苔茶と呼ばれる、乾燥させた苔から作られるお茶だ。
 苦みが薄く、濃く深い緑色に、意外と甘いのが特徴。
「そうなの?せいぜいいつもよりうちで愚痴を言う量が減ってるぐらいじゃないの?」
 サッポロの女性は結婚しても家を出ることはない。
 既婚の彼女も、姓が変わらないのはそのためである。
 男性は成人すればただちに家を追い出され、『社会』の一員として働く事になる。
 男達は家へと帰るのではなく、家を護る為に家へ向かうのである。
 この為か、社会を構成するのが男性であっても『女尊男卑』社会という奇妙な構造をしている。
 単純には蜂なんかと同じような構造である。
 だから、職場に進出した女性が上司になることは珍しくない。
 サッポロ防衛軍は主要な役職の半数が女性だが、これは逆に多くて珍しい部類に含まれる。
「……姉さん」
 意外に良く観察されているナオを思って、僅かに眉を上げる。
「巫山戯ないでください。報告も上がっているはずです」
 事実だった。
 その報告は、僅か数日前から届いている。
「確認してるよ。一応なりとも私は司令官ですからね」
 そう言って、執務机の引き出しを開き、ファイルを一つ取り出す。
「ミマオウ=ナオの訓練成績。前期より成績は順調だからね」
 いいんじゃない?と言いながら小首を傾げる。
「最近行きすぎた打ち込みや激昂が見られない。違反行為もない。訓練に没頭するあまり怪我をする回数も減った、というか没頭しているように見られない」
「……悪く、ないですね」
 つらつらと述べられる内容を耳にして、フユも額に冷や汗を浮かべて釈然としない貌をする。
 そりゃそうだろう。
 『変』ではあるが、『良い』のだから。
 アキは笑うのを止めて真剣な貌で頷く。
「変なのは確かなのよねぇ。真面目じゃないあの子がここまで真面目な成績を出すのは」
「……散々な言いようですね、姉さん」
「だって、ね」
 アキは苦笑した。
「訓練成績不良の罰で前回、トマコマイ砦の最前線送りだったんだから」
 これは事実だった。
「だけど、実力も技術も、実戦で活きるタイプなのよね。だから、あれで判断は正しかったと思ってる」
「私も良い薬だったと思います」
 ずず、と湯飲みのお茶をすする。
「んー。ぶっちゃけ言うと最前線で周囲を見ながら死線をくぐれば、ましになるかと思ったんだけど」
 これじゃ変わり過ぎだけど。
 成績が良くなるのは良いことだ。
「でも私が言いたいのは、変わった境目がついこの間ではないかって事です」
 アキはぴくと眉を吊り上げる。
「この間?湯治の時?」
 こくり、フユは頷く。
「ええ。実は、この間の湯治」
 ゆっくりとアキに顔を近づける。
 アキは耳を彼女に近づける。
「女の子に会ったんです」
 にたあっとアキの顔が笑顔に変わる。
 どこにでもある、色恋沙汰の好きそうな顔だ。
 残念ながら、フユにはその表情の意味が判らない。
「どんな娘?」
「こんな娘です」
 沈黙。
「……フユ」
「ごめんなさい」
 まじめな顔で即答し、顔色一つ変えずまた謝る。
「丁度、同い年位の元気そうな…雰囲気は違いますが、ナツ姉さんに近いですね」
 ほうほうと言いながらメモ帳になにやら書き留めていく。
「何を書いてるんですか」
「ん。自分の弟の女の好みを。知っておいたら、後で役立つわよ?」
 にこにこしているアキに、露骨にため息をついてジト目を向ける。
 ……とは言っても、知らない人が見れば別に表情が違うようには見えないだろうが。
「何の役に立てるんですか」
「いーからいーから。ね、詳しく教えてよ」
 フユはため息をついて、その時のことを話し始めた。

「へくちん」
 微妙に棒読みの、本当にくしゃみなのかどうか理解に苦しむくしゃみを漏らす。
――……なんだろ
 そこは剣術道場、サッポロ防衛軍の施設の中でもかなりハードな訓練を行う事で知られている場所だ。
 ナオは鼻を擦って首を傾げる。
「大丈夫?」
 あぐらを組んで、ナオと同じ剣術装束が首を傾げながら言う。
 右手に木製の斬魔刀、両手に良く使い込まれた革製の籠手。
 もしその小柄で可愛らしい顔立ちを見たとしても、女の子だとは気づかないだろう。
「あ、ああ。何だか鼻がむずむずするんだ」
 ふーん、と言いながら立ち上がる彼女は、ナオと並べば背格好も大体同じ。
 つんけんしたその髪型と、大きな吊り目を除けばそっくりと言ってもおかしくない。
 かろうじて頬が柔らかく丸いのが女の子の証か。
「誰かが噂でもしてるんだよ」
「るせーなぁ、誰が噂するって言うんだよ」
 言いながら自分の身体を預けていた木刀から身体を離し、ひょいと蹴り上げて右手に構え直す。
「続けるぞー。今んとこ俺が今年に入ってから三十七勝二十五敗で勝ち越してるんだぜ」
 右手だけで器用に斬魔刀を振り回す。
 その言葉に女の子――カキツバタ=キリエは口元を歪めて強気に笑みを浮かべる。
「まだはじまったばかりだからねー。言っとくけど俺だって、昨年は百二十八勝百二十六敗で勝ち越しだぜ」
「またかよ、言っておくが俺は負けたつもりはないからな」
 すい、と両腕で木刀を構え直して、二人とも間合いを取る。
 よく見れば二人の木刀はかなり痛んで、使い込まれているのが判る。
 右手で握った木刀に左手を添える格好の、ナオ。
 対して柄の末に配した大きな輪にきちんと左手を握りしめるキリエ。
「じゃ」
「いこーか」
 息を合わせるようにして二人が手合わせを始めようとした時、道場の入り口が急ににぎやかになった。
「全員その場に気を付けぃ!」
「はいはーい、訓練ごくろーさん、続けて続けてー」
 ミマオウ姉妹、軍司令と将軍が現れたのだ。
 騒々しい道場に突如現れた軍司令と将軍に、僅かに緊張感が走る。
 普通は現れないし、勿論これが初めてだ。
 それに、司令官の副官のように付き従うのが将軍で有ればなおだ。
――副官はどうしたんだ
 多分今てんてこまいになって、大慌てでこちらに向かっていることだろう。
 そんな周囲を振り回すような真似をする自分の姉二人を見て、僅かに呆れた貌を浮かべた。
「……司令」
 キリエも驚きを通り越して素直な声を漏らす。
「ん?ああ、キリエくんだね」
 しゅた、と右腕を上げて彼女に挨拶する。
 そして顔をナオに向ける。
「ナオ、最近成績が良いから視察に来たけど」
 ちら、とキリエを見る。
「手合わせ中で」
「じゃ、続けて良いよ。フユ、端まで離れましょう」
「はい姉さん」
 続けて、と言われてもいきなり現れたギャラリーには戸惑うモノがある。
 いきなりテンポを狂わされたので、構え直してもどうにも息が合わない。
――司令が、何で
 アキとナオが姉弟なのは彼女も知っている。
 それは問題じゃないが、わざわざフユまで連れて来ているのだから、家族絡みで何か大きな話があるのは確かだろう。
 キリエは僅かに木刀の先端が震えるのが判った。
 動揺が刃に出ているのだ。

