Holocaust ――The borders――
Chapter:5
冬実――Huyumi―― 第5話
その日、冬実はどんな授業も耳に入らなかった。
何も。
彼女は機械的に黒板を写し、他人に勉強していると言える行為を行ったが、それは彼女にとって作業に過ぎなかった。
条件反射――そうとも言える。
まるで自分ではない物が自分を操作しているような奇妙な錯覚。
――ハル……
治樹は彼女にとっては、可愛い弟以上に、自分を支えている『大切な物』でもある。
実際に血縁関係がある、なし以上に、人間の間で生活してきたこれまでや姉達と比べれば大きな差が一つある。
それが、彼女が目をかけなければならないと言う一点だ。
比較的日常では無口で、身体も小さい彼女が誰かの上位に立つと言うことは非常に稀だ。
だからこそ、彼女は彼を大切に――無論甘やかしていた訳ではないが――してきた。
――今更いなくなる、なんてこと
自分で言葉に変えながらもそれを否定する。
「では次、真桜ぁ、読め」
かたん
「そのとき、彼は足を踏み外し、路外へと転がってしまった」
国語の教科書を辿る視線と、続く言葉なんか全て条件反射で即応する。
すんなり読み終わり、着席すると一瞬周囲から視線を覚えて彼女は左右を見た。
僅かな驚きと、微かな羨望。
別に珍しいことではない。
冬実はため息をついて、もう一度自分の思考に没頭した。
そして昼休み、彼女は急ぎ足で一階中央に行った。
この櫨倉統合文化学院付属が奇妙な形をしているのは説明したとおりだが、この中央の区画を含めた厚生施設には、他の学校にはない物がある。
それが公衆電話だった。
生徒を含め殆どの教師も携帯電話が普及したため公衆電話は廃れつつある。
だが一応なりとも校則で禁じられ、教師も実際に持ち込ませない為には公的な必要性があるのだ。
冬実は真面目だという理由以外に『持ちたくない』という個人的な理由から携帯電話は所持していない。
これは真桜家に言える事で、実際家族で一台しか携帯電話がない。
生徒手帳を入れている胸ポケットからテレカを取り出して、慣れた手つきで差し込む。
流れるように人差し指、中指、薬指で次々にプッシュすると、受話器を持った左腕に全体中をかけるようにブースにもたれかかる。
左手に添えた右手で、自分の口元を隠すように。
焦らすような発信音に合わせるように人差し指が動く。
『…はい、真桜です』
明美の声だ。
「姉さん?道場はどうしたんですか」
思わず詰問口調で声を低くしてしまう。
電話の向こうからくすくすという笑い声が聞こえてくる。
「笑い事じゃないです。お仕事じゃないんですか」
『あのね、みーちゃん。なんの為に電話してきたの。わたしを――』
小波のような笑い声混じりの彼女の声を聞いて、むっと口元を歪める。
「違います。でも姉さん、まさか」
笑い声が止まった。でも、応える明美の声はまだ明るい。
『そう。だってはるくん探さないと駄目でしょ?』
「じゃあ、まだ家には帰ってきていないんですね」
『そう。…一応、わたしもヒロ君も全力尽くしてるから。あ、今はおひるごはんだけどね』
まだ警察には連絡を入れていないらしい。
配慮、ではない。
――面倒を避けるんだったら仕方ない
警察が動いてしまったら、もしもの時は一度押さえ込む必要だって出てきてしまう。
それは、最悪の事態が波及してからで構わない。
冬実にもそれは理解できる事だった。
彼女自身、何度か当事者になっているのだから。
「判りました」
そう言って切ろうとして、もう一度明美の笑い声が聞こえた。
今度は口元だけで笑っているような短くて、引き留めるような声。
『なっちゃんからも電話があったのよ。あの娘、授業サボったのかな』
「……切ります」
相手からの返答も待たず、冬実は受話器を置いた。
何となく不愉快な気がしたからだ。
時計を見上げると、まだ昼休みは半分も過ぎていない。
お弁当は持ってきているので、彼女はそのまま教室へと戻った。
いつものように無言で自分の席に帰って、そのまま鞄から弁当を取り出すと、がたがたという音と共に彼女の前に机が現れる。
「よぉーっす」
そして、視界の真横から突如顔を出す少女。
同級生だが、にこにこと笑みを崩さずにぶんぶん腕を振り回す様は、同い年と言うよりも一つか二つ程年を間違っているような気がする。
――加納小百合
名前だけはよく知っている。
