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贄――sacrifice――



第0話 姉弟


 冷たい冷たいくらいアスファルト。
 凍てつくような空気が嘗めるように、その上を滑っていく。
 むき出しになった貌の上で、苛むようにはためく毛皮、鼻を突く異臭。
 恐らく、それと知らなくても人は足を止めるだろう。
 独特の鉄分を含んだ臭気。
 澱んだ空気を払おうとするかのように、地面を滑る空気は彼の足にまとわりつく。
「寒い」
 率直な意見を述べると、それは闇が急激に凝り固まったかのように存在感をあらわにする。
 穹。
 星が輝く穹。暗い闇の中で光を抱え込んだ穹。
 この世界というものは――どこまで行っても思い通りになるようには出来ていなくて。
 思い通りに。
 ふと思って彼が辺りを見回すと、そこはいつも見るような風景だった。
 だから、くすりと笑って、両手をズボンのポケットに突っ込んで、その風景に背を向ける。
 別に、見慣れた風景。
 そこに残ったモノに気をかける必要のないもの。
 もう二度と思いを紡がぬ糸車。割れた酒瓶。
 そして、誰も望まぬ、見捨てられようとしたモノ。
「ハッ」
 白い吐息が、一瞬で冷たい外気に混ざり溶けていく。
 多分まだ湯気が立っているだろう。
 多分まだ冷えようとしているんだろう。
 なま暖かく、ゆるりとふちを盛り上げた液体は。
 思い。想い。
 人が人であると認識できるうちは、多分まだこの――想いを紡ぐことができるのだろう。
 想いを紡ぐというのは、想いを知り想いを応えるということ。
――人でなし
 それが出来なければ呼ばれる、不名誉な称号。
 ざくざくと足音を立てながら、彼はマフラーに自分の顔を埋めながら鼻を鳴らす。
 人の行動は想いを載せている――彼女はそう言った。
 総てそうだ。人は、だから、その行動が目的を果たさなければ悲しさを憶えるものなのだと。

  だから安心して良いわよ。悲しさが理解できればまだ人間だもの

 ふと彼女の顔を思い出しておかしくなって笑う。
 いつものこと。
 普段からやっていること。
 空気のように呼吸して、水のように飲み干すもの。
「なんだろうな」
 これは。この空虚さは。慣れたというのに――それとも、これは。
 妙に掴みがたいなにかは。
 触ることも出来なければ――否、何かがあって然るべきだと『感じている』場所が、何もないと気付くからこそ。
 掴めないのだから。
 帰ろう。
 今日は色々と妙な事が多すぎたから。

 少年の名前は秋月節良(あきづきせつら)。
 かなり低い身長に、がっしりした体型はそれでも子供っぽさを隠せないほど、貌と頭のバランスが大きめだ。
 多分まだ成長するだろう――本人はそう思っている――が、実はそれでいて意外と頭は小さい。
 短く刈り込んだ髪の毛は威嚇するように逆立っていて、大きな目は鋭く縁を吊り上げている。
 そして尖った鼻は小さい。唇が薄く、頬は緩やかに膨らんでいる。
 有り体に言えば女顔なのである。
 子供の頃は相当可愛かっただろう面影を残しているが、今はへたに顔立ちが良いせいか、やぶにらみの印象が強い。
 肩もなで肩で幅が狭く、そのままセーラー服を着せればかなりよく似合うだろう。
 勿論彼の目の前でそんなことを言ったら、その場で八つ裂きにされるだろう。
 これは冗談ではない――彼は『枷』がなければ、空気を切り裂くようにして人をバラバラに刻んでしまう。
 得物は、剣鉈と呼ばれる九寸の鉄の刃。
 鉄製で重く、西洋のステンレス製と違い、引く事で切れるように刃付けした逸品。
 刃の丈夫さもあって、叩きつけるような使い方もできるが、むしろ日本刀のように扱うのが正しい。
 サイズやその切れ味は小刀と呼ぶべき代物かも知れない。
 普段から、体のどこかに必ず隠して持ち歩いている。
 そして手入れも欠かさない(鋼は錆びやすく、ステンレスよりその点において厄介である)。
 危ない子供ではない。――別に学校に通っているわけでもなければ、子供ですらない。
 彼の職業は俳優、そして彼の生業(なりわい)は――ヒトゴロシだ。


                                   贄――sacrifice――


「おかえり」
 彼の家は、最近ではどこにでもあるようなマンション。
 ハイツグランドヒル。郊外ではかなり大きなマンションで、駐車場は地下と地上、地上は立体になっていて、意外と敷地をとっている。
 彼はまだ運転免許は持っていないが、今笑顔で出迎えてくれた姉が小さな車を持っている。
 名前は秋月冬来(あきづきかずな)、弟と違い非常に背の高い妙齢の女性だ。
 性格が開けっぴろげなのかいい加減なのか、弟より体格がよく、肩幅もあるおかげでこちらは男装させると割合似合う。
 但し、腰や胸は隠しようがないぐらい女性らしさがある。
 すらりと格好が良いスリムな体で、女性らしい体型なのでモデルのようにも見えなくない。
 ロングと言うほどではないが、ただストレートに伸ばしただけの髪型で、長すぎる前髪に隠れそうな目は弟とは似ても似つかずたれ目。
 澄まし顔をしていてもとろんとした雰囲気を醸し出す貌だ。
 今は肘までしかない、体にぴったりしたシャツを着て、フライパン片手に料理しているところだった。
「カズ、飯なに?」