  ひゅ

 空気を裂く音。
 慌ててそれを遮ろうと刃を引いて左手を峰に添える。
 振動と手応え。
 それが木と木を打ち合わせる音として理解できる時には、彼女は一歩思わず下がっていた。
 殺気というか、、修練の成果と言うべきか。
 彼女の足下を木刀の斬撃が舞う。
 もし下がっていなかったら間違いなく、膝から下を抉られていただろう。
「待て、な、お前卑怯だぞっ」
 とんとんと間合いを開いて、一気に退いて両腕を突き出すようにして非難の言葉を上げる。
 いつものように大きく斬魔刀を構えるナオは、頭の上に大きく?を飛ばして首を傾げる。
「何言ってるんだよ、ぼうっとしてる方が悪いんだろう」
 言われてみればその通りである。
 そうなのだが、何故かキリエは納得できない。
 むすーっとふくれて、再び構え直す。
 この斬魔刀という刀はサッポロ防衛軍の中でしか使われていないし、またその中でもかなり特殊且つ独特な武器である。
 普通に使おうと思っても使えるが、握りにも鍔代わりにも使われる丸い円形の部分が、デザインとしてもまた機能的にも特殊なのだ。
 キリエはこれを握りに使い、ナオは振り回す為の支点として利用する。
「いーや、卑怯だ!幾ら家族だからって、司令殿が側にいるんだぞ!」
「それ、別に俺のせいじゃないし」
 くすくす、とアキは笑って、にんまりとした顔をナオに向ける。
「ううん、ナオちゃんのせいだね」
 ナオは怯えたような表情で、姉の顔を見返す。
 彼女のこういう貌はよくない。非常に嫌な予感がする。
「最近ナオちゃんの様子がおかしいのは。……聞いたぞ、姉ちゃん」
「な、何をだよ」
 むすと拗ねた表情を浮かべる。
「女の子と会ったでしょ、この間の温泉で」
 ぼん、と音を立てて貌を真っ赤にするナオ。
 その向こう側で、唖然とした表情のキリエ。
「そんな事」
「何してるんだーっ」
 空を裂く音。
 ナオは慌てて身体を振って、自分を真っ二つに切り裂こうかというその殺気を、見事にかわす。
「ほお」
 完全に気配を殺して、背後からの一撃。まあ、気合いのような叫び声はあったようだが。
 神速の踏み込みからの大上段の一撃、喩え木刀でも、当たっていればナオはただでは住まなかっただろう。
 実際道場の床に木刀が綺麗にめり込んでいる。
 まるで、真剣が突き刺さったように。
 それを何事もなかったかのように片手で引き抜き、まだ避けた格好のままのナオに突きつける。
「見損なったぞ!貴様!覚えとけ!もう安全な夜道なんかこの世にないって事をな!」
 ぶるぶると震える切っ先(とんがってないけど)の向こうに見透かす、真っ赤でふくれた彼女の顔。
「一体どうし」
「五月蠅い!いい、今日はもう相手しない!勝手にしろ!」
 微妙に片言で叫ぶと、真っ赤な顔のままキリエは彼に背を向けて去っていく。
「…なんか、怒らせるようなことしたんだっけ」
 思わず首を傾げて、ナオは姉を見やる。
 アキはますますおかしそうな貌でくすくす笑うだけで、フユはそれをジト目で睨み付ける。
「姉さん、趣味最悪」

 とかなんとか、追い出すようにしてナオを確保した彼女達は取りあえず質問責めにした。
 訂正しよう。質問したのは彼女、アキだけだが。
 真っ赤な顔で怒り狂いながら恥ずかしがるナオの姿を、取りあえず姉妹で堪能して。
「もう良いわよ。訓練に戻りなさい」
「五月蠅ぇ!言っとくがねーちゃん、二度と来るんじゃねーぞ!今度キリエを怒らしたらただじゃすまねぇ!」
 捨て科白を吐き捨てて彼ものっしのっしと去っていく。
「ふふーん」
 何故か妙に嬉しそうなアキ。
「……まあ、状況は今聞いての通りです。情緒的に影響を与えているのは確かかと思いますが」
 道場の一角にある小さな応接室。
 先刻まで和気藹々とナオを虐めていたその部屋で、フユは淡々と報告を始めた。
 先程までナオが座っていた場所に座り直して。
「何か?」
「その、今お話しした少女。…名前がないと不便なので、仮に花子としますが」
「先刻まおちゃんだって言ってたじゃない。聞いてなかったの?」
 う、と言葉を詰まらせるフユ。困った貌で頷きながら言う。
「自分に都合の悪いことは私の耳には届きませんので。えー…その、まおですが、二月前ぐらいのトマコマイ砦の報告は」
 彼女自身が後始末をした事件、あの際にナオを連れて初の負け戦だった――尤も、防衛には成功したようだったが。
 アキは瞬くように頷き、話の続きを促す。
「あの際の少女型の魔物に酷似している気がするのです」
「では何?フユは魔物が湯治に来て、それも家族風呂できゃいきゃい騒いでいたとでも?」
 事実はどうあれ。
「……はい、仰る通りです」
 彼らにはその真実を飲み込むことも、頷くことも出来そうになかった。
――しかし
 フユは『勘』に近い感覚で、まおの正体を疑っていた。
 アキとの話し合いとは裏腹に、殆ど女の勘というか嫉妬に近い感覚でまおを――そしてナオの行く末を案じていた。



 休暇が明けたんだが。
「はぁふぅ」
 何故か、まおはまだ休暇モードばりばり全開だった。
 いや、だるだるなのに全開ってのもおかしい。
 彼女は思いっきり自分の事務机にべたーっと上半身を寝かして。
「ぶむー」
 先刻から、奇妙な声を出して指先を机にくっつけて、机の上でくるくる手首を回している。
 普通ならどこからともなく出てくるはずのマジェストも、何故か今日に限って出てこない。
 だから、朝起きてからずーっとこんなかんじなのである。

 御陰で、魔王軍は動いていない。長期休暇に入ったも同然である。

「今日一日は、追加で休暇でしょうな」
 ふう、とため息をついてマジェストは――そう、魔城を出てとことこと歩いていた。
 何も無意に出歩いているわけではない。
 マジェストの『設定』で、『魔王』を放っておくことは出来ない。
 無論見捨てることも出来ない。
 では何故いま、執事のような真似をしていた彼がここにいるのか。
「ご説明しよう!」
 だからお前は誰に、どちらを向いて叫んでいるんだ。
「私は、魔王陛下が腑抜けもーどのスイッチを入れっぱなしになってしまった原因を元から断つために今ここにこうしているのです!」
 ……こほん。
 まあそう言うことだ。
 喜ぶべきか否か。
 今までの魔王であれば、執着もなく――恐らくは初めからそう設定されているんだろう――側に侍るアクセラとシエンタが『相手』だった。
――女性型っていうのも、まあ問題ではあるのだろう
 第一設定が両方子供だ。
 しかし問題はそこではない。
――魔王陛下の腑抜けっぷりは、アレは『寂しさ』ですな
 こればっかりは失敗だった、逆効果だったとマジェストは頷く。
 先日までの旅行で、『姉弟』に会った事が発端ではあるはずだ。
 マジェストは、顎に右手を当てて考え込む。
――ふむう。どーしたものでしょうか
プラン1:強引に背後について仕事をさせる。
 無論このプランは既に却下。
 理由は簡単。
――疲れますからねぇ……
 それに根本的な解決にならないのに、そんな事をしても無駄である。
 どの魔王にも言えるが、嬉々として世界征服する魔王はいない。
 理由は簡単。勤勉な魔王なんざ魔王ぢゃないからだ。
プラン2:魔王陛下を慰み物慰める
 まあ、自覚症状のない相手に自覚させる事が一番の治療法ではあるんだが。
「そんな事よりも代用品を用意するのが、今は一番必要な気がするんですがね」
 今そんな荒療治をすれば『魔王』として逆効果になりかねない。
 それはマジェストの頭の中にある『魔王の世界征服プログラム』からも警告が発せられるほどだ。
 今はその時ではない、と。
 だからこそ彼は再び――
「さて。防衛軍の施設はどこでしょうかね」
 北の果ての国、サッポロに足を踏み入れていた。

「いったいマジェストさまはどちらにいかれたのか」
 シエンタはいつもの困った貌をさらに歪めて、アクセラと顔をつきあわせるようにしていた。
 アクセラはアクセラで、ただでさえ可愛らしい吊り目を八の字にした眉で飾っている。
「まったく。まお様が仕事をしなくてこまるぞ」
 執務室の柱の影で、何故か隠れてちょこちょこまおの姿を伺う二人。
 まおは相変わらずやる気Nothing of all!ってな感じで完全に突っ伏している。
 眠っているわけではないようだが。
「なしのー」
「そうやって平仮名で叫ぶと某所から突っ込みと抑えきれない苦情が飛んできますよ」
 んえ、と顔を上げるまお。
 彼女の前に、アクセラとシエンタが呆れた顔で立っている。
「あれ?」
 まおは目を丸くして、机からがばりと体を起こす。
「えと。……うー?まじーじゃないし」
「あんまりにもあんまりだからでてきた」
 アクセラはとことこと近寄ると、むと見下ろすまおに。
 ぽかり。
「あいた」
「しごとする」
 む、と眉だけで表情をつくる。
 もっともアクセラは結構表情豊かだが、少し堅くなってるのかも知れない。
「アクセラ」
「ん」
 むぎゅ。
 唐突で、いきなりの事だったので何が起こったのかアクセラは把握できなかった。
 一応覚悟しての行動だったが、多分怒られると思っていた、のに、まさかいきなり抱きしめられるとは思うまい。
 まおの方もいきなりたたかれた(というか、痛くも何ともないんだが)のでその仕返しぐらいにしか考えていない。
「なにすんだあくせらー」
 むぎゅむぎゅ。
「うわあうあうあうあー」
 顔を真っ赤にしてじたばたともがく。
 まおも痛くなかったが、アクセラも別に苦しいわけでも痛いわけでもない。
 あえて言うなら。
「はー、はなせー」
 かなり心が苦しいようだ。何故か抑揚のない声が、妙に棒読みに聞こえる。
「だめだめだめー。こーしてやるこーしてやるこーしてやるぅ」
 ぐりぐりぐり。
 両腕が交差するぐらいまで腕を締めて、拳でこめかみをぐりぐりするかんじで。
 アクセラの頭を機嫌良く締め上げていたんだが。
「じとー。」
 ぐりぐりぐ……り……
「じと」
 まおはアクセラの頭を挟んだまま固まる。
 アクセラはアクセラで、非難の顔をまおに向けていたんだが、視線をついと向けて頬を真っ赤にする。
「あ、あの、シエンタさん?」
 何故か口調が変わって裏声で言うまお。
 シエンタは、どこかぽわんとした貌で、じとーっと上目遣いでまおを見つめている。
「まお様」
「は、はひ!」
 だから何故口調が変わっている。
「アクセラを放してください」
 無言で大慌てで突き放すようにアクセラを開放するまお。
「じとー」
 アクセラはそそくさと執務室から出ていく。
 それでもシエンタはまだその場に張り付いたようにまおを見上げている。
「……なに、シエンタ」
 額に汗を垂らしながら、彼の視線を受け止めるまお。
「つぎボクの番」
「んあ…ぁあ」
 ぽん、と掌を打って、少し困った貌でシエンタを見下ろす。
「次はシエンタが罰をくらいたいんだなっと♪」
 何となく平和な一日でした。
 結局、魔王軍はこの一日だらーっと過ごしただけで、何も変わらなかった。
 ただ一人マジェストを除いては。



