Holocaust ――The borders――
Intermissionミノル 3 第3話(最終話)
そもそも、『リーナ』とは誰だったのか。
最初にリーナと名乗って彼の前に現れた少女は、Lycanythropeの被検体であり『檻』の中の化物だった。
亜麻色と表現したくなる程艶やかで深みのあるブロンド。
純粋な彼女をそのまま表したような暗いエメラルドグリーンの瞳。
覗き込むと二度と帰って来れなくなりそうな位深く、奥底まで見透かせてしまう。
美少女と呼ぶには抵抗があるが、決して魅力のない娘ではなかった。
白い首筋に、まるで日焼けの痕のように刻み込まれたバーコード。
実は表皮の直下に埋め込まれたナノレベルのセンサーがそこに埋め込まれている。
体温、脈拍、血圧、脳波その他諸々の体調がログされて、『檻』のアンテナで受信されてメインサーバーに送られる。
そこでリアルタイムに健康状態、ホルモンバランス、そして感情の動きまで全てがモニタされてしまう。
リーナ=ハインケルはドイツの農園に生まれ、たった一年分の彼らの収穫と同等の金額で売り払われた子供。
売られてすぐ、彼女は最低限度の検査と去勢処置を施された。
去勢――ここでは記憶操作と洗脳のことを指して言う――によって、彼女はこの檻以外の世界を失った。
真っ白な、記憶操作の上、意識まではっきりと純粋な白へ、まるでペンキでもぶちまけたように。
彼女は純真に作り替えられたのだ――自分の意志すら、書き換えられるかのように。
ミノルとは違う。
ミノルは初めから『兵器』としての価値を見いだされた特異例だ。
だから、ミノルには説明されていた。
――人間というのはお前にとって憎むべき敵、殺すべき存在だ。何の価値もない
彼はそんな価値もない存在に命令され、飼われ、初めから矛盾しかそこに存在しなかった。
人間がいなければ食事もできない。彼らに命じられるまま殺さなければ、今度は彼自身が殺される。
――だったら俺は何故生きているんだろうか
彼らを殺せば自由になれる。否、自由とは一体なんだろうか。
食事がとれないことか?人間を殺さなくて済むことか?それとも、ここまで矛盾している事から解放されることか?
そんな中で、混乱を正すための方向が一つ示されていた。
「お前は、ただ仲間を捜せばいい」
『同じ臭いのする男』はそう彼に命令した。
「同じ、人間とは違う物を捜せ。彼らは人間種とともに生きているが、やがて人間種とは相容れなくなる」
それは彼が動くための最小限度の命令だった。
命令――でも、その命令を伝えた存在が誰であったのか、思い出した時には既にこの世にはいなくなっていた。
彼はもう気が触れていたのだろうか。
最後の研究を続けている時に彼を呼び、やがて博士の実験の失敗を境にしてミノルによって殺されてしまった。
研究成果の、『リーナ』の指示によって。
――Dr.ヒイラギ、結局あなたは何者だったんだ
子供だった本物のリーナと初めて会った時、既に彼とは接触する機会などなかった。
ただその命令に縋るようにただひたすらに生きていた。
そんな中で、リーナは何の疑いもなく何の心配事もなくただ笑っていた。
『ねえ、貴方の名前を教えてよ』と。
彼女は自分が住んでいる『檻』の理由も知らなかった。
彼女は今自分が何故そこにいるのかも知らなかった。
彼女は自分の境遇を不思議にも思わなかった。
ただ彼女は、ほんの少し幸せそうに笑って言った。
『私のね、おかあさんは毎月お見舞いに来てくれるの』と。
そんなヒトはいないんだ。それは、精神を安定させるために見せられる夢に過ぎないんだ。
幼いミノルは事実を知っていた。
向こう側ではなく、あくまでも研究者と同列の――彼は、羊の群を統御するための狼犬だった。
こちら側の存在として、彼女たちを見ていた。
勿論彼女から同じ匂いを感じることはなかった。ただの病気の子供に過ぎなかったのだから。
今思えばあの時、彼女が笑っている事が不思議だったのかも知れない。
彼女は自分と同じか、もっとおかしな境遇にいたはずだ。
何故自分に声をかけてきたのか。
何故笑っていたのか。
何故、あんなにも純粋にいられたのか。
――おかしいって思わなかったのか?