 律儀に靴を揃えて脱ぐと、彼はコートを脱いで玄関のハンガーに掛ける。
 そして、汚れてしまった獲物を懐から出すと、靴箱の脇からバケツを取り出す。
 むっとした、独特の鉄臭さが漂う。
 中には汚れた雑巾と油の入った瓶が収められている。
 油は二種類。透明でさらさらした灯油と、琥珀色の粘りけのある鉱物油。
 彼は剣鉈を鞘から取り出すと、丁寧に雑巾で表面を拭う。
「ハンバーグ作ってみたのよ。手作りよー」
 そう言えば彼女は忙しくフライパンを揺すっている。
 何をしているのかよく判らないが、フライパンの火加減が難しいのだろうか。
 油がはじけるじゅーじゅーという音と、合い挽き肉独特の焼ける臭いがする。
 彼は得物に灯油をかけると、ごしごしと表面を磨き始めた。
 今日は柄は殆ど汚れていない。刃も巧く抜けたから、磨くだけですみそうだ。
 布越しに刃の表面を探るように感じながら、彼は汚れのぐあいを測り、そう思う。
 そのまま丁寧に刃先に向けて表面を磨き上げると、蛍光灯の灯りを反射して鈍色に輝く。
 ステンレスではこうはいかない。金属光沢というのは、質そのものを表す。
 彼は剣鉈の無骨さと丈夫さだけではなく、この鉄が見せる独特の刃の輝きその物を気に入っていた。
 ボウイナイフのような西洋ナイフにはない癖と質がこの剣鉈にはある。
 通常は狩猟用らしく、刃物屋でも取り寄せないと手に入らないようなものだった。
 時折、ちょっと気の利いたナイフ専門店には並んでいることもあるが、彼自身探して手に入れたこの鉈の変わりになるようなものはなかった。
 直線的で飾り気のない刀身は、普通のナイフより分厚く、蛤刃と呼ばれる欠けにくい研ぎ出しが施されている。
 この為丈夫で最初から最後まで変わらない切れ味を保ちながら、欠ける事なく人間を解体する事ができる。
「今日は何人だった?」
 じゃっと油がはぜる音を混ぜながら、冬来が背中越しに聞いてくる。
「……あの、ね。人数は確認しとけって言ってるだろ?」
 疲れたように応えて振り向くと、嬉しそうに皿に盛りつけているところだった。
 呆れてため息をつき、刃の手入れに戻る。
 取りあえず洗い油を綺麗に拭き取ってしまう。
「二人だよ二人。もう、めんどくさいから跡形なくやらなかったけどな」
 もう一枚、雑巾ではなくスエードを取り出すと、鉱物油を一滴垂らし、これを刃に伸ばして薄く塗りつける。
 これでいい。
 脂だらけの肉を刻んだ後は、きっちり脂をふき取ってやらなければいけない。
 そして、鉄製の刃を水分から守るため、粘りけのある、膜を作る鉱物油を使ってやらなければいけないのだ。
 これはステンレスでもそう変わらない。ただステンレスよりも気を遣う必要があるだけだ。
 実用品の無骨さは、しかしステンレスよりも鉄を選ぶ事に意味がある。
 鋼には腐食するという欠点があるが、製造過程によりステンレスより丈夫に仕上がり、粘りのある刃は柔らかく、切れ味が落ちたとしても研ぎ出す事は決して難しくない。
 何より日本刀と変わらない製法で鍛えられているからこそ――ヒトをばらす事は難しいことではないのだ。
「はい、できたよ。早くおいで」
 節良は無言で得物を磨き上げて、鞘に戻した。
 そして、コートの内ポケットに入れると、振り返って姉の居る居間に向かう。
 この家の中だけは刃は不必要だ。
 秋月家は、この居間が殆どの生活空間になっている。
 六畳のこの部屋は、落ち着いたベージュの壁紙とフローリングで囲まれていて、姉の趣味のインテリアで固められている。
 薄い水色(もう殆ど灰色だ)の絨毯に、座布団(というよりクッションだが)、奥の方に大きな二人がけのソファがある。
 部屋の真ん中を占拠する、大きなガラスが天板になった足の短いテーブルに、大きめのお皿に載せられたハンバーグが二つ並べられている。
 生野菜のサラダと、付け合わせのジャガイモ。斜めに切ったトーストが数枚。
「トマトソースな訳ね」
 ハンバーグにはまだ少しトマトの塊が残った真っ赤なソースが載せられ、上にバジルだろう、緑色の破片が散っている。
 冷たい目でそれを見て感想を漏らす節良に、冬来は不思議そうに首をかしげる。
「おいしいでしょ?嫌いだった?」
 彼女はただ悪気もなく、ミネストローネとパスタの趣味を彼に問いながら応える。
 照明はこれまた彼女の趣味で、すこし光量が低いガス灯色の電球。
 机の上の、原色で極太の蝋燭(なかなか立派な趣味だ)。
 ちょっと見であればレストランの食事に見えなくもない。
 彼は机の左端、手前側におかれたクッションに腰掛ける。
 右隣でうきうき顔で待っている自分の姉に、げっそりした貌を見せる。
「……何か嬉しいことでもあったの?」
「別に?」
 ちぐはぐな会話をして、いつものように食事と向き合う。
 いただきます。
 両手を合わせて、食事を始めた。
 フォークとナイフでハンバーグに切り込みを入れる。
 肉汁が溢れてくる辺り、本当にミンチにしてから作ったようだ。かなり手が込んでいる。
 ナイフでトマトソースをすくい、肉に載せて口に運ぶ。
 口の中では、適度な歯ごたえとそれに合わせて口中に溢れる肉汁、そして香辛料らしい味に満たされる。
 意外とハンバーグは(冬来は手作りしたのは初めてらしいが)きっちり味付けされていて充分おいしい。
「どう?」
「いけるよ」
 良いながらトーストに手を伸ばす。脂が米かパンを食べろと五月蝿く騒ぎ立てるからだ。
