Holocaust ――The borders――
Chapter:5
冬実――Huyumi―― 第4話
その日の朝。
冬実はいつもよりも早く目覚めた。
しかしそれは、セットしておいた目覚ましよりも早く起こされただけで、別段健康的な話でもなかった。
「冬実!」
それも扉を叩く酷い音で、だ。
のそり、とベッドから身体を起こすと同時にドアが叩き開けられて、凄い顔をした菜都美が飛び込んできた。
「…何ですか?朝っぱらから…菜都美姉さん」
「治樹がいないのよ!」
もう一言ぐらい文句を言ってやろうと思っていた冬実の、寝ぼけた目が丸く大きくなる。
「姉さん」
「冗談なんかじゃないわ」
二人とも寝間着のまま、冬実は部屋の入り口にあるスリッパを突っかけて治樹の部屋に向かう。
子供に開放している二階にある部屋は洋間で、全て扉になっている。
だがどの扉も鍵はついていないので、かけることはできない。
当然のように手を伸ばした菜都美はドアを開ける。
「ほら」
軋む事も、抗議する事も。そして挨拶する事すらもなく異邦人を受け入れた。
主がいないその部屋は冷え切っていて、閑散と、だけではなく――奇妙に片づけられていた。
ベッドにも乱れはなく、机にも何も散らかっていない。
「……菜都美姉さん?」
冬実は眉を寄せて姉の顔を見上げた。
「ううん、あたしが起きた時には」
菜都美は朝が早い。朝練の時の癖だけではなく、自分で弁当を作っているからだ。
「明美姉が先に見つけたのよ。…それで冬実を起こしたんだから」
菜都美と冬実が階下に降りると、キッチンでは既に明美がコーヒーを飲んでいた。
彼女は明るく笑いかけて、コーヒーメーカーからコーヒーを注ぎ、菜都美に勧める。
その間に冬実は冷蔵庫を開けて自分の分の牛乳をグラスに注ぐ。
「朝ご飯には早いけど、もう準備できてるよ」
言いながら卓にサラダと目玉焼きの乗った皿を運ぶ。
菜都美はコーヒーを傾けながら明美が卓につくのを待つ。
「…明美姉」
「なっちゃん、慌てないでよ。さてとみーちゃん。話は聞いたと思うけど」
こくん、と冬実は頷く。
「私が昨日寝る前に確認した時には、しっかり寝てました。だから多分、朝早くだと思います」
ふぅん、と明美は言いながら首を傾げる。
「んだったら、なっちゃん、わたしが起きる前の話になるでしょ」
明美が起きたのは朝五時。大体いつも通りだし、彼女も何の物音も聞いていない。
「でも治樹が寝た形跡があの部屋になかったし、夜中のうちかも知れない」
菜都美の意見を聞きながら探るように視線を冬実に向ける。
「見つけられそう?」
少しの間思案するように目を閉じて、明美の問いに、冬実はゆっくり首を振る。
「難しいと思います。…ハル、何だか普通とは違うようです」
「違う?」
菜都美の声が若干興奮気味に裏返る。
「違うって」
「……姉さん、薬、飲んだことはありますか?」
冬実の質問に、菜都美は眉を寄せて応え、冬実は言葉を紡ぐ。
「何故、『漢方薬』以外の薬を飲もうとしないんですか?」
冬実は問うが、その回答を期待していないのはもう明らかだった。
菜都美は唇を噛んで、かぶりを振った。
「知らないよ。それが当たり前だって思ってたから」
「私は飲んだことがあります。…小学生の時に、保健室で」
彼女たちはそれが当たり前だったから、気にしていなかった。
風邪や簡単な病気は、いつも母親が病院に電話をして医者が回診に来ていた。
その時出る薬は、全て漢方薬で、家にある置き薬も全て漢方薬だった。
人の手が加わるのは、せいぜい加工の段階だけである。
「あれは親切でやった事だったから、仕方ないわ」
菜都美を視線だけで制して、冬実に続きを促させる。
こくん、と小さく頷いて続ける。
「ハルの意識が、妙に『心ここにあらず』の状態が続いてました。病院を往復する間も、治療する間も」
「…薬を飲んだって、そう言うの?」
菜都美が激昂するのを、抑えるように冬実は冷たい視線を彼女に向ける。
「ええ。そうでなければ説明できないことも多いんです。…菜都美姉さん、試しに胃腸薬でも飲んでみますか?」
「みーちゃん、喧嘩売ってないで。まあどうせこうやって話し合ったとこでどうにでもなる訳じゃないから」
がたん、と菜都美が立ち上がる。
一瞬視線が交錯して、でも菜都美は何事もなかったようにくるっと背を向ける。
「制服に着替える」
そのまま振り向きもせず、彼女は走り去っていった。
明美が非難の目で冬実を見る。
「みーちゃん、やりすぎ」
