Holocaust ――The borders――
Chapter:4
玲巳――Reimi――
穹、という言葉がある。
私はその言葉に重要な意味はないものと信じて、今日まで生きている。
否――生きて、きたのだ。
生きるという意味を無視する事はできない。
人間という者は、生きる意味を探して生きているといっても過言ではないのだから。
でも、私は、何故生きているのかを考えた事がない。
考えるだけ、無駄だからだ。
私はこの生命に意味があるのかどうかなど――恐らく、今の私には言葉にできないから。
その理由は難しくはない。
人間が生きる――人生の目的というのは、自分が生きる事を自分で認め自分が認識し自分で――そう、赦すことだ。
自分が生きていても良い、と。
それは成長の過程であり、哲学的な問題が必ず付随するだろう。
だが私は違う。
私にとって人生は成長の過程でもなければ哲学でも何でもない。
ただ論理的に私という現象が存在し、論理的に記録された全てをただ満たすためだけ。
今現在予見しうるだけの、自らの存在の証拠を、ただその足跡を追う、それだけに過ぎない。
だが――もし、人並みにこの人生に意味があるのであれば。
多分それは、この時のために生きてきたと感じるその瞬間だろうか。
それが生物的なものでも、まして仮にいかなる嘘の塊であろうと構わない。
だから、多分、私は。
まだ人間のままでいられるんだと思う。
人間…私にはあまりにも懐かしい響きだろう。
人間存在として私はあまりに希薄な気がする。
いや、多分私だけではないはずだ。
…私は、総てを識っている。
だから、だ。
知る事と、識る事は違う。
大きな差がある。
知る事はより知らない事を我々に知らしめ、好奇心を生む事になる。
だが識る事は違う。識る事は諦めを生む。
自分が既に識っている事を知る事により見えてしまう総ての事象――それが既に自分の中にあると気づく時。
人は、興味を失ってしまう。
そしてもし、世界の事象総てを識っていると言う事を、自分で知ってしまったとしたら――
果たして、これから生きる意味を、見つけられるのだろうか。
私はそれを生涯の命題として、この道を選んだ。
だから。
Chapter :4 玲巳 ――Reimi――
彼は悩み事があった訳ではない。
彼には何も、なかった。
多分そんな事は言われるまでもないし――言う程の事では、ないはずだ。
少なくとも彼はそう思っている。
でも彼には、それ以外に何もなかった。
何にも。
今の自分を支えるための、何かが欠けているような気がした。
それは何でもない事かも知れない。
でも不安定な自分の存在というのを確定したくて、困っていたのかも知れない。
彼にとって重要でも何でもない、ただの快楽――それに何とか縋ることで自分という物を支えているのかも知れない。
それを手に入れるために、生きているんだと誤魔化して。
如月工業高校はこの辺ではそれほど有名ではない二流も良いところ二流の高校。
だからといって人材が二流だとは、誰も言った覚えはない。
それだけ逆に、純粋に人材を選ぶにはもってこいの場所なのだ。
人間は頭脳だけではない。
様々な才能があり、それを活かさなければ生きている価値はない――だがこの世にはそんな価値すら見いだせない浪費者がいる。
それも悪いとは言ってはならない。
悪いのではない。
彼らは、浪費するしか手段がないのだ。だから、手段を与えてやるのだ。
価値という名前の。
物言わずただ床に転がるだけの姿。
ゆっくりと、つぷりと赤いものが大きくなって、やがて雫になって流れてしまう――
それがまるで果物に爪を立てた時のように瑞々しい印象を与えるのに、あの甘さとは違う生臭さ。
心地よいなま暖かさに、それが餌である事をすら忘れてしまう。
非常に弾力のある、ともすれば引き裂く事にすら時間がかかるそれを覆う表皮は、剥いでしまえばいい。
慣れれば簡単だ、刃物でなくても、鋭く研ぎ澄まされた刃があればいい。
表皮とその内側を包む膜を引きはがすへらの代わりに使えればいいのだ。
でもそれではなんの――そう。価値もなくなってしまう。
物言わぬゴミ。生臭い、ただの屑。
捨てるしかない。捨てるしかない。すてるしかない。ステるしかなイ。すテるシかない。すて
「五十嵐!おまえ、教科書汚すんじゃないぞ!」
どっと笑い声が上がる。
否応なしに耳が、誰かと誰かを聞き分けようとして脳の中でふるいにかける。
――ゆ…夢?
現実がどこにあるのか判らず、彼――五十嵐幹久は一度瞬いて黒板の側でなにやら難しい顔をした男を見返した。
「何寝ぼけてるんだ、授業続けるぞ」
ああ、そんな物続ければいい。
彼は思いながら慌てて両手を見つめ、再び黒板を見ながらペンを取った。
――呪い
はっきり言うとこんな授業なんか受けている意味も感じないし、受けている自分も意味がない気がする。
ただその夢の内容に彼は、驚愕と畏れを抱く。
――あの時に聞いた言葉
『捨てるしかない』
目が覚めているのに身体が震える。
――俺も、捨てられてしまう
あの時は冗談半分下心半分で、本気で信じていた訳でなければ、まさか死人まで出るなどとは予想できただろうか。
でももう怯える事しかできない。
警察には判らないと言っておいた。
あの現場に居合わせた物として、それ以上の処置はできなかった。
第一何を信じて貰えるというのだ?
目の前で、何か信じられない事が起きて人が死んだ?
俺は馬鹿か?そう思わず自分に問いたくなる程、それは気違いの妄想じみていた。
なにより、彼は怯えていた。
自分という存在がまるで無視されたように、これから失われるかのように。
警察の判断は、『殺人という衝撃的なものによる精神失調』とし、彼への詰問はされていない。
そんな事のできる状況ではなかった。
「すてるしかない」
暗い夜の教室の中で唱えられる呪文。
コンクリの壁に反響する彼らの言葉に、床に置かれた蝋燭の炎が揺らめく。
かなり手間と時間をかけて用意されたのだろう、一枚の黒い布が床に敷かれている。
燃えない布で出来ているそれには、白い色の複雑な模様が書き込まれている。
ちょっと見た感じ、それは回路のようにも見えるが、決して電子記号ではない。
その要所に、配置に幾何学的模様を刻みながら金属製の丸い蝋燭を立てるための燭が存在する。
その上に蝋燭が乗っているのだ。
その周囲に数人の人間が取り囲み、台本のような藁半紙の束を読み上げている。
男女、年齢――ほとんど同じような人間が揃っている。
その中で、蝋燭に囲まれるようにして眠っているのは、やはり同じぐらいの年齢の、少女。
――生贄
だが、少女に意識がないのは事実だ。
気持ちよさそうに眠っている。
「こんな、オカルトじみた事本当に信じているのかよ」
幹久は疲れたような言葉で言うと、それでもその様子を窺っていた。
それは丁度、本当におきやしないかと『信じて』いるようにも見えた。
暗いこの夜中の教室にのこのこ姿を現したのも、自分の中にあるそれを信じたくなかったから――かも、しれない。
人間は自分の目で確認する事で、それを何とか理解できるのだから。
「まさか。だから、こうやって真実を調べるんじゃないか」
尤もらしく応えるのは、眼鏡をかけた長身の青年。
歳は――顔を見る限りでは判らないが、少なくとも彼よりは年上だ。
幹久は知っている。
彼はオカルト部顧問、物理学教諭黒崎藤司だ。
彼自身魔術やオカルトは信じていないし、何より先鋒に立って否定する為に存在するような身分だ。
彼がそれでもこのオカルト部を率先して顧問になったらしい。
理由は未だ明らかにはされていないが。
「オカルトが好きって奴らは論理的根拠には強い。でも、オカルトにはオカルトだろう?」
そう言って一冊の本を見せる。
分厚く、古びた皮の表紙に、剥がれかけた金箔文字。
どこで見つけたのか知らないが、よく判らない筆跡の文字が書かれている。
「だったら、オカルトの権威に登場して貰いましょう」
そう言って彼は表紙の隅をすっと指でなぞる。
『セーフェル=ハ=ゾーハル』:光輝の書
「本当にカバラをやってるなら、この書物の名前ぐらいは知っていなければならない。…そう言う物さ」
少しだけ戯けた風に言い、にかっと笑みを浮かべた。
勿論幹久はそんな書物はおろか、カバラなんてものにも興味はなく、聞いた事すらない。
わざとらしく肩をすくめて、ふん、とその教諭から顔を背けた。
――そもそも、俺は何でこんなところでこんなことをしているんだ
好奇心。
それが全てを狂わせる――
少なくとも、今そこにいた全員はそれを目の当たりにした。
それからの事は思い出したくはない。
殺人現場というにはあまりにも血が多すぎた。
腕が、足が、身体の一部が散る凄惨な光景の中、彼はその血を浴びて部屋の隅で蹲っていた。
前後の記憶がはっきりせず、もうその時には彼と死体以外、何にも残っていなかった。
気がつくと彼は、既に校門をくぐっていた。
特に最近は多い。
恐ろしさに捕らえられ続けているのか、自分が何をしていたのかを思い出せなくなる。
そう言えば歩いていたんだと、思い出す始末。
――授業はどうなったんだろう
そんなもの、対した事ではない。
そんなことよりも彼は、今自分が自分でいられる事が非常に感謝すべき事だった。
不思議な感覚だ。
今まで刺激も何もなく、つまらない人生だと思っていた。
よく考えれば、自分が存在している価値、存在する理由を知りたかったのかも知れない。
すてるしかない
その言葉が、彼の心の中へ棘のように突き刺さったまま、彼を苛み続ける。
捨てられる――それが、いかに不安なものであるか、どれだけ恐ろしい事なのか。
――嫌だ
それを考えるだけで恐ろしい。
でも何故?
何故今そんな言葉だけでこんなにも怯えなければならない?
そんな疑問が浮かんでも、身体の芯が震えてしまい、怖がってしまい、全ての思考が止まってしまう。
思考を再開した脳みそがまず疑問を呈示した。
――では、今あの先生はどうしているんだ?
自分は唯一の生き残りの生徒だ。
彼は、唯一の生き残りの教諭だ。
――待て
唯一か?と彼は唐突に思い出した。
何故か記憶が曖昧になっている。
あの時儀式に参加した人間は皆殺しになったのか?
今こうして帰途につく彼はやっと、ここ一月程自分を悩まし続けた『疑問』に辿り着いた。
もし本当に唯一の生き残りであれば、警察は放っておかないはずだ。
彼が唯一ではなく、そして警察はその『誰か』から有用な情報が手に入っていたからこそ。
精神的に疲弊した人間から聞く時間は割けない、とするならこれは非常に論理的だ。
彼は歩みを止めて、今まで歩いていた道に振り向いた。
――俺は今何故、家に帰ろうとしているんだ
彼の視界には大きな建物が映っている。
夕暮れの影の中に飲み込まれている校舎。
まだ仕事をしているのだろう、窓から漏れる灯りが煌々と明るく見える。
――聞きに行かなきゃ。何があったのか、聞かなきゃ
あそこは職員室だ。
あの教諭がどうなったのか知らない、だから、聞きに行かなければ。
彼は警察と接触したのだろうか、いや、しているはずだ。
さもなくばおかしな事になる。何故自分は警察に呼ばれないのか。
あの教諭――物理の教師なら何か知っているかも知れない。
五十嵐幹久は普段から目立たない生徒だった。
特別な成績でも素行でもなく、悪く言えば平凡な生徒だ。
職員室に抵抗はない。
慣れた動きで彼は職員室へ向かう。
時刻はすでに夕暮れにさしかかっている。普段、こんな時間まで居残る人間は少ない。
静かな廊下を一人で職員室へ向かいながら、否応なしに彼は記憶を蘇らせる。
『オカルト部』に呼ばれて、怪しい実験に参加。
あの日は何人も仲のいい友人がすぐ側にいた。
彼らの笑い声が、人気のない廊下の中で空耳に響く。
――先生は、きっとこの事件で重要な何かを握っている
何故考えられなくなる程ここ一月悩んだのか。
あの事件の事を思い出せない――出したくない理由は、彼が知っているかも知れない。
「おう、五十嵐くん。最近成績伸び悩んでいるだろう?」
職員室にさしかかった時、丁度出てきたのはとある数学教師だ。
顔の付近にもやがかかっているような、そんな不自然な視界。
口が動いているのは見えるが、それ以上もそれ以下もない。
「この間の小テストも、ほとんど何も書いていなかっただろう。何かあったのか」
「…」
この教諭は。
何も知らないんだろうか。
ほんの僅かな沈黙を与えて、彼はゆっくり口を開いた。
「黒崎先生と、一緒に巻き込まれて」
一瞬教師は怪訝そうに眉を寄せたが、直後哀れみを込めた一瞥をくれた。
「あ、すまん…悪かったな」
教師はそれだけ言うと逃げるように立ち去っていった。
それだけ、あの殺人事件は大きな影響を与えたのだ。
幹久は無言で職員室に入った。
だれも彼を注意しない。
彼は無言のまま、物理教師達が固まっているブースへと足を伸ばす。
オフィス向けのステンレスの机がきちんと整頓して並べられていて、それぞれが一つの小さな塊を形成している。
それらが立ちはだかる中、彼の席は一番隅にあった。
「黒崎先生」
黒崎藤司は神経質そうな表情で机に向けていた視線を、ふいっと上げた。
額に刻まれた皺が消え、代わりに不意に訪れる微笑み。
「ああ、君か」
その笑みはあの日あの時見せた物と同じ。
――この人は
そう、『呪い』にはかかっていないのだろうか。
「…ちょっと話をしようか」
そう言って立ち上がると、親しげに背中を叩き幹久を誘導する。
――就職補導室
見覚えのある入り口の札の下にあるマグネットを裏返すと、『使用中』と書かれている。
これを入り口に張っておけば、まず人は入ってこない。
黒崎はまるで当たり前のようにそれを扉の目線の位置に張り、扉を開けた。
就職補導、というのはこの学校では珍しい用語ではない。
専門学校ではないが工業学校のここは、成績次第では就職先を見繕うのも当たり前になっている。
だから進路指導ではないのだ。
こういう学校は珍しく、割り切った考え方の初代校長がいたからだとも言われている。
簡素な机と椅子が二人分並んでいる。
摺り切れたようなてかてかの椅子に、二人は向かい合って座る。
「何か用…かな?うん、それは判っている」
黒崎藤司は腕を組んで、僅かに身体を反らせている。
まるで状況を愉しんでいるかのようだ。
貌から彼の感情を読むのは容易ではない。
「君のやつれた顔を見れば、この間の事で悩んでいるのは一目瞭然だ」
「先生」
声が、思いがけなくしわがれていた。
まるで老人の声のように力がなく、声を出した本人がそれに驚いたぐらいだ。
「まあ、慌てるな」
黒崎は笑いながらそう答えると、立ち上がって冷蔵庫を開いた。
何故そんなところに冷蔵庫があるのか、何故それに気がつかなかったのか。
幹久が思考を巡らせるより早く、教師はコップにお茶を注いで冷蔵庫を閉めた。
そして、それを机において幹久に勧める。
幹久は一気にそれを煽った。
「おいおい、落ち着けと言っているのに」
「いえ…これで、少しは落ち着きました」
彼は薄笑いを浮かべたままの黒崎にどんよりした瞳を向けると『疑問』を口にした。
「あの時、他に誰かいたんですか?」
滑稽な質問だ。
黒崎は縋るような真剣な態度の生徒を見て哀れに思った。
「他に?」
その質問というのも滑稽だ。
主語も述語もはっきりしない曖昧な塊でできている。
聞き返してみたが、どうせ対した反応は期待できないだろう。
どうせ。
「そうですあの、突然」
「そう。突然にね。あの時に君と私以外の誰がいたのかが君は知りたいんだ」
「そんな事でっ」
「ああそうだね…あの時以来君はずっと悩まされている。自己暗示にでもかかったみたいじゃないか」
多分そうだ。
確かにあの『猟奇的な』光景は遺憾に値する。
教師は生徒に諭しながら、ゆっくりとそのベールを剥ぐ事にした。
「いえ、違うんです先生」
生徒は何とか遮ろうとする言葉から逃げようとして、自らを主張する。
「あの時儀式をしていたのはオカルト部だけですよね」
黒崎は眉を歪めると考え込むように上を見つめる。
これは予想していなかった回答だ。
「…何故、そんな事を聞く」
「自分が警察に呼ばれる事がないからです」
幹久はさらりと言うと、黒崎に反応のいとまを与えずに続ける。
「それは既に、警察はこの間の殺人の情報を握っているって事でしょう」
怯えた狗が見せる目。
何か姿の見えないモノを遠ざけようとする目。
黒崎は喜色を何とか押し隠して息を吐いた。
「五十嵐幹久くん。ということは俺が何を警察に吐いたか?と言いたいのかい」
一瞬彼は目を丸くして、そしてついと目を細めると黙り込んでしまう。
ふう、とため息をつく。
「残念だね、君のその考えは正しいようでかなり間違っている。…確かに、そう言う風に考えるのは正しい」
警察は既に有用な情報を得ていて、あの事件の犯人を追っているから。
その状況で、『Shell Shock』状態の幹久から証言を得るのは時間の無駄だ、という考え方だ。
黒崎は理解すると同時に言わなければならない事を思いつく。
「だが残念だよ、生き残ったのは私達だけだ。が、警察は我々に対する事情聴取を行わない」
幹久は驚きで唖然と言う貌を浮かべて見せる。
「何故なら、私達の存在は警察の知る由はないからだ」
――私達?
その響きに幹久は眉を顰めた。
「でも僕は」
「ああ、そうだね。『私達』とは違うからね」
訳が判らない。
ただ一つだけ理解できた事がある。
それは。
「先生、では、あの時…僕は、殺されるところだったんですか?」
「ん?君は、あの時死にたかったのかね?君の言わんとしている事は、理解は出来るが?」
あの時に自分が死んでいれば、少なくともアレは謎の事故として闇に葬り去られていたのではないだろうか。
証拠と呼べるモノも今や存在しないし、それを追求しようにも――この世には、魔術を追う為の法律はない。
だからアレは殺人などではなくてただの事故。
そう、実験の末の事故なのだ。
「死にたく…今だって死にたくないです」
まるで絞り出した声のように、力一杯彼は言った。
黒崎は、今度こそ笑みを浮かべた。
まるで今の答えを望んでいたかのように。
「だとしたら何故?君が死んでいようといまいと、事件の内容は変わらない」
「そりゃ、先生が見つからないんだったらそうかも知れない!でも」
「確かに。この真相を知る二人のうち、君だけはしがらみの中で警察の手に怯える事が出来る。それは卑怯かな」
そうやって黒崎は面白そうに笑い、そしてこう付け加える。
「尤も君はこちら側にはこれないようになっているんだ。…君は、槍玉に挙げられるわけだ」
「先生!」
「まあまあ、安心しろよ?五十嵐くん。少なくとも君が望んでいるような結果は訪れない」
傑作だと言いたげに、黒崎は肩をすくめて大げさに両腕を開いた。
「この高校は傑作揃いだな。大丈夫、君を含めて今回の事件は被疑者は上がらない」
幹久の反応を見ながら、彼は腕を戻して話を続ける。
「何故なら、彼らから『薬物反応』が出て、君からはそれがなかったからだ。アレは、事故として処理される」
意味不明だった。
何より、納得できなかった。
――あんな殺人現場が事故?
それなら確かに都合がいい。
でも幾つも疑問と不自然さが残る。
どうやったらあんな風に見事にバラバラになる?
第一、何故自分は何事もなく部屋の隅にいた?
薬物反応というのは何の事だ?
何故、あの教師はあんなに落ち着いている?
オカルト同好会を部に昇格して置きながら、こんな不祥事を起こしているというのに。
いったい――
「ちょっといいかしら?キミ、如月工業の学生ですわよね?」
突然声をかけられた。
振り向いた幹久の目の前にいたのは、奇妙な少女だった。
白い薄手の、ドレスのような形状の服に、タイトなキュロットとハイソックスという奇妙な出で立ち。
全身真っ白な、それでいて妙にアンバランスな――そう、子供だ。
幹久の前に立っているこの娘は、どう見積もっても高校生には見えない。
甲高い――それでいて角を感じさせない丸みのある声。
「君は」
「申し遅れましたわ。私はレイミ、ちょっと調べ物があるんですの」
レイミと名乗った少女は、それ以上自分の事を話そうとはしなかった。
「それよりも、まだ先程の回答がまだですわ、イガラシミキヒサさん?」
――何?
