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Holocaust ――The borders――
Chapter:5

冬実――Huyumi――


 禁忌。
 それを忌避する理由は様々で、それらを知る手がかりを見つける方が難しい。
 特になんでもない伝統の場合には、既に廃れてしまっていて現在では何の理由にもならないこともある。
 私は様々なそれらの禁忌を犯さなければならない。
 いいえ、私にはタブーと言えないのかも知れない。
 何故なら前提条件として、『人間』という枷が必ずつきまとっているのだから。
「ひ、ひい」
 怯えた情けない男の声が聞こえる。
 私の足の下で這い蹲ったモノがそんな鳴き声をあげているんだろう。
 僅かに、後頭部から背中にかけてぞくぞくと悦びの震えが伝わる。
 身体が求めている。何より自然が否定しようとしている。
 人間を。
 人間という名前の、全てを破壊し尽くすしか能のない種を。
 だからこんなにも私の身体は、今高揚しているのだろう。
 自然の摂理だから。
 私はさらに右足に力を加える。
 情けない声が甲高く響き、嗜虐心を刺激し、私の右足をさらに加速させる。
 骨が折れるかも知れない。
 筋肉がちぎれるかも知れない。
 いつの間にか命乞いのような言葉も聞こえなくなり、意味のないただの悲鳴だけが響いている。
 痛みのために口から漏れる音。
 奏でる楽器はどれだけ醜くとも、その音だけは確かに愉悦の中にある。
 ごきり、という破滅の音が響いて、楽器は沈黙した。
 私はその途端興味を失って、楽器を爪弾いていた右足を引いた。
 そこには、まだ痙攣する程命の残った人の形をした物がそこに転がっていた。
 生きているのか死んでいるのか、どうせこの楽器は、あの臭い場所で全て直すことができる。
 その程度のものだ。気にかけて得する理由なんかない。
 人間が滅びなければならない理由は幾つもある。
 幾らでもある。
 でもそれでもなによりも、自然から生まれた私の身体が、それを認めている。
 人間とは愚かな存在であると。
 人間とは敵であると。
 人間という名前の種族は、間違いなく私を滅ぼそうとすると。
 それだけ強大な力を秘めておきながら、それだけ大きな力を駆使しつつも私よりも脆弱なのだ。
 個々は赤子同然の弱い存在。
 なのに何を怯える必要があるだろうか。本当に怯えるべきは、確かに人間種そのものだろうが。
 彼らは個々としてではなく、群体としてその統制が行われている。
 彼ら個々人を一人ずつ駆逐したとしても、彼らという種族の動きは決して止めることはできない。
 彼らは我々とは違う。我々は彼らより種として脆弱ながら、個々は強靱だ。
 だからこそ進化から落ちこぼれ、種として固着してしまったのだ。
 種として進化を続けるにはどのような姿がもっとも望ましいのか。
 それは簡単だ。個々の受ける脅威に比して種がより強固で有ればいいのだ。
 種が、それを生み出したはずの自然をすら覆す事ができるほど、強固な――全地球上最強の種、人間。
 だからこそ彼らはくべられなければならないのだ、あの、聖なる焔に。

 神への、供物として――

 でも。
 でもそれすら彼らには、進化の階梯を上るための過程にすぎないというのだろうか。
 くだらない理由で、私は、追い立てられなければならないのだろうか。
 全て彼らの、例えそれは個々の思いでないとしても、掌の上で踊らされる人形のようで。
 私は、背中から聞こえる怒号のような声に、ゆっくりと振り向いた。


Chapter 5 冬実 ― Huyumi ―


 真桜冬実という少女は、良い意味でも悪い意味でも目立つ少女だった。
 高校二年の冬、一度停学処分を受けた事件を境にして彼女の周囲から人が離れていった。
 停学の理由は彼女が男子の上級生三人を半殺しにした、というものだった。
「本当に申し訳有りません」
 母親が頭を下げるのを、彼女は表情も変えずにただ見つめていた。
 頭を下げる向こう側には、しかめ面を浮かべて母親と彼女を見比べる一人の男。
 冬実の、高二の担任だった。
 まだ教員免許を取ったばかりという感じの若い教師で、時々辿々しく慌てる仕草が一部の女子の間で人気だった。
 そんな彼が一度も見せたことのない程厳しい表情を浮かべて、彼女を見下ろしていた。
 冬実にはその視線が、彼女を憎んでいるようにも見えた。
 憎々しげに見下ろす人間の瞳――もちろんそんなはずはないのに。
 冬実はついと視線を上げて、教師の瞳を射抜く。
 彼女は可愛いというよりは綺麗だと言うべき、整った小振りの口と細く鋭い目をしている。
 見る人によっては酷く恐ろしい顔つきに見えるだろう。
「何をしたのか、判っているのか」
 教師の言葉数は少ない。
 怒りに震えているのか、吊り上げた眉と一緒に瞼がぴくぴくと動いている。
 これが始めてではないせいで、教師も許せないのだろう。
 何をしたのか。
 簡単だ。口で言うなら、本当に極々簡単な事だ。
――ヒトを一人、殺しかけた
 残念ながら殺しきらなかった。
 一人の廃人が出来上がっただけだ。
 冬実は答えなかった。ただ僅かに目尻を上向きに上げただけだ。
 その表情は笑みにも、また怒りにも見える。
 獲物を見つめてほくそ笑む獣の顔――それも、たちの悪い猫か狐のような貌。
 また逆に、『私は何もしていないのに』と相手を非難する貌なのか。
 どんな表情も彼女の内面を映すこともなければ、またそれに他人が感じる物も千差万別だ。
 一切表情を変えず相手に百の貌を見せる能面のように美しく、畏ろしい貌。
「はい」
 硬質で濁りのない澄んだ声に、教師はさらに気難しそうに顔をしかめる。
「だったら」
 何でそんなに落ち着いているんだ。
 教師が紡ごうとした言葉は、決して現実的とは思えない言葉だった。
 だから、声にならなかった。
「申し訳有りません。停学でも、謹慎でも、よく言って聞かせますから」
 ただひたすら頭を下げる母親の言葉もまるで非現実。
――娘は犯罪を犯したのだ
 その自覚があるというのだろうか。
 致死にいたらなくとも訴訟を起こされれば間違いなく不利、彼女に勝ち目はない。
「じゃあ、後は全てお任せしますよ」
 母親の様子にほだされたのか、面倒くさくなったのか、教師は吐き捨てて二人に背を向けた。
 被害者との交渉も、基本的に学校は絡まないという形で済ませるつもりだ。
 もう学校から事件は離れた――その途端、母親はため息をついて身体を起こした。
「さあ、冬実、帰りましょう」
 そのときの彼女の表情は、明るかった。
 冬実は無言で頷き、彼女と並んで帰途についた。

 母親との会話は一言もなく、事件を詮索するようなこともしないまま帰宅した。
 決してこれが初めてだったわけではないし、おそらく黙っておいても大丈夫だと彼女は踏んでいた。
「…また?」
 ドアを開けて玄関をくぐりながら、一度冬実を振り返って問うた。
 冬実は瞳を揺らせて、ほんの僅か驚いたような貌を――僅かな差で、気づく人間は家族ぐらいしかいないが――した。
 そして目を細めると視線を落として、頷いた。
「だったら大丈夫」
 母親はにっこりと笑って答えた。
 死人がでたわけではない。
 やられた相手が、何かを言うわけではない。あの教師とて巻き込まれるのは嫌だろう。
 変な噂も流れて貰っては困るはずだ。
――特に男女の微妙な話が絡んでくるとすれば、絶対に
 櫨倉統合文化学院のような進学校でそんな話があがったなら、なおのことだ。
 職員はもみ消しに走るだろうし、何より櫨倉校長には話を通せる。
 今更、気にする必要はない。
 母親は打つ手をいくつか考慮して、まず何より、夕食の準備を始めることにした。
 冬実はキッチンに消えていく母親を見送ると、靴を脱いで玄関にあがった。
「姉ちゃん、お帰り」
 キーの高い声が階段を下りてくる足音にあわせて彼女に浴びせられた。
 年の割に少年のようなそれに、小さく顔を上げて応える。
「ただいま、ハル」
 そして、柔らかい口調で言うとにこりと笑みを浮かべる。
 冬実の弟の治樹だ。
 父親に似たぼさぼさの癖っ毛に、やんちゃそうな雰囲気を残した顔つき。
 艶のない反射を返す薄茶色の髪の毛に気づいたのか、冬実が視線を強くすると治樹も怯えたように一歩退く。
「…色、抜いてるの」
 有無を言わさぬ淡々とした口調で言う。
「あ、あの、これ…」
「……ハル」
 ずいっと一歩、治樹より早く踏み込むと、彼はまるで痺れたように動かなくなる。
 もう相手の呼吸音も聞こえる程のごく近い距離。
「ごめんなさい」
 観念したような彼のその声を聞いて、冬実は治樹の肩から抱きしめる。
「髪の毛でも身体の一部だから。自分で痛めつけてどうするの」
 ぱさぱさの彼の髪をすくように指を通し、子供をあやすようにゆっくりなでる。
「……もうやめなさい」
「はい、姉ちゃん」
 もう一度彼を抱く力を込めて、解放する。
 一瞬縋るような目で彼女を見返した治樹は、次の瞬間音を立てそうな勢いで顔を真っ赤にする。
「姉ちゃんっ!」
「…今更、何を恥ずかしがってるの」
 無感動な声で言い、本当に不思議そうに首を傾げる。
「今は、誰も視てないから」
 治樹の顔を赤くしてむくれた表情に微笑みで応えると、ふいっと彼は視線をそらせた。
「……ふん」
 彼は無性に恥ずかしかった。
 姉に抱きしめられた時に抵抗できなかった事。
 思わず素直に答えた事。
 解放された時、寂しいと思って彼女を見つめてしまった事。
――くそっ
 でも姉が悪い訳でもないので、それ以上声を上げる事もできずただ沈黙していた。
 『子供扱いされている』ような気がするのは気にくわない。
 だからこんなにもいらいらしているのに、冬実には逆らえない押しの強さを感じてしまう。
 大人のつもりの精神と、大人になり切れていない事実に板挟みになっているような物だ。
 いつの間にか背伸びをしている。
 そんなもの必要ないのに、と思っていても――自分ではそう思っていなくても。
 彼自身は思っていない事でも、彼は、もう動き始めていた。

 冬実に半死半生の傷を負わされた学生の数は、既に片手では足りなくなっていた。
 最初の三人は、『公表された』人数だった。
「くそ」
 今から一年前、『不幸な事故』としてほとんど何の話題にも上らなかった事件がある。
 そのときの被害者は男子生徒一人、本来なら既に高校卒業して大学に進学しているはずなのだが、まだ高三だった。
 理由は半年の入院生活だ。
 といっても彼も留年しない程度の成績でしかなく、素行も悪い為寧ろ喜ばれたぐらいだった。
 少年の名は柴崎誠という。
 歩道橋の上で言い争っているうちに転落、たまたま通りかかったトラックの上で跳ねて歩道に落下。
 両足を複雑骨折、左腕を圧迫骨折、内臓破裂という無茶苦茶な状況で彼はリハビリを含め半年で瀕死状態から復帰した。
 復学してからも彼は沈黙を保っていたが、以後半年間特に目立つ行動もなく過ごしてきた。
「宮田が失敗…もう再起できないのか」
 放課後の体育館、空手部の部室で数人が集まっていた。
 ロッカーに背を預けてだらしなくベンチに腰をかけた誠を取り囲むようにめいめい適当に座り込んでいる。
「無理ですね、あの様子じゃ」
 櫨倉総合文化学院は有名な進学校だが、武道系クラブでも有名で、スポーツ特待生のみのクラスが存在する。
 各学年につき一クラスあり、そのほとんどが武道系で固められている。
 通常そのまま櫨倉へ進学するが、彼らは国士舘大学などへやはり特待生で進学していく。
 これは櫨倉の特殊な所でもある。
「セイ、もうやめようぜ」
 武道系特待生として入学した彼らは、あまり成績を重要視されない。
 だからではないが、品行方正とは言い難い学生も少なくない。
 柴崎もまたそんな仲間の一人だった。
 宮田というのはフルコンタクト空手の大会に出場する程の生徒だった。
 彼が、一つ年下の冬実に半殺しにされて、精神的にも完全に打ちのめされていた。
「気にくわねぇ」
 復学してから最大の標的であり、何とかして泣き叫ぶ彼女の姿を見てやりたかった。
 目の前で地べたに這いずって、許しを請わせてやりたい。
 できれば、それも自分の手で。
「俺はあいつに半年前、歩道橋から突き落とされたんだぞ」
 誠の怒声にも、そこに集まっている数名の男子生徒にはあまり反応しない。
 彼よりも冬実にまつわる話の方が、むしろ怖ろしかったからだろう。
――突き落とされたって、まずお前の方が無理に迫ってるだろうが
 いつもは素直に従っていた彼らも、既に疑念の眼差しを彼に向けるようになってきている。
 弱味を持ったお山の大将など、誰も従わないのが普通だ。
「…なら、搦め手を使えばいいだろう」
 にやにやと笑っている一人が、完全に引いている生徒の真ん中に立ち誠に言う。
 彼はスポーツ特待生ではない。
 眼鏡に鋭い目つきをした、痩せ形の彼は先代の剣道部主将を務めていた。
 今でも定期的に剣道部に顔を出しているらしい。
「搦め手?どうするつもりだ」
「簡単だよ。――弟を使うんだ」
 彼は口元を歪めて嗤うと、小さく肩をすくめてみせる。
「全然知らない間柄でもないからね。彼を捕まえて、餌にすればいいだろ?手はずは任せて貰う」
 誠ですらその表情に嫌なものを覚える。
 まるで愉しんでいるような、ある意味不気味な、醜い表情。
 此と比べれば下卑た笑みの方がまだ人間味があって赦されるだろう。
 彼が何故剣道で特待生として入らず、学歴だけで入学してきたのか判らない。
 判らないが、彼の放つ剣気とも言うべきものは――とても、剣道だけで培われたモノとは思えない。
「お、おう。だったら手はずが決まったら連絡入れてくれ」
「判った」
 彼は一言だけ告げて、そのまま部室から出ていく。
 途端に緊張の糸が緩み、そこにいた全員がため息をついた。
 誠は額に浮かんだ冷や汗を腕で拭うと、地面を見つめて呟く。
「あいつは…明治時代の剣客か何かか?」
「『ポン刀』って渾名、伊達じゃないらしいしなぁ」
「おう、噂じゃ駅裏でやくざを切り伏せたとか」
「人斬りだよ人斬り。もぅ、俺らなんかとは格が違うよ、どっかおかしいんだよあいつ」
 てんでばらばらに先刻の人物の話をする彼らに、誠は檄を飛ばすように大声で言った。
「よし、集められる人数集めておけ。あいつの弟を拉致るぞ」


 部室を出て、彼は大きくため息をつく。
 今のところ依頼はない。だが以前から目を付けていた真桜家が焦臭くなっているのは分かる。
 あの菜都美という娘に関してだけ言うなら、可もなく不可もなく。
 依頼がない限り相手にする必要性はない。
 『目』は覚めているようだが、彼女自身がそれを畏れているのか発現を確認できない。
 だが、冬実は違った。
――確実に、敵だ
 彼女は敵対している。
 敵視してかまわない。もし牙を剥く理由があるなら、かこつけて消す事も辞さない。
 尤も、彼女と事を交えるならばそれなりに覚悟をしなければならない。
 今彼が所属するこの学校、『櫨倉』だって怪しいのだ。
――そのためにも俺が入学しているのだろう
 そもそも奴らは狡賢い。人間の間に隠れて潜み、個々人に対して被害を与えようとする。
 『隣人』を愛することができない世界を、彼は守らなければならない。
 この人間の境界に立つ事で。
 ぶるっと彼の両腕が、瘧にかかったように震える。
「が、はは、くくく」
 背を丸め大きく目を開き、喘ぐように笑い声をこぼす。
――斬りたい
 がたがたと身体を震わせながら、ゆっくり身体を逸らしていく。
――建前なんかどうでも良い――斬らせろ!
 ここ最近は、もう生きているモノを斬った記憶がない。
 夜に鍛錬と称して立木を斬りつけるだけでは物足りない。
 背筋を疾るモノがないから、そんな、ただの物なんか斬っても意味がない。
「が――はぁ」
 刃が皮膚を撫でる感触。
 そのまま筋肉の繊維に触れる刃、引く時の僅かな抵抗。
 苦もなく骨まで寸断する――その時の愉悦。
 今の彼はそれだけを求めるただの獣、人間と化物の境界に立ち全てを寸断する為に生きる門番。
 彼は――否、『彼』という存在は極めて最小限度の人格の欠片で形成されている。
 酷く歪で、醜く欠けている。
 でもこれ以上人間性も感情も与えられない。
 もしそんなことをすれば『楠隆弥』という人物は『彼』に押しつぶされて消えてしまう。
「真桜治樹、お前は、生贄だ」
 ゆっくり反り返った胸を戻し、眼鏡を中指で押さえる。
 彼は、震えの収まった身体で歩き始めた。
 どうせこれからの時間、特別やることもないのだ。
 紺色の竹刀袋に入った刀を片手に、彼は家路についた。

「ハル?」
 真桜家では、風呂は基本的に年の順に入る。
 特に毎日道場で古武術を教える明美は、都合上一番最初に入る事になる。
 勝手に沸かして勝手に入っているとも言うが。
 家族の中で唯一の男子の治樹は、全員の風呂が終わってから入る。
 正確には『放っておくと入らない彼を無理矢理』、入れるために最後になってしまうとも言うのだが。
 彼を風呂に入れるよう催促するのが彼女――冬実の仕事だった。
「ハルー?」
 着替えて首から頭にかけてバスタオルを巻いて、髪の毛を叩いて水気を取りながら廊下を歩く。
 二階に菜都美、冬実、治樹の部屋があり、一階に居間と食堂、母親の部屋がある。
 彼女は階段から二階を見上げてもう一度声を張り上げたが、反応がない。
 仕方なく、彼女はそのまま二階へと階段を上る。
――昔はだだをこねてたけれども
 小学生まで、治樹は風呂に入るのを嫌がっていた。
 いつからなのか、そしてその理由は全く判らなかったが、冬実が無感動に引きずって風呂に入れていた。
 中学になると流石に――それまでなんにも気にしなかった癖に――一緒に入るのを嫌がって、自分から入るようになった。
 だから未だに冬実に呼ばれると、壊れたバネ仕掛けの人形のように風呂場へ駆けて行くのだが。
 とんとんとんと規則正しい足音を立てて登り切ると、冬実は眉を顰めた。
 人気がない。
 風呂上がりで居間でくつろいでいる菜都美と明美、母親以外階下にはいなかった。
 彼女の無表情な顔が、少しだけ訝しげに眉を寄せる。
「ハル?いないの?」
 寝ているのだとしても気配はするはずだ。
 しん、と静まりかえってしまった暗い二階の廊下を歩き、治樹の部屋の扉をノックする。
 返答がないのを見越してノブに手をかけると、彼女は何の躊躇いもなく扉を開いた。
 そこにはただの真っ暗な部屋しかなかった。
「ハル」
 声をかけるが、それはむなしく闇に呑まれて消えてしまう。
 入り口にある電灯のスイッチを探り、部屋を照らしても様子は変わらなかった。
 トイレにいても返事は返ってくるから、今彼はここにいないのだろう。
 勝手に夜中に出歩いているとしか考えられない。
「……こんな時間に」
 冬実はため息をついて彼の部屋を出た。
 家族にしか判らない程微かに眉を吊り上げて、彼女は怒っていた。
――黙って出ていって。何をしてるの、ハル
 たん、たんと硬質な足音を立てて階段を降りながら、ふと彼女は目を瞬かせる。
――ハル?
 微かな音が玄関から聞こえた。
 玄関から廊下が直接繋がっていて、吹き抜けのような階段までは何も遮る物はない。
 彼女は立ち止まると、踊り場のような場所で蹲って耳を澄ませた。
 フローリングの廊下を、衣擦れさせた足音が近づいてくる。
 やがてそれが階段を登る足音に変わり――
「っ、姉ちゃん」
「お帰り、ハル。どこに行って」
 冬実は彼女の目の前で硬直する治樹を上目遣いに見上げて、きょとんとしたまま黙り込んだ。
 彼は頬を赤くしていたが、外気が冷たいからだけではなかった。
 まるで全力疾走してきたかのように息が上がっている。
 その割に身体の震えもなければ、興奮しているようにも見えない。
――……そう
 黙り込んだ彼女を見て怯えるように身体を硬直させたままの治樹に、立ち上がってすぐ隣について肩を叩く。
「お風呂よ」
「う、うん、すぐ入る」
 案の定弾けるように自分の部屋に駆け上がっていく彼を見送って、眉根を寄せて物憂げに首を振った。
――『覚醒』が始まってるから
 明美に伝えなければ、と彼女は小走りに階段を降りて今に向かった。
 冬実はバスタオルを洗い物を入れるかごに投げ捨てるように入れると、そのまま居間に向かう。
 途中母親とすれ違うと、ばたばたという治樹の足音が聞こえてきた。
――間違いなく、そのまま風呂に入るのね
 少なくとも治樹に知られることなく話ができる。
 扉をくぐり、テレビを見ている明美と菜都美に向かって彼女は駆け寄ってぺたんと座り込んだ。
「……何?」
 普段冬実はテレビなど見ない。
 今みたいにちょこちょこした仕草も見せない、『可愛くない』妹だったから菜都美はあまり彼女が好きではなかった。
 明美はちらっと視線を向けるだけで、驚いたように目を丸くするとまたテレビに視線を戻す。
「治樹が、目覚めました」
 明美は無言でテレビのリモコンを取って、テレビを消す。
 菜都美も顔を硬直させると、オウム返しに答える。
「目覚める?」
「はい。遅くはないと思います。…そろそろ、父の事も併せて教えるべきです」
 相変わらず澄まし顔で淡々と言う冬実。
 明美は、ああ、とまるで気の抜けた声で言うとにっこり笑みを浮かべる。
「もうハルくんもそんな年?へぇ、隅に置けないわねー」
「明美姉!」
 くすくすと小さく笑いながら明美は菜都美の頭をぽんぽんと叩く。
 菜都美はむっとむくれて黙り込んで、冬実に視線を向ける。
「手遅れになる前に教えてあげないとね。誰かを怪我させてからじゃ遅すぎるし」
 こくりと頷く冬実。
 明美はむくれたままの菜都美を一瞥して言葉を続ける。
「みーちゃん、ハルくんの事、お願いできる?」
「判りました。でも」
 うんうんと明美は頷いて右手の人差し指を立ててくるくると回す。
「だーいじょぶよ、いざとなったら助けてあげるから。…で、どんな感じ?」
「まだ半覚醒です。恐らく自分の血でも見たんでしょう」
「冬実が教えるの?明美姉」
 困ったような貌をして明美を見返す菜都美。
「仲が良いと最悪の場合まずいんじゃな…っ」
 明美はとぼけたように笑い、彼女が言い終わる前に右腕で頭を抱きしめる。
「大丈夫よ。冬実なら心配いらないから。ハルくんがだだこねなかったら、今でも彼をお風呂に入れるでしょ?」
 こくり、と頷く冬実。
「んもうっ」
 菜都美は強引に腕を振りほどいて、唸りながら二人を見比べるようにぶんぶんと頭を振る。
「あたしの時は明美姉だったけど……じゃあ冬実っていつだったのよ」
「早かったわよ〜。なっちゃんより早かったから知らないんでしょうけどね」
 誤魔化すように肩をすくめると、明美はもう一度、今度は真正面から菜都美を抱きしめる。
 困ったように振り解こうとするが、明美は離そうとしない。
 菜都美が全力で抗っても、不思議な事に物凄い力で逆に締め付けてくる。
「なっちゃんはいいのよ。ね」
 背中を数回優しく叩くと彼女は菜都美を解放する。
 戸惑うような、拒絶するような彼女の表情に笑うと、ほんの僅かに口元を歪める。
 それが明美にとって最大の羨望の表現だった。
「後は私達に任せて。お願い」