 が、その手は空中で捉えられてしまう。
「ねね。それって失礼じゃない?ほら、もっとはっきり言ってよ」
 非難の視線。
「……」
 そう言いながら、ずいっと冬来は一歩彼に寄っていた。
 そもそもとなりに座っているのだから、ただ話すだけでもいいだろうに。
 まるでそれを口実にしたように、彼女はさらに体を寄せる。
 呼吸が触れる程、彼女が近く感じられる。
 無論――彼女はそれを知っていてやっているのだから、たちが悪い。
 答えなければ彼女は離れない。
 げっそりした顔で節良は答えるしかない――と、ジト目で彼女を下から見上げる。
「おいしかったよ。初めてなのに良くできてるんじゃないの?」
「あー、ひねくれ者ー。『おいしいよ姉ちゃん、最高っ、もう一流じゃない?』って言えないの?」
 と不満そうに言いながら手を離してその場にぺたんと腰を落とす。
 離れろよ、と節良は思う。
 はあ、とため息を付いてトーストを掴むと、呆れ顔で彼は姉の不満顔を見る。
「惜しいよ姉ちゃん、再考、もう一歩じゃない」
 無言で拳が飛んできた。
 先刻彼の右手を捕らえていた左手がそのままぐーになって彼の頭頂に沈んでいた。
 そして、涙目で自分の頭を押さえる彼を見下ろして、ため息をつきながら自分の席に戻る。
「あんたに期待したあたしが馬鹿だったわ」
 ずきずきと疼く頭を抱えて、しばらく痛みに耐える節良。
「ちぇー。カズの癖に……」
「姉と呼びなさい姉と。それともなに?ねーちゃんって呼んでくれる?」
 少し低音を利かしたような不機嫌な声でたしなめる冬来。後半は嬉しそうにからかう口調で、声が裏返っていたのだが。
 節良は素っ気なく目を閉じて答える。
「姉(ね)い。それはやだ」
 痛みに耐えて食事に戻ると、姉は先刻より少し席を離していた。
 彼女としては多分、罰のつもりか何かだろう。
 まだこれで普通になった方だ。以前はぴったりと側から離れようとしないほどだったのだから。
「食べ終わったら先風呂入っちゃって。着替えはもう用意してあるから」
「はーい」
 おざなりに応えて、食事を再開する。
 ジャガイモは良く煮えていてほこほこだ。
 ナイフを使わなくても、フォークで簡単に切り分けられる。
 これもハンバーグの肉汁とトマトソースを絡めてほおばる。
 しっかり肉の味が染みこんだジャガイモは、濃い肉の味を抑える箸休めになりながらも非常においしい。
 なんだかんだ言っても姉の料理はかなり巧い方かも知れない。
 彼女はかなり天然入ってる癖に、性格も悪いものだからたちが悪いのだが。
「姉い」
 しばらく沈黙してから、ふと呼びかけると無言で見返してきた。
 じっと彼を睨むような貌。
 節良は彼女が拗ねているようにも見えて、少しだけおかしかった。
「旨いよ」
 彼女は現金で、何より反応が早く――そのくせ、妙なところで鈍感だから。
 まるで切り替わったように、にぱっと嬉しそうに笑う。
 その笑顔は、どこか無邪気で、予想できていたのに何故か悔しい。
「明日はセツの番だからねー。あたしシチューがいいなー」
「はいはい。だったらさっさと仕込み始めるから、終わったら食器洗いまできっちりやってよ」
 投げやりな答えにも、冬来はにこにこして応えて、節良は食事を終えて風呂場に向かった。
 ここの風呂はユニットバスなのだが、居間から直接繋がっているので、ついたてで一応区切っている。
 中では脱衣所が簡易的に備えてあり、入口に籠が並べている。
 洗い物用籠が隠れるほどの高さの机の上に、畳んだ彼の着替えがある。冬来が用意していたんだろう。
 タオルもおかれている。
 彼はそれを眺めると、上着を脱いで籠に放り込んだ。
 ばり、と嫌な音がして、足下に黒い粉が落ちた。
「……あとで掃除機かけなきゃな」
 彼は呟くと、下着の裾に手をかけて、一気に胸元まで引き裂いた。
 ばさ、と粉が舞い、彼はそれを背中側に捨てる。
 充分に血を吸ったシャツがごわごわに乾燥してしまい、もう使い物にならなくなっていた。
 彼の膂力で引き裂けるのだから、どれだけ脆くなっていたか判るだろう。
 体液、血液のようなものが付着した布きれは、海水に浸した絹と同じで繊維質を痛める。
 すぐに洗い流せばいいが、ここまでごわごわに固まってしまえば捨てるしかない。
 色は目立たない黒だったが、もう着る事は出来ない。
 何より、洗っても血の痕はおちやしない。それはあまり気持ちのいいものではない。
 彼はそれを丸めて籠の脇に置くと、大きくのびをしてズボンを脱いだ。
 小柄で子供っぽく見える彼の体だが、こうして裸になればその印象は間違いだと言うことに気付く。
 ごつごつとした筋肉質の背中、張りのある両肩。
 骨格は小さいがかなり太いのだろう、筋肉も太くこそないが目立ってこぶが出来ている。
 皮下脂肪が少ないせいもあるが、ボクサーや体操選手のような体型と言えば判るだろう。
 筋肉質に見えるが、皮下脂肪が極端に少なく、全身の筋肉がよく判るだけ――にしても、その体つきは普通に鍛えたところで手に入るものではない。
 素質もあったのだろうが、日々の欠かさないトレーニングがこれを維持し続けているのだ。
 熱めのお湯に入浴剤が入れられている。
 彼はそれを洗面器で一杯だけすくうと、まず両手を洗った。
 そして躊躇いもせず手元の――風呂洗い用のクレンザーをかけて、ナイロン製のたわしで両手をごしごしとこする。
 爪の隙間や、指の間。
