Holocaust ――The borders――
Intermissionミノル 3 第2話
噂には聞いていた。
在野に下ったとは言え、そういった情報なら手に入るつてはある。
オカルトでは結構有名な雑誌、アスペクトでも取り上げられたためにこぞって自称『魔術師』がこの街に集結した程だ。
だが事実はそんな低俗な『噂』だと思っていた。
そもそも過去に黒魔術教団と呼ばれたものの多くが社会的に反発された理由は、それが犯罪の隠れ蓑になっていたからである。
肉体の殻というのは漫然としていても物理法則に縛られていて保たれているが、精神の髄は意志の力でのみ支えられている。
もし自らを見失う事があれば、それは完全に姿形を見失い、人間存在からかけ離れてしまうだろう。
だが全ての物理法則に捕らわれる事があり得ない為に、物理的な全てを超越した事を行う事ができる。
それが――魔術と呼ばれるものの一つの形態なのだ。
薬により人為的に気分を高揚させたり、逆に平穏にさせることで、精神をそういった『殻』に閉じこめて固定することも考案された。
もっとも、そんな方法では感情を操作しきる事ができず、『シーソーのバランス』のようなクリフォト的な力を発生させる。
望む力と対偶になる力を高め、その結果バランスを保つために望む力が高揚するような事をクリフォト的な力という。
意志によって力を導くのがもっとも正常な魔術の姿で、世界がバランスを保とうとする力を利用するのを区分して『黒魔術』と呼ぶことがある。
必死になって僅かな力しか望めない方法に比べると確かに楽で強力な術が行使できる。
その陰には、何名もの犠牲者が有ったことは否定できない。
歴史上魔術を盾にとって、犯罪を犯していた人間がいることもまた事実である。
逆に魔術のために、人を捨てた者も決して少なくなかった。
今はそれらすべては否定されてしまっているが。
――それを、今更…魔力の向上する薬、だなんて
ソファに座って熱弁を振るう女子生徒を見ながら、黒崎はため息をついた。
「どうせ幻覚剤か何かだろう。そんな物にまで手を出して、後で痛い目を見るぞ」
事実過去に薬を使った魔術実験というのは、そのほとんどが贄を騙して薬を飲ませるものがほとんどなのだ。
――ある種の感情の高揚には、必要な時もあったんだろうが
彼が否定的な意見を述べているのは、その全てを彼が知っているからである。
だが目の前の少女は違った。
所詮、彼が顧問として所属するオカルト部で知識を聞きかじった程度なのだから。
「先生」
食い下がってくる彼女を何とか帰らせようと思い、口を開こうとして――彼女の続く言葉にそれを押しとどめてしまった。
「実はその薬を持ってきているんです」
彼女は言って、すぐに服のポケットから抗生物質のような透明なフィルムに包まれた粉末を取り出した。
包装は、どこにでも有るような薬にも見えなくない。
彼女は机の上にそれを置いた。
訝しげに視線を向けて、黒崎の目の色が変わる。
わなわなと唇は震え、まるで見てはいけない物を見たように視線を泳がせる。
「!…馬鹿……な」
彼はわなわなと絶句して、でもそれでも視線は薬から離れない。
やがて我慢できなくなったようにその薬を払いのけるようにして突き返す。
「ことをするんじゃない!いい、判ったから今日はもう帰れ!」
まるで追い払うようにして彼女を指導室から追い立て、彼女が帰ってこないように壊れる程強く扉を閉める。
がしゃん、というけたたましい音が響いて、スライド式の扉が震えた。
だが、その音を残して、再び部屋は静寂が戻ってきた。
――馬鹿な……
普通の薬でも、また偽装された薬でもない。
包装に打たれた文字はロットリングと、その薬の内容を示す為の特殊な印刷法を用いた物だった。
P-Lycanthrope Ver.2.75
箱庭の正体が見えた。
同時に――彼は必死になって思考する。
Hephaestusが凍結した『獣人計画』を推進していた柊博士は、先日一部の研究成果を持って逃亡したと言われている。
そのため、コードネーム『Lycanthrope』と言われるナノマシンは研究対象として今や知らない研究者はいない。
ver.2以降のロットは既に柊博士の手によって一部改良が加えられており、既に実用化したと聞いた。
――しかし、それは決して服用するタイプではなかったはず
服用させる、散布することで敵兵士を汚染し、特殊なシグナルにより彼らを内部から破壊する化学兵器のようなものだ。
利点は味方に対してはあらかじめ除去するための、やはりナノマシンを投与することで破壊をコントロールできるというものだった。
画期的だった。それは確かに今までの化学剤や核兵器以上に使用が簡単な『大量殺戮兵器』だった。
だが、噂ではそれ以外の用途のために研究を続けられていたという。
その噂の真意はどこにあったのかは判らない。
――調べる必要があるな…
彼は早速本部に問い合わせのためのメールを送ることにした。
その返事は以外に早く返ってきた。
だが内容は予想とはかけ離れる内容だった。
『薬を入手し、提供した後に効果を確認せよ』
プロジェクトの概要すら知らされていない黒崎にとっては、意外を通り越して不可能な話に過ぎなかった。
――薬なんか、どうやって…!