「…何も教えていない姉さんに、何も言われたくありません」
冬実はきっ、とつり目を鋭くして睨む。
「何で菜都美姉さんがあんなに自分の事を知らないと思ってるんですか。…明美姉さんのせいでしょう」
明美はにこにこ顔を崩さずに視線を受け止めて、ため息をついて自分の両手を重ねる。
冬実は僅かに退いた――大抵、明美が非難を無視するように受け止めた時は『敵わない』事の方が多いから――。
「あなたも気づいていないのね。…なっちゃん、『ヒト』なのよ」
え?と冬実は眉を寄せる。
「殆どね。あなたやはるくんみたいに『純血』に近いとそうでもないのかも知れないけど」
「どういう意味ですか?だって」
冬実は明らかに動揺していた。表情を変えることのない彼女が目を丸くしている。
ふふ、と明美は優しい声で笑うと今度こそにっこりと笑みを浮かべて。
「…確かに彼女も『真桜』の人間だけど、影響を受けているだけよ」
冬実は絶句して、彼女から目を逸らせてうつむいた。
「母さんがごく普通の人間だもの。それに似てないように見えるけど、母さんそっくりだから、あの娘」
そうなっても不思議ではない。
沈黙が僅か続いて、階段を下る音が聞こえた。菜都美だろう。
無言で菜都美は自分の席に着いて、トーストを手に取る。
「ハルが喧嘩をした相手が、ハルに薬を使った可能性はあります」
「そう考えるのが無難ね。…あの子、付き合ってる連中がたちの悪い奴らが多いから」
菜都美は一瞬明美に視線を向けてからトーストをかじる。
しばらく彼女の咀嚼する音だけがその空間を支配する。
「…帰ってくる、って事は考えないのね」
いつの間にか台所の入り口に母親がいた。
右手にハンガーに掛かった、治樹の制服を持っている。
「あの子多分寝間着姿よ。どこに行ってるとしても、一度着替えに帰ってくるわよ」
そう言って時計を指さして腰に手を当てる。
「話し合ってても治樹は帰ってこないんだから、さっさと食事してさっさと学校いきなさい」
本来なら依頼する必要性もなかった。手元にいる――そう、ミノルが動けばいいはずだ。
――でも、ミノルをぶつけるよりもあいつらを利用した方がたやすい
金で解決できるならその方がいい。ミノルはまだ体内にあるLycanthropeが不安定なのだ。
握りしめた自分の携帯電話をポケットに戻すと、彼女はミノルを呼んだ。
数分もしないうちに彼の声が聞こえた。
「なんだ」
「例の実験体、処分する」
するとミノルの顔色が変わる。
驚きというよりも、それは怪訝そうというべきか。
「お前らしくない。何が不服か」
不服と言われてミノルは首を傾げ、ゆっくり横に振った。
「いや…あれだけの結果を出した割にすぐに捨てるんだなと思っただけだ」
今度は逆に、彼女――リーナの方が不振そうに、そして不愉快げに顔を歪める。
「結果は出た。確かに面白い結果だ。お前に通じるところがあるのに、お前程丈夫ではなかったからな」
そして、彼女は何かを案ずるように一度眉を寄せてミノルを見つめて。
「しかしコントロールできない兵器程手に負えないモノはない。心しておけ。ああ、それと」
付け加えるように彼女は呟き、口元を歪めて笑う。
「始末には始末屋を使う。悪いが依頼に出張ってくれ。但し気をつけろ、油断していれば寝首をかくような連中だ」
全く、とリーナがひとりごちるのを、ミノルは聞き逃してしまった。
――どうして、こんなにも役に立たないものばかり完成してしまう……
今朝呼び出した新しい実験体。これはあまりにもおかしな挙動を示した。
確かに今までに見たくだらない失敗よりは面白い結果があった。
恐らくそれが『適性』と呼ばれる物ではないだろうか。
彼女は何となくそれを実感した。
――記憶には確かに、そう言う物があるらしいことは……
ヒイラギツカサの記憶の一部には個体差を強調したようなイメージで存在する。
だがそれが、明らかに『特定種族』に対して偏重したようなイメージなのだ。
今朝からずっとアクセスしている新しい実験体、奴は、彼女の完全な支配下にはない。
不思議なことに命令を無視する事があるのだ。
こちらからの直接的な指令すら受け付けない『タイミング』がある。
それはまるで一瞬目が覚めているかのように。
恐らくその瞬間を狙われた場合。
――全く困った物だ。いや…
ふとリーナはミノルを見返した。
彼は彼女のそんな態度に眉を寄せて訝しげに睨み返してくる。
――もしかすると、こいつと同類なのかも知れないがな