 最初は怖ろしく鋭くなった感覚から、それは始まる。
 皮膚感覚だったり、聴覚だったり、嗅覚だったりする。
 何かのきっかけが在るんだろうが、それを覚える――そうとも思わないうちに感じ、そして始まってしまう。
 始まったら最後、完全に覚醒し切るまでその感覚は抜けない。
 突然敏感になった感覚に振り回されるのがオチだ。
 聞こえ始めた細かい音のために難聴に。
 突然細部に渡り見えるはずのない映像のために盲目に。
 それはノイズを取り除かなくなったラジオのように、感覚器だけが鋭敏過ぎる状態と同じ。
 たとえば今すぐに、かさこそと這い回る虫の足音まで聞こえるような耳になったとしよう。
 それら小さな音全てをより分け選択できる脳がなければ、恐らく耳に届くのは『ごう』という唸るような音だけだろう。
 嘘だと思うなら、無作為に音を集めるメガホンを耳に当てればいい。
 その酷い状態が現れると思ってもらえればかまわない。
 治樹の場合、それがまず皮膚感覚で現れた。
――ん
 食事後、自分の部屋に帰ってくる間に妙な違和感を覚えた。
 目で見ていなくても階段や、手すりの表面が判ったような気がしたからだ。
 その時は何とも思わず、そのまま宿題に手をつけようと机に向かう。
 数分も待たない。
 急に全身が痒くなって、立ち上がる。
「――――!」
 声なく呻いて、彼はまるで何かの発作でも起きたかのように部屋を走り出していた。
 動けば動くほど、まるで水の中にいるように――いや、もっと密度の濃い、柔らかいものの中を歩いているようで。
 抵抗はないのに驚く程質感があって、まるで粒でも触れているかのように。
 叫び声を上げそうになって、一瞬彼は正気に戻った。
「っ…ここ、は」
 いつの間にか家の外に飛び出していた。
 粒のように触れる空気が、先刻より早く流れて見える。
 密度の差も温度の差も大きく、部屋の中にいた時のように停滞していなくて、まるで網の目のように。
 でも何故そこまで判るのか判らない。
 何故か身体が熱い。
 それは興奮した時や運動していた時とは違う、熱病にうなされた脱力感でもない。
 むしろ身体が別物になったような、意思や理性で制御できない何らかの力に突き動かされている、そんな、感覚。

  がまんできない なにかに止めどなく後ろから後押しされているようで

 彼は穹を見上げた。
 星が一瞬瞬き、暗くなったかと思うと今度はいきなり満天の星穹に。
 月が穹全体を覆っているようで、まるでそれは夢の中の光景としか、思えなくて。
 彼は。
 まるで惚けてしまったように穹に魅入られていた。


 菜都美と明美はまだ仲が良い方だ。
 残念なことに治樹とは険悪で、仮にも仲が良いとは言えない。
 何かにつけて文句を言って突っかかってくるので、いつも彼とは喧嘩になる。
 姉弟喧嘩なんてものはじゃれあいだと思っているかも知れない。
 しかし少なくとも彼女らは、それなりに武道を習っている。
 『こいつなら本気で殴ったって構いやしない』と思えば、骨折させることすら躊躇しないだろう。
 一つ間違えば殺し合いに発展しかねない勢いで、じゃれ合っている。
 止められる人間はいないだろう。
 と、言っても、菜都美の方がいつも折れて手加減している。
 それに『冬実』の名前が最後の切り札で、彼女が現れると治樹もおとなしくなった。
 冬実が彼にべったりだったせいもある――その様はまるで母親とも思える程優しくて厳しかった。
 菜都美に手を挙げても、治樹は冬実に頭が上がらない。
「……で?」
「うん、冬実ちゃんから言付けを貰っててさ」
 眼鏡をかけた、菜都美の友人という少年が彼の中学の校門で待っていた。
 理由なんか判らない。
 それに何故彼なのだろうか。
「ふーん。……でも、ナツ姉の友人って事は冬実姉ちゃんの一つ年上だろ?」
 つんつんした口調で噛みつくように首を傾げる。
 でも、彼は全く顔色を変えずにこにこした貌で続ける。
「んー。だから菜都美ちゃんから頼まれたんだよ。何か、用事で動けないからってね」
 待ち合わせ場所を教えて、御丁寧に小さな紙切れに書いた地図まで手渡すと、彼は『確かに伝えたから』と言って立ち去った。
――変な奴
 紙切れは色気も何もない、A6サイズの真っ白いメモ帳の切れ端だった。
 そこに几帳面に物差しを当てたような直線が並んでいて、細かい文字が書き込まれている。
 彼はそれを一読して、駅の側にある公園であることに気づき、ポケットにねじ込んだ。
 姉から直接呼び出しがあることは少ない。そもそも、こうやってわざわざ人を使うこともまずない。
 だから何かあったのか、と彼は思った。
 何か言わなければならないことでもできたから――それにしては、変な所に変な呼び出し方をする。
 少し気になった。
――……うーん……心当たりとすれば…やっぱり昨晩の件かなぁ
 他に理由が思いつかない。
 そう言えば風呂を呼びにきた彼女と、あの後鉢合わせたのだ。
 黙り込んだままじっと睨み付けられた。
 絶対に外にいたことを叱られると思った。

『お帰り、ハル。どこに行って』

 でも彼女は途中で言葉を飲み込んで、ただじっと彼を見つめていた。
――何で、止めたんだろ
 冬実の表情は非常に極僅かな物で、それを知る方が難しい。
 少なくとも治樹は昨日の彼女の貌はどの感情も感じられなかった。
 彼女の笑みも、怒りも知っている彼がそれを判断できなかった。
 初めて見る貌だったから判らなかったのかも知れない。
 だから、怖かった。
――姉ちゃん、何か……知ってるのかも
 そう思うと多少おかしな話でも、それを信用するしかないのかも知れない。
 彼の利用する通学路は住宅地を迂回するような経路になる。
 住宅地のはずれに学校があるからというのもその理由だが、通学時間帯の住宅地付近は特に車の交通量が多いのが最大の理由だろう。
 その点住宅地を囲うように走る小さな歩道は狭く、街の中央とは逆方向になるので通学、帰宅の時間帯の車の量は必然少なくなる。
 学校から下り、信号がある交差点を越えれば住宅地になる。
 そこを曲がってしばらく進めば駅前まででられる。地図に示された公園は丁度駅裏と住宅地を挟んだ間にある。
 彼は知らないが、駅の裏側は古くからの繁華街で奇妙に入り組んだ形になっていたためか、公園が多い。
 駅向こうの繁華街とこちらに比べると圧倒的に数が違う。
 山の手までは行かないのだが、それでも多く茂った木々が綺麗な公園だ。
――どうせ植林だろうけど
 小学生の時に強引に集められた緑化募金を思い出して肩をすくめた。
 そのせいだろう。必然的に駅裏は公園で分断されるという、当時の市長の政策は目的を大きく裏切ってしまった。
 交差点を折れると、コンクリでできた塀が続き、公園まで伸びている。
 センターラインが引かれた道路にもあまり車が走っていない。
 彼はその、唐突に人気が切れて自然が迫り出した場所に足を踏み入れた。

  ひゅ

 多分。
 空気を切り裂く音に気づいた時には、遅かったのだろう。
 大きく視界が揺れて、ぶれて認識のできなくなった風景と顔と胸へのしかかるような砂利の感触に続いて。
――集団の気配が襲いかかってきた。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、四、五…十二まで数えて、彼は上半身を起こそうとした。
 一番近い気配が二つ、彼を押さえ込んでいる。
 一つは背中、一つは彼の右横で肩を動かないように砂利に押し当てている。
 倒れている自分に気づいた治樹は、胸の下にある尖った石からくる激痛を堪えて顔を振った。
 その途端に彼は頭を押さえつけられると同時、首筋に冷たい痛みと同時に、液体が流れ込んでくる感触。
 ぴくぴくと身体が引きつり、そんな事お構いなしにそれは彼の身体を内側から浸食していく。
「出来たか?よし、そのまま引きずってこい。入り口をふさぐな」
 かしゃん、という小さな金属音の後男の声がした。
 大人に知り合いはいない。確かに恨まれる覚えもあるし、幾つか喧嘩で潰したチームもある。
 尤も、そいつらは同級生か違っても一つ二つしか変わらない連中だ。
――まさか、やくざか
 にしてはやり方がチープだ。
 男の指示で気配が二つ、彼の後ろに移動していく。
――入り口は固められたか…
 意外な力で地面から引き剥がされ、彼は抵抗する気力を失っていた。
 一度に三人も相手にできるはずがない。なのに――ここに、残り十人はいる。
「…ふん、お前が真桜治樹だな」
 声を出したのはやはり見覚えのない男。
 多分高校生だろう。彼はそれを見て安心した。
「判っててここまでするんだろうが。んだよてめぇは」
 ひくっと男の頬が引きつる。
 意外だったのだろうか、怒りと言うよりも哀れみに似た貌でゆっくり近づいてくる。
「お前ら、姉弟そろって性格悪いんだなぁ。…目上の人間に対する口の利き方を知ら」
 激痛。
 ん、と発音しながら、思いっきり踏み込んだ拳が鳩尾を叩いていた。
 抉るように痛みが走り、拳が引かれた途端胃液が逆流するのが判った。
 顔を下に振ってむせながら、彼は殴った相手に唾をかけようと顔を上げる。
 だが相手は既に遠く離れてしまっている。
「だから、お前誰なんだよっ……俺に用があるんだろうが」
 痛みより怒りで頭が白くなっていく。
 指先が震える。
 男はにやにやと独特の嫌らしい笑みを浮かべて、そんな彼の姿を見下ろしている。
「んーん、俺達は用がない。…でも、お前の姉貴は、お前に用があってここに来るだろうな」
 さあっと治樹の顔から血の気が引く。
 彼の顔が面白かったのか、彼の様子に腹を抱えて嗤う男。
「まさか、お前らっ」
「ああ、お前を餌にして冬実を呼ぶ。あの野郎、俺を道路に突き落としておきながらまだ学生やってるんだろ!」
 先刻まで笑っていた彼は、それを忘れたのか眉を吊り上げて怒りを顕わにする。
 だがすぐに口元を笑みの形に変えて、もう一度顔を近づけてくる。
「だからだよ、お前は餌で、かつ良い道具なんだよ。お前がいないと話にならない」
「何をするつもりだ」
 治樹の問いに、彼は本当に嬉しそうに冥い笑みを湛えて。
「んぁあ?冬実をやっちまうつもりなんだよ」
 その顔が大きくぶれる。
 遅れて、左頬に激痛。口の中に広がる鉄の味に、彼は血の混じった唾を吐き捨てる。
――歯は欠けてないか
 じゃりじゃりした感じはしない。
 何故か冷静にそんな感想を抱いた。
「お前の目の前でひん剥いて回してやるよ。ここなら人も寄りつかねえだろうし」
「な」
 くくく、と嗤うと目で周りにいる連中を見回す。
「まさか、姉ちゃんを呼んでるのか」
 ふとあの眼鏡の男の事を思い出した。
 少なくとも彼の視界にはいない。見張りで外に立ってる奴らだろうか。
「いや、これから呼ぶのさ。……言わなかったかな、お前は餌なんだよ」
 もう一度鳩尾に激痛。でも、もう感触がはっきりしない。
 痛いはずなのに、痛みとして認識できないのかも知れない。
 それを見た男はくすくすとおかしそうに笑う。
「お、効いてきたみたいだな。もうすぐ楽になるぜ」
――野郎…
 彼の言葉通り、皮膚の感覚がまるで熱病にでも魘されているように曖昧になる。
 舌先がしびれる。
「お前を動けなくしてから、呼びに行くんだよ。勿論穏便に、な」
 男の右手が伸びてきて、髪の毛を鷲掴みにして無理矢理顔を上げさせる。
 治樹は痛みに顔をしかめながら男を睨み返す。
「よぉく見ておけよ、お前の大切な姉ちゃんの悶える姿を。忘れられなくさせてやるぜ」
 下卑た笑い声が響く。
――こいつら
 まだ治樹自身は気がついていなかった。
 彼の感じている怒りが、同族に関わる事だと言うことを。
 それが怒りだけではない事に。

 公園に入った時に、既に彼の中で何かのスイッチが入っている事に。

「そうだな、最後にやらせてやってもいいぞ」

  ぶ つん

 そしてそれが最後の引き金になった。
 先程まで数を数えていた『気配』はより濃厚に、下手をすれば姿形は愚か指先の動きまで見なくても判る。
 息遣いや――そう、まるで表情まで判る気がする。
 めりめりという音を立てる全身の筋肉。
 縄を締め上げたようなその音に、異様な気配に彼を押さえ込んでる男が怪訝そうな顔をした。
 だがすぐにそれが激痛と後悔の顔に変わる。
 左右から腕をひねり上げている男達の力を遙かに上回る力で解かれた上、手首を捕まれて逆にひねり上げられたからだ。
 まるで冗談か漫画のようにくるんと宙で一回転する身体。
 そして、簡単な音がして彼らは迫る地面へと激突した。
「な」
 ぐったりと動かなくなる、先程まで治樹を縛り付けていた縛め。
 治樹は、容赦するつもりはなかった。
 解き放たれた獣と同じ。
 目の前にいるのは、敵だ。腐った獣だ。今すぐに消さなければ、禍根を残すことになる。
 残さないためにはどうすればいいのか。
――無論簡単な事だ
 治樹は思考をしながら口元を歪め、僅かばかり重心を低く構える。
「殺す」
 殺してしまえばいい。一人残らず、死体に変えてしまえばいい。
 どうせ、こいつらを殺したところで誰も困りはしない。
 彼は左手を突き出して、地面を叩き付けるように蹴った。
 まるで凍り付いたように驚きの貌のまま、硬直している男に向けて治樹は右腕を振りかぶる。
 先に延ばしておいた左手を素早く引きながら、右腕が伸びる。

  ぱきん

 乾いた甲高い音がして、彼の拳は男の右顎を捉えた。
 そのまま身体を勢いで反対にひねりながら、今度は左拳で同じように顎目掛けて拳が走る。
 良い手応えが、彼の左拳に返ってくる。
――来る
 左右から二人。
 前から五人。
 後ろの気配二つはまだ動かない。
 身体を沈み込ませて、まるで冗談のように彼の身体が真横に疾った。
「!」
 反応する、
  隙なんかない。
 左から襲いかかった男は自分の目の前で旋風のように舞う黒い塊が一瞬見えただけに過ぎなかった。
 右の男は、それが跳ね返ってくるように自分に襲いかかってくるのが判っただけだった。
「はは」
 治樹の口から笑い声が零れる。
 ほとんど身体を真横のまま地面を蹴って、左回転しての左脹ら脛による『裏脛脚』。
 勢いを残さずきっちり身体を弾き、飛ぶように反対側へ浴びせ蹴り。
 身体が動く。それも思い通りに、決して澱む事なく。
 気配が動かなくなるように――二度と思い出せないように!
 ぐしゃりという、何とも言えない肉を叩く感触。
 そして拳から手首、肘にかけて伝わる冷たくて堅い――そう、骨を殴った時に覚える快哉。
 全力で振り抜く時に感じる風切り音に、総毛立つような快感。
 拳の先にあるモノが、滅びていくのを感じる脱力感。
 それらすべてが今、彼にとっては堪らなくて、理性という枷が完全に働きそうになかった。
 何故か彼の今の快哉全てが、彼の周囲を駆け抜けていく風のようで。
 視界が丸く小さく、彼の見ているモノはまるで映画のように。
――俺はなにをやっているんだ
 だから。
 彼の『理性』から見たその風景は、異常としか言いようのない風景だった。
――やめろよ、死んでしまうだろ!やめてくれ、お願いだからやめてくれ――!
 でも快哉は止まらない。
 その感覚が、『ヒトをコロす』という一点に対して大きく揺らいでいるから、

  身体が求め

           ココロが喘ぐ

 そんな言い訳のような矛盾。
――でも許せない、でも殺しちゃいけない
 今度は彼の理性に対して即座に応答があった。
『何故。何故、俺はヒトを殺しちゃいけない』
 それが何の声なのか、考えるまでもなく治樹は応える。
――当たり前だ、それは良くないことだ
『良くないこと?何故良くない』
――ヒトがヒトを殺すなんて間違ってるからだ
 当たり前の事に対してあんまりにも意外な返答に彼は怒りを覚えた。
 だが『彼』は応える。
『そうか、だったら構わないだろう。俺はヒトなんかじゃない』
 そして尤もらしく首肯する。
『ヒトの決まりを守らなければならないのはヒトだからだ。ヒトでないものはヒトを狩らなければならない』
――何故


「ヒトは我々を脅かすからだ」
 治樹はほとんど動けない男にそう言い捨てると、路地に逃げ込もうとするもう一人に襲いかかる。
 真後ろからタックルでそのまま引きずり倒し、まず掌底を後頭部に打ち込む。
 向こう側でアスファルトに潰れる貌に悲鳴。
 感触を楽しむ間もなく、彼はそのまま髪の毛をつかむと身体を引きずりあげる。
 手を離し――同時に一回転して足の裏で顔面を強打。
 コンクリートの塀に後頭部をぶつけて、反射的な呻き声が上がる。
 べとりと暗い赤い色を残して地面に崩れるそれに、彼はさらに上乗りになって拳を振り上げた。
 もう、倒れている少年はその拳に畏れる事もままならなかった。

「なんだよぉ、付き合い悪いな」
 僅かに丸みのある、柔らかい声で避難されて実隆は眉を顰めて反論する。
「普段から部活部活って言っておいて、んだよそりゃ」
 当然のように吐き捨てる実隆に、まるで子供がするようにおろおろとする隆弥。
 実隆はむっと彼の態度に貌をしかめる。
「あーにーきー、いい加減にしろっ、たく…」
「あははは、まぁまぁ。駅前に行くんだったらついでにうすかわまんじゅう買ってきてくれるかな?」
「なんだそりゃ。スーパーで買えばいいだろ」
 うーん、と困ったように彼は顎をなでる。
「うん、ちょっと用事があって。駅に行くと大きく遠回りになるんだよ。それにあの北村屋のアレは最高な」
「あーわかったわかった、駅裏の北村屋だな。場所は判ってる」
 何故か隆弥は日本茶と御茶請けに詳しく、妙にこだわっている。
 講釈がまた始まりそうだったので、大慌てでそううち切ると彼は残念そうに眉を寄せる。
「……どうしてミノルは、饅頭と日本茶の話になると冷たいのかな」
「しつこいからだよ」
 ふう、といかにも呆れた風にため息をついて肩をすくめてみせる。
 即答だったので隆弥は悲しそうにしょぼくれる。
「ともかく判ったよ、ついでだから買ってきてやるよ。でも部活外の用事って、珍しいな」
 彼は眼鏡の向こう側で数回目を瞬かせる。
 そして、にっこりと笑って応える。
「野暮は言いっこなしだよ。まんじゅうよろしくー」
 実隆は肩をすくめると右手をひらひらさせてそれに応えて、鞄を左手で肩から背中に引っかけるように背負う。
 今日は菜都美も何か用事があるとか言って、さっさと帰ってしまった。
――もしかして、菜都美の奴と?
 それはそれでアリかも知れない。
 そう思った途端、何となく苛ついて今の想像を忘れることにした。
 用事と言っても然したる物ではない。駅前のCD屋に予約していたアルバムが入荷したらしいので、取りに行くのだ。
 遠回りになるので今日は部活がないはずの隆弥を誘ったのだ。
――いいや、家に帰って自転車だな
 駅前まではかなり距離があるが、自転車なら往復しても気になるほどの時間ではない。
 仕方なく小走りで家に帰ると、自転車を取って駅へと折り返した。