心臓が、突然自分の力で急激に締め付けられる。
息が止まった。
本当に死んだのかと思うぐらいのショックだった、が、勿論死ぬはずはない。
自分の唇の上を流れる鼻息で、やっと、自分が呼吸をしている事を思い出す程だった。
「何故、俺の名前を知っている?お前」
すると少女はにっこりと笑って肩をすくめる。
「気のせいですわ。私は、ちょっと確認しただけですもの」
そして、両手を自分の後ろで組むと、そのまま少し腰を折って上目遣いで彼を覗き込む。
「それよりも、キミは、間違いなく如月工業の生徒さんでよろしいんですの?」
彼はただ首を上下させて頷く事しかできなかった。
声が出ない。声にならない。
彼女に魅力を感じたわけでも恐ろしく感じた訳でもない、ただ――
ただ、何だろう。
彼女の言葉の信憑性が、恐ろしかったのかも知れない。
まるで精神を檻の中に閉じこめて、切り開いて解剖するような感じだろうか。
「だったら、お聞きしますわよ。…すぐそこの、喫茶店にでも入りましょう」
少女が示した店は、暗いブラウンを基調としたデザインの、落ち着いた照明の店。
客同士が見えるような位置でもなく、確かに話すにはもってこいの場所。
そもそもそのために造ったんじゃないかと思える程、仕切るために立てられた飾りガラスが並んでいる。
コーヒーとグレープフルーツジュースを頼むと、沈み込んだように黙っている幹久の前でにっと笑う。
「さて、一番聞きたい事から聞かせて貰いますわ。キミの学校の教師に黒崎藤司って名前の人、いないかしら」
それは意外な質問だった。
あんまり以外だったせいで、彼は拍子抜けしてしまい目を丸くする。
「え、ええ?なんだよそりゃ。そんな事を一番聞きたかったのか?」
またあの事件の事かと思った。
だから安堵の声を上げながら答えてしまう。確かにいる、と。
「だったら数学のテストは大変ではありません?」
「え?黒崎先生は物理の教師ですよ?」
ああ、と彼女は良いながら両手をぽんと打ち合わせる。
「そうそう、物理ですわ。几帳面で細かいところがあるから、つい」
私達
彼女の、いかにも黒崎を知っているという口調に不気味な予感を覚える。
――もしかして、彼女は『黒崎先生の側』の人間なんだろうか?
どう見ても彼女は中学生――よく見ても高校生にしか見えない。
だが口調にせよこの雰囲気にせよ、『子供』とは思えないような、奇妙な気配を持っている。
大人びた――とか、女性のような――という形容詞ではない。
勿論子供のようなのは外観だけで、仕草一つ一つを取ってみてもとても同い年以下にはとても見えない。
「ほら、数学の教師って、やけに細かいところまで気にしませんこと?」
だが無邪気にそう語りかけてくる彼女は、やはり子供のようで。
「あ、ああ」
どう対応して良い物か、迷う余裕すらない。
「普段はどんな感じですの?何か部活の顧問でも?」
「……普段、あんまり面識はないから」
彼の言葉に今度は眉を寄せるようにして反応した。
それは――非難。
それもやけに敏感に表情を動かして見せた。
無言でその貌のまま沈黙する――そう、ほんの僅かな時間。
だがその僅かで充分だった。
「担任とかだったらな、俺はあの教師とは授業以外であまり面識はないんだ」
「……そうですの」
納得していないという感じの声。
――まさか
自分の名前を知っていたのだ、別に――そう別に不思議ではない。
既にこちらの手の内がバレていたとしたって。
但し、あの先生との接点はほとんどない。
本当に、ただ授業を受けて質問した以外では、せいぜい――
せいぜい?
彼は思い出しながら自分の言葉と感覚にちぐはぐなものがあることに気がついた。
せいぜいなんだろう。
担任でもなく、無論オカルト部にも入っていない彼は、授業以外の接点を持ちようがないはずだ。
だが確かに、何度か質問して話を聞きながら夕食を一緒に食べた事がある。
妙に、接点が多い――どういうことか。
――どういうことなんだ
無論それは偶然で、無論それはたまたまで、黒崎藤司の性格がそう言った物だったんだと飲み込んでしまう。
本当に、それを信じて良いのかどうか迷いを残したまま。
「判りましたわ。キミの名前を見て『そうだ』と思いましたのに……」
その時、注文したモノが来た。
彼女は当然のようにコーヒーを受け取り、彼にジュースを差し出す。
「遠慮はいりませんわ、お話を聞かせて戴いたお礼に」
そう言ってにっこり笑った。
多分、本気で言っているのだろう。
彼は頬を引きつらせつつ、笑って応えた。
今日は、何人も客が来る。
どこかの小説か、映画で見たフレーズを思わず使いたくなるぐらい今日は他人と縁がある。
「どうも」
男――と言っても、一つか二つしか違わないぐらいの青年だ――は名刺を差し出しながらにこやかに笑った。
桐嶋剛。桐嶋興信所に勤める探偵だという。
「桐嶋さん、ですか。…一体僕に何の用なんですか」
彼は奇妙な貌をして、困ったように肩をすくめてみせる。
「参ったなあ。俺が質問したいんだけど…構わないかな?」
それは質問には答えないという意味らしい。
「それは依頼人に対する義務、という奴ですか」
その探偵は、いい加減質問させて欲しいという感じで後頭部をがりがりとかいて、『参ったな』を連発している。
どうにもらしくない、というよりもやっぱり見た目通り、一つか二つ――もしかすると同い年なのかも知れない。
「まあ、いいか。ああ、そうだよ。俺は手の内をさらけ出さなければやっていけない三流以下だな」
地がでた。
自分で言っている通り、この探偵は非常に判りやすい。
多分、こういう仕事には向いていないのではないだろうか。
どこかのライト小説とかミステリを読みすぎて探偵を目指した程度の、そんな感じの。
「どっちにしても、探偵って仕事は調査さ。今回は人捜し。…で、今手当たり次第に聞き込んでいる最中って訳だ」
そして彼はびしっと人差し指を彼に突きつける。
まるで銃でも構えているように、ぴっと一度跳ね上げると、そのままズボンのポケットに戻す。
「特徴は、背丈体格は俺ぐらい、名前はヒイラギミノルっていう高校三年生だ」
淡々と彼は述べて、そして胸のポケットを探る。
多分写真でも出す気なんだろう、と思っていたが、一向に彼はポケットから手を出さない。
それどころか、そのうちポケットを裏返して覗き込んだりし始めた。
「あれ…困ったな、写真を落としてる」
幹久は頭を抱えた。
どうしようもない探偵もいたものだ。これで本当に仕事が勤まるのだろうか。
「まあいいや。とりあえず名前に聞き覚えは?」
あるはずがない。幹久はゆっくり首を横に振った。
すると探偵はふむ、と言って自分の顎を撫でて考え込む仕草で視線を逸らせる。
「ふーん、そうか……だったら、この間の事件以来、何か変わった事は?」
――またか
ほんの数日前の事件だから、仕方のない事なのかも知れない。
「いえ」
幹久は短く答え、探偵の様子を見た。
特別変化のない貌色。
それに逆に不安に駆られる。
「じゃ、あの事件の時に殺された生徒以外には何も変化はないってことかな?確か、新聞の発表じゃ生徒が男女合わせて六人いたはずだけど」
「…そんなものだと思う。……僕は、あまり覚えてはいないけれど」
「じゃあ、あの儀式の時にいた人間を含めると合計で七人いなくなっているはずなんだけど」
幹久は絶句する。
「ちょっとまってください?俺を含めて七人しかいないはずですが」
桐嶋剛は幹久のその言葉ににやりと笑みを浮かべた。
「儀式に参加した生徒六人は死んだ。奇妙な、斬殺体でね。……そして、一人、五十嵐幹久、君が生き残った」
当然第一発見者であり被害者であり、何より――貴重な証言者である。
それは幹久でも判っていることだ。
だが幹久は、実はあの時の記憶は曖昧なのも事実だった。
人数なんか、オカルト部でもないのに覚えている訳がない。
部員でもないのに、何故か黒崎に呼ばれて参加していたのだ。
「…それじゃあやはり」
「調べたんだけどね、これは別口で。あの日にあの教室にいた人数は男子生徒五人、女子生徒二人、そして顧問の教師が一人」
彼は数え始めた。
その時点で既に二人人数が合わない。
「ちょっと、生徒は先刻六人だったって」
「『発表された』って、俺言わなかったかな?そしてその後『調べた』って、言ったんだけど」
幹久は黙り込んでしまう。
何をどう調べたのかは知らないが、この探偵は調査結果と発表されている事実の差がどうやら興味の対象らしい。
――もとい、彼の依頼主の目的がそこにあるのだろう。
「教師の名前は黒崎藤司、ここで物理の教師をしている。大学の時の専攻は理論物理学だそうだ」
探偵の講義は続く。
「一人の女生徒は『不参加』のつもりで強制的にその教師に参加させられている。『生贄』だそうだな」
桐嶋が覗き込むようにして彼を見つめる、が、幹久は何も表情に浮かべなかった。
彼は何も考えられなかった。
言われても、はっきり何の事は判らないからだ。
「…そうですね、確かに一人、儀式のテーブルの中央で寝かせられてました」
「彼女は帰宅直前に捕まったらしい。まぁ、直接教師から聞いた訳ではないから?」
「でも、彼女もオカルト部なんでしょ?」
「五十嵐くんと同じだ。…部外者だよ」
何が言いたいのだろう。
第一最初に質問をすると言っておきながら、質問ではなく事実の確認ですらなかった。
「何が言いたいんです」
だから、幹久がそう言いたくなるのも理解できるだろう。
意図がつかめない探偵に、僅かに苛々し始めていた。
「そう、ここまでは前提だ。ここで質問をさせて貰いたい」
そしてきりきりと音を立てそうなぐらい空気に緊張の糸が張りつめる。
「疑問は幾つもある。だが何よりも、何故この事実がねじ曲げられて隠蔽されているか、だ」
答えられる訳はなかった。
「知りませんよ。第一僕は、そのオカルト部の人間すら知らないってのに」
「じゃあ質問を替えるよ。仕方ないなあ」
探偵は呆れた声を上げて肩をすくめ、メモに何か記入している。
「君とその少女はオカルト部でもないのに顧問に呼ばれて参加したんだけどね。どうしてかな」
「その女の子は知りませんよ」
「でも、『参加した生徒の君を除いては』全員、死んだ。発表された儀式参加者には教師は含まれないから」
「僕を疑うって言うんですか?」
そうじゃない、と桐嶋は困った表情を浮かべて首をゆっくり真横に振った。
「最初に言っただろう、人捜しだと。発表された参加者は六人。一人、つまり――一人足りないだろう」
疑問。
あの儀式に参加した全ての人間が死んでしまったのか?
本当に唯一の生き残りなのか?
答えは――否。
「じゃあ」
「警察が保護しているなら問題はない。ただ引っかかるのは、『教師と女生徒一人』分人数の帳尻が合わない理由かな」
警察が保護。
そうかも知れない。
そうじゃないのかも知れない。
第一、何故そんな風に人数が無茶苦茶なのか。
「いや、参考になったようなならないような。ありがとう」
その探偵は片手を上げて去っていった。
結局あの事件は何だったのだろう。
今日の二度の訪問が、彼自身を充分に揺さぶる事になった。
判っている事は。
やはり、あの時には『他に何人か』いたということ。
何故か死体以外に三人もあぶれた人間がいるのだ。
黒崎の言っていた『私達』とは、その殺されなかった一人なのだろうか?
――いや
まだ可能性がある。
その可能性に何故今まで思考が追いつかなかったのか――そう、もう一人は『殺人犯』だ。
あれだけの人間の喉を掻き切り、殺した――誰が?
では黒崎の言う私達とは殺人犯達なのか?いや、この思考は間違っているような気がする。
黒崎が言っている言葉と、あぶれたもう一人は『違う』、これは勘でしかないが、間違っていない気がする。
アレは黒崎が仕組んだ。
だからといって、あんな結末を彼は望んでいたのか?
判らない。
第一、オカルト部と関係のない人間ばかりが残って、オカルト部が壊滅したなんて、顧問としては困るんではないだろうか。
今日話をしてみて判ったが、黒崎は完全に『あの結果』に満足している風だった。
決して何も後悔していないという感じの、むしろ幹久を哀れむようなあの嫌味な表情を思い出す。
「くっ…」
では彼は犯人か?
だが新聞――警察発表にないというのは、彼が保護されているかもしくは隠匿したか。
それしか考えられない。
思考を転々とさせて、たどり着けない迷路に迷い込んだ時、やっと自分の家が見えてきた。
挨拶を交わして、自分の部屋へと戻る。
なんだか、酷く疲れた。
鞄を机に投げ捨てるように置き、着替えるのももどかしくベッドに転がる。
不安と心の軋む音も肉体的な疲労になっているかのように身体を重くしてしまっていた。
何にも考えられない。
すぐに眠気が襲ってきて、泥沼に落ち込んでいくような感覚で彼は眠りについた。
かたん
目が覚めると、既に部屋の中は真っ暗だった。
こちこちという時計の音、嫌な汗をかいている自分の貌。
天井は見慣れているのに、空気は感じたことがないほど冷たく狭く、そして鋭い。
――な
じりじりと何かに焼かれていくような焦燥感。
まるで別の部屋に押し込められていくような恐怖感を伴い、部屋が敵意に満ちているような気がする。
見えもしないのに、隙間という隙間から視線を感じる。
窓からは月の明かりが差し込んでいて、ぼんやりと周囲の様子が分かる。
この部屋には誰もいない。
周囲に物音もしない。
自分だけだ――それは一つの慰めと、怯えを抑える為の自己暗示――。
かたん
――!
だがそれを否定するように、もう一度音が響いた。
外ではない、すぐ近く――室内ではないかもしれないが、決して遠くではない。
硬い何かが、金属以外の何かを叩く音。
何故その音に怯えるように、心臓が跳ね上がるのかは彼には判らなかった。
だが今ここにいてはいけない、そんな気がする。
音を殺して、ゆっくりと自分の上にかかった布団を除く。
風の流れが頬を伝い、その時着替えていない事を思い出して感謝する。
今から着替えなくてもいいからだ。
それでも、今感じるこの奇妙な空気は、どこから視線を感じているのか判らない程で。
彼はベッドサイドで一度片膝をついてまるで這うように壁に寄りかかる。
窓は二つ――一つはベランダのように外につながっていて、一つは出窓だ。
出窓から差し込む月の光の御陰で僅かながら、この闇も薄く蒼く照らされている。
ゆっくりと周囲を、その明かりを頼りに見回していく。
窓二つ、机、扉。
出入り口の扉に描けた鏡の反射か、床も蒼く輝いているが――他人の気配はここにはない。
――窓
だから彼はそれに気がついて、壁づたいに扉の方へと向かう
出来る限り窓を避けて。窓から身体が見えないように。
ゆっくりとドアに近づき、すぐ側で一度止まる。
心臓が激しく脈打つ理由は何だろう。
何故こんなにも怖いんだろう。
これは恐怖ではなく、本能的な畏れなのか。
ニゲロニゲロ ハヤク ニゲロ
まるでそう叫んでいるようで、震える手をノブへと伸ばす。
その時、儀式の準備中に聞いた言葉を思い出した。
鏡は、魔の儀式では必要不可欠な道具となりうる、と。
今鏡には何も映っていない。部屋の中の闇だけを映して――彼はすぐに視線を逸らせて、ノブを回す。
金属的な音が響いて、ドアを開いた。
ちか
物音はしない、外に気配もない。大丈夫、逃げられる――そんな風に思った。
だが、扉の動きに合わせて揺れた鏡に、何か光が映り込んだのが見えた。
反射が直接彼の目に突き刺さるようにして。
嫌な予感。
ゆっくりと、身体を右に回して振り向く。
彼は喉を鳴らして唾を呑んだ。
丁度、彼の真後ろ――ベランダのある窓の外側。
『何か』があった。
ヒトの姿――蹲っているが、間違いない――をした得体の知れない物がこちらに目を向けていた。
黄金色に光り輝く目を。
それは明らかに、自分を見つめている。
――思い出した あれは この間の儀式で現れた『化け物』だ――
爆散するガラスの破片と、甲高く壊れるその響きが伝わるのと、彼が扉を開くのはほぼ同時だった。
転がるようにして階段に駆け込み、殆どまっすぐ落ちるように階段を転げていく。
玄関で靴を突っかけてドアを開き、大急ぎで外へと走り出した。
――何故
判らない。
いや、こうなる事は多分予測済みだったのではないだろうか。
何故あの時、こうやって襲われる事もなく生きていたのだろうか。
何故あの時の記憶が曖昧だったんだろうか。
全力で走りながら、幹久は思った。
――どうして、今、あんな化け物がここにいて襲ってくるんだっっ
夜の街は彼以外誰もいない。
自分の荒い息だけがはっきりと聞こえる。
足音は、やけに小柄で小さな音が、自分のものに重なって聞こえてくる。
振り返るのは怖かった。
逃げるしかない――そう思った。
声を上げたくても息が上がって声にならない。
あえぎながら、目の前が白くなりながら、それでも死にたくないと、彼は思った。
アスファルトの地面は革靴の叩く硬質の足音をすら喰らってしまう。
耳朶を叩く空気の音がもし届いていなかったなら、次の攻撃をかわす事すら出来なかっただろう。
彼は全力で脚を停める。
その間に、影は派手な音を立てて彼の目の前に着地し、一呼吸も待たず一回転して腰を低く構える。
それは少女だった。
ただまっすぐに伸びた、車が何とか双方に走れる程度の道で彼らは向かい合っていた。
「くっ」
距離としてはぎりぎりいっぱい。
もしもう少し間合いが狭ければ逃げられない――身体を反転させる余裕が、あるか、ないか。
――どうでる?
相手はどうやら同い年ぐらいで、夜の闇の中で輝く瞳を幹久に向けている。
まるで見下ろすような眼差し。
どこかで見た記憶があると思ったが、夜中の猫の目だ。丸く大きく、内側が光っているように反射する。
そんなどうでも良い事を考えていて判断が遅れる。
「今度こそ――殺す!」
――え?
動いたのに躊躇するように後退し、さらに彼女の言葉に絶句する。
それが大きな隙になり、彼女の動きを読めなかった。
急に視界から消える。
ざざざざっ
地面を大きく擦る音。
強引に左足首が右へと弾かれるのが判る。
体勢が崩れ、視線が自分の脚の方へと向く。
少女は背中を向けてそこに座り込むような格好で回っていた。
彼が完全に倒れる前に、完全に彼女は一回転して顔をこちらに向ける。
彼女の右拳が、見えなかった。
倒れ込む幹久の左こめかみ、それは勢いよく打ち上げられて回転する。
頭の中が真っ白になり、今自分がどの方向を向いているのかも判らなくなる。
どすん、と背中が地面を触れた感覚で、狂った平衡感覚が突如働き始める。
幹久は右手を叩き付けるようにして身体を強引に引き起こして、少女の姿を追い、間合いを切る。
また、少女とはぎりぎりの間合いを保っていた。
「待ってくれ、ちょっと、話を」
先刻、話が通じた。
日本語を叫んでいた。だから幹久は無駄かも知れないが、叫んだ。
「聞く必要はないでしょ」
だがあっさり返して、少女は一気に踏み込んでくる。
Open your eyes. Simply as Simply, Just Ashes to ashes and dust to dust.
「ああ、聞かせる必要はない。お前も、今度こそ手を抜くな」
――え
突然、全身が燃えるように熱くなる。
火で炙られたように両手両足が痙攣する。まるでそれは、拒絶反応のように。
「相手は、たかだか真性だ――大丈夫だ」
――黒崎先生?!