 サッポロはあちこち氷付けになっているものと思われている。
 でもじつはそうでもない。
 トマコマイから東におよそ馬で一週間の距離に、唯一不凍の大地がある。
「……ふん」
 そこは万年雪に囲まれていながら、雪つもらない不自然な場所。
 どこから切り出してきたのかログハウスが建てられている。
「どぉしたのぉ〜」
 とてとてとて、と足音が聞こえて、声の主に顔を向ける。
 そこにはとろんととろけた貌に金髪に、胸から腰まで覆うような前垂れをかけ、肩を隠しもしない格好で。
「ミチノリ。服を着ろ」
 青年が立っていた。
 大きな垂れ目に、小さめの鼻、丸い顔立ちは性別をまちがったんだろ!と突っ込みたくなるぐらいだし。
 小さな肩に細い腕はますますそれを強調する。
「えぇ〜?そんなぁ、みっちゃんとゆぅちゃんのなかじゃなぁい」
「見てるこっちが寒いのだ。私を凍えさせる気か」
 答える方は、深々と背中を預けて椅子に座り込んだ、女性がいる。
 こっちは対照的にどこかつかれた表情に、眠たげな――また、どちらかというと面倒臭げな目をしている。
「んふ。だったら」
「つきまとうな暑苦しい」
「むぅー、ゆぅちゃん言ってることむちゃくちゃだよぉ」
 ミチノリ――クガ=ミチノリは哀しそうな貌でふるふると首を振る。
「何を、今忙しいのだ」
 女性はため息をついて、再び机に向かいなおした。
 彼女の名前はカサモト=ユーカ。
 彼女の目の前に置かれたのは、机に広げた大きめの洗面用の桶。
「いそがしぃって、いっても、ゆぅちゃん、桶覗いてるだけぢゃなぁい」
「……いつ聞いても眠くなるから、集中してるときに話しかけるなと言ってるだろうが」
 声だけ彼に向けて、彼女はふっと水面に息を吹きかける。
 すると、どうだろう。
 普通なら波紋を描いて揺れるはずが――何故か、細かく細波を打って水面が粉々になる。
 砕けて砕けて、やがて収まり始めると、そこには奇妙な陰影が浮かんでいた。
 それを見て、ミチノリも眉を顰める。
「判るか」
「そりゃぁ、わかるよぉ。何年連れ添ってるって思ってるんだい?」
「精確に今日今の時点で4年と5ヶ月23日3時間44分という所かな」
「……ゆぅちゃんいぢわる」
 戯れながら、ユーカの表情は硬くなっていた。
 その彼女の真後ろから、全身で覆い被さるようにしてミチノリも覗き込む。
 右手で、彼女の髪に手櫛を当てながら。
「この間の、防衛軍の言霊だけじゃ説明できない」
「んー、キリちゃん大丈夫かな」
 ミチノリが触れた彼女の頬が、引きつるのが判った。
「あー、ゆぅちゃん怒ったぁ」
「怒ってなどいない」
 ぶん、と音を立てて右腕が走る。
 ぱそんと情けのない音を立ててそれが、妙に柔らかい何かに埋まる。
 それは――ばかでかい手袋。
 ミチノリの左手が、いつの間にか彼の身体より大きな手袋に包まれていた。
「ままま、ね、ゆぅちゃん。じゃ、誰かが故意に歪めたって事でしょぉ?」
 つい、とユーカから身体を離して、くるりと身体を一回転させる。
 ふわり、といつの間にか彼の姿が、頭から足の先まできちんと黒装束に着込んだ祈祷師独特の服装になっていた。
 額を覆う白い布と、ばかでかい手袋が妙に目に付く以外は、首もとから腰まで下げた前垂れが特徴的だ。
「ここと、おんなじでさ」
「まだそうと決まっている訳ではないが、論理的に説明できない限り、そうとしか思えない」
 ユーカが振り向くと、ミチノリはそのでかい手袋の人差し指をたててゆっくり横に振る。
 あんまり大きすぎて現実離れしてるのと、その可愛らしい顔立ちのせいで全く緊張感がないが。
「正直になろーよぉ。知りたいんでしょ?調べたいでしょ?ね?」
 カサモト=ユーカはだてにこんなところに住んでいるわけではない。
 ユーカは魔術師と呼ばれる、この世界では数少ない存在のひとりなのだ。
 彼女達は、世界というある一つの塊に存在する法則を突き詰め探す、そんな存在。
 たまたまその法則を利用して、色んな奇跡じみた所行を起こすこともできるのだが、そんな物は付属品以下に過ぎない。
 彼女はこのサッポロで唯一緑の生えるこの地を調べるためにここに住み着いているのだから。
 ただ、研究は行き詰まっていた。
 魔術師達が行き詰まる理由はいくつか有る。
 この世界、どうしても論理的に説明できない、『存在する法則』に当てはまらない例外があるのだ。
 溶けない氷、変わらない気候、そして魔物達。それら総てが彼女、彼達の追う『謎』なのだが。
――例外にこそ、真の法則があると信じていても、本当の真実はどこにあるのか。
 にっこり笑いかけてくるこの青年も、何故こんな人間がいるのかどうしても不思議で不自然で、興味がわいたから。
 だからこうして、何にも考えていない笑みを見ると、迷う自分が馬鹿らしく感じられて。
「こんなへんぴな場所は嫌だから出ていこうって、魂胆がありありだぞ、ミチノリ」
 わ、と驚く彼に笑いかけながら、立ち上がる。
 あわわと慌てる彼は、あたふたと何か言い繕おうとしている。
「あわ、ね、あのぉ」
「行くぞ、ミチノリ。まずはサッポロのトマコマイに行くぞ。丁度ナラクを撃った辺りからおかしくなってるみたいだからな」
 部屋の端に立てている帽子かけからコートと三角帽を取る。
 ふわりと不自然に風を孕むそれが、生きているように彼女の身体に巻き付く。
「もう準備できてるんだろう、お前のことだから」
「あ、そりゃもちろんだよぉ」
 くりん、と右手を振ると彼の手袋に収まるほどの大きめの背負い袋が現れる。
「水に食料、火打ち石に手斧、料理セットもあるよぉ」
「……触媒に水晶玉、羊皮紙に羽ペン、インク」
 あ、という貌で彼はぽりぽりとでかい指で頭をかく。
「すぐ用意するねぇ」
 とてとてと背中を見せるミチノリ。
「ミチノリ」
 くる、と振り返る。
「『命の雫』は、持ってるから」
「あーい♪」
 世界の歪みの理由を求めて。
 勇者を追う者達が、歩き始めた。


 ところ変わってここはサッポロ防衛軍本陣。
 本陣といっても訓練場を飲み込んでいるので、まあかなり巨大な『本部』とも言う。
 サッポロの防衛の要ではあるにもかかわらず、ここの雰囲気は明るい。
「ほらあ、ナオ、しっかりしろい」
 将軍がおわすと言われる本部の建物の周囲に、大きな何もない広場がある。
 これが走る時とか、ちょっとした模擬戦闘訓練の為の場所になっている。
 今まさにナオはへろへろと走っていた。
「うるせーっ」
「を、生意気だなー」
 やんややんやと騒ぎ立てる外野。
 トレーニングしているわけではない。
 試合の罰ゲームという奴だ。今取り囲んでいる同僚やら先輩は、彼が走り終わるのを待っているのだ。
 罰ゲーム、というものの、試合に負ける=訓練が足りないから、という図式で師範から与えられた物だ。
「何だ、ナオの奴まだ走ってるのか」
 わいわいと騒いでいたせいだろうか、提案した張本人が姿を現した。
「今日の練習試合、確か一人につき一立合だったろう」
 立合というのは試合の数のことだ。
 声をかけられた指揮官、クスノキ=タカヤはため息混じりに頷く。
「いや、そうなんですけどね」
 階級から言えばかなり上級者に当たる師範だが、タカヤは特別それも気にしていない風に答える。
「ナオの奴、怪我してる奴の分も背負うって言って聞かないんですよ」
 そう言われてみれば、わいわい騒いでいる連中の端に、数人すまなそうな顔で固まってる一団がいた。
「…ふうん」
 師範はくるりと周囲を見回して、そしてにやりと笑う。
「その前に何か、ちょっとした言い合いとか何か無かったか?」
 いやーと困ったように笑って、タカヤは後頭部をかく。
 彼は一応なりとも指揮官なのだが、こういうちょっと情けのない態度を見るとそうとも思えなかったりする。
 とは言え、彼のこういう優男的なところが女性受けが良かったりする。
「確かに、試合の直後にちょっともめてましたね」
 ちらり。
 彼の視線を向けた方向に、拗ねた顔で地面にうずくまる姿。
「ふん」
 それは――キリエだった。