いや、クラスメートでも一番会話する相手ではあるのだが、彼女は余り仲が良いとは思っていない。
無意味に元気で、何故か自分によく話しかけてくる。
「……はい」
冬実が無表情に受け答えして、彼女はそれにも嬉しそうに頷きながら自分で用意した机に座る。
彼女がぶつかったのか、がたんと大きく机が揺れて冬実もお弁当を持ったまま全身が揺れる。
「あはは、ゴメン。お昼まだでしょ?突然教室飛び出してくんだもんね」
そう言うと彼女は安物のパックをぽん、と机の上に置く。
どう見てもスーパーの特売などで並んでいるプラスチック製の容器だが、中身は手作りのようだ。
冬実は不思議そうに小首を傾げる。
「何か、用事ですか」
「もち。用事も用事、大事な用事よ。一緒にお昼しよ!」
と言いながら小首を傾げる。
いつもの昼食の風景だ。
「……もう、真桜さんはどうにも反応が鈍いっ!」
あんまり無表情だったことが気にくわなかったらしく、彼女は眉を寄せて手首を返すようにずびしっと人差し指を冬実に突きつける。
やはり表情を変えずに見つめる冬実。
「もしかしてからかってますか」
「あぁーん、からかってないからかってないっ」
今度は両手を自分の胸にひきつけてくねくね。
――……相変わらずオーバーリアクションを……
冬実は呆れたようにため息をついて一度目を伏せる。
「いいから、食事にしましょう」
「うん♪」
彼女のパックの中身はサンドイッチ。
ぽんとオレンジのテトラを置いて、クリップのような金具を外してパックを開く。
「ところでね」
言いながらとどめとばかりに構えたストローをジュースに突き刺す。
そして、にこにこしながら一口飲んで、続ける。
「先刻何か考え事してたでしょ」
今日の弁当は唐揚げと卵焼き。
一応彼女のリクエストだが、ポテトサラダのコーン入りだけは許せない。
「ちょっと」
「…何ですか?」
「聞いてなかったでしょ、もう」
苦笑いする小百合に頷いて見せて言う。
「国語の話?」
小百合は目を丸くして、『もう、しっかり聞いてる癖に』と口を尖らせてむぅと唸る。
「そう。真桜さん、黒板も見ないでぼぉっとしてたから当てられたのに答えるから」
「あんなのは難しい事ではないです。当てられたから、言われたとおりに」
「そーよねー。もう、秀才さんは違うよねー」
冬実は決して成績は悪くない。
勿論真面目に勉強しているからで、その事はクラスの全員に知れ渡っている。
冬実はため息をついた。
「そうそれ!ねえ真桜さん、そんなに暗いとダメだよ!せっかく可愛いってのにっ」
「……小百合さん、それってよく判らないです」
がっつぽーずを見せる小百合に言うと、にへらーっと顔を崩した。
小百合は元気だけが取り柄のような明るい女の子で、決して可愛くない訳ではないんだが。
――これさえなければ、多分もうちょっと人気が出るんだろうけど
「ぢゃあ貰っちゃって良い?」
「……何を」
「真桜冬実さんっ!」
「却下」
思いっきり嬉しそうに、何かを差し出すように両手を広げて迫る小百合に言い放つ冬実。
一瞬にして泣きそうな顔をして机に突っ伏す。
「ふぇぇぇ…ふぇぇ、そんな思いっきり冷たく素早くすぱっと即答するなんて」
一応、念の為、小百合にはレズの気はない。実際そんな噂もない。
さばさばしてるせいか、男女ともに人気はあるが、彼氏の噂もない。
実、彼女は普通で独りだった。
冬実は思わずくすくすと笑って、右手の甲で自分の口を押さえる。
「小百合さん、私より自分の事を心配したらどうです」
「んーっ!私の真桜さんに対するこの想いが通じないの?」
「通じない」
しくしくと再び机に突っ伏す小百合。
「でもでもー、真桜さん凄く人気だよねー」
「ちょっと危ない感じの人たちに」
再びしくしくと机に突っ伏す。
「でも、これは本当だと思いますが」
そう言う彼女に、小百合は少し悲しそうに眉を寄せたまま、瞳に本気で涙を溜める。
「こんなにもかわいーのにぃ」
そんな他愛のない話。
本当に何でもない、いつもと変わらない会話。
彼女自身、そう言うつもりだった。
――じゃあハルは
どう思っているだろうか。
もうその時の彼には時間概念が消失していた。
ただ在るのは、白くない空間を横切る物だけ。
それはまるで、不自然に自分の脳味噌に手を突き入れられているかのような錯覚。
――右手
何かが、自分の身体を動かしている気配がする。
