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Holocaust ――The borders――
Intermission

Lie


 嘘。
 それは、人を信用させておいて貶める為に嫌悪感を抱かせる。
 すなわち、使った人間に対しての悪意としてそれは現れる。
 しかしどうだろう。
 『嘘』というものは『正しくない物』。
 では正しい物とは?
 言葉が伝わるその瞬間に、『誰か他人が提示した言葉』を『正しく解釈しなかった』のか?
 言葉を伝えようとする努力を怠ったのか?
 それとも、意識せずただすれ違っただけなのか?
 意識させて悪意をもってすれ違ったのか?

 この世の全ては嘘で出来上がっているのであれば、この世から嘘は消えてなくなる。

 そもそも、『正しい』という認識があくまで『認識』でしかない限り、それは論理的に存在できない。
 非論理的な構造を持つのであれば、それは物理学では認識されない。
 すなわち――『正しいもの』が存在できる場合、それは非物理学的であり。
 すなわち全てにおいて正しい『神』というものは物理学を越え、論理を超える。
 彼を存在させようとして物理学は歪み、論理的に『正しくない』状況を存在できるように――すなわち『正しく』変容させてしまう。

 だから――正しさなんか求めてはいけないんだ。

 嘘にまみれ、嘘に埋もれ、嘘のなかで――嘘を吐く。
 でも、本当にそれは嘘なのだろうか――

「どうしたんだよ」
 ある土砂降りの日の朝、彼女と出会った。
 彼女は寒空の中、傘も差さずにそこに突っ立っていた。
 言葉遣いは乱暴で、喋る言葉も男と変わらないが、確かめた事はない。
 ただいつの間にか同居していた。
「五月蠅ぇ、朝から怒鳴るな」
 子供みたいな甲高い声で、ふてくされたような態度を取る彼女の名は、嵜山(さきやま)みらい。
「何だとこら、人が朝飯作ってやった上にこれから出勤するって言うのに」
 奇妙な話だった。
 あの日、頭から水をかぶったような彼女を助けるつもりはなかった。
 かといって、彼女に手を出すつもりもなかった。
 それでも彼女が玄関に突っ立っているとこちらも迷惑だ。
 びしゃびしゃで、いつからそんなところで立ちつくしているのか――もう地面も濡れそぼっていて判らなかったが。
 ただ言えるのは、それは出会いでも始まりでもなく、終末を意味していたという事実。
 たった一つの真実に直面している、と言うことだろうか。
 俺は、彼女を怨むべきなんだろうか。


Intermission : Lie


 嵜山みらい。
 もう同居(同棲に非ず)を初めて半年、当たり前のようにすぐ側にいる。
 御堂暁(みどうさとる)にとっては非常に迷惑な話だった。
「……そりゃ、悪かったよ」
 それでも金銭面では逆に助けられているところもあり、彼女を追い出す気にもなれずずるずると生活を続けている。
 彼女は朝、食事を作って出勤する。
 給料は『食費と家賃』と称して暁に渡す。
 そのくせ、しっかり家事をこなして食費を抑えてくれるので――考えれば餌付けされているような気さえする。
 暁はとある興信所の社員だ。
 だから、彼女の名前から身元を洗ったこともある。
 元々警察との繋がりの強い興信所のような場所では犯罪歴のある人間から洗う方が早い。
 そう言った調べ物の方が楽だから、というのもあったのだが、彼女の身元ははっきりしなかった。
 少なくとも生活圏内では、彼女という存在を認めるものはどこにもなかったのだ。
――そんなはずはない
 犯罪歴のない人間まで考慮したとしても、『嵜山みらい』という人物は存在しないのだ。
 日本全国に手を回すとなると――もう不可能に近い。
――かと言ってもなぁ
「ほーら、ちゃっちゃと食べるっ」
 みそ汁のいい匂いと、焼き魚の香りに誘われるようにベッドから彼は身体を起こした。
 ロビー兼客間兼食堂になる卓に、向かい合わせにきちんと食事が並べられている。
 みそ汁に塩鯖の切り身、小鉢に入った沢庵漬けとほうれん草のお浸し。
 日本人の為の朝食の風景。
 慣れた風に席について、箸を取る。
 向かいにつく彼女は、両手を一度合わせて拝むと箸を取って、ふと気づいたように顔を上げる。
「………なに。魚が死んだような顔をして」
 呟いてからお浸しにしょうゆをかける。
「お前、まだ記憶が戻らないのな」
 彼の言葉にまるで他人のことのように小刻みに首を縦に振り、目を丸くしながら一口ご飯を口に入れる。
 しばらく無言で、彼女は黙々と食事を続ける。
「早く食べなよ」
「答えてからな」
 む、と眉を寄せて困った表情を浮かべる。
 こういう表情はただの子供にしか見えない。
「人が気にしてる事を。仕方ないでしょーが、戻らない記憶をぐだぐだ言うな」
「って、半分ぐらい他人事なのな、お前。自分の事なのに」
「まぁね」
 答えながらみらいは、むぐむぐとご飯を口に放り込む。
「…それとも、何か戻ったら良い事でもあるのか?」
「だから何故俺に聞く」
「今僕がいなくなったら、キミは当分まともな食事にありつけないだろーし、お金は減るし。いいことなしじゃん」
 だからきーてんの、と右手の人差し指を器用に突きつける。
 勿論、箸は動いて塩鯖の切り身をほぐしている。
 返事を待つ間にも口に入れるつもりだろう。
「俺の事はいい。お前は……」
 それでいいのか、と言いかけてやめる。
 何だか話していて不毛な気がしたからだ。
 そもそも、こんな話をしたのはこれが初めてではない。
 ただ彼が興信所に勤めているせいで、直接聞かずに自分の仕事の合間に情報網を利用してしまったのだ。
 そのせいで、大きく遠回りになった。
 だがそれについては彼は決して後悔していなかった、つい先刻まで。
――馬鹿馬鹿しい
 多少は狼狽えたものの、この忌々しい小娘は自分の記憶喪失に関して気にしていない風を装う。
――こんなことならさっさと聞いておけば良かった
 ため息をついて彼は塩鯖に箸を伸ばした。
 一瞬みらいは目を丸くして彼を見つめたが、もう忘れたように朝食を続ける。
 彼女の言い分は確かだが、普通は自分の同一性に不安を覚える物だ。
 いかに曖昧であろうと、人間というのは自分の記憶を頼りに生きているのだから。

