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Holocaust ――The borders――
Chapter:5

冬実――Huyumi――   第7話


 明美が部屋に踏み込んだ時には、既に事が終わった時だった。
 ベッドの上で、啜り泣く菜都美がいるだけで、彼女が落ち着くまでかなり時間がかかった。
 外傷は、僅か。彼女の頬にひっかいたような傷があった。
――念のために病院で見て貰ってるけど
 何度目かのため息をつくと日本茶をすする。
 大きな湯飲みでお茶をすする癖はなかなか直せない。
 だからいつも人がいる時はコーヒーにしているが、一人で台所に居れば、寿司屋の湯飲みでお茶を飲む。
 かたん、と湯飲みが音をたてた。
 もし彼女を襲った犯人が、彼女の言うとおり治樹なのだとしたら。
――「あなた」……か。みーちゃん、それは酷いよ
 でも冬実の言葉の理由は理解できなくはない。
 だから敢えて止めなかったのだし、もしかしたら、今日彼女は治樹を捕まえて来てくれるかも知れない。
 淡い期待。
 もう一つは、昨晩彼女に話した事が気になったからだ。
 冬実自身はともかく、『彼女』を支える何か、それが今の明美と半ば対立する形をとったのだ。
 今強引に彼女を引き留めてもその溝は深まるだけだろう。
 それは殆ど直感的に感じた。
――騙してた、訳じゃないんだよ
 言い訳めいた言葉を口の中で紡ぐ。
「全部知ってるっていう立場も、考えてくれればね。みーちゃん」
 そして、数える気もなくなってきたため息をついた。
 明美が日本茶を入れ直そうかと台所に立った時、玄関でノブを回す音が聞こえた。
 考え直して湯飲みを流しにおくと、手を拭いて玄関に向かう。
「お帰り」
 病院で別れた菜都美が、表情を暗くしたまま無言で靴を脱いでいた。
 僅か、彼女の言葉に頷いて玄関に上がると、そのまま二階の自分の部屋へと向かう。
「あ、菜都美」
「ゴメン、ご飯、いらないから」
 彼女は顔を見せないように伏せて、逃げるようにして立ち去っていく。
――んー……
 以前の彼女の経験もある。
 それだけショックも大きいだろう。
「これは、明日休みかな」
 誰にともなく言って、食堂の方へ向かった。

 冬実は家を飛び出して、まるで駆け抜けるようにして姿勢を低く『記憶』を追う。
 何かに彼は逃れるようにして、今の冬実のように走っていた。
 だが――繁華街に通じる場所まで来て、冬実は足を止めた。
 彼は人間とは思えない跳躍力で、住宅の屋根から屋根へと飛び、やがて、彼女の記憶から判らない方向へと消えてしまった。
 同じ方法を取って追わない限りもう判らない。
 勿論そんなことは無理だ。
――繁華街の、どこか
 いかに暴走した治樹とは言え、生命体に違いはない。
 昼間行動していたので在れば眠りに就く。
――明日
 探しに行こう。
 彼女は睨み付けるように夜穹に視線を向けて、踵を返した。
 玄関をくぐると、テレビの騒音が聞こえた。
 居間に人がいるらしい。
「ただいま」
 ぼそり、と言うと彼女は居間へと向かう。
「あ、おかえりみーちゃん」
「おかえりなさい。…じゃあ、遅くなったけど食事にしましょうか」
 菜都美は降りてこなかった。
 終始沈黙したような夕食を終え、立ち上がろうとした冬実を明美が手で制する。
「……何ですか」
「ちょっと。……治樹の件で話があるの」
 母親に目を向ける。
 彼女は既に承知済みなのか、小さく頷いて冬実に視線を向けた。
「警察に抑えが効くのは、身内までよ」
 母親の言葉に続いて明美は言う。
「捜索届けを出して貰ったんだけど、多分その必要は無くなるって事よ、みーちゃん」
「はい。……多分、そうなるだろうと思っていました」
 彼女自身の事件の場合、櫨倉が手を回した。
 とは言っても、殆ど書類上の手続きに過ぎなかったが。
 今回の事件、もし治樹が誰かを殺害、もしくは今回のように――菜都美ではなく、他の誰かだったら刑事事件にせざるを得ない。
「菜都美姉さんは」
「病院で検査して。……怪我は酷くないみたいだし」
 沈黙。明美は口ごもるような感じで、言葉を濁す。
「でも、明日は休みかな…」
「私も休ませてください。ハルを――」
「まってみーちゃん」
 乗り出すように言う彼女に明美は真剣な表情で右掌を見せて抑える。
「みーちゃんもわたしも普段通り。何もなかった時と同じようにしなさい」
 何故、という言葉が出かかって絶句する。
 飲み込んだ言葉は胸の中でじわりと熱を帯び、顔に血が上ってくるのが判る。
――つまり、ハルは
 治樹は、初めからいなかった物として考える。
 彼らの父親が音信不通になってしまった時と、同じように。
「もう彼は真桜じゃない」
「……わかり、まし……た」
 冬実は声が詰まってしまって、それだけ言うのも精一杯だった。
 最後通告。
 治樹という人間は、既にこの世のものではなくなってしまった。
 治樹だったものが今、どこかで化物として潜伏している。
「人の枠からはみ出したものに手を出す事は、わたし達には赦されないから」