だがその痙攣は拒絶反応どころか、収束するように収まりながら『力』へと変わっていく。
身体の中心から、指先や末端にまで力が流れ込んでいくように――
視界がクリアになる。 意識が突然広がったように、周囲の全てが情報として流れ込んでくる。
少女の動きが急にスローモーションになったように見える。
「殺せ」
その時、脳髄が痛みを訴えた。
でも、それはほんの一瞬だったようだ。
まるで麻薬でも打ったかのように急に気が楽に、身体が軽くなる。
スローモーションの少女は踏み込んできた左拳で振りかぶった。
簡単だ。
身体を右に捻り、飛んでくるはずの軌跡へ右手を伸ばす。
そして予測通りのその拳を、右掌でほんの僅かに弾いて、自分の拳ごと一気に左肩へと引き込む。
がら空きになった彼女の脇腹へ、重心を移動させながらの肘打ち。
手応えがあった。
移動中だった彼女と、こちらの移動攻撃の分、巧くすれば肋骨を数本折る事ができたはずだ。
案の定、彼女は身体をくの字に歪めて横向きに転がっていく。
その姿すら遅く見える。
――殺せ
殺せる。
――殺せ
ああ、簡単だ
――あの時に、お前が見せた性能を『できそこない』に見せつけてやれ
ぴきり、とどこかで何かが甲高く罅入る。
ぞろり、と自分のココロから何かが、止めどもなく溢れ出す。
その時理性というものは殆ど何の役も果たさなかった。
彼の目の前で目を吊り上げる少女、彼女を『ヒト』だと、同じ存在だと思えなかった。
虫と同じ。表情すら変えない微生物と同じ。
――殺しても、構わない
何故か彼はそう思った。
「あらあら。黒崎藤司ともあろうモノが、こんな事にうつつを抜かすなんてね」
突然響いたイレギュラーな声に彼は思いっきり飛び退いた。
真後ろに跳んだつもりだったが、背中を強かに硬い何かに打ち付けた。
戦闘中に若干身体の位置が回っていたのだろう。
それを判断してもう一度、今度は正確に道に沿って後退する。
「怯むな」
声が聞こえて、彼は足を止めた。
視界には目標――少女の姿をしたモノが見える。
「あなた、抜けてからこんな事してたの」
「…なんだね?レイミ、君には関係のない事だろう?それとも君が現れると言う事は」
黒崎の声が聞こえる。
何を言っているのかよく判らないが、まあどうでもいい。
目的は決まっているし、やるべき事も判っている。迷う理由も必要もない。
――ただ排除する
怯むな。
彼の言葉通り、幹久はしゃがみ込んでいる少女目掛けて跳躍した。
数メートルという高さを優に超え、たった一蹴りで彼の間合いに入る。
「やぁあっっ」
だが、その視界から少女が消える。
ぶれる視界。
遅れて到達する痛みは、自分の側頭部から伝わってきていた。
着地するための脚が地面を掴み損ねたのを実感した途端、彼はその勢いのまま地面を転がっていく。
どすんという壁に激突する音と同時、まるで杭でも打ち込まれたように身体が押さえつけられる。
「やめなさい、マサクラフユミちゃん。一応ソレでも社会的に人間なんだから」
再び声。
聞き覚えのある少女の声。
――ああ、そうだ
レイミとか言った。
杭が、抜き取られる。同時に聞こえる靴音と、耳元で囁く声。
「間に――合いまして?イガラシミキヒサさん」
それが彼の最後に聞いた言葉だった。
「ふうん」
五十嵐幹久は県立の大学病院に入院した。
『奇病』が流行って以来、あまりにも立て続けに病気が蔓延しつつある。
はっきり言ってこれは異常な兆候だった。
そもそも風邪やインフルエンザが流行するのとは訳が違う。
エボラウィルス級の危険なウィルスが、突如何種類も発生している事になる。
――不自然だな
自分の中に巣くう物の事を考えて、木下は顎をなでた。
自分が病気であるとは彼はもう僅かにも考えていない。
あの時少女が現れたり、頭の中で声が響いたりする理由であったとしても、それは病気ではないと。
そして『祭司』と呼ばれるものに選ばれた――それが素質であるというものだったとして。
ではこの病院はなんなのか。
担ぎ込まれる奇病に冒された人間を調べて、何をしているのか。
自分以外が死ぬような、そんな状況が一体何に関係があるのか。
できる限り目立たないように病院で滞在しながら、担ぎ込まれる患者と話をしてみる事にした。
ここにいる患者のほとんどが重症患者だったが、話せる程軽度の者には共通点があった。
それは年齢でも性別でもなく、学歴でも職業でもなく、在る一つの接点。
記憶が途切れていく、崩れるように欠損するという点だ。
無論自分にはそれがない。
だが、この目の前の少年も『つい先刻の事』や『自分がやったはずの事』を完全に記憶から消し去ってしまうことがあるという。
たとえばそれは学校からの帰り道。
昨日書いたはずの日記。
昨晩食べた食事、一緒にいた家族の顔、人数、テレビ番組に至る細かい事まで。
それが不自然に切れている者や、『自然に』つながっている者まで様々だが、彼らが入院する直前には同じ症状が発症している。
もしかすると、彼らは共通の病気なのかも知れない。
――病気ではなくて、『素質』か?
最近浮かぶ疑問。
ある人間は、耐えきれないように弾ける。
ある人間は記憶を失う。
――では、この俺は
説明などできなかった。
そもそも『相似形』とはなんだろうか。
「それで、君を抑えたそのレイミって娘はどうなった?」
気になる。その名前が気になる。
だが、少年は首をゆっくり横に振って、自分にはそんな記憶はないと否定した。
そもそもレイミなどという名前の人間に知り合いもいない、と。
つい今先刻話したばっかりだというのに――彼女の名前が記憶から剥離してしまっている。
「そうか、ありがとう」
つい、と少年は顔を上げた。
「……僕は、一言でもそんな名前を言ったでしょうか」
彼の瞳は濁りきっていて、真剣さより諦めの方が強く輝いていた。
木下は適当に話を切り上げ、肩をすくめると彼に別れを告げた。
――成る程、操り人形の『素質』は高いな
一つの『命令』に対し何の疑いも理由も瞬時に『忘れ去り』、命令にただ従うだけの人形。
彼に残される理由は一つだけ。
その命令に従わない限り、自分の存在価値を失ってしまう――彼らにとって最悪の事態になり得るのだ。
人間は、良くも悪くも自分の持つ記憶によって動く。
記憶というのは自分自身を支える大地のようなモノで、たとえば一瞬前の事を忘れるような病気になったとしよう。
人間の一時記憶を溜める為に存在する、脳の海馬と呼ばれる部分が麻痺したりした場合に起きるため、泥酔した人間にもこの症状が現れる。
判るだろうか。足を踏み出した途端に自分が『何故、どのようにしてそこにいたのか』を答えられなくなるのだ。
ソレは純粋に恐怖ではないだろうか?
まるで、地に足がついていない恐怖。
自分の部屋に戻りながら、木下はそれについてじっと考えていた。
かたん
それは物音だった。
――!
たしかに、自分は、廊下を歩いていたはずだ。
ぞくりとした。
そこは自分のベッドの前、まるで今まで眠っていたかのような急激な記憶の変化。
扉を開けた記憶――気がついて木下は振り向く。
扉は開け放たれていた。
彼は躊躇するようにその光景を見つめ、やがて取り繕うように扉に近づき丁寧に閉める。
どくん
心臓が一度大きく跳ねるように脈動する。
何かが自分に挨拶するかのように。
大抵ソレは唐突に訪れるモノだ。
知らず知らずのうちに地面に根を張っているように、何の痕跡も残さずに。
抑えきれない鼓動が、自分の動揺を隠そうともせずうち続ける。
その動揺は果たして恐怖だろうか。
きこえ るか
視界が、まるで機械仕掛けのように細かく揺れて、そしてかたりという小さくて細かい音を立てると。
壊れたテレビがそうするように。
一度白く光って、消えた。
聞こえるか、娘達よ。返事をしなさい、娘達よ……
直接光が差し込んでくる、薄暗い朝の道場。
空気は冷たく、まるで刃物のように鋭く。
冷たい床板は足の中へと差し込んでくるような痛みを持たせるが、それは心地よく感じられる程。
ひゅっという耳慣れた空気を裂く音。
それは、彼女の目の前で踊る長刀が切り払っていく音。
紹桜流長刀術は、彼女以外の継承者は今のところいない。
今更――そんな感覚なのか、入門者がいない事に起因される。
それでも今長刀を振るう彼女に、そんな迷いはない。
非常に癖のある曲線と直線の組合わさった動きは、間違いなく実践的な武術である事を顕している。
日本刀と同じ製法で作られた刃は『引き切る』ようにしなければ切れない。
それを、僅かな直線的な突きから曲線的な引きへと微妙につなげる事によって間違いなく切り刻む――それは丁度、蟷螂のようで。
さらに長い柄を一度大きく振り回し、防御にも攻撃にも応用できる動作がつながっていく。
「…あら?」
とんとん、と床を数回跳ねるように踏み込んだ彼女は、違和感でも感じたのか長刀を突いた状態で立ち止まった。
そしてひゅん、と手慣れた動きで半回転させて長刀で床を叩き、くるっと違和感のした方へと身体毎視線を向ける。
「ヒイラギくん?」
少し恥ずかしそうな表情で、ヒイラギ――実隆が応える。
「朝ご飯です」
彼はそれだけ言い、くるっと背を向けて道場から出ていった。
――うーん、いぢめてあげたい♪
最近の、彼女の朝練の最大の楽しみになりつつあった。
真桜家に居候することが決まってから既に一月が経つ。
他人の家とは言っても、それだけ生活すれば自分の色というものが家に馴染んでくる。
自分が馴染むのか、それとも周囲が馴染んでしまうのか――残念ながらその区別をつけるのは難しい。
だがそれだけ経っても、真桜の家庭のリズムが判っていても慣れないものが、毎朝のコレだった。
――何で俺が、明美さんを呼びに行かなきゃいけないんだ
そう菜都美に聞いたら「居候でしょ。言う事ぐらい聞きなさい」だし、冬実に聞いたら「……明美姉さんの言付けです」だった。
つまり、彼が行かなければ誰も行かないと言う事になる。
勿論それは明美も判っている訳で。
もし、明美がそのせいで朝飯抜きになれば、当然災厄が降りかかるようになっているのであって。
――つまり
彼は逆らえないのであった。
「ほらー、とろとろ歩いてないでさっさと帰ってこいっ」
感慨にふける暇も与えられず、彼は両肩をがくんと落として食卓へと向かった。
母親、姉、菜都美、妹、そして実隆。
丸い食卓に全員が揃ってから朝食が始まる。
「おまたせ」
にこっと笑ってから明美が席に着き、全員が手を合わせてぺこりとお辞儀する。
今日の朝食は、めざしにサラダ、みそ汁という準和風メニュー。
――ドレッシングはノンオイルしそ味だが、それでも生野菜は和食ではないような気がする
そんなくだらない事を考えながらみそ汁を一口飲む。
「今日は、どうするの?」
結局卒業式には彼は参加しなかった。
初めは木下警部を見つけるつもりだったが、それは簡単にけりがついた。
この間の警察署で、彼が部署替えになり入院している事実を知ったからだ。
『長期になるわ。…そう聞いたから』
彼の代わりには井上という女性の警部補がついていた。
学校で彼に幾つかの質問をした女性だった。
『今度お見舞いに行く時、一緒に行く?』
そんな風に聞かれたが、別に会いたかった訳じゃないので彼は断った。
その後、手がかりを見つけるために駅周辺を隈無く調べてみる事にしたのだった。
彼が通いそうな店、あの日の前後に、彼らが通ったかも知れない場所。
それらしい目撃情報ぐらいは手に入ったモノの、結果タカヤにつながるようなモノはなかった。
逆に言えば――証拠を残さない程用意周到な連中だった、こうも言えるのではないだろうか。
「ちょっと、変な噂を聞きつけたんで、それを調べに行こうと思う」
菜都美は箸で器用にめざしを解体しながら頷く。
実隆は、何故か開きにされて背骨と両側の身、黒い腑を綺麗に並べられた皿を見て眉を顰める。
彼女が箸を止めて首を傾げる。
「…いや」
聞くのは憚られる気がした。
――別に、大した事ではないんだが
菜都美は首を傾げて、その――そう、身ではなく骨の方に箸を付けた。
ぼりぼりかじりながら、奇妙な貌をする実隆を見てにやりと笑む。
「いいじゃない、ヒトがどんな食べ方したって」
「……ああ、構わねーよ」
実隆はため息をついて、自分のめざしを頭からかじった。
半分は格好だけ。本当は骨なんか食べる気はなかった。
食べる気なら初めから解体何かしない。
ただ、不思議そうに見ていた実隆を少しだけ驚かせようと思っただけ。
実隆が不機嫌な貌でめざしを食べているのを見て、溜飲が下がる。
案の定口の中でごろごろする骨を丁寧にかみ砕きながら、彼女は卒業式の事を思い出していた。
――あの時……
実隆は卒業式に出席するべきだったと、彼女は言った。
今でもそう思っている。
いや、今と前とでは意味は違う。
その日の朝、実隆が出ていくのを見送ってから彼女は学校へ向かった。
特別な感慨はなかった。
ただ通い慣れた校舎がいつものように出迎えてくれて、今にも泣きそうな友人やいつもと変わらない笑った友人と話した。
「もう卒業なんだね」
友人は言っていたが、彼女にとってはそれだけに過ぎなかった。
――別に、これで今生の別れじゃないのに
とは思っていても何も言わなかった。
そして簡単な予行をして、本番。
実隆の名前はなかった。
呼ばれるべき人間が呼ばれず――その意味を測りかねたが、『クスノキタカヤ』は何事もなかったように卒業証書を受け取っていた。
クラス全員に聞く気になれなかったし、どれだけの人間がどれだけ考えて思っているのか判らない。
すぐにでも判りそうなモノなのに、誰も話題にしていなかった。
それは――触れてはいけないモノであるかのように。
実隆がいないことにも、誰も気づいていないように。
今彼女の目の前で食事をする彼は、あの世界にはいなかった。
――どうして
だから、逆に彼がいるという矛盾で、あの世界を壊したかった。
多分今の気持ちは、そんなある破壊的な衝動なのかも知れない。
「それで?」
今彼はどこにいるんだろうか。
そして、今彼を見ている自分はどこにいるんだろうか。
彼女は大学に行くために勉強していた訳ではないが、『行けるうちに行っておきなさい』という母親の言葉に押されて入学した。
「どんな噂なのよ。ヒトのめざし見つめてる暇あったら、教えなさいよ」
だけどせめて言葉だけでも。
彼が逸脱しないように。
どこかに行ってしまわないように――
そんな、はずはないのにと自分でも疑問に感じながら。
「ああ。何だか奇妙な薬が出回ってるって噂。魔力だかなんだかが上がって、簡単に魔法が使えるようになるって言う」
曰くは非常にとんでもない話だ。
口元を歪める実隆に、眉根を寄せていかにも胡散臭そうに貌を歪める菜都美。
「何よそれ」
「如月工業って、聞いた事あるだろ」
如月工業高等学校は私立の工業高校で、少なくとも知らない人間はいない。
山手にある櫨倉とは違い、広い繁華街側にある住宅地に面した場所にある。
野球部に力を入れているらしく、毎年甲子園参加する程の実力だ。
尤も有名なのはそれだけではない。
工業高校だから、ではないが、良い噂には尾鰭が付くのが定めなのか、悪い噂も絶えない高校だった。
実隆がアルバイトしているファミリーレストランでも良く見かける。
深夜に、だ――飲酒に関しては実隆は何も言うつもりはないが。
「ええ。あんまり好きじゃないけど」
菜都美はあからさまに『嫌』という表情を浮かべながら「好きじゃない」と誤魔化した。
その様子に少しだけ躊躇して、実隆はお茶を飲む。
「この間、この薬をやってて捕まった奴がいる。新聞とかじゃ伏せてるけど間違いないらしい」
「へぇ……って、その薬は麻薬とか覚醒剤の類なの?」
実隆は頷いた。
「『Hysteria Heaven』って名前の薬で、向精神薬のカクテルらしいけどね。これが名前は同じでも種類があるらしくて」
効果は基本的にダウン系の薬剤らしく、非常に精神依存性が高い。
ベースが不明だが、基本がアルカロイド系の半合成ドラッグの組み合わせだという。
常習癖がつくともうどうにも止められないという、まさに「麻薬」だ。
「噂もそうなんだけど、捕まった奴の証言が奇妙でね。どうせラリってたんだろうって決着はついてるけど」
その高校生は、普段薬を飲むのは自室だという。
だが発見された場所は、自分の自宅から遠く離れた山手の方だった。
室内着のままで、靴も履かないで倒れていたところを発見されている。
「おかしな事に身体のどこにも怪我も泥もなかったそうだ」
菜都美は箸を止めた。
露骨に嫌そうに貌を歪めたまま、実隆を睨むように見つめている。
「…なんでそんな事に首を突っ込むの?どうせ、そんなの関係ないんじゃない?」
「ちょっと」
母親の声が会話を中断させる。
二人の視線が彼女に向くと彼女は人差し指で右側を指さす。
そこには時計がある。
もう、学校に行かなければならない時間。
「わ、嘘」
「嘘じゃないの。全く、仲がいいのは判るけど、時間忘れちゃ駄目よ」
じろっと視線だけを母に向けると、かきこむように食事を終えて彼女は席を立った。
準備は終わっているのか、ごちそうさまと言うと洗面所に向かう。
「準備する暇なんかないわよ」
「顔洗って歯磨きぐらいしていくっ」
叩き付けるような水音が聞こえてくるのと同時に、それに負けないぐらい大きな声が帰ってきた。
「もう、あの娘は。ごめんなさいねー、あんなにがさつで」
思わず頷きそうになって、慌てて首を横に振った。
そして首を振ってからよくよく考える。
――どういう意味だろう
と。
何故かにやにや――いや、にたにたと明美は彼を見つめていた。
「ごちそうさま」
それを、冬実の柔らかい声が遮る。
朝食は沈黙とにぎわいの中で終わった。
ぱたぱたというスリッパの音が玄関に消えていき、菜都美の「行って来ます」がけたたましい扉が閉まる音に被さるように聞こえた。
それを耳だけで送ると、実隆も出発の準備を始めた。
冬も終わり、随分と暖かいので薄手の上着を羽織る。
バイト代は全て大家である菜都美の母に渡しているので、その中から出る小遣いが財布には入っている。
それをジーンズのポケットに突っ込んで、彼は玄関に向かう。
最初は豪華にかけ離れた世界の屋敷だと思っていたが、普段のように住み始めると色々とあらが見えてくる。
だから、気にならなくなっていた。
「…行って来ます」
廊下にさしかかったところで、玄関から声がかかった。
丁度出るところだったのだろう、冬実が制服姿でこちらを向いていた。
菜都美よりさらに短く刈り込んだ、丸い印象のある頭に鋭くきつい吊り目が印象的だ。
初めて彼女を見た訳ではなかったのだが、彼女が菜都美の妹だと知ったのは、実はここに来るまで知らなかった。
今高校三年生で、櫨倉総合学院に通っている。
挨拶はすれば返す程度だったのが、最近向こうから声をかけてくれるようになった。
丁度警戒する年頃ではあるが――ふと、挨拶する時の彼女の様子にはそれとは別の気配があるようにも感じていた。
それが何かは判らないが。
だからではないが、彼女と話をした事はない。
「ああ、行ってらっしゃい」
実隆の応えに彼女はぺこりと頭を下げると、僅か躊躇してもう一度実隆の方を向いた。
「ヒイラギさん」
いつもとは僅かに雰囲気の違う貌付きで冬実は彼の名を呼んだ。
「ん、何か用事か?」
一瞬目を下に逸らせ、ついっと目を細める。
「いえ……気をつけてください」
それだけ言うと、彼女は今度こそ背を向けて、扉の向こう側へ消えた。
少し当たるだけ。確認するだけと彼は思い、玄関をくぐった。
勘――今回の事に手を出そうと思ったのは、それ以外の印象ではない。
あの人間離れしたタカヤの攻撃や、彼の呟いた言葉。
『…お前はわたし達ではない。以上の理由から消去する。それが役目だ』
だから、どこかに行ってしまったのだとしても、どこかで人間以外の何かが跳梁しているなら。
――信憑性のあるオカルト程見つけにくいものはないけど
そこに彼の影があるかも知れない。そんな単純な考えからだった。
花曇りの煙る中、微かな風で早咲きの桜が花びらを散らせている。
穏やかな春の陽気と共に、気持ちのいい風がゆるゆると流れていた。
何故か実隆は、ふと非現実的なまでにそれが綺麗だと思った。
そもそも、薬の話を聞き込んだのは偶然だった。
こう言う時警察に知り合いがいると便利なのだ。
と言っても直接井上警部補から聞いた訳ではなかった。