 その時彼女は彼を見上げていた。
 それまで激しく耳朶を打っていた雨音が全てかき消え、やがて同時に背景が無色の世界にとけ込んでいく。
 他の何も見えなくなる。
 他の何も聞こえなくなる。
 滲む色のない世界に、二人だけ。
 沈黙と静寂が、雫を冷たくさらしていく。
「入るか?」
 彼女の前髪の前を、髪を伝う雨の滴がよぎっていく。
 それでも彼女の視線を揺らす事はなくて。
 目を閉じて小さく頷いた。
 優しい沈黙。
 何を問えば良いだろう。
 まず、どうすればいいんだろう。
 暁はただ黙ってタオルを差し出して、風呂の準備だけを考えていた。

――どうしてまず怪しいと思わなかったんだろう
 それ以前に、彼女の事を思い出そうともせずに家に連れ込んだ。
 今考えても自分の行動を正当化する為の理由は思いつかない。
 そんなものだ――と、みそ汁を飲みきって思う。
「ごちそーさんっ」
 彼の目の前で朝食を平らげた彼女が、嬉しそうに両手を重ねて言う。
「ほらほら、急がないと時間ないよ」
 ちゃかちゃかと、まるでねじで回したように彼女は自分の食べた食器を片づけ始める。
――まあ、こう言うのもありなのかもな
 自分の出勤時間もない。
 彼は考えるのをやめて、ご飯の残りをお茶で流し込んだ。

 興信所の仕事と言っても、年がら年中警察やのぞきの真似事をやっている訳ではない。
 探偵というと聞こえが良いが、警察の許可を得た法に触れない程度の情報収集屋というのは所詮『のぞき屋』。
 実働している人間の良心が問われるとはいえ、余程の事がない限り保守義務を守らない人間はいない。
 それは大抵が離婚、不倫に関わる人の汚い部分だからだ。
 そしてそう言う物を法律――もっと極端な言い方をすると書類一枚、ただの紙切れでがんじがらめにしている現実を知る必要があるから。
 だから、有る人間は不信感から。
 有る人間は、わざわざ言葉にもしたくないから。
 それらの不快感がこそ、保守義務を守らせる所以なのかも知れない。
 さらに法律の知識がないと成り立たないだけに、様々な書類上の手続きを行う。
 警察とのやりとりがほとんどだから、警官とのパイプも持っている場合が多い。
 もっとも暁の場合はそう言った『興信所』のオーナーに雇われている事務員なので、深くは関わっていない。
 せいぜい自分の為にちょっとおこぼれに預かる程度のものだ。
 今日だって、実際に会社でやっているのはある依頼の為の、法的な手続きのための書類作成だった。
 いつもの仕事、ルーチンワーク。
 なんの躊躇いもなくただ淡々と続く仕事をこなすだけ。
「?」
 だから、そんなことはあり得ないはずだった。
 見覚えのある物を見つけて、ふとその書類を手に取った。
――これは
 書類そのものには問題はない。
 とある依頼、それは彼が最も良く見かける依頼、人捜しの依頼だ。
 依頼そのものではないが、調査報告の一部らしいそれはA4サイズで数枚の綴りの一部らしい。
 ページ数がうっているが、バラバラになってしまっていて初めの方の数ページは散逸してしまっている。
――嵜山未来?
 依頼目標は岸さより、押しも押されぬ大企業岸電子の社長令嬢である。
 調査中発見された時に同い年ぐらいの少年と一緒だったという。
 写真や尾行から少年の身元は判明していて、写真とともにプロフィールが印刷されている。
 高校を中退し、現在フリーターとして職を転々としているらしい。
 未来。写真は確かに彼女――少年、と言われれば確かにそう見える――だ。
 暁は眉を寄せ、睨むようにその写真を見つめる。
――なるほど、童顔な訳だ
 写真の下に小さく但し書きがある。
 『※高校時』
 高校生で男女の差違を見間違う事はまずない。
 だが写真の顔はどう見ても中学生位にしか見えないだろう。
 それでも腑に落ちない。彼女――みらいとうり二つの、しかも同じ名前で――
 普通この手の調査書はコピーを取ってはいけない決まりになっている。
――でも間違ってコピー機に束にして入れて、すぐにシュレッダーに放り込む事もある。
  たまたまそれが、自宅へ仕事を持って帰った時に混じっていても、おかしいことじゃない
 暁は目をついっと細め、白紙の様式を束ねた中にプロフィールを挟み込む。
 そして何喰わぬ顔で原稿用ホルダーにそれをおいた。

 電車が揺れるたび、足下が心許なくなる。
 窓を流れていく夜景を眺める余裕すらなく、暁は足下を見つめている。
 嵜山未来という少年は、決して犯罪者ではない。
 岸さゆりという少女(彼女のプロフィールは今手元にはない)と、何らかの関係が有るのは確かだろう。
 しかし報告書と、彼が作成した書類を考えれば――まだ、彼女は行方不明だ。
 それどころか「嵜山未来」なる少年も、同時に見失われている。
 不自然な話だが、二人一緒の写真まで撮られているにも関わらず、彼らがどこで生活しているかを突き止められていないのだろう。
 いらいら、する。
 脳裏にちらつく雨に濡れた彼女の姿。
――関係ない
 それにどう見ても『彼女』だ。
 だが今の性転換手術の技術は、美容整形を含めてほぼ完全に女性化することもできる。
――絶対に……違うと言いきれるのか?
 一瞬彼女を剥く絵を想像してしまって、彼は慌てて頭を振った。
 正体不明なのは変わらないのだがら――
――くそっ
 一緒に住んでいるのは女性、という完全に抜けていた感覚が、突然降ってわいたように襲いかかってくる。
 一度気になり始めるとまるで病気のようにそれが思考の端に引っかかってしまう。
 彼女のむくれた貌。
 いつもの笑った貌。
 哀しそうなあの貌。
 そして見た事のない怒った貌を――見たくなる。
――やめろやめろ、何考えてるんだ
 でも今家に帰って彼女がいたら自分がどうなるか判らない。
 頭を冷やさないといけないと思った彼は、本来降りる駅の隣で降りる事にした。
 家まで帰るには少し遠いが、歩いて頭を冷やすには丁度良いだろう。
 定期を見せて改札をくぐると、幾つもの小さな飲み屋が目に付く。
 典型的な繁華街――駅周囲には数多くの店がある。
 繁盛しているのかいないのか、人通りはあまりなく、代わりに車が何台も行き来している。
 きちんと整備された歩道を歩きながら、そんな人の流れを眺める。
 どこか投げやりな笑み。
 力のない、無感情な貌。
 無理矢理狭い道を、強引な速度で走り抜ける車。
 みんながみんなどこかに溜めたものを吐き捨てているように見えて、彼は眉を歪めてため息をついた。
 吐き捨てるだけ捨てて、彼らはどうするつもりだろうか。
 何となくこの場所が汚らしく思えて、急に家に帰りたくなる。
――矛盾してるな
 帰りたくなくてわざと一つ手前で降りたというのに、逆に帰りたくなるなんて。
 自嘲に口を歪めて一呼吸。
――俺、あいつの事が好きなのかな
 そうじゃないと否定する自分がいる。
 自然、あまりにそこにいる事が自然すぎて、あまりに自然だからおかしいんだろうか。
 唐突に彼女がいなくなったとして、その時自分はまともにいられるんだろうか。
――実際にいなくならないと判らないな
 でも、その時は遅すぎる。
 帰ってくると判って消えるのと、そうでないのとでは――
 そこまで考えた時、自宅が見えた。
 彼のような独身で住むには少し広いアパートの三階が彼の家だ。
――え?
 暗い窓。
 見慣れた光景なのに、彼はどきりとした。
 彼女が消える事を考えていたせいだと自分に言い聞かせながら、ポケットから鍵を出す。
 暗いだけじゃない。
 何故か鍵穴に鍵が入らなくて、焦って余計鍵ががちゃがちゃと音を立てる。