 丁寧にブラッシングするように、表面の薄い膜を削り取るようにしてごりごりと洗う。
 そして洗面器に両手を突っ込んで――流すともう一杯お湯を汲んだ。
 これから体を洗い始めるのだ。

 湯船に体を沈めて大きく息を吐く。
 ふわっと湯気が躍り、彼の視界がドアまで一気にクリアになる。
 が、すぐに湯気は水面から立ち上り、彼の視界を奪う。
 まるで彼だけをその空間に閉じこめてしまう白い闇のように。
 この瞬間だけ、この時だけは何も考えずに済む。
 眠っている間、人間は身体を休めるために脳の働きも休息状態へとはいる。
 しかし風呂の中では全身を休めながら、脳の働きを維持する事が可能だ。
 極めて睡眠に近い状態で脳に意識があるというのは面白い事かも知れない。
 但し、言うまでもないが意識があるだけ、脳が休めないという点において完全ではない。
 それに余り長い間入っていると、熱で体がおかしくなる。
 彼は大きく息を吐いて首をぐるぐると回して自分で首をもんだ。
「お湯加減どう?」
 ガラス越しに声が聞こえた。
 タイルではなく、プラスチック整形の壁のため、さほど声が割れたり響いたりしないので、良く聞こえる。
 扉越しに聞こえた声はいつもの明るい姉の声だった。
「……ちょっと、熱いかな……」
「んんー、そう?」

  がちゃん

「どぅわああっ」
 何の気負いもなくいきなり扉が開く。
 冷たい空気が湯気を巻き込むが、その向こうから見える素肌に慌てて背中を向ける節良。
「へへー。なーに恥ずかしがってるのよ」
 冬来が頭にタオルを巻いて入ってきた。その下には何も身につけず。
 そりゃ風呂だ、何も身につけないのは当たり前だと思いながらも、急に落ち着かなくなった憩いの場に出るに出られなくなる。
 その一番の原因は、鼻歌交じりにお湯を洗面器に貯めるところだった。
 想像してしかるべきだった。
――そう言えば熱めのお湯で、彼女の好みだと言うことを思い出せば。
「……カズお前」
「姉」
 ずびしぃ、と後頭部に人差し指が突きつけられたのが判った。
 絶対睨んでる。
 これは長い付き合いだから判る。振り返る必要もなく理解できる。
「……姉い。俺が風呂入ってる時に入ってくるなって何度言ったよ」
 お湯の熱だけじゃない、顔の赤さを確かめるように右手で顔を撫でると、じゃぶじゃぶと風呂の湯を顔にかける。
 背中でもお湯が流れる音が聞こえる。
「んー何度目かな?忘れちゃったな、姉ちゃん」
 確信犯だ。道徳的・宗教的・政治的な信念に基づき、自らの行為を正しいと信じて為される犯罪。
 つまり犯罪には違いないのだ。
 しかし姉弟でお風呂に入るだけなら犯罪じゃない気もしてきた。
 ということは確信犯とは言えないのではないか。
 姉のせいで一気にパニックに陥った節良は既に何を考えてるのか判らない状況だった。
「でも久々じゃない」
「久々もないっ!」
 思わず声を荒げ、振り向きかけるが止める。
「まったく……逆セクハラじゃないか」
「え?んーそれ違うんじゃない?」
 しかし男女逆なら間違いなく姉は犯罪者だ。やっぱり確信犯と言うべきだろうか。
 しれっと姉は、気軽な声で続ける。
「別に嫌がらせじゃないんだから」
「相手が嫌がらせだって思ったらセクハラになるっての!」
 ぴた。と急に背中が無音になる。
 思わず心配になった次の瞬間。
 頭の上からの重い感触と歪む世界、呼吸困難に――ようするにお湯を頭からかけられて、節良はじたばたと浴槽の中で藻掻く。
 と、お湯がとぎれると同時に首に腕が巻き付いてくる。
 右腕だ。後頭部に触れているのは左手だ。
 はっきり言えば羨ましくなる態勢ではない。
 首の後ろに触れているのは右肩で、首は完全に極まっている。
 本気で締め落とす時の組み方だ――しかも最悪な事に、胸と背中の間に浴槽という分厚い板がかまされている。
 死ぬ。
「なにー、姉ちゃんとお風呂に入れる弟なんか、世界中探してもお前ぐらいだぞっ」
 だが、完全に締まっていない。
 要するに彼女の掌の上で踊らされる直前なのだ。
 逆らえば締まる。そのまま落ちる。
 返事しないでいるとゆっくりと肌を圧する感触がする。
「わわ、そ、そうですそうですっ!」
 ふっと圧力が引くと、今度は左の耳に風が当たる。呼吸の音が聞こえる。
 相当鼻が近づいているのだろう。
「しあわせ?」
 言いながら締めてくる。
「しっ!幸せっっ!」
 ぱっと腕が離れた。
「ほらー、セクハラじゃない」
 その代わりパワーハラスメントである。略すとぱわはら。
「ちぇ」
 心臓がばっくんばっくんと鳴っているのを感じながら、節良は舌打ちをする。
 まさかここで気絶させられる訳にはいかない。
 下手すれば溺れ死ぬ、そうでなくてもかなり恥ずかしい事になるのは間違いない。
 お湯が流れる音がすると、今度こそ浴槽に手がかけられた。
 そして、背中ごしに姉が浴槽の向こう側へと足を入れる。
 とぽん、と体を沈めてからくるりと振り向く。
 両腕は腕を組むような感じで、自分の前に回していて、丁度三角座りの恰好で互い違いに向き合う格好になる。
 これなら互いに裸は見えないが、関係ない。ここはユニットバスである。
 大の大人が二人も入れる大きさじゃない。否応なしに触れるほど近づいてしまう。
「こんなちっちゃい頃は、毎日一緒にお風呂に入っていたのに」
 そう言って右手で水面を撫でる仕草をする。
「こら。一緒にするな」