誰かが頭の中で話をする。
誰かの話し声が頭に響く。
灰色の白昼夢には登場人物はいない。
ただ声だけが虚ろに響き、身体の感触も完全に失せてしまっている。
そんな完全に全てが等しく違いのない世界の中で、唯一の色はその声だった。
金属の冷たさと耳障りな堅さの在るそれが何を言っているのか、理解できない。
ただ即応して身体が追随する。
それに合わせてココロが追いかけるように。
ぼやけた世界が実像として――する。
目の前で情けない貌を彼に向ける、男。
両手を振り上げて泣き叫ぶ男。
――殺せ
右肩から肘にかけて浮く。
それが滑るように空間を切り、男に向かおうとする。
何となくそれが厭で止める。
何の抵抗もなく腕は動くのをやめて、彼の支配下に陥る。
そして目が覚める。
「っ」
見覚えのある場所。
つながらない夢でも見ているかのように、それが再び、白く風景が焼けて消える。
白。
丁度カーテンを閉じたかのように空白の記憶を埋めていく、無。
きり きりきり
丁度軋むドアのような音と共に、彼は、その空白に投げ出される。
全身の筋肉が痙攣し、今度は逆に闇に放り出されたように瞬時に視野が暗くなる。
だがそれは視野が狭くなったわけではない。
肉体の限界にまで感覚が拡大し、実際に見えている視野に対しての意識が薄れているからだ。
丁度四つ足の獣のように、彼は地面に両手足をついていた。
其処がどこなのか記憶を呼び出す間も、ない。
彼は両手足で大きく跳躍する。
――ここにはいてはいけない
――ここにいたくない
――向こう側に、あの場所に、ある
彼の周囲で空気が渦を巻いているのが見える。
初めに感じられたのは、頭の中から意思が抜けていく感覚。
全てが自分の意志のままに。
次に飛び込んできたのが、『嫌』な気配と『そうではない』気配。
それが自分の居場所を示しているような気がして、彼は確信して、全身を使って跳躍を続ける。
ただそれは逃亡なのか、それとも――彼には、何も判らない。
見える 世界の逐一全てが 意識するだけではっきりと詳細に
――もしかすると、ハルは私のことを嫌っているのかも知れない
かたん、と彼女の足の裏で石畳が鳴る。
石畳の向こう側の土壌を抜けて、岩盤に感じる鼓動。
地上に生きる人間全てが影響を受ける、地上の脈動。
きちんと舗装された道に出るまで、この神社の境内のような道は続く。
一人帰途に就きながら、彼女の意識はさらに広がっていく。
――今どこにいるの。どうして、突然いなくなったの
でも家に帰れば何もなかったかのように、帰っているかも知れない。
明美が探しているのだから、捕まっていてもおかしくない。
――ハル
ぴいん、と張りつめた弦を弾くような音、それが聞こえたような気がした。
冬実は足を止めて、半眼を閉じて両手で下げた鞄を抱きしめるようにして胸元に上げる。
僅かに両足を開き、全体重を腰を落として撓める。
――ナニカガ――クル!
ざわめくものが彼女に悪寒として伝わった。
そして、それは跳躍を繰り返すように近づいてくる。
――場所は
ここは道路の真ん中で、充分に開けている。
彼女の目の前に現れたならば目撃者は増える。
何かをされるとしても人目につく。
ざん
そこまで確認してから、彼女は目の前に奔り込む気配を待ち受けた。
「!」
両手足で全衝撃を受け止めるように、その様はまるで蜘蛛のように、一度身体を沈める。
非人――ヒト。
ぎょろり、と頭が動き、視線が合う。
「――ハル」
彼は、紅い服を着ていた。
茶色く焼けただれたような色の、彼のパジャマは――いや、これは恐らく『血』か。
彼の貌は変わらないが、明らかに目つきがおかしかった。
――表情がおかしい
人間だったら、多分そう感じるだろう。
いや人の顔をしているだけに余計そう思うのかも知れない。
彼女は、その表情を計りかねた。
まだあどけないと感じていた彼の表情は、まるで縦に引き延ばしたように見えた。
笑みは完全に消え、もしこれが人間の表情なら――驚いたのだろうか、丸く大きく見開かれた目と、口。
「ハル?」
それまで気配が近づいてくる速度がまるで想像できない位、彼はゆっくりじわりと両手両足を動かして、まるで間合いを計るように。
冬実も後退りする。
治樹らしいものはゆっくり近づいていく。
でもつかずはなれず、その距離を保つ。
じわりと、その動きが何かの目的を持って撓む。
――!