  こつ こつ こつ…

「あや?おかえり、暁」
 硬質な近づいてくる靴音と、相変わらず丸い声でそう呼びかけてきたのは、みらいだった。
「いっやー、久々に夜泣き蕎麦見つけたらから、思わず買って来ちゃったよ」
 と言いながら両手にポリエチレンのどんぶりを抱えている。
「……幾つか、聞いても良いか?」
 盛大に?マークを飛ばす彼女に、暁は言った。
「お前、俺が帰ってこなかったなら、それどうするつもりだった」

 みらいからラーメンを受け取ると、そのまま適当に腰掛けて食べ始める。
 家が目の前なんだから――でも彼女も倣って隣に座る。
「お前これからどうするつもりなんだ」
 何度も聞いた問い、何度か交わした繰り返し。
 みらいの答えはいつも同じ。
 『どうでもいいじゃないか――僕はキミの役に立ってるんだから』
 果たしてそれで良いんだろうか。
「んー。風呂入って寝る。今日の仕事はきつかったから」
 彼女は彼のコネで仕事に就いている。
 子供っぽい外見だが、コンビニの店員には丁度良いらしい。
 真面目に通っているので信頼もされているという。
「誰もそんな事を聞いてないだろ」
 不機嫌そうな暁の声を聞いても顔色を変えない。
 次の言葉は、彼女の予想の範疇だからか、それとも何も考えていないのか。
「そうだね」
 だから、それだけ答えるとずるずるとラーメンを啜った。
 シナチクとネギだけが入った、いかにも安っぽいラーメン。
 麺のこしとスープの味を思うと、このプラスチックの容器のチープさが妙にアンバランスに感じる。
「でも、わかんないよ。…僕の事調べても、何もなかったでしょ」
「……知ってるのか?」
 目を薄く閉じ、ゆっくりと頷くと食べ終わったラーメンの容器を足下に置く。
「僕だってバカじゃない。自分の記録がないか探してみたんだよ。…でもね、なんにもないよ」
 覚えていたのは名前だけ。
 何故名前だけなのかは、彼女も判らない。
 名前を頼りに行政機関に通ってみたが――勿論収穫などない。
「気がついたらここに立ってた。どうして良いのか判らないから待ってたら、扉が開いてキミがいた」
「それより以前の記憶は、お前の名前だけ。……それだけだと、ホントに都合良く聞こえるけどな」
 はは、と寂しそうな笑い声がして、彼女は夜穹を見上げる。
 今日も雲もなく、星は瞬きもせずにそこに留まっている。
「もっと都合のいい冗談を言おうか?」
 いつの間にか、彼女の視線を追うようにして目を穹に向けていた暁は、悪戯を楽しむような彼女の声に首を向ける。
「サトル、僕は、キミを見た時、初めてじゃないと思った」
 わざわざ区切って、まるで強調するように、焦らすようにそう言った。
 にこにこと笑う彼女の貌に冗談の気配が漂う。
「――お前、バカか」
「なんで僕を覚えていないの?」
 それが、一転して崩れた。
 彼女の話し方には真剣さが足りない。
 と、感じていた暁はそれを改めなければならなかった。
 同じ調子で言った言葉に、彼女は一瞬で笑顔を崩してしまっていた。
 自分の言葉に自分で傷ついたように。
「ごめん」
 そして、そう言うと再び笑みを浮かべた。
「――押しつけ、みたいな言い方になるもんね、これじゃ」
 暁はふいっと顔を背けて、食べ終わったラーメンの汁を排水溝に流す。
「なんだよ。…でも何かの間違いだろ?俺は、お前の事なんか…覚えて、いない」
「だよね」
 乾いた笑い。
 暁は僅かに首を振って、どんぶりを置くと大きく伸びをする。
「帰ろっか」
 隣で立ち上がる気配。
 それに合わせて彼も立ち上がった。

  なんで僕を覚えていないの?