鼻を鳴らして馬鹿にしたように嘲笑を浮かべてやる。
「どうした、早く行け。但し途中で、奴らの『駒』には手を出すなよ」
化物というのは独特の気配をまき散らしている。
人間ではない、そう呼ばれるのは勝手かも知れないが、事実それらは人間社会で不適合な存在である。
では結局、化物というのは何だろうか。
――………来る
その大きさは別段他の生命体と同じ――要するに、人間や犬なんかと同じカタチの事が多い。
だが一度其処から外れたならば、もう二度と――認識できなくなる。
では化物とはいったい何なのか。
簡単に言えばこうだ。『日本人というのは一体なんだ?』という質問に非常に近いとも言えるだろう。
同じ背格好でも、考え方も文化も言葉も違う。決定的にDNAの部分から違いが存在する。
でも彼らは同じ「人間」なのだ――こう言えば、実は近い表現だと言うことができるだろう。
彼は歩きながら急速に膨れあがる『不安』が近づいてくるのを知って、僅かに身体を堅くした。
いつものように『部活』と偽って狩りを始めようとした矢先に、今までにない位大きな化物が姿を現したようだ。
駅からそれほど離れていない、町の外れ。
時刻的にもまださほどヒトが多い訳でもないから、特定も簡単だ。
どれだけ人がいても、これだけ『臭い』気配は隠せやしない。
「――お前か」
気配が、壁向こう側に姿を現した。
スニーカーがアスファルトの上でぎちりと軋み、やがて視界に――気配は、人のカタチをしている事だけは判った。
それは青年の姿をとって彼の前に立っていた。
相手は笑っていない。
向こうもこちらが認識している事を知ると同時か、こちらを敵として認識できたようだ。
その姿は明らかに威圧的で、喩え見覚えのある顔をしていようとも関係がない。
そもそも『化物』として人間に牙を剥く者を許してはならない。
それが誰であったとしても。
今隆弥の目の前にいたのはほんの僅か、確かにどこかで見たような顔をしていた。
尤も彼は、今目の前にいるように『化物』らしくはなかった。
化物の臭いをまき散らすこの男は、『彼が知っているどの人間でもない』。
その時点で化物と判断する。
悪魔が悪意の塊でしかないのと同じように、其処にヒトの感情を持ってはならない――つけ込まれてしまう。
瞬時だった。
彼が声をかけ、男が体を瞬かせたのは。
――!
速い。
見失いそうになって、彼は意識を保てるか否かのところで本能的に後ずさった。
慌てて一歩飛び退いたにも関わらず、風圧と切っ先は彼の右頬をかすめた。
拳による高速度の一撃
びりびりと耳朶を打つ空気の流れに彼の視界は極端に減じられてしまう。
――くっ
その半壊した視界の中で、男はくるりと背を向けて視界の外へと跳躍する。
直撃こそしなかったものの、右目は拳圧のせいではっきりしない。
――逃すか
隆弥は先程の一撃を避ける際に溜めた全身のバネを使い、体を一気に前進させる。
復帰しようとする視界が完全に戻らないうちに、消えた影を捉える。
影が向かう方向には、たしか。
――河川敷、か
影はとてつもなく身軽に跳躍していた。
その速度も高度も、何もかもが明らかに人間を凌駕している。
喩え元が人間である、という仮定があるにせよ――それすら逸脱できるものか。
――決着をつけるつもりか、それともからかっているのか
追いつけないとでもたかをくくられているのかも知れない。
彼は口元を僅かに開き、凄味のある笑みを湛えた。
「なめるな、『化物』如きが」
人間とは喩えるならば枠のようなモノだ。
其処に収まっていなければならない、その枠組みを越えてはならない。
そうやって規制された枠組み、それこそが越えてはならないモノであり『化物』を形作る正体に過ぎない。
それは丁度、『日本人』という枠組みがあり、『外国人』と言うモノを分け隔てるのと同じ。
同じ『人間』なのに。
滑稽だろう。
化物というのは結局、この『枠組みに収まらない』人間を指すのであり、化物でもその『枠』に収まれば『人間』なのだ。
逆に言えば、そんな枠組みがなければ全て――そう、この世の全ては化物だけになってしまう。
化物に。
――だから俺達がいる
枠を――境界を全てとする存在が境界にしがみついている限り。
其処から外れていながら、干渉しようとしてくる全てのモノを排除する。
排除する理由は――人間ではないから。
人間という枠組みを護るためには、このか細く護る手段を持たない『枠』を越えさせないためにも。
何故?