 丁度三十分前。試合直後、キリエはその場にうずくまっていた。
「いちち…」
「どうした?」
 顔を上げたキリエの前に、いつもと変わらないナオが、右肩に木製斬魔刀をとんとんと軽く跳ねさせていた。
「ああ、ちょっと足首を捻ったみたいで」
 試合というのは結構激しい物だ。
 無事に見える二人はまだましな方で、何せ本当に木刀で殴り合ってるんだからただではすまないことが多い。
 ナオもこれでもあちこちに痣が出来ているのだ。
「見てやろうか」
「馬鹿、良いよ、んなこと」
 むす。
 ぷいっと顔を背けると、さっさと薬箱に駆け寄って、薬を取り出す。
「おいっ、て……」
 ナオは呆れたようにため息をついて、肩をすくめる。
「そのぐらいはまあ、良いけどよ。罰ゲームがあるだろ、どうすんだよ」
 びく、と驚いたように顔をナオに向ける。
 目を丸く開いて。それもすぐに顔を伏せて隠すようにして。
 何事もなかったように足にぐるぐると包帯を巻き始める。
「知るかよ、そのぐらい」
「知るかよってお前ね」
 困った顔を浮かべて、ナオは首を捻る。
 一度口に出したことは絶対に曲げようとしないのが彼女の癖だ。
――全く……
 このままでは、足を引きずってでも走るだろう。
 ナオは頭をくしゃくしゃとかきまわして、大きくため息をつく。
「なんつーのんかなぁ。全く……おい、兄ぃ!」
 訓練場の出口付近で腕を組んで立っている男が、眉をついと吊り上げて自分の顔に指を指す。
 一応指揮官のタカヤだ。
 何度も一応と付けると可愛そうだが。
 ナオを含め、若い一部の者達から『兄』と呼ばれる。
 彼の全身から醸し出す『おにーさん』のオーラのせいだろうと、彼の周囲の人間は言う。
「どうした?」
「罰ゲームの話なんだけど」
 タカヤの方へすたすたと歩きながら彼は大声で言う。
「何だ、敗北数×20では少なすぎるか?」
「…いつそんなに増えたんだよ。それって、肩代わりしても構わないのか?」
 眉をふいと吊り上げ、彼は糸目の向こう側から覗く目を彼の後ろへ向ける。
 後ろにはキリエが思いっきり怖ろしい顔を作ってナオを睨んでいる。
「どういう意味だ?」
「怪我をして走れない人間の代わりに誰かが走っても良いのかって事だよ、兄ぃ」
 ちらちらと二人を見るなんてばればれな真似はしない。
 それに、そんな事をしなくたって、彼女の出している殺意にもにた怒気がびりびりと伝わってくる。
――それなら声をだせばいいだろうに
 と思いつつも、
――面白いかな
 まずはこの状況で遊ぶことを考える自分がいる事に気づく。
「んー、構わないかな、そのぐらいは。どうせ罰ゲームだし」
 にやりとナオが笑みを浮かべるのを、案の定激怒の表情を浮かべて見つめるキリエ。
「ちょ、ちょっとまてよナオ!それはどういうことだよ」
 ばんと床を叩くが、立ち上がれなくてそれ以上は上半身を揺らすに留まる。
 そして、くりんと振り返って不敵な笑みを浮かべるナオ。
「そう言うことだよ。立てないんだろ?」
「たっ…立てるさっ」
 今度は強引に身体を起こそうとして、ふらりと身体を揺らして。
 それでも強気に胸を張る。
「何無理をしてるんだよ、良いから休めよ、許可は貰ったぞ」
「五月蠅い、何でんなことするんだよ、いいか、俺は走るぞ」
 よく見れば判るが、目尻に涙が浮かんでいる。
「おいおい、泣きながら何を言ってるんだ」
「泣いてない!」
 ナオは口を歪めて、つかつかと彼女に近づく。
 そして、おもむろに彼女の足の包帯当たりを。

  ちょん

「!#%△○★■?!っ、っ!」
 踏まれた足を大慌てで抱え上げてて、両手で抱えてぴょんぴょんと跳ねる。
 どうやら腱が切れたり大事に至っていないようだが、これは相当痛そうな気がする。
 …というか、座れよ、キリエ。
「そんなんで走れるかよ」
「五月蠅いっ、いきなり踏みやがって!べ、別に今日走らなくてもいーんだろうが!」
「あ」
「お前こそなに意固地になってやがる、許可は貰ったろう」
 『構わないよ』、と声をかけようとしたタカヤは、思いっきり強引に遮られて、右手を挙げた格好でナオの後ろで立ちつくす。
「あー……いや、別に、そんなにムキになる理由は、ねぇ、君達……」
「五月蠅ぇ!だったらナオ、手前ぇ、全員の分走りやがれっ」
「ああ判ったよ、走ってやる、全員の負け分を俺がぜーんぶ引き取ってやる」

「それで今のアレか」
 さすがに50人分、距離にして50km程走っている事になる。
「ええ、止めたんですけどね…」
 タカヤはぽりぽりと頬をかいた。
 ナオも引っ込みがつかなかったのもあるだろうが、幾ら何でもやりすぎである。
「というよりも、お前ら走ってないんだな、あいつに押しつけて」
「ぎくり」
 タカヤの頬につーと一筋の汗が流れる。
「だったら、全員これから10周だ!ほら、とっとと走れっ」
 がーっと腕を上げて叫ぶ師範の声に、足の動く人間は蜘蛛の子を蹴散らすようにして走り始めた。
 数人の、足を痛めている者を残して。
「……ばか…」
 不機嫌そうな顔のまま、キリエはまだ地面を見つめていた。


「いやー、さすがにきつかったぜー」
 どかどかと寄宿舎に帰ってくる防衛軍の隊員達。
 訓練が終了すれば自由時間。
 普通はいないが、足りない物はこの後でもトレーニングを始めたりする。
 真面目な者は勉強して、さらに上を目指したりする。
 勿論、どうしようもない落ちこぼれは、この時間にしごき上げられる。
 そんな時間だ。
「ホントホント、まさかあそこで師範が帰ってくるとはなー」
「もう訓練が終わっててもおかしくなかったからな」
「ナオがいっくら俊足だからって、さすがにちょっと遊びすぎたよな」
 めいめい勝手な話をしながら、風呂の準備を始めている。
 だが、ナオはそこにいなかった。