 何となく話し掛けづらくなってしまい、彼はそれ以上何も聞かなかった。


「何してるの」
 大学のサークル、高校、中学時代のアルバムを彼は押入の奥深くから取り出した。
「……お前の言い方だと、俺はお前と会っているはずなんだろ」
 新しい物から順に、彼は掲載されている名簿を追った。
 もし引っ越しでどこかに行ったのであれば、記憶にも残っているはずだろう。
 でもそんな印象もない。
 とりあえず片っ端から当たるしかないかも知れない。
 嵜山なんて変わった漢字でも、本当に忘れているのだろうか。
 鴻池、坂上、佐々木、佐藤……
 だがどのアルバムの名簿を見ても、彼女の名前は見当たらない。
 試しにひらがなの名前を探してみても――あくまで念のためだ――勿論、嘲るかのように見当たらない。
「へえ、これ、サトルだよねー」
「こらっ」
 人が真面目に、と言葉を紡ぎかけて言い淀む。
――こいつは、どこまで本気なのか
 そしてついと目を細める。
 彼女の態度も貌も、どれだけ信じて良いのだろうか。
「それよりさっさと風呂に入れ。邪魔だろ」
 ちぇ、とあからさまに舌打ちし、彼女は渋々立ち上がる。
「かたづかないもんねー……それに」
 じろ、と彼を見据える。
「調べ物してたら覗けないしねー」
「黙ってろ、男の癖に」
 まるでガラスが割れる音を聞いたように、彼女は全身を震わせて堅くなった。
 見る見るうちに吊り上がっていく眉。
 わなわなと体を震わせると――あれは多分怒りのためだろうが――顔を赤く染めていく。
「こんのばかっっ!」
 叫んでどたどたと風呂場へ消えていく
 ぴしゃりというドアの閉じる音すら、彼女の怒りを表現していた。
 だから。
――………まずい事言ったのかな
 あの怒り方は、馬鹿にされた時の女性特有の物だ。
――違うんだよな
 彼は、水音を立て始める風呂場から視線を逸らせて、アルバムを手に取った。
 結果。
 半時間の調べ物は、徒労に終わった。
 記憶から半分以上消え去っていた高校時代のアルバムを眺めても、彼女の姿はない。
――それ以外となると…
 向こうが一方的に知っているのか。
 どこかの街で、顔を見ただけとか。
 彼は実働しない事務員なので、聞き込みや張り込みで会う事はないはずだ。
「やめた」
 頭が痛くなってきて、彼はアルバムを放り投げた。
 そもそも何に拘っていたのだろうと天井を仰いで、そのままの体勢で背中をソファに落とす。
 ぽす、と軽い音が聞こえて、彼は身体から力を抜いた。
――別に、今という時間が続くならそれで良いような気もするのに
 何故それを否定しようとして努力しなければならないのか。

  とんとんとん

 風呂場から足音が聞こえた。
「風呂、空いたぞ、この馬鹿」
「馬鹿はよけっ…」
 言って半身を起こしてその体勢で固まる。
 に、と口元を歪めて笑う彼女は、バスタオル一枚だけ身体に巻き付けていた。
「へっへっへ」
 呆気にとられている暁に、不気味な笑い声を聞かせると勝ち誇ったように言う。
「見とれてる暇あったらさっさと風呂、はいんなさいよ。え?」


 その日、奇妙な夢を見た。
 どこか知れない場所で、自分は横たわっている。
 まるで悪い夢でも見ているように、全身が汗ばんでいる。
 周囲は暗く、ぼそぼそというか細い声が周囲に漂っている。
 もう止めどもなく。
 理由も前後の脈絡もなく、会話が成されている。
 それは会話として成立しないような一方的な言葉の羅列。
 理解しようと口を開こうとして――


 目覚めは最悪だった。
 夢の気怠さもあるが、何よりも不自然な静寂に眉を寄せて、顔をしかめる。
「…みらいー」
 返事がない。
 身体を起こして、反対側に仕切って寝ているはずの彼女の姿を探す。
――?
 仕切がない。
 寝ていても寝てなくても、普段から自分のベッドのある場所は仕切で部屋のように作っている。
 仕切を片づけることはなかったから、奇妙に思った彼はベッドから降りてみる。
 朝食の匂いがしない。
 朝の薫りがない。
「みらいー。いないのかー?」
 昨晩寝る時に見た彼女の場所には、綺麗さっぱり何もなかった。
 勿論荷物も、彼女が残すだろうもの――置き手紙すらそこにはない。
 掃除をしたふうでもないのに、まるで初めから何もなかったかのように人がいた形跡がない。
――まさか
 昨晩寝る前まで彼女と話をした。
 他愛のないいつもの話。
 彼女はいつもと変わりなく、変な所もなかった。

  なにも 変わらなかった時と同じ

――夢から目が覚めた……のか?
 彼は慌てて自分の荷物の中に入れておいた、あのコピーを取り出す。
 「嵜山未来」の書類は、やはりまだ残っていた。
――みらい
 まだ何も思い出していない。
 まだ何も思い出させていない。
 彼女の失われた記憶の中で、自分が一体どんな人間として映っていたのか、確かめていない。
 何より――何故、そんな彼女の事を覚えていないのか――

『今僕がいなくなったら、キミは当分まともな食事にありつけないだろーし、お金は減るし。いいことなしじゃん』

――ああ、いいことなんかない
 鮮明に思い出せる彼女の言葉。
 我慢、出来ない。
 暁は自分がこんなにも堪え性がなく、言う事を聞かないものだとは思っていなかった。
 今までの日常が帰ってきたのに、半年の間の非日常の方が大切に思っているなんて。
 彼は信じられなかった。
 でも何より信じられないのは、彼女が今ここにいないという現実。
――嘘だ
 彼女がここを出ていく理由が思いつかない。
 彼女が証拠も残さず消える理由なんかない。
 彼女の持ち物らしい物は一つも残っていない。
 でも、彼女には住所もない。
 彼女にはこの辺りにデータを持たない。
 本当に、彼女は一人きりのはずだ。
――どうして
 足が動く。
 手が求める。
 迷うことなく彼はふらふらと外に飛び出していた。
 会社に行かなきゃならないと、理性の一部がそれを止めようとする。
 でも身体は言う事を聞かない。
 まるでそうまるで、取り憑かれたような気分。
 自分とは違う物がそこにいて、それに向かって訴えているような。
「みらい」
 口はまともに意味のある言葉を紡がず。
 足はふらふらと意味もなく彷徨し。
 手は漂うように何かを求め。
 目は他の何も求めず――映さず。
「みらい」
 彼は街を、彼女を求めるように歩き続けた。
 数時間も歩き続けただろうか。