効果を確かめるには一定以上の量と濃度は不可欠だ。
特に本来ヒトを殺すために作られた『兵器』だ。
どんな効力をもたらすのか、想像することすら難しいものなのに、それを実験するんだから。
――こいつを送って、同程度の物を量産できなければ結局…実験なんか無駄なはずだ。
条件を送りつけて、この『箱庭』で実験してやろう。
せっかくだから、長年の研究成果も試しておかなければ――くく、楽しみだ
程なく、彼の元には大量の段ボール箱が送られてきた。
ver.2.75と呼ばれる投薬用『Lycanthrope』だ。
そして彼の任務は、その薬品の効力と、人体に与える影響の確認。
投薬は、質問にくる生徒でも決して悪くないだろう。
投薬後一週間。
被験者の精神集中時間が日に日に減っている。
投薬直後の躁状態はごく微量、中毒性が残る程度の覚醒剤の効力だと思われる。
統計的な質問回数が増えている事から、間違いないだろう。
こちらの質問に対し、上の空であったり回答が不明確な事が多い。
自主的に来ているのだから、これも効力ではないだろうか。
覚醒剤の効果ではないことは確かである。
投薬後二週間。
噂で囁かれていた、魔力の増加については判断しづらい。
これについては対象を増やすことで対処する。
投薬記録は一日おきにした。
この薬の効果はかなり長期間おく事で初めてでてくるようである。
何らかの兆候がでてから記載する事にした。
魔力増加の兆しは、どうやらガセだったようだ。
自ら投薬し、実験を行ったが覚醒剤による精神の高揚だけが確認できた。
性格の破綻が確認された。
既に自らの意志は残っている様子はない。
こちらの言葉に対する刷り込みが容易である。
投薬不能
一部の不良グループが結成していたマフィアを飲み込んで、彼は完全に箱庭を形成した。
既に投薬は実験ではなく病気が蔓延するかのようにも見える程、広く深く浸透していた。
もうこれ以上箱庭としての実験は必要ないのに、彼は『実験対象』への投薬をやめなかった。
純度の高いLycanthropeを次々に投薬し、危険性と効力を確認していった。
このLycanthropeは全てが同じナノマシンの集合体であり、ある程度の増殖率と設定された相互通信能力があることは確認できた。
増加に必要な材料は被験者の体内から調達するため、慢性的な疲労感を伴う。
体外に排泄されるまでにかかる日数はあくまで非線形のグラフを描き、完全に濃度0になるには一年を要する。
だが増加率と濃度から、一定量の投薬により体内で安定することができる。
この量は製品の純度から考えておおよそ二袋、一週間以内の服用が必要である。
それ以下だった場合、安定しないために続けて投薬を行わなければ効果は持続しない。
但し、一度でも投薬した場合、それは何らかの形で必ず体内に留まり続けるよう計算されている。
通常の濃度の半分を一週間おきに投薬した場合、効力が現れるのがおおむね一年後である。
その後は投薬の必要はない。
逆に高濃度高純度の物を投薬した場合、下手すればそのまま体内を貪り食われる可能性がある。
効力については、思考の剥奪、筋力制限の解放が主な物である。
その薬の効力はすぐに報告できた。
これだけでは未完成もいいところではないか、と彼は感じ始めていた。
手軽に、麻薬より安全に人間の力を強化するだけだ。
兵士一人のためにこんな高価な薬を用意する必要はない。彼らに投薬するのは覚醒剤で十分なのだ。
もっとも、もう二度と人間に戻らないのは同じ事なのだが。
――一体、何の為の研究なんだ
これでは逃走した柊博士の考えすら判らない。
それともこの薬はこの段階では――
――まてよ。以前に連絡のあった箱庭の実験は完成していなかったというのか
あの時の情報であがった『箱庭』は、この薬の実験ではなかったのか?