冬実はそれに気付き、下げた重心を使って両足で地面を踏みしめる。
だが間に合わなかった。
治樹の両肩から先だけがまるで別の生き物のようにしなり、上半身毎冬実に飛びかかる。
半歩引いて身構えて、鞄を地面に捨てて対応するのが関の山――それだけ動けただけでも、冬実は反応できた方だったろう。
――もう、ハルは自分を見失っている
容赦するつもりもなかった。
『こうなってしまった』のであれば、殺さなければならない。
否――放っておいても同じ。
『人間』に駆逐されるぐらいなら自らを護るために、滅ぼす。
彼を理由に真桜家全てを滅ぼされるわけにはいかない。
だが彼女のそれだけの思考は、次につながる彼女の行動を、思考した時間分だけ抑制してしまった。
白兵戦距離から、格闘戦距離へ。
組み打ちする距離というのはほんの僅かな時間、一呼吸より半呼吸、さらにその半分の刹那の隙が致命的になる。
冬実が動けたその時には、既に治樹の顔が鼻先にあり――両腕は、どう動いても彼女を捉える位置にあった。
身体を沈めて避けようとして、治樹の腕は冬実の頭を絡め取る。
そのまま抱きすくめられるようにして、彼女は背中に倒されるかと感じた。
治樹は地面を蹴り、冬実毎地面に転がった。
ずん、と地面を叩く衝撃が背中に伝わり、少しだけ運がよかったと冬実は思った。
もし彼女の背中にあるのがアスファルトだったら、制服は今頃ずたずたに裂けているだろう。
無論、その下にある肌も。
ぞわり、と身体が悲鳴を上げるのを、何故か彼女は冷静に判断していた。
治樹が彼女の頭の後ろで腕を動かしたのだろう。
身体が伝える感覚と、まるで分離したような自分の意志
丁度治樹が覆い被さるような形で、浅い草むらに二人は折り重なって倒れている。
いや、治樹にのしかかられている。
頭が腕と、恐らくは肩で押さえつけられ、膝から下は――多分、彼の脚だろう――動かせない程の体重がかけられている。
そして先程から感じている顔に当たる風は、彼の呼吸だろう。
額がこつんと鳴った。
――ん……
まるで熱でも計っているような仕草に、こんな状況であるというのにおかしくなって、口元を歪める。
冷静だった。
今治樹が『雄』として彼女の上にいるのだとしても。
確かに頭は捉えられて、脚も動かない。
だがおかしな事に腕は完全に自由だった。
治樹は脇から下を完全にさらけ出して冬実の頭を抱きしめている。
やろうと思えば、もし冬実が刃物を持っているなら、それだけでもうこの状況は終わる。
冬実もそれには気づいている。
そのせいで冬実は油断した。
ふっと額を離した治樹の顔が、冬実の視界を過ぎった。
見たこともない、貌をしていた。
それが再び陰に入り――
突然、生暖かい感触と同時、唇を割って入ってくる物が。
それが治樹の舌だと気づいた時には遅い。
腕が頭を解放して更に下に動いていた。
彼女の両肩を抑える位置で抱きしめ、そのまま背中を嬲っていく。
ざん
だがその全ての感触が、余韻も残さずに全て離れる。
今耳に届いたのは耳元にある草を叩いた音だろう。
彼女の前に、両足で立った治樹がいた。
「……ハル?」
冬実が不思議そうにそう声をかけると、怯えた――そう、はっきりそう言った表情で――貌になって大きく跳躍した。
「……!」
その時何か、彼は口走っていた。
冬実には聞こえなかった。
彼女が身体を起こした時には、既に気配は消え去っていた。
しかし彼女の目に映った彼は最初に見た彼ではなく、『治樹』だった。
――怯えていた
彼の言葉は聞こえなかった。
心にも響かなかった。
――自分に?
それとも自分が行った事実に?