自分があんな場所にいることが。自分の境遇が。彼女と会う彼の正体が。
最後の最後まで、彼女は自分に笑いかけていたような気がする。
『リーナ=ハインケルを『追いつめて』くれ』
あの笑みは信頼の笑みだろうか。
彼女が愚かだっただけだろうか。
それとも、彼自身、その笑みを見たかったのだろうか。
『『人間』ってやつは脆いからな』
今のこの感情は、何なのだろうか。
命令に逆らえなかった自分に対する不満か。
命令に従って彼女を壊した――最終的に殺した後悔か。
「リーナ、か……」
何故、今一緒にいるあの機械の塊に彼女の名前を付けたのか。
彼は『檻』で果たした仕事をもう一度回想していた。
リーナはいつものように笑顔で彼を出迎えてくれた。
それから起こる何かも、知らずに。
「今日は、何?」
屈託のない表情で言う彼女を、無防備に近づいてくるその頭を鷲掴みにしてそのまま真後ろの壁に叩きつける。
悲鳴。
絶叫のような彼女の悲鳴を聞きながら、左手で衣服を縦に引き裂く。
暴れる彼女を、数発腹部に拳を埋めておとなしくさせる。
あとは簡単だった。
用意していた薬を直接静脈に打ち込んで、完全に抵抗できなくしてからやるだけやった。
何故か、何の感慨もなかった。
感触すら感じなかった。
呼吸に合わせて漏れる悲鳴のような喘ぎ声も、雑音のように感じた。
まるで灰色のような出来事。
そこにどんな色があってもソレを『いろ』として認識できなければ、どんな色だったとしても同じ。
赤だろうと黒だろうと――同じ、灰色。
リーナの深碧色の瞳は、怯える色を湛えて。
鋭く絞り込まれて、彼を睨み付けて。
「プレゼントだ」
でもそれも、人形と同じ。壁に立てかけられた人物画と同じ。
どんな表情をしていても、彼女が生きていようと死んでいようと同じ。
まるで――それは灰色。
彼女に投げ捨てるようにして渡した拳銃と、弾薬。
コルト社のレボルバで、シリンダに彼女の名前が刻まれている。
「好きに使え。死ぬにしても、殺すにしても選ばせてやる」
檻を脱走し損ねた彼女は、ミノルによって完全にただの肉塊に変えられてしまった。
結局拳銃は、誰の命も奪うことはなかった。
かろうじて脳波の残った植物人間。本当ならそれで全て終わるはずだった。
全てが。
だが、リーナは一週間もしないうちに脳波を不安定にさせ、発作的に心臓が停止。
治療の甲斐なく、彼女は死亡した。
『死んだか』
それが、簡単な彼の意見だった。
別に彼女の身体が目的だったわけでもないし、彼女の命が目的だったわけでもない。
彼は生きるために彼女を壊すしかなかった。
逆らって消されるより、何の価値も感じられない彼女を壊す方が早く、楽だ。
結果死んでしまおうが関係ない。
彼らには困ることになるかも知れないが――そう思った。
でも、リーナを名乗る検体がもう一度現れて、彼の目の前でもう一度脱走した。
判らない。
『リーナ』と名乗っていたのは結局誰だったのか、二人目のリーナを殺して彼は我慢できずに銃を床に叩きつけた。
何に、何を感じていたのか、どうしても昂りを抑える事ができず。
自分の感情の理由すら、認めることもできず。
――あの時
一日の終わり、幕を閉じる時に考える意識。
リーナ、そして自分の今後について。
――俺は……
いつまで経っても回答のでない問いに、彼は埋もれていった。
リーナと呼ばれる事になった少女も、また『リーナ=ハインケル』の事は識っていた。
彼女がリーナと成った時には既に『ヒイラギツカサ』の記憶として残っていたから。
彼がこの工場を離れてからも昼夜を問わず生産を続けるラインの側で、両足を投げ出して座り込んでいる。
極端な話をするならば、彼女は、そんな所で座り込んでいる理由はない。
まして今のように身体を持っている必要はない。
四角い箱の中で。
信号を待っていればいいのだ。そして、今と同じように意志を伝えればいい。
――……違う、な
彼女は体を動かすことなく、決して自分の意思をざわめかせる必要もなく、今まさに――ミノルの動きが手に取るように判る。
ミノルを喰らおうとして体内に生息する彼女の分身――彼女の脳髄の一部が、ミノルの様子を伝えてきているのだ。
『Lycanthrope』ver.0.6と呼ばれた試作品であり、単体では全く役に立たないモノだった。
だがそのころ設計された物にはVer.2以降にはない性能があった。
極めて神経細胞に近い性質を持つ『核』と、神経節が興奮した際に発する物質と同等の性質を持つ『手』を備えるからだ。
そのために今彼女の脳髄として存在し、その統括の元ミノルを支配下に置いているのだ。
総体として初めて発揮できる性能――柊宰はその事に気がついたのだろうか?
そもそも動きそのものを予測でしかプログラムできない『ナノマシン』設計段階で。
だから、今、こうしてリーナは意志を持っているのかも知れない。
――おかしな話だ。考えてみれば私を作ったのは人間だし、その『脳髄』が人間とそっくりの性質を持っているだろうに
だのに、人間と反発して、今こうしてLycanthropeを製造している。
可笑しい。極めて可笑しい。
人間が造った、人間を糧とする存在――いや、もう種と呼んだ方がいいはずだ。そんな種が。
――人間を羨ましいと妬んでいるんだからな
やろうと思えば彼の手足を自由に操り、彼の脳髄を食らいつくし、まるで操り人形のように変えることだってできる。
恐らくは初めからそれが目的で設計されていたのかも知れない。
彼女の実体は、そんな疑似神経細胞に過ぎないのだ。
死にたく、ない
生きているはずはない。だから、恐らく『在る』事に執着しようとする生存本能のようなもの。
コイルに電流を流した瞬間に、誘導起電力が『発生する磁力をうち消す方向に』発生するように。
それは自然の持つ単なる反作用だったはず――だけど、彼女を襲ったモノの正体は間違いなく生きようとする方向性で。
妨げる『父』は敵であり、『人間』はつまり敵だった。
なのに。
「これが『好きだ』という、感情…なのか」
答えるモノのない問いは彼女の側で一度漂うと、ゆっくりとかき消されていった。
残ったのは機械の立てる規則正しいノイズだけで、彼女は、ただそこにぽつねんと座り込んだまま。
柊ミノルが帰ってくるのを待つしかできなかった。
◇次回予告
全てが始まるよりも前の時間。
「簡単だよ。――弟を使うんだ」
真桜治樹の喧嘩の理由と、その事実とは。
彼女は――全てを知っている。
Holocaust Chapter 5: 冬実 第1話
…今更、何を恥ずかしがってるの
潜む闇、覗く淵
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