 冬来は文句を言う節良をにっこり笑って見つめている。
 そしてまるで言い聞かせるように言う。
「一緒だよ。だって、セツはずっと弟じゃない」
 ことん、と小首を傾げ、自分の膝の上に頬を載せるように、浴槽の湯に顔を浸ける。
「幸せそうだな」
 何の悩みもない顔で、にっこり笑う彼女を見た節良の端的な感想。
 とぷ、とぷと彼女の顔を小さな波が叩いても、彼女の貌は変わらない。
「しあわせだよ」
 その時、本当に少しだけ恥ずかしそうにして、にっと貌を歪めた。

 つき合いきれないと言って背を向けて風呂場を出る。
 彼女が用意してくれた着替えはTシャツに綿の短パン。
 節良は、その寝間着を着こんで、首にバスタオルをかけた格好で居間を抜け、キッチンにある冷蔵庫をひらく。
 いつものように扉のポケットに並んだ牛乳パックをとり、一杯グラスにつぐ。
 彼はそれを持って居間のテーブルに牛乳とグラスを置き、ソファに腰を下ろした。
 勿論姉の為のグラスなど用意していない。
 この二人がけのソファはベッドにもなる。勿論姉のお気に入りだ。
 彼は牛乳をぐいっとあおって、がたんと音がした風呂場の方を向く。
 どうやら姉が上がってきたようだった。
 しばらくごそごそと着替える音が聞こえて、大きいロングTシャツ一枚という格好で冬来が出てくる。
 髪はくるっとアップに纏めている。
 そしてやっぱり何の躊躇いもなく彼の隣に座ると、牛乳パックをそのまま口を付けてあおる。
「あのな、姉い。何回コップ使えって言ったよ」
 節良はジト目で彼女を睨むがそんな事お構いなし、ちらっと彼に目を向けてパックから口を離す。
 ぱっと白い水滴が舞ったように見えたが気のせいだろうか。
 音もなく置かれたパックの中身はもう殆ど残っていないだろう。
「良いじゃない。どうせ私とセツしかいないんだから」
「おまえね」
「姉!」
 ずびし。
 今度は鼻先に右手の人差し指が突き刺さる。
「……姉い。いい加減弟離れしような」
 結構それは彼にとっては切実な訴えだったかも知れない。
 その言葉に、彼女はぱちぱちと瞬きするとぽかんとした貌で節良を見つめた。
 ほんの二呼吸ほどの時間が経って、冬来は小首をかしげる。
「……彼女でも出来た?」
「ばっ」
 ぼん。
「ばかやろう!」
 何が馬鹿なのか、とやっぱり不思議そうな貌で弟が真っ赤な顔をするのを見つめる冬来。
「あのなー姉い、姉の態度、絶対」
「だったらいいじゃないの。私は姉で、セツは弟。おかしい?」
 はっきり言えばかなりおかしいと節良は考えているし思っているし感じているんだが。
 目の前の姉はそんな風には感じられないらしい。
 いつまで経ってもどこまで行っても可愛い弟に変わりがない――この世に二人といない肉親。
「恋人と違ってこれはぜったいに変わらない、約束じゃない決まり事」
 姉の人差し指が、今度は優しく彼の鼻に触れる。
「……普通恋人も変わらないよ」
「残念ながらね、とっかえひっかえってヒトもいるんだよ」
 ぺちぺち。
 人差し指で子供の彼を叩く。
「セツ」
 かたん、と彼がグラスを置くのを見計らったように呼びかけ。
 そのままソファに押し倒した。
「おやすみ」
「こらっ!離せ馬鹿っ!」
 むに。
 何度も何度も繰り返してきたが、彼女の抱擁からは逃れたためしがない。
 ちなみに出来るはずがない。
 弟を溺愛しているこの姉が、弟を仕事の為に鍛え上げた張本人なのだから。
 結局姉に抱かれたまま次の日の朝を迎える事になる。


 スタジオAKは子役を養成するスタジオであり、また子役にしか見えない美形タレントを集めている。
 AKは『秋月』のAKitsukiからとったものだ。
 マネージャーは言うまでもなく冬来。彼女は昼間スタジオで演技指導をしている。
 実は柔術・柔道・空手の師範の資格を持っており、さらにスタントマンの養成もできる本人も万能なタレントだ。
「今日は舞ちゃんが急病だから」
「げ」
 じゃっと油が跳ねる音がして、フライパンが身軽にコンロの上で身を捩る。
 冬来は昨日とは違うTシャツとエプロンという格好でキッチンにいた。
 一昔前流行った長いTシャツながら、スカートのように腰回りが僅かに隠れるだけだ。
 無防備――いや、初めから警戒すらしていないのだが。
 朝起きてすぐにシャワーを浴びて、彼女は朝食の準備にかかっていた。
 節良の上にかかった毛布は、彼女が起きた時にかけたものだ。
 その毛布を蹴り飛ばして彼は体を起こした。
「ちょっと待てよ姉い!」
 節良は叫んだ。当然だろう、姉がおはようの後に続いた言葉は今更脳裏で反芻する必要もないくらい、何度か繰り返したものだったのだから。
「代役やらせるのいい加減に」
「だって舞ちゃんにそっくりなの知ってるでしょ」
 舞というのはスタジオAKの子役の一人で、吊り目で跳ねっ返りなキャラクターだ。
「ああいう元気な娘うちには沢山いるけどさ」
 フライパンを返して皿に盛る。
 キャベツとソーセージを炒めた物を卵でとじたものだった。
「背格好が一緒なのはセツだけじゃない?判ってる癖に」
「いい加減に女の代役は辞めてくれって言ってるの」
 ぶつぶつ文句を言いながら毛布をたたみ、ソファの裏側に押し込む。
 そして、皿を並べる卓の、昨日自分が座った場所へと座る。
 冬来は新しい牛乳パックを選んで開けると、グラスを二つ持って彼の隣に座る。
 牛乳とトースト、そしてソーセージとキャベツの卵とじが今日の朝食だ。