 泣き喚いて事態が好転するなら、幾らでも感情をぶちまけただろう。

 冬実は顔を時折痙攣させて、苦痛に歪めるようにして目を閉じる。
 明美や母親が何か言っていたような気がしたが、彼女の耳には届かなかった。
 立ち上がる。椅子がどうなったのか理解も出来ない。
 夢見心地。それも最悪の夢見だ。
 気が付いた時には布団にくるまって、部屋の中は真っ暗だった。

 真桜家は古代日本の時代から、『畏れられ』『疎まれ』、排除されるべき側としてその時代を歩んできた。
 まだ江戸時代末期の戦乱の時代は彼らにとっては好都合だった。
 地方豪族から転落したものの、各戦役で様々な形で戦績は残して来た。
 代々伝えた武術や、その肉体的素質が彼らをサムライとして戦わせてきたからだ。
 だがそれも明治を迎え近代化すると共にやがて――まるで戦争狂が平和に適応できないかの如く、様々な形で滅びを歩む。
 最大の理由は、彼らを目の敵とする一団がいたからだ、と言われている。
 明治時代から昭和にかけて軍属として前線で戦っていたって、一兵卒は将官にはなれない。
 だから近代化に伴って人間の中に溶け込む手段を持たなければならなかった。
 一族が、今本家である彼女達の血筋以外に存在しないのは、彼女達の祖祖父が既に普通の人間だったからだと聞かされた。
――私は
 真桜を狙っていた一団は、彼女の祖先を目標にしなかった
 一団は、種としての境界に立つものだった。
 向こう側に対して常に監視し、種に牙を剥くものに対しては容赦しない。
 彼らは人間であって人間ではなく、その能力は人間ではないものに対してのみ発揮される――という。
 それもまた御伽噺のよう。
 丁度鬼退治の桃太郎が、人間ではないように。
 妖精が気まぐれで子供を入れ替える『取り替えっ子』のように、人間同士から生まれる人外。
 真桜の人間が、彼らを護るために作った『人間』の枠から身を隠すための、『ヒト』の壁。
 彼らの中で彼らの責任で、彼らの中から生まれるはずの『化物』を『ヒト』として生きるようにし向ける為の家族。
 『人間』と言う名前の檻――そして閉じこめる獣は『化物』。
 冬実は襲ってきた男を、殺すつもりで対処した。
 もし彼女が抵抗しなければ、彼女はいたぶられ玩具のように扱われただろう。
 直面していたはずの彼女自身はそれに恐怖は感じなかった。
 彼女の打ちの一発で骨が砕ける感触を覚えた時も。
 怯えた顔をして逃れようと背を向けた男に、足払いから片手で払い、一回転させた時も。
 彼を殺す事に躊躇はなく、彼を逃がすつもりも――まして逃げるものに追い打ちをするつもりもなかった。
 背中を激しく打ち付けた彼の鳩尾に掌底打を打ち込んだ。
 内臓が潰れるのに抵抗して膨張しようと反応するのが、肌を通して伝わった――あれは完全に破裂しているはずだ。
 でも何も感じなかった。
 彼の口から飛んだ血の飛沫が顔を汚しても。
 『正しい』と言う言葉を使えなくても、自分の身体はそれを肯定するように高揚していた。
 心は揺れないから、彼女は身体の赴くままに一方的な虐殺行為へと走っていた。
 その後、教頭に呼び出され、別室に連れて行かれた後に担任と話をした。
 母親が呼び出されて頭を下げて。
 冷静というのだろうか。
 でも誰も悪いとは思わなかったし、誰も正しいとは言えなかった。
 半死半生の先輩は意識が戻ったものの、彼女との拘わりすら否定していたから。
 まるで何かに怯えるように彼女の処分は黙殺された。
 直接聞いた訳ではないし、母も姉も何も言わないから判らない。
 もしかすると櫨倉統合文化学院そのものが、そんな『巨大な』ヒトから化物を護る為の『人間』の檻なのかも知れない。
――それでもハルを失いたくない
 檻から出てしまった彼を連れ戻せば済む話ではないのか。
 今ならまだ彼を止めることは出来るんじゃないのか。
――私がハルを、抑える為の壁になればいいんだ
 それがあまりに拙い希望のようでも、今の彼女にはそれに縋る以外、なかった。


