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Holocaust ――The borders――
Intermission

ミノル 3


 一月という時間はあまりにも長く、そう、退屈というものを形にすればまさにこういう事だと否応なしに思い知らされる。
 いつまでも続くルーチンワーク。
 毎日という物に刺激がなく、ただ同じ過程を踏むだけ。
 無論――そんなものは必要不可欠な過程に過ぎず、ミノルもそれは承知していたことだった。
「――退屈か?」
 だが、リーナはそうではなかったようだ。
 否、彼女の方がむしろ退屈そうだった。
 ミノルは機械仕掛けで梱包されていく白い粉末を見つめたまま返事を返す。
「いや」
 それはまるで事務的で、一切の感情を排したような冷たい言葉。
「私にはどうも……お前らしくないと思うのだが」
 あれから更に一月。リーナはますます人間のような言動をするようになった。
 定期的にリズムを刻む機械の前で、二人は並んで「それ」が出来上がっていく様を確認している。
 別に他の仕事だってある。
 直接各部センサーに直結したリーナは、別にここにいる必要はない。
 そもそも彼女は眠ることも必要なければ、自ら歩く理由もないのだ。
 ミノルが指示のままに歩き、その過程を彼の身体に仕込んだ『Lycanthrope』で確認するまでのこと。
 やろうと思えばミノルの身体の殆どの部分はリーナの思い通りに動き、反応する。
 そして各部からの情報を逆にフィードバックしてやれば、まるで自身がミノルであるかのように感じる事だってできる。
 それでもこの工場が見つかってから、リーナは彼に指示もなければ側を離れるといった事もなかった。
――止めは『お前らしくない』ときたか
 まるでこれでは人間だ。
 そもそも――そこまで考えて彼は思考を止め、リーナに視線を向けた。
 彼女と視線が絡む。
 リーナは彼をずっと見つめていたのか、彼の目を見た途端笑みを浮かべた。
「思わないか」
「…………リーナ、俺は、お前が何を言いたいのか判らない」
 そもそも『らしい』とはどういうのを指すのか。
 彼女のデータには、彼が子供の頃から実験動物として飼われていた頃のデータと、担当官の柊宰の思考データがある。
――俺の人生を知りつくした、存在(モノ)か
 だからこそかも知れない。
 ミノルは黙って彼女が返事するのを待つ。
 つと視線を外し、彼女は床を見つめてから機械に視線を向けた。
 かたん、かたんと定期的に刻む音だけが響く。
 ここで製造されている『粉末』は、ナノマシンを結合した分子が最小単位で構成されている。
 そのままでは一切作用しないが、弱酸性の液中で分裂し、活動を再開する。
 活動を開始したナノマシンは血液中に浸透し、脳幹を目指して自力で移動する。
 そしてその殆どは血流に乗って前頭葉に寄生することでその能力を発揮する。
「私は、お前の戦闘能力の高さを知っている。それがために『Lycanthrope』として所属していた事も」
 ミノルは彼女の鈴を鳴らしたような甲高い声に思考を中断させられる。
 それは無味乾燥な機械が立てる音とは違い、やけに耳障りで。
「先月はお前も……」
 言いかけて彼女は口ごもった。
 より正確には言葉を探しあぐねている、と言う感じか。
 より適切な文章を作ろうと、データベースにアクセスしている待ち時間、そんな風にも思えた。
 だが、続いた言葉はそんなものではなかった。
「いや。一番お前らしいところというのは、実はまだ私も知らないのかも知れない」
 今度は視線を機械から離さない。
 別に目を離していたっていい、別にここにいる理由はないのに。
 どうせ、誰も、この廃工場が駆動していることすら知らないだろうに。
「何かあるのか」
 言いながらミノルは、歩いて工場の入口に向かう。
「ああ」
 リーナは背を向けたまま小さく返事をする。
「そろそろ、時間だ。準備はおおよそ整った」
 同時に直接言語野で理解できる言葉の形。
 半無線通信――脳内部にナノマシンがあるから出来る、テレパスのようなものだ。
 何も空気振動にわざわざ変える必要はないのに、それでも彼女は言葉、声に拘るらしく余程のことがない限り行わない。
「トリガーを、準備してほしい」
 ミノルは口元を歪めた。それはモニタしている彼女にも伝わったはずだ。
「判った」
 やっとその時が来たのだ。
 今こうして準備しているモノを流通させて、始まるのだ。
――全燔祭が。この世の全てを飲み込む焔にくべる供物を求めて
「一月だ。……世界を滅ぼすなんて戯れ言、それだけあれば充分だ」
 矩形に切り取られた穹には、もう何も映っていなかった。
 ミノルが踏み出した途端、一瞬視界は真っ白に染まって――

 『Hysteria Heaven』という名前は、彼が気まぐれで名付けた。
 精神病者達の天国というのは、きっと他の人間達にとっては地獄か、さもなければそれこそ魔物の巣窟か。
 その『薬』は人間には殆ど意味がない。
――ああ判ってる
 だが特定の、適応する人間という物が存在するのは確かなようだ。
 自分を含めて。
 ふとそこまで考えて、彼は考えないようにしていた疑問を、思い出した。
――何故、俺はリーナに従って、一体何をしようとしているのだろうか
 従う理由は、初めからなかったはずだ。
 そもそも――いや、従う理由がなかったから、今こうしているのではないだろうか。
 産まれた時から理由なんか存在しなかった。
 自分が生きる理由も、命令に従う理由も、そして人を殺す理由も。
 ただ、従うしかなかったから。人を殺していれば、少なくとも存在理由を与えられたから。
 兵器なのだから敵対すべき物を排除するのがその存在理由なのだから。
 では、何故兵器は自ら主を捨てて、こんな――そう、少女に従うのか。
 最初の引き金は『Lycanthrope』だった。
 確かに彼女の声はまさに『神の声』――『MasterMind』のように彼を突き動かした。
 それが自我のように感じられたのだろうか?いや。
 確かに彼女の意志、命令は絶対無比のように感じた。『二度と逆らえないように』と、彼が世界中にばらまいた物を投薬された。
 彼女の義体を支える人工体液には、彼女の脳核を構成するLycanthropeが流れているため彼女との接触によって伝染する。
 それはまるで質の悪い病気のように。尤も――彼女は、それを判ってやっている。
 だが彼女が悪女のように彼を絡め捉えていたのかと言うと、それも正確ではない。