「でもセツが出ないって言うなら、お姉ちゃん……スタジオの経営に少し困るのよ」
 『お姉ちゃん』が出た。と節良は思った。
 すぐにジト目で彼女を睨む。取りあえず睨んでおく。
 自分のことをお姉ちゃんと呼ぶ時は大抵無理にでも『お願い』してくる時だからだ。
 ちなみに断れたためしがない。断っても無理矢理拉致されて変装させられ、にっちもさっちもいかなくなってやらざるを得なくなる。
 バレるだろう、普通はそう思う。しかしバレるどころか感謝され、結果的にやはり逃げられなくなってしまった。
 要するに、中身など作品には関係ない。そう言うことなのだろう。
 しかしそれ以上に、実は節良の女装は下手な美少女より可愛いものに仕上がるのも事実だ。
「経営に困れ。どうせあんまり関係ないだろ」
 だからといってそれを好きこのんでる訳ではない。
 ぷいと顔を背ける。
 同時に気配が変わる。急に無言になり、空気が凍てついたように動きがなくなる。
 心配になって目だけを向けると、冬来は案の定凍り付いていた。
 彼の側に座ろうとした格好のまま、愕然と彼を見下ろしている。
「……え……」
 ふらり。
「うわあっ」
 朝食をそのまま落としそうになって、節良は慌てて受け取ってそれをテーブルに置く。
 今のは自分でもナイスだと親指を立ててウインクしたくなるタイミングだった。
 だが、勿論彼自身それどころではない。
 姉は彼を見つめているが、本当にこちらを見えているかどうか。
「カズ!」
 思わず叫んで彼女の両腕を掴んで思いっきり揺さぶる。
 すると、ようやく目をぱちくりとさせて目を――今度こそ彼に向けて、もう一度ぱちくりとする。
「良いかよく聞け。でも今日はもう二度と言わないから耳をかっぽじって聞け!」
 ぱちくりとまたたいて応える。
 節良は彼女の目をじっと見つめて、見つめながらゆっくりと深呼吸する。
 相手が冬来だと言っても、姉だと言っても、なれた相手であったとしても当然変わらない。
「好きだ。大好きだ」
 だから言って、後悔と共にぼん、と顔を朱くする。
 そして、しゅぅ〜と音を立てながらゆっくりうつむいていく。
 冬来の方は逆に、ぱっとスイッチが入ったみたいに顔を明るくして、先刻までの人形のような雰囲気を一掃する。
 人騒がせな――また端から見ていればただの恥ずかしい馬鹿ップルなのだが、姉弟である。
 しかも男の方がかわいらしいという奇妙な特典までついてくる。
「じゃ、協力してくれるよね」
「それとこれとは話が別だ!」
 とはいえ。
 なんだかんだ言って、結局断れないのが彼の性分でもあった。
 身長の低さとその身なりは別に望んだ物ではない。
 彼自身、それを武器に使っているとはいえ――文字通りの武器ではなく、身を隠すための道具、の意味だが――好きかどうか問われれば首を横に振る。
 一応人並みに男の子である。
 特に姉の背が高く、がっしりした体格のせいで、弟としてはコンプレックスというか余計男らしい体格にはあこがれる要因となっているようだ。
 できれば姉よりも高い、最低限度170cmの身長と、がっしりした肩幅がほしい。
 そう思っている彼自身の体格も決して悪い物ではない。
 体操選手のようにがっしりと筋肉質な身体をしている上、無駄な肉のない細身の身体は、アスリートではなくまさに実戦のために鍛えられた『鋼』。
 薄く切り裂くためだけに研ぎ澄まされた薄い刃のようなもろさではなく、ただの一瞬、ほんのわずかな隙間を狙うように鍛え上げられた丈夫な日本刀のように。
 決して折れず、傷ついても何度でもたたき上げられた無駄のなさを備えている。
 しかし、知らない人間がレースマシンを見比べる事ができないのと同じように、彼のしまった細い身体は、見ようによってはひどく華奢に見える。
 しかも、日に焼けにくい体質のおかげで、肌が白い。
 化粧をして女装させると、その顔のおかげで中学生から高校生ぐらいの女の子に見えなくないのだ。
 だからこそ、彼は。
「特別給。倍増しに、一週間食事当番を引き受けよう」
「了解(ヤー)」
 所詮そういう物である。

 思わず引き受けてしまったが、表の仕事より裏の仕事の方が多くまたきついことが多い。
 そんな時は彼女の言葉どおりではないが、もちろん食事当番なんか文字通りやってる場合ではない。
 だから当たり前といえば当たり前なんだが。
――俺の女装は『仕事』とおなじか……
 そう思うとますます憂鬱になってくる。
 もちろん『仕事』の時に姿を隠すために女装することはある。
 だがそれは手段であって決して目的ではない。
「あー。あーあーあーあーあー。こほん」
 だからといってばれてしまっては元も子もない。
 かの日本武尊も女装して暗殺を成功したという――とは、冬来の言葉だが。
「少し声にかすれを入れて?」
「こう?」
「あー。そうそう、うまいうまい。うん、かわいいよ♪」
 と、姉の前で既に『舞』に変装させられている。
 ウレタン製のパッドをまず履き、その上からジーンズをはく。
 腰回りの脂肪の付き方や骨の形を消すための特別製である。
 スパッツはさすがに無理だが、パンツルックぐらいは難しくない。
 上半身は整形やごまかしというのは難しい――シリコン製の胸はあるが――。
 ここは無難に上着を重ねて誤魔化す。
 そして声。
「変声期はとっくに過ぎてるのに、良い声よね、相変わらず」