 『隆弥』は頬の怪我で熱を出して寝込んでいる。
 ひりひりと痛みで引きつる頬を撫で、彼は指先に血が滲んでいるのを確認する。
――刻んでおけば良かった
 そうすれば、今のこの燃え残ったような苛々もないだろう。
 本当の『兄』。
――確かに似ていたが
 紺色の竹刀袋を担いだ彼は、東竹川市の繁華街にいた。
 時折粉のようなものを蒔きながら、誰の気にもとめられずに。
 彼の背丈、ラフなその服装だけを見れば大学生か、浪人生でこの辺の道場に通う青年に見えるだろう。
 頬の切り傷を見た人間は、居合道か何かと思うだろう。
 だがその袋の中には、白木の鞘に包まれた真剣が納められている。
 鞘の内側は鋳鉄製のライナーがあり、鯉口と先端まで一本物で作られている。
 だから見た目以上に重く、昨晩のように彼の体重を支える事すら出来る代物だ。
 鞘に入った状態で振り回すだけでも危険な物を、彼は竹刀を持つかのように無造作に抱えている。
 何故か――それが、彼の武器だからだ。
「似ているのは、顔だけだった」
 彼の見立てでは、『弟』は昨晩の男に比べるとひ弱だ。
 脆弱で、『枠』をはみ出そうなどと大それた事を行えるとは思えない。
 それならば見逃す。
 自分の弟で良いのだ。
 丁度保存食を保管するのと同じ。
 彼らには、出来る限り人間の間で生き残って貰って、飢えて餓えて仕方のない時に枠外に出ていただく。
 そうすれば大義名分を持って斬り裂く事が出来る。
 今回のように。
 実際ここ数年間全く振るっていなかったせいだ。
 何故あそこで身体が動かなくなった。
 あれは――アレは魔術ではなかった。
 少なくとも彼の知るところの術ではない。
――次は逃さん
 喩えアレが依頼主であろうとなかろうと、奴は間違いなく枠の外の存在だ。
 アレを赦す事など――たとえ理性が訴えても、存在論理が赦さない。
 午前中をかけた彼の奇妙な行動は、繁華街をぐるっと一周して終わった。
 最後になにやら呟いて、くるりと中心部から背を向けて小瓶を懐から取り出し、アスファルトに叩きつけた。
 液体が細かく砕けるガラスの破片と共に散る。
 それを見届けて、彼は携帯電話を取り出し、履歴から再送する。
「――ああ。そうだ」
 話しながら彼はゆっくり歩き始めた。
 背広を着た男が、同じように携帯を使って話ながら歩いてくる。
「証拠が欲しくはないのか?――罠を用意した。立ち合うなら来い」
 時刻を伝えると接続を切り、懐に電話を戻す。
 今は時代劇のように首を持って証拠に変えるなどという危険は犯したくはない。
 処理は『家』が行うし、それは迅速でなければならない。
 ヒトの姿をした化物を狩る際には特に、彼らが人間である場合の繋がりを幾つも持っているのだから。
 戸籍、住民票、貯金口座、家族、職場と形のある物から無い物まで、過去に比べその繋がりは強い。
 もし切れたならば――場合によっては警察権力が介入する。
 そうなると組織力のある彼らに敵うわけもなく――彼らは法的には一切庇護されない犯罪集団でしかない。
 だから、依頼人にはそれ以外の証拠を提供する。
 それも仕事の――依頼料のうちだ。
 にたりと彼は口元を歪めた。
――さあ動き出せ。あとは仕掛けを動かすだけだ