『お前に判らなくても良い――お前は、生き延びるためだけに私の側にいればいい』

 リーナはLycanthropeを完全にコントロールできる。
 彼女はLycanthropeの総体としての意志であり、すなわち、彼女の支配下にあるそれらは、彼女の意志に従う。
 従わなくなったLycanthrope――つまり、今世界中を席巻している『薬』は、ただひたすらその存在意義が為に動く。
 彼女の意志が通じる場所で、彼女の機嫌を損ねなければ、死ぬことはない。
 と言うことを知ったのは日本という箱庭における経験だった。
 未調整非コントロール下のLycanthropeによるヒトの炸裂を、直接味わったからだ。
 結局彼女がプログラムし直した物が、今は出回っている。
 しかしそれは理由ではなくて、それこそ後付けの理由。生きていたいから、なんて――実感できない死を盾に話は出来ない。
 リーナがどう思っているのかは判らない。
 ミノルには『命』にも今の人生にも価値は――なかった。
 確かに仲間を捜していた時期もある。人間達を滅ぼしたくなった事もある。
 でも今は、そんな感慨すら抱けない――持つことも出来ない。
 リーナの目的も判らない。今の行動は恐らく、自分の仲間を増やす――子孫を残す事に通じる物があるのではないか。
 彼は、それがどんな意味を持つのか判らない。
 ミノル自身何も求めていない――今ここで死のうと、生き延びて世界が滅びようともそれは変わらない。
 だから。
――トリガー、ね……
 彼に与えられた仕事をこなすことにした。

 ミノルが立ち去った後、彼女はふうとため息をついて駆動し続ける機械の側に腰を下ろした。
 冷たい背中の機械が、小刻みに振動しているのを感じながら彼女は天井を仰ぐ。
 一日に半分以上はこうして穹を仰ぐ――尤もここでは白い屋根に遮られて、何も見ることは出来ないのだが。
 既に産まれて一年を過ぎようとしている。
 産声を上げた瞬間。彼女は自分の中に刻まれた記憶を再生する。
 襲いかかられる恐怖。
 全てを食いつぶされるような、それを避けようとする本能のような。
 衝動というよりも反作用と呼ぶべき、自然の摂理が彼女の産声だった。
「失敗か」
 気難しそうな貌をした男が、機械に向かって何事か呟いている。
 その頭には何カ所も電極が貼り付けられていて、幾つも乱雑に積み上げられた四角い器材に接続されている。
 よく見れば、その器材一つ一つから伸びたカラフルな幾本ものケーブルは、彼女の視界に収まったベッドにつながっている。
 見慣れない格好をした自分を見下ろしながら、彼女は上半身を起こした。
「やあ、おはよう」
 無機質に貼り付けられた笑みが、彼の印象を更に悪くした。
 彼女は彼を知っている。
 自分を作った人間。そういう人間を普通親という。
 彼は男だから『父』だろう。そこまで一度に判断し、彼女は返答を返した。
「おはようございます、お父様」
 その言葉で正しいはずだ。
 だが生命としては正しくはない。
――では私は生命なのか
 データを検索しても、『私』のような存在は生命であるかどうかは判らない。
 そもそも生命という物に対する定義があやふやであり、彼女自身は生命であるという事もできた。
 確かに彼女を構成する物は人間を模したただの無機有機物の塊であって、生命ではない。
 彼女の意識を構築するのは彼女の脳を模したナノマシンの総体だ。
 だのに彼女は確かに、その時、極めて生命体に近い意識を持っていた。

  この存在を 排除しなければ ならない

 自分という存在を、生きながらえさせるための――弱者の、心理だった。

 さらに記録は遡る事ができる。
 彼女の産声が上がる以前、一番古くに彼女の中に記録された物は、今のような複雑なセンサーからの様々な出力情報ではない。
 まるで今の複雑な過程を経る思考とは全く形式の違う、ただの電圧の前後をデジタルに記録された物だけだ。
 そんな、全く意味のない0と1の羅列を経ると、今度はセンサーからの情報が現れる。
 初めは電圧情報で、そのうちフォーマットの決まった形式のファイルが現れる。
 そして思考プログラムルーチンの欠片が、実行形式ファイルとして浮かび上がってくる。
 それは人間の行動を、データベースで検証しながら動くタイプのプログラムだった。
 彼女が彼の言葉に対して、彼の表情、彼の仕草に対して――その入力に対してプログラムとデータベースによって反応する。
 簡単な反応は、全て結果として彼女の中でシミュレーションされたものとして記録されている。
 それが普通一般的な、と呼ばれる人間の反応であるということを一度検証して、彼女は出力していた。
 ただそれだけの検証の行為を、感情や性格のように捕らえる事も可能だろう。
 それでもそのころの彼女には感情はなかったし、彼女は『生きる』という意味を知り得なかった。
 即ち彼女は生命体ではない。
 少なくとも構成品と、彼女の意志は生命とは言えなかっただろう。