 寄宿舎から少し離れた、むしろ訓練場に程なく近い医務室。
 そこでキリエと睨み合っていた。
 再びというか、相変わらず。
「何でお前は余計なことをするんだよ」
 あれからすぐ医者に診て貰うと『いかん、コレは入院ぢゃ』と言われて、対応に困ったが(すぐに入院させようとする医者だったりする)。
 それでも決して軽傷と言うわけではなかった。
 結局明日一日だけは訓練を休むことになって、今彼女はここのベッドに座り込んでいる。
 半分あぐらで。
 片方の足をぶらぶらさせたまま、むすーとナオを睨んでいる。
「余計なこと?…悪かったな」
 さすがに、ナオも彼女の物言いにはかちんときたようだった。
「お前最近少しおかしくないか?前はもうちょっと…何というか。ここんところ良く噛み付いてくるけどさ」
 無論、人間なのだから意見の衝突は有る。
 あるが、それは明確に理由がきちんとあったからこそ、議論も出来たし解決も出来た。
 だが最近はどうにも『勝手に暴走』している気味なのだ。
「きちんと話を聞いてくれないじゃないか」
 ぷい、と顔を背けて両足をベッドの上で組む。
 ナオにそんなつもりはない。
 大概キリエがぶすーっとふくれて、こんな感じで対応に困るのが普通だ。
「きちんとね。…なあ、なんか俺、嫌われるようなことしたか?」
「え?」
 彼女は目を丸くして、まるでばね仕掛けのように顔を彼に向ける。
「だってそうだろ?なんか訓練しててもこんな感じじゃねーかよ。…何か気に入らなかったか?」
「い、いや」
 少し顔が困ってきた。
「あー、そのな、あの、ナオ。俺別にそう言う訳じゃなくてさ」
 目が泳いでいる。
「……ちょっと機嫌が悪かったんだよ。…女の子ってそう言う時があるんだよ」
 一瞬ナオが驚いた顔をするが、すぐに呆れた顔に戻って、何も言わずに鼻で笑う。
「調子の悪い時に女のせいにするか。お前からそんな言葉が聞けるとは思わなかったけど」
「るせーな。仕方ないだろ、お前らとは身体が違うんだからよ」
 きっと眦を吊り上げて噛み付くように言って、そのままごろんとベッドに横になる。
「もーいいから出てけよ。悪かったからさ」
 ナオは自分の頬をぽりぽりとかいて、一呼吸程の時間を躊躇する。
 そして、ため息をついて片手を上げる。
「判ったよ。まあ気を落とすなよ、ゆっくり身体治せよ」
「ああ。…ありがと」
 ぱたん、と扉の閉じる音。
 気配が完全に消えて、部屋の中に一人きりであることを確認すると大きく息を吐いた。
――駄目駄目ー。畜生……
 右腕を自分の両目に乗せて、こみ上げてくるブルーな気分にもう一度ため息をつく。
――何やってるんだろーな。たく
 彼の言うとおりである。
 特別なにがあったって訳でもないのに、妙に噛み付く回数も増えたし。
 実際に苛々することも多い。
 ちなみに勘違いされると困るので記述しよう。
 この部隊には彼女以外にも女性はいる。彼女一人ではない。
 笑えないことに、結構モテモテだったりする。
 手を伸ばしてベッドの周囲にカーテンをかける。
 どうにもいろいろとうまくいかない。
 理由を考えてみるが、素直じゃないところがあるのは確か、それだけは自覚している。
 不意に嫌になって頭の上にあった枕を抱きしめて、顔を沈める。

  がらがらがら

 びくり、と驚いて枕を元の位置に戻す。
 かつかつという靴音がして、気配が近づいてくる。
――んあーあれ?
 違う。
 初めは医者が帰ってきたのだと思った。
 だが、この気配の質は医者の物ではない。というより、もっと若くて、それに性別は――女性だ。
 気配でそこまで分かったわけではない。
 足音、これが医者のものではなく、あからさまに硬質なゴムの音、ヒールの音だ。
 但しこれはパンプスのような低いヒールの靴だが。
「そこか?いるんだろう、キリエ」
 聞き覚えのある声。
 がばっと彼女はベッドから身体を半身浮かせるように起きあがると、カーテンを勢いよく引き払った。
「おお、珍しいな、入院でもしたのか」
 さもおかしな物を見た、そういう笑顔で彼女はキリエを見つめた。
 いつもの、何かを見透かしたような目と、穏やかで変化の少ない表情が待ち受けている。
「珍しいな、じゃないぜユーカ。ご挨拶だな」
 ベッドの上であぐらをくんで、口元に笑みを湛えて彼女を見上げる。
 ユーカはその恰好を見て、顎を一撫でして腕を組み直す。
 彼女の表情におかしなところはない。
 勿論、それがいつもの通りだからおかしくなって彼女にゆっくりため息をついて見せる。
「まあ、ご挨拶にもなるさ。そんな状態ならばな」
 ふうとため息をついてユーカは自分の髪をかき上げて腰に手を当てる。
「なんだよ」
 ぷ、と口を尖らせるキリエに、くすくすと笑って見せるとユーカは右手を彼女にさしのべた。
「ちょっと、相談があるんだ。隣、座っても良いかな」
 ユーカは不思議そうに眉を上げるキリエを見て、ほんの僅かにだけ安心した。
 そして同時に、今外にいるはずの彼の事を考えながら、ベッドをぽんぽんたたく彼女の側に座る。
――いらぬ心配であったか
 自嘲に思わず彼女は苦笑して、キリエの貌を不満そうな色に染めた。
「何笑ってんだよ」
「ん、ああ、悪い、こっちのことだ」
 丁度、そのころ医務室の外では、ナオは後頭部に両手を当てて空を見上げながら寮に向かっていた。
――キリエの奴、機嫌直してくれるといいんだけどなぁ
 最後に見せた貌のお陰で少し安心しているが、それでも彼はまだまだ理解していなかった。
 しばらくキリエもいらいらが続くだろう、このままでは。
 と、その時――
「ひさしぶりぃ、げんきにしてたぁ?」
 とろーん、ととろけた声がナオの耳に届いた。
 聞き覚えのある甘い、粘りけのある声。
 普通ならすぐに女の子をイメージする位、子供のような高い声。
 でも、実際には違う。
 大体この軍の施設に出入りできて、こんな話し方、声を出す『男』はそうざらにいない。
「クガ!」
 勢いよく振り返ると、頭をすっぽり覆う布製の帽子を被った彼がいた。
 黒い服の中でも、顔の回りだけが白いその意匠は――やっぱりどう見ても女の子向けで。
「……相変わらず生まれを間違ったよな、お前」
 久々会っていきなりの印象を思わず口にして肩を落とす。
 本人はけらけらと笑っているが。
「そぉかなぁ。ね」
 ぴん、と自分の上半身ほどもある巨大な手袋で器用に人差し指を立ててナオを指さす。
 まんがちっくで、見慣れていたはずなのに思わず仰け反る。
「な、なんだよ」
「かまえなくてもいーじゃないのぉ。じゃあ、おとこのこって、どんなんだったいいの?」
 くり、と丸くて大きな目を嬉しそうに笑みの形に歪めて、小首を傾げて、まるで何かを差し出すような仕草で。
――はぁあ
 頭が痛くなるぐらい、女の子だった。
「いや……もういいよ、なんだかお前に説明するぐらいだったら子供に将軍をやらせる方が簡単だなって」
「ううん。みっちゃんはこれでも理解してるつもぉりだよぉ」
 にこにこしながら少し口調が真剣味を帯びた…様な気がした。
 そもそもとろんとした話し方なのでどう違ったのかがよく判らなかったりするんだが。
「それよりもやっぱりナオちゃん、相変わらずなんだよねぇ」
 そう言って腰に手首を当てて肩をすくめて見せる。
「はぁ。これだからみっちゃんはキリちゃんとこにいけなかったんだよなぁ」
「あん?なんでそこでキリエの名前が出てくるんだ」
 拗ねた口調だったことを聞き逃さずに、眉を顰めて聞き返すナオ。
 ミチノリは相変わらずのんびりした顔で、反対側に僅かに頭を傾ぐ。
「んんん、だって、みっちゃんはナオちゃんよりキリちゃんの方に先に会いたかったんだよぉ」
 眉を僅かに八の字にして。
 どうやら非難されているらしい。
「はん。…って」
 気がついてナオは黙り込んだ。
 今彼が着ている服装は、普段着ではない。
 冗談みたいに馬鹿でかい手袋を含めて、通常は巡礼を行う時に使う祈祷師の旅装束である。
 念のため、女性用だが(笑)。
 サッポロの端に住んでいるといったって、わざわざ会いに来たりするだけでこの格好は物々しすぎる。
「そう言えば、わざわざ待ちかまえていたみたいだけどさ。……何の用事なんだ」
 ろくな用事ではない。
 このクガ=ミチノリが姿を現すなど、よっぽどのことかもしくは余程の気まぐれ、しかもこの格好だから容易に想像できる。
 警察の友人がきちんと制服で訪ねてくるぐらいのインパクトと言うべきだろうか。
「何?うぅん、ちょっとしたぁ、相談だよぉ。調べ物、協力して欲しくってぇ」
 気軽に、本当に明日の天気でも聞くような感じで。
「調べ物、って」
 ナオも、付き合いは短くない。
 結構悪いことをしてきたつもりだ、この――ナオ、キリエ、ミチノリ、ユーカの四人で。
 まっとうな、とは言わないが、既に真面目に働いているも同然の彼にとってミチノリ達の行動というのは。
――楽しそうだけどさぁ
 得体の知れない世界でもあるのは確かだった。
 実際、ユーカが怪しい魔術師なんてものをやっていることは彼でも知っている。
 その彼女についていって結婚したというミチノリのこともだ。
「うん。多分判ってるんじゃぁなぃかなぁ。この間ぁ、『ナラク』とかいう対広域昇華術が使われたんでしょぉ」
 目の前で起きた惨劇。藻屑と消えた『トマコマイ砦』。
 そして、『カタシロ』。
「――まあ、判ってることを隠しても無駄だけどさ。それって、もう許可貰ってきたんだろ」
 ナオの言葉に、ミチノリは胸元から金色のペンダントを取り出した。
 サッポロ防衛軍の紋章だ。特務を与えられた物にしか渡さない特殊な物だ。
「ナオちゃんに会おぅってのに、忘れる訳ないじゃぁなぃ♪」
 実はお得意さんだったりする。
 というのも、彼らは顧問扱いで軍施設を出入りし、様々な形で師事を行っているからだ。
 今回のこの『特務』というのも彼らの仕事、というか、生業である。
「どうせ調べ物ってのも、ユーカに絡む話だろ」
 うんうん、とどこか嬉しそうに頷いて、んー、と首を傾げる。
「実はぁ、世界のバランスが崩れてやばーいらしいんだぁ♪」
 その割には深刻そうではないが。
 御陰で、いつもどこか気楽な雰囲気があって、周囲に幸せを振りまいている。
 正直、何故かそれが羨ましく感じた。
「その発端がぁ、この間の『ナラク』らしぃんだけどね」
「俺に聞きたいってことか。確かにナラクの時出撃してたしな」
 そういうと、『え?』と言う風に首を傾げてそのでかい手でぽりぽりと頭をかく。
「うぅん、そうじゃないんだよぉ」
 そして何故か困った顔で少しの間うんうんうなって、やがて頷いた。
「文字通り手伝って欲しいんだよねぇ。来てくれるかなぁ?」
 彼は上目遣いで、まるで何かに怯えるように。
 そう言う仕草が男らしくないというのだが、わざとらしさや嫌味がない。
 だからこそ――だから、ユーカがあれだけ慎重になると言うのに。
「わ、わーったよ」
 ナオもその視線に耐えることなんか出来なくて、勿論断れなくて。
 頷いた。
 するとにぱーって感じに笑みを浮かべて、嬉しくて仕方ないって感じに大きく両腕を開いて。
 逃げる間もあろうか。
「うぁあん、ありがとぉーっ♪、だぁいすきぃっ」
 だき。
 むぎゅ。
「うわああっ、離せ、こら、離れろ、判ったからっ!」
「すき〜すき〜だいすきぃ〜♪」
 見ようによっては酷く羨ましい光景ではあるのだが。
 知っている人間にとっては、非常に嫌な光景にすぎなかった。
「良いから離せっ!おれにそんなしゅみはねーっ!」
「うぅんすきすき〜」
 ごろごろと、それこそ猫がじゃれついているようにも見える。
 両手が巨大な手袋になっているから、一度捕まえられたら逃げられる物ではない。
 そもそも彼の手袋は、そのためにあるのだ。
 治療のために患者を動けなくなるようにするために。
 まあもっとも。
「はーなーせー」
 彼の主要な用途はこれなのだが。
――ナオちゃんってば、恥ずかしがっちゃってかーわいー♪
 いや、本気で嫌がってるぞ。
 そうやってナオを充分に堪能してからミチノリはナオを解放した。
「うーん、まんぞく♪」
「何だか、何にもしてないのに怖ろしくつかれたような気がする……」
 げっそりした表情のナオと対照的に、つやつやと妙に生きのいい肌をしたミチノリ。
 一応念のため、別に何かやましいことがあったとか、えなじーどれいんしたとかそう言うのはありません。
「失礼だなぁ、ナオちゃん。みっちゃんの抱擁は気力体力の回復と滋養強壮に効くんだよぉ」
「栄養ドリンクじゃ有るまいし」
 あきれ顔でため息をつくナオに、ミチノリは頷きながら両手を腰に当てる。
「さすがに滋養強壮には効かないよ」
 今自分で効くって言った癖に。
「いや、そうじゃなくて」
 あははと笑って右手で人差し指をぴぴんと立てる。
「まぁまぁ〜。でもぉ、そろそろゆぅちゃんもいいかなぁ。みっちゃん、キリちゃんに会うの楽しみにしてきたのにぃ」
 そう言って、少し離れた医務室の方に顔だけを振り返った。