彼は地面を蹴った。行き先さえ判れば簡単だ。
先回りすることも容易だ。少なくとも、あんなに派手に飛び回る必要性はない。
人間という枠組みを護る必要があるの?それは何故あなたでなければいけないの?
僅かに世界の力を借りればいい。
言葉で形作られた世界で、言葉によって力を伝えればいいのだ。
どうして?わからないの?それとも、判ってはいけないの?
鼻をつく化物の気配。
――違う、判る必要はない。そう形作られて存在すること、それで充分だろう
ずしゃ
いつも思う。こうして化物を捉えた瞬間だけは、何とかならないものかと。
どうしても体の言うことが利かず、重心や荷重を捉え損なうせいで。
恐らくねじ曲げた理屈と世界が与えた解答の結果は、時間の変異として現れていた。
既に星が見える程の暗い夜穹を望んでいる。
「仕方ないのか」
あまり意味もない事だと彼は自分に言い聞かせる。
どうせどんな化物も関係ない。
――人間という種族は
化物には必ず敗ける事はないのだから――
“Death of Wind notify. The hided eye breath your solor system”
暗く冥く眩い夜穹の蒼に浮かび上がる黒い影。
確かにヒトのカタチをして、ヒトのスガタをしたケモノ――化物。
こちらを窺うように目を輝かせて、影でできた闇の山の上にいる。
その姿が滲むように世界に捉えられる。
『言葉』の姿をした『世界』と言う名の、逆らう事のできない論理に。
それが急速に弾けた。
――逃さん
同時、彼も地面を蹴り身体を影――どうやらそれは廃車の山のようだ――に滑り込ませて相手の視界からかき消える。
一瞬、車と車の間から差し込む月の雫に濡れて――彼は躊躇なく右手を疾らせる。
ひゅか
だが彼の手から放たれたナイフは影を過ぎっただけで、その後ろの車のタイヤに突き刺さった。
車を蹴り込む派手な音に、彼は一息に身体を捻りもう一度車の影に身体を滑り込ませる。
“Diary is exist. High electric ring ended.”
紡がれる言葉に滲む悪意と、世界を縛り付ける為の強制力。
――今度こそ終わらせてやる
手近な車に飛び乗り、数回跳躍し車の向こう側で『論理』に捉えられているはずの化物を探す。
突如耳に届く空を斬り裂く音。
その音の正体に気づき、彼は背中から一振りの刀を鞘毎抜いた。
恐らく人間の腕よりも大きな、金属製の何かが飛来しつつあるのが、今度は目でも捉えられる。
――!
激しく何かがぶち当たる音と共に、足場になるはずの車が激しく揺れた。
このまま着地する訳にはいかない――今度は耳朶を叩く程になった迫るモノに切り裂かれてしまう。
判断する余裕はない。
一気に両手で刀を抜き放ち、鞘を車に突き立てる。
そしてその反動で身体を一気に跳ね上げ、迫るモノに対して刀を振り抜いた。
手応え。
そして頬に僅かな感触。
斬ることはできなかったが、甲高い音と同時に火花が散り、飛来した金属は後方へと逃れる。
そしてその勢いを利用して身体を一回転させて、地面へと着地する。
「やる…な」
じゃりじゃりという足下の音がやけに耳障りに感じる。
「ここまでだ――化物」
「いや。――『今日のところは』ここまでだ」
ぎしり
――!