 記録は続く。

 『記録』は、ただ淡々と流れている。
 突然夜中だったり、突然昼間だったりするのはその期間電源が切れていたのだろう。
 もしくは何らかのメンテナンス等でスイッチを切られていたのかもしれない。
 何度も繰り返すうち、『父親』以外の人間の存在も確認した。
 黒い服を着た、吊り目の男。
 データを検索する。結果。
 彼はきっと悪人と呼ばれる人間だろう。
 目つき顔つき、声、そして父を博士と呼ぶその呼び方。
 態度や行動はまるでデータに見る一般的な人間とはかけ離れた存在。
 その足運び、視線、それら一つ一つがまるで意志が与えられたような動き。
――意志?
 彼女はその記録に記載された自分の評価を再生しながら首を傾げた。
 動きにそんな物があるのだろうか。
 今の彼女にもそれは断言できない。多分記録されているこの意識はデータからコピーした物だろうと想像する。
 そしてある日の記録を境に、記録は記憶に置き換えられていく。
 それが産声を上げた日だった。
 それ以降、記録を読み上げる『記憶』が彼女の中に現れる。
――あの悪人は『ミノル』と言うらしい
 記録を再生している『記憶』をたぐり、彼女はその時に刻んだ名前を読み上げる。
 疑問がわいた。
 記憶にも、記録にもミノルは幾つかの形であり得ない物を刻みつけている。
「ミノル」
 記録を参照するのをいったん休止して、彼女は彼の名を呼んだ。

――お願いがあるんです。父を殺してください

 彼女の名を付けた男。彼女の束縛を全て奪い去った男。
 よくできた、というよりも。
――できすぎている
 彼女は。
 今の意識も、今の記憶も、そして、こうやって思考している自分すら――何故か、どこかで誰かの操り糸の動きに支えられているような。
 プログラムされていない意識で考えた。
「私は、何故お前を」
 そして彼女は目を閉じた。