 冬来は嬉しそうに言うとおとなしくしている節良の頭をなでる。
 ちなみにこの髪はカツラだが――エクステと呼ばれる『付け毛』のように地毛と併せて使う物だ。
 先刻までひねくれた目つきの悪い少年だった節良が、いつのまにか跳ねっ返りなお転婆娘に変わっていた。
 声の出し方なんかは無意識に出せなければならないので、ここで練習しておくのが無難……という冬来のもっともらしい言い訳に付き合っている。
 どうせ本人、彼の女装が見たいだけなんだろうが。
「うるさい」
「〜♪」
 とんがってみるが、ここで地声を出せば逆に怒鳴られ拳が飛んでくる。
 精一杯ドスを効かせたつもりでも、芝居の声色ではかわいいだけだろう。
 案の定冬来は彼の声に喜ぶだけで逆効果だった。
「いー、行ってきまーす!」
 もう半分以上やけくそ気味に叫ぶと、彼はくるりと背を向けてマンションを飛び出していった。
 もちろん、自分の着替え一式を詰め込んだデイバッグも忘れない。
 後ろから冬来の嬉しそうな声が聞こえたが、とりあえずさっさと逃げるのが一番だった。
 マンションを抜けて表通りに出ると、彼はいったん足を止める。
 そして深呼吸をして一度気持ちを落ち着けて――切り替える。
 よく肩の力を抜く、という。
 それは身体が尤も馴染んで、落ち着いたリラックスした姿勢になる事を指している。
 簡単だよ、と彼は言う。肩の力を抜いた時に、自分が自分に命令したそのものになってしまうことが変装では大切だと。
 完全に力を抜いた状態で、『少女』になってしまえば彼は当分『舞』として自分を演じられる。
 先刻までのどこかよそ行きだった雰囲気が完全に消え、彼が望んだ――彼の求めた姿に、命じた役割へとその姿を転じてしまった。
 年齢を考えて見ればかなり無謀な変装ではある。
 しかし、人間は目に見える物すべてが正しい訳ではない。
 人間という生き物は、目に見える物を正しく見ている訳ではないのだから。
 詐欺の手法でもあるのだが――『そういうように見える』と認識させてしまう、誤認させることが実は変装の極意でもある。
 女形の舞では、たとえば手などは力一杯握りしめた手の方が拳そのものが小さく見えて、実は女性らしさを演じられると言われる。
 意識して演じるのではない。身体がそれをあたかも思い出すかのように演じる。
 先刻までの『節良』は忘れ、彼の中にいる『舞』を思い出せばいい。
 もう一度、ふう、とため息をつくようにしてそこに――舞がいた。
 節良は舞とは仲が良いとか悪いとかそれ以前に、実は面と向かって会ったことがない。
 逆に言えばだからこそ、姉の指定したとおりの外観と性格に何の疑いもなく従い、自分を飾る。
 実は主観ほど人の印象をねじ曲げるものはない。
 主観を全く含まずにそれらを演じられればこそ、初めて
――お、可愛い
 周囲の人間を騙す事のできる変装が完成する。
 かつかつと地面を蹴るようにたたく『彼女』の歩き方は、非常に芯のある印象を与え、つり目の外観ももって強気な印象を与える。
 しかし、小顔で身長も小さく、全体的に小さく見せる服装をしているせいか、どこかかわいらしく見えてしまう。
 ただ歩いているだけで周囲の視線をさらう。それは本来の彼の生き方から考えれば全く正反対でありながら、だからこそ彼は意識的にそれができるのだ。
 スタジオAKのタレント『穂摘舞』。
 彼女は今から写真撮影のためにとある雑誌社から指定されたスタジオに向かう。
 ポケットから姉が渡した小さなメモを出すと、ちらちらと確認しながら切符を買って、駅のホームに足を運ぶ。
――ん
 妙な視線を感じた。
 それが何故気になったのかは判らない。
 ぷしゅ、と圧搾された空気が音を立てて扉が開く。ちょうど電車はホームに滑り込んだところのようだった。
 彼女も小走りでその入り口に向かい、飛び乗るようにして電車に乗り込んだ。
 ちょうどその時サイレンのような発車のベルが鳴り響き、扉が閉まる。
 ぷしゅ、と再び圧縮する音がして――やはり、視線。
 さすがに舞はしかめっ面をした。
 視線そのものに悪意はない。だとすれば、他の大勢の視線と変わらないではないか。
 いや、他の大勢の視線は『彼女』を見る視線ではない。彼女という媒介を介し、自分の中を見るための視線だ。
 当然だろう――彼女を知るものがこの電車の中に、今この周囲に何人いるというのだろうか。
 精確に表現するなら0ではあり得ないだろう。何故ならタレントである穂摘舞は決してマイナーなアイドルではないからだ。
 しかし、アイドルという外に創りだした彼女というものは結局、彼女の外側に創られた一つのペルソナであり彼女自身ではない。
 それを見ても――結局視線は自分の内側へと帰るだけ。
 彼女というオブジェクトを鏡として、結果的に自分の中を見ているだけにすぎない。
 だから彼女を伺う視線など、あり得ない――だから不快。
 今感じたこの断続的な視線は違う。いや、結果的には知らない他人の視線なのだが、質が違うというべきだろうか。
 彼女『自身』に興味がある、と言うべき何かを探るような視線。
 ため息をつく。
――これだからいやなんだけどな
 節良は思う。
 つくづく男でよかったと。
 このぶしつけな視線は間違いないだろう――痴漢か。
 断続的で方向が変わると言うことは狙って人の壁を避けて移動していると見るべきだろうか。
 何にしても不快。