「またどうせ機会がある。――『ヒイラギミノル』に、よろしくと伝えろ。それから、二度と獲物を間違えるな」
にたりと。
実隆は絶対に見せる事のない邪気に満ちた笑みを湛えると、その『実隆に似た化物』は背を向けた。
彼の姿が消えてしまうまで声を出すことも、呼吸すらもはっきりしなかった。
やがて意識が奪われてしまうまで、さほども時間を要する事はなかった。
その日は特別な事は何もなかった。
本当になかったわけではない。実際、奇妙な異変が先日から続いている。
それが人間に及ぼす影響があるかどうか、そんな事は余り関係がなかったが。
『――始末屋を、貸して欲しい』
しかし、その一本の電話は異変をそのまま自分で解決すべき領域へと変化させた。
悠に一年以上はブランクがあったが、そもそも『家』というものは依頼を受けるためにある。
「はい」
だから電話の声に、彼女は本来の立場に戻る。
自分が抱える手駒は、常に一人。
依頼が在れば伝えなければならない。
「判りました。ヒイラギツカサさんで、よろしいのですね」
彼女は電話の下にあるテーブルの引き出しを開いて、普段使うメモとは別のメモを取り出す。
『ああ。…それで、目標はどうやって示せばいい』
相手の声は子供のようだが、そんな事は気にする必要はない。
情報提供者が何者であれ、境界を護る為には喩え相手が『化物』であっても関係ない。
「氏名で結構です。もし判らなければ、外観だけでも」
一瞬思考するだけの沈黙が、会話をとぎれさせた。
『後はそちらが探すというんだな』
「それが我々ですので…知らない訳じゃないでしょう?」
『判った。それであれば、写真を持っていこう。詳しい話はそちらで』
それからいくつかの事務的な話をすると彼女は電話を切り、居間に声をかける。
「重政さん、お客さん、来るそうですよ」
失敗した。
彼は結論を急ぎすぎたわけではない。
ただ、『真桜』を侮っていたのだ。
「あの家系は……」
ターゲットを絞り直さなければならない。
思いの外、あの弟は『化物』に近い存在だった。
化物であるなら、どれだけ人間を集めたって同じだろう。
要するに失敗、冬実の討伐どころではなくなってしまった。
――これでは櫨倉が動く
『自分』が派遣された所以は『櫨倉統合文化学院』の裏にある存在を突き止めたからだというのは確かだ。
さもなければ今更『家』から派遣されるはずもない。
兄弟として抱えるもう一人の少年も『家』出身らしいが、これはこれで特殊な事情がありそうだ。
――あんなに『臭う』弟なんか、何故飼っているのか
ふと思考がそれ始めたので、彼はかぶりを振ってもう一度自分の目的を認識し始める。
――俺は櫨倉を住処とする化物を狩る
櫨倉自体を燻るのは別の任務で、誰か別の者が担当しているはずだ。
尤も今の『家』自体には何か任務でもあるらしく、他の仕事をやったこともある。
ここ三年程は特に命令もなく潜伏できていたのだが、それより前は別の仕事の方が多いぐらいだった。
「タカヤ」
耳障りな声が彼を呼んだ。
はっきり言って彼に名前を呼ばれると苛々する。
「なんだ、重政」
感情の『らしさ』を欠落しきった表情が彼の前にある。
言うなればその顔は冷徹と言うよりも歪(いびつ)で、どことなくおかしさを感じさせる。
「――指令だ」
そう言って彼が差し出したモノは一枚の写真。
「依頼は『こいつを狩ること』だ。――尤も、依頼主も『狩って』しまえ」
写真に写っていたのは、暗い場所だった。
暗い場所で黒い液体にかしずくような格好で座り込んだ少年が一人。
――治樹、か
「依頼主ってのは」
「お前の『弟』の、本当の兄貴だよ、隆弥」
◇次回予告
「そーよねー。もう、秀才さんは違うよねー」
日常を過ごす、冬実を襲う思考。
化物と人間との最大の違い。
それが人間を納めている『ヒト』と言う名前の、境界に過ぎないのだとしたら。
Holocaust Chapter 5: 冬実 第5話
治樹が喧嘩したって、あたしその話聞いてないわよ
考えるには値しない世界
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