――あぶねー
 隆弥の用事がどれだけかかるか判らないが、駅を二回も往復する気はない。
 彼はCD屋の前で自転車の鍵を外しそうになって、隆弥の用事を思い出した。
 北村屋という名前の和菓子専門店がある。別の用事ならまだしも、饅頭の事に限れば隆弥の性格が変わる。
 下手すれば竹刀でめった打ちにされかねない。
――それも泣きながら、な…
 ため息をついて彼は頭をぼりぼりとかく。比較的距離は近いから、そのまま自転車はおいていく事にする。
 近道のつもりで裏路地に入った途端、彼は奇妙な光景を目にした。
 彼の目の前に、ぼろ切れの塊のようなものが路地から投げ捨てられたのだ。
 いや、ぼろ切れじゃない。そう見えたのは恐らくは学生服の成れの果てだろうか。
――!
 ひどい有様だ。それは元は人間だったものらしい。
 ぐったりと力無く彼の前で頽れて、顔面を地面に突っ伏している。
「おい、大丈夫…」
 思わず抱き起こして、危うく彼を取り落としそうになる。
 顔面はぐしゃぐしゃで、自分の血にまみれていて誰なのかすら判別できない。
 勿論意識なんかありそうにない。呼吸があるのがせめてもの救いだろうか。
――酷えな
 どうやったらここまで出来るのか。
 どうしてここまで出来るのか。
 その必要があったからなのか?それとももっと別の何かがあったからか?
 何にしても、今まさにここにこれだけのことをしでかした奴がいるはずだ――
「はははははははははは」
 湿った何かを打ち付けるような鈍い低い音に混じって、甲高いそんな声が聞こえた。
 彼の視線は自然とその声のする方へ向けられていた。
 黒い光沢――粘りのあるタールのような液状のものにまみれ、構わず腕を振るう少年に彼は見覚えがあった。

「こら、坊主、何やってやがる」

 それが、実隆の出来る精一杯のことだった。
 実隆の声に治樹は振り上げた拳を止めた。
 つう、と彼と足下との間に糸を引く液体が、彼の拳の下で雫になって糸を切る。
 まるで油が切れた人形のようにごくゆっくりと顔を彼の方に向ける。
 瞳は濁り切っていて、まるで夢でも見ている人間のようにとろんとした貌で。
 多分あの瞳には実隆はおろか、なにも映っていないだろう。
「お前」
 実隆は言葉を失った。
 そこは血の海だった。
 一人の青年だったモノの上にぺたんと座り込んでいるのは、血にまみれた顔だが間違いなく治樹だ。
 そして惚けた彼の周囲には、同様に血を流していたり血で汚れた青年らが転がっていた。

 拳を止めるつもりはなかった。
 でも、周囲に満ちたいやな気配の正体らとは違う、色の違う物が近づいてきているような気がした。
 だから確かめようと顔を上げた。
 先刻までここにはいなかった人間がそこにいた。
――……ナツ姉の、彼氏…だったよな
 ぼやっとソフトフォーカスのかかっているような彼の視界に、見覚えのある青年が顔を歪めて立っていた。
 治樹にとっては特別でも何でもない男。
 でも。
――全然、いやな感じがしない
 だから、彼は拳を下ろした。もう上げている理由が思いつかなかったから。
 彼が口をぱくぱくさせて近づいてくる。
 でもまるで自分の耳ではないようにごうごうと血流の音のような物だけが聞こえている。
 ほかには何も聞こえない。
 聞こえていない。
 でも、彼はぺたりと座り込んだ彼を見つめて何か言っていた。
 その様子が奇妙なぐらい悲しくて、寂しくて、治樹は数回瞬いて体を起こした。
――痛い
 見れば。
 殴りすぎたせいだろう、拳にまみれた血に隠れてだが、骨が見えていた。
 もしかすると打撲と、骨折もあるかも知れない。
 急で無茶な動きだっただけに全身の筋肉も引き連れたり痛みが激しい。
「…ぃんへ行けよ、おい、聞いてるのか?」
 力強く彼が両肩を掴んだ。
 どう応えて良い物か判らず、慌てた素振りの彼をきょとんと見つめると、治樹は一度頷いた。
 判らない。判らないけど判る事は一つ。
――この人は、敵じゃない
 治樹はそのまま、まるで幽鬼のようにふらりと彼の腕から逃れると、ゆっくりと路地の奥へと歩いていった。
 それ以上声をかけても実隆の声に振り返ることすらなく、やがて見えなくなってしまった。
 実隆も追いかけていいものか判断できず、周りの惨状にも対応するべきか迷って背を向けた。
――救急車ぐらい、呼んでやろう
 彼の出した結論は、あくまで偶然を装うことだった。

 冬実は戸惑っていた。
 何も部活にも参加していない冬実が帰宅するのは早い。
 だから、いつも遅い治樹を出迎える。
「ハル…」
 どうしたの、とは言えなかった。
 全身から漂わせる血の臭いと、傍目からも判る内出血の痕、それは明らかに『自損』の傷だ。
 滴る程傷ついた拳に虚ろな目をして彼は玄関に立っていた。
「ただいま、姉ちゃん」
 何事もなかったように言い、へたりと玄関に座り込む。
 慌てて彼の側につき、彼女は両膝をついて彼の側に寄る。
「ちょっとハル、あなたこの格好」
 離れたところから明美の声が聞こえた。
「明美姉さん」
「どーしたの、玄関でそんなに騒いで。みーちゃんにしちゃ珍し…」
 玄関に顔を出して、彼女も口ごもるように黙った。
「……はるくん、それ、喧嘩の痕ね」
 明美の声に、治樹は一度顔を向けて、もう一度戻して靴を脱ぎ続ける。
「……うん」
 顔を上げる冬実と明美の目が一瞬合い、明美は頷いた。
 冬実が治樹の両肩をぽん、と叩いて彼の隣で靴を履き始める。
 顔を向ける治樹に冬実が微笑み、靴を脱ごうとする彼の手を押さえる。
「姉ちゃん」
「ちょっと待ってなさいね、保険証とお金を持ってくるから」
 そんな二人に明美が声をかけて、とことこと家の奥へと消えていく。
「病院で話は聞くから」
「姉ちゃん、あの、俺…」
 言いかけて、それでも治樹は言い淀んで戸惑う。
 冬実はさっさと自分の靴を履いて立ち上がる。まるで治樹を無視するかのように。
「ゆっくり話すわ。思ったより早かったから…まだはっきりしていないでしょ、自分の事が」
 再びぱたぱたと足音を立てて明美が現れる。
 冬実はお金と保険証を受け取ると頷いて、治樹の腕をとった。
「じゃ、行って来ます」
「痛、痛いよ姉ちゃん、自分で歩くからそんなに引っ張らないでよ」
 冬実が治樹を引きずるようにして出ていくのを、明美は眉を寄せて見送っていた。
――深刻…ね…
 彼女は両腕を組んで眉根を寄せた。
 そしてこの場に菜都美がいない事に感謝した。
 明美に見送られた冬実は、あんまり恥ずかしがる治樹の腕を解放して、彼を見つめながら歩いていた。
 隣、すぐ側で血まみれの拳を隠すようにして片手で覆う治樹は、時折冬実の方に目を向けるだけで何も言わない。
――変
 彼の態度。
 彼の『雰囲気』。
 冬実は彼に違和感を覚えていた。
「喧嘩」
 治樹は彼女の言葉にわずかに目を、彼女の視線と合わせる。
 その瞳の奥を見透かせるよう目を細め、彼女は――久し振りに表情を浮かべる。
 それは怒りではなく、もっと冷たくて堅い表情。
 澄まし顔というにはきつく、怒りというにはあまりにも穏やかな――あえて言うなら能面のような冷たい微笑み。
「どうだった?」
 治樹は質問の内容に戸惑う。
 何を答えさせようと言うのだろうか。
 『何』が『どう』なのだろう。
 でも彼女は何も言わず彼の言葉を待っている。
「……うん」
 答えるしかない。
「なんか、ぶっ飛んだみたい。急に…」
 そう。
 そう言えば大事な事を思い出した。
 彼は左手で自分の首筋をなでる。何かを突き立てられたような気がする。
 でもその記憶が、何故か白濁とした液体の中につけられたかのように。
 白く。
 ただ白くとしか記憶がない。
「……ハル?」
「あ、いや、姉ちゃん」

  どくん

 一瞬だけ、治樹は自分の動揺の仕方に驚いた。
――なんだ?この…感覚
 指先にまで力が入らない。
 彼女はさしたる表情の変化はない。なのに、何故か、妙にその貌に惹かれる。
 できれば――滅茶苦茶にしてみたい。
 彼女が泣き叫ぶような、そんな貌を見てみたい。声を聞きたい。
 そんな獣の感覚。
「な、何でもないよ。ちょっと…さ、まだ喧嘩してた興奮が冷めてないんだよ」
 判らない。でもその興奮とは違う、それだけは彼に確信できた。
 冬実は今の言葉が嘘である事はすぐに判った。
 帰宅した時には既に彼は完全に落ち着いていた。
――落ち着いていなければおかしい
 彼が『帰宅』したのだから、彼は『家族』の中に帰ってきたのだから。
 今だって冬実が側にいる。
 なら『正気に返る』事で興奮は覚めるはず。
「ハル」
 案の定、彼はびっくりしたように彼女の方を見た。
「な、何」
「ううん」
 彼女は答えて沈黙した。
――この子は、私に近い
 冬実の結論は出た。
 後考えなければならないのは、彼の処遇だろう。
 嬉しい反面、治樹のこれからの事を考えると僅かに心の隅が痛んだ。


 よぉく見ておけよ、お前の大切な姉ちゃんの悶える姿を。忘れられなくさせてやるぜ

 息も荒く、治樹は起きあがった。
 毛布毎はね除けた掛け布団が、勢い余って部屋の入り口付近まで転がっている。
 上半身を起こし、自分の頭を片手で押さえるような格好で、彼は息を整えようと必死だった。
 あれ以来、言葉が耳元で囁き続ける。
 病院で治療したはずの拳は痛みとは別の物で疼いて、まるで別の生き物のように鼓動を受ける。
――彼女を
 囁きは止めどもなく、耳を押さえようとも外から聞こえる訳ではないから。
――貪れ
 病院で冬実の横顔を眺めた時の感情、彼女に抱いたモノを理解してから、彼女の顔がちらついて落ち着かない。
「くっ」
 恋愛とか、そう言うレベルであればまだ誤魔化しも利くかも知れない。
 もっと根元的な次元での話。
 単純に、彼女がほしい。
 それがどういうことなのか判っているから、彼はぎりぎりと歯ぎしりをして頭をかきむしった。
「畜生」
 何故そう言うことになったのか――彼には、理解できなかった。

「――急ぎましょう」
 言われるまでもなかった。
 そして、冬実が担当する事そのものに意味が出てきた。
 だから明美は僅かばかり口元を引き締めると笑みを湛える。
「そうね。とりあえず警察と櫨倉で打てる部分は打っておいたから」
 本当はできる限り誰の手も借りたくはない。
 それにここまで追いつめられるなどとは、考えていなかった。
「…冬実、早すぎると思わない」
 それは疑問形ではない。
 疑問の形をとった肯定を促す構文。
 冬実は無言で頷き、ついと目を細めて――目の前の明美ではないどこかを見つめる仕草をする。
「あの子は、幾分も私に近い。覚醒も極端に急激のようで…姉さん、他にも何か、私には在ると思うんです」
「他に…」
 明美は首を傾げる。
 前例――少なくとも、彼女が伝え聞いた口伝の中には異常な成長を遂げた前例は、女性以外にない。
 これは女である方が適しているからだという推測以外は残されていない。
 たとえば、それは冬実のような感じだったのだろうと彼女は考えている。
 だが男性では覚醒する前後に兆候があり、一度覚醒するとそれが比較的不安定になるのが確認されている。
 周期をもっている女性の体と違い、ほとんど突発的な引き金に反応するようなモノだ。
「…何か、別の要因が覚醒を促す、と言うのね」
「それが何か、そして本当にそんなモノがあるのかは判りませんが。…恐らく」
 治樹の反応と対応、そしてあの奇妙な『感じ』。
――はっきり覚醒しきっていないみたいに…でも、あのにおいは
 それだけ彼の方が化物に近いのかも知れない。
 冬実は首を振って全てを否定する事にした。
「治樹は?」
「今、部屋です。きちんと眠れていれば良いんですけど」
 二人はそこで沈黙する。
 お互い何を言おうとしているのか、そのタイミングを計るように。
「菜都美姉さんには」
「言わない。…これは、同意見ね、『冬実』」
 冬実は小さく頷いて上目遣いに明美を見上げた。
 普段はおっとりとした印象の強い彼女の目が、僅かに吊り上がって超然と彼女を見下ろしている。
 名前で呼ぶ時は、いつもそうだ。
「できる限り関与しないように」
「明日以降の治樹の行動、注意するか、拘束するか」
 拘束という言葉に冬実の眉が動いた。
「まだ、早いのでは。姉さん」
 明美の顔が僅かばかり緩む。
――いつもの姉さんだ
 冬実が安心するよりも早く、明美は言葉を紡ぐ。
「みーちゃん、じゃあ、あと何とかしてくれる?」
「ええ、全部任せて貰えるなら。明日、帰ってきたら始めます」
 視線を時計に向ける。今、既に夜半を過ぎこれから更に夜が深まっていく。
 時刻としてはそろそろ限界だろうか。
「――今から」
「ええ。準備します。もしかすると明日は、ハルは学校に行かせない方がいいかも知れませんから」
 明美は頷くとにっこりと笑って見せた。
「任せるからね、みーちゃん」
 彼女の言葉に冬実は頷いて答えた。
 冬実は自室に戻る前に一度治樹の部屋の前でたたずんだ。
 物音一つしない。
 特別何かが動く気配もない。

  ぴぃん

 刹那、電灯がまるで突然電力を落としたかのように光量を落とす。
 その僅かな瞬きは、逆に闇を光であるかのように変える。
 彼女の周囲にある空気の流れですら、彼女にとって当たり前に判るように。
 僅かな、本当に微々たる変化は、彼女にもう一度呼吸を与える。
 耳に届く音、それは壁向こうで流れる空気すら捉える。
――呼吸音
 それは――丁度、幻であったかのように、元の風景へと変わる。
「――お休み、ハル」
 意識を集中しても、彼は眠っているようにしか感じられなかった。
 どうやら危惧していたような事はないようだ。
 これなら明日学校に行っても大丈夫ではないだろうか。
――なら、私は私のできることを
 教えなければならないことを教える。
 それは、真桜に生きる者として必ず迎えるものである。
 発作的に発生する『覚醒』は、いつどこでどう起きるのかは判らない。
 肉体的にある緊張状態におかれた場合、ほんの僅かなきっかけが引き金になる場合が多い。
 このため女子の場合は通常生理が起こる以降に発生する場合が多い。
 冬実のように『極端に』早い場合にはこの限りではないらしいが、男の場合はこれがいつになるのかは全く判らない。
 きっかけもヒトによって違う為に一概には言い切れない。
 だが、どちらにせよ人間の間で生きるのに『他人(ヒト)を衝動的に壊したくなる』ような『病気』では困る。
 だから、自分の事をまず知らなければならない。
 真桜の『覚醒』を果たしたものは、どうやってこの先を生きなければならないかを学ぶ。
 それも先達によって。
 通常親、さもなければ血縁のできる限り近しい者。
 明美は父が、菜都美と冬実は明美が、それぞれ教え込んだ。
 それは――簡単に言えば相手を容赦なく打ち据えるのだ。
 最悪の事態が起きた場合はそのまま、殺さなければならない。
 彼女が『用意』するのはそう言った実際の行動を伴う物と、教えるべき内容の事だ。
 本来で在れば準備する期間はもう少し合った方がいい。
 でも例になく早い彼を押さえ込むのは、もしかするともう差し迫っているのかも知れない。
 冬実は過去、自分に叩き込まれた『口伝』を思い出さなければならなかった。


  かたりかたり

 言葉に直すならそんな、硬質な木がうち合わされるような音が聞こえていた。
 もしくはもっと甲高く、丁度昆虫がきちきちと音を立てるような感じだろうか。
 イメージは断続的に視界の前で形を作り上げていって。
――ん
 そこは通学の途中にある川の側だった。
 でも時間がおかしい。真夜中も良いところ、真っ暗な闇の世界が広がっている。
――あれ、ここは
 ここにくる理由はない。第一、寝床から起き出した記憶もない。
 更に欠落した記憶は訴えかけてくる。
――俺はどうやってここに来た?
 勿論車でも、空を飛んだ訳でも、まして泳いだり地中を進んだはずはない。
 歩いた記憶すら欠けた今のこの状況下で、でもそんな冗談では済まされない。
――それに、なんだか…妙に
 視界が白い。まるで眩しいのか夢でも見ているのか。
 そう感じた瞬間、くらりと目眩のような物が襲ってくる。
 全身が脱力する。
 なのに逆に研ぎ澄まされていく感覚。
 それは空間に体を溶かし込んでいくようで、力が抜けた体は作り物のように動き始める。
 それが、意思であるとでも言いたげに。
 何も考えられない。
 体が動く。
 何も考えたくない。
 体は動く。
――そうだ
 鈴の鳴るような声が聞こえた。
 いや、そんな気がしただけだ、実際にはそんなはずは有り得ない。
 だって、もう耳には音なんか入ってこないんだから。
 ごぉという、自分の体内が立てる生命の音だけが耳朶を打ち続けているんだから。
 きりきりと絞り込まれていくように、体が立てる音が判る。
 指が動いた。
 肘が曲がる――筋肉が軋みをあげて力をためていく。
――あれ?
 それは思考の外側にある違和感。
 何故体の動きが、判るんだろうか。
 いやそうではなくて――もっと根本的に違う。
 なのに彼はそれが何なのかを思い出せない。
 判らない。
 白濁とした意識の波間に、理性の欠片のような物が僅かに浮かび上がって――そして、理性が外界を把握する。
 その瞬間だけ、僅かに自分が何をしているのかを理解する。
 そんな僅かに浮かび上がっている意識が漂う間、彼は自分が先刻とは全く別な場所にいる事に気がついた。
 真っ暗で据えたコンクリの臭いのする場所。
 日の光はないが、何故かそこに立ちすくんでいる事は判る。
「一応捕まえては来たが、どれだけ使い物になるのかは不明だ」
「使えるかどうかはあまり関係ない。……ふふ、ミノル、嫉妬じゃあるまいな?」
 ああ、と治樹は納得する。
 この声だ。
 さっき聞いたような気がした、あの鈴の鳴るような声はこの――女の子の声だ。
「黙り込むな。――こいつは、お前とかなり異なっていたから抽出した。…なに、実験するだけだよ」
 彼女の声が遠くなる。
 でも今度は先刻までのような『消える』感覚とは違う。
 むしろチャンネルとチューニングを変えたみたいに視界がモノクロに墜ちる。
 体が、今度は機械でも動いているような躍動を始める。
 そして意識が、冷たく白く細く絞り込まれていく。
――やれ
 そんな命令を受けたような気がした。
 同時世界が紅く染まる。
 意識では多分理解しているんだろう。
 でもそれでも、視界が訴える情報を意識は理解しようとしていない。
 ヒトの姿をした者。
 うつろな目でこちらを見返す者。
 数人――そう、精確にそれは三人の、同い年位の少年がいた。
 場所は8×8m程の小さなコンクリの空間。
 先刻の声の主は自分の後ろに二人。
 でも、それを攻撃してはいけない。
――まっすぐだ
 体は、覚えているのか滑らかに空間を滑り、床を蹴る。
 素早く上半身を反らせて――両腕を一閃。
 ほとんど動きもしない一人は簡単だ。それだけで肩の形が変わって壁際まで吹き飛んでいく。
 踏み込みざま体を捻り、隣の一人に向けて左足で蹴りかかる。
 これも簡単だった。それだけで体を逆のくの字に折り曲げると床を転がっていく。
 最後の一人、これに向き直っても彼は自分の事と状況を把握していないのか、ただひたすら天井を見上げていた。
 そこに。
 体を滑り込ませようとして――足下が滑った。
 ぬるりとした、水よりも濃い液体がそこに満ちていたらしい。
 油に足を取られるのと同じ条件で、治樹は踏み込み損ねて床を転がる。
 同時に、ざばっという音がして――目の前で、立ちすくんでいた男が弾けた。
「ふむ――こちらは使い物にもならないな」
「……言われたとおりに人選したからな」
 ぴちゃ、ぴちゃと液体の滴る音がする。
 体が、粘っこい。
 動きが突然鈍くなった気がする。
 治樹は自分の意識が再び明滅していくのを覚えた。
――これは夢だ
 意識は、正気が彼に訴えかける。
――こんなものは夢だ
 しかしそれは、もう一人の人間も同時に見つめる夢。
 脂ののった赤黒い液体に満たされた、まるでホラー映画の一場面のような部屋。
「――ミノル」
 先刻から聞こえていた鈴のような声。
 少女の声が、険のある言葉遣いでもう一人に声をかけている。
「なんだよ」
「お前、頭から被ったな。臭くてかなわない――さっさと水でも浴びて流せ」
 少女とは思えない程強気な声。
 だが男から反論が聞こえるよりも早く、治樹は意識を沈黙させていった。
――こんな夢、早く醒めれば……
 彼が意識を失うと同時に、再び彼の体はそこに起きあがっていた。
「――ふふん、面白いサンプルだ。……尤も、コントロールできるかどうかはこれからだがな」
 一人血の海にたたずむ少女は、自分の目の前にいるやはり血まみれの彼を見つめて呟いた。
「ミノルとぶつけるか――いや、調整が間に合わなければ『クスノキ』に殺らせるか」
 そのために奴らはいるんだ――彼女は含み笑いをコンクリの部屋に響かせて、天井を仰いだ。
 穹は、見えなかった。