 キリエは腕を組んで、片足を抱えるようにして難しい顔をしていた。
「深刻に悩む必要はないんだぞ」
「馬鹿野郎、悩むに決まってるだろうが!あのなぁユーカ、俺はお前のそう言うとこが嫌いなんだよ」
 そう言うと今度はがじがじと自分の爪までかみ始める始末。
「そうか、それは悪かった。今度から良く反省するから、爪を噛むのはやめろ」
「今度からじゃなくて今すぐ反省しろ」
 彼女の方を見ることもなくがじがじを続けるキリエ。
――あらあら、意外とちゃんと聞くところは聞いてるんだな
 肩をすくめてから、ユーカは体重を後ろにかけるように、両腕に体重を預ける。
「しかし悩むか?ただ『好きだ、つきあってくれ』って言うだけだろうが」
「いいかユーカ!俺はこれでも女だぞ?」
 と、顔を真っ赤にして片腕を振り上げて叫ぶキリエ。
 彼女の言い分はもっともである。
「そうか、では私はどうなんだ」
 ユーカは科白は違う物の、彼女の都合と彼女の意志でミチノリと結婚している。
 無論、生やさしい科白ではない。
『ミチノリ、どうだ、私の研究材料にならないか』
『んー?それってずっといっしょってことぉ?それならいいよぉ』
 こんな感じである。ちなみに研究対象でないこと注意しよう。
「お前と俺を一緒にするなっっ!」
「それもそうだ。失礼をした、これから気を付けよう」
 実はそんな感じで、散々っぱらキリエを煽っているところだった。
「――そういう冗談はともかくとして」
 そして、再びユーカはベッドから立ち上がると、キリエの方を向いて、帽子を取った。
 この帽子、実は頭の上の方が穴が開いた古びた印象を与えるが、出来上がった初めからこういう奇妙な形をしているのだ。
 ちょっとした理由があるらしいが……ともかく、ユーカはその穴に腕を通して腰に手を当てる。
「すまないな」
 そこで初めて、ユーカは表情らしき物を浮かべて一礼した。
 キリエは驚いて目を丸くすると、慌てて両手を自分の顔の前で振る。
「あああ、こらユーカ、お前が頭を下げると気持ち悪いぞ」
 酷い言いようだ――ユーカは脳裏に浮かんだ言葉に苦笑する。
 そしてその代わり、顔を上げて悪びれるように言う。
「それは失礼した。今度から御礼を言うのはやめることにするよ」
「改めろコラやめるな」
 キリエは言いながらも顔は笑っていた。
 少しだけ複雑な気分だった。
 ユーカはキリエより少なくとも五歳以上年上だったが、初めて会った時から二人の態度は変わっていない。
 そもそも、ユーカに噛み付いていったキリエの方が、それに比べるとおとなしくなった位だ。
 それに――今は、キリエは、ユーカの変化が少しだけ羨ましかった。
 自分は変わっていない。
 変わらない、と何故か思う。
 ユーカは初めて会った時はもう少し、どちらかというと感情の起伏の少ない人間だった。
 そもそも『好き嫌い』という感情に欠けていて、それが彼女を孤立させていたのもあった。
 そして数年前、キリエは軍に入り、それ以来会う事がなかった。
――そのせいかな
 久々だからかもしれない。彼女が、『感情』を感じさせるのは。
「まあ、退屈しないだろ?どうせ特務許可得てるんだろ」
 特務。サッポロ防衛軍で与えられるこの『任務』は、通常申告制で軍に認められた軍の任務の事だが、内容が内容だけにそうそう認可が下りない。
 特務の証であるサッポロ防衛軍の記章を象ったペンダントを、ユーカは胸元からちらりと見せる。
 これを見せればサッポロ防衛軍の施設は使いたい放題、休養施設だって割引までして貰える。
 さらに身分証の代わりになるときたものだ。
 しかし特務の最大の利点であり、認可が下りにくい理由は――
「そうだ。反魔剣士カキツバタ=キリエ、特務として同行を命じる」
「そんなご丁寧にお約束を読み上げないで良いよ」
 こうして、好き勝手に兵隊を協力者として同行させられる点にあるのだ。
 だから通常は異例だった。尤も、ユーカとミチノリは『非常勤』扱いの軍役として認識されている。
 魔術師というのはそう言う特権を持っていると思って貰って構わない。
「どうせおもしろいことやってるんだろ」
「面白いかどうかはともかく、当事者としてナオも連れて行くからな。チャンスは幾らでもあるぞ」
 口の端を吊り上げて、笑みの形でキリエを見下ろすユーカ。
 キリエはぎしりという軋みをあげそうな程身体を硬直させる。
 引きつった右手を、ゆっくりとユーカに向ける。
「あ、あ、あのさあ」
「大丈夫だ、何かあるときは向こう向いているぞ」
 ばん、とベッドを叩いて無言でユーカに掴みかかろうとして。