たまたま話に登った、最初の取り調べの時にいたもう一人の若い警部補――矢環という――がどうなったのか何の気なしに聞いた時に知った。
「矢環警部補?彼だったら今特別チームに入ってるわ。最近薬絡みで物騒なのよ」
無論その時詳しくは聞けなかったが、あとは実地で探りを入れた。
高校時代の友人のつてで、如月工業の噂も拾った。
『Hysteria Heaven』と言う薬は、全部で7種類。
『Crimson Eyes』、『Blue Chip』、『Yellow Submarine』、『Dark Forest』、『Deep Sea』、『Sunrise Orange』、『Crazy Purple』と呼ばれる。
そのために隠語として『虹』、『雨の弓』というらしい。
それぞれ特徴的な効果があるため、一度に服用する事はできない。
――まあ、世も末って奴か
高校生でバイヤーの一味に知り合いがいるという状況では確かに警察は頭の痛い事だろう。
薬の名称自体は既にテレビでも放送されているが、隠語まで知っている人間は少ないだろう。
それよりも馬鹿げているのは、まるで迷信のように流れたこの薬のもう一つの効果である。
ある順番、ある組み合わせで飲むと『魔法が使えるようになる』というものだ。
――こっちも、世も末な話だよな
超能力程度ならまだしも、『魔法』だという辺り、眉唾を通り越して馬鹿馬鹿しくなってくる。
だが、それを笑っていられないのが、如月で起きたと言われる逮捕劇だろうか。
だから彼は如月工業に向かっていた。
如月工業高等学校まで徒歩で行くのは少し辛い物がある。
かといって、電車という手段を使うには、逆に遠回りになる。
実隆は自転車を駆ってそこへと向かっていた。
繁華街を抜け、住宅地にさしかかる。
スーパーや書店、そんな日常的に人々が通うような店がまばらになり始めた頃、その校舎が見えた。
古びた――少なくとも築十年は過ぎている建物。
あちこちコンクリにも罅が入り、染みの残る壁。
窓には飛散防止の金網が入ったガラスがはめられている。
なのに、何故か落下防止の柵やバーが見当たらないのは――それだけ、しょっちゅうガラスが割れるということだろうか。
――さて
彼は自転車を校門側に停めると、おもむろに校門をくぐった。
特別鍵がかかっている訳でも閉まっている訳でもないのだから、OBの振りをして入れば別に誰も怪しむ事はない。
見つかったとしても偽の名刺も用意している。
桐嶋興信所の桐嶋剛が彼の探偵としての名前となっている。
言うまでもないが、もし電話をしてもその番号ではつながらない――全くでたらめの番号である。
丁度時刻は昼前、普通の生徒ならまだ普通に授業を受けている事だろう。
がさっ
だが、彼が校舎の裏側に踏み込んだ途端、荒々しく人が動く気配がした。
彼が校舎裏を視界に捕らえた時、二人座り込んだ男と、木に背を預けた男の三人が見えた。
「んだよ」
一人が吐き捨てるように呟いて、まるで伸びでもするように背を校舎に預ける。
教師でも、学生でもない見覚えのない顔をした普通の男が現れただけだ。特別反応する必要もないだろう。
「丁度良いと思ったんだけどな」
だから、実隆は聞こえるように呟いた。
実際、都合がいい。
このぐらいの人数なら、どうとでもなる。
一斉に彼に視線が集まる。
険悪というよりも、独特の気配が漂い始める。
「何が丁度良いんだ?」
先刻校舎に投げ出した背中を、まるでバネ仕掛けのように弾いて立ち上がる。
――妙に興奮しているな
全員の視線が集まっているのを感じたまま、実隆はゆっくり近づいていく。
「いや、顧客がこれだけいれば、今日の売り上げに多少は預かれるかなってね」
不敵に口を歪めたまま、実隆は笑みを湛えてそう探りを入れる。
果たして、木にもたれた男が含み笑いを漏らす。
「『虹』のバイヤーのつもりか?」
彼が声を上げた途端、それまでの気配が一変した。
「この辺りはウチが仕切っているんだ。……お前、見ない顔だな」
「そりゃそうだろ?闇でやってるものを、何で顔を知らせなきゃいけない」
ぞわり
一気に背筋が粟立つ感触。
「ルールってものを教えてやる必要があるか」
「教わるまでもない、俺も戴ける物を戴かないと帰れないんでね」
最後まで座り込んでいた最後の一人が立ち上がる。
尤も、奴らは負ける気なんかないだろうし、もう逃がすつもりもないはずだ。
そもそもバイヤーだと言った限り、売る量の薬をもっているはずだ。
それは良い撒き餌になる。
『虹』自体は決して高くないが、まとまった量があれば充分良い小遣いになる。
いわば、その価値は現金と変わらない。
実隆はそれを承知の上で、両手を腰に当てたまま全員を見回した。
一人が――動く。
が きん
「甘い」
まるでステップでも踏むように右足を軸に左足で地面を蹴って彼が一回転する。
空気を裂く独特の音が鼻先を過ぎる。
彼はさらに、左足を軸にして回転の勢いを利用したまま右足を振り抜く。
右足の爪先が四人目のがら空きになったこめかみに吸い込まれるように命中し、まるでおもちゃのように地面に転がる。
そして、その勢いを利用して再び三人を正面に捕らえる。
唖然とした表情で見る者、忌々しそうに睨む者、戦いた表情で既に戦意を喪失した者。
三者三様で実隆を見つめていた。
本来なら奇襲に合わせて攻め立てなければならない。
だがその辺を、彼らは油断していた。
「くそっ」
だから、驚きと苛立ちで冷静さを失った一人が突っ込んできても怖いものでもない。
実隆は捌くように体をねじり、左足で踏み込もうとした相手の外側から足を払った。
何の力も必要なかった。それだけで彼は自分の勢いに飲まれるようにして地面に転がった。
「うんうん、ホントに飲み込み早いよ、ヒイラギくん」
学校に行かないというのは非常に便利な身分である。
だったら働けよ、と愚痴をこぼされそうなので、一応近くのファミレスと運送屋でそれなりのバイトをしている。
巧く時間を空ければ、結局情報収集もバイトをしていた方がやりやすい。
以外と友人を見つけたりする物だ。
そしてその合間に――これを提案したのは、実は菜都美だったりするんだが――紹桜流古武術の基本を教わる事にしたのだ。
師範代の明美は紹桜流古武術と紹桜流長刀術の皆伝である。
「どうも」
一見すると空手着にも見える道着は、実は柔道着並に分厚く、柔らかい。
古武術のほとんどが投げ、間接技を多用する為に、軽く破けやすい空手着のような道着は困るのだ。
投げられた時に以外とクッションになる厚手の物は、しかし重く打撃には向かない。
紹桜流古武術では打撃も直線的なものではなく、回転を利用する掌底打が基本となる。
これは他の流派でも同じように、合戦の際甲冑を着たままの乱戦で使う事を想定しているからである。
そのため暗器や長大な獲物での近接戦の為の技があるのが特徴的なのだ。
実践的と言われるのはこの暗器の使い方で、たとえばペン一本でもあれば、悪くて人を殺してしまえる程の技が揃っている為だ。
世に言う『護身術』と言うより過剰防衛だろう、とは冬実の言葉。
明美はあっけらかんと『殺されるんだったらいっそ殺っちゃえ♪』と言っていた。
そんな暗い面も持つ武術だが、基本は重心の移動と安定である。
重心の移動を利用し、重心をしっかり固定することで素早い回転を行う事ができる。
バーベルを横に回すのと軸に沿って縦に回転させるのでどちらが楽なのか、考えなくても判るだろう。
「人間の重心は、へその下当たりだって考えておけば間違いないから」
明美は構えを取った実隆の脇腹をぽんぽんと叩きながら指導する。
「ここを、いかに素早く回転させるか。どれだけ直線的に移動させるかで決まってくるわ」
彼女は長刀を握っている時と同じ袴姿で、両拳には薄いパッドが入ったサポーターを身につけている。
薄茶色に滲んでいるのは、間違いなく血糊だろう。
「全身の力は抜く。重心を移動させて溜めた力は足の筋肉を撓めて保つのよ」
宙を舞う桜を捕らえる、というこの古武術を極めた人間には打撃は無意味である、という。
実隆の前にいるのは後二人。
鋭く死角から襲いかかってくる明美の突きを考えれば、彼らの動きなど遅い――遅すぎる。
「さて」
毛羽立つ臭い。人間の立てる気配。
喩え気を抜いていたとしても、奴らの動きなんか手に取るように判る。
鋭敏すぎる感覚が教えてくれる。
考えなくても身体が勝手に反応してくれるから、明美との時のように緊張する理由はない。
「動くなよ。俺だって話が聞きたいだけだ、金も薬もいらない。……ちょっと、話を聞かせて貰えれば充分なんだ」
それでもまだ、きちきちと脊髄の裏側で昆虫が騒ぐような感覚だけはどうにも慣れない。
恐怖心を昂揚に変えて、脅えを殺意に載せて奴らを片づけるのは簡単だ。
むしろそうしろと騒ぐ自分を抑える方が大変なのだ。
だから人間相手に対峙する事はできる限り避けたいと彼は思っている。
こういう場合は仕方ないのだが。
実隆はあからさまに不審そうな表情を浮かべる一人の方に視線を向ける。
「それとも、今すぐ地べたに這わせて欲しいのか」
ほんの僅かな間の沈黙。
やがて屈辱的なこの状況に耐えるより、解放される方を選んだのか目で隣の男に合図する。
「俺一人で充分か」
「日本語が通じるなら、一人以上いらない」
実隆の言葉の後、彼が無言で顎を振って一人を送った。
慌てもせずに倒れている二人を介抱しながら、三人はすごすごと立ち去っていく。
「名前は?俺は城崎史郎だ」
「桐嶋だ。桐嶋興信所の桐嶋剛、探偵を一応営んでいる」
実隆は用意していた仮名を使うと、右手を軽く降って門を指さした。
「話を聞かせてくれるんだろ。落ち着ける場所へ行こう」
城崎と名乗った彼は特別変わった風でもない。
さっぱりと刈り込んだ髪に、少しきつい感じを与える目。どちらかというと優男で通じる細身の身体。
――カリスマで仕切ってるタイプか
とても力で不良を牛耳っている風ではない。
すぐ近くにあるファミレスに入ると、少し奥まった周囲の見える席に着く。
「さてと。…知りたいのは、『虹』の効果だよ。知り合いに、捕まった奴がいないか?」
単刀直入に聞いたつもりだったが、どうやら逆効果だったようだ。
城崎はふんと鼻を鳴らすと、皮肉って口元を歪める。
「知り合い?さぁな。俺の知り合いにやってる奴はいないから知らないな」
へらへらと馬鹿にしたような笑みを湛えたまま、鋭い眼光で睨み返す。
実隆はそれには物怖じせずに続ける。
「先刻この辺を仕切ってるって言ったのは嘘か」
城崎は一度目を丸くしてぱちくりと瞬くと、ため息をついて肩を竦める。
「買い手まで把握してねえよ。そんなものは末端に任せてる。第一、俺だって胴元じゃない」
だろうな、と実隆は思った。
でかいブローカーのような組織から買い取り、それをバイヤーにばらまくまとめ役のような存在だろうとは思った。
大体の読みは当たっていたようだ。
「……やったことは」
「ねぇってんだろうが」
逆上するかと思ったが、以外に冷静に、草臥れたように呟く。
ふと見せたのは――慣れていないのかも知れない――何故か、仮面とは思えなかった。
ひどく寂しそうで、頼りない貌だった。それも一瞬だが。
「そんな事が知りたいのかよ」
「俺は警察じゃないからな。依頼人から頼まれた情報が欲しいのさ」
彼が嘯くと、顰め面を浮かべて城崎は体重を背もたれに預けて黙り込んだ。
しばらく彼が黙っているうちに、二人分のコーヒーが届く。
かちゃりと言う音を立ててカップが揺れる。
ウエイトレスが去っていくのを目で追うと、やがて城崎は呟くように言った。
「バイヤーを紹介する訳にはいかない。…結局は金だが、最低限度の信頼が必要だ」
「俺はこの間の奴を知っている友人でも構わない。本人は無理だろうしな」
城崎は顎を撫でてコーヒーを口に含む。
「…先刻、お前に後ろから襲いかかった奴がいただろう。五十嵐って奴だ」
彼なら知っていると言うと、携帯を取り出して素早く呼び出した。
電話口で有無を言わさぬ口調を突きつける彼の様子を見ていて、実隆は少しだけ不思議に思った。
怒鳴る訳でもない。威圧する訳でもない。
相手はどう思っているのか、彼がどう思っているかは判らないが、何故か互いに信頼感がある気がした。
「すぐ来る」
そう呟くと彼はもう一口コーヒーを口に含んだ。
落ち着いているようにも見えるし、気取っているようにも感じられる。
不慣れではあるようだが、決して『交渉』を軽んじない姿勢がある。
「やけに素直だな。俺は、もう少しがつがつした熱い不良しか見てこなかったが」
僅かに笑みを湛え、にやにやとしながら城崎は両手を開いて天を仰ぐような仕草をする。
「は。頭の悪い連中と一緒にしないでくれ。取引に応じられるコレがないと、ここでは仕切れない」
そう言って彼は右手の人差し指でこめかみをとんとんと叩く。
「何が自分達に最も有利なのか。利益があるのか。力で抑えられる奴らじゃないからな」
利益。
――成る程ね、小さいながらこいつらは『マフィア』な訳か
自分たちがやりたいようにやれるべく、力を身につけてやがて組織化した連中。
何よりこいつらは質が悪い。力押しでも崩れない上常に『逃げ場』を確保しようとする。
絶対に不利な交渉は行わない。今更ながら、実隆は後悔した。
「自分の首を絞めない、不利益ではない情報を利用してタダ飯でも喰らう気か」
「冗談」
そして口元を歪める。どうやらこの皮肉った表情は彼の交渉のための仮面のようだ。
「取引って言ったって金銭だけが材料じゃない。あいつが来てから話すさ」
数分も待たず、ファミレスに姿を現したのは小柄な姿。
先刻はいきなり蹴り飛ばした上にちゃんと見ていなかったが、以外に幼い雰囲気がある。
多分一つ以上年下だろう。
彼は慌てるようにして実隆と城崎の座る席へと駆け込んできた。
「お、遅れました」
「馬鹿、お待たせしましたで良いんだよ。ほら、座れ」
現れた少年は怖ず怖ずと城崎の隣に座る。こうして並ぶと判るが、はっきり言って子供だ。
童顔の上に背が低い。とても城崎のような人間と付き合うとは思えない雰囲気がある。
先刻蹴った場所は大きめの脱脂綿が痛々しく貼られているせいで、おどおどした雰囲気がますます子供っぽく見せる。
「この間パクられた奴の事、話してやってくれ」
無言で彼は頷く。
そして、一言一言をきちんと区切りながら話し始めた。
「虹については、僕はあまり知りません。ただ、つい最近になってあの…田山って言うんですけど」
田山真一郎という彼の友人は、ごく最近『虹』に手を染め始めたらしい。
彼は普段からおとなしく――そう言う意味では五十嵐とは気が合いそうな話だ――成績も悪くなかったという。
如月では珍しいタイプだったらしい。
「どこから手に入れたのかは判りません。でも、ちょっとおかしいなって気づいた時には、もう重傷だったみたいです」
五十嵐の口調はしっかりしているが、顔色は決して良くない。
田山という人間がどんな奴だったのかは判らないが、少なくとも良い友人だったのだろう。
「時々会話が飛ぶんです」
「飛ぶ?」
五十嵐は小さく頷く。
「まるで、その直前まで話していた事を忘れるみたいに。聞いても本当に忘れてる事もありました」
実際に側にいるとよく判ったという。
彼の行動と言動が、時折前後の脈絡がまるでそっくり抜け落ちたようになる事があったらしい。
「最後には表情なんかなくて、捕まる直前には時々ぶつぶつと何か訳の分からない事を呟いていました」
完全に人格が崩壊している。
薬のせいというよりも完全に精神病の進行状況を聞いているようでもある。
「…で、何で薬をやってるって思ったんだ」
「僕にせがんだ事があったからです」
田山は、五十嵐が城崎のような連中と付き合いがある事を知っていたのか、気がついたのかしたのだろう。
端的に寄越せと言い、五十嵐が断るとものすごい形相で睨み付けたのだ。
「あと煙草だけだ、煙草を寄越せって。おかしいと思ったし、僕は友人が薬なんて嫌だったから、その日は喧嘩になりました」
『煙草』も隠語らしいが、実隆は頷いて聞き流す事にした。
そんな情報までは流石に知らない。
「あと?ということは、他必要な物は揃っていたということだろう」
「多分……そうだと思います。それから二三日会う事なくて、ひょっこり顔を出した時にはもう表情はありませんでした」
そして、おかしいまま数日が過ぎて、逮捕になったのだという。
実隆はふうん、と頷くと眉を歪めて机の縁を人差し指でこんこんと叩いた。
「その、彼は魔法とか興味がある方だった?」
ぱっと五十嵐の目が驚きで丸くなる。
「どうしてそれを?」
「噂でね。魔力が宿るっていう話がまことしやかに流れてる物だ、あれは」
そうかぁと小さく何故か納得したように頷いて、僅かに顔を強ばらせた。
「あの…」
「ここからは、取引の話だ。無論聞いてくれるよな」
彼の様子に気がついたのか、城崎は割り込んでそう言った。
断る事など許さない――そんな勢いで、実隆の返事も待たずに続ける。
「うちのオカルト部っていう文化部があるんだが、お前のその『虹』がらみの事でかなり前から厄介な事になってきている」
そしてぽん、と五十嵐の背中を叩く。
「こいつの周辺でおかしな動きがある。……お前もどうせ『虹』の探りを入れてるんだろ?」
困ったような貌で五十嵐は城崎を見返すが、城崎は彼の様子を気にするようではない。
むしろ、そういう貌で見るのは判っているのか、目は実隆の方を向けたまま少し大きな音を立てて彼の背を更に叩く。
「オカルト部って、公式な部活動なんだろ。犯罪結社じゃあるまいし」
わざと城崎を煽るように言うと、彼はにやりと笑って肩を竦める。
「まぁ、な。……だが、その行動がきな臭いのと、俺の『場』でバイヤーから購入しているとすると」
そう言って顎を撫でる。
「奴らが『煙草』を切らしているのは、決して不思議じゃない。俺は『煙草』だけは卸していないからな」
「理由は」
「高いからだよ。何故か、それだけ倍近い値段がつくんだ。多分材料のせいだろうが…どっちにせよ俺の扱う範疇だとな」
そして城崎は一度五十嵐を見てから、にやっと笑みを浮かべる。
「奴らは生贄を手に入れる為に奔走しているっていう噂もある。…実際、失踪した人間もいるらしい」
彼の言葉に不安を煽られたからだろうか。
五十嵐が、脅えた小動物のような目で実隆を見上げる。
――俺は、今し方お前のこめかみを蹴り飛ばした人間だぞ
実隆はあまりに男らしくない彼の態度に、眉根を揉むとため息をついた。
「……まあ、魔法って言うのは後ろ暗い、薬が絡んだ儀式ってのも多いって聞くけどね…」
「先刻の噂の信憑性ってのもあるだろ。丁度良いんじゃねぇか。それとも、断るか?」
取引、と彼は先刻言った。
断ったなら――もし事が起きたなら、良心の呵責に悩まされるんだろう。
どこまで信憑性のある話なのかは判らない。
それでも捨て犬のような目をした、情けないこの子供を見ると断りにくくなる。
「巧いな」
思わず実隆は愚痴るように呟き、眉を動かす。
城崎はにやにやしたまま鼻で笑う。
「俺の話は全て嘘かも知れない。でも、俺だって知りたい事がある。『煙草』を、もし手に入れたのだとしたらどこから手に入れたのか」
そう言って目を鋭く尖らせる。その目は、明らかに敵を睨みすえるための、怒りの感情を静かに湛えるものだ。
少なくとも油断できる交渉相手ではないにせよ。
実隆は断る理由が思い当たらなかった。
「じゃあ、その情報はおまけでつけてやるよ」
だから引き受ける事にした。後で、どれだけ後悔する事になったとしても。
ファミレスを出た時には、もう夕方の色が濃くなりつつあった。
実隆はため息をついた。
――面倒な事になった
まるで余計な事に首を突っ込んだような、そんな激しい後悔が襲ってくる。
仕方のない事だが、まさかボディガードまがいの事をさせられるとは思わなかった。
確かに収穫はあった。バイヤーの頭を押さえられたのだから、これで少なくとも『Hysteria Heaven』に関わる情報は全て手に入る。
とは、言っても、まさか子供のお守りまで任されるとは思わなかった。
五十嵐幹久、如月工業高校1年。
小柄で細身、童顔の上に小心者というどうしようもない男。
普通なら虐められるかするんだろうが、女みたいな容貌のせいか、別の意味で危険人物である。
そして以外に女の子受けも良く、逆に田山との付き合いの方が首を傾げられるようだった。
ふと穹を見上げて、色が消えていくのがありありと判る。