 その日の朝。
 冬実はいつもよりも早く目覚めた。
 しかしそれは、セットしておいた目覚ましよりも早く起こされただけで、別段健康的な話でもなかった。
「冬実!」
 それも扉を叩く酷い音で、だ。
 のそり、とベッドから身体を起こすと同時にドアが叩き開けられて、凄い顔をした菜都美が飛び込んできた。
「…何ですか?朝っぱらから…菜都美姉さん」
「治樹がいないのよ!」
 もう一言ぐらい文句を言ってやろうと思っていた冬実の、寝ぼけた目が丸く大きくなる。
「姉さん」
「冗談なんかじゃないわ」
 二人とも寝間着のまま、冬実は部屋の入り口にあるスリッパを突っかけて治樹の部屋に向かう。
 子供に開放している二階にある部屋は洋間で、全て扉になっている。
 だがどの扉も鍵はついていないので、かけることはできない。
 当然のように手を伸ばした菜都美はドアを開ける。
「ほら」
 軋む事も、抗議する事も。そして挨拶する事すらもなく異邦人を受け入れた。
 主がいないその部屋は冷え切っていて、閑散と、だけではなく――奇妙に片づけられていた。
 ベッドにも乱れはなく、机にも何も散らかっていない。
「……菜都美姉さん?」
 冬実は眉を寄せて姉の顔を見上げた。
「ううん、あたしが起きた時には」
 菜都美は朝が早い。朝練の時の癖だけではなく、自分で弁当を作っているからだ。
「明美姉が先に見つけたのよ。…それで冬実を起こしたんだから」
 菜都美と冬実が階下に降りると、キッチンでは既に明美がコーヒーを飲んでいた。
 彼女は明るく笑いかけて、コーヒーメーカーからコーヒーを注ぎ、菜都美に勧める。
 その間に冬実は冷蔵庫を開けて自分の分の牛乳をグラスに注ぐ。
「朝ご飯には早いけど、もう準備できてるよ」
 言いながら卓にサラダと目玉焼きの乗った皿を運ぶ。
 菜都美はコーヒーを傾けながら明美が卓につくのを待つ。
「…明美姉」
「なっちゃん、慌てないでよ。さてとみーちゃん。話は聞いたと思うけど」
 こくん、と冬実は頷く。
「私が昨日寝る前に確認した時には、しっかり寝てました。だから多分、朝早くだと思います」
 ふぅん、と明美は言いながら首を傾げる。
「んだったら、なっちゃん、わたしが起きる前の話になるでしょ」
 明美が起きたのは朝五時。大体いつも通りだし、彼女も何の物音も聞いていない。
「でも治樹が寝た形跡があの部屋になかったし、夜中のうちかも知れない」
 菜都美の意見を聞きながら探るように視線を冬実に向ける。
「見つけられそう?」
 少しの間思案するように目を閉じて、明美の問いに、冬実はゆっくり首を振る。
「難しいと思います。…ハル、何だか普通とは違うようです」
「違う?」
 菜都美の声が若干興奮気味に裏返る。
「違うって」
「……姉さん、薬、飲んだことはありますか?」
 冬実の質問に、菜都美は眉を寄せて応え、冬実は言葉を紡ぐ。
「何故、『漢方薬』以外の薬を飲もうとしないんですか?」
 冬実は問うが、その回答を期待していないのはもう明らかだった。
 菜都美は唇を噛んで、かぶりを振った。
「知らないよ。それが当たり前だって思ってたから」
「私は飲んだことがあります。…小学生の時に、保健室で」
 彼女たちはそれが当たり前だったから、気にしていなかった。
 風邪や簡単な病気は、いつも母親が病院に電話をして医者が回診に来ていた。
 その時出る薬は、全て漢方薬で、家にある置き薬も全て漢方薬だった。
 人の手が加わるのは、せいぜい加工の段階だけである。
「あれは親切でやった事だったから、仕方ないわ」
 菜都美を視線だけで制して、冬実に続きを促させる。
 こくん、と小さく頷いて続ける。
「ハルの意識が、妙に『心ここにあらず』の状態が続いてました。病院を往復する間も、治療する間も」
「…薬を飲んだって、そう言うの?」
 菜都美が激昂するのを、抑えるように冬実は冷たい視線を彼女に向ける。
「ええ。そうでなければ説明できないことも多いんです。…菜都美姉さん、試しに胃腸薬でも飲んでみますか?」
「みーちゃん、喧嘩売ってないで。まあどうせこうやって話し合ったとこでどうにでもなる訳じゃないから」
 がたん、と菜都美が立ち上がる。
 一瞬視線が交錯して、でも菜都美は何事もなかったようにくるっと背を向ける。
「制服に着替える」
 そのまま振り向きもせず、彼女は走り去っていった。
 明美が非難の目で冬実を見る。
「みーちゃん、やりすぎ」
「…何も教えていない姉さんに、何も言われたくありません」
 冬実はきっ、とつり目を鋭くして睨む。
「何で菜都美姉さんがあんなに自分の事を知らないと思ってるんですか。…明美姉さんのせいでしょう」
 明美はにこにこ顔を崩さずに視線を受け止めて、ため息をついて自分の両手を重ねる。
 冬実は僅かに退いた――大抵、明美が非難を無視するように受け止めた時は『敵わない』事の方が多いから――。
「あなたも気づいていないのね。…なっちゃん、『ヒト』なのよ」
 え?と冬実は眉を寄せる。
「殆どね。あなたやはるくんみたいに『純血』に近いとそうでもないのかも知れないけど」
「どういう意味ですか?だって」
 冬実は明らかに動揺していた。表情を変えることのない彼女が目を丸くしている。
 ふふ、と明美は優しい声で笑うと今度こそにっこりと笑みを浮かべて。
「…確かに彼女も『真桜』の人間だけど、影響を受けているだけよ」
 冬実は絶句して、彼女から目を逸らせてうつむいた。
「母さんがごく普通の人間だもの。それに似てないように見えるけど、母さんそっくりだから、あの娘」
 そうなっても不思議ではない。
 沈黙が僅か続いて、階段を下る音が聞こえた。菜都美だろう。
 無言で菜都美は自分の席に着いて、トーストを手に取る。
「ハルが喧嘩をした相手が、ハルに薬を使った可能性はあります」
「そう考えるのが無難ね。…あの子、付き合ってる連中がたちの悪い奴らが多いから」
 菜都美は一瞬明美に視線を向けてからトーストをかじる。
 しばらく彼女の咀嚼する音だけがその空間を支配する。
「…帰ってくる、って事は考えないのね」
 いつの間にか台所の入り口に母親がいた。
 右手にハンガーに掛かった、治樹の制服を持っている。
「あの子多分寝間着姿よ。どこに行ってるとしても、一度着替えに帰ってくるわよ」
 そう言って時計を指さして腰に手を当てる。
「話し合ってても治樹は帰ってこないんだから、さっさと食事してさっさと学校いきなさい」

 本来なら依頼する必要性もなかった。手元にいる――そう、ミノルが動けばいいはずだ。
――でも、ミノルをぶつけるよりもあいつらを利用した方がたやすい
 金で解決できるならその方がいい。ミノルはまだ体内にあるLycanthropeが不安定なのだ。
 握りしめた自分の携帯電話をポケットに戻すと、彼女はミノルを呼んだ。
 数分もしないうちに彼の声が聞こえた。
「なんだ」
「例の実験体、処分する」
 するとミノルの顔色が変わる。
 驚きというよりも、それは怪訝そうというべきか。
「お前らしくない。何が不服か」
 不服と言われてミノルは首を傾げ、ゆっくり横に振った。
「いや…あれだけの結果を出した割にすぐに捨てるんだなと思っただけだ」
 今度は逆に、彼女――リーナの方が不振そうに、そして不愉快げに顔を歪める。
「結果は出た。確かに面白い結果だ。お前に通じるところがあるのに、お前程丈夫ではなかったからな」
 そして、彼女は何かを案ずるように一度眉を寄せてミノルを見つめて。
「しかしコントロールできない兵器程手に負えないモノはない。心しておけ。ああ、それと」
 付け加えるように彼女は呟き、口元を歪めて笑う。
「始末には始末屋を使う。悪いが依頼に出張ってくれ。但し気をつけろ、油断していれば寝首をかくような連中だ」
 全く、とリーナがひとりごちるのを、ミノルは聞き逃してしまった。
――どうして、こんなにも役に立たないものばかり完成してしまう……
 今朝呼び出した新しい実験体。これはあまりにもおかしな挙動を示した。
 確かに今までに見たくだらない失敗よりは面白い結果があった。
 恐らくそれが『適性』と呼ばれる物ではないだろうか。
 彼女は何となくそれを実感した。
――記憶には確かに、そう言う物があるらしいことは……
 ヒイラギツカサの記憶の一部には個体差を強調したようなイメージで存在する。
 だがそれが、明らかに『特定種族』に対して偏重したようなイメージなのだ。
 今朝からずっとアクセスしている新しい実験体、奴は、彼女の完全な支配下にはない。
 不思議なことに命令を無視する事があるのだ。
 こちらからの直接的な指令すら受け付けない『タイミング』がある。
 それはまるで一瞬目が覚めているかのように。
 恐らくその瞬間を狙われた場合。
――全く困った物だ。いや…
 ふとリーナはミノルを見返した。
 彼は彼女のそんな態度に眉を寄せて訝しげに睨み返してくる。
――もしかすると、こいつと同類なのかも知れないがな
 鼻を鳴らして馬鹿にしたように嘲笑を浮かべてやる。
「どうした、早く行け。但し途中で、奴らの『駒』には手を出すなよ」


 その日は特別な事は何もなかった。
 本当になかったわけではない。実際、奇妙な異変が先日から続いている。
 それが人間に及ぼす影響があるかどうか、そんな事は余り関係がなかったが。
『――始末屋を、貸して欲しい』
 しかし、その一本の電話は異変をそのまま自分で解決すべき領域へと変化させた。
 悠に一年以上はブランクがあったが、そもそも『家』というものは依頼を受けるためにある。
「はい」
 だから電話の声に、彼女は本来の立場に戻る。
 自分が抱える手駒は、常に一人。
 依頼が在れば伝えなければならない。
「判りました。ヒイラギツカサさんで、よろしいのですね」
 彼女は電話の下にあるテーブルの引き出しを開いて、普段使うメモとは別のメモを取り出す。
『ああ。…それで、目標はどうやって示せばいい』
 相手の声は子供のようだが、そんな事は気にする必要はない。
 情報提供者が何者であれ、境界を護る為には喩え相手が『化物』であっても関係ない。
「氏名で結構です。もし判らなければ、外観だけでも」
 一瞬思考するだけの沈黙が、会話をとぎれさせた。
『後はそちらが探すというんだな』
「それが我々ですので…知らない訳じゃないでしょう?」
『判った。それであれば、写真を持っていこう。詳しい話はそちらで』
 それからいくつかの事務的な話をすると彼女は電話を切り、居間に声をかける。
「重政さん、お客さん、来るそうですよ」


 化物というのは独特の気配をまき散らしている。
 人間ではない、そう呼ばれるのは勝手かも知れないが、事実それらは人間社会で不適合な存在である。
 では結局、化物というのは何だろうか。
――………来る
 その大きさは別段他の生命体と同じ――要するに、人間や犬なんかと同じカタチの事が多い。
 だが一度其処から外れたならば、もう二度と――認識できなくなる。
 では化物とはいったい何なのか。
 簡単に言えばこうだ。『日本人というのは一体なんだ?』という質問に非常に近いとも言えるだろう。
 同じ背格好でも、考え方も文化も言葉も違う。決定的にDNAの部分から違いが存在する。
 でも彼らは同じ「人間」なのだ――こう言えば、実は近い表現だと言うことができるだろう。
 彼は歩きながら急速に膨れあがる『不安』が近づいてくるのを知って、僅かに身体を堅くした。
 いつものように『部活』と偽って狩りを始めようとした矢先に、今までにない位大きな化物が姿を現したようだ。
 駅からそれほど離れていない、町の外れ。
 時刻的にもまださほどヒトが多い訳でもないから、特定も簡単だ。
 どれだけ人がいても、これだけ『臭い』気配は隠せやしない。
「――お前か」
 気配が、壁向こう側に姿を現した。
 スニーカーがアスファルトの上でぎちりと軋み、やがて視界に――気配は、人のカタチをしている事だけは判った。
 それは青年の姿をとって彼の前に立っていた。
 相手は笑っていない。
 向こうもこちらが認識している事を知ると同時か、こちらを敵として認識できたようだ。
 その姿は明らかに威圧的で、喩え見覚えのある顔をしていようとも関係がない。
 そもそも『化物』として人間に牙を剥く者を許してはならない。
 それが誰であったとしても。
 今隆弥の目の前にいたのはほんの僅か、確かにどこかで見たような顔をしていた。
 尤も彼は、今目の前にいるように『化物』らしくはなかった。
 化物の臭いをまき散らすこの男は、『彼が知っているどの人間でもない』。
 その時点で化物と判断する。
 悪魔が悪意の塊でしかないのと同じように、其処にヒトの感情を持ってはならない――つけ込まれてしまう。

 瞬時だった。

 彼が声をかけ、男が体を瞬かせたのは。
――!
 速い。
 見失いそうになって、彼は意識を保てるか否かのところで本能的に後ずさった。
 慌てて一歩飛び退いたにも関わらず、風圧と切っ先は彼の右頬をかすめた。

  拳による高速度の一撃

 びりびりと耳朶を打つ空気の流れに彼の視界は極端に減じられてしまう。
――くっ
 その半壊した視界の中で、男はくるりと背を向けて視界の外へと跳躍する。
 直撃こそしなかったものの、右目は拳圧のせいではっきりしない。
――逃すか
 隆弥は先程の一撃を避ける際に溜めた全身のバネを使い、体を一気に前進させる。
 復帰しようとする視界が完全に戻らないうちに、消えた影を捉える。
 影が向かう方向には、たしか。
――河川敷、か
 影はとてつもなく身軽に跳躍していた。
 その速度も高度も、何もかもが明らかに人間を凌駕している。
 喩え元が人間である、という仮定があるにせよ――それすら逸脱できるものか。
――決着をつけるつもりか、それともからかっているのか
 追いつけないとでもたかをくくられているのかも知れない。
 彼は口元を僅かに開き、凄味のある笑みを湛えた。
「なめるな、『化物』如きが」
 人間とは喩えるならば枠のようなモノだ。
 其処に収まっていなければならない、その枠組みを越えてはならない。
 そうやって規制された枠組み、それこそが越えてはならないモノであり『化物』を形作る正体に過ぎない。
 それは丁度、『日本人』という枠組みがあり、『外国人』と言うモノを分け隔てるのと同じ。
 同じ『人間』なのに。
 滑稽だろう。
 化物というのは結局、この『枠組みに収まらない』人間を指すのであり、化物でもその『枠』に収まれば『人間』なのだ。
 逆に言えば、そんな枠組みがなければ全て――そう、この世の全ては化物だけになってしまう。
 化物に。
――だから俺達がいる
 枠を――境界を全てとする存在が境界にしがみついている限り。
 其処から外れていながら、干渉しようとしてくる全てのモノを排除する。
 排除する理由は――人間ではないから。
 人間という枠組みを護るためには、このか細く護る手段を持たない『枠』を越えさせないためにも。

  何故?

 彼は地面を蹴った。行き先さえ判れば簡単だ。
 先回りすることも容易だ。少なくとも、あんなに派手に飛び回る必要性はない。

  人間という枠組みを護る必要があるの?それは何故あなたでなければいけないの?

 僅かに世界の力を借りればいい。
 言葉で形作られた世界で、言葉によって力を伝えればいいのだ。

  どうして?わからないの?それとも、判ってはいけないの?

 鼻をつく化物の気配。
――違う、判る必要はない。そう形作られて存在すること、それで充分だろう

  ずしゃ

 いつも思う。こうして化物を捉えた瞬間だけは、何とかならないものかと。
 どうしても体の言うことが利かず、重心や荷重を捉え損なうせいで。
 恐らくねじ曲げた理屈と世界が与えた解答の結果は、時間の変異として現れていた。
 既に星が見える程の暗い夜穹を望んでいる。
「仕方ないのか」
 あまり意味もない事だと彼は自分に言い聞かせる。
 どうせどんな化物も関係ない。
――人間という種族は
  化物には必ず敗ける事はないのだから――

 “Death of Wind notify. The hided eye breath your solor system”

 暗く冥く眩い夜穹の蒼に浮かび上がる黒い影。
 確かにヒトのカタチをして、ヒトのスガタをしたケモノ――化物。
 こちらを窺うように目を輝かせて、影でできた闇の山の上にいる。
 その姿が滲むように世界に捉えられる。
 『言葉』の姿をした『世界』と言う名の、逆らう事のできない論理に。
 それが急速に弾けた。
――逃さん
 同時、彼も地面を蹴り身体を影――どうやらそれは廃車の山のようだ――に滑り込ませて相手の視界からかき消える。
 一瞬、車と車の間から差し込む月の雫に濡れて――彼は躊躇なく右手を疾らせる。

  ひゅか

 だが彼の手から放たれたナイフは影を過ぎっただけで、その後ろの車のタイヤに突き刺さった。
 車を蹴り込む派手な音に、彼は一息に身体を捻りもう一度車の影に身体を滑り込ませる。

 “Diary is exist. High electric ring ended.”

 紡がれる言葉に滲む悪意と、世界を縛り付ける為の強制力。
――今度こそ終わらせてやる
 手近な車に飛び乗り、数回跳躍し車の向こう側で『論理』に捉えられているはずの化物を探す。

 突如耳に届く空を斬り裂く音。

 その音の正体に気づき、彼は背中から一振りの刀を鞘毎抜いた。
 恐らく人間の腕よりも大きな、金属製の何かが飛来しつつあるのが、今度は目でも捉えられる。
――!
 激しく何かがぶち当たる音と共に、足場になるはずの車が激しく揺れた。
 このまま着地する訳にはいかない――今度は耳朶を叩く程になった迫るモノに切り裂かれてしまう。
 判断する余裕はない。
 一気に両手で刀を抜き放ち、鞘を車に突き立てる。
 そしてその反動で身体を一気に跳ね上げ、迫るモノに対して刀を振り抜いた。
 手応え。
 そして頬に僅かな感触。
 斬ることはできなかったが、甲高い音と同時に火花が散り、飛来した金属は後方へと逃れる。
 そしてその勢いを利用して身体を一回転させて、地面へと着地する。
「やる…な」
 じゃりじゃりという足下の音がやけに耳障りに感じる。
「ここまでだ――化物」
「いや。――『今日のところは』ここまでだ」

  ぎしり

――!
「またどうせ機会がある。――『ヒイラギミノル』に、よろしくと伝えろ。それから、二度と獲物を間違えるな」
 にたりと。
 実隆は絶対に見せる事のない邪気に満ちた笑みを湛えると、その『実隆に似た化物』は背を向けた。
 彼の姿が消えてしまうまで声を出すことも、呼吸すらもはっきりしなかった。
 やがて意識が奪われてしまうまで、さほども時間を要する事はなかった。

 失敗した。
 彼は結論を急ぎすぎたわけではない。
 ただ、『真桜』を侮っていたのだ。
「あの家系は……」
 ターゲットを絞り直さなければならない。
 思いの外、あの弟は『化物』に近い存在だった。
 化物であるなら、どれだけ人間を集めたって同じだろう。
 要するに失敗、冬実の討伐どころではなくなってしまった。
――これでは櫨倉が動く
 『自分』が派遣された所以は『櫨倉統合文化学院』の裏にある存在を突き止めたからだというのは確かだ。
 さもなければ今更『家』から派遣されるはずもない。
 兄弟として抱えるもう一人の少年も『家』出身らしいが、これはこれで特殊な事情がありそうだ。
――あんなに『臭う』弟なんか、何故飼っているのか
 ふと思考がそれ始めたので、彼はかぶりを振ってもう一度自分の目的を認識し始める。
――俺は櫨倉を住処とする化物を狩る
 櫨倉自体を燻るのは別の任務で、誰か別の者が担当しているはずだ。
 尤も今の『家』自体には何か任務でもあるらしく、他の仕事をやったこともある。
 ここ三年程は特に命令もなく潜伏できていたのだが、それより前は別の仕事の方が多いぐらいだった。
「タカヤ」
 耳障りな声が彼を呼んだ。
 はっきり言って彼に名前を呼ばれると苛々する。
「なんだ、重政」
 感情の『らしさ』を欠落しきった表情が彼の前にある。
 言うなればその顔は冷徹と言うよりも歪(いびつ)で、どことなくおかしさを感じさせる。
「――指令だ」
 そう言って彼が差し出したモノは一枚の写真。
「依頼は『こいつを狩ること』だ。――尤も、依頼主も『狩って』しまえ」
 写真に写っていたのは、暗い場所だった。
 暗い場所で黒い液体にかしずくような格好で座り込んだ少年が一人。
――治樹、か
「依頼主ってのは」
「お前の『弟』の、本当の兄貴だよ、隆弥」