  がらがらがら

 途端、再び扉の開く音がした。
 二人はまず音の方に注意が逸れて、当然そちらに顔を向けた。
「きーりちゃーん」
「なっ――!」
 いつものように、何ともない状態なら良かった。
 キリエは思いっきりいつものようにたたらを踏んで、声なき絶叫を上げて。
「おっと」
 すぐ側にいたユーカに倒れ込むことしかできなかった。
「あーっ、ゆぅちゃんずるいぃー」
 ぱたぱたたと軽い足音を立てて駆け込んできたのはミチノリ。
 その後ろで呆れたため息をつくナオの姿が見えた。
 そして一瞬後に、薄暗くなって。
 むぎゅ。
「こらミチノリ!やめろ!」
「あぁんゆぅちゃんのいぢわるぅ、みっちゃんもキリちゃんをだきしめるんだぃ♪」
 むにっとした感触に挟み込まれる。
 それは人間の身体の感触ではないし、苦しい訳でもない。
「いいから離せっ」
 でもそれとは別で、やっぱり怒鳴っておかなければ離してくれないから。
「え〜」
 残念そうに声を上げて、渋々二人を解放するミチノリ。
「キリちゃん抱きしめがいのあるいぃからだしてるのにぃ」
「誤解を受けるような事を残念そうに言うな」
 ちなみに、何故かユーカが『ごごごご』という書き文字を背中に背負っていた事を付け加えておこう。
「それで、どこまでいくんだ?」
 ナオは目の前で繰り広げられている謎の痴話喧嘩を横目に、ぷるぷると震えるユーカにため息混じりに言う。
 すると、まるで我に返ったように彼女はくるりと振り返った。
「そ、そうだな。……おいミチノリ!まだ何も説明していないのか!」
 刺々しく声をかけると、ミチノリは間抜けな声を上げて首を傾げる。
「なーぁんにも説明していないよぉ。せいぜい何をするのかを教えたぐらいだからぁ」
 相変わらずほわんとした表情で、極々ゆるんだ声を出す。
 聞きようによっては挑発とも受け取れるが、慣れているのかユーカは大きくため息をついた。
「まあいい。どうせそんなことだろうと思っていたぞ」
 そして、ついと顔をナオに向け、右手を上に向けてみせる。
「……まずはサッポロをでる。すぐ南のシコク連合だ」
 シコク連合。
 トクシマ、エヒメ、カガワ、コーチからなる大型連合国である。
 過去に人類同士の争いが激化していたころ、世界を牛耳るとも言われた程の軍事国家だった。
 だがそれもつかの間、初代魔王が姿を現してからは没落する一方。
 今では娯楽の国シコクとしてその名を馳せている。
「……そんなとこ、何があるんだよ」
 初代魔王が真っ先に叩きつぶしたせいで対した軍事力もなく、それを立て直そうにもうじゃうじゃと現れている魔物の対応におおわらわ。
 気がついたらそれどころではなかったということだ。
 魔物達が蹂躙し尽くしてしまった大地だが、最小限度の自衛手段を持つことで人間のすむ街だけは確保されている状態。
 それが今のシコクだ。
 そして分断した国を何とか支えているものが――娯楽である。
 だがそのせいで世界でも最も魔物の生息数が多いとされ、場所によってはシコクにのみ生息するものもいるという。
 はっきりいってたちが悪い。調べ物をするにしても、たったこれだけの人数で行く物ではない。
 だがユーカはにやっと笑うだけで答えをはぐらかした。
「さあ?良いか良く聞け。そもそも水晶球や水鏡ってのははっきりした未来を予言する物ではないんだ」
 そう言って、今度は思い出したように首を僅かに捻る。
「しかし、行くことで動く事態を迎えることができる。そして、私の魔術で反応したと言うことは私の目的に合致するということだ」
「なんだか判らないんだかなんだか……相変わらずお前の言うことは理解できないよ」
 困った貌をして頭をかくナオに、くすりと口元を歪めて笑う。
「そう言うところは、全く持って好感を持てるぞ」
 ちぇ、とナオは舌打ちして肩をすくめる。
「別に嬉しくないやい」
 

 ほぼ同時刻、フユは怒りをあらわにして階段を駆け上っていた。
 無論行き先は司令官の下。
「姉さん!」
 勢いよくばたりと扉を開くと、丁度湯飲みの底が見えた。
 思いっきりお茶を飲んでいる所に出くわしたらしい。
 声に気づいているのかいないのか、なかなか湯飲みの底は下に下がろうとしない。
「……姉さん」
「ぷは♪」
 息継ぎなのか、声がして湯飲みが机の上にとん、と乗る。
 湯飲みが降りると幸せそうな顔のアキが、眉を吊り上げたフユを見ていた。
「やっぱり季節は麦茶よね。どう?冷たく冷えたのがあるよ?」
 季節も何もない。サッポロはいつでも冬だ。
「それどころじゃないでしょ、姉さん。カサモトとクガが来てるでしょう」
 既に机の向こう側から大きめのポットを出そうとしていたアキは、寂しそうな顔でそれを戻す。
 そして小首を傾げる。
「来たよ。また特務だってね」
 フユは噛み付きそうな勢いで、のほほんとした表情のアキに怒鳴りつける。
「何故!許可を出したんですか!」
 彼女の言い分は最もだった。
 実際に特務の許可を与える権限があるとはいえ、そうそう気安く与えて良い物ではない。
「彼らには、正当な理由と権限を与えているから、では不満のようね」
 そう言うと、アキは引き出しを開いて一枚の紙を取り出した。
 それは、ユーカが持ってきた書簡であり、今回の特務の申請用紙だった。
 彼女は見やすいようにくるりと手元で反転させて、フユに差し出してみせる。
 フユは触れずに視線だけ書類に向ける。
「……姉さん」
「そ。判ったかな。――勇者探索の為、だそうよ」
 勇者。
 響きこそ有名だったが、ここまで『いい加減な物』は他になかった。
 数々の伝承もある、が、歴史的事実であるとは誰も信じていなかった。
 確かにそれは世界を救ったこともあったが、その存在はまだ立証されていなかった。
「不満のようだけど」
「当たり前です。巫山戯てるんですか姉さん」
 どん、と軽いが明らかに力を入れたと判る音が、彼女の拳と机の間で響く。
 アキはフユの様子に顔色も変えず、のほほんとした貌で彼女を見つめたまま、小さく笑う。
「まさか。……彼女の言葉を借りて、簡単に説明しましょうか」
 アキは机から立ち上がると、ポットを持って部屋の反対側へ向かう。
 そこには小さなソファと机がおいてあり、客が来た時に使われているようだった。
 フユぐらいの階級でここで話すことは、本来まずないことなのだが――アキはフユの上司の上司である、本来は――何故か通い慣れていた。
 アキも特に注意する事はなかったし、結構その辺はオープンなようだ。
「はいお茶」
 ソファに座るフユに、まず彼女は――やはり冷えた麦茶を差し出した。
「……姉さん」
「なに?」
 ジト目でアキを見上げる。
「なんとしても飲ませたいんですか」
「あ、わかったー?」
 わからいでか。
 フユの無言の抗議を無視して、彼女はコップを彼女の前に置く。
「さてと、どっちにせよ、飲み物はそれしかないからね。……でね、フユ、あなたにも無関係じゃないから」
 向かい合わせに座ったフユは少し目を大きくして、驚いてみせる。
「あらあら、その様子じゃ本当にナオの事だけで来たんだ」
「まさかっ!」
 と裏返った声で叫んで、慌てて自分の口を塞ぐが――にたりと笑みを浮かべるアキに、先刻より本気の視線で睨み据える。
「ふふふ。なーにをいまさら。良いわよ、わたしの責任で、結婚しちゃっても」
「……いつか姉さんを黙らせる言霊を身につけて見せます」
 そう言って咳払いすると、フユは口元に手を当てて、小首を傾げる。
「駄目駄目ー、どうせ思いつかないから。ユーカの話だと、原因があなたの『ナラク』にあるらしいのよね」
 訳が分からない、と言った表情を返しす彼女にアキは続ける。
「判らないけど、あのナラクの後から『勇者』が顕現したらしいのよね」
「顕現?ナラクを撃ったせいで?」
 訝しげに眉を寄せるフユに、小さく二回頷くと右手で机をとんとんと叩く。
「勇者がこの世に現れると、必ず世界が歪むらしいんだ。で、それは尾を引くようにのこっちゃうんだって」
 伝承に残されている勇者は、確かに彼らが生まれた時に逸話を持つ物も決して少なくない。
 馬小屋で、単一生殖で生まれた人外とか、空が七色に輝いてて何時地震が起きたんだーとか。
 あまつさえ赤ん坊の癖に空を指さして言葉を残した勇者もいると言われている。
「勇者が現れたということは、魔物の元凶を必ず潰すはずでしょ。勇者はそのためだけに現れるんだ」
 彼女はフユの様子を窺いながら言葉を続ける。
 フユは、時々視線を彷徨わせるようにアキから目を逸らす。
「でも、必ず勇者は一人だけ。……もし勇者が量産できたら、魔物なんかあっという間でしょ」
 勇者で構成される勇者の軍団。確かにそんな物があるんだったら便利なことこの上ない。
「……何を考えているのですか」
「それを知りたいのはわたしの方よ。だから、許可したの」
「だからといって、ナオを連れて行くのは私が赦せません」
 真剣な表情で、即座にそう言葉を継いだフユにアキは肩をすくめて微笑んだ。
「ほら。やっぱりナオちゃんの為なんじゃないの」