案の定家に着く前に穹が夕暮れに染まるのだろう。
河川敷を見下ろす道で夕陽を反射して黄昏れる河面に視線を向け、彼は自転車を降りた。
ちゃりちゃりと自転車のギアが立てる小さな音に合わせるようにきらきらと夕陽が反射してきらめく。
視線を前に戻して、彼は立ち止まった。
電車が通る鉄橋のすぐ側、高い堤防と古ぼけた建物に囲まれた小さな場所。
そこに廃車が堆く積み上げられていた。
――……まさかね
以前別のスクラップ工場で隆弥とミノルが闘った。
その――アレが事実である証拠があっても、それが何故彼の夢に現れたのかは判らない。
誰が隆弥とやり合ったのか――恐らく『ミノル』と名乗った男。
だからと言って、こんなところに――
実隆は目を瞬かせて、つきかけたため息を飲み込む。
絶句したように止めた息が戻る頃、視界でそれは動きを止めた。
車を積み上げた上に人影が見えたからだ。
白い影。こんな黄昏れた穹にもやけに映えて見える程それは白く、まるで染まる事を拒絶しているようでもある。
まるで体重がないようにふわりと廃車のボンネットに彼女は着地して、咎められたようにそこで立ち止まっていた。
視線が、実隆を捕らえている。
身長は丁度150cm位か。そのぴんと張った両腕と、小柄な体躯から小学生ぐらいにしか見えない。
着込んでいるのは白い薄手の服。
派手さのない無地の服だが、だからといって決して――ドレスのような形状で、決して華やかさに欠けるというものではない。
にも関わらず彼女は、まるでそれを無視したようなタイトなキュロットスカートにハイソックスという格好をしている。
奇妙な。そう表現するのが最も適当な、全身白装束の少女。
何となく居心地悪い感じがする。
覗き見ていたようなそんな罪悪感とでも言うのだろうか。
「ふふ、そんなに見つめないでくださいな」
だが、少女自身は全くそんな気負いはなく、むしろここに実隆が現れる事自体、当たり前のようににこにこしている。
むしろ実隆が現れる事を想像していたかのようだ。
そして外見の歳不相応に、彼女は微笑んで右手を自分の頬に寄せる。
「……ヒイラギミノルさん?」
どくん
まだ何も言っていない。
偽名どころか、いきなり名前で呼ばれた。
「ごめんなさい。どうしても確認しておきたかったので」
くすくすと笑い、そしてぺこりとお辞儀する。
「私はレイミって読んで貰えれば結構ですわ。宜しく」
そして、彼女はひょいっと宙に舞った。
音もなく実隆の前の道の上に着地すると何の躊躇いもなく歩み寄ってくる。
奇妙な少女は、肘まである白い手袋に包まれた手を差し出した。
人差し指と中指を除き、掌も露出している。
指を包んでいる方が逆だが、丁度弓道で使う籠手のようにも見える。
「……こんな、時間にこんな場所で、一体何を」
声を出してみて自分がどれだけ困惑しているのか判った。
声がしわがれてしまっている。差し出された手を取る事も忘れている。
小さく可愛らしく肩をすくめて、彼女は差し出した手を引っ込める。
そして小首を傾げる。
「お互い様でしょう?……あなたの事はミノルでいいかしら?」
いきなり不躾に呼びかける事を提案して、彼女は覗き込むように僅かに上目遣いに彼を見上げる。
蠱惑。
思わずそんな言葉が思いつく程、彼女の仕草はおよそ子供らしくない。
――外見で判断しない方がいい
本能的にそんな事を察知し、彼は小さく数回頷く。
「構わない。その代わり、お前もレイミって呼んでやる」
何かの目的めいたものを感じて、そして彼女に一瞬でも目を奪われた事に疑問を覚えて身構える。
「それで、何者なんだ。名前を知っているのは何故だ?」
玲巳は悪戯っぽく微笑み、両肩をすくめると両手を腰に当てる。
「私は、貴方の名前を確認しただけですわ。別に知っていた訳じゃないんですわよ」
とぼけて彼女は再びくすくす笑う。
――答えるつもりはない、と言う事か
追求するだけ無駄だろう。
「でも――そうね、そう言う事なら…」
彼女は両手を自分の後ろで組んで、すっと一歩下がった。
「どうせまた『遇える』のですもの――イガラシくんの事には気をつけて」
言って彼女は身を翻した。
服装の割に身軽で、しかもふいだったせいで実隆も反応が遅れる。
焦って自転車を投げて彼女の姿を追うが、既に彼女は廃車の隙間を走り抜けたのか、どこにも彼の視界には残らなかった。
もしあのまま走り去ったのなら、自転車で追おうとしても遅い。
どうせ方向も判らないのだ。
――糞……
自分の名前だけではなく、五十嵐の名前も彼女は宣った。
跡をつけていたのか、それとも元々城崎とグルなのか。
ともかく実隆は後頭部をかきむしって、ため息をつくより何も出来なかった。
「すみません」
次の日、大体下校時間に間に合うように如月に向かうと、五十嵐は校門のすぐ側に立っていた。
今来たところらしいが、何となくこれだと待ち合わせしていたみたいなので、顰めっ面をして実隆は首を振った。
「いや、全然」
「そうは見えないんですけども」
そうだろうな。
実隆は口の中だけで一人ごちる。
「……あのな。俺は別にお前の側にいる必要はないんだ。判ったか?」
そしてため息をつくと、彼はああ、と呟いて頷いた。
「でも、えっと……探偵さん」
「桐嶋。桐嶋で呼び捨てて構わない。…お前ね、あんまり人前で呼ばれたくない職業ってあるでしょ」
今度は人の好さそうな顔でにっこりと笑みを浮かべて頷く。
――……本当に意識せずにやってるんだろうなあ
まるっきり子供だ。
親はどんな育て方をしたんだろうか。
彼のそんな思いに気づかず、高い目の声で彼は続ける。
「オカルト部、調べるんでしょ」
そう言って鞄から一枚の紙を取り出した。
「これ、概要資料です。名簿とかまとめておきました。…じゃ、これで」
そう言うとぺこりと頭を下げて彼は走り去っていった。
――確信犯じゃ、ないよな
あれで外観が女の子みたいで可愛いからまだいいものの。
本当に高校生だろうか。
頭が痛くなりそうだったので、もう何も考えないで概要資料の方に目を通す事にした。
部員は、正規には14名。
但しそれは登録されている正規人数らしく、名前の端に小さく×が書かれているものがある。
どうやらそれは幽霊部員の意味らしい。
男女の比率は8対6、但し幽霊部員は男子3名女子2名だから、大体同じ人数と言えるだろう。
幽霊部員は考える必要もないだろう。
むしろ――ここに並んだ名簿の生徒を調べるべきだろうか。
だが残念な事に実隆は本当の探偵ではない。
どれかを押さえるか、動き始めるのを見る方が早いのではないだろうか。
もう見えなくなった彼の背を追うようにして視線を向けて、もう一度ため息をついた。
『どうせまた『遇える』のですもの――イガラシくんの事には気をつけて』
ふと彼女の言葉を思い出した。
どう言う意味で捉えるべきだろうか。
今日は場所だけ確認して、怪しまれて警察を呼ばれる前に退散しよう。
護衛対象は既に帰宅したのだから逆に空いた時間なのだから。
オカルト部は文化部でも比較的新しく部に昇格して部室を手に入れたという。
場所は空けておいたのか、入学人数の減少によって空き部屋になったのか、一階の隅の教室。
他の部のようにプレハブの部室なら覗くのも簡単だったが、わざわざ校舎にはいるのはさすがに躊躇う。
何喰わぬ顔でひょいっと校舎の中を覗くと、数名の学生が歩く廊下の向こう側、3-1の札が見えた。
それよりも校舎の端、廊下の末端はどうやら階段のようになっているが、不自然に二つ以上教室が入るスペースがある。
目を向けると、白い札の教室の向こう側に『オカルト部』と書かれた札が見えた。
それだけ確認すると、彼はそそくさと学校から去った。
三日間、同じぐらいの時間に学校に向かった。
五十嵐の部活がなんなのかは判らなかったが、それでも時々遅れて校門をくぐる事を考えるとどうやら部活には出ているらしい。
聞けば良かったのだが、どうにも彼を捕まえる事もできず結局二日過ぎてしまった。
御陰で帰宅する時刻は夜中になってしまう事になる。
「……ミノル」
その日も既に時刻は八時になろうかという時間に帰宅した。
部屋に入ってすぐ、ノックもなく唐突に空いた自室のふすまから声がした。
尤もふすまをノックするというのは言葉のあやである。
「菜都美、お前」
「後で話があるから。夕食だよ」
ノックしろよと言わせてくれず、静かな口調で淡々と、そしてきっぱり言い放った。
「今度から部屋で真っ裸になってやろうか」
ぱたんと返事を待つ事もなく閉じられた扉に向かって睨んでも仕方はない。
判っていても、彼は思わずそう口にしていた。
居候するようになってからも菜都美の世話女房的な性格だけは治らなかった。
自分の家というのも有ってか、何かにつけて助けてくれるのは良い。
実隆は感謝しても足りないぐらいだと思っている。
でも、その反面非常に口うるさい。
あーしろこーしろと、彼がバイトする先まで勝手に決めて持ってきてたりした。
――尤も、彼女に逆らえる程強い立場でもなく、彼は口喧嘩はするものの結局従っていた。
ここ二日は何も言わなかったが、さすがに彼女もかんに障ったのかも知れない。
実隆は後頭部を掻くと大あくびをして食堂へ向かった。
真桜家のしきたりなのか、夕食時には必ず全員が揃っている。
どうしようもない事情だったり、席を外す必要のある場合を除いて、出来る限り一緒にしようということなのだろう。
こうして遅くなっても、結局全員が揃うまで待っているのだ。
――菜都美が怒るのは判るけど
少しだけ肩を竦めると、食堂の入口をくぐる。
「……おまたせ」
「もぉ、遅いよミノルくん。なっちゃんなんかぶつぶつ文句言ってるんだから」
な、と息を呑むように声を漏らし、菜都美は顔を一気に赤くする。
――赤くするぐらいならそんな真似しなきゃいいのに
ははは、と笑って誤魔化そうとする実隆に割り込むように、赤い顔のままで明美に怒鳴る。
「明美姉!」
「まあまあ、ミノルくんも早くつきなさい。料理が冷めるから」
そんな気軽な喧噪の中で夕食は終了した。
「ミノル、コーヒー、部屋に持ってくね」
さっと立ち上がって言う彼女の顔は笑っていたが、目は笑っていない。
片手を上げて呻くような返事を返して立ち上がると、明美がすっと側に寄って、耳打ちしてくる。
「ねーミノルくん、いつの間に仲良くなったの?」
「あのー。……今の雰囲気のどこがそーなんでしょーかぁ……」
ばしんと勢いよく背中を叩かれると、実隆はむっとむくれて明美を見返す。
「あははは、可愛い♪ねーなっちゃん、あたし先にはいるよ〜」
そんな実隆を見て笑うと、とてとてと足音を残して台所を去っていった。
複雑な気持ちで目を菜都美の方に向けると、丁度カップにコーヒーを注いでいるところだった。
何となくその仕草が楽しげに見えたが――やっぱり、目が笑っているように思えなかった。
だから菜都美より先に部屋に戻ると、少し物を片づけて整理していた資料を眺める。
はっきり言ってオカルト部はさしたる部活を行っているようではなかった。
登下校中の学生を捕まえて聞いたり、噂のようなものを集めたり、実際に放課後教室側まで見に行ってみたのだ。
だが結果は散々。本当に部として存在するという事すら知らない人間までいた。
そう言う意味では怪しいのは確かなのだが……
「お待たせ」
相変わらずノックなしで勢いよく開くふすま。
いい加減言ってやろうと思って振り向くと、既に彼女はふすまを閉めて、すぐ側にいた。
お盆にコーヒーを載せて、零さずにこれだけ良く早く動ける物だ――と、無意識に感心する。
「今日は、お饅頭しかなかったけど、いいよね」
そう言って小さな皿の上にのった饅頭とコーヒーを机の上に置く。
自分はお盆ごと、その隣に置く。
――本当に
思わずため息をつきたくなった。
がみがみ何かの度言う癖に、それでもきちんと世話をしようとする。
「…お前、母親みたいなのな」
ずがん
突如目の前が真っ白に、星が目から飛び出たような衝撃。
「誰がよ、全く」
ずきずきする後頭部を押さえながら菜都美の方を向くと、既に何事もなかったように窓の桟に座っている。
「殴る事ないだろうが」
「うるさい。…どうせ、今日は機嫌が悪いからぶん殴ってやろうって思ってたのよ」
思いっきり睨むと彼女は目を閉じてコーヒーを一口飲み込む。
「あんた一体何をしてるわけ?如月工業にこんな時間まで?」
じろりと敵意にも似た視線を向ける。
「何をって、そりゃ前に言ったけど『薬』について調べてるんだよ。丁度バイヤーらしい奴も根っこ捕まえたし」
「どうして。危ないでしょ?一体何の根拠があって、それがタカヤにも通じてるって決まってるのよ」
はっきり言うと根拠はない。
焦臭いのは確かだが、それを明確に答えるには、あまりに言葉が足り無すぎる。
「『魔法』って辺りがあの薬は臭い。それに実際その『魔力』って奴を信じて動いてる奴らもいるからな」
菜都美は視線を逸らして、コーヒーをもう一口含むとカップを持ったまま腕を組む。
不機嫌な横顔に実隆は口を噤む。
「こんなに遅くまで……」
それからしばらく無言で、コーヒーを飲んだり菓子をかじったりして時間だけが過ぎていく。
実隆がカップをお盆に戻すと、菜都美は再び彼の方に目を向けた。
「『あたし達』とは重ならない連中だよ、あいつらは。そんなところよりあたし達の方が」
「確実にタカヤを呼び寄せるって、そう言いたいのか。…違う。以前の『殺人事件』や『魔法』と彼は関わっている」
それに。
あの――ヒイラギミノルと名乗った、自分によく似た男の事が気に掛かる。
きっと奴も同じ世界に生きる人間だろう。
――だから探さなければならない
たとえタカヤが見つからないとしても、あいつには会える気がする。
軽く机を叩く音で思考から現実に意識を引き戻されて、初めて気がついた。
菜都美は、彼を睨んだまま瞳を揺らせていた。
まるで子供が睨み付けながら涙を溜めるような――何故か、そんなイメージで。
「だからって、どうしてそこまで…危ないってことが判らない?」
彼女は実隆の座っている前で、両腕を大きく振って訴える。
「これはただ危ないだけよ、タカヤは関係ないわよ」
目を瞬いて、実隆は頬を指でかくと立ち上がる。
菜都美は――まさか立ち上がると思っていなかったからだろう――驚いて目を丸くして、慌てて背を反らせる。
それでも身体が触れそうになるぐらい近い。
よろけるようにして一歩退くと、彼女は手すりに肘をぶつけた。
「――お前何か知ってるな?誰かから、今回の事聞いたんだろ」
しばらく表情も変えずにぱちくりと瞬いているが、実隆の言葉を飲み込んだのか――眉を吊り上げて脇に退く。
「ミノルっ!あたし、っ!」
ぎりぎりと歯軋りする音が聞こえる。
それが、一瞬惚けたような表情に変わって――
一瞬何が起こったのか判らなかった。
それまでぶん殴られるかという勢いだったのに、慌てて背を向けて走り去っていく。
――なん…だったんだ
釈然としないまま、次の日も如月へ向かった。
少し朝で出遅れて菜都美とは朝食の時にも会えず、明美には『後で謝っておきなさい』とまで言われる始末。
「全く……何を謝れっていうんだ」
それでも、契約という程ではないが彼はいつものように如月工業へ来ていた。
本当ならオカルト部を調べたり、今出てくるだろう五十嵐に注意をしなければならないのに。
目の前を過ぎていく生徒達。
本当なら、気にとめなければならないはずの彼らに、彼は意識が向けられない事に気がつく。
――駄目だ駄目だっ
そして、舌打ちして彼は校門に預けた背を弾いて立ち上がった。
それが油断だったのかも知れない。
「あ」
小さな声に気がついて顔を上げて――後悔する。
五十嵐ともう一人は先生だろう、スーツ姿の男が目の前に立っていた。
五十嵐は口元に手を当てているが、もう遅い。
その男は五十嵐の様子を見て、実隆に視線を向ける。
少しきつい感じのする、どちらかというと爬虫類のような視線。
見た感じでは教師か――少なくとも親ではないだろう。
「ん、キミは――如月工業の生徒ではないね。五十嵐君の……友人かな?」
「あの」
「いや。…ああ、店で会ったのかも知れないね。バイト先のレストランで。私に覚えはないですけどね」
しれっと答えて、男の視線に答える。
「失礼、そうですか」
彼はそれだけ言うと、五十嵐と一緒に立ち去っていく。
五十嵐は一瞬すまなそうな視線を向けてくるが、実隆は右手を軽く挙げて応えるとすぐに背を向けた。
危ない――実隆はそう感じた。
あの類の目は間違いなくやばい。
あの時は人間ではなかった、でも――あの時の目とよく似ている。
少なくとも触れてはならないタイプの人間だ、という直感から来る情報が彼をせき立てた。
――やばい、ニゲロ、と。
それはいつもの人間に対する畏怖とさしたる差は無い。
しかし。
それでも実隆の勘が正しかったと気がつくには、もっと時間を必要とするのだった。
「あ、おかえりなさい」
いつもならドアの向こうで出迎えるはずの母親が、何故か門の外に立っていた。
だから、間抜けな貌で返事を返してしまう。
「ただ、いま」
笑われるかと思ったのに、少し反応がぎくしゃくとぎこちない。
声色も不安そうな色が残っている。
「…どうかしたんですか?」
「冬実が帰ってこないのよ」
そして、今明美と菜都美が二人で探しに出かけたところだったらしい。
丁度入れ違いという奴だろう。
「それじゃ俺も行って来ます、二人はどこに?」
「いいえ、ミノルくんはここにいなさい。これはウチの事です。それより何より」
そう言って人差し指を立ててウインクしてみせる彼女は、先刻までの雰囲気が払拭されていた。
――菜都美も、こういうところあるよな
なんとか、自分は大丈夫だと相手を安心させようとする仮面。
仮面をつけることで自分もまた安心しようとするのだ。
「冬実の事、良く知らないでしょ。どこに行くとか、何が好きだとか」
あ、と再び間抜けな貌をする実隆。
冬実と話した事すらあまりない。この間初めて彼女から声をかけてきたぐらいで、それ以来も会話をした記憶はない。
「か、顔ぐらいは……」
「それだけじゃ、ミノルくんが帰ってくるのを待たないといけないでしょ。二人には携帯を渡しておいたし」
そう言って両手を腰に当てる。
何となく胸を張っているようなポーズ。
「私達はあの二人が帰ってくるのを待つのよ。待ってる間もやることはあるわよぉ」
う、と実隆はげんなりした表情で肩を落とした。
先刻の嬉しそうな表情は仮面でも何でもない。
うきうきしながら『料理のお手伝いをミノルくんに頼めるなんてね〜』と嬉しそうに呟いている。
「俺、不器用ですよ」
「大丈夫よミノルくん。私も不器用だし、何より菜都美なんてジャガイモの皮むきすらできないんだから」
けらけらと返されては――それも菜都美を引き合いに出されては――下がる訳にはいかない。
――しょうがないかな
彼女の言うとおり、探しに行ったところで虱潰しになってしまって、結局見つからなかったら彼が帰ってくるまで心配をかけさせるだけだ。
これからいぢめられるであろう出来事を思うと、彼はとりあえず肩を竦めて大きくため息をつくしかなかった。
五十嵐は、普段は優等生でも通じるぐらい真面目な生徒だ。
クラスメートからも『変な奴』で通じるような生徒なのだ。
何が変なのかというと――つまり、やりたい事だけをやる癖に、善悪の区別がないような態度を取るのだ。
「ありがとうございました」
だから、職員室でよく見かける男子生徒の中では、唯一真面目な方だった。
「ああ、いつでもおいで」
教師に信頼されて、お茶とお菓子まで貰った挙げ句の果て、質問に答えて貰うといういたせりつくせりの状況で、その日も引き上げた。
どこまで自覚があるのか、にこにこしながら去っていく彼は、有る意味マスコットだった。
――少し、遅くなったな
五十嵐は荷物をまとめて廊下を昇降口の方へと向かう。
彼は特別部活に参加している訳ではないのだが、職員室に残る確率が高いせいで、いつも部活の終わる時間ぐらいまで学校にいる。
今日はたまたま早く終わった。
――探偵さん、待ってるかなぁ
ここ数日はオカルト部の動きはない。
彼の御陰かどうかわからないが、少なくとも昨日までは接触はなかった。
ついでに探偵も見かけなかった。
彼は昇降口で靴を履き替えて、校門へと向かう。
人気のない校庭を抜ける時、不意に五十嵐は足を止めた。
誰かの気配を感じて、彼は一度左右に視線を向ける。
――…?