 その日、冬実はどんな授業も耳に入らなかった。
 何も。
 彼女は機械的に黒板を写し、他人に勉強していると言える行為を行ったが、それは彼女にとって作業に過ぎなかった。
 条件反射――そうとも言える。
 まるで自分ではない物が自分を操作しているような奇妙な錯覚。
――ハル……
 治樹は彼女にとっては、可愛い弟以上に、自分を支えている『大切な物』でもある。
 実際に血縁関係がある、なし以上に、人間の間で生活してきたこれまでや姉達と比べれば大きな差が一つある。
 それが、彼女が目をかけなければならないと言う一点だ。
 比較的日常では無口で、身体も小さい彼女が誰かの上位に立つと言うことは非常に稀だ。
 だからこそ、彼女は彼を大切に――無論甘やかしていた訳ではないが――してきた。
――今更いなくなる、なんてこと
 自分で言葉に変えながらもそれを否定する。
「では次、真桜ぁ、読め」

  かたん

「そのとき、彼は足を踏み外し、路外へと転がってしまった」
 国語の教科書を辿る視線と、続く言葉なんか全て条件反射で即応する。
 すんなり読み終わり、着席すると一瞬周囲から視線を覚えて彼女は左右を見た。
 僅かな驚きと、微かな羨望。
 別に珍しいことではない。
 冬実はため息をついて、もう一度自分の思考に没頭した。
 そして昼休み、彼女は急ぎ足で一階中央に行った。
 この櫨倉統合文化学院付属が奇妙な形をしているのは説明したとおりだが、この中央の区画を含めた厚生施設には、他の学校にはない物がある。
 それが公衆電話だった。
 生徒を含め殆どの教師も携帯電話が普及したため公衆電話は廃れつつある。
 だが一応なりとも校則で禁じられ、教師も実際に持ち込ませない為には公的な必要性があるのだ。
 冬実は真面目だという理由以外に『持ちたくない』という個人的な理由から携帯電話は所持していない。
 これは真桜家に言える事で、実際家族で一台しか携帯電話がない。
 生徒手帳を入れている胸ポケットからテレカを取り出して、慣れた手つきで差し込む。
 流れるように人差し指、中指、薬指で次々にプッシュすると、受話器を持った左腕に全体中をかけるようにブースにもたれかかる。
 左手に添えた右手で、自分の口元を隠すように。
 焦らすような発信音に合わせるように人差し指が動く。
『…はい、真桜です』
 明美の声だ。
「姉さん?道場はどうしたんですか」
 思わず詰問口調で声を低くしてしまう。
 電話の向こうからくすくすという笑い声が聞こえてくる。
「笑い事じゃないです。お仕事じゃないんですか」
『あのね、みーちゃん。なんの為に電話してきたの。わたしを――』
 小波のような笑い声混じりの彼女の声を聞いて、むっと口元を歪める。
「違います。でも姉さん、まさか」
 笑い声が止まった。でも、応える明美の声はまだ明るい。
『そう。だってはるくん探さないと駄目でしょ?』
「じゃあ、まだ家には帰ってきていないんですね」
『そう。…一応、わたしもヒロ君も全力尽くしてるから。あ、今はおひるごはんだけどね』
 まだ警察には連絡を入れていないらしい。
 配慮、ではない。
――面倒を避けるんだったら仕方ない
 警察が動いてしまったら、もしもの時は一度押さえ込む必要だって出てきてしまう。
 それは、最悪の事態が波及してからで構わない。
 冬実にもそれは理解できる事だった。
 彼女自身、何度か当事者になっているのだから。
「判りました」
 そう言って切ろうとして、もう一度明美の笑い声が聞こえた。
 今度は口元だけで笑っているような短くて、引き留めるような声。
『なっちゃんからも電話があったのよ。あの娘、授業サボったのかな』
「……切ります」
 相手からの返答も待たず、冬実は受話器を置いた。
 何となく不愉快な気がしたからだ。
 時計を見上げると、まだ昼休みは半分も過ぎていない。
 お弁当は持ってきているので、彼女はそのまま教室へと戻った。
 いつものように無言で自分の席に帰って、そのまま鞄から弁当を取り出すと、がたがたという音と共に彼女の前に机が現れる。
「よぉーっす」
 そして、視界の真横から突如顔を出す少女。
 同級生だが、にこにこと笑みを崩さずにぶんぶん腕を振り回す様は、同い年と言うよりも一つか二つ程年を間違っているような気がする。
――加納小百合
 名前だけはよく知っている。
 いや、クラスメートでも一番会話する相手ではあるのだが、彼女は余り仲が良いとは思っていない。
 無意味に元気で、何故か自分によく話しかけてくる。
「……はい」
 冬実が無表情に受け答えして、彼女はそれにも嬉しそうに頷きながら自分で用意した机に座る。
 彼女がぶつかったのか、がたんと大きく机が揺れて冬実もお弁当を持ったまま全身が揺れる。
「あはは、ゴメン。お昼まだでしょ?突然教室飛び出してくんだもんね」
 そう言うと彼女は安物のパックをぽん、と机の上に置く。
 どう見てもスーパーの特売などで並んでいるプラスチック製の容器だが、中身は手作りのようだ。
 冬実は不思議そうに小首を傾げる。
「何か、用事ですか」
「もち。用事も用事、大事な用事よ。一緒にお昼しよ!」
 と言いながら小首を傾げる。
 いつもの昼食の風景だ。
「……もう、真桜さんはどうにも反応が鈍いっ!」
 あんまり無表情だったことが気にくわなかったらしく、彼女は眉を寄せて手首を返すようにずびしっと人差し指を冬実に突きつける。
 やはり表情を変えずに見つめる冬実。
「もしかしてからかってますか」
「あぁーん、からかってないからかってないっ」
 今度は両手を自分の胸にひきつけてくねくね。
――……相変わらずオーバーリアクションを……
 冬実は呆れたようにため息をついて一度目を伏せる。
「いいから、食事にしましょう」
「うん♪」
 彼女のパックの中身はサンドイッチ。
 ぽんとオレンジのテトラを置いて、クリップのような金具を外してパックを開く。
「ところでね」
 言いながらとどめとばかりに構えたストローをジュースに突き刺す。
 そして、にこにこしながら一口飲んで、続ける。
「先刻何か考え事してたでしょ」
 今日の弁当は唐揚げと卵焼き。
 一応彼女のリクエストだが、ポテトサラダのコーン入りだけは許せない。
「ちょっと」
「…何ですか?」
「聞いてなかったでしょ、もう」
 苦笑いする小百合に頷いて見せて言う。
「国語の話?」
 小百合は目を丸くして、『もう、しっかり聞いてる癖に』と口を尖らせてむぅと唸る。
「そう。真桜さん、黒板も見ないでぼぉっとしてたから当てられたのに答えるから」
「あんなのは難しい事ではないです。当てられたから、言われたとおりに」
「そーよねー。もう、秀才さんは違うよねー」
 冬実は決して成績は悪くない。
 勿論真面目に勉強しているからで、その事はクラスの全員に知れ渡っている。
 冬実はため息をついた。
「そうそれ!ねえ真桜さん、そんなに暗いとダメだよ!せっかく可愛いってのにっ」
「……小百合さん、それってよく判らないです」
 がっつぽーずを見せる小百合に言うと、にへらーっと顔を崩した。
 小百合は元気だけが取り柄のような明るい女の子で、決して可愛くない訳ではないんだが。
――これさえなければ、多分もうちょっと人気が出るんだろうけど
「ぢゃあ貰っちゃって良い?」
「……何を」
「真桜冬実さんっ!」
「却下」
 思いっきり嬉しそうに、何かを差し出すように両手を広げて迫る小百合に言い放つ冬実。
 一瞬にして泣きそうな顔をして机に突っ伏す。
「ふぇぇぇ…ふぇぇ、そんな思いっきり冷たく素早くすぱっと即答するなんて」
 一応、念の為、小百合にはレズの気はない。実際そんな噂もない。
 さばさばしてるせいか、男女ともに人気はあるが、彼氏の噂もない。
 実、彼女は普通で独りだった。
 冬実は思わずくすくすと笑って、右手の甲で自分の口を押さえる。
「小百合さん、私より自分の事を心配したらどうです」
「んーっ!私の真桜さんに対するこの想いが通じないの?」
「通じない」
 しくしくと再び机に突っ伏す小百合。
「でもでもー、真桜さん凄く人気だよねー」
「ちょっと危ない感じの人たちに」
 再びしくしくと机に突っ伏す。
「でも、これは本当だと思いますが」
 そう言う彼女に、小百合は少し悲しそうに眉を寄せたまま、瞳に本気で涙を溜める。
「こんなにもかわいーのにぃ」
 そんな他愛のない話。
 本当に何でもない、いつもと変わらない会話。
 彼女自身、そう言うつもりだった。
――じゃあハルは
 どう思っているだろうか。

 もうその時の彼には時間概念が消失していた。
 ただ在るのは、白くない空間を横切る物だけ。
 それはまるで、不自然に自分の脳味噌に手を突き入れられているかのような錯覚。
――右手
 何かが、自分の身体を動かしている気配がする。
 誰かが頭の中で話をする。
 誰かの話し声が頭に響く。
 灰色の白昼夢には登場人物はいない。
 ただ声だけが虚ろに響き、身体の感触も完全に失せてしまっている。
 そんな完全に全てが等しく違いのない世界の中で、唯一の色はその声だった。
 金属の冷たさと耳障りな堅さの在るそれが何を言っているのか、理解できない。
 ただ即応して身体が追随する。
 それに合わせてココロが追いかけるように。
 ぼやけた世界が実像として――する。
 目の前で情けない貌を彼に向ける、男。
 両手を振り上げて泣き叫ぶ男。
――殺せ
 右肩から肘にかけて浮く。
 それが滑るように空間を切り、男に向かおうとする。
 何となくそれが厭で止める。
 何の抵抗もなく腕は動くのをやめて、彼の支配下に陥る。

 そして目が覚める。

「っ」
 見覚えのある場所。
 つながらない夢でも見ているかのように、それが再び、白く風景が焼けて消える。

 白。

 丁度カーテンを閉じたかのように空白の記憶を埋めていく、無。

  きり きりきり

 丁度軋むドアのような音と共に、彼は、その空白に投げ出される。
 全身の筋肉が痙攣し、今度は逆に闇に放り出されたように瞬時に視野が暗くなる。
 だがそれは視野が狭くなったわけではない。
 肉体の限界にまで感覚が拡大し、実際に見えている視野に対しての意識が薄れているからだ。
 丁度四つ足の獣のように、彼は地面に両手足をついていた。
 其処がどこなのか記憶を呼び出す間も、ない。
 彼は両手足で大きく跳躍する。
――ここにはいてはいけない
――ここにいたくない
――向こう側に、あの場所に、ある
 彼の周囲で空気が渦を巻いているのが見える。
 初めに感じられたのは、頭の中から意思が抜けていく感覚。
 全てが自分の意志のままに。
 次に飛び込んできたのが、『嫌』な気配と『そうではない』気配。
 それが自分の居場所を示しているような気がして、彼は確信して、全身を使って跳躍を続ける。
 ただそれは逃亡なのか、それとも――彼には、何も判らない。

  見える 世界の逐一全てが 意識するだけではっきりと詳細に


――もしかすると、ハルは私のことを嫌っているのかも知れない
 かたん、と彼女の足の裏で石畳が鳴る。
 石畳の向こう側の土壌を抜けて、岩盤に感じる鼓動。
 地上に生きる人間全てが影響を受ける、地上の脈動。
 きちんと舗装された道に出るまで、この神社の境内のような道は続く。
 一人帰途に就きながら、彼女の意識はさらに広がっていく。
――今どこにいるの。どうして、突然いなくなったの
 でも家に帰れば何もなかったかのように、帰っているかも知れない。
 明美が探しているのだから、捕まっていてもおかしくない。
――ハル
 ぴいん、と張りつめた弦を弾くような音、それが聞こえたような気がした。
 冬実は足を止めて、半眼を閉じて両手で下げた鞄を抱きしめるようにして胸元に上げる。
 僅かに両足を開き、全体重を腰を落として撓める。
――ナニカガ――クル!
 ざわめくものが彼女に悪寒として伝わった。
 そして、それは跳躍を繰り返すように近づいてくる。
――場所は
 ここは道路の真ん中で、充分に開けている。
 彼女の目の前に現れたならば目撃者は増える。
 何かをされるとしても人目につく。

  ざん

 そこまで確認してから、彼女は目の前に奔り込む気配を待ち受けた。
「!」
 両手足で全衝撃を受け止めるように、その様はまるで蜘蛛のように、一度身体を沈める。
 非人――ヒト。
 ぎょろり、と頭が動き、視線が合う。
「――ハル」
 彼は、紅い服を着ていた。
 茶色く焼けただれたような色の、彼のパジャマは――いや、これは恐らく『血』か。
 彼の貌は変わらないが、明らかに目つきがおかしかった。
――表情がおかしい
 人間だったら、多分そう感じるだろう。
 いや人の顔をしているだけに余計そう思うのかも知れない。
 彼女は、その表情を計りかねた。
 まだあどけないと感じていた彼の表情は、まるで縦に引き延ばしたように見えた。
 笑みは完全に消え、もしこれが人間の表情なら――驚いたのだろうか、丸く大きく見開かれた目と、口。
「ハル?」
 それまで気配が近づいてくる速度がまるで想像できない位、彼はゆっくりじわりと両手両足を動かして、まるで間合いを計るように。
 冬実も後退りする。
 治樹らしいものはゆっくり近づいていく。
 でもつかずはなれず、その距離を保つ。
 じわりと、その動きが何かの目的を持って撓む。
――!
 冬実はそれに気付き、下げた重心を使って両足で地面を踏みしめる。
 だが間に合わなかった。
 治樹の両肩から先だけがまるで別の生き物のようにしなり、上半身毎冬実に飛びかかる。
 半歩引いて身構えて、鞄を地面に捨てて対応するのが関の山――それだけ動けただけでも、冬実は反応できた方だったろう。
――もう、ハルは自分を見失っている
 容赦するつもりもなかった。
 『こうなってしまった』のであれば、殺さなければならない。
 否――放っておいても同じ。
 『人間』に駆逐されるぐらいなら自らを護るために、滅ぼす。
 彼を理由に真桜家全てを滅ぼされるわけにはいかない。
 だが彼女のそれだけの思考は、次につながる彼女の行動を、思考した時間分だけ抑制してしまった。
 白兵戦距離から、格闘戦距離へ。
 組み打ちする距離というのはほんの僅かな時間、一呼吸より半呼吸、さらにその半分の刹那の隙が致命的になる。
 冬実が動けたその時には、既に治樹の顔が鼻先にあり――両腕は、どう動いても彼女を捉える位置にあった。
 身体を沈めて避けようとして、治樹の腕は冬実の頭を絡め取る。
 そのまま抱きすくめられるようにして、彼女は背中に倒されるかと感じた。
 治樹は地面を蹴り、冬実毎地面に転がった。
 ずん、と地面を叩く衝撃が背中に伝わり、少しだけ運がよかったと冬実は思った。
 もし彼女の背中にあるのがアスファルトだったら、制服は今頃ずたずたに裂けているだろう。
 無論、その下にある肌も。
 ぞわり、と身体が悲鳴を上げるのを、何故か彼女は冷静に判断していた。
 治樹が彼女の頭の後ろで腕を動かしたのだろう。

  身体が伝える感覚と、まるで分離したような自分の意志

 丁度治樹が覆い被さるような形で、浅い草むらに二人は折り重なって倒れている。
 いや、治樹にのしかかられている。
 頭が腕と、恐らくは肩で押さえつけられ、膝から下は――多分、彼の脚だろう――動かせない程の体重がかけられている。
 そして先程から感じている顔に当たる風は、彼の呼吸だろう。
 額がこつんと鳴った。
――ん……
 まるで熱でも計っているような仕草に、こんな状況であるというのにおかしくなって、口元を歪める。
 冷静だった。
 今治樹が『雄』として彼女の上にいるのだとしても。
 確かに頭は捉えられて、脚も動かない。
 だがおかしな事に腕は完全に自由だった。
 治樹は脇から下を完全にさらけ出して冬実の頭を抱きしめている。
 やろうと思えば、もし冬実が刃物を持っているなら、それだけでもうこの状況は終わる。
 冬実もそれには気づいている。
 そのせいで冬実は油断した。
 ふっと額を離した治樹の顔が、冬実の視界を過ぎった。
 見たこともない、貌をしていた。
 それが再び陰に入り――
 突然、生暖かい感触と同時、唇を割って入ってくる物が。
 それが治樹の舌だと気づいた時には遅い。
 腕が頭を解放して更に下に動いていた。
 彼女の両肩を抑える位置で抱きしめ、そのまま背中を嬲っていく。

  ざん

 だがその全ての感触が、余韻も残さずに全て離れる。
 今耳に届いたのは耳元にある草を叩いた音だろう。
 彼女の前に、両足で立った治樹がいた。
「……ハル?」
 冬実が不思議そうにそう声をかけると、怯えた――そう、はっきりそう言った表情で――貌になって大きく跳躍した。
「……!」
 その時何か、彼は口走っていた。
 冬実には聞こえなかった。
 彼女が身体を起こした時には、既に気配は消え去っていた。
 しかし彼女の目に映った彼は最初に見た彼ではなく、『治樹』だった。
――怯えていた
 彼の言葉は聞こえなかった。
 心にも響かなかった。
――自分に?
 それとも自分が行った事実に?
 冬実は右の人差し指でゆっくりと自分の唇をなぞる。
 いつの間にか冬実も、今まで浮かべたことのない貌が浮かんでいた。
 激しい悔恨の表情――普段表情を殆ど変えない彼女が、顔をくしゃくしゃにして。
 誰もいない道の真ん中で、彼女はそのまま佇んでいた。


「治樹が喧嘩したって、あたしその話聞いてないわよ」
 その日の夕方、結局治樹はまだ帰っていなかった。
 冬実も彼女よりも遅いようだった。
 実隆から彼が喧嘩したという話を聞き、彼女は自宅への道を大急ぎで走った。
――何故自分を蚊帳の外へと追い出すのか
 昼間、体育の授業の前に電話を入れた時にも何も言わなかった。
「それももう前の話だったって?」
 彼女は苛々と眉を寄せ、帰ってくるなり明美にくってかかっていた。
 明美もいつもの笑みを消して、困ったように彼女に両掌を向けて後退る。
「……覚醒しかけてた時に、やられたらしいの。冬実は間に合わなかったのよ」
「じゃあ、もうヤバいんじゃないの。…行方不明になってて、もうどうしようもないんじゃ」
 自分で言った言葉とは言え、彼女は口ごもった。
 明美もそれを見て口元を綻ばせる。
 でもそれは微笑みには見えなかった。
「まだ判らないのに。なっちゃん。あなたは優し過ぎるから」
 明美の言葉に菜都美は複雑な気持ちで、顔をしかめる。
 素直に彼女の言葉に喜ぶ気にはなれない。
 何より、それが何を意味しているのか。
 そしてはっと目を見開いて明美を見返す。
「まさかもう」
 明美は首を振る。
「本当に見つかっていないだけ。…なっちゃん、まだ、あなたに教えていない事があるの。聞いてくれる?」
 小首を傾げて微笑む明美。
 でも、何となく芝居がかったその話し方は、菜都美にとって背筋の冷たくなる感じがした。
 明美に続いて食卓につき、彼女が注ぐコーヒーを見つめる。
 無言で食卓に並ぶカップからあがる湯気。
 明美は一度目を閉じて、その湯気を吸い込むようにして香りを確認する。
「ハーフって、いるでしょ?日本人と、白人のハーフ」
 何を言いたいのか理解できず、菜都美はカップを口に運んで一口含み、小さく頷く。
 口の中に苦みが広がる。砂糖が入っていない。
「じゃあ、そのハーフの子がまた日本人と結婚して、子供が産まれました。その子供も、やっぱり日本人と結婚して」
 明美は両手でカップを包むように持って、両肘を卓につく。
 菜都美にはその貌が、母親のような笑みを湛えているように感じた。
「もう、白人の祖先がいたなんて判らなくなった100年後。突然、金髪の子供が、その家系に産まれました。果たしてその子は、日本人でしょうか」
 明美は目を細めて笑う。
「日本人よね」
 菜都美は訳が分からない、そう言う口調で答える。
「そう。でも、本人は病気かも知れないと思う。両親は、お互いに不信感を持つ」
 母親は『夫は病気ではないのか』と。父親は『嫁は不義をしでかしたのではないか』と。
 でもそのどちらも間違いであり、病気でもない。
「わたし達のように化け物の血が混じってると言ったって、それがどこまで本当なのか判らないけど」
 そう言ってまるで息を注ぐように、コーヒーを一口飲む。
「そう言うことを繰り返した家系なのよ。…血は、代を重ねる毎に薄まっていく。ヒトの中へ。でも『ソレ』は種を保存しようとする」
「……それで」
「『濃さ』によって惹かれるのね、互いに。『ソレ』同士は判るけど、その周囲にいる人間は判らない。だって、『ソレ』と『ヒト』は別の種族だから」
 菜都美は彼女の言葉に納得しようとして、違和感を感じた。
 彼女は何を言いたいのだろうか。菜都美に何を教えようとしているのか。
「明美姉」
「『ソレ』は滅ぶべき種よ。血は薄まり、確実に絶えようとしているんだから――ヒトって、怖いものよね」
 『ソレ』の特性すら『ヒト』の器の中へと溶かし込んでしまう。それはやがて『ヒト』と区別が付かなくなる。
 それだけ『ヒト』という種の境界は強固で、丈夫だということなのだろうか。
「ハル君とあの子は、100年振りに生まれた金髪の子供なの。根底にある本能はわたし達では理解できないから」