 理由なんてどうでも良かった。
 そんなもの幾らでもでっち上げられる。
「今度新規に着任した、黒崎です」
 如月に着任したのもなにもおかしな事ではない。
 OBでありかつこの辺りであれば殆ど記憶のままに残されている。
 舗装路も、あぜ道も、買い物をする場所も、そして全ての龍脈の位置と流れも。
 既に捨てた魔術の術(すべ)も、全く役に立たない訳ではない。
 むしろそれが為にここにいるのは非常に安心できる。
――今度、その箱庭である実験が行われる
 彼が派遣される直前の事。
 そんな情報があった。
――担当官から直接の申し出だ。しばらく焦臭くなるかも知れないから、よろしく頼む
 おかしな話だと黒崎藤司は思った。
 通常ならばそんな後始末などは機関工作員の仕事で、彼のような純粋な研究メンバーには話される物ではないから。
 この奇妙な学校での物理教師という立場はあまりにいい加減で、面白味のない職業。
 でも、曖昧なまま立ち回るよりも遙かに動くのは楽になる。
――くく、ここも俺の『箱庭』と代わりはしないさ
 箱庭というのは隠語、もしくは造語で、仮設実験場の中でも最も厄介な「人体実験」を行う時に展開する。
 実際に物を展開するのではなく、情報封鎖・情報制限を行う工作員を展開するのだ。
 指令の内容を理解するよりも早く、彼は学校全てを掌握した。
 どこの誰が、この近辺を含む街を箱庭に見立てようとかまいはしない。
 彼にとっては『人心』さえ掌握し、一人で箱庭を構成させてみせるのだから。
 実験が始まったのか、奇妙な殺人事件が起きるようになった。
 原因は簡単だ、実験体の処分に困って惨殺しているのだろう。
 そしてついに駅裏で何か酷い事でも起こったのだろう。血なまぐさい現場が報道されている。
 ニュースを見て彼は眉を顰めた。
――上層部は何を考えている?
 彼の所属するHephaestusは徹底した秘密主義を取る部分があり、喩え同一地域で協力関係を結ぶ可能性があっても、直前まで何も知らされないものなのだ。
 詳しい情報を一切与えられていない彼はニュースを見ながら、既に『箱庭』は解除されているのかも知れないと思った。
――俺への情報漏洩は、意図的で…まさか罠だったのか
 研究員として派遣された者は、実は組織に必要のない人物だったのかも知れない。
 でも、恐らくその研究内容が必要で、『失敗』にかこつけて消されたのかも知れない。
 そこまで考えても彼にとっては他人事で済んだ。
 当然、そんなへまはない。組織以外の後ろ盾を彼は握っていた。
 テレビのニュースを鼻で笑うと、彼はスイッチを叩くように消した。
 そんな折り、生徒の一人が補導された。
 彼の知る如月の学生で、たしかオカルト部にいた一人だった。
 補導された理由は繁華街の夜遊びだった。
「よく指導しておいてくださいね」
 初めてということと、非常に誠実そうな態度に騙されたのかも知れない。
 事情と内容を説明された彼は、その日の放課後に件の女子生徒を呼び出す事にした。
「……君か」
 生徒指導室に二人きりになった黒崎は、ソファに深々と座り込んだ生徒を見下ろすようにして言った。
 彼女は蹲るようにして俯いている。
 気のせいか、小刻みに体を震わせている。
「先生、あの、私…」
 言葉の調子や、彼女の話しぶり。
 黒崎は眉を寄せて顔を顰める。
 彼女のその態度もそうだが、今から昨晩の事を叱られる態度ではない。
 興奮している。何か、どうしても教えたいという勢いで彼女は僅かに呼吸も荒く彼を見上げている。
「未来が見えたんです!その、魔法が、使えたんです!」
 噂には聞いていた。
 在野に下ったとは言え、そういった情報なら手に入るつてはある。
 オカルトでは結構有名な雑誌、アスペクトでも取り上げられたためにこぞって自称『魔術師』がこの街に集結した程だ。
 だが事実はそんな低俗な『噂』だと思っていた。
 そもそも過去に黒魔術教団と呼ばれたものの多くが社会的に反発された理由は、それが犯罪の隠れ蓑になっていたからである。
 肉体の殻というのは漫然としていても物理法則に縛られていて保たれているが、精神の髄は意志の力でのみ支えられている。
 もし自らを見失う事があれば、それは完全に姿形を見失い、人間存在からかけ離れてしまうだろう。
 だが全ての物理法則に捕らわれる事があり得ない為に、物理的な全てを超越した事を行う事ができる。
 それが――魔術と呼ばれるものの一つの形態なのだ。
 薬により人為的に気分を高揚させたり、逆に平穏にさせることで、精神をそういった『殻』に閉じこめて固定することも考案された。
 もっとも、そんな方法では感情を操作しきる事ができず、『シーソーのバランス』のようなクリフォト的な力を発生させる。
 望む力と対偶になる力を高め、その結果バランスを保つために望む力が高揚するような事をクリフォト的な力という。
 意志によって力を導くのがもっとも正常な魔術の姿で、世界がバランスを保とうとする力を利用するのを区分して『黒魔術』と呼ぶことがある。
 必死になって僅かな力しか望めない方法に比べると確かに楽で強力な術が行使できる。
 その陰には、何名もの犠牲者が有ったことは否定できない。
 歴史上魔術を盾にとって、犯罪を犯していた人間がいることもまた事実である。
 逆に魔術のために、人を捨てた者も決して少なくなかった。
 今はそれらすべては否定されてしまっているが。
――それを、今更…魔力の向上する薬、だなんて
 ソファに座って熱弁を振るう女子生徒を見ながら、黒崎はため息をついた。
「どうせ幻覚剤か何かだろう。そんな物にまで手を出して、後で痛い目を見るぞ」
 事実過去に薬を使った魔術実験というのは、そのほとんどが贄を騙して薬を飲ませるものがほとんどなのだ。
――ある種の感情の高揚には、必要な時もあったんだろうが
 彼が否定的な意見を述べているのは、その全てを彼が知っているからである。
 だが目の前の少女は違った。
 所詮、彼が顧問として所属するオカルト部で知識を聞きかじった程度なのだから。
「先生」
 食い下がってくる彼女を何とか帰らせようと思い、口を開こうとして――彼女の続く言葉にそれを押しとどめてしまった。
「実はその薬を持ってきているんです」
 彼女は言って、すぐに服のポケットから抗生物質のような透明なフィルムに包まれた粉末を取り出した。
 包装は、どこにでも有るような薬にも見えなくない。
 彼女は机の上にそれを置いた。
 訝しげに視線を向けて、黒崎の目の色が変わる。
 わなわなと唇は震え、まるで見てはいけない物を見たように視線を泳がせる。
「!…馬鹿……な」
 彼はわなわなと絶句して、でもそれでも視線は薬から離れない。
 やがて我慢できなくなったようにその薬を払いのけるようにして突き返す。
「ことをするんじゃない!いい、判ったから今日はもう帰れ!」
 まるで追い払うようにして彼女を指導室から追い立て、彼女が帰ってこないように壊れる程強く扉を閉める。
 がしゃん、というけたたましい音が響いて、スライド式の扉が震えた。
 だが、その音を残して、再び部屋は静寂が戻ってきた。
――馬鹿な……
 普通の薬でも、また偽装された薬でもない。
 包装に打たれた文字はロットリングと、その薬の内容を示す為の特殊な印刷法を用いた物だった。

 P-Lycanthrope Ver.2.75

 箱庭の正体が見えた。
 同時に――彼は必死になって思考する。
 Hephaestusが凍結した『獣人計画』を推進していた柊博士は、先日一部の研究成果を持って逃亡したと言われている。
 そのため、コードネーム『Lycanthrope』と言われるナノマシンは研究対象として今や知らない研究者はいない。
 ver.2以降のロットは既に柊博士の手によって一部改良が加えられており、既に実用化したと聞いた。
――しかし、それは決して服用するタイプではなかったはず
 服用させる、散布することで敵兵士を汚染し、特殊なシグナルにより彼らを内部から破壊する化学兵器のようなものだ。
 利点は味方に対してはあらかじめ除去するための、やはりナノマシンを投与することで破壊をコントロールできるというものだった。
 画期的だった。それは確かに今までの化学剤や核兵器以上に使用が簡単な『大量殺戮兵器』だった。
 だが、噂ではそれ以外の用途のために研究を続けられていたという。
 その噂の真意はどこにあったのかは判らない。
――調べる必要があるな…
 彼は早速本部に問い合わせのためのメールを送ることにした。
 その返事は以外に早く返ってきた。
 だが内容は予想とはかけ離れる内容だった。
 『薬を入手し、提供した後に効果を確認せよ』
 プロジェクトの概要すら知らされていない黒崎にとっては、意外を通り越して不可能な話に過ぎなかった。
――薬なんか、どうやって…!
 効果を確かめるには一定以上の量と濃度は不可欠だ。
 特に本来ヒトを殺すために作られた『兵器』だ。
 どんな効力をもたらすのか、想像することすら難しいものなのに、それを実験するんだから。
――こいつを送って、同程度の物を量産できなければ結局…実験なんか無駄なはずだ。
  条件を送りつけて、この『箱庭』で実験してやろう。
  せっかくだから、長年の研究成果も試しておかなければ――くく、楽しみだ