  どん

「こら、お前、どこを見て歩いている」
 突き飛ばされて、腰を強かに打ち付ける。
 痛みにやっと正気に返ったのか、暁は顔を上げた。
 二人組の男。
 一人は紫色のスーツに、金色の金属をちらつかせている男。
 品のないシャツに、歪められた口元は真っ当な生き方をしている人間じゃない事を主張する。
「あーあぁ、見ろよ、新調したばっかりのスーツをこんなに汚しやがって」
 後ろに控えている男も、派手さはないが妙にぴりぴりした獣のような気配を漂わせている。
「……」
 紫のスーツの男が指さす部分は、確かに染みのような痕がある。
 でもまるで、濡れているだけのようにも見える。
「ほら、ぼぉっとしてないでっ、こらっ」
 暁は弾けるようにして地面から立ち上がり、一気に背を向けて走り始めた。
――何を言っても無駄だから、逃げるに限る
 怒声を上げて、スーツ姿の二人組が追ってくるのが判った。
 前も見ずに路地に走り込んだせいか、そこは見覚えのない場所だった。
 それまでどこを歩いていたのかも判らなかったから、当然かも知れない。
 もつれるような足取りで、見覚えのない路地を駆け抜けながら。
 彼は、今何故走っているのか判らなかった。
 どうやって逃げようか、どこに逃げようか算段する余裕はあるが、自分の今いる位置が判らない。

  激痛

 唐突に意志とは違う方向へ、真上へ流れていく風景。
 同時に近づいてくる地面。
 遅れて、左足に伝わる――冷たい、余りに冷たい感覚。
 視界が暗くなると同時、初めて彼はそこで倒れた事に気がついた。
 頭の混乱をそのままに、彼はさらに半回転、身体を捻るようにして地面を転がる。
 逆さまの世界に、頭上から近づくやくざ者。
 にやりと笑みを湛え、右手に見慣れない黒い金属塊を握りしめた男が、にやにやと近づいてくる。
「よぉ」
 そして、冗談みたいに大きなそれを彼の額に突きつける。
「人生やり直そうぜぇ」
 引き金を、

  ひいた。

 多分、本来ならそこで意識毎死の世界へと導かれている事だろう。
 暁は必死だった。
 銃口と、引き金にかけられた指先が見えた時、死にたくないと思った。
 同時にそんなはずはないとも思った。
 だから、それに合わせて身体が動いた。
 まるで巻き付けるようにして左腕が動き、右手で銃身を左へと押した。
 死が撒き散らされる前に、背中が浮いた。
 衝撃と、リコイルで彼の身体が引き上がり、下半身を引きずるようにして。
 そこからの動きは彼には多分記憶がないだろう。
 彼はそのまま身体を丸めるようにして、両足を畳み込む。

  めきり、という嫌な音

 腕をねじり上げたままヤクザを引っ張って、丁度一本背負いの格好で――アスファルトに、叩き付けた。
 いつの間にか、入れ替わるように立ち上がっていた。
――痛っ
 そして、左足の激痛に転がりながら、銃を奪いもう一人の方に振り向く。
 馬鹿でかい銃を突きつけられた男は眉を動かしただけで、それ以上なんの反応もなかった。
「……撃ってみるか?」
「う、う、五月蠅い」
 ずい、と男が一歩踏み込む。
 暁は焦って――撃たないと思わせたくない、近づいて欲しくない、逃げたい――引き金を引いた。
 引いてから躊躇した。
 跳ね上がる銃身を両腕で感じながら、今更ながら懼れた。
 自分のした行為に対して。
 きーんと耳を聾する音に顔をしかめ、その衝撃が両肩を痛める。
――殺した
 人を殺した。
 こんな近距離で撃たれれば、こんな大きな銃ならば、間違いなく死ぬ。
 こんな激しい銃弾であれば、喩え防弾チョッキを着ていても耐えられない。
 まだ煙を吐く銃口を恐る恐る降ろして、自分の銃弾が抉ったモノを確かめようとした。
――!
 そして。
 それを見た。
――な、なんだ…これは…
 想像の中では、男は血を吹いてふらふらしているか、倒れているかだった。
 だが、そこに有ったのはそんなものではなく、ただ上半身のない人間のようなものだった。
 血を一滴も漏らさずに、まるで蝋人形をえぐり取ったようなそんなイメージ。
 驚いて地面を――先刻自分を抉りかけた銃弾の在処を探して、もう一度絶句する。
 すり鉢のような後があった。
 男の切断面のように、滑らかで不透明の痕。
 銃弾が地面を抉ったとは明らかに違う――
――どうして
 自分の左足も恐る恐る眺めて見て、臑を抉り抜いた弾痕がそれらと全く同じという事を確かめる。
 指で触れてみる。
 痛みはない。触れても、その感触はまさに蝋。
 そして、撃ち貫いた服の断面も、まるで初めから同じモノであったようにくっついてしまっている。
――…っっ
 ズボンを離そうとしてちりちりと肌が引きつるのを感じる。
 まるで肌に張り付いたガムテープを強引に剥がすような感じで、少しだけ奇妙な感じがした。
 視線を移す。
 自分の握りしめた銃は静かに、手の中であるにも関わらずも冷たく冷え切っている。
――な、何だこれは…
 よく見れば、銃にしては恐ろしく巨大な代物だ。
 『ハンドキャノン』――デザートイーグルに与えられた呼称を与えるべき代物。
 重さはそれほどではないが、サブマシンガンを一回り大きくしたような印象を与える程のサイズだ。
 全体的に丸みを帯びた、鋭い銃身と鉄板を張り合わせたような無骨さが入り交じる、きわどい代物。
 銃口は親指を悠々と飲み込み、ライフリングを持たない。
 どこをどうさわっていいものか――そう思っても、引き金とそれにかかる安全装置以外の全てはまるで組み立て式のおもちゃのようで。
 暁は困惑した。
「これは――なんだ」
 そしてこの馬鹿げた状況は一体何なんだ。
 何一つ説明できないまま、彼はそれを懐にしまうと――捨てておくのは憚られた――壁を使って立ち上がる。
 這い上がるようにして立つと、ほとんど役に立たない左足を引きずるようにして、彼は――他に行き場がないから――家に向かった。

 一体何があったんだろう。
 昨日と何が違うんだろう。
 素直に会社に行けば、元通りの人生が待っているんだろうか。
 そう言えば携帯電話はどうしたんだろう。
 何故みらいは近くにいないんだろう。
 俺はどこにいるんだろう。
 暁の頭を過ぎる思いをまるで虚仮にするように、道の向こう――まっすぐ、曲がり角すら存在しない向こう側に、彼女がいた。
「みらい――」
 表情は見えない。
 いつも来ていたTシャツにハーフパンツの格好で、こちらを見つめてじっと立っている。
「サトル」
 声が、何とか届いた。
 小さな、多分呟いたような声なんだろう、周りが静かでなければ気がつかなかっただろう。