だが、やはり誰もいない。おかしいと思って首を振って。
「――」
五十嵐は首を左に振った状態で止まる。
校舎の影の中に少女がいた。
見覚えのある制服に身を包んだ少女は鋭い目を一瞬彼に向けて、すぐに逸らせた。
濃い影の中でも目立つぐらい艶のある黒い髪に、緑色のブレザーの制服が映える。
――櫨倉の…娘?
歳は判らない。吊り目がちな横顔やその雰囲気は年上のようだが、背が小さく丸い頭が幼く見えるのだろう。
櫨倉統合文化学院付属と言えば、この辺では有名な進学校。
大体駅で一駅以上離れた山の手の学校だ。
こんな時間にここにいる事自体、少しおかしい。
――部活関係…なのかな
声をかけようとも思ったが、喉の奥が痺れてしまったように動かない。
何が起きたのか判らない。
彼女は視線を逸らせたままなのに、まるで見つめられているように息が詰まる。
巧く思考できない。
「……なにか、御用かしら?」
その吊り上がった目が、まるで興味のない物を見つめる顔でついと動く。
「あえいえっ」
何を言ったのか思い出せないぐらい五十嵐は慌てながらくるりと背を向けて走り去った。
だがまさか自分の背を突き刺すような視線が追っているとは、彼も思っていなかった。
走り去っていく五十嵐を、消えてしまうまで見つめていて――彼女は、まるで無機的に視線を校舎へ向けた。
――如月工業…
嫌な名前。
少なくとも、この名前に嫌な記憶が既に二つ以上ある。
だから彼女は視線に更に力を込める。
「――何か用かね?こんな時間こんなところで女の子が一人でいるのはあんまり感心しないな」
がらりと二階の窓が開き、教師らしい人物が彼女を見下ろす。
つい、と視線を上げてその言葉を飲み込むと、彼女は顔色一つ変えずに答える。
「ええ、すぐに帰ります」
彼女はくるりと彼に背を向けて、校門をくぐった。
――ふうん
それを見送る教師は、僅かに口元を歪めて――自分の職務へと戻った。
結局、明美と菜都美は帰ってきたが、二人とも冬実の姿は見なかったらしい。
特に菜都美の表情は暗かった。
「おかえりなさい。二人ともご飯よ。今日はミノルくんの手作りサラダよ」
実隆は母親と一緒に玄関まで出迎えにあがる。
「あのー……」
彼の言葉すらも何故かむなしく玄関に響いた。
さすがに二人の表情はそのぐらいで動く事はなかった。
非難するでもなく無言で上がる明美は、それでも一瞬にっこりと実隆に笑みを見せる。
そして。
「出番でしょ」
「うわっ」
すれ違いざま脇腹に何かが突き入れられる感触と、耳元を撫でるような明美の声。
明美はくすくす笑いながら、母親の肩を叩くと食卓の方へ向かう。
実隆は明美を一度睨み返して、菜都美の方を向く。
彼女は俯いたまま、靴を脱ごうともせず項垂れている。
「ほら、靴ぐらい脱げよ」
「…うん……」
彼女はのろのろと靴を脱ぎ、ふらっと立ち上がった。
「あのさ」
実隆の声に菜都美は立ち止まるが、振り向こうとはしない。
「昨晩はごめん。俺…その、心配かけてるんだよな」
「別に」
素っ気なく言われて実隆は絶句する。
一言言ってやろうと口を開く前に、彼女がくるっと振り向いて――僅かに上目遣いに睨まれる。
「ミノルが悪いんじゃないわよ。あたし…やっぱり身勝手だから」
だから謝んないで。
言外に聞こえる言葉に実隆はまなじりを吊り上げる。
「お前」
「何?今機嫌悪いのよ、喧嘩しようって言うなら道場に来なさいよ!」
右手を大きく振って、彼女は家の裏側にある古い道場に向かって廊下を折れた。
真桜紹桜流は、駅裏にある営業用の道場以外に古い小さな道場を持っている。
以前はここで教える事もあったそうだが、いかんせん小さい事と、もう古くなった為に取り壊す事になった。
が、がんとして反対したのが明美である。
『朝早く練習するのは自宅の方がいいでしょ』
今本格的に道場を仕切る彼女が、結婚してからもここに住んでいる最大の理由がこれである。
そう思うと夫は可愛そうなのかも知れない。
時々練習台やらなのか一緒に道場にいることもしばしばあったりする。
――なんでこうなってるのかな
菜都美の啖呵から十分。道着に着替えた
今、殆ど明美専用になったその道場に、向かい合って二人で正座している。
彼女は目を閉じて、まるで精神集中しているようにも見える。
――うーん…
既に時刻は夜の八時になろうかという時刻。
道場の外は無論真っ暗で、完全に隔離されているようにも思える。
「もう、やるなら早くなさい」
「えへへー、ミノルくん頑張ってねー」
無責任な外野の声が実隆と菜都美を煽る。
――参ったなぁ、謝れって言ったのは自分の癖に
何にしてもこうなってはもう引くに引けない。
やるしかないのだ。
実隆がそうやって腹に据えると、菜都美はゆっくり目を開いて立ち上がった。
それに合わせて彼も立ち上がる。
「なっちゃーん、わたし仕込みのミノルくんの腕前におどろけっ」
「真桜菜都美、参る」
名乗りを上げる。
「柊実隆、参る」
答えて名乗り、構える。
その途端、今までの周囲のざわめきや外野の茶化すような応援が聞こえなくなる。
全ての風景が、まるで白くとけ込んでいくように消える。
突然世界が反転したように――まるで不自然に語りかけてくるように――他の気配は皆無。
それが、かき乱されるように波打つ。
――!
びしと硬く張った綱が立てる音と共に、何かが弾けた気がする。
脱力。
身体を左に捻る力。
実隆はそれを、自然に利用しようとして左足を流して、右足で身体を反らせた。
ひゅ
そんな風切り音が、視界を一気に切り開く――同時、背中に衝撃。
菜都美の瞬間の踏み込みからの右拳が実隆の顔面に向けて放たれた。
だが、まるでそれが見えていたように実隆は身体を捻ってよけながら、右腕をアッパーカットの要領で振り上げた。
が、それは菜都美の前手の払いによってかすりもせず、実隆はそのまま無様に転がる。
本当の開始はそれからだった。
実隆はバウンドする力を使うようにして身体を床に平行に回転させる。
顔を狙い澄ました菜都美のストンピングは蹈鞴を踏むだけに終わり、その隙に実隆は両腕で弾いて起きあがる。
バネ仕掛けのように地面を舞い、一気に間合いを切り――今度は実隆が先に踏み込む。
大きく右腕を袈裟懸けに振る。
後ろにのけぞるようにして避ける菜都美を、更に追いつめるように宙で一回転する――襲いかかる踵。
「っ!」
縦回転する浴びせ蹴り、『龍尾脚』と呼ばれる技である。
「おお〜」
「明美ちゃん、ミノルくんって凄く筋が良いわね」
「でしょでしょ?わたしってば小学生の頃からあの子目をつけてたんだよ」
「唾つけてたの間違いじゃないの?」
「えへへへ。母さんそれって凄くやーらしいよ♪」
実際に闘う二人の真剣さを茶化すようにがやがやとやっている外野。
しかし、実隆にも菜都美にもその声は届いていない。
――白く、果てしなく白い意識の荒野の中で、ただその揺らぎだけが見えている。
菜都美は深く浅く呼吸を乱さないように全身をリズミカルに律動させる。
それは全身で呼吸するような動きだ。
実隆の『化物』が動き、乱すその『流れ』を全身のリズムで読み、受け払い、そして叩き壊す。
正確な律動と読みが出来るようになるまで十年。
それに身体を合わせられるようになるまで十年。
紹桜流柔術は普通の人間が『流れ』を読めるようになるまでになれば良いと言われている。
それだけに、極めなければならないレベルは高く、一生物の武芸と言える。
武士達が実践的な武術として使われたかどうか、そう言う意味でははっきりしない。
菜都美の目の前で起きているのが、目の錯覚なのか。
いや、菜都美はそれを否定しない。
一度身体を小さく丸めて着地する実隆から離れるように跳び退き、間合いを整えて構え直す。
それだけの動きが、まるで周囲の空気が粘着質のように感じるほど間延びしていて。
実隆が立ち上がると同時前屈みに突進してくるのを避ける手段を考えられないほど。
でもそれが、彼女の視界では白い、まるで牛乳をより濃くしたような空間の歪みのように見える。
――間に合わない
そして彼女は、自分の体勢が作る『白い風景』の波がどのような形であれ間に合わない事を覚る。そして――
「勝負あり、だね♪」
一気に風景はいつもの道場に。
全身の感覚が戻ってきて、自分が床に倒れ込んでいる事に気がつく。
しかし、どこも痛いところはない。
「きゃー、ミノルくんかーいぃっ!」
先刻から、妙にきゃいきゃいした姉の声が聞こえる。
――何となく、起きあがりたくない
実隆の抗議する声に、近づいてくる足音が重なる。
「大丈夫か?」
そして、逆様の実隆の顔が視界の半分を覆う。
何となく気恥ずかしくなって、顔を背ける。
「…痛いところは無いわよ。ちょっと、起きあがりたくないだけ。心配しないで」
何故か、耳は雑音を拾おうとしていない。
まるで自分の体内の音を全て拾おうとしているように、自分の動悸ばかり聞こえる。
実隆の言葉も、まるで耳栓をしているように聞き取りにくい。
「じゃあ起こしてやるよ。掴まれ」
ひょい、と彼女の視界に実隆の右手が差し出される。
視線をふいっと向けると、実隆が僅かに顔を顰めて嫌そうな顔をしていた。
だから、ちょっとだけ意地悪な気分になる。
「……ん」
答えて顔を向けて、彼の手を両手で握って――
ず だん
手首をひっくり返して極めると、逆らえないように捻り上げて、彼をそのまま床に這わせようとした。
が、実隆はそれを読んだのか力の加わる方向に跳んで、自分から床に背中を叩きつけていた。
「痛ぇだろうが、何すんだよ」
「何よ。自分から投げ飛ばされておいて」
まだ手首を極める手は緩めていないが、はっきり言って先刻より極めにくい。
と、言うよりも、極める方向が正反対だ。
ただ実隆の手首を両手で掴んでいるだけになってしまっている。
「ふん、身勝手にも程があるだろ」
もう極まってもいないのに、実隆はそのまま動こうとしない。
丁度、それぞれ頭上に頭があり、トランプのカードのように上下互い違いになっている。
顔を見ようとして顔を向けると、手首を掴まれたままの自分の腕があって菜都美が見えない。
「だからいいじゃない。あたしは一人で勝手に暴走してるのよ」
「それが」
周囲に迷惑を掛けている、とは言えなかった。
彼女はそれを知らないはずはないから。
今更言うのはそんな言葉じゃないはずだと実隆は一度その言葉を飲み下してしまう。
「俺を心配させてるんだろ」
無言が返ってくる。
くい
「あががっっ」
手の甲の方から、親指の付け根と人差し指の間に異物が差し込まれる。
そのまま手首が捻りあげられながら、実隆はうつぶせに身体を引きずられていく。
「ふん、だったら一度でもまともに言う事を聞いてくれてもいいじゃないの」
そしてぱっと手を離した。
勿論支えもなく、半身が浮き上がった実隆はそのまま床にばたんと激突。
これが50cmも浮き上がっていたならともかく、ほんの10cmも無かったから――間に合わない。
「痛ぇっ、お前…てて」
鼻を押さえながらにじむ涙をぬぐいながら立ち上がる。
菜都美は彼の様子にけらけらと笑っていた。
「もう良いわよ。何か安心した。ううん、心配しても無駄だって判ったから」
笑い続ける彼女に肩を竦めて見せて、舌打ちする。
「何だよ。もしかして俺って馬鹿みたいなのか」
「もしかしてじゃなくて、馬鹿じゃないの」
びしっと人差し指を突きつけるようにして見せて、満面の笑みを浮かべる。
実隆はそれに何故か安心して、先刻明美達に道場から出ていくように頼んで正解だったと思った。
――こんなところを見られたら恥ずかしいじゃ済まない
だから、菜都美の背を思いっきり叩いて、顎で出口を指して言う。
「馬鹿で悪かったな。それより飯だぞ飯。さっさと着替えて来いよ」
「はーん、少なくともミノルよりも早いわよ」
べっと舌をだして駆け足で道場から走り去るのを見送って、実隆も道場の入口をくぐった。
「んふふふふ」
「ぬわっ、て、明美さん、何ですか」
ひやりとした空気の漂う廊下に踏み出した途端、暗さや空気に驚くよりも早く背中から声が掛けられた。
ひょい、と道場の入口から差し込む光の中に明美が全身をさらす。
どうやら入口に背を預けて待ち伏せしてたらしい。
多分というより間違いなく、走り去っていった菜都美は気がつかなかっただろう。
「早いのね、ミノルくん?」
「……何の話ですか」
薄暗い廊下でもはっきり判るぐらい、彼女の顔はにやにやしている。
いつもの笑みよりも、そう、何となく粘っこい笑み。
通常『嫌らしい笑み』と呼ぶ、あの顔だ。
――どうにも
だからこの女性はどうも苦手だ。
「んーん、さて?」
明美は言いながら立ち止まった実隆の真横に並んで、彼が母屋に向かうのを促す。
仕方なく促されるまま彼女と並んで自室へ向かう。
「でもなっちゃんがあんなにぶち切れたところ、久々に見たよ。ミノルくん?」
覗き込むように首を傾げる。
実隆はまるで危険を察知したように身を引きながら、怖々彼女の顔を見返す。
にたにた笑いをやめずに彼女は肩を竦めて前に向き直る。
――そう言えば…そうだよな
考えれば。
菜都美が暴君と呼ばれて暴れていたのは中学で、ある時期を境にして突然喧嘩をしなくなった。
理由は聞いた事もないし、『女の子ってのはそう言う物だ』というような認識もある。
それが真実とは限らないのに。
「あの娘、わたしと比べても遜色ない柔術使いなんだけど、精神的な問題で拳すら作れなくなってたのよね」
「精神的…ですか」
明美は頷くのも躊躇うように、視線を宙にさまよわせる。
たっぷり一呼吸の間をおいて彼女は続ける。
「襲われたのよ、如月工業の生徒にね」
どくん、と胸が一度大きく跳ねた。
呼吸が詰まる。
「問題はね、どうにかなる前に相手の男が死んじゃったのよ。ボウガンで狙撃されて」
「え……」
そう言えばそんなニュースを見た記憶がある。
あまりに手口が酷い為にあの時期に連日報道されて、記憶にも残っている。
ボウガンは『危険な玩具』に指定され、18歳未満での購入が禁止された。
殆ど同時に一部のフォールディングナイフも禁止されたので、持ち物検査の対象にもなった。
アンティークな金属製ペーパーナイフまで取り上げられて怒っていた友人まで思いだした。
「覚えてるみたいね。…報道された事件じゃ、側にいた菜都美のクラスの男の子も出てたけど、真実は報道されてないでしょ」
事件は、公園で突然狙撃されて倒れた事になっている。
たまたま側にいた少年からの通報で発見され、殺人事件として捜査されたが、犯人は見つかっていない。
勿論その時、菜都美の名前も挙がっていない。
「それ以来かしらねぇ。喧嘩って名の付くことにどうも敏感で。本人も人を殴れなくなったみたい」
それは嘘だ。
思わず答えそうになった。
――高校生に上がる前までは、ぽこぽこ殴られて……いたんだけど?
それも結構手ひどくやられていた気がする。
「まあ、『喧嘩』って事にかなり敏感なのは認めますけどね」
「何?もっと自慢していーよ。なっちゃんが気軽に構っていられる、世界でタダ一人の男の子なのに」
明美は年の割には無邪気な顔で、今度はにっこりと笑みを浮かべた。
何となくその笑みが、酷く羨ましくて思わず彼は顔をしかめた。
「そう……かも。明美さん、何を嬉しそうに笑ってるんですか」
「だってわたしはキミの事が好きだもん。こんなかーいい弟、欲しいなって思ってたんだし」
既に決定事項らしい。
「それにやっぱり筋よかったじゃない。もう少し本格的にやろうよ」
「それは考えておくけど。…勘弁してください」
彼の答えに、明美は声を出して笑った。
――弟
ふと治樹の事を思い出す。
確かに彼の位置に近いとは思っている。
それだけではないのは確かだが。
「ミノルくん?先刻の話、一応内緒だからね。なっちゃんの事大切にしたいならね」
少しだけ強い眼光を彼に向けて、小さく頷いて答えた。
予定。
ふと気がついたように彼女は顔を上げた。
穹が既に紅い色に染まっている。
こんな風に見上げる時は決まって、ぽっかりと大きく穴が空いてしまったような感じがする。
――いつからだろう
それを思い出す事はできない。
多分こうなる事は既に記憶とは違っていたから――そのギャップからだろうか。
『生きる』という意味の純粋な不安、それが、突然穹を大きく感じさせた。
人生に意味のある事なんかない――そんな考えが終止符を打った
常に、何かで定められた一本の道のりというのが人生であると考えていた。
良く使われる言葉で、『運命』というものに従うことが必要なんだと思っていた。
多分。
でも殆どの事象は何の歪みもなく予定通りに佇んでいる。
その僅かな違いは、一体なんだろうかと考えるようになった。
いや――そんな、僅かな違いこそ求めなければならないものなんだろうと、強く感じる。
――だから今、積極的に『生きて』いられる
人間が生きるということはどういう事だろうか。
結局世界というのは個人個人別に存在し、彼らの周囲というのはその選択の結果が生み出したものではないだろうか。
『玲巳、お前は何を見ている』
彼女の師は、いつもそう語りかけてきた。
でもそれも、彼女の選択によって生み出された外部の要因の一つだった。
彼に意志がなかった訳ではない。
彼女の選択に最も適したバランスの世界の中の『師』の一部だ。
そして少なくとも師は、彼女にそう教えた。
彼女にとって教えを請うというのは、思い出すための作業の一つに過ぎない。
思い出す事で彼女の知識として定着してしまう。
だから、彼女は覚えるという手段を行使する必要すらない。
自分が覚えているはずの事を思い出すだけなのだから。
だから彼女は自分の意志で事象に関わるつもりはなかった。
関わる事もできなかった。
だから。
だから今のこの――穹を見上げる不安が心地よい。
「次は――如月工業ね」
彼女は先日の夢を思い出しながら、暮れていく穹から視線を逸らした。
次に世界の調和とは違う、事象がそこにある事を信じて。
「え?」
もうすぐ中間テストがある。
ほとんどの生徒にとってはただの休み前の休みだが、五十嵐には試験の対策のための時間だった。
いつものように質問のために職員室の訪れた彼は、物理の教師である黒崎と一緒にお茶を飲んでいた。
「なんだ、五十嵐。最近やけにぼーっとしているな」
彼に言われてはっとした。
記憶がはっきりしない。
今、どうしてここにいて、ティーカップを掴んでいるんだろうか。
「どうした、勉強のしすぎで体調でも崩したんじゃないのか?」
にこやかに声を掛けてくるのは、見覚えのある顔。
――いや、物理の先生じゃないか
彼は思わず一度頭を振った。
ここは教室でも自分の部屋でもない。職員室だ。
毎日のように質問にくる、比較的見慣れた――良く知っている場所。
「い、いえ。寝不足だから、寝てたのかも知れません」
五十嵐は言い直して、それでも自分が何故ここにいるのか判らなかった。
完全に、その部分の記憶が欠落している。
「そんな様子じゃ、今教えた事も忘れてるんじゃないか?」
人の好い笑み。
五十嵐が愛想笑いを返すと、彼は思わぬ事を続ける。
「どうだ?丁度良い、今晩ウチの部員が学校で活動するんだが、遊びに来ないか?」
気晴らしには丁度良い、そんな気軽な口調だ。
――あれ、この先生の部活は確か……
夜中に活動する部活がない訳ではない。
だからと言って限定できる訳でもない。
――たしかオカルト部のはずだけど
「先生、それって」
「ん?ああ、君は怪談とかお化けとか、怖いものは嫌いだったかな?」
そんな風に言われてしまうと、断る事もできない。
だから、彼は今夜、教室に向かう事を承諾した。
黒崎は彼を見送ると、僅かにため息をついて自分の席に戻る。
まだ一つだけどうしても足りないものがあるから、今晩はあまり効果が望めない。
これで最悪の事態だけは防げるのだが、少なくとも最高の結果を望めない限り期待は出来ない。
「おや、黒崎先生、確か今日……」
「ええ、オカルト部の話ですか。確かにそのつもりですよ」
彼は手早く机を片づけて、荷物をまとめながら隣に座る教師に答える。
「通りで早い訳ですか」
「まあ部活動に顔を出すのも仕事です。では済みません、お先に」
そう言って、彼はいつもよりも早く職員室を出た。
二階あるここからは、丁度校庭を見下ろす位置に出る。
職員室から見える訳ではないが、御陰で出入りする教師は必ず校庭を見下ろす事になる。
――ん
ふと、気になる者が目に入った。
濃緑のブレザーの制服。
少なくともここの学生ではないだろう。学生服にセーラー服、それもまともに着ている者が少ないのだから。
それに彼はあの服に見覚えがある。
知らないはずはない。あれは、櫨倉統合文化学院付属の制服だ。
「……まさか」
たった一人でこの校舎を見つめているその――『少女』?!