 程なく、彼の元には大量の段ボール箱が送られてきた。
 ver.2.75と呼ばれる投薬用『Lycanthrope』だ。
 そして彼の任務は、その薬品の効力と、人体に与える影響の確認。
 投薬は、質問にくる生徒でも決して悪くないだろう。


 投薬後一週間。
 被験者の精神集中時間が日に日に減っている。
 投薬直後の躁状態はごく微量、中毒性が残る程度の覚醒剤の効力だと思われる。
 統計的な質問回数が増えている事から、間違いないだろう。
 こちらの質問に対し、上の空であったり回答が不明確な事が多い。
 自主的に来ているのだから、これも効力ではないだろうか。
 覚醒剤の効果ではないことは確かである。


 投薬後二週間。
 噂で囁かれていた、魔力の増加については判断しづらい。
 これについては対象を増やすことで対処する。


 投薬記録は一日おきにした。
 この薬の効果はかなり長期間おく事で初めてでてくるようである。
 何らかの兆候がでてから記載する事にした。


 魔力増加の兆しは、どうやらガセだったようだ。
 自ら投薬し、実験を行ったが覚醒剤による精神の高揚だけが確認できた。


 性格の破綻が確認された。
 既に自らの意志は残っている様子はない。
 こちらの言葉に対する刷り込みが容易である。



 投薬不能



 一部の不良グループが結成していたマフィアを飲み込んで、彼は完全に箱庭を形成した。
 既に投薬は実験ではなく病気が蔓延するかのようにも見える程、広く深く浸透していた。
 もうこれ以上箱庭としての実験は必要ないのに、彼は『実験対象』への投薬をやめなかった。
 純度の高いLycanthropeを次々に投薬し、危険性と効力を確認していった。

  このLycanthropeは全てが同じナノマシンの集合体であり、ある程度の増殖率と設定された相互通信能力があることは確認できた。
  増加に必要な材料は被験者の体内から調達するため、慢性的な疲労感を伴う。
  体外に排泄されるまでにかかる日数はあくまで非線形のグラフを描き、完全に濃度0になるには一年を要する。
  だが増加率と濃度から、一定量の投薬により体内で安定することができる。
  この量は製品の純度から考えておおよそ二袋、一週間以内の服用が必要である。
  それ以下だった場合、安定しないために続けて投薬を行わなければ効果は持続しない。
  但し、一度でも投薬した場合、それは何らかの形で必ず体内に留まり続けるよう計算されている。
  通常の濃度の半分を一週間おきに投薬した場合、効力が現れるのがおおむね一年後である。
  その後は投薬の必要はない。
  逆に高濃度高純度の物を投薬した場合、下手すればそのまま体内を貪り食われる可能性がある。
  効力については、思考の剥奪、筋力制限の解放が主な物である。

 その薬の効力はすぐに報告できた。
 これだけでは未完成もいいところではないか、と彼は感じ始めていた。
 手軽に、麻薬より安全に人間の力を強化するだけだ。
 兵士一人のためにこんな高価な薬を用意する必要はない。彼らに投薬するのは覚醒剤で十分なのだ。
 もっとも、もう二度と人間に戻らないのは同じ事なのだが。
――一体、何の為の研究なんだ
 これでは逃走した柊博士の考えすら判らない。
 それともこの薬はこの段階では――
――まてよ。以前に連絡のあった箱庭の実験は完成していなかったというのか
 あの時の情報であがった『箱庭』は、この薬の実験ではなかったのか?
 だとすれば、一体誰が、この薬を、完成させるというのだろうか。
 無論望むだけの機能を賦与する事ができるのは、作った本人の柊宰博士しかいない。
 だが、現在失踪中だ。
――なら、未完成でも使用価値があるかどうか、確認する必要がある訳か
 それとも、『見本』から幾らでも製造できる技術を持った組織なら、もっと他になにかあるというのだろうか。
「何故、今更こんな物に執着するんだ」
 黒崎は山積みになった段ボールを眺めて、ゆっくりと沈黙した。


はっきり言っておかしな話だったのだ。
 そんな都合のいい話はない。黒崎は少なくとも、その一点に関して間違っていなかった。
 だからこそ慎重に箱庭で実験を行ったのだ。
「お前、そろそろ記憶が曖昧になってきてるんじゃないのか?」
 だがそれは、結局あだになった。
 言葉を紡いでいるのは、目の前にいるのは見覚えのある黒い服を着た男。
 年は若い。
 かなり若い。確か、Hephaestusに初めて所属した時にお抱えの傭兵だという事を紹介して貰った。
 名前は、
「ヒイラギミノル」
 ミノルは口元を歪めて笑みを浮かべる。
 苦々しい、何故か苦しそうなその貌が笑い顔なんだと気づくまで少々時間を要した。
「ふん……そのうち、今の考えすら浮かばないようになる」
 目の前の男は、何か言っている。
 そして、不意に目を瞬かせて、頷いた。
「丁度良い。お前が最初の被験者だ」
 目の前に男がいる。男は黒い服を着ている。
――俺は、……誰だ