  かちり。
  金属音がして、暗闇は矩形に切り取られた。

 ヴィジョンが浮かぶ。何の風景なのか、現実に視界に切り込むようにして開く。

  扉が開いたらしい。

――くっ、何だっ

 「結局ここまできたの」
  言葉が聞こえた。
  明るい言葉――安心しきった、暖かい口調。

  どこかで聞いたことがある声。

 それが自分の見つめる彼女の姿と何故かだぶる。

  荒い息をつき、肩が上下するたびに痛みが走る。
 ――草臥れた
  そんな、生きることに対して真後ろを向いた気分と。
 ――殺してやる
  誰かが生きることすら否定しようとする冥い衝動が。
 「…そのようすだと、皆殺しね」
  声を掛けてくるのは真正面。
  今くりぬいた光の中に見える――少し遠い。
  人影と言うよりもそれは人形のように華奢でしなやかで、脆い。
  荒い息と上下する視界、やがてずるずると脚を引きずるように彼女の姿が近づいてくる。
  右手に力がこもる。
  視線を落とすことはないが、この重さは良く知っている重さだ。

   頭の中で 自動的にそれを認識する

  彼女の言葉はなのに妙に落ち着いているような気がした。
  その声を聞いていると、理性が無闇に苛立たしくなる――感情は逆に落ち着こうと必死になっている。

 彼女は誰だ?――何故そんなことを聞く。

  お前は誰だ?――聞くまでもないだろう。

 ならここは――今俺が見ているこの映像は何だ?
 現実に近づく彼女の姿が、今垣間見えるこの幻像と重なりながら記憶を浸食していく。
「くっっ、みらい、お前は一体っ…」

  彼女が笑う。
  口元しか見えないのに、その笑みはまるで、天使が居るのならこんな笑みを浮かべるだろうと――
  あまりに幼く感じられる無邪気な笑みに、明らかに苛立ちが増す。
  逆に彼女に対する――先刻まで抱いていたはずの殺意が消える。
 「…この私を殺したいんでしょう?」
  そのとおりだ。

 いや――この幻像を『見ている自分』は、今ここで彼女を見つめる自分ではない。
「サトル、その銃――」

  脚を止めることなく進みながら、そう思う。
 「まさか初めから捨てられると思っていた?」
  そのつもりで創ったのだろう?
  わざわざ俺というイレギュラーな存在を。
 「違うから、裏切られたと思ったんだよね?」
  違う――それだけははっきり言える。
  俺が今抱いている殺意は――

   コノ サツイ ハ モット シズカナ ナニカ

 貌を判別できる程近づいて、やっと気がついた。
 そこまで見せつけられなければ、落ち着かない程彼は左足の無感覚に苛まされていた。
 まるでモノを引きずっているようなそんな感覚。
 戻ってこない感覚は、まさに足先が石で出来た偽物のようにも思えて。
「見つけたんだね」
「みらい、お前――」
 彼女は動こうとしていない。
「思い出したかな?その銃を手に入れたって事は」
 大きく両腕を開いて、寂しそうな笑みを湛えて。
 一瞬だけ戸惑う――彼女が、銃の事を知っているということに。
 サトルは首を振る。
「思い出せない。そもそも――この銃って、何なんだよ」
 多分青ざめているだろう。
 自分の貌を、思いながら。
――一体、これは
 非現実的すぎる。
「君の一部と言うべきものだよ。僕の事も忘れてるんだから、覚えてる訳ないのかもしれないけどね」
 彼女が笑みを浮かべた。
 背筋が凍るような凄惨な笑みを。
 今まで彼女に抱いていた感情のようなものが全て崩壊する。
「嫌でも思い出すよ。――その銃で、この僕を撃ち抜けばね」
 みらいは足を踏み出した。
 一歩、それはたった一歩、でも確実な一歩だった。
「さあ?撃てないかなぁ?」
 まるでからかうように口元を大きく吊り上げて、彼女は両腕を開いた。
「嘘で出来てるんだよ、この世界は」
 みらいは、淡々と呟いた。
 その悪意を湛える視線で、全てを貫くように。
「キミも嘘、僕も嘘、この世界も嘘、全てが嘘なんだよ」
 そして、彼女は自分で自分を抱き締めるような格好をして目を閉じる。
「嘘…」
「僕が記憶喪失だったのは、キミがそう思っていたから。キミの仕事が興信所の事務員だというのも、キミがそう思いこんでいるから」
 みらいは愕然とした表情を浮かべる暁を、目を細めて微笑を浮かべて眺める。
 楽しむように、慈しむように。
 そしてそれだけは意志が介在できないように。
「どういうことか、判らないでしょ?」
「わかるっ…訳」

 コロシタイ

 それが誰の意志だというのか。
「ここにこうして、キミがいて僕がいる」
 どこからどこまでが現実として認識されていて。
「でも、キミもいなければ僕も存在できない」
 穹だけがただ広くその姿を、大きく視界に留まらないように広がり続ける。
 まるでその全てが、世界であるかのように、訴え続けているように。
 暁はゆっくりと自分の意識を失いそうになっていく。
 目に見えるのは蒼い蒼い――これは、穹なのか?
 その向こう側に見える少女――果たして、彼女は少女なのか?
 「この嘘を、貴方は望まない」