 次の日の朝、母親が朝食の準備をしていた。
「あれ、母さん」
「明美。おはようでしょう?」
 にっこり笑いながら、フライパンの上でオムレツを踊らせる。
 普段は菜都美か明美が交代して食事を作る。
 明美は特に道場に通ったり、朝一番に練習する癖から大抵夕食を担当している。
「うん、おはよう母さん」
 だからいつもより一時間早く起きたつもりだったのに、それより早く母親が既にキッチンにいたので驚いたのだ。
「お弁当、どうしようかな」
「んー、うーん……じゃあ久々にトンポーロー」
 そう言うと彼女は困ったような笑みを見せる。
「今から?」
「そ、今から」
「日の丸で良いわね」
「ごめんなさい。わたしが悪かったです」
 巫山戯合っているが、それが解答を先延ばしにしているようで、不安な空気は拭えない。
 しばらく調理をする音だけが響く。
「なっちゃんは」
「起きてないわね。…今日は、仕方ないわよ」
 明美もそれを聞いて頷き、いつもの日課通り裏庭の道場へと向かった。
 普通ならそれと丁度入れ替わりぐらいで冬実も起きてくるのだが、朝食が食卓に並んでも降りてこない。
 冬実の分の弁当をいつもの包みに入れて準備を終えて、彼女はため息を付いた。
――やっぱり、ショックだものね
 手の水分をタオルで拭き取ると、二階の二人の部屋へと向かう。
 階段を昇ってすぐ左に菜都美、正面に治樹、右手の方に近い順に菜都美、明美と部屋がある。
 二階は全て洋間で、一階はキッチンと居間を除くと全て和室の作りになっている。
「冬実?朝よ、起きなさい」
 ノックしながら言うと、彼女は部屋に踏み込んだ。
「ふゆ…」
 ベッドは綺麗に整えられていて、いつも窓際にかけている彼女の制服もない。
 机の側にあるはずの鞄もない。
 まるで、この部屋だけ既に昼のような状況だ。
――あの娘……
 机の上に一枚、文字の書かれた紙が広げられている。
 小さな半透明の文鎮がおかれ、ボールペンで書かれた文字が踊っている。