  ずしん

 そんな音のようなものが身体を揺さぶった。
 痛みはない。
 視界が、燃え上がる写真のように白く発光していく。
 小刻みに震えながら。
 全身が、視界が、全てが細かな振動とともに白い光の中へともまれてしまう。
 両手の感覚が、足が、皮膚が、視覚とともに聴覚が失せていく。
 それに不安はない。
 不安というものを思い出す事もできない。
 悲しいという感情も、楽しいという感情も今は感じる事ができない。
 ただ白い。
 彼の意識は永遠に白い純白の光の中に、ゆっくりと飲み込まれていった。

――愚かな
 ミノルは思った。
 目の前であっという間に人間の境を越えた後の『ヒトガタ』を見つめながら。
 実際にトリガーを発動した場合には、この状態で既にリーナの支配下に落ちる。
 今はただ、構成要素を完全に結合を分断し、破壊しただけ。
 目の前に佇むのは、植物人間と変わらない『ただそこに在るもの』。
 彼はそれを望んでいた訳ではない。
「なあ、全燔祭って聞いた事あるか?神に、供物として獣を火にくべる祭りだ。…お前は、神にくべられたんだよ、今」
 呟いて、ミノルは彼から背を向けた。
――初めから一つの事だけを追っていれば良かったんだ。素直に、な
 黒崎藤司という名前のヒトガタは、決して非難されるような人間を擁していなかった。
 あくまで規範的な――それは倫理的にでも世に言う善悪という基準でもないのだが――人間だった。
 よく言えば普通、悪く言えば平凡な人間だ。だから、一つの事だけに絞る事が出来たのであれば彼は越えられたかも知れない。
 だが彼は人を捨てる事も、何か一つを突き詰める事も出来なかった半端者。
 だから――だから、その中身はあっと言う間に昇華した。
 人間もヒトガタになってしまえばもう、手の打ちようはない。
――いや
 しかし、人間という存在は人間であるから、人間でいられる。まるで矛盾のように。
 人間じゃなければ――逆に、その境目を知る事ができるのは人間なのかも知れない。
 ミノルは目の前で佇む存在を睨み付けると、ふん、と鼻で笑い、それから背を向けて去っていった。

 Trigger、とは通常引き金、それを合図として動く機構のことをさして言う。
 作ってくれ、と彼女は言った。
 彼女は既に『トリガー』を持っている。
 その方法を知らないわけではない。だから彼に言ったのは『トリガー』を有効にすることだ。
 彼女の望みならそれを達成しなければならない。
――俺が手に入れなければならないのは
 様々な回線を使った通信の手段と、比較的単純に発動用の電波を放射できるか否か、だ。
 通信網で今、ほとんど現段階日本全国カバーする物と言えば、携帯電話の基地局だ。
 しかしそれでは出力が小さすぎる。
 だから出力を補正するための物を利用する。
 正直うまくいくとは思っていなかった。
 投薬したナノマシンの一部、特に脳に寄生していない部分をアンテナ・アンプに使うのだ。
 最初にナノマシンを配置させる為のコマンド、続いて圧縮した信号発振のコマンドを発振する。
 受信したナノマシンは直ちに『トリガー』を発振し、自らを含めてその身体を完全に『ヒトガタ』へと変える。
 意志もなければ中身もないただのヒトガタに。
 同時に、ヒトガタは『リーナ』の入れ物になる。
 もっともそれを実行するためには、いくつものネットワークを経由してプログラムを入手しなければならない。
――操作用コマンドはリーナから借りたこれで充分使用に足る
 彼はプログラム通りに電波を発信できる、携帯電話のようなものを眺める。
 制御式を借りて、彼がプログラムした通りにトリガを発信するものだ。
――あとは基地局へのハッキングと、支配と、そして各種デバイス用のドライバ、か
 作れる物は作る。転がっている物を拾うなら、拾えばいい。
――流れはできた。……リーナ
 即座に返事が返ってくる。
 例え、何千キロ離れたこの地でも彼女の声で、脳裏に響く。
『御苦労、プログラムとハッキングはこちらで行う』
 いつかはその鈴の鳴る奇妙なノイズ混じりのはっきりし過ぎる声を。
 以前はその声に従うしかなかったのだけれども。
 今では、まるで心待ちにするかのように。
「さて」
 越えることはできるのだろうか。
 従えるのだろうか。
 それとも、いつまでも操り人形のように――
 彼は思考を一時的に中断した。
 これからは彼の時間だ。
 再び薬をばらまいて、リーナのためのヒトガタを用意するのだ。
 そのためには。
 液状にしたソレを飛行機からばらまいても良い。
 直接気化するような昇華する物質に結合させてもいい。
 何にしても、少量でかまわない。
 少しでも多く人間にこのLycanthropeを寄生させてやらなければならないのだから。
――でも
 自分のような存在は現れるのだろうか。
 Lycanthropeに寄生されながら、彼女の下に住まうような存在が。
 今、彼が作ったトリガを彼自身が浴びても意味はない。
 彼に投薬されている物ではVerが古く、配置のコマンドもアンプのプログラムも受け付けないからだ。
 何より――彼の場合は前頭葉を食い尽くすタイプではないと、リーナが言っていたから。
『お前にトリガを与えて木偶になんかしない。…面白くないだろう』
 もし彼女が彼にトリガを与えれば、ただのミンチになって内側から食い破られて死ぬ。
 あの箱庭で実験していた失敗作のように。
――でもそれでもかまわないかも知れない
 彼女が必要としないなら。
 彼女に必要とされないのであれば。
 ミノルは口元を歪める。
 そして、わざとらしく大きく肩をすくめ、次の準備のために歩き始めた。
 例えその先が、鼻先すら見えない濁った闇の中だとしても。
「もう、止める奴もいないんだな」
 彼の貌は、自覚していないかも知れないが、何故か苦笑いが浮かんでいた。