彼は窓を開いて少女を見下ろした。
「――何か用かね?こんな時間こんなところで女の子が一人でいるのはあんまり感心しないな」
言いながら、ぼんやりと形作られていく――焦点のずれた像。
それは彼女を取り囲む形でまるで霧のように姿を現し、やがて彼の視界の中で金属製の檻として確定する。
「ええ、すぐに帰ります」
くるりと踵を返す彼女を、まるで追跡するように動くそれは――彼の意志の内で既に固定されてしまっている。
もう駄目だ。
彼女は『檻』から逃れられない。
――くくっくく……丁度、良い時間にいい具合に材料が手に入りそうだ
予定を変更する。
今日は、徹底的に儀式めいた事を行う。
――それでもし、反応が進むのであれば――アレを採用する事にしよう
窓を閉めると彼は自分の車へと急いだ。
今夜は儀式だ。儀式の内容はその意味に彼はあまり興味はない。
そんな事よりも重要な事があるから、彼は彼女をとりあえず捕らえる事を決めた。
夜の十一時を過ぎた頃、突然電話が鳴り響いた。
既に寝静まった真桜邸のあちこちにその音は聞こえているだろう。
――なんだよ
電話のある廊下に面していて一番近い実隆は、苛々して起きあがるとふすまを開いた。
廊下を小走りに移動する音と同時にベルが止まる。
起きたのが無駄になったのか、と引き返そうとして、応答する声がそれを引き留めた。
「はい、真桜ですが」
出たのは菜都美だ。
――冬実の……
実隆は気になって、止めた足をもう一度電話口へと向かわせる。
薄暗い常夜灯に照らされる彼女は見えたが、表情までは判らない。
――眠れなかったのか
その彼女が、驚いて息を呑む。
「ちょ、ちょっと、今どこよっ」
素早くメモを開いて、興奮しているのか震える手でボールペンを押し当てる。
無言で思い直したのか、ボールペンをそこに置くと受話器を持ち替える。
「ううん、無事なのね…判った。念のためミノルに迎えに行かせるから」
――俺?迎え?
あと一言二言頷いたりしてから電話を切る。
そしてきっと目をミノルに向ける。
「ミノル、鉄橋判る?ここから川に向かって、川沿いに鉄橋を目指して」
薄暗い明かりの中でも、まるで夜行性の動物の目のように彼女の目が輝いて見える。
その様子に背筋が寒くなるのを感じて、答えが遅れる。
「冬実が……今、帰ってくるから迎えに行ってあげて。あたし、お風呂とご飯用意してるから」
一瞬脆く泣き崩れそうになるが、すぐに台所に通じる廊下を駆けていく。
――何だろう
実隆は一度部屋に戻り、上着を羽織ると素早く玄関を抜けて、いつも使っている自転車にまたがった。
真桜冬実は高校三年に上がったばかりでもう受験勉強を始めている。
普段遅くなる事はない。彼女の成績はかなり良いらしく、塾にも通っていないにもかかわらず、勉強の心配は無いという。
だから、下手すれば菜都美よりも早く帰ってくる。
夕食の時には母親と明美にならうように準備しているぐらいだ。
だから彼女がいないということはそのまま何かに巻き込まれたか、事故かどちらかしかない。
覚悟を決めて、人気のない道を駆け抜ける。
――……冬実ちゃん?
川沿いの道に出た時、一人人影が見えた。
息を整えながら彼女まで一気に近づくと、案の定、制服姿の彼女だった。
「ふゆ…!」
だが彼女の名を呼ぶ事は出来なかった。
――!
思わず口を噤んだ彼を、疲れ切った表情で見返す冬実。
別に黙り込んだ訳ではない。沈黙は別の意味がある――口を閉ざされるような刺激臭、それも危機的な程、覚えがある。
実隆は自転車から降りると、彼女の側まで自転車を押して歩いた。
――血の……臭い?
暗いが、この匂いと彼女の制服に付いた染みは間違いなく血液だ。
「大丈夫?どこを怪我したの?」
「怪我はしてない、大丈夫……つっ」
答えながら彼女は一瞬顔を顰めて左腕を押さえた。
慌てて駆け寄るが、彼女の制服についた血は不自然な位置に染みを作っている。
スカートの前面と、背中の中央ぐらいだろうか。
スカートに至っては滴るほどしめっているのが見ただけで判る。
「ちょっと、冬実ちゃん、これ…」
「私の怪我は大した事無いですから。歩いて…話します」
彼女は右手を離すと、確かめるように左腕を動かす。
その間も足を止めることなく、まるで急かすように歩く。
彼女は自分の足を見つめるぐらい俯いているので彼女の表情は窺えない。
「ちょっ…と、誘拐されたんです。どうしても確かめたくて、如月にいたら」
声は比較的落ち着いているが文脈が無茶苦茶で、そのままでは何を言いたいのか判らない。
口調にも呼吸にもおかしいところはないが、まだパニックを起こしている可能性がある。
なにせ――全身浴びるほども返り血を浴びているのだから。
「無理に話さなくて良いよ。落ち着いて、まとめてくれるかい?」
実隆の言葉を聞くと、弾けるように顔を上げた。
彼の想像とは全く逆だった。
縋るような、脅えた貌は強気な彼女の表情とは思えなかった。
「駄目、今、話しておきたいんです。話さないと、話さないと…」
そう言って彼女は実隆に飛び込むようにして彼の胸のシャツを握りしめる。
実隆は思わず自転車を投げ捨てそうになっていた。
――震えている
小刻みに痙攣するように震える彼女。
実隆は左腕で彼女の後頭部を撫でるようにして、自分の胸に抱き締める。
「良いから落ち着け。俺は逃げないし、誰ももう、いないから」
抱き締めた彼女の頭も震えていた。
もしかすると寒くて凍えているのかも知れない。
怖さに震えているのかも知れない。
ともかく、しばらくそのままで立ち止まっていた。
冬実の震えが収まると、実隆は彼女を解放した。
少し乱暴だったかも知れない。後悔しても――少しだけ、遅かった。
「……済みません」
幾らかしっかりした口調で、彼女は答えた。
いつの間にか、ぼろぼろの貌ながらいつもの強気な顔立ちに戻っている。
形のいい口と鋭い目がそんな印象を与えるのだろうが、彼女は特別強気というわけではない。
彼女の顔を見た人間が、そんな風に感じるのだ。
きつい印象を与える鋭い吊り目と、美形にありがちな冷たさを感じて。
「良いよ。あ、ああ、服の事は気にしないで」
彼女の服から滲んだ血が、抱き締めた時に服に少し染みこんでいた。
だけどむしろ彼女から漂う血の臭いの方が、今は気になった。
「……はい」
落ち着いても彼女はまだ血にまみれている。
早く帰らせた方が良い、と判断した実隆はぽんぽんと自転車の荷台を叩く。
「乗れるか?」
不思議そうな顔で実隆を見上げて、荷台と彼を見比べるように視線を動かして小さく首を振る。
「歩かせて、ください。こんな…格好だから」
実隆も頷くと、彼女と並んで歩き始めた。
元々言葉数も少なく、あまり話した事のない冬実に、どう接して良いか判らない。
『冬実の事、良く知らないでしょ。どこに行くとか、何が好きだとか』
そう言った母親の言葉を思い出す。
だがそれでも聞かなければならない事は決まっている。
「大丈夫?」
こくり、とやはり小さく頷くと、彼女は一度実隆を見つめてから話し始めた。
「……私が、如月に行ってた事、知ってますか?」
思わず言葉を飲み込んで驚いたのを隠したつもりだったが、くすくすと笑い声を上げて彼女は実隆を見つめた。
澄んだ黒い瞳が、月の光を反射しているのか蒼く輝いている。
「良かった。ヒイラギさんが調査に向かってるから、もしかしたらバレてるかと思ってました」
目は月の光を蒼く照り返し、口元には笑み。そして、血臭と帰り血を浴びた少女。
ちょっと考えればあまりに猟奇的な風景かも知れないのに、実隆はそれを平然と受け入れていた。
自分の感覚がおかしくなってしまったのかどうか、思わず自分に尋ねていた。
――慣れ?
確かにそうとも言えるかも知れない。
でも、これだけ血を浴びていて、それでも無傷であることは喜ぶべき事だろう。
彼は自分に言い聞かせる。
「――姉さんには、特に気をつけてたのに」
しばらく沈黙。
からからと音を立てる実隆の自転車のギアの空転する音だけが、やけに寂しく響く。
「どうして?何で如月に」
「……まだ教えていないことがあるからです」
突然周囲がざわめき、直後――耳が痛くなる程の静寂が訪れる。
いつか、感じた感触――菜都美が教えてくれた感覚。
「多分菜都美姉さんから少しは聞いていると思いますけれども、まだ姉さんも全て知ってはいませんから」
きりきりという空気を伝わる感覚が、周囲をまるで見えない細い鋼糸で張り巡らされたように感じさせる。
絡み取られたら最後、ただの肉片のように変わるまで離さない蜘蛛の糸。
――これは
ふ、とそれが緩む。でも彼女はその刃をまだ、鞘に戻していない。
まるで刃を突きつけられているのと変わらないような剥き出しの殺意。
「…!」
風の音が戻ってくるような、激しいざわめきと同時に人影のようなモノが二人の目の前、通り過ぎてきた道の中央に降りる。
影の中からそれが実体化したような明確な姿を取った殺意。
――五十嵐!?
両手を地面について、猫科の肉食獣のように身体全身を撓めている姿は、間違いなく五十嵐幹久。
――いや
かき消したはずの冬実の殺意が膨れあがる。
同時、実隆も構える。
「これが『化物』、今回の事件の首謀者です」
荒い息をつき、同じように血の臭いを全身から放つそれを、冬実はそう表現した。
両手を大きく得物の方へ伸ばし、下肢は全身を撓めるために高く腰を上げ、また適度に膝を曲げて力を溜めている。
まさに獣、五十嵐は小さく開けた口から白く蒸気のような息を荒く吐き出している。
冬実は困ったように眉を歪め、それを見つめている。
――私達と違って、人間だったのにね…
だが冬実はそれは口にしなかった。
地面を擦り立てる特有の音。
二人は正反対の方向へ、同時に跳んだ。
きゅ きゅき
甲高い不自然な音。
それが耳に入った途端、実隆の視界が大きくぶれる。
ぶれる視界の左の隅、一瞬だけ顔のようなモノが見えた気がした。
同時。
世界は乳白色で半透明の世界に包まれる。
それは幻のようで、実隆が当たり前に受け止める世界。
動きよりも早く確実に見える、その『乳白色』のミルクのようなもの。
その震えは全ての物が発し、そしてあらゆる物を司っているかのようにも思える。
左下。
実隆が身体を一気に右に旋回させる。
左頬を抜けていく空気の渦。
普通ならば攻撃された方向に身体を捻るのは、衝撃を受け流すのにもかわすのにも向かないだろう。
だが読み通りの動きであった場合、そのままカウンターが相手の急所へと入る。
実隆の右手は勢いよく飛んでくるそれを僅かに捌き、左手は拳を作って相手の鳩尾に滑り込んでいた。
何か、小動物を踏みつぶした時のような音が聞こえた。
世界が――元に戻る。
「ヒイラギさん!」
冬実の声。
間合いを開けるように一歩退いた彼の目の前に、蹲る五十嵐だった物がある。
――まだだ
今度は体中に響く低音が、襲いかかってくる。
否、それは彼自身が蹴立てた地面が上げた悲鳴。
瞬時に流れる風景に合わせ、彼は右足で蹲る五十嵐だったものに向けて一蹴する。
思わぬ手応えのなさ
空振りと同時に再び空転する視界。
膝から上に激痛、膝より下の感覚が突如失せて同時に平衡感覚が途切れるように地面にうつぶせに叩き付けられる。
「べっ」
噛んだ砂利を吐き、両手で立ち上がろうとしても、右足がまだ完全に捕らわれている。
足首を捻られていて自由が利かない。
――くっ
更に捻り上げる――激痛。
が、それは同時に解放されて、痺れたように地面に放り出される。
「っ、五十嵐っ」
叫んで身体を弾き起こした時には既に小さな人影になって宙を舞っていた。
「早く避けてっ」
冬実の叫び。
瞬時に理解する。
右足に絡みついたアレは充分な手傷を負わせたが止めを逃された。
だから、冬実の攻撃を避けた上での反撃に移った――奴の姿は間違いなく実隆に向けて大きくなってくる。
――望むところだ
負傷は。
右足首捻挫、膝にある筋の損傷。
右膝を地面に折り押しつけ、左足で地面に踏ん張る。
右拳を腰に当て、両腕を大きく振り上げて襲いかかってくる五十嵐を真正面に据える。
視界は 再び 乳白色に染まる
音が消え、色が消え、形が消え――そこに残るのは、力の描く波紋。
意識している訳ではない。
ただ、まるで初めから物がそう言う風にあると理解しているように。
その波紋を砕くように。
受け流すように。
自分が生み出す白い波紋を、綺麗に沿わせて振り抜いた。
手応え
同時に音が蘇る。
甲高い音と同時に自分が五十嵐の頭部を打ち抜いた事実を知る。
右拳は完全に振り抜かれて自分の視界を遮り、五十嵐の姿は無惨に腹を上に向けてのけぞっていく。
糸を引く体液が、僅かに紅く滲んでいる――それも、一瞬。
引き延ばされた時間感覚が戻ってきて、音を立ててそれは一回転して再び四つんばいになる。
「――、そんな」
冬実が声にならない驚愕を見せて、一歩退く。
もう実隆は足も動かない。
もう一度五十嵐が地面を蹴れば、多分次の一撃で勝敗は期する。
すなわち、
――殺される
実隆は歯軋りした。
地面ぎりぎりにまで這い蹲ってこちらを見上げる色を失った貌。
確かに造形は間違いなく五十嵐だが、胡乱な目と獣の表情は、あの『五十嵐』とは別人だ。
気弱な表情を浮かべていた、あの微笑みのような恥ずかしそうに笑う顔。
そんな人間性を全て廃してやれば、ここにあるマネキンのような貌が出来上がる。
否、人間ですらないだろう。
――治樹
その姿に、実隆はあの少年、真桜の末弟を思いだした。
彼の目の前で同じように四つんばいになって、獣の目で見つめていた彼を――
Close your eyes.