だとすれば、一体誰が、この薬を、完成させるというのだろうか。
無論望むだけの機能を賦与する事ができるのは、作った本人の柊宰博士しかいない。
だが、現在失踪中だ。
――なら、未完成でも使用価値があるかどうか、確認する必要がある訳か
それとも、『見本』から幾らでも製造できる技術を持った組織なら、もっと他になにかあるというのだろうか。
「何故、今更こんな物に執着するんだ」
黒崎は山積みになった段ボールを眺めて、ゆっくりと沈黙した。
はっきり言っておかしな話だったのだ。
そんな都合のいい話はない。黒崎は少なくとも、その一点に関して間違っていなかった。
だからこそ慎重に箱庭で実験を行ったのだ。
「お前、そろそろ記憶が曖昧になってきてるんじゃないのか?」
だがそれは、結局あだになった。
言葉を紡いでいるのは、目の前にいるのは見覚えのある黒い服を着た男。
年は若い。
かなり若い。確か、Hephaestusに初めて所属した時にお抱えの傭兵だという事を紹介して貰った。
名前は、
「ヒイラギミノル」
ミノルは口元を歪めて笑みを浮かべる。
苦々しい、何故か苦しそうなその貌が笑い顔なんだと気づくまで少々時間を要した。
「ふん……そのうち、今の考えすら浮かばないようになる」
目の前の男は、何か言っている。
そして、不意に目を瞬かせて、頷いた。
「丁度良い。お前が最初の被験者だ」
目の前に男がいる。男は黒い服を着ている。
――俺は、……誰だ
ずしん
そんな音のようなものが身体を揺さぶった。
痛みはない。
視界が、燃え上がる写真のように白く発光していく。
小刻みに震えながら。
全身が、視界が、全てが細かな振動とともに白い光の中へともまれてしまう。
両手の感覚が、足が、皮膚が、視覚とともに聴覚が失せていく。
それに不安はない。
不安というものを思い出す事もできない。
悲しいという感情も、楽しいという感情も今は感じる事ができない。
ただ白い。
彼の意識は永遠に白い純白の光の中に、ゆっくりと飲み込まれていった。
――愚かな
ミノルは思った。
目の前であっという間に人間の境を越えた後の『ヒトガタ』を見つめながら。
実際にトリガーを発動した場合には、この状態で既にリーナの支配下に落ちる。
今はただ、構成要素を完全に結合を分断し、破壊しただけ。
目の前に佇むのは、植物人間と変わらない『ただそこに在るもの』。
彼はそれを望んでいた訳ではない。
「なあ、全燔祭って聞いた事あるか?神に、供物として獣を火にくべる祭りだ。…お前は、神にくべられたんだよ、今」
呟いて、ミノルは彼から背を向けた。
――初めから一つの事だけを追っていれば良かったんだ。素直に、な
黒崎藤司という名前のヒトガタは、決して非難されるような人間を擁していなかった。
あくまで規範的な――それは倫理的にでも世に言う善悪という基準でもないのだが――人間だった。
よく言えば普通、悪く言えば平凡な人間だ。だから、一つの事だけに絞る事が出来たのであれば彼は越えられたかも知れない。
だが彼は人を捨てる事も、何か一つを突き詰める事も出来なかった半端者。
だから――だから、その中身はあっと言う間に昇華した。
人間もヒトガタになってしまえばもう、手の打ちようはない。
――いや
しかし、人間という存在は人間であるから、人間でいられる。まるで矛盾のように。
人間じゃなければ――逆に、その境目を知る事ができるのは人間なのかも知れない。
ミノルは目の前で佇む存在を睨み付けると、ふん、と鼻で笑い、それから背を向けて去っていった。
Trigger、とは通常引き金、それを合図として動く機構のことをさして言う。
作ってくれ、と彼女は言った。
彼女は既に『トリガー』を持っている。
その方法を知らないわけではない。だから彼に言ったのは『トリガー』を有効にすることだ。