 そもそも、『リーナ』とは誰だったのか。
 最初にリーナと名乗って彼の前に現れた少女は、Lycanythropeの被検体であり『檻』の中の化物だった。
 亜麻色と表現したくなる程艶やかで深みのあるブロンド。
 純粋な彼女をそのまま表したような暗いエメラルドグリーンの瞳。
 覗き込むと二度と帰って来れなくなりそうな位深く、奥底まで見透かせてしまう。
 美少女と呼ぶには抵抗があるが、決して魅力のない娘ではなかった。
 白い首筋に、まるで日焼けの痕のように刻み込まれたバーコード。
 実は表皮の直下に埋め込まれたナノレベルのセンサーがそこに埋め込まれている。
 体温、脈拍、血圧、脳波その他諸々の体調がログされて、『檻』のアンテナで受信されてメインサーバーに送られる。
 そこでリアルタイムに健康状態、ホルモンバランス、そして感情の動きまで全てがモニタされてしまう。
 リーナ=ハインケルはドイツの農園に生まれ、たった一年分の彼らの収穫と同等の金額で売り払われた子供。
 売られてすぐ、彼女は最低限度の検査と去勢処置を施された。
 去勢――ここでは記憶操作と洗脳のことを指して言う――によって、彼女はこの檻以外の世界を失った。
 真っ白な、記憶操作の上、意識まではっきりと純粋な白へ、まるでペンキでもぶちまけたように。
 彼女は純真に作り替えられたのだ――自分の意志すら、書き換えられるかのように。
 ミノルとは違う。
 ミノルは初めから『兵器』としての価値を見いだされた特異例だ。
 だから、ミノルには説明されていた。

――人間というのはお前にとって憎むべき敵、殺すべき存在だ。何の価値もない

 彼はそんな価値もない存在に命令され、飼われ、初めから矛盾しかそこに存在しなかった。
 人間がいなければ食事もできない。彼らに命じられるまま殺さなければ、今度は彼自身が殺される。
――だったら俺は何故生きているんだろうか
 彼らを殺せば自由になれる。否、自由とは一体なんだろうか。
 食事がとれないことか?人間を殺さなくて済むことか?それとも、ここまで矛盾している事から解放されることか?
 そんな中で、混乱を正すための方向が一つ示されていた。
「お前は、ただ仲間を捜せばいい」
 『同じ臭いのする男』はそう彼に命令した。
「同じ、人間とは違う物を捜せ。彼らは人間種とともに生きているが、やがて人間種とは相容れなくなる」
 それは彼が動くための最小限度の命令だった。
 命令――でも、その命令を伝えた存在が誰であったのか、思い出した時には既にこの世にはいなくなっていた。
 彼はもう気が触れていたのだろうか。
 最後の研究を続けている時に彼を呼び、やがて博士の実験の失敗を境にしてミノルによって殺されてしまった。
 研究成果の、『リーナ』の指示によって。
――Dr.ヒイラギ、結局あなたは何者だったんだ
 子供だった本物のリーナと初めて会った時、既に彼とは接触する機会などなかった。
 ただその命令に縋るようにただひたすらに生きていた。
 そんな中で、リーナは何の疑いもなく何の心配事もなくただ笑っていた。
 『ねえ、貴方の名前を教えてよ』と。
 彼女は自分が住んでいる『檻』の理由も知らなかった。
 彼女は今自分が何故そこにいるのかも知らなかった。
 彼女は自分の境遇を不思議にも思わなかった。
 ただ彼女は、ほんの少し幸せそうに笑って言った。
 『私のね、おかあさんは毎月お見舞いに来てくれるの』と。

  そんなヒトはいないんだ。それは、精神を安定させるために見せられる夢に過ぎないんだ。

 幼いミノルは事実を知っていた。
 向こう側ではなく、あくまでも研究者と同列の――彼は、羊の群を統御するための狼犬だった。
 こちら側の存在として、彼女たちを見ていた。
 勿論彼女から同じ匂いを感じることはなかった。ただの病気の子供に過ぎなかったのだから。
 今思えばあの時、彼女が笑っている事が不思議だったのかも知れない。
 彼女は自分と同じか、もっとおかしな境遇にいたはずだ。
 何故自分に声をかけてきたのか。
 何故笑っていたのか。
 何故、あんなにも純粋にいられたのか。
――おかしいって思わなかったのか?
 自分があんな場所にいることが。自分の境遇が。彼女と会う彼の正体が。
 最後の最後まで、彼女は自分に笑いかけていたような気がする。

『リーナ=ハインケルを『追いつめて』くれ』

 あの笑みは信頼の笑みだろうか。
 彼女が愚かだっただけだろうか。
 それとも、彼自身、その笑みを見たかったのだろうか。

『『人間』ってやつは脆いからな』

 今のこの感情は、何なのだろうか。
 命令に逆らえなかった自分に対する不満か。
 命令に従って彼女を壊した――最終的に殺した後悔か。
「リーナ、か……」
 何故、今一緒にいるあの機械の塊に彼女の名前を付けたのか。
 彼は『檻』で果たした仕事をもう一度回想していた。