 温泉旅館ユーバリの、二階にあるテラス。
 まおとナオはそこで初めて出会った。
「謝るんじゃねえ、お前は何も悪いことをやってない」
 怒鳴ってしまってからナオは慌てて首を振った。
 そしてぼん、と音を立てて顔を真っ赤にする。
「♪」
 その様子を見ていたまおは、にこっと笑みを浮かべるともう一度手すりに背中を預けて横にいるナオを見る。
 ナオはぷいっと顔を背けて、そのまま無言。
「もう少しいてもいいよね」
「知らん、勝手に来たんだろ」
 素っ気なく言ったつもりだが、まおには拗ねているようにしか見えなかった。
 フユが心配している理由。
 彼女が、ナオを縛り付ける理由。
――くー、俺何言ってるんだ
 そして何より、フユが感じている魅力の一つでもある。
「ねえ、ナオは――あ、なまえでいいよね?ナオは、サッポロのヒトだよね」
 まおは返事を求めなかった。
 特に期待しなかった。
 だから続ける。
「サッポロってさ、いーところだよね」
 そう言うと今度は手すりの向こう側を見ようとくるりと振り返る。
 彼女の眼下に広がるのは、このそれほど高くないこの旅館からでもはっきり見えるほど広く、平らな国。
 氷雪に覆われた都市が、人間の営みを示す灯りと、煙をたなびかせる。
 何故か少しだけ、それはもの悲しい風景のように感じた。
 少なくともこの都市には魔王の爪痕はない。
 全く――刻まれていない。
 サッポロの都市で、魔王が攻め立てたのは唯一トマコマイだけ。
 尤もその魔王はここでこうして温泉に浸かっているのだが。
「なんだかさ、こー……」
 何か表現する良い言葉はないか。
 思いつかなくて、思わず自分の額に人差し指を当てて唸る。
「ななしめなくて」
「……何語だ。ついでにそれがどんな状態なのか説明してくれ」
 呆れた表情のナオに睨まれて、まおは笑いながら後頭部をかく。
「えー。いやぁ」
 屈託なく笑う少女。
 はっきり言うと、こういう女の子に会うのは初めてだった。
 姉二人とも、どこか跳ねっ返った性格だ。もう一人姉がいるらしいが、実は殆どあったことがないのでよく判らない。
 フユに構われ過ぎたせいもあるのかも知れない。
 相棒は、男と変わらない。
 彼女がどう考えているのか判らないが。
 まおの様子を横目で眺めて、どう対応して良いのか迷う。
 姉ならどう扱ったって自分本位で、一番やりたいように振る舞って振り回される。
 アキなら、間違いなく掌でもてあそばれる。
 キリエならぶん殴って笑えばすむ話だ。
――じゃあこいつは?
 戸惑う。
 自分を強く主張するわけでもない。
 ここから離れようと思えば、いつでも逃げられる。
 でも、なにかがここに縛り付けるようなそんな錯覚。
――ここにいたい
 いや。いなくてはならないという感覚。
「どう思う?サッポロに住んでるキミとしては」
 びしっと右手で人差し指をナオに突きつける。
 まおは同じ位の背丈で。
 同じぐらいの年格好で。
 そして全く違う、子供。
 勿論人間。人間なのに、いや、人間だからこそ、彼女は話をしたくなる。
――人間は?
 そう、棄てても構わない、ゴキブリみたいな存在だ。
 まおは――『魔王』は、人間を蹂躙する存在のはず。
 でも『まお』は違う。
 まおはそんなものには縛られていない。
「え?」
 ナオは、まさかにこにこと笑いながら聞き返されるとは思っていなかった。
 サッポロを、どう思っているのか。
 どんな風に感じているのか。
 このサッポロを。
「……うん」
 少しだけ、彼の顔から険が消える。
 素直な貌には何の感情も浮かんでいない。何かを考えているように、じっと澄まし顔で宙を見つめる。
 サッポロ防衛軍に入隊して、この戦いを続ける理由はなんだろう。
 改めて考えたことはなかった。
 だからだろう。
「考えたこと、なかったな」
 すぐ側にあるから考える必要はなかった――そんな事ではなくて。
「俺、ここ以外の場所を知らない。ここが当たり前だから。だけど」
 ふい、と顔をまおに向ける。
 まおは笑ったまま、自分の顔を人差し指で指す。
「そんなに良いところなら、きっといいところなんだよな。俺も気に入ってるから、ここは」
 自然と笑みがこぼれた。
 人に、『いいところ』だと思って貰えたこと。
 それを自分で確認できたこと。
 嬉しかったから。
「あ、うん」
 今度はまおがどうして良い物か困ったように目を彷徨わせた。
 ナオが見える。
 風呂上がりの濡れた髪の毛を、くるりと乱雑に巻いたもの。
「あー、あ、それいいよね、それ」
 ちょっと興奮気味に腕を振って、彼の頭を指さす。
 気づいたナオが不思議そうに眉を寄せて、気づいたのかそれを指さす。
 自分の頭に巻かれた、幅広の紐。
「ああ、これか?」
 サッポロにある伝統工芸の一種で、編み上げた糸で組まれた飾り布。
 編み込まれた色付きの糸の織り込み方や、その組み合わせで様々な模様を浮き立たせる為、誰もが作れるが複雑且つ美しい芸術品も存在する。
 彼がつけているのは、姉が作った物だった。
 誰もが持っていても不思議じゃない代物であり、特別な意味を込めたものも勿論ある。
 そんなものだ。
「欲しいのか?」
 言ってから少し後悔、そしてどうでもいいやという感情。
 同時に、それは御礼の気持ちを込めて。
「良ければやるよ。ほら」
 彼はそれをほどくと、まおに近づいて彼女の髪に手を伸ばす。
 くるりと丸められた彼女の髪を飾り布できゅっとしばってみる。
「わぁ」
 他人から、直接物を貰ったのは――色んな意味であるけども――初めてだ。
「欲しかったら、みやげ屋でも売ってるはずだぜ。明日にでも探してみたらいいさ」
「うんうん、判ったよ」
 そう応えておきながら、何を彼が言ったのかすらその意味を把握していなかった。

「ほわーん」
 まおは相変わらず意味不明な言葉を呟いて、机に突っ伏していた。
 どうやら何度も同じシーンを思い出しているには間違いない。
「ねね、アクセラ」
「いやだっっ!俺はもーいやだっ」
 何故か赤い顔をして急かすシエンタに、逆に真っ赤な顔をぶんぶん振り回すアクセラ。
 いや。
 まおをしゃんとさせるために何とかしようと言うだけなのだが。
 シエンタは何故か嬉しそうで、アクセラはものすごく恥ずかしそうに。
「はぁ。あんたたち何をやってるんだか」
「あ。カレラさん」
 不毛な言い合いをしている彼らの後ろに、女装大魔王が姿を現した。
「魔王陛下も、ちょっと前から様子変だったものねぇ」
 言葉は女で身も心も完全な男を自負する彼にとって、女の子の悩みなどは掌の上である。
 ちなみに、一欠片も女の部分はありません。女装と言葉は、彼の趣味です。
 何故女の子の事がよく判るのか――実は結構不明な点であったりする。
 他の四天王がそうであるように、彼の特殊能力がそうなのかも知れない。
 かなりやだけど。
「よしよし。じゃあ私に任せなさい」
 思い切り嫌そうなシエンタに、ほっとしたアクセラ。
 二人に任せても面白そうだけど、このままほっぽりだしてたらいつまで経っても終わらない。
 つかつかとまおに歩み寄って。
 ゆっくりと彼女の耳元に口を寄せて。
「惚れたな」
「うわぁあわあわわっ!」
 まおはじたばたじたばたと自分の机の上でもだえ苦しむように暴れる。
「かかっ、カレラっ!」
「うふ♪」
 身体を起こしてぶんぶん腕を振り回すまおに、カレラはにっこり笑みを浮かべて見せる。
「まだそんなことやってるの?もう一度、陛下のみみを一吹きして差し上げましょうか?」
「いーですいーですっ!って」
「ご安心下さい陛下、恋愛などというものに関しては私の方が先輩且つ魔王ですから」
 どーん。
 胸を張って引っ込めようとしないカレラ。
 まあ普通の魔王と違うので、上下関係云々も、この魔王にあってはないようなものだろうし。
 周囲とかちょっと甚大な被害を被るだろうけど。
「ん……あ……うん。まあ、いいや」
 草臥れたようにため息をついて、にぱっと笑みを浮かべる。
 そしてまおは、少しだけ頬を染めて伏せ目になりながら頬をかく。
「……しごとする」
「うんうん。素直でよろしい。抱きしめてもう一吹き…」
「五月蠅いおまえもかえれ!」