彼女の望みならそれを達成しなければならない。
――俺が手に入れなければならないのは
様々な回線を使った通信の手段と、比較的単純に発動用の電波を放射できるか否か、だ。
通信網で今、ほとんど現段階日本全国カバーする物と言えば、携帯電話の基地局だ。
しかしそれでは出力が小さすぎる。
だから出力を補正するための物を利用する。
正直うまくいくとは思っていなかった。
投薬したナノマシンの一部、特に脳に寄生していない部分をアンテナ・アンプに使うのだ。
最初にナノマシンを配置させる為のコマンド、続いて圧縮した信号発振のコマンドを発振する。
受信したナノマシンは直ちに『トリガー』を発振し、自らを含めてその身体を完全に『ヒトガタ』へと変える。
意志もなければ中身もないただのヒトガタに。
同時に、ヒトガタは『リーナ』の入れ物になる。
もっともそれを実行するためには、いくつものネットワークを経由してプログラムを入手しなければならない。
――操作用コマンドはリーナから借りたこれで充分使用に足る
彼はプログラム通りに電波を発信できる、携帯電話のようなものを眺める。
制御式を借りて、彼がプログラムした通りにトリガを発信するものだ。
――あとは基地局へのハッキングと、支配と、そして各種デバイス用のドライバ、か
作れる物は作る。転がっている物を拾うなら、拾えばいい。
――流れはできた。……リーナ
即座に返事が返ってくる。
例え、何千キロ離れたこの地でも彼女の声で、脳裏に響く。
『御苦労、プログラムとハッキングはこちらで行う』
いつかはその鈴の鳴る奇妙なノイズ混じりのはっきりし過ぎる声を。
以前はその声に従うしかなかったのだけれども。
今では、まるで心待ちにするかのように。
「さて」
越えることはできるのだろうか。
従えるのだろうか。
それとも、いつまでも操り人形のように――
彼は思考を一時的に中断した。
これからは彼の時間だ。
再び薬をばらまいて、リーナのためのヒトガタを用意するのだ。
そのためには。
液状にしたソレを飛行機からばらまいても良い。
直接気化するような昇華する物質に結合させてもいい。
何にしても、少量でかまわない。
少しでも多く人間にこのLycanthropeを寄生させてやらなければならないのだから。
――でも
自分のような存在は現れるのだろうか。
Lycanthropeに寄生されながら、彼女の下に住まうような存在が。
今、彼が作ったトリガを彼自身が浴びても意味はない。
彼に投薬されている物ではVerが古く、配置のコマンドもアンプのプログラムも受け付けないからだ。
何より――彼の場合は前頭葉を食い尽くすタイプではないと、リーナが言っていたから。
『お前にトリガを与えて木偶になんかしない。…面白くないだろう』
もし彼女が彼にトリガを与えれば、ただのミンチになって内側から食い破られて死ぬ。
あの箱庭で実験していた失敗作のように。
――でもそれでもかまわないかも知れない
彼女が必要としないなら。
彼女に必要とされないのであれば。
ミノルは口元を歪める。
そして、わざとらしく大きく肩をすくめ、次の準備のために歩き始めた。
例えその先が、鼻先すら見えない濁った闇の中だとしても。
「もう、止める奴もいないんだな」
彼の貌は、自覚していないかも知れないが、何故か苦笑いが浮かんでいた。
◇次回予告
大事な物は、なくなってみてからでなければ判らない。
取り返しがつかなくならなければ、人間は理解しない。
「これが『好きだ』という、感情…なのか」
後悔する二人は、それでも――
Holocaust Intermission:ミノル 3 第3話
お前は、ただ仲間を捜せばいい
自由という名の、不自由――穹が見えない
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