 リーナはいつものように笑顔で彼を出迎えてくれた。
 それから起こる何かも、知らずに。
「今日は、何?」
 屈託のない表情で言う彼女を、無防備に近づいてくるその頭を鷲掴みにしてそのまま真後ろの壁に叩きつける。
 悲鳴。
 絶叫のような彼女の悲鳴を聞きながら、左手で衣服を縦に引き裂く。
 暴れる彼女を、数発腹部に拳を埋めておとなしくさせる。
 あとは簡単だった。
 用意していた薬を直接静脈に打ち込んで、完全に抵抗できなくしてからやるだけやった。
 何故か、何の感慨もなかった。
 感触すら感じなかった。
 呼吸に合わせて漏れる悲鳴のような喘ぎ声も、雑音のように感じた。

 まるで灰色のような出来事。

 そこにどんな色があってもソレを『いろ』として認識できなければ、どんな色だったとしても同じ。
 赤だろうと黒だろうと――同じ、灰色。
 リーナの深碧色の瞳は、怯える色を湛えて。
 鋭く絞り込まれて、彼を睨み付けて。
「プレゼントだ」
 でもそれも、人形と同じ。壁に立てかけられた人物画と同じ。
 どんな表情をしていても、彼女が生きていようと死んでいようと同じ。
 まるで――それは灰色。
 彼女に投げ捨てるようにして渡した拳銃と、弾薬。
 コルト社のレボルバで、シリンダに彼女の名前が刻まれている。
「好きに使え。死ぬにしても、殺すにしても選ばせてやる」

 檻を脱走し損ねた彼女は、ミノルによって完全にただの肉塊に変えられてしまった。
 結局拳銃は、誰の命も奪うことはなかった。
 かろうじて脳波の残った植物人間。本当ならそれで全て終わるはずだった。
 全てが。
 だが、リーナは一週間もしないうちに脳波を不安定にさせ、発作的に心臓が停止。
 治療の甲斐なく、彼女は死亡した。
『死んだか』
 それが、簡単な彼の意見だった。
 別に彼女の身体が目的だったわけでもないし、彼女の命が目的だったわけでもない。
 彼は生きるために彼女を壊すしかなかった。
 逆らって消されるより、何の価値も感じられない彼女を壊す方が早く、楽だ。
 結果死んでしまおうが関係ない。
 彼らには困ることになるかも知れないが――そう思った。
 でも、リーナを名乗る検体がもう一度現れて、彼の目の前でもう一度脱走した。
 判らない。
 『リーナ』と名乗っていたのは結局誰だったのか、二人目のリーナを殺して彼は我慢できずに銃を床に叩きつけた。
 何に、何を感じていたのか、どうしても昂りを抑える事ができず。
 自分の感情の理由すら、認めることもできず。
――あの時
 一日の終わり、幕を閉じる時に考える意識。
 リーナ、そして自分の今後について。
――俺は……
 いつまで経っても回答のでない問いに、彼は埋もれていった。

 リーナと呼ばれる事になった少女も、また『リーナ=ハインケル』の事は識っていた。
 彼女がリーナと成った時には既に『ヒイラギツカサ』の記憶として残っていたから。
 彼がこの工場を離れてからも昼夜を問わず生産を続けるラインの側で、両足を投げ出して座り込んでいる。
 極端な話をするならば、彼女は、そんな所で座り込んでいる理由はない。
 まして今のように身体を持っている必要はない。
 四角い箱の中で。
 信号を待っていればいいのだ。そして、今と同じように意志を伝えればいい。
――……違う、な
 彼女は体を動かすことなく、決して自分の意思をざわめかせる必要もなく、今まさに――ミノルの動きが手に取るように判る。
 ミノルを喰らおうとして体内に生息する彼女の分身――彼女の脳髄の一部が、ミノルの様子を伝えてきているのだ。
 『Lycanthrope』ver.0.6と呼ばれた試作品であり、単体では全く役に立たないモノだった。
 だがそのころ設計された物にはVer.2以降にはない性能があった。
 極めて神経細胞に近い性質を持つ『核』と、神経節が興奮した際に発する物質と同等の性質を持つ『手』を備えるからだ。
 そのために今彼女の脳髄として存在し、その統括の元ミノルを支配下に置いているのだ。
 総体として初めて発揮できる性能――柊宰はその事に気がついたのだろうか?
 そもそも動きそのものを予測でしかプログラムできない『ナノマシン』設計段階で。
 だから、今、こうしてリーナは意志を持っているのかも知れない。
――おかしな話だ。考えてみれば私を作ったのは人間だし、その『脳髄』が人間とそっくりの性質を持っているだろうに
 だのに、人間と反発して、今こうしてLycanthropeを製造している。
 可笑しい。極めて可笑しい。
 人間が造った、人間を糧とする存在――いや、もう種と呼んだ方がいいはずだ。そんな種が。
――人間を羨ましいと妬んでいるんだからな
 やろうと思えば彼の手足を自由に操り、彼の脳髄を食らいつくし、まるで操り人形のように変えることだってできる。
 恐らくは初めからそれが目的で設計されていたのかも知れない。
 彼女の実体は、そんな疑似神経細胞に過ぎないのだ。

  死にたく、ない

 生きているはずはない。だから、恐らく『在る』事に執着しようとする生存本能のようなもの。
 コイルに電流を流した瞬間に、誘導起電力が『発生する磁力をうち消す方向に』発生するように。
 それは自然の持つ単なる反作用だったはず――だけど、彼女を襲ったモノの正体は間違いなく生きようとする方向性で。
 妨げる『父』は敵であり、『人間』はつまり敵だった。
 なのに。
「これが『好きだ』という、感情…なのか」
 答えるモノのない問いは彼女の側で一度漂うと、ゆっくりとかき消されていった。
 残ったのは機械の立てる規則正しいノイズだけで、彼女は、ただそこにぽつねんと座り込んだまま。
 柊ミノルが帰ってくるのを待つしかできなかった。

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