 冬実はいつもよりも一時間ほど遅れて、帰宅した。
 あれから自分を責めるようなこともなく、ただ、あまりにも不甲斐ないと彼女は感じていた。
 そのまま帰る事は彼女にはできなかった。
 ただ時間だけが過ぎて――彼女は。
 薄闇が忍び寄ってくるまで、自宅への道のりを歩むことができなかった。
「ただいま帰りました」
 妙に静かで、夕方なのに電灯もついていない。
 冬実は無言で靴を脱いで、廊下を歩く。
 気配もない。
――誰もいない
 まず食卓へと向かう。
 テーブルには食事が並んでいて、ラップがかけられている。
 それも全員分。
――?
 そして、彼女の席に紙が一枚おいていた。

 『みーちゃんえ。御夕飯は用意しておきました。全員でハル君を捜してますので、食べておいても構いません』

 冬実は無言でそれを取り上げると、ゴミ箱に投げ捨てる。
――ハル
 きっと玄関の方へ目を向ける。
 其処に誰がいる訳でもないのに、彼女は何故かそちらに目を向けた。
 ゆっくりと玄関に向かい、まるで何かに惹かれるようにして二階へ進む。
 彼女は薄暗い階段を何の躊躇も照明もなく間違いなく歩を進める。
 僅かに光を帯びたような彼女の視界に、もう一つの何かが映り込む。
 空気に残された何か――空間に刻まれたものなのか。
 ぶるっと肌が震える。
 寒さでも悦びでもない。それは、まるで機械的な――そう、本能とも違う震え。
 電気を帯びたプローブによって蛙の脚が痙攣したのと同じように。
 指先から肩へと数回痙攣が走る。
 肌の引きつりが彼女を正気へ――それだけ冷静にしていく。
 空間が変わる――色が、突然原色の世界に。
 ちかり、とフラッシュが焚かれるように一度世界が明滅する。

  あ  んん…

 人の声。
 ちりちりと頭の中が閃く。
 フラッシュバックするように、一歩、階段を昇るたびに確かに何かが変わっていく。
――ここで、確かに
 治樹が歩いた。
 何故早く帰ってこなかったのか。
 殆ど本能のような感覚で、僅かな過去を読みとる。
 そして後悔する。
 治樹がもしあのまま後退するので在れば、彼の行くべき場所はどこなのかもっと――早く気がつかなければいけなかった。
 ふと彼女の脳裏に浮かぶ疑問。
 何故治樹はこの階段を歩いていたのか。
 何を望んで、いや――何故家族は気づいていないのか。
 彼女の疑問に答えるように、耳へ、視覚へ、情報が流れ込んでくる。
 それが彼――治樹の残した情報だという事は、まるで既に教えられているかのように感じる。

 知覚する――その時間を。


 その時刻からおよそ一時間前。
 明美と菜都美は夕食を作り終えていた。
「いつ帰ってくるか判らないから、ラップして」
 無言で頷く菜都美。
「母さんは?」
「うーん…警察に行くって行ってたから、もしかするとまだ話し込んでるかも知れない」
 明美はふん、と吐息と同時に頷く。
 こういう仕草は子供っぽく見えなくない。
「行く?」
 迎えに、という事だ。
 菜都美は首を振って答える。
「それより姉さん、治樹を捜そう」
「うん…そう?そうする?」
 首を傾げるように聞き返して、そして小さく頷くと明美は笑う。
「じゃあ準備して。わたしはこの辺りを片付けてから準備するから」

 まだ帰ってこない冬実のために置き手紙を書き、夜はまだ寒いので室内着の上から服を着込んで、コートを羽織る。
 片付ける物を片付けて玄関へ向かうと、やはりしっかり着込んだ菜都美がいた。
「うわー、なっちゃん着込みすぎ♪」
「他人の事言えない、明美姉」
「でもわたしはミトンの手袋なんかしてませんよーだ」
 そう言ってぱたぱたと両手を拍手するように打ち合わせる。
 菜都美がむっと貌を紅くして、何か口を開こうとするがくるっと背を向ける。
「を?」
「早く行きましょ。…明美姉」
 菜都美が焦っている様子を見せるので、明美は口の端を寄せるように笑う。
「可愛い」
「五月蠅い」
 ふふ、と笑って彼女の肩を叩く明美。
 こうして二人並ぶと、菜都美の方が若干背が高い。
 腰まである長い髪を揺らす明美と比べれば、実は菜都美の方が小柄に見えるので勘違いされることが多い。
 並んでいると、だから何故か不自然な光景のようにも見える。
「ねえ、明美姉」
 先刻の話が気になって、菜都美は振り返って言う。
「何?」
「治樹と冬実が、真桜のケモノだとして、じゃあ」
 先刻の話では、二人が化物だという話でしかなく、他の――たとえば父親や、自分なんかは違うという事になる。
 菜都美が言葉を選ぶように沈黙しても、明美は笑みを湛えるだけで何も言わない。
「あたし達は、人間なの」
 こんな、でも――言外に彼女が残した物が、彼女の貌から色濃く滲む。
 明美はため息のように大きく一度息を吐くと、彼女の周囲に白い煙のように立ち上る。
 そして。
 それはかちりとスイッチが入るように。
「ええ。『ヒト』よ。ねぇ、菜都美?じゃあ、ヒトって何?人間じゃないって、どういうことかしらね」
 まるで鏡写しの中にある、偽物のように。
 道場で立ち合った時に見せた、本気の明美が今、菜都美の目の前にいた。
 威圧感と存在感、そして背筋に走る悪寒。
 間違いなく、今の明美は、菜都美の知る『化物』だった。
「人体実験を繰り返した、実験体を『丸太』と呼び捨てたあの細菌部隊は?ナチスドイツの大虐殺は?アレも人間だというの?」
 そしてゆっくり、明美の表情は元に戻る。
 威圧感も存在感も、全て――元通りに。
「彼らは人の皮を被った悪魔…おかしいわよね。ねえ、なっちゃん。悪魔や化け物ってのが、どんなものかも知らない癖に」
 ヒトとケモノとの境界線。
「でもヒトってどんなものなのかも、知らない。…だってヒトは定義できないから。その境界線は膨れあがる一方だもの」
 それは、『敵』か『否』か――
「おかしいでしょ、『彼ら』って。昔人間じゃなかったはずのものまで、自分たちの領分にしてしまう。それが怖いところなんだけど」
 そして、彼女は優しい微笑みを浮かべた。
 その笑みの意味が判らないまま、菜都美は続ける彼女の言葉に耳を傾ける。
「善悪の区別なんかと同じよ。ね?昨日の友は今日の敵」
「……明美姉、それ、逆じゃない?」
 明美は明るく声をだして笑う。
 睨むような菜都美の肩を、まるでかばうように抱いて、軽く叩く。
「なっちゃん、あなたが何を聞いてどう考えようと、それは知らないけどね」
 喩えそれが、真桜の口伝に在ろうと無かろうと。
「あの子たちもわたし達の家族だし、何より、理解できるのもわたし達しかいないのよ」
「それは……判ってるけど」
「大丈夫。あの子達みたいに生まれた時からはぐれているか、生まれた後気づいてはぐれるかの違いよ」
 肌寒い空気。
 そのせいか、抱きしめられているのに暖かさを感じない。
 何故か、彼女と明美の間に壁でもあるかのように。
 ノックする音が聞こえないのに、扉が揺れているような。
 奇妙な感慨を覚えて、菜都美は小さく首を振った。


 苗床。
 通常、種籾を直接植えるのではなく、苗という形に育て上げる為のもの。
 それ自身は感覚的には種だが、現在稲作では主流である。
 何故苗床を利用するか。
 それは、苗床の利点――即ち、育った後の間引きの手間が省け、管理された温室で安定して育てられるからである。
「いわば真桜は化物の苗床なんだよ」
 暗い部屋で、リーナはミノルに話しかけていた。
 ミノルは既にいつでも出られるようにジャケットを羽織り、懐にはボウイナイフがかけられている。
 刃渡り14.5cmの、大きすぎず小さすぎないナイフだ。
 一度海兵隊で僅か1インチ(2.54cm)の差で使いやすさが揉めた程、ナイフはその重さとサイズ、そしてその形状まで個人差がある。
 特に戦闘に使用される際、各人のカスタマイズが重要視される。
「……それで」
 めんどくさそうな声で、顔を上げてリーナの居る位置を彼は見つめた。
 小柄な、小学生ぐらいの背丈が、片膝を上げるような格好で小さな椅子に座っている。
 闇と言う程暗くない部屋の中では、彼女の湛える笑みが嘲笑のようにも見えた。
「それは誰から聞いた」
 とんとんと自分のこめかみを人差し指で叩き、小さく肩をすくめる。
「傑作だよ、ミノル。何故彼が、お前をさらったのかもよく知っている」
 にたあ、と今度こそ間違いなく嘲笑を湛える。
「なあ、境界のこちら側に居る存在よ。尤もお前の場合は、『こいつ』が無理矢理こちらに持ってきたようだが」
 こめかみをとんとんとんとん叩きながら、笑いが抑えきれないのか喉で音を漏らす。
 それも、子供の声のようで。
「何故、ヒイラギツカサ博士が、ヒイラギなのかも、な。……ん」
 一瞬眉を寄せて、彼女は目を閉じた。
「興味深い結果だ。……この素体の反応は、予期していた物とは全く違う」
 ミノルはため息を付いて立ち上がる。通信している結果だろう、彼の中にも『声』らしきものが響いてくる。
――これは、リーナの声か?
「最高のサンプルパターンだ……ミノルとはまた違う」
 リーナが呟く。
「でも、破棄だろう」
「コントロール不可能だからだ。ふん、一度暴走してしまえば使い物にならない」
 彼女は人形の身体でありながら、不快感を露わにして目を開いた。
 何故か彼女は思い通りにならないという事が殊の外気に入らないようだ。
 彼が彼女の言うとおりにしなければ、意識を持って行かれる程の『痛み』を直接貰う。
 彼女自身『お仕置き』だと言う。
 それがどういう仕組みのどういうものなのか。
 時折考える。
 もしかすると、この身体すら彼女の思い通りになっているのかも知れないと。
「従わなければ。――俺も、切り捨てるのか」
「お前を?私が?」
 その返事が奇妙だったのか、彼女は驚きの声を上げた。
 唐突だったからだろうか、少なくともミノルは彼女の今のような表情を見た覚えはない。
 目を大きく見開いて、まるで――取り残された子供が殺される直前に見せるような、そんな貌。
「そうか。……もしそうなら。……もしそうだったら、ミノル、どうするんだ」
 不思議だった。
 彼女のその表情は変わらず、まるで仮面を張り付けているように彼女は、抑揚無く、ただ低く呟く。
 応える代わりに彼は目を閉じて立ち上がった。
 空気が揺れたような気がした。
「『目標』の動きを教えてくれ。話じゃ『狩人』が罠にかけて誘い出している頃だ」
 彼女は息を止め――そもそも、それは擬似の呼吸なのか、必要な彼女の命を支えるものなのか――、貌を戻した。
 僅かに張りつめた彼女の気配が、いつもの支配者のそれに変わる。
 落ち着き払ったものに。
「――但しミノル。どちらにも手を出すな。お前に与えている奴は、まだ未完成だ。だから実験を繰り返しているというのに」
 言い訳がましく聞こえるそれを無視して、ミノルは歩き始めた。
 彼女はそれ以上何も言わなかった。
 多分――いや、言う必要がないからだろう。
 どうせ逐一、心臓の鼓動一つから指の動きに至るまで、彼女は掌握しているのだから。
――さて、いくか
 冷たい夜穹を見上げて一呼吸して、月の雫を吸い込む。
 身体の芯から、ゆっくりと冷え切っていくように意識が通っていく。
 周囲が、まるで昼間よりも明るく感じられる程。
 そこは彼の世界だった。

  僅かに芽生えた叛意

 試してみたいことは幾つもある。
――何にしても、奴の力ぐらいは見ておかないといけない
 どうせ『敵』になるのだから。
 そしてもう一つ。
――あいつならどうするか
 僅かに――本当に僅かに、彼は、自分の弟に期待したくなる気分になっていた。
 それがあまりにもおかしかった。
 おかしくて、彼は声に出して嗤った。


 冬実の貌が強ばる。
 彼女が踏み込んだ治樹の部屋は、まるで荒らされたように物が散乱していた。
 そして、異臭。
『治樹は、私をっ』
 一瞬ベッドの上に涙を流して叫ぶ菜都美が、両手で毛布を自分の胸元に引き寄せている幻像が見えた。
 が、すぐにそれは消えて、現実の風景が視界に入る。
――これは
 何が作用しているのか、彼女は一時間前の記憶を手繰っていた。
 ここで何が起きたか。
「……ハル」
 冷たい空気が吹き抜けるように彼女の頬を叩いて、カーテンが広がる。
 窓ガラスは桟ごと砕かれていた。
 それも、外向きに――多分ここから彼は逃げ出したんだろう。
 ここは惨状だった。
――彼女が、襲われた

 携帯を渡されて、菜都美は明美と別れた。
 この間冬実を捜したのと同じだが、違う点が一つ。
 冬実の時は手がかりがあったが、一日経った今ですら何の手がかりもない。
 そんな状態で探さなければならないのだ。
 一度学校に向かう事にした菜都美と、繁華街に向かう明美で丁度、河川敷に向かう道で反対方向に別れた。
 別れて数分も経たず、彼女は足を止めた。
――?
 悪意のようなものが彼女の側で形になっているようにして、漂っている。
 ぞわりと背筋に悪寒が走る。
――誰
 もう一度足を踏み出して、出来る限り今の気配に気づかなかった振りをする。
 方向は判らない。いや、既に敵の懐の中に陥っているのかも知れない。
 今まで聞こえていた細かい音がフェードアウトするように消え、甲高い耳鳴りが彼女を襲う。
 ――が、それも僅かな間だった。
 すぐに全てが元に戻る。
 彼女は思わず振り返った。
――?
 その時、何かが道路を横切って路地へと駆け込む姿が見えた。
 異形。
 もし彼女が気にしなければ、今の感覚に気づかなければ、恐らく何もなかっただろう。
 足音も届くような距離ではなかったが、影は、確かな人影ではなかった。
 確かに人間大のサイズではあるが、明らかに二足歩行では有り得ない影だった。
 彼女はまるで誘われるようにしてその影を追う。
 影はやはり獣ではない。
 後ろから捕らえたその姿は、人が四つ足で走っているかのような奇妙な影だ。
 ざわざわとざわめく物を覚えて彼女は走った。
 影が向かう方向が、自分の家のある方向のように感じたから。
 何の確信もない。
 でも、確認しなければ向かうことも出来ないような、嫌な予感。
 何故なら、今の影はどう見たって不自然だから――

 家に辿り着いた時には、完全に息が上がっていた。
 肩で息をしながら気配を探るなんて出来ない。
 ただ、人影が消えた方向はやはり自宅だった。
――まだ、冬実は帰ってないの
 闇に包まれている自分の家に、安堵して良いのか――でも、冬実が居ない事は少なくとも良い事だと自分に言い聞かせる。
 もし今のが治樹だったら。
 冬実はもしかすれば、辛い目に遭わせる事になるのかも知れないから。
 呼吸を落ち着けながら彼女は自宅の鍵を取り出し、玄関から家に入った。
 とりあえず異常がないか確認しようとする。
 靴を脱いで、電気をつける。
 廊下は静まりかえって、誰かが侵入した形跡はない。
 ゆっくり廊下を歩きながら、電話を見て思いついた。
 自分が携帯電話を持っていなければ、今すぐにでも明美を呼ぶことが出来たのに。
 気が付いたが仕方ない。
 一応一階の部屋を覗きながら、自分の部屋へと向かう。
 彼女達の部屋は個人個人に割り当てられているが、部屋の鍵はない。
 つける必要がなかったし、初めから付いていなかったからだ。
 自分の部屋にまず入って見回す。
 特におかしなところはない。
 そして、治樹の部屋を開けて、覗き込む。
――………まさかね
 身を引こうとした瞬間、視界が暗くなる。
「ん…っ!」
 振り向けなかった。
 直後、背中から抱きつかれる感触に声を上げようとして、足がすくむ。
 そのまま投げ出されるように前へと転がった。
「な、何っ、何なのよっ」
 床を一回転して、起きあがろうとして――暗い部屋の中で自分を見る瞳が在ることに気づく。
 階段から照らされる光にくりぬかれ、四角い入り口が歪に浮かび上がっている。
「……!」
 じりっと両腕で一歩、思わず後退った。
 立ち上がれない。
 それ以上動くと、今入り口で蹲る影が飛びかかってきそうなそんな予感がする。
――しまった
 蔭に沈んだ貌の中でも、窓から差し込む光なのか、青白く双眸が揺らめいて見える。
 すぐに菜都美は、自分の体勢を整えようとして――考える。
 紹桜流柔術には寝技が少ない。
 無論、この体勢から反撃する為の技術も無論少ない。
 極め技、投げ技、絞め技の殆どが甲冑を着た立合を想定しているため、倒れた後の攻防がないためだ。
 倒れる即死に繋がる実戦では、当然と言えば当然かも知れない。
――起きなきゃ
 だが起きあがるその瞬間、起きた直後というのは最も体勢が不安定であり、付け入る隙が大きい。
 膠着状態の緊張の糸を張りつめさせる、言葉にならない呼吸音。
 それが彼女の耳に届く。
 先に動いたのは影の方だった。
 のそり、とまるで四足獣の歩みのように、両肩が動くのが判る。
 同時に彼女は地面を蹴って、飛び退くように身体を起こす。
 ほぼ、同時だった。
 彼女の身体が浮き上がるのを、まるで見定めていたかのように影が低く跳躍する。
 狙いは――多くの肉食獣がそうであるように――喉元の高さだった。
 菜都美は低く呻いて、そのまま後ろへと突き飛ばされる。
 運が良かったのか、腰辺りを柔らかい感触が受け止めてくれる。
――ベッド
 だが、勢いは殺せず、そのまま折り重なるように倒れ込む。
 荒い息をつく、彼女の目の前にある獣。
 だがそれは、やはり人間の姿を保っていて。
「…治樹……」
 そして彼女の想像は、外れて欲しい方向に定まってしまっていた。

 冬実は頬を引きつらせて、再び激しい表情を浮かべていた。
――何故
 ここで起きた事実が、誰かが仕組んだ物であるのか。
――ハル、あなたは
 偶然、『抑えきれなくなった』治樹が――彼の意思でないにせよ――選んだ結論なのか。
――姉さんを、選んだの

  きしん

 甲高い何かが軋む音。
 それは、彼女の意識を次へとつなぐきっかけになった。
 割れたガラスの破片を気にもとめず、そのままベランダへ足を踏み入れる。
 治樹は菜都美を放置して窓ガラスを破り出ていった。
 その時、何かに反応していた。
 感情は――恐怖。
 死から逃れようとする本能。
「っぅ……」
 冬実はベランダから一歩後退り、右足を上げる。
 土踏まずのすぐ側、小さな欠片が食い込んでいた。
 躊躇せず指で引き抜き、それをベランダに投げ捨てると背を向けた。
 部屋を出て間もなく、玄関の扉が音を立てた。
 帰ってきたのは明美だった。
「お帰り、みーちゃん」
「…菜都美姉さんは」
 まるで反対の挨拶を交わす姉に、冬実は切り返すように言う。
 一瞬躊躇を見せた彼女に、有無を言わさず冬実は靴を突っかける。
 先刻の足の傷がしくりと痛んだ。
「あ、みーちゃん」
「出てきます」
 治樹を追うために。
 治樹に問いただす為に。
「ちょ、待ってよ」
 何故か我慢ならなかった。
 どうしても今すぐ問いつめなければ気が済まなかった。
 だから。
「あなたは、待っていてください」
 吐き捨てるように言い、勢いよく扉を叩き開けると走り去っていった。
 明美はそれを見送りながら、ため息を付いた。
「『あなた』、ね。……みーちゃん、ちゃんと帰ってきてよね」
 明美は寂しそうに微笑みを湛えると、そのまま玄関を閉めた。
 母親が帰ってきた時、菜都美の事を報告しなければならない。
 明美も気が重く成らざるを得なかった。
 彼女が部屋に踏み込んだ時には、既に事が終わった時だった。
 ベッドの上で、啜り泣く菜都美がいるだけで、彼女が落ち着くまでかなり時間がかかった。
 外傷は、僅か。彼女の頬にひっかいたような傷があった。
――念のために病院で見て貰ってるけど
 何度目かのため息をつくと日本茶をすする。
 大きな湯飲みでお茶をすする癖はなかなか直せない。
 だからいつも人がいる時はコーヒーにしているが、一人で台所に居れば、寿司屋の湯飲みでお茶を飲む。
 かたん、と湯飲みが音をたてた。
 もし彼女を襲った犯人が、彼女の言うとおり治樹なのだとしたら。
――「あなた」……か。みーちゃん、それは酷いよ
 でも冬実の言葉の理由は理解できなくはない。
 だから敢えて止めなかったのだし、もしかしたら、今日彼女は治樹を捕まえて来てくれるかも知れない。
 淡い期待。
 もう一つは、昨晩彼女に話した事が気になったからだ。
 冬実自身はともかく、『彼女』を支える何か、それが今の明美と半ば対立する形をとったのだ。
 今強引に彼女を引き留めてもその溝は深まるだけだろう。
 それは殆ど直感的に感じた。
――騙してた、訳じゃないんだよ
 言い訳めいた言葉を口の中で紡ぐ。
「全部知ってるっていう立場も、考えてくれればね。みーちゃん」
 そして、数える気もなくなってきたため息をついた。
 明美が日本茶を入れ直そうかと台所に立った時、玄関でノブを回す音が聞こえた。
 考え直して湯飲みを流しにおくと、手を拭いて玄関に向かう。
「お帰り」
 病院で別れた菜都美が、表情を暗くしたまま無言で靴を脱いでいた。
 僅か、彼女の言葉に頷いて玄関に上がると、そのまま二階の自分の部屋へと向かう。
「あ、菜都美」
「ゴメン、ご飯、いらないから」
 彼女は顔を見せないように伏せて、逃げるようにして立ち去っていく。
――んー……
 以前の彼女の経験もある。
 それだけショックも大きいだろう。
「これは、明日休みかな」
 誰にともなく言って、食堂の方へ向かった。