  何故か 懐かしく感じる言葉

「その銃はキミの意志をキミが遺したもの。僕が記憶喪失何じゃなくて、キミが」
 風景が滲む。
 視界が霞む。
 声はかすれ、耳に届く言葉ももうはっきりしなくなってきている。
 泣いているのかと思った。でも。
――嘘…そうか、だから
 目に見える光も、耳に届くはずの音も、この世界全てが嘘なんだから。
 存在しないものが感覚から消えていくのはごく自然なことなんだから。
 だから、このまま闇に落ちるんだと思った。
 でもいつまで経っても明るさは変わらず、むしろ周囲に光が満ちていくような気さえする。
「その銃は、キミが望んでいなかったここをうち砕くためにあるの。ようやく、理解だけは出来たみたいだけど」
 それなのに彼女の声が聞こえる。
 彼女の声は妙にはっきりと明確に。
 柔らかくて切り裂かれるような感覚。
 そんな危うさと、そして少女と女性と――ヒトと別なモノの境目を感じさせる。
「じゃあ、お前は一体」
「うん、キミがそう思っていただけで、僕は『介入者』。キミの嵜山みらいとは違う。勿論、『未来』なんていないよ」
 くすくすと悪戯を愉しむような声。
「助けに、来てくれたのか」
「キミがそう思うならそれでも構わない。僕は目的を果たしに来た。キミに、キミの意志をもう一度手に入れて貰う、っていうね」
 そしてうってかわって真剣な声。
「でもそれがキミにとって良い事じゃないのかもね。…だって、その銃、キミは引けるかい?」
 何故か肉体の感覚を失っているのに、銃を握りしめている事は判る。
 銃に『意志』があるかのように、何も考えずにそれが彼女のいる辺りにポイントする。
 震えは、ない。
 見えない白い闇の向こう側にいるはずの彼女に、それは確実に向いていると彼は思った。
――コロシタイ?
 違う。
 これは殺意なんかじゃない。
 終わりを求めるような、そんな後ろ暗いものでもない。
 でも、あの時彼女に銃を向けたのはどうしてなんだろう。
――皆殺し?
 彼女の言葉の意味が判らない。
 確かに彼女に殺意を抱いていたような気がする。
 もう時間の感覚すらずれ始めた。
 あの時と、今。
 先刻と、これから先の未来。
「さあ」
 彼女の誘いが、銃声を幕切れにした。
 まるで何事もなかったように世界が一転して闇に落ちる。
 銃弾が切り裂いていく光の渦と、同時に舞い降りてくるカーテンのような闇。
 それを感じて、彼は、間違いなく世界が死んだ事を識った。

 積み重ねた嘘は、決して嘘ではなかったように――嘘で組み上がった世界は彼にとっては嘘ではなかった。
 だから怖かった。それをいらないと思っていた。
 恐ろしく長く幸せな夢。それは現実逃避にはお似合いの世界だから――

「帰ってきた?」
 薄闇に包まれた場所。
 一つの手術台のような場所で、青年が横たえられている。
 白い患者服を着た彼は静かな表情で目を閉じている。
 その側に、数人の人影。
「――いいえ」
 女性の質問に一人の男が答える。
「反応はありません。自我が崩壊した可能性も」
 彼女は気むずかしそうに眉を寄せ、大きく息を吐く。
 そして右手を青年の顔の上に、まるで死者を弔う時のようにゆっくりと載せて撫でる。
「失敗ですわね」
 残念そうでもない言葉で彼女は呟いた。
 表情は変わらず、ただ寂しそうな雰囲気のある笑みを湛えたまま。
 じっと青年を見つめている。
「今までの成功例は数少ないので」
「儀式としての成功の事?結果としての成功って言う事?どちらかしらね」
 思わず黙り込んで口をむぐむぐさせる男に、今度は心底おかしそうに笑い声をあげる。
「ごめんなさい。判ってるのについ意地悪してしまいましたわ」
 そして、彼女は優しい視線を向けながら、やはり寂しげな顔をする。
 男はただ深々と頭を下げる。
――『蘇生』の成功例は今のところ一例だけ。儀式としての成功例はほんの数例に限られている
 判っている、そんな事は重々承知の上なのだ。
 彼女は男の肩を叩いて顔を上げさせると、目礼してその場を引き上げさせた。
 『蘇生』で唯一成功したのも例外中の例外、この世にとって返したのも例外なら、目標も例外だった。
 それ以来もこの儀式は続いてはいるが、残念なことに成功した試しはない。
 今回のように儀式として成功したとしても、覚醒に至らない――これは、被術者の問題であるとも言われている。
「事故は防げないから、こうした儀式の成功率ぐらい高くてもよさそうなものですのに」
「仕方ないでしょう。やはり一度不確定の存在になったものを呼び戻す事など、難しいのだから」
 思わず呟いた言葉に、突然呼びかけられて女性は振り向いた。
 スーツを着込んではいるものの、その雰囲気は決してごく普通のビジネスマンの雰囲気はない。
 むしろ真っ当な生活をしていないというのがありありと判る。
「雄嗣」
 彼は紺色のスーツに蒼いネクタイ、暗い色のワイシャツを着込んで、薄笑いを浮かべている。
「あんまり人前で、俺の名前を呼んで欲しくはないんですけどね」
 大きく肩をすくめてみせると、口元を歪める。
「その点卑怯だと思うよ、玲巳は。結果が分かっていて、それを実行しようとする。諦め?それとも逃げ?」
 玲巳。
 そう呼ばれた女性は、まるで張り付いた仮面のような寂しい面を揺るがしすらしない。
「卑怯ね。そう言う評価は初めて受けましたわ。…どちらかというと存在価値そのものを揺るがす内容だというのに」
 くすくすと笑いながら、玲巳はそう応える。
 雄嗣――鏡島雄嗣は肩をすくめてみせる。
「君のような存在がいるから、いや、逆にいなければ『蘇生』なんて儀式はできないだろうし」
 その視線も口調も責めるものではない。
 責める事そのものが意味のない事である事を彼は識っているから。
 そして、なにより――彼女がいなければ、彼らの研究は進む事はなかっただろう。
 玲巳は何も応えない。すこし口を歪めて見せただけだ。
――そもそも、『蘇生』なんて儀式を考えたのは私なのだから
 蘇生と呼んでいるが、別に死んだ人間を蘇らせようと言う試みではない。
 『事故』に合った人間を、何とかしてもう一度この世に復帰させる為の儀式だ。
 事故――自分を失ってしまった人間の自己を蘇らせるための精神的なものだ。
 一度自分という枠、『自己同一性』を失ってしまうと、それを取り戻す事はかなり難しい。
「もう一度枠を作るのではございませんから」
 『自分』という枠、と言うと判りやすいだろうか?
 そして、その枠を自覚している間というのが普通の状態であり、それが判らなくなった状態を、自我の崩壊という。
 植物人間とは違い肉体的症状はない。
 だから蘇らせる事も可能である、というのが彼女の主張だった。
「自然治癒、といえ…精神的なものだからね」
「…儀式の結果を、儀式の前に判っていればもっと便利なんでしょうけれども」
 だがそう語る彼女も、言葉は淡々としていて決して感情を感じさせない。
 怒りも、憎しみも、悲しみも、まして喜びも――ただ、彼女から感じられるのは一抹の寂しさのみ。
「あくまで、可能性。最後の選択は、施術を受ける彼らにあるから」
 そんな寂しそうな表情を浮かべる瞬間だけが、彼女は『女性』になる。
 雄嗣は小さくなって見えた彼女の肩を軽く叩いて言った。
「ええ。だから――私は、儀式を続けるより他ない」
 雄嗣は彼女のその言葉に、声をかけてやろうかと思った。
 だが今度はそうはいかなかった。
 普段の彼女、そして今こうして語る彼女は女性は愚か人間を感じさせない。
 突然触れる事を赦さない雰囲気を――そう、代わり映えしないように見えるのに――醸し出す。
――『Wizard』、か
 雄嗣は半ばため息混じりにそんな彼女を見返した。