 治樹を捜しに行きます。必ず私が連れて帰ります

 それを見て彼女はくたびれた笑みを浮かべる。
「何もこんな朝早くからいかなくても、お弁当、持っていけばいいのに」
 ため息を付くと彼女は部屋を出た。
 冬実が部屋にふらふらと戻っていくのを明美と見送って、『あの娘は諦めないわね』という明美の言葉が現実になってしまった。
――冬実も病欠ね
 階下に降りる前に菜都美の様子を見る事にして、そのまま彼女の部屋へと向かう。
 ノックをする。
「入るわよ」
 反応がないので言葉通り部屋に入る。
 菜都美はベッドの上で半身を起こして、うつむいていた。
 部屋に入った母親に気づいたように、のろのろと顔を上げる。
 右頬に大きめの肌色の絆創膏。
「あら、起きてるじゃないの」
 努めて明るく言い、朝食が出来たことだけを伝えると彼女はそのまま部屋を出ていった。
 起きろ、とも、食べろとも言わず。
 菜都美が返事も返さないうちに扉が閉まってしまい、誰もいない扉に向けて彼女は呟いた。
「…そう、よね」
 まだ両手が震えている。
 まだ恐怖に身体が強ばっている。
 まだ――あの、振り払えない程強い力を身体が覚えている。
 でも。
――今日は……今日ぐらいは良い、かな……
 でも日常は続く。
 何を考えたらいいのかが判らない。思いつかない。
 こうしている事の無意味さは判るのに、身体が動かない。
――ミノル
 ふと、皆勤賞を取る程の勢いでこの一年間通学していたことを思い出す。
 きっかけは殆ど勢いだったにせよ、その為だけに風邪で通学して昼早退という事もあった。
 『んだったら来るんじゃねえ』と怒鳴ったミノルの顔を思い出して小さく笑う。
 半年もすれば当たり前になり、ここのところは時間通りに姿を見せないミノルに不安になることもあった。
――……心配して、来て、くれるかな……
 そんな奴じゃないと内で否定しながら、来たら困ると考えたりする。
――心配、して欲しくはない、かな
 むしろせいせいして一人で通っているかも知れない。
 ふと視線を時計に向ける。
 時間は――ない。いつもならもう玄関をくぐっている時刻だ。
 だが、学校には間に合う。
 もし――もし、ミノルが来るのだとしても丁度、ぐらい。
 のろのろとベッドを降りて、着替え始める。
 制服姿で姿見の前に立ち、自分の格好を見つめる。
――変わり、ない、よね。うん
 チャイムの音にびくっと酷く反応して、慌てて鞄を探す。
 まだ準備もしていない。大慌てで教科書とノートを詰め込んで部屋を出る時、母親の声に重なるようにミノルの声が聞こえた。
――嘘
 階段を駆け下りるように降りて、玄関から戻る途中の母親とぶつかりそうになる。
「あ、何、どうしたの……」
「母さん、あたし学校行って来るから」
「え、朝食は?」
「食べないっ」
 急いで彼女の側を抜けようと床を蹴ろうとして、彼女の腕にふさがれてしまう。
「だったらせめて、お弁当を持って行きなさい」
 菜都美は、気が抜けたような表情で笑う母親を見上げた。

「なんじゃこりゃ」
 繁華街にあるファーストフードの店舗裏で、店員は首を傾げていた。
 昨晩捨てるためにまとめた売れ残りが、青いビニールが散乱しただけのものにすり替わっていたのだ。
 犬や猫、カラスの仕業にしてはやり方が巧い。
 第一、喰い滓(かす)が散乱していないのだ。
――誰かのいたずらかな
 彼はただのゴミに変わったビニールを拾うと、首を傾げながら再び店内へと戻っていった。
 その路地の隅、大きなエアコンの室外機のすぐ側。
 人間らしい物が蹲っていた。
 まるで死んだように動くことなく小さくなっている。
 もし誰かがそれを見つけたなら、死体でなければゴミにしか見えないだろう。
 そんな状態だった。
 夕方、まだ肌寒いこの季節の空気に、それは身体を揺り起こした。
 ゆらり、と。
 そして何かに誘われるように、薄汚れた路地をふらふらと歩いていった。