 冬実は家を飛び出して、まるで駆け抜けるようにして姿勢を低く『記憶』を追う。
 何かに彼は逃れるようにして、今の冬実のように走っていた。
 だが――繁華街に通じる場所まで来て、冬実は足を止めた。
 彼は人間とは思えない跳躍力で、住宅の屋根から屋根へと飛び、やがて、彼女の記憶から判らない方向へと消えてしまった。
 同じ方法を取って追わない限りもう判らない。
 勿論そんなことは無理だ。
――繁華街の、どこか
 いかに暴走した治樹とは言え、生命体に違いはない。
 昼間行動していたので在れば眠りに就く。
――明日
 探しに行こう。
 彼女は睨み付けるように夜穹に視線を向けて、踵を返した。
 玄関をくぐると、テレビの騒音が聞こえた。
 居間に人がいるらしい。
「ただいま」
 ぼそり、と言うと彼女は居間へと向かう。
「あ、おかえりみーちゃん」
「おかえりなさい。…じゃあ、遅くなったけど食事にしましょうか」
 菜都美は降りてこなかった。
 終始沈黙したような夕食を終え、立ち上がろうとした冬実を明美が手で制する。
「……何ですか」
「ちょっと。……治樹の件で話があるの」
 母親に目を向ける。
 彼女は既に承知済みなのか、小さく頷いて冬実に視線を向けた。
「警察に抑えが効くのは、身内までよ」
 母親の言葉に続いて明美は言う。
「捜索届けを出して貰ったんだけど、多分その必要は無くなるって事よ、みーちゃん」
「はい。……多分、そうなるだろうと思っていました」
 彼女自身の事件の場合、櫨倉が手を回した。
 とは言っても、殆ど書類上の手続きに過ぎなかったが。
 今回の事件、もし治樹が誰かを殺害、もしくは今回のように――菜都美ではなく、他の誰かだったら刑事事件にせざるを得ない。
「菜都美姉さんは」
「病院で検査して。……怪我は酷くないみたいだし」
 沈黙。明美は口ごもるような感じで、言葉を濁す。
「でも、明日は休みかな…」
「私も休ませてください。ハルを――」
「まってみーちゃん」
 乗り出すように言う彼女に明美は真剣な表情で右掌を見せて抑える。
「みーちゃんもわたしも普段通り。何もなかった時と同じようにしなさい」
 何故、という言葉が出かかって絶句する。
 飲み込んだ言葉は胸の中でじわりと熱を帯び、顔に血が上ってくるのが判る。
――つまり、ハルは
 治樹は、初めからいなかった物として考える。
 彼らの父親が音信不通になってしまった時と、同じように。
「もう彼は真桜じゃない」
「……わかり、まし……た」
 冬実は声が詰まってしまって、それだけ言うのも精一杯だった。
 最後通告。
 治樹という人間は、既にこの世のものではなくなってしまった。
 治樹だったものが今、どこかで化物として潜伏している。
「人の枠からはみ出したものに手を出す事は、わたし達には赦されないから」

 泣き喚いて事態が好転するなら、幾らでも感情をぶちまけただろう。

 冬実は顔を時折痙攣させて、苦痛に歪めるようにして目を閉じる。
 明美や母親が何か言っていたような気がしたが、彼女の耳には届かなかった。
 立ち上がる。椅子がどうなったのか理解も出来ない。
 夢見心地。それも最悪の夢見だ。
 気が付いた時には布団にくるまって、部屋の中は真っ暗だった。

 真桜家は古代日本の時代から、『畏れられ』『疎まれ』、排除されるべき側としてその時代を歩んできた。
 まだ江戸時代末期の戦乱の時代は彼らにとっては好都合だった。
 地方豪族から転落したものの、各戦役で様々な形で戦績は残して来た。
 代々伝えた武術や、その肉体的素質が彼らをサムライとして戦わせてきたからだ。
 だがそれも明治を迎え近代化すると共にやがて――まるで戦争狂が平和に適応できないかの如く、様々な形で滅びを歩む。
 最大の理由は、彼らを目の敵とする一団がいたからだ、と言われている。
 明治時代から昭和にかけて軍属として前線で戦っていたって、一兵卒は将官にはなれない。
 だから近代化に伴って人間の中に溶け込む手段を持たなければならなかった。
 一族が、今本家である彼女達の血筋以外に存在しないのは、彼女達の祖祖父が既に普通の人間だったからだと聞かされた。
――私は
 真桜を狙っていた一団は、彼女の祖先を目標にしなかった
 一団は、種としての境界に立つものだった。
 向こう側に対して常に監視し、種に牙を剥くものに対しては容赦しない。
 彼らは人間であって人間ではなく、その能力は人間ではないものに対してのみ発揮される――という。
 それもまた御伽噺のよう。
 丁度鬼退治の桃太郎が、人間ではないように。
 妖精が気まぐれで子供を入れ替える『取り替えっ子』のように、人間同士から生まれる人外。
 真桜の人間が、彼らを護るために作った『人間』の枠から身を隠すための、『ヒト』の壁。
 彼らの中で彼らの責任で、彼らの中から生まれるはずの『化物』を『ヒト』として生きるようにし向ける為の家族。
 『人間』と言う名前の檻――そして閉じこめる獣は『化物』。
 冬実は襲ってきた男を、殺すつもりで対処した。
 もし彼女が抵抗しなければ、彼女はいたぶられ玩具のように扱われただろう。
 直面していたはずの彼女自身はそれに恐怖は感じなかった。
 彼女の打ちの一発で骨が砕ける感触を覚えた時も。
 怯えた顔をして逃れようと背を向けた男に、足払いから片手で払い、一回転させた時も。
 彼を殺す事に躊躇はなく、彼を逃がすつもりも――まして逃げるものに追い打ちをするつもりもなかった。
 背中を激しく打ち付けた彼の鳩尾に掌底打を打ち込んだ。
 内臓が潰れるのに抵抗して膨張しようと反応するのが、肌を通して伝わった――あれは完全に破裂しているはずだ。
 でも何も感じなかった。
 彼の口から飛んだ血の飛沫が顔を汚しても。
 『正しい』と言う言葉を使えなくても、自分の身体はそれを肯定するように高揚していた。
 心は揺れないから、彼女は身体の赴くままに一方的な虐殺行為へと走っていた。
 その後、教頭に呼び出され、別室に連れて行かれた後に担任と話をした。
 母親が呼び出されて頭を下げて。
 冷静というのだろうか。
 でも誰も悪いとは思わなかったし、誰も正しいとは言えなかった。
 半死半生の先輩は意識が戻ったものの、彼女との拘わりすら否定していたから。
 まるで何かに怯えるように彼女の処分は黙殺された。
 直接聞いた訳ではないし、母も姉も何も言わないから判らない。
 もしかすると櫨倉統合文化学院そのものが、そんな『巨大な』ヒトから化物を護る為の『人間』の檻なのかも知れない。
――それでもハルを失いたくない
 檻から出てしまった彼を連れ戻せば済む話ではないのか。
 今ならまだ彼を止めることは出来るんじゃないのか。
――私がハルを、抑える為の壁になればいいんだ
 それがあまりに拙い希望のようでも、今の彼女にはそれに縋る以外、なかった。


 『隆弥』は頬の怪我で熱を出して寝込んでいる。
 ひりひりと痛みで引きつる頬を撫で、彼は指先に血が滲んでいるのを確認する。
――刻んでおけば良かった
 そうすれば、今のこの燃え残ったような苛々もないだろう。
 本当の『兄』。
――確かに似ていたが
 紺色の竹刀袋を担いだ彼は、東竹川市の繁華街にいた。
 時折粉のようなものを蒔きながら、誰の気にもとめられずに。
 彼の背丈、ラフなその服装だけを見れば大学生か、浪人生でこの辺の道場に通う青年に見えるだろう。
 頬の切り傷を見た人間は、居合道か何かと思うだろう。
 だがその袋の中には、白木の鞘に包まれた真剣が納められている。
 鞘の内側は鋳鉄製のライナーがあり、鯉口と先端まで一本物で作られている。
 だから見た目以上に重く、昨晩のように彼の体重を支える事すら出来る代物だ。
 鞘に入った状態で振り回すだけでも危険な物を、彼は竹刀を持つかのように無造作に抱えている。
 何故か――それが、彼の武器だからだ。
「似ているのは、顔だけだった」
 彼の見立てでは、『弟』は昨晩の男に比べるとひ弱だ。
 脆弱で、『枠』をはみ出そうなどと大それた事を行えるとは思えない。
 それならば見逃す。
 自分の弟で良いのだ。
 丁度保存食を保管するのと同じ。
 彼らには、出来る限り人間の間で生き残って貰って、飢えて餓えて仕方のない時に枠外に出ていただく。
 そうすれば大義名分を持って斬り裂く事が出来る。
 今回のように。
 実際ここ数年間全く振るっていなかったせいだ。
 何故あそこで身体が動かなくなった。
 あれは――アレは魔術ではなかった。
 少なくとも彼の知るところの術ではない。
――次は逃さん
 喩えアレが依頼主であろうとなかろうと、奴は間違いなく枠の外の存在だ。
 アレを赦す事など――たとえ理性が訴えても、存在論理が赦さない。
 午前中をかけた彼の奇妙な行動は、繁華街をぐるっと一周して終わった。
 最後になにやら呟いて、くるりと中心部から背を向けて小瓶を懐から取り出し、アスファルトに叩きつけた。
 液体が細かく砕けるガラスの破片と共に散る。
 それを見届けて、彼は携帯電話を取り出し、履歴から再送する。
「――ああ。そうだ」
 話しながら彼はゆっくり歩き始めた。
 背広を着た男が、同じように携帯を使って話ながら歩いてくる。
「証拠が欲しくはないのか?――罠を用意した。立ち合うなら来い」
 時刻を伝えると接続を切り、懐に電話を戻す。
 今は時代劇のように首を持って証拠に変えるなどという危険は犯したくはない。
 処理は『家』が行うし、それは迅速でなければならない。
 ヒトの姿をした化物を狩る際には特に、彼らが人間である場合の繋がりを幾つも持っているのだから。
 戸籍、住民票、貯金口座、家族、職場と形のある物から無い物まで、過去に比べその繋がりは強い。
 もし切れたならば――場合によっては警察権力が介入する。
 そうなると組織力のある彼らに敵うわけもなく――彼らは法的には一切庇護されない犯罪集団でしかない。
 だから、依頼人にはそれ以外の証拠を提供する。
 それも仕事の――依頼料のうちだ。
 にたりと彼は口元を歪めた。
――さあ動き出せ。あとは仕掛けを動かすだけだ


 次の日の朝、母親が朝食の準備をしていた。
「あれ、母さん」
「明美。おはようでしょう?」
 にっこり笑いながら、フライパンの上でオムレツを踊らせる。
 普段は菜都美か明美が交代して食事を作る。
 明美は特に道場に通ったり、朝一番に練習する癖から大抵夕食を担当している。
「うん、おはよう母さん」
 だからいつもより一時間早く起きたつもりだったのに、それより早く母親が既にキッチンにいたので驚いたのだ。
「お弁当、どうしようかな」
「んー、うーん……じゃあ久々にトンポーロー」
 そう言うと彼女は困ったような笑みを見せる。
「今から?」
「そ、今から」
「日の丸で良いわね」
「ごめんなさい。わたしが悪かったです」
 巫山戯合っているが、それが解答を先延ばしにしているようで、不安な空気は拭えない。
 しばらく調理をする音だけが響く。
「なっちゃんは」
「起きてないわね。…今日は、仕方ないわよ」
 明美もそれを聞いて頷き、いつもの日課通り裏庭の道場へと向かった。
 普通ならそれと丁度入れ替わりぐらいで冬実も起きてくるのだが、朝食が食卓に並んでも降りてこない。
 冬実の分の弁当をいつもの包みに入れて準備を終えて、彼女はため息を付いた。
――やっぱり、ショックだものね
 手の水分をタオルで拭き取ると、二階の二人の部屋へと向かう。
 階段を昇ってすぐ左に菜都美、正面に治樹、右手の方に近い順に菜都美、明美と部屋がある。
 二階は全て洋間で、一階はキッチンと居間を除くと全て和室の作りになっている。
「冬実?朝よ、起きなさい」
 ノックしながら言うと、彼女は部屋に踏み込んだ。
「ふゆ…」
 ベッドは綺麗に整えられていて、いつも窓際にかけている彼女の制服もない。
 机の側にあるはずの鞄もない。
 まるで、この部屋だけ既に昼のような状況だ。
――あの娘……
 机の上に一枚、文字の書かれた紙が広げられている。
 小さな半透明の文鎮がおかれ、ボールペンで書かれた文字が踊っている。

 治樹を捜しに行きます。必ず私が連れて帰ります

 それを見て彼女はくたびれた笑みを浮かべる。
「何もこんな朝早くからいかなくても、お弁当、持っていけばいいのに」
 ため息を付くと彼女は部屋を出た。
 冬実が部屋にふらふらと戻っていくのを明美と見送って、『あの娘は諦めないわね』という明美の言葉が現実になってしまった。
――冬実も病欠ね
 階下に降りる前に菜都美の様子を見る事にして、そのまま彼女の部屋へと向かう。
 ノックをする。
「入るわよ」
 反応がないので言葉通り部屋に入る。
 菜都美はベッドの上で半身を起こして、うつむいていた。
 部屋に入った母親に気づいたように、のろのろと顔を上げる。
 右頬に大きめの肌色の絆創膏。
「あら、起きてるじゃないの」
 努めて明るく言い、朝食が出来たことだけを伝えると彼女はそのまま部屋を出ていった。
 起きろ、とも、食べろとも言わず。
 菜都美が返事も返さないうちに扉が閉まってしまい、誰もいない扉に向けて彼女は呟いた。
「…そう、よね」
 まだ両手が震えている。
 まだ恐怖に身体が強ばっている。
 まだ――あの、振り払えない程強い力を身体が覚えている。
 でも。
――今日は……今日ぐらいは良い、かな……
 でも日常は続く。
 何を考えたらいいのかが判らない。思いつかない。
 こうしている事の無意味さは判るのに、身体が動かない。
――ミノル
 ふと、皆勤賞を取る程の勢いでこの一年間通学していたことを思い出す。
 きっかけは殆ど勢いだったにせよ、その為だけに風邪で通学して昼早退という事もあった。
 『んだったら来るんじゃねえ』と怒鳴ったミノルの顔を思い出して小さく笑う。
 半年もすれば当たり前になり、ここのところは時間通りに姿を見せないミノルに不安になることもあった。
――……心配して、来て、くれるかな……
 そんな奴じゃないと内で否定しながら、来たら困ると考えたりする。
――心配、して欲しくはない、かな
 むしろせいせいして一人で通っているかも知れない。
 ふと視線を時計に向ける。
 時間は――ない。いつもならもう玄関をくぐっている時刻だ。
 だが、学校には間に合う。
 もし――もし、ミノルが来るのだとしても丁度、ぐらい。
 のろのろとベッドを降りて、着替え始める。
 制服姿で姿見の前に立ち、自分の格好を見つめる。
――変わり、ない、よね。うん
 チャイムの音にびくっと酷く反応して、慌てて鞄を探す。
 まだ準備もしていない。大慌てで教科書とノートを詰め込んで部屋を出る時、母親の声に重なるようにミノルの声が聞こえた。
――嘘
 階段を駆け下りるように降りて、玄関から戻る途中の母親とぶつかりそうになる。
「あ、何、どうしたの……」
「母さん、あたし学校行って来るから」
「え、朝食は?」
「食べないっ」
 急いで彼女の側を抜けようと床を蹴ろうとして、彼女の腕にふさがれてしまう。
「だったらせめて、お弁当を持って行きなさい」
 菜都美は、気が抜けたような表情で笑う母親を見上げた。

「なんじゃこりゃ」
 繁華街にあるファーストフードの店舗裏で、店員は首を傾げていた。
 昨晩捨てるためにまとめた売れ残りが、青いビニールが散乱しただけのものにすり替わっていたのだ。
 犬や猫、カラスの仕業にしてはやり方が巧い。
 第一、喰い滓(かす)が散乱していないのだ。
――誰かのいたずらかな
 彼はただのゴミに変わったビニールを拾うと、首を傾げながら再び店内へと戻っていった。
 その路地の隅、大きなエアコンの室外機のすぐ側。
 人間らしい物が蹲っていた。
 まるで死んだように動くことなく小さくなっている。
 もし誰かがそれを見つけたなら、死体でなければゴミにしか見えないだろう。
 そんな状態だった。
 夕方、まだ肌寒いこの季節の空気に、それは身体を揺り起こした。
 ゆらり、と。
 そして何かに誘われるように、薄汚れた路地をふらふらと歩いていった。

――五時…
 冬実は櫨倉の制服を着て、駅前まで歩いてきていた。
 もう今から学校に行っても昼の授業にすら間に合わない。
 構わない。結局、学校を休む事にはなってしまったのだが。
 鞄を持ったまま、制服で朝からうろうろしていると逆に目立つが、初めは学校にも行く予定だったのだから仕方ない。
 まるで山の中で冬眠した動物を探すように、路地を覗いたりして朝から歩き詰めている。
 しかし、それらしい物も何も見あたらなかった。
 食事も摂らずただひたすら一日歩き詰めたせいで、既に足の裏や太股に鈍い痛みが溜まっている。
 彼女は僅かに表情を曇らせた。
 日が暮れるまでに見つけたかったが、結局何の手がかりもなかった。
 諦めて帰ろうか迷っている時、奇妙な音が飛び込んできた。
 それは車でも、自動ドアでもない。
 時報にしては時刻がおかしい。
 低く、空気が破裂するような奇妙にくぐもった音。
 同時に、甲高いガラスを掻きむしるような響きが彼女の頭蓋を揺らした。
――っっ!何?
 倒れそうになって頭を抱えながら――それが、自分の周囲の人間は感じていないらしい事に気づく。
 ふっとそれが緩み、今度はそれが糸を引くように彼女の注意を向けさせる。
 穹に、何かが過ぎる。
 音もなく、空を横切る。
――ハル
 彼女が感じた方向へ、その姿が消えていく。
 見えない手で後ろから押されるような感覚は消えない。
 治樹はそれに逆らえないのか、飛ぶように駆けていく。
 屋根を蹴る姿は不自然で、通行人も殆どがまさかそんなところを何かが疾駆しているなどとは思っていない。
 冬実はそれを追う為に、動かない足に鞭を打って走り始める。
 見えなくなったって、今は――この感覚が何かは判らない――風が吹くように、引き寄せられる方向へ行けばいい。
 冬実はただそれだけを考えて走った。

 ひとしきり走りきって、冬実は繁華街の外れで大きく肩で息をして、こうべを巡らせた。
 先刻まで彼女が手繰っていた変な感覚が突然途切れたのだ。
 屋根づたいに走る治樹を追えるはずもなく、彼女は汗を拭いながら、ただ道沿いに歩くしかなかった。
 もう日が暮れる。陽は沈んでいるのか、穹の端の白さが闇の蒼さに払拭されようとしていた。
――夜になってしまう
 家族が心配しているかも知れない。
 折角、ここまで必死になって探しているのに。
 折角手がかりを捕らえたっていうのに。
 挫けそうになりながら、彼女は足を引きずるようにして繁華街を抜けた。
 あっという間に周囲は闇に沈み、彼女は時計を見ようとして街灯の側へと寄った時。
――っ!
 今度は確かにその『何か』の感覚が彼女を突き刺した。
 殺意。いやもっと強烈な――死への暗示のように。
 それが指し示す方向が、ここから真北に向かっているから――
 もう彼女はなにも考えずにその殺意の方向へと走った。
 その殺意はそれだけでヒトを殺せる程強く、もしそれを向けている人間と治樹が出会ってしまったら。
――ハルっ
 動かないはずの脚で、彼女は全力疾走していた。
 息が上がり、足から力が抜けていく。
「ハルっ」
 それでも彼女はさらに走った。