冬実は右の人差し指でゆっくりと自分の唇をなぞる。
いつの間にか冬実も、今まで浮かべたことのない貌が浮かんでいた。
激しい悔恨の表情――普段表情を殆ど変えない彼女が、顔をくしゃくしゃにして。
誰もいない道の真ん中で、彼女はそのまま佇んでいた。
「治樹が喧嘩したって、あたしその話聞いてないわよ」
その日の夕方、結局治樹はまだ帰っていなかった。
冬実も彼女よりも遅いようだった。
実隆から彼が喧嘩したという話を聞き、彼女は自宅への道を大急ぎで走った。
――何故自分を蚊帳の外へと追い出すのか
昼間、体育の授業の前に電話を入れた時にも何も言わなかった。
「それももう前の話だったって?」
彼女は苛々と眉を寄せ、帰ってくるなり明美にくってかかっていた。
明美もいつもの笑みを消して、困ったように彼女に両掌を向けて後退る。
「……覚醒しかけてた時に、やられたらしいの。冬実は間に合わなかったのよ」
「じゃあ、もうヤバいんじゃないの。…行方不明になってて、もうどうしようもないんじゃ」
自分で言った言葉とは言え、彼女は口ごもった。
明美もそれを見て口元を綻ばせる。
でもそれは微笑みには見えなかった。
「まだ判らないのに。なっちゃん。あなたは優し過ぎるから」
明美の言葉に菜都美は複雑な気持ちで、顔をしかめる。
素直に彼女の言葉に喜ぶ気にはなれない。
何より、それが何を意味しているのか。
そしてはっと目を見開いて明美を見返す。
「まさかもう」
明美は首を振る。
「本当に見つかっていないだけ。…なっちゃん、まだ、あなたに教えていない事があるの。聞いてくれる?」
小首を傾げて微笑む明美。
でも、何となく芝居がかったその話し方は、菜都美にとって背筋の冷たくなる感じがした。
明美に続いて食卓につき、彼女が注ぐコーヒーを見つめる。
無言で食卓に並ぶカップからあがる湯気。
明美は一度目を閉じて、その湯気を吸い込むようにして香りを確認する。
「ハーフって、いるでしょ?日本人と、白人のハーフ」
何を言いたいのか理解できず、菜都美はカップを口に運んで一口含み、小さく頷く。
口の中に苦みが広がる。砂糖が入っていない。
「じゃあ、そのハーフの子がまた日本人と結婚して、子供が産まれました。その子供も、やっぱり日本人と結婚して」
明美は両手でカップを包むように持って、両肘を卓につく。
菜都美にはその貌が、母親のような笑みを湛えているように感じた。
「もう、白人の祖先がいたなんて判らなくなった100年後。突然、金髪の子供が、その家系に産まれました。果たしてその子は、日本人でしょうか」
明美は目を細めて笑う。
「日本人よね」
菜都美は訳が分からない、そう言う口調で答える。
「そう。でも、本人は病気かも知れないと思う。両親は、お互いに不信感を持つ」
母親は『夫は病気ではないのか』と。父親は『嫁は不義をしでかしたのではないか』と。
でもそのどちらも間違いであり、病気でもない。
「わたし達のように化け物の血が混じってると言ったって、それがどこまで本当なのか判らないけど」
そう言ってまるで息を注ぐように、コーヒーを一口飲む。
「そう言うことを繰り返した家系なのよ。…血は、代を重ねる毎に薄まっていく。ヒトの中へ。でも『ソレ』は種を保存しようとする」
「……それで」
「『濃さ』によって惹かれるのね、互いに。『ソレ』同士は判るけど、その周囲にいる人間は判らない。だって、『ソレ』と『ヒト』は別の種族だから」
菜都美は彼女の言葉に納得しようとして、違和感を感じた。
彼女は何を言いたいのだろうか。菜都美に何を教えようとしているのか。
「明美姉」
「『ソレ』は滅ぶべき種よ。血は薄まり、確実に絶えようとしているんだから――ヒトって、怖いものよね」
『ソレ』の特性すら『ヒト』の器の中へと溶かし込んでしまう。それはやがて『ヒト』と区別が付かなくなる。
それだけ『ヒト』という種の境界は強固で、丈夫だということなのだろうか。
「ハル君とあの子は、100年振りに生まれた金髪の子供なの。根底にある本能はわたし達では理解できないから」
◇次回予告
帰宅する冬実。家はからっぽだった。
「いつ帰ってくるか判らないから、ラップして」
治樹を捜しに出ようとする明美と菜都美。
やがて――菜都美の前に、治樹が。
Holocaust Chapter 5: 冬実 第6話
治樹は、私をっ
引き返せない道程
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