続くかと思われた永遠の緊張感は、第三者のその言葉により乱された。
停止していた空間が、時間を取り戻す。
まず動いたのは五十嵐だった。全身を使って大きく跳躍し、真後ろへと飛び退く。
追いかける暇もなく、その姿は跳躍を繰り返して夜の闇へと消えていった。
「何……だったんだ」
実隆の言葉に、冬実はため息のような吐息をついてから言った。
「帰りましょう。明美姉さんにも話さなければいけないですから」
それ以後、緊張とも静寂とも言えない無言のままに二人は帰宅した。
実隆は掛ける言葉を失い、冬実も自分から何かを言おうとはしなかった。
そんな完全な沈黙の中、家が見える位の場所で、玄関から飛び出す菜都美の姿が見えた。
「っ、あ、おかえり」
「只今帰りました、菜都美姉さん」
思わず彼女の方を見る程、その声は柔らかくて心細かった。
いつもよりも僅かに気弱そうに見えるだけで、特に変わりないのに。
駆け寄ってくる菜都美は、直前で立ち止まって青ざめる。
「すぐ風呂に入った方が良い」
おろおろした貌で実隆を見返してくるので、実隆は首を横に振ってやる。
「怪我はないよ。…事情は、落ち着いてからだ」
彼の言葉に頷いて、彼女は冬実を連れて家に入った。
続いて玄関をくぐると、菜都美の背と明美の姿が目に入った。
「お疲れさま。お夜食用意してるけど」
実隆は彼女を見上げて、無言で頷く。
もしかすると明美は、全てを知っていて笑っているのかも知れない。
菜都美も冬実の姿を見て蒼くなっていたが、以前にも似たような目に遭っているのかも知れない。
そう思うと、聞きたい事もあれば言わなければならない事もあるのに、無言になってしまう。
靴を脱いで上がった実隆の真横から不意に抱き締める。
「うわ、あのっ」
道場で抱きすくめられた時のように、全く抵抗ができなかった。
焦る実隆とは裏腹に、自分の頬を実隆の耳の上に押し当てながら明美は囁く。
「ミノルくんだけじゃ、ないのよ」
聞いたことがない程静かで重い口調。
実隆はどう答えて良いのか躊躇して口を噤む。
どちらにせよ頭をがっしりと抱き締められていて、振り向くことも頷くことも出来ない。
だから、彼も重い口を開いた。
「……はい」
廊下で抱き締められて立ち止まっている二人。
誰かが見たら奇妙にも思えるかも知れない。
そんな事を考えていると、明美は力を緩めて少し明るい口調で続けた。
「冬実から聞いた?」
実隆は、今度は軽く首を振って応える。
くしゃくしゃと頭を撫でると、彼女は実隆を解放する。
「説明が必要?」
む、と赤い顔で明美を見返しながら実隆は明美の顔を覗き込んだ。
笑っているが、どこか寂しそうな表情。
いつもの巫山戯た雰囲気のない貌。
「…一つだけ。確認ですけど」
だから実隆も真剣な表情で言った。
「楠隆弥は、あなた達の敵ですか」
廊下で向かい合ったまま、明美と実隆は沈黙していた。
ほんの一呼吸も無いはずなのに、やけに長く感じられる程。
「――そうね、彼から見れば敵、だと思うわよ」
そして諦めにも似た微笑みを浮かべて肩を竦める。
「でもわたし達にとって彼は敵じゃないわよ、勿論。そのぐらいは理解しているから」
勿論キミも含めてだよ、と掌を上にした人差し指で実隆の鼻先を指す。
「ミノルくん、タカヤくんにそう言われなかった?」
人差し指を起こしてくりんと一回転させる。
『…お前はわたし達ではない。以上の理由から消去する。それが役目だ』
実隆は視線を床に逸らせて歯がみする。
「ああ、返事は期待していないから。ね、ミノルくん、決めるのも進むのもキミ次第だし、わたしは教えないし聞かないよ」
一方的に言うだけ言うと、彼女はキッチンへと彼に背を向ける。
「でもこれだけは言わせてね。わたし達は、いつでも家族として扱うからね、なっちゃんが諦めない限り」
入口で振り向いて、彼女は悪戯っぽく笑った。
――クスノキタカヤ
菜都美は、既に『隆弥さん』ではなくなっているのに。
――判らないな、この家は
もしかすると一生判らないのかも知れない。
――でも、人間は『解り合えている』と思うことで妥協し、馴れ合うものなんだろうな
自分を取り囲んでいた、『楠』と言う名前の家族。
あっと言う間に掌を返されるとは思っていなかった。
「変わってるよ」
実隆はため息をついて肩を竦め、明美に続いてキッチンに入った。
夜食はお茶漬けだった。
食卓に着くと、明美が四つ茶碗を並べていた。
茶碗には、いかにも刻みましたと言わんばかりの海苔が載った、鮭の身をほぐした茶漬け。
意外に凝っている。
「食べたら寝るの。もう、遅いからね」
実隆を見るなり言うと、彼女はお茶をつぎ始める。
「……明美さんも食べるんですか」
「何よ。ふふーん、太るとか言うのかな?ミノルくん」
相変わらずの口調で言いながら、さっさと自分の席に着く。
その時足音が聞こえて、菜都美が顔を覗かせた。
「風呂、空いたわよ」
実隆は自分に声を掛けたことに気がつかず、一瞬遅れて返事する。
「いや、俺は」
「良いから入る!服だって汚れてるでしょーが!」
迷惑だ、と言わんばかりに怒鳴り、ふん、と顔を横に向ける。
明美は明美でくすくす笑っていて何も言わない。
「…はいはい、わーったよ」
彼が風呂場に向かうのを入口で見送って、菜都美は明美の隣に座る。
お茶漬けが湯気を立てているが、彼女はそれには手をつけずにお茶を手に取る。
「何笑ってるの、明美姉」
「だって。なっちゃん、正直なのに全然素直じゃないもん」
明美は両肘をついて自分の頬を手の甲に載せる。
「…五月蠅い」
菜都美は否定も肯定もせず、むすっとした貌でお茶を一口飲み込んだ。
「それより明美姉、冬実…」
「みーちゃん、はるくんの事まだ気にしてるから」
はるくん――治樹の名前が出た途端菜都美は顔を顰めた。
あからさまに、それが、決して突然いなくなった弟を悼む物とは思えない貌で。
明美を非難する険しい表情を作りながら目を伏せて彼女から視線を逸らせた。
どちらも我慢がならなかったから、かも知れない。
自分に対しても、そして、治樹の事にしても。
「拘るのは判るけど」
「みーちゃんの態度が?それとも」
明美はわざとそこで一区切りして、じっと目を細めて菜都美を見つめる。
「彼女が何をしているか、が?」
菜都美は案の定そこで口ごもった。
明美は、彼女がそれ以上何も聞きたがらないのを知っている。
『知ってしまったせいで』動けなくなった自分を彼女は知っているから。
そのせいで、不安定な中学時代を過ごしたのだから。
「大丈夫よ。みーちゃんはわたし達の誰よりもお祖父さんに近いから」
「だから怖いんじゃないの!」
叫んでから慌てて口に手を当てて、頭を振る。
「違う。…違う、あたしは」
「彼女は全部知っている。自分の事も良く知ってるから、彼女は強い」
優しい口調で明美は言いながら、自分の妹を眺める。
脅えたような表情。
いつもどこか辛い貌を浮かべている彼女が、『優しすぎるせい』だと言うことも良く知っている。
「あの娘はね。……あの娘は、辛いはずよ。あなたとは違うから」
菜都美はぴくっと表情を変える。明美が『あなた』などと言うのは本当に久しぶりだ。
だから、逆に菜都美も黙り込んで明美を真剣に見返す。
「大丈夫よ。まだあの娘は誰も殺してないから。殺したら――後戻りしないから」
明美がにっこりと笑みを湛えるのを、菜都美はまるで不思議な物を眺めるような視線で応え、やがて無言で頷いた。
ふう、とため息をついた。
簡単なキーワードだ。それを思い出す事すら難しい事ではなかった。
「変わってないなんて、滑稽すぎる気がしますわ」
誰もいない河川敷沿いの道。
先刻までここに満ちていた争いの気配は既にない。
いつもと同じ、人気のない静けさだけが漂っている。
時折車の音が聞こえるが、それでもせいぜい対岸だろうか。
月明かりに蒼く染まった世界は、彼女以外の動くものを否定する。
――黒崎藤司
今回介入した理由の一つを回想する。
彼は既に失敗した理由を探して、困っている事だろう。
もしかすると彼女の存在を察知したかも知れない。
どちらにしても。
「そう、これはあなたの世界なのね」
彼女も理解した。
後は、ただ的を絞るだけ。
――もう戻る理由もないのですけれど
後始末だけはしなければならないと思い、彼女は夜穹を見上げた。
星は瞬きもせず、月の明かりの中に沈み込んでいた。
「遅い!」
がんがんする頭を振りながら、何故かあちこち痛む身体を無理矢理引きはがす。
「んー…うぁえ?」
ここは自分に与えられた部屋だ。
そして、今自分が寝ているのは、布団の上だ。但し掛け布団はどこかに行ってしまっている。
昨晩着替えたジャージ姿でちょこんと座っている。
「良いから早く目を覚ませ!」
何故か菜都美がいて、顔を真っ赤にして怒鳴っている。
「…………あ、おはよう」
何故か実隆の挨拶に、彼女はますます顔を赤くして眉を吊り上げる。
――何か、悪いこと言ったのかな
「いーから起きろっっ」
直後実隆の意識は一度落ちる。
何となく、真っ暗になる直前に足の裏が見えたような気がした。
「なっちゃん、あやまりなさい」
時計はもうすぐ七時四十五分を指そうとしている。
実隆は呼吸困難になりながら、つい先程目を覚ました。
頬とか口の周りとかが、血でぱりぱりと乾いて気持ちが悪い。
「…でも、起きてこない方が悪い」
応える菜都美はぼそぼそと言いながら目を実隆に向けようとしない。
「第一明美姉だって」
「ん?わたしがどうかした?」
相変わらずの邪気のないにこにこ顔で応える明美。
菜都美はもういつでもでれるような準備で、食卓に着いている。
「…ごめん」
ちらりと視線を向けて、菜都美は頭を下げた。
「鼻血ぐらいなら、いいよ、もう」
昨晩の出来事と、今朝の彼女のギャップに完全に毒気を抜かれた実隆は、草臥れたような口調で応える。
冬実も何事もなかったように食卓についている。
相変わらず無口で、時々会話する二人の顔を見比べるように視線を投げかけたり、朝食を見たりしている。
――いつもの朝食の風景だ
実隆にはそれが奇妙に思える程、いつもと変わらなかった。
「いただきます」
相変わらずマイペースの冬実の声に続いて、実隆を除く全員が両手を合わせた。
朝食を摂って、実隆は菜都美が出ていった後玄関で出発準備を終えて冬実を待っていた。
息を呑む気配に振り向くと、彼女が相変わらず無表情の硬い顔でこちらを見つめていた。
「行って来ます」
実隆は頷いて、脇に身体をどける。
彼女は玄関に並んだ小さな革靴に足を入れて、確かめるように靴底で床を叩く。
「大丈夫?」
実隆は確かめたい事を、出来る限り凝縮した言葉で表現した。
冬実は一瞬身体を硬直させて、やがてふいっと顔を上げた。
「大丈夫、かも知れません」
そしてそれで終わるように視線を戻して、玄関のドアに手を伸ばす。
「昨晩のあの少年は、私が近づかなければあれで終わります。……でも、これ以上何かを起こすようなら私が赦しません」
振り向きもせず答え、ドアを開いて彼女は出ていった。
――赦しません、か
朝食を終えた時間、朝のニュースで衝撃的な報道があった。
如月工業高校で、惨殺事件があったのだ。
つい一月以上前に起きた『惨劇』と事情はよく似ていた。
部活で夜中に借りていた部室で、その活動に参加していた男女合わせて六人の遺体がずたずたの状態で発見されたのだ。
恐らく、冬実とあの少年が関わったというのはこの殺人事件の事なのだろう。
『気の早い妖怪の仕業』『百物語の恐怖』等、いい加減で面白おかしい内容のワイドショーが組まれることだろう。
冬実が何故こういう事件に積極的に関わっているのか、せめて聞いておきたかった。
もしかすると、再び彼女とは交錯する可能性があるから、彼女の目的ぐらいは確認したかった。
でもあの完全な拒絶の態度――実隆は、声を掛けることが出来なかった。
「いってきます」
玄関から家の奥に向けて言葉を投げると、実隆も玄関をくぐった。
もう四月末になろうというのに、空気はまだ冬の冷たさを残している。
日差しが暖かくなければ、冬と間違えそうな程だ。
「ミノル」
道路まで出た時、背後から声がかかった。
聞き覚えは――かろうじてあった。
「レイミ、か」
振り向くと道路の真ん中に彼女はいた。
あの時と同じ白装束に、赤みのかかった黒い髪が、陽の光を反射している。
あの時は夕暮れで判らなかった――この娘は、濃い赤味のかかった黒い艶やかな髪をしている。
「お前は何者なんだ」
感慨よりも早く口は言葉を紡ぐ。まるで、身体は別の誰かに操作されているように。
もしかすると、それを彼女は望んでいるのかも知れない。
「私は」
言いかけてくすりと小さく笑う。
自嘲の笑みにも、ただおかしくて笑っているようにも――どちらとも、取れる。
口元を隠すように添えた右手のせいで背が丸まって、小さく見える。
「そうね。別に、用事なんか無いはずだったんですわ。本当は」
彼女は小さく肩を竦めて笑う。
その仕草は外見どおりの歳ではなく、大人の、それも落ち着きの感じさせるような女性の笑み。
力のない、弱々しさをも感じさせる仕草に、実隆は戸惑いを覚えた。
「五十嵐幹久を、あんな風にした張本人を捕らえに来たのよ。それが目的」
実隆は口元を歪めるだけで笑って見せて、彼女を見下ろすように言う。
「あんな、って、昨晩見ていたような口振りだな」
「ええ、陰から見てたのは私ですわよ。尤も非難するよりも助けたことに感謝して欲しい位ですわ」
そう言って、彼女は流暢な英語で発音してみせる。
昨晩聞いたあの歯切れ良く紡がれたkingdom Englishを。
実隆はぞくっと全身を震わせる。
「――まさか」
「いいえ、あなたの考えは正しくないですわよ。私が本当に用事があるのはクスノキタカヤ、ですから」
今度こそ実隆は絶句する。
「今彼はミノルに極近い位置で身を顰めているはずですの。もう私にも判らないのですけれども」
彼女はこほん、と一息つくように咳払いをする。
「私があなたに関わろうとした理由。関わる事になった理由。そして、そのために今私は、あなたに助けを乞わなければならない」
彼女は両手を大きく広げながら話し、そしてまるで祈りでも捧げるように両手を重ねて胸の前で交叉する。
「『ここ』が『あなたの世界』だから、ですわ」
白い服を着た少女の言葉はまるで、装飾のない実用性だけを重視したナイフのように作り込まれている。
まるでそれが当たり前のように感じられる程、的確な口調で心を揺さぶってくる。
――嘘だ
今、彼女の言葉を信じようとした自分に、彼は叱咤する。
助けを乞うと言った少女は、何故なら実隆の世界だからだと言う。
「…説明してくれ」
声が枯れているような、声にしてやっと自分が異常に緊張しているのだと気づく。
玲巳はその声色に気づいているのか、それとも彼女が理由だからなのか、全く頓着せず続ける。
「あなたは、自分の隣人が彼の意志だけで動いていると思いますか?」
そう例えば、と彼女は更に続ける。
「水面に打ち付ける雨が、まるでアニメのように全く同じ波紋を産まないのと同じですわ。それはあり得ない」
両手を自分の真後ろで組んで、肩を丸めるようにして実隆の顔を下から覗き込む。
何かをねだろうとする子供のように。
「彼の意志もあなたの意志も、必ずこの世界に波紋のように影響を与える。与えられた影響は、『新しい世界』を産む」
今度は組んでいた両手を一度胸元に持ってきて、ゆっくり伸びでもするようにして大きくそのまま広げていく。
「それは、新しい世界。例えば今日のあなたの選択で、実は昨日まであなたの隣にいたはずの彼は――隣の世界に言ってしまった」
「じゃあ今いる隣の人は」
「新しく産まれた、いいえ、あなたの選択で産まれた世界にいる、その世界に尤も適した、一番近い可能性の隣人」
彼女は跳ねるようにして一歩退き、実隆に背を向ける。
こうしてみれば、良くて高校生、どう贔屓目に見ても中学生が良いところだろう。
可愛らしいかも知れないが、得体が知れないのは確かだ。
「この理論は『世界樹』って呼ばれてるわ。人間の数だけ産まれる可能性を枝葉に見立てた世界の理想型」
彼女――玲巳の知っている世界とは予定調和。
意外な事なんか一つもない。
巨大で複雑な、何かの方程式で固められただけの世界。
全ての始まりから終わりが定められていて、まるで計算するように世界の果てが判る。
「でも、それは彼らの意志を無視してないのか?」
実隆の問いに、玲巳はゆっくりと首を振る。
「その全ての『意志』を含んだ可能性を、この理論では方程式化してるわ。だから、『これ以上の可能性はない』」
彼女は産まれて、産まれる時に既にそれは彼女の脳に初めから刻まれていたように『識って』いた。
身体が覚えているという言い方があるだろう。まさにそれに近い形で彼女は判ってしまった。
一分の隙もなく、まるでそれを一度体験したように世界が進んでいく。
覚えている訳ではないのに、それが判る――次の瞬間が直前に知らされるように。
予知や預言のように『あらかじめ与えられる』のではない。
「そして一度に見るのは、『選択』した人間の『可能性』を輪切りにしたもの。それには確かに隣人もいるかも知れない」
読み慣れた小説の一節を読んだ時のような、一度見た映画の一シーンを見た時のような。
諦めのような感覚――それが、極度に逸脱したものと思えばいい。
それを誰かに言おうとするだろうか?その思考の直後、結論まで彼女の頭の中で構築されるとしたら?
それは予想でも想像でもなく。
彼女にとってはそれも現実なのだ。
「そうやって選択した結果進むその流れを、『幹』に見立てた場合、通常はあなたの視界にいる人間との関わりによる枝葉もある」
実隆は頷いた。
――俺の、世界……ね
もしこの世がゲームなら、と考えたことがある。
少し昔の選択をやり直せるならと考えたことがある。
でも、それはこの世にいる全ての人間の選択の一部なんだと考えるならば――それは飛躍しすぎのような気がする。
だから逆に、選択し直した事により産まれる世界が、概念としてだけだとしても産まれていてもおかしくはない。
でも、それはもう『実隆の世界』ではなく、誰かの選択によって産まれるであろう、どこかの幹に呑まれるであろう世界。
その一部なんだと、彼女は言っているのだ。
「そんな風に世界が動くなんて、知っている人間は少ないんじゃないか」
ふふ、と玲巳はおかしそうに笑って、小首を傾げた。
「全ての人間に言える事ですのよ。結婚しようと、恋人だろうと家族だろうと相容れない世界なのに、思い通りに行くと思って?」
何故かその言葉がやけに空々しく聞こえた。
選択によって生まれる世界――でも、それが『思い通りの利己的な』世界という意味ではなくて。
「むしろなんの意味も持たない、なんて――証明すらできないのに」
それは知っていても知らなくても同じ、そう言う事に過ぎなかった。
実隆が黙り込んだのを確認して、彼女は続ける。
「私の世界では、ミノル、あなたはこの時点でここまで深く事件に関わることはなかった」
『彼女の世界』もまた彼女の選択の結果によって組み立てられている。
これは彼女以外変える事は出来ない。
――魔術理論『世界樹』を、大きく揺るがす存在
彼女のその『識』の限界は、彼女の世界に限定される事。
でも普通は彼女の選択の結果がもたらした最も近い世界を選択していると言う事だ。
だれも、介入する事は出来るはずはない。
今でも先は幾分は理解できる。
でも、既に狂い始めたように彼女は――この世界の、先を見る事が出来ない。
それは不自然で、彼女がいかなる選択をも「別の他人の選択による結果」が影響を及ぼしてくるなんて。
あり得ないのに今、彼女はそんな『運命の環』から外れてしまっている。
「その代わり、マサクラフユミちゃんに関わってあなたは『こちら側』から離れていた。…事件には、彼女と関わっていたわ」
実隆はいつの間にか言葉を失っていた。
『良かった。ヒイラギさんが調査に向かってるから、もしかしたらバレてるかと思ってました』
判ってもおかしくなかったはずだ。
なのに、何故気にもとめなかったのだろう。
「その世界では、あなたはマサクラナツミちゃんと仲は良くなかった。原因は、あの日道場に向かわなかった。喧嘩をしなかったから」
選択の可能性が生み出す世界。
「――レイミ、お前――どこまで、何を知っている」
「ミノル、少なくともあなたと私の利害は一致すると思うんですの」
くるっと彼女はもう一度実隆の方を向いた。
その瞳に浮かぶ表情は、先刻までの物とは違う。
強かな光。
「世界樹理論の歪みは私には判りません。でも、私が今までいた『私が辿るべき世界』から外れた理由はきっと、あなたと関わる事」
実隆が複雑な表情を浮かべるのを、玲巳はまるで舌なめずりでもするような妖艶とも取れる貌で見つめる。
「クスノキタカヤに出会う方法は、私には判りますもの。そしてそれがあなたの選択の中にあったということ」
「…レイミ、お前とタカヤの関係は」
玲巳は息を呑むように目を丸くし、やがて微笑みを浮かべて答えた。
「――師と、弟子ですわ」
「『煙草』が見つかった」
城崎は携帯でいつものファミレスに呼び出しをかけていた。
彼と、桐嶋だけが隅の席に陣取って向かい合っている。
「…しかし、お前」
「偶然だ。詳しくは、興信所とか探偵の暴露本でも読んでくれ。俺はあまり説明したくない」
的を絞った理由はないから、彼は誤魔化すように言ってシートに背を預ける。
「物理教師の、黒崎…か。……理由は判ったが、ルートは…本人に聞き出させるか」
剣呑な目つきで彼は呟き、同じようにシートに全体重を掛ける。
『急ぎなさいな、ナツミちゃんが巻き込まれる前に』
彼女はそう言った。
玲巳――自ら『識る者(Wizard)』と名乗った彼女は、直接関わるつもりはそれでもないらしい。
『あくまで私は、あなたの世界の枝葉。…もしかすると私の可能性というものがあって、私の『幹』があるのかもしれないけど』
何故か彼女の表情が硬く、そして寂しそうだった。
まるで既に世界には自分が存在しないような、そんな言い方だった。
世界を構築する全てから足を踏み外した彼女は、迷い子のようなもの、だろうか。
それとも全てを見下ろしている傍観者かも知れない。
分厚くとても壊せないような大きなガラスで囲まれた、彼女。
関わりたくても関われない、彼女の立場はそんなものだろうか。
もしこの世界が実隆自身の世界で、彼の選択でいかようにでも動く――そんな世界なら。
あの日、去り際に彼女に聞いた。
「俺はそんな、他人の世界を飲み込めるような化け物、なのか?」
実隆の問いに果たして彼女はおかしそうに笑みを浮かべて応える。
「私の霊視でも、あなたは普通の人間と変わらない。遺伝子レベルで検査してもらったことはありませんの?」
ついでに人間以外の存在なんか見た事もないわ、と付け加える
「でも」
「いつかのあなたの暴走や、真桜が関わるお話?アレは彼らの一族に伝わる話ですけれども…そうですわね」
玲巳は小さく頷いて、上目遣いで実隆を見つめながら言う。
「あなた達は、まだ自分のことよく知らない精神分裂症の患者なのかも知れないですわよ。違って?」
「俺が狂っているとでも」
玲巳はぱちくりと数回瞬くと、口元だけ笑みの形に歪めて真剣な眼差しを実隆に向ける。
「そうやって迷ったり、苦しんだりするのは人間の証拠よ。…『自分は化け物かも知れない』だなんて、滑稽だけど」
彼女は――そう、何故か寂しそうな眼差しで目を細めて――笑いながら言う。
「……じゃああなたは人間よ。違うかしら。人間という名前の、怖ろしい化け物なのよ」
決着はつかなかった。
質問の回答が、『人間であり化け物である』なんて、それではまるで戯れ言だ。
実隆は黙り込んだ城崎の苛々した貌を眺めながら時間が過ぎるのを感じていた。
穹はいつの間にか黄昏から薄闇に代わり、しばらくも待つ必要もなく星が瞬くだろう。
――人間という名前の、恐ろしい化け物……か
実隆は自分に言い聞かせるように口の中で唱えた。
――人間じゃなくても、自分が化物だなんて思わなくて良い世界があれば、多分こんなことにはならないんだ
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