 人間というのは、自分という枠を常に持っている物と思われている。
 でも実際には違う事の方が多い。
 特に精神的な面を協調するならば、それは大きく間違いである――そう捉えるべきである。
 他人がいて――『鏡』があって初めて自分という存在を浮き彫りにできる。
 比較対照できるものが、現実として存在できない場合、一度でもそう言う状況になればもう助からない。
 『自分』という枠を、外部刺激により作り上げる――ならば、その逆もしかり。
 すなわち、あらゆる外部刺激が消失した状態であれば、『自我』以外の自分は消失する。
 自我というのは、以外に簡単で脆い。
 そんなことはない、俺は強いと思っていても一度薬に手を出せば二度と抜けられないのと同じように。
 性悪説をもし肯定しないというのであれば、一度で良い。自分の親友――本当に信じられる友人を殴ってみればいい。
 『殴れない』理由が『痛がっている顔を見たくない』もしくは『理由もないのに』という理由以外であれば、それは本当の友人ではないか自身が『性悪説』に基づく人間であると言う事である。
 無論、殴れるから――本当に自分の快楽のため、もしくはこの回答を自らが得たいが為だけに友人を殴れるのであればそれもまた『性悪説』を体現していると言えるだろう。
 もっとも、『悪』という概念を『自分勝手』という言葉で置き換える必要はあるかも知れないが。
 自我というのは、他人あっての自我である。
 すなわち――それが『枠』を持つのは至極当然の事と言えるだろう。
 他人、という名前の『枠』を。
 だから人間が自我を取り戻すには、『他人』の存在を理解させなければならない。
 すなわちそれが『蘇生』である。
 しかし大抵の場合、自我を失った段階で自分という境目を失いそれを認識させるのは難しい。
 そこにある方法論を持ち込んだのが玲巳だった。
 通常の方法では『自分』と『他人』は境目がなくなってしまっている。
 だから、逆に『自分』というものを中からえぐり出してやればよい、というものだ。
――結果的にはかなりの無茶を被験者に強いる事になるのだけれども
 通常、必ず『同一性』を持った『自分』というものを、完全に自分を見失ってしまった人間も持っているものである。
 自我崩壊の際に世界と自分を隔離し、彼の意識の状態は正常に維持しようとする。
 それ故に歪みが生じ、忘れるべき『自我』が澱になっているのだ。
 但しそれが、自己閉鎖世界であれば彼の姿を持たない事の方が多い。
 飼い猫、彼女、大切なメダル、拳銃などその時のよりその姿、手に入れるための手段が違う。
 そして大抵の場合、それが為に――当然だが――『世界』は崩壊する。
 その際、どれだけ元の世界で生きられるかどうかを、自分で定められるか。
 だが普通は逆戻りするか、自分で自分を攻撃して崩壊するか。
 そのどちらかである。
――夢というのは、自分に都合良くできてるから、ね
 自分で望んで事故にあった訳でもなくても、普通の人間はそう言った嘘の世界に溺れて帰って来れなくなる。
 今回のケースも全く同じ結論が出てしまっていた。
 すなわち――精神自壊、である。
 もう一度、自分で作った夢の世界に戻るために、自分で自分を壊してしまうのだ。
 今のところ、これで最悪植物状態に陥ったケースもある。
 これも幸せの一つの形なのだろうか。
 もう呼吸と心臓の鼓動以外に生命活動のカタチを遺さなくなった彼らは、それでも人間といえるのだろうか。
――いや
 彼女は頭を振った。
――本当に人間として幸せを求めるんだったら、こんなまどろっこしくて回り道になる方法を選びはしない
 それでも『ここ』に訪れるのは何故なのだろうか。
「好奇心は猫をも殺す、ですわね」
 人間から『モノ』を選んだ青年の事を、そうやって彼女は思考から追い出してしまった。
 そして代わりに、これから出逢うはずの青年へと思考を向ける。
 唯一にして無二、自分のカタチを失いながら再び『蘇生』によりこの世に立ち戻った、唯一の例。
 当時は彼は、まだ幼稚園に通う程の少年だった。
 彼にとっては夢の世界――彼が作り上げた世界は、無為なものだったのだろうか。
 だから戻った――いや、違う。
 少なくとも玲巳は、儀式の終了間際に感じた『成功』の感覚が全く別物である事を覚えている。
 彼が目覚めるのはとてつもなく危険な――そんな、奇妙な予感。
 いや、彼女の場合は予感ではなく、これから起きる『予兆』。
――戻るべくして、この世界に戻ってきた…だったら、『Wizard』の資格どころの話じゃないですのに
 だが彼は連れ浚われるようにして戻っていった。
 そもそもが、そのためだけにここで修行していたように。
 そして、予定通りのように受け取った男は金を払っていった。
 自分の息子のはずなのに、何の感情もないかの、ように。
 玲巳は久々にため息をついた。
 その青年――恐らくもう高校生になっているだろう――は、間違いなくもうすぐ彼女の目の前に現れる。
「私が動く時が来たみたいですわ」
 だから、誰に言う訳でもなく呟き。
 彼女は颯爽とその場から立ち去っていった。

 彼女は『Wizard』――『識る者』、玲巳。
 自らの記憶から触れるべき事象を探し、初めて自分を自覚することの出来る存在。
 その彼女の知覚に一人の名前が刻まれていた。

――クスノキ タカヤ
 もうひとつの邂逅が、訪れようとしていた。


◇次回予告

  子供のうちには精神の中に世界を作り上げる事がある。
 「ちょっと、変な噂を聞きつけたんで、それを調べに行こうと思う」
  とある学園で起きた、猟奇殺人事件。
  原因は――そして、果たしてその裏に見え隠れするモノは。

 Holocaust Chapter 4: 玲巳 第1話

 …なんでそんな事に首を突っ込むの?関係ないんじゃない?
                                            ようこそ、私の世界へ

      ―――――――――――――――――――――――


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