――五時…
 冬実は櫨倉の制服を着て、駅前まで歩いてきていた。
 もう今から学校に行っても昼の授業にすら間に合わない。
 構わない。結局、学校を休む事にはなってしまったのだが。
 鞄を持ったまま、制服で朝からうろうろしていると逆に目立つが、初めは学校にも行く予定だったのだから仕方ない。
 まるで山の中で冬眠した動物を探すように、路地を覗いたりして朝から歩き詰めている。
 しかし、それらしい物も何も見あたらなかった。
 食事も摂らずただひたすら一日歩き詰めたせいで、既に足の裏や太股に鈍い痛みが溜まっている。
 彼女は僅かに表情を曇らせた。
 日が暮れるまでに見つけたかったが、結局何の手がかりもなかった。
 諦めて帰ろうか迷っている時、奇妙な音が飛び込んできた。
 それは車でも、自動ドアでもない。
 時報にしては時刻がおかしい。
 低く、空気が破裂するような奇妙にくぐもった音。
 同時に、甲高いガラスを掻きむしるような響きが彼女の頭蓋を揺らした。
――っっ!何?
 倒れそうになって頭を抱えながら――それが、自分の周囲の人間は感じていないらしい事に気づく。
 ふっとそれが緩み、今度はそれが糸を引くように彼女の注意を向けさせる。
 穹に、何かが過ぎる。
 音もなく、空を横切る。
――ハル
 彼女が感じた方向へ、その姿が消えていく。
 見えない手で後ろから押されるような感覚は消えない。
 治樹はそれに逆らえないのか、飛ぶように駆けていく。
 屋根を蹴る姿は不自然で、通行人も殆どがまさかそんなところを何かが疾駆しているなどとは思っていない。
 冬実はそれを追う為に、動かない足に鞭を打って走り始める。
 見えなくなったって、今は――この感覚が何かは判らない――風が吹くように、引き寄せられる方向へ行けばいい。
 冬実はただそれだけを考えて走った。

 ひとしきり走りきって、冬実は繁華街の外れで大きく肩で息をして、こうべを巡らせた。
 先刻まで彼女が手繰っていた変な感覚が突然途切れたのだ。
 屋根づたいに走る治樹を追えるはずもなく、彼女は汗を拭いながら、ただ道沿いに歩くしかなかった。
 もう日が暮れる。陽は沈んでいるのか、穹の端の白さが闇の蒼さに払拭されようとしていた。
――夜になってしまう
 家族が心配しているかも知れない。
 折角、ここまで必死になって探しているのに。
 折角手がかりを捕らえたっていうのに。
 挫けそうになりながら、彼女は足を引きずるようにして繁華街を抜けた。
 あっという間に周囲は闇に沈み、彼女は時計を見ようとして街灯の側へと寄った時。
――っ!
 今度は確かにその『何か』の感覚が彼女を突き刺した。
 殺意。いやもっと強烈な――死への暗示のように。
 それが指し示す方向が、ここから真北に向かっているから――
 もう彼女はなにも考えずにその殺意の方向へと走った。
 その殺意はそれだけでヒトを殺せる程強く、もしそれを向けている人間と治樹が出会ってしまったら。
――ハルっ
 動かないはずの脚で、彼女は全力疾走していた。
 息が上がり、足から力が抜けていく。
「ハルっ」
 それでも彼女はさらに走った。

  それで何かが変わる訳でなくても

 住宅地を抜け、車も人も少なくなってしまう、寂しい河川敷へと出る。
 竹川の水音と独特の薫りに混じって、空気が軋むようなものを感じて彼女はじっと目を凝らした。
 いつも遊び場に使う広い、芝生の生える広場。
 その真ん中に、それは転がっていた。ヒトの姿をしている何かが。
 冬実は舗装された道を駆け下りて、その影の側へと向かう。
「…!は…」
 だがそれは既にヒトではなかった。
 冬実は全身を硬直させて、それを見下ろしていた。
 血臭と、そして恐らく本人の血溜まりに沈んだモノと、背中を向けた彼の肩口から腰までの切断面。
「ハル」
 彼は真っ二つに斬り殺されていた。
 見慣れた彼の寝間着まで綺麗に斬り下ろされて、全身から僅かに湯気を上げる。
 つい先刻まで生きていたからだろう。
 でも誰の目にも、間違いなく絶命しているだろう。
「ハル……どうして、こんな、事に……」
 物言わぬ彼に言葉を零し、側に彼女は両膝から崩れるように座り込んだ。
 もう手遅れなのに。
 彼女は両手を治樹に向けて伸ばして、血に汚れるのも厭うことなくそのまま抱き寄せた。


◇次回予告

 「冷静だな、真桜の女」
  冬実の側に現れたのは、あの男。
  だが彼自身も、冬実にとまどいを覚えていた。
  治樹の死体と戦いを続けるミノルに巻き込まれそうになって、冬実は。

 Holocaust Chapter 5: 冬実 第8話(最終話)

 暫く、お前にも選択権はあるようだな
                                            決意と、現実

      ―――――――――――――――――――――――


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