  それで何かが変わる訳でなくても

 住宅地を抜け、車も人も少なくなってしまう、寂しい河川敷へと出る。
 竹川の水音と独特の薫りに混じって、空気が軋むようなものを感じて彼女はじっと目を凝らした。
 いつも遊び場に使う広い、芝生の生える広場。
 その真ん中に、それは転がっていた。ヒトの姿をしている何かが。
 冬実は舗装された道を駆け下りて、その影の側へと向かう。
「…!は…」
 だがそれは既にヒトではなかった。
 冬実は全身を硬直させて、それを見下ろしていた。
 血臭と、そして恐らく本人の血溜まりに沈んだモノと、背中を向けた彼の肩口から腰までの切断面。
「ハル」
 彼は真っ二つに斬り殺されていた。
 見慣れた彼の寝間着まで綺麗に斬り下ろされて、全身から僅かに湯気を上げる。
 つい先刻まで生きていたからだろう。
 でも誰の目にも、間違いなく絶命しているだろう。
「ハル……どうして、こんな、事に……」
 物言わぬ彼に言葉を零し、側に彼女は両膝から崩れるように座り込んだ。
 もう手遅れなのに。
 彼女は両手を治樹に向けて伸ばして、血に汚れるのも厭うことなくそのまま抱き寄せた。
 まるで微かに残った温もりを全て奪い去るかのように、抱きしめる力を込める。
 もう冷えていくだけの動かない治樹は、姉の行動を非難することもない。
 時が止まっているように、何の物音も冬実を遮ることはなかった。
「…ほぉ」
 だがそれは唐突な声で現実に引き戻される。
 冬実は慌てることもなく顔だけを向けた。
「死体を抱きしめるクセでもあるのか?」
 月の明かりは蒼く、そこに立つ男は奇妙な姿をしていた。
 肘から下の部分には肝心なものがなく、ただ雫を垂らしているだけだ。
 やけにバランスが悪く見えてしまう。
「……あなたは」
 冬実は治樹を地面に寝かせると立ち上がる。
 走りすぎたせいで両足とも筋肉が悲鳴を上げている。
 逃げようと思っても恐らく逃げ切れない――まだ。
 男は目元を引きつらせるようにして苦い表情を浮かべている。
「冷静だな、真桜の女」
 彼の後ろから二人の人影が近づいてくる。
「この状況で」
 そのうち一人の手には細長いものが握られている。
 時折月の雫が嘗めるように明滅する――あれは多分、金属製の。
 冬実は自分の視界に映ったそれを表現するための言葉を探す。
 まさかそれが刀であるはずがない、から。
「お前が今ここにいれば、後ろの奴に斬り殺される。弟の後を追うなら止めはしないが」
 彼は吐き捨てると左手を上着に突っ込み、少し大きめのナイフを取り出す。
 華美な装飾はなく、黒く艶のない刃に黒い影の筋が走っている。
 明らかにそれは戦闘の為に不必要な部品を排除した、そんな印象を与える無機質な武器。
 だがそれは彼女に突きつけられた物ではなかった。
 一瞬彼の視線が、彼女の向こう側の地面へ注がれる。
「暫く、お前にも選択権はあるようだな」
 彼は呟いて背を向けると、彼女に背を向けた。

 河川敷沿いの道路から戦いを見下ろしていたミノルは、実隆にコンタクトを取った。
 戦いの最中に身体を預けるのは危険だったが、目的のためには仕方がなかった。
 そして戻ったミノルは、詠唱を続けて刀を構える隆弥の目の前にいた。
 血の臭いのする河川敷で、彼は血刀を振るう隆弥と、死んだ治樹を見た。
――ちっ
 しかも右腕が落ちている。
 空気が詠唱によって粘りを覚えている。
――『言語拘束』か。姑息な使い手だな
 素早い踏み込みからの上段。
 振り下ろされる刀は、目ではなく肌に触れる空気の流れで読む。
 耳元を吹き抜ける風切りの音をいなし、転がりながら体勢を立て直す。
『腕をなくすな。後で元に戻してやる』
 リーナの声が脳髄に直接響く。
 実際には響いているのではないが、感覚としてそう聞こえるのだ。
――ああ。判ってる
 この辺りに落ちているはずだ、彼は視線を逸らせることのできない今の状況を悔やんだ。
 身体を捻る。
 地面についた左足が返してくる地面の感触。
 そこに――全力を流し込む。
「!」
 ミノルは嗤った。
 今見せたこいつの貌、それがあまりにもおかしくて。

 総ての言葉の拘束を引きちぎる

「無駄だよ」
 あの無表情で、戦いに感情を持ち込めない戦闘用ロボットには。
――予想外の結果になったか
 空間に亀裂が入るような、そんな感覚。
 奴の振り下ろした凶刃の側を、ミノルの身体は加速しながら抜けていく。
 一旦距離を取って、離れなければならない。
――リーナ
『…既に家には連絡しておいた。一人がそちらに向かう』
 同時に、どちらから向かってくるのかが彼の頭の中に浮かぶ。
 それに従ってもう一度地面を蹴る。
 後ろから声が追ってくる。
 但しそれは感情のない、いつまでも続く呪詛の音。
 彼の足を止めるには茨の蔓程も効果はない。
 ミノルは僅かに声に向けて振り返り、堤防を一気に乗り越え、反対の斜面をかかとだけで滑り降りる。
 その彼の頭上を、風音が走り去る。
――やはり、来たか
 同時に一瞬視界を遮る影。
 彼の前に、後ろにいたはずの男の姿が現れる。
 めりめりと着地時に超荷重に耐えきれないような音がした。
「けぇっ」
 動きと登場を読んでいたミノルは、左肩から奴に体当たりを行う。
 すんででかわす。
 そのまま斜面を転がって、更に間合いをあけようと試みる。
 体を捻り、背を向けている奴を確認する。
――今は、時間を稼ぐ方が大事だ
 腕を拾って行かなければならない。そのためには、こいつを止めなければならない。
 だがそれは片腕では無理だ。
 ならば、来るはずの隆弥の『家』の人間に止めて貰うより他はない。
 ゆっくりと振り返りながら、刀の切っ先が彼に向くまでの時間、彼は逃げる方法を考えていた。
「死ぬ覚悟ができたのか」
 いつの間にか詠唱は途絶えていた。
 彼に呪詛が――言語による拘束の手段が一切効かない事が判ったからだ。
「いや」
 短く言い、腰を僅かに沈める。
 最初から想定していれば問題なかったのだろうが――残念ながら準備不足だった。
――それに、どれだけ逃げてもこいつは追いつく手段がある
 それも以前に経験した。
 だからこそ、『仕掛け』に誘導したというのに――それもままならない。
 ここから離れるわけには行かない。
 落ちた自分の腕を確保しなければならないからだ。
 隆弥も追いつめられていた。
 既に仕事を終えたのだから、できる限り早く現場から離れなければならない。
 だが本能にも似たものが、彼を殺さなければならないと疼く。
――一人殺しても二人殺しても、同じ事だが、やはり以前に殺しておけば良かった――

 青眼に構える隆弥には隙がなかった。
 ミノルもぴくりとも動くことができない。
 どう動いても一撃で刻まれる気がする。
 普段なら――もう片腕が在ったとしたら、素手でも勝てるだろう。
 既に片腕では格闘に持ち込んだ際、あまりに不利だ。
――……どうする

  疾っ

「!」
 動いたのは隆弥だった。
 だが、ミノルも躊躇いはない。
 上段から斬りかかる刀を、右腕の切断面で一瞬受け止める。
 刃が完全にめり込み、引かれる前に体重を抜き、大きく屈伸する。
 隆弥は完全に読み切れなかった動きに斬るタイミングをずらされたため、そのまま袈裟懸けに斬り払えなかった。
 それが致命的な隙になる。
 もしミノルに戦闘ができる状況なら、左手にナイフが握られていれば終わったかも知れなかった。
 隆弥が動揺した隙は、ミノルにとって好都合だった。
 充分に蓄えた力で地面を蹴り跳躍する。
 一息に道路まで跳び上がった時、彼の視界に奇妙な物が映る。
――?
 それは血溜まりに倒れた治樹に駆け寄る姿だった。

 ナイフを構えて腰を沈めるミノルの視界に、二人の人影が見えた。
――間に合ったか
 だが、この現場にいる部外者はどうだろうか。
 それも『家』の人間が見逃すだろうか。
 もう一度彼は後ろにいる少女へと目を向けた。
 まるで何も知らないかのように、畏れすら抱かない瞳が彼を見つめている。
 すぐに判った。
 そしてあの家の人間も判断するだろう。
 彼女の臭いと目に宿る光に。『化物』の家系、真桜という存在に。
 ミノルは苦々しく顔を歪める。
「…何故、逃げない」
「足が動かないから。…休まないと、逃げることもできない」
 それは肝が据わっているのか、それとも感情が潰れてしまっているからなのか。
「逃げても、すぐに追いつかれてしまうから」
 彼女は現実を淡々と述べると、ついっと視線を逸らせた――多分、『家』の人間と隆弥を見ているのだろう。
「あの人は敵。…そんな臭いがする。私達を狙って、殺すためだけの」
 冬実はもう一度ミノルに視線を向け、その冷たい能面のような表情のまま、やはり淡々と聞く。
「あなたは何故あの人から逃げているの」
「腕がないからだ。お前の後ろにある腕――あれがあれば、戦っていた」
 ミノルは言うと顔を隆弥の方へ向けた。
 一度跳躍するだけで詰められる間合いに、奴がいる。
「今は、何故」
 その言葉は何を指していたのだろうか。
 ミノルはあまり考えもせず、僅かに膝を落として跳躍の準備をして応えた。
「……さあな」
 そして、彼女の双眸をもう一度思い出して彼は苦々しく口元を歪めた。
「俺が、お前の事を殺すことはできないから、かもな」


 後を追う隆弥は名前を呼ばれて立ち止まった。
「重政」
「やめろ。依頼人に攻撃をする事は許可しない」
 その一言で隆弥は構えを解き、すっと背筋を伸ばす。
「相手が喩え化物であれ、目標の殲滅後新たに目標として示すまで」
「…………」
 不平も不満も、そして疑問すら語らず、彼は沈黙して視線を再び『目標』に向ける。
 既に息絶えたはずのそれに、一人別の人間が覆い被さるようにいる事が判る。
「依頼人か」
「いや。……電話連絡を入れてきた依頼人とは違う」
 つい、と視線を細めると隆弥を促して、依頼人のボディガードとされるミノルへと足を進める。
 ミノルは片手にナイフを握りしめ、いつでも飛びかかれる体勢で構えている。
 時折後ろを向き、少女と話をしているようだ。
 そして、ぎりぎりの間合いで二人は足を止めた。
「目標は、確認できたかね」
 重政の言葉に、小さく頷いて応えるミノル。
「ああ。だがあんたのところの始末屋に、俺は手傷を負わされているんだがな」
 そう言って右腕をあげてみせる。
 重政は苦い笑顔で一瞬だけ顔を引きつらせた。
「それについては謝罪しよう。まさか、確認に来る人間が『人』ではなかったなんて思わなかったのだ」
 肩をすくめて隆弥を一瞥すると彼は続ける。
「これには、人ではない物を見つけると攻撃するように仕込んでいるからな」
「猟犬のしつけはしっかりやりな」
「言われなくとも。――だが、我々が人間以外を赦す程愚鈍でも無ければ情けがある訳でもないのは承知のはず」
 黙り込む。
 しばらくの沈黙を肯定と取ったのか、重政は続ける。
「時に、後ろの彼女はどなたかな」
「あなたの言葉を借りれば『敵』」
 重政に応え冬実は目を細める。
「その人が私の、大切なこの子を殺したの」
 それは冷え切った冷たい言葉の羅列。
 疑問形ではない、確定の言葉――確信している強さ。
「成る程」
 重政はもっともだと言わんばかりに大きく頷く。
 隆弥は、動かない。
 彼は応えることも言葉を紡ぐことも、表情すら変えずただ突っ立っている。
「だがそこにいる男がそれを指示――依頼してきたんだが?」
 冬実の表情は変化しない。
 ただ重政に変化の少ない貌を向けているだけ。
「そう」
 やはり淡々と、感情が感じられない言葉で応える。
 重政は冬実から視線をミノルに向け直す。
「我々はまだまだ、できれば友好的でありたい。違うかな」
「……できれば、な」
「では」
 重政の沈黙に、ミノルは怒りの表情を浮かべる。
「今回の報酬はねぇよ。違うか?――後始末まで、きちんと頼むぞ」
「ふう、やれやれ。そうか、仕方ない」
 瞬時にミノルは空気を緊張させる。
 だが、隆弥はそれでも反応しない。
「今回は無償奉仕としよう。ああ、それから我々は慈善事業ではないが、報酬は頂いていないよ。あくまで必要経費分だけだ」
――自分達の組織維持や、猟犬の餌代も必要経費って言い切るんだろうな
 ミノルは思ったが、何も言葉にせずに構えを解いた。
 緊張だけは解かず、背を向けるとナイフを懐に戻した。
「お前も帰れ。できれば、今すぐにな」
 律儀に冬実に言い、彼はさっさと道路に向かう。
 冬実はそれを見送るように視線で応え、隆弥の方を向いた。
「今日のところは帰れ、真桜。まだお前は枠の中にいるだろう?そのうちは――見逃す」
 機械かレコードのように抑揚のない音を紡ぐと、隆弥は再び動かなくなった。
 冬実も無言で彼を一瞥し、背を向けた。
 何を言っても無駄――彼らとは、絶対に分かり合えないから。
――先刻の男
 もう既に道路を歩いている彼を捜すと、冬実は小走りに彼を追いかけた。
「――では片づけようか」
 重政はゴミでも捨てるような、気軽な口調で呟いた。

「待って」
 人気のない河川敷の道路で、冬実はミノルと向かい合った。
 ミノルは自分の右腕を左手に掴んだままゆっくりと振り返った。
 月明かりでは彼の顔色は判らないが、腕を切り落とされたというのに何事もなかったようにも見える。
 そう言えば血の臭いもしない。
「…なんだ」
 彼は面倒臭そうに返事を返した。
「何故、私が真桜だって」
「判るさ。――そう言うものだろう」
 ため息をつくように吐き捨て、彼は背を向ける。
「じゃあ」
「何だ、まだ何かあるのか。俺は腕の治療をしたいんだが」
 今度こそ彼はため息をつき、肩をすくめる。
 振り返ろうとしないが、彼は足を止めて冬実の言葉を待つ。
「あの人達は」
「人間だろ?――だから、反吐が出る程嫌気が差す。奴らは、俺達を排除しようとする」
 そして彼は振り返った。
 感情が高ぶった貌を見せて。
「お前はどうなんだ」
「私は」
 冬実は言葉を詰まらせて、顔をあげてミノルの目を見た。
 この闇の中で絞り込んだように黒い彼の瞳を。
 どれも正しくない。
 どれも間違いではない。
 肯定ができない――でも否定にならない。
 人間として生きてきて、人間の中で生きていて、彼らを嫌悪するどころか。
――自分の存在すら、不安定で何の感情も抱けないのに
「判らない。だから。…どうしてあなたは人間を否定しなければいけないんですか」
 少なくとも自分の家族は、人間でもあるしその規格から外れかけたものもいる。
 真桜という家系そのものが『ヒト』の家系として薄まろうとしていても。
 まるでそれに反発して、自ら規格外の存在になろうとしているのか――それともそれが種の保存として現れるのか。
 ひやりとした夜の空気が、二人の間を僅かに流れた。
「今、俺がいる理由だからだ」
 再びミノルは背を向けた。
「お前は、俺が出会った二人目の同類だ。――もう一人と、お前は」
 一瞬顔だけを冬実に向ける。
「どこか似ている気がする」
 ミノルの脳裏にリーナの顔が浮かぶ。
 勿論人形の顔などいくらでも造作できる、顔形が似ている訳ではない。
 でも背丈のない彼女を見ていて、彼は早く帰らなければいけないと思った。
 冬実はそれ以上何も言わなかった。から。
 そのまま彼は無言で立ち去っていった。


「行って来ます」
 あの時の、あの男。
 そっくりなこの実隆という名前の男は、しかしそれを何も知らなかった。
 まるでおかしな事に、菜都美やあの時死んだ弟のように。
 警戒する必要はなかった。だけど、彼は『楠隆弥』を探していると言う。
 弟を斬り殺したあの男を。
 冬実は玄関に腰掛けて、小さな革靴に足を通して立ち上がる。
「大丈夫?」
 実隆の声に彼女は顔を上げる。
 何の話だろうか。いや。
 昨晩の事――血塗れで帰宅し、途中で少年に襲いかかられた事を言っているんだろう。
 怪我はないと伝えたのに。
 彼女はすぐにもう一つの事を思い立って、答えた。
「大丈夫、かも知れません」
 それが精一杯の返事だった。
 すぐに背を向け、扉に手を伸ばして、もう一度実隆の顔を見る。
 真剣な、そして何の媚びもない真摯な瞳。
 強さよりも脆さを感じさせる、どこか危うい男。
 それが何故なのか、少なくとも冬実は知らない。
「昨晩のあの少年は、私が近づかなければあれで終わります。……でも、これ以上何かを起こすようなら私が赦しません」
 少年――五十嵐幹久と言う彼は、いや、彼の周囲で起こっている出来事。
 半年という時間は短いのか長いのか、冬実は独力だけである事に辿り着いた。
 ヒトを護るという組織があり、『家』と呼ばれる出先の機関が有る。
 『家』に与えられる『駒』、そしてそれを育てる孤児院が存在するというのだ。
 そして彼らの育成の過程というのは、途中幾らか外部による教育もあるらしく、その人間の素質の方向に伸ばすという。
 ヒトというあり方を失ってしまった化物を狩る為の駒。
 過去に真桜家を追いつめた一団は、もしかすると彼らなのかも知れない。
 ぱたんと小さく音を立てるドアを一度振り返り、冬実は学校へ向かう。
 治樹は『家』の『駒』に殺された。
 もう治樹はこの世にはいない。
 まだ彼女の中で、彼の怯えるような貌が焼き付き残っているのに。
――私は菜都美姉さんを護る
 化物として狩られる事を逃れるための、ヒトの檻。
 でも逆に、化物に狙われてしまうのであれば――化物である彼女達がそれを防がなければ、打つ手はない。
 いかに化物に最も近いヒトであったとしても、純粋にヒトの枠を越えられないはずだから。
 ヒトから護り、化物からも護る。
 その協力関係が血脈としての家族を、より具体的に形作る。
 そうやって、一族として今まで生きてきたのだ――隠れ棲むようにして。
 今という平和な時代にそれは本来必要なかったはずなのに。
――ハルの選択を、私は否定したくないから
 高校三年にあがる時、明美は冬実に様々な口伝を全て伝えた。
 もう少し正確に言うと、実隆が彼女の家で下宿することが決まった時に、『最後の真実』と言う感じに。
『できれば、知りたくないことかもね』
 明美は苦笑してそう言っていた。
 ヒトとしての側面と化物としての側面を持つ家系で、家族同士の結びつきがまるで利害関係のようで。
『本当は伝える必要がない方がいい。だって、それじゃまるで家族ってものが、ないがしろみたいじゃない』
 理由がなければ家族と言えないなんて。
 明美はそんな理由なんて関係ない、そう言い切って笑っていた。
 でも、冬実は思った。
――理由がなければ生きていけないから。それがどんな理由であれ構わない
 喩え、それが形だけで構成された偽物であっても。
 生きるために縋れる物であれば構わない。
『理由?……みーちゃん。境界に立つ者が現れて、人狩りを始めたから、身を護らないといけないでしょ』
 実隆の居候を決めたのも、彼に柔術を仕込もうとしているのも、明美が関わっていた。
『軽蔑するなら軽蔑して。その方がわたしも気が楽だからね。でもなっちゃんには内緒よ』
――多分私は、この為にだけ生まれたのかも知れないから
 もし菜都美が、また襲われるような事があるなら。
 誰かに捕らわれるような事になるなら。
――その時は私は、ヒトを殺してでも護ってみせる
 如月工業には魔術師が棲みついている。
 まさか、黴の生えた技術である魔術などが今まだ存在しそれが影響力を持つなど、誰が考えるだろうか。
 所詮科学に置き換わった、もう一つの技術体系であり、宗教的・哲学的存在だとしか捉えられていないだろう。
 『駒』の養成について調べていた際、彼女は、今まさに日本に存在する魔術結社との接点を発見した。
 だから――魔術師から辿れば、敵にぶち当たる可能性がある。
 そうでなくても、あんな化物を抱えているんだから。
 冬実は五十嵐の裏にいる魔術師が、何らかの手を打つだろうと確信している。
 実隆にはああ言ったが、動く覚悟を決める必要を感じていた。

 明美は実隆の出かける声を聞き流して、食堂でお茶をすすっていた。
 今まで動きを見せていなかった敵が、やけに強引な手段を行使している事に疑問があった。
 今回の冬実の報告によれば、魔術師が扱っている『薬』に原因があるのかも知れないと言うことだ。
――魔力があがる、ね。…多分狩人も何か掴んでいるのかも知れないし
 少なくとも、無差別に襲うことはないだろうが、行方不明になった隆弥の動向も気になる。
 何故彼がいなくなったのか。
 実隆も巻き込まれただけなのだろうか。
 何にしても犯罪を引き起こして、周囲の目を引くような形は、彼らには不利になるばかりのはずなのに。
 よしんば隠せなくても、隠蔽するために別の事故を装う事もあるだろうに。
 彼女は、自分専用の大きな湯飲みを両手で抱えて、お茶を覗き込んだ。
「あ、茶柱」
 良いことがあるかも知れない。
 のんきにそんなことを夢想しながら、食後のお茶を終えた。


◇次回予告

  夜電灯に群がる蛾のように。
 「悪いな、それは俺じゃない」
  闇の中を歩くには、光が必要だ。
  もしその灯りが――炎であったとしても。

 Holocaust Intermission:ミノル 4  第1話

 迷い蛾のダンスか。それは俺も同じなのかも知れない
                                            ヒトがヒトであるための必需は多く

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