 考えられる対処方法はふたつ。というか、それ以外は考えない。
 ひとつはこのまま鉄道警察へ向かう振りをする。
 真っ当な人間であればその時点で犯罪を諦める。
 どんな人間であっても必ず罪の意識から、真っ当な生活を秤に掛けるからだ。
 しかし初めから罪の意識のない者、俗に言う『犯罪』を生業とする者達。犯罪者ではなく彼らのような存在は厄介だ。
――尤もそれらだって人間だから、まだましな方かもね
 人間というのは等しく何らかの力を与えられている。
 総ての人間はそれに気づくことにより、否、気づいて初めて自分というものに一つの軸を与えられる。
 方向性を与えられる。別の言葉で言えば自信がつく、と言える。
 それらの力は何に使われるか――通常、彼の欲望を満たす、簡単に言ってしまえば欲しいものを手に入れる為に使うのだ。
 生存本能にどうにか突き動かされながら。
 得られるものは食事、異性、もしかして物欲。しかし大抵の人間は、通常の社会生活を支える基盤を求めるだろう。
 そのために仕事をして、バックボーンと言えるものを創ろうとする。
 しかし。
 それら総てに価値を見いだせず、結果として彼の力を最大限に引き出す方法が犯罪にしかない場合。
 彼らは――犯罪を生業とするようになる。それに罪の意識など無い。彼らの本能だから――そうしろと囁かれなくても、彼らにとって当たり前だから。
 他に方法を見いだせなかった、社会的に見るなら哀れな、人間的に見るなら欠陥的な存在。
 それら人という社会の枠組みから僅かにずれた存在達は、もう二度と人間として見ることは敵わない。
 社会の枠組みから外れた存在。
 それらが犯罪結社を創り、マフィアやシンジケートやギャングと呼ばれる事になる。
 ふしぎなことに。
 そしてもう一つの方法。
――やってしまうか
 これには幾つか不安がある。それは、舞に問題が生じる可能性だ。
 もっともこの手の視線を飛ばしてくる奴が、舞を知っているとは思えない。まずない。
 ついでに言えば、彼は非常に不機嫌だ。
 理由は言うまでもない。
 だから。
 『舞』は躊躇うように閉じた扉に右手をあて、右肩から自分の体重を一気に扉にかけた。
 はぁ、とことさらに力無く息を吐いて、項垂れるように首の力を抜く。
 こうして立っていれば、大きめに見えるジャケットの御陰で、彼女の身体自体小さく見える。
 まるで背伸びをしている子供のように。
 身長155cmは伊達じゃない。こうして誤魔化している時の彼女の姿は、一回りほど小さい。
――はん
 『彼』は彼は素早く意識を巡らせて、行き先の周辺を思い浮かべる。
 スタジオの周辺地図。
 入り組んだビル。『彼』にとって仕事場の地図は完全に掌握下に入れておかなければならない。
 どこに何があり、今日は木曜日だから缶ゴミが積んであるとか、入荷日だからビールのケースがあるとか。
 しかし。
――?
 そのとたん、視線が急に和らいだ。と、言うよりも。
――消えた?あきらめた?
 もちろん貌には出さない。
 しかし完全に視線は気配を消し、今までじっと彼女を見つめていた意志すら霧散してしまった。
 既にたどる事もできなくなっている。
 どうするか――どうやっても、これだけ人が多い場所では、他の人間の気配に混ざってしまい探すのも困難だ。
 先程のようにじっと視線をとばしているのであればまだ探りようはあったのに。
 節良はほとんど無意識に舌打ちして、そのままの体勢でとりあえず予定通りスタジオに向かうことにした。

 撮影は簡単な物だった。
 指示通りに動いて、写真を撮るだけの作業だ。
「今日の舞ちゃん、結構良かったよ。次もこのぐらい元気にやってくれると助かるな」
「はい、ありがとうございます」
 と応えるのは『節良』。
――姉ちゃんに伝えなきゃ
 何を聞いて何をやったか、逐次報告しておかないと後で大変な事になる。
 そそくさとスタジオを退出して、自分の控え室に向かう。
 スタジオがどれだけ小さくても、控え室はきっちり広さを確保している。これは別にこのスタジオに限ったことではない。
 ある程度広さがないと準備できないからだ。
 実際彼に宛がわれた控え室も八畳の中に畳敷きとちゃぶ台、簡素な流しに鏡付きの化粧台がある。
 六畳の畳敷きに、靴を脱いだりできるフロアが土間のように広がっている。
 数人はここで準備できるのではないか――でも、とりあえず女性ということで一部屋まるまる宛がわれた。
「あ」
 だから、誰もいないはずの部屋。
 帰ってきた彼を出迎える人間は普通いるはずはないのだが、扉を開けた向こう側でそんな間抜けな声を上げた人間がいた。
 ちゃぶ台の向こう側に座る女性と、直角にずれて彼女の隣で肘をつく姉だ。
 と、言うことは向こう側にいるのはスタジオAKの関係者かなにかか。いや、そんなもの見ればすぐに判る。
 何故なら見覚えのある貌で、今あげた声も聞き覚えのある声だからだ。残念ながら初顔合わせになるのが――ある意味、不自然ということか。
「あの、すみませんっ」
 その少女はまず頭を下げた。
――ははぁ
 目をぱちくりさせて、どう対応すべきか少し逡巡した後、彼はそのまま控え室に入って扉を閉めた。
 同じ人間が二人いてはまずい。
 そのまま後ろ手で鍵をかけると、大きくため息をついて姉、冬来をにらむ。
「姉ぃ。何しに来たんだよ」
「あー、声色つかってない!」
 でも、地声が意外と高めなので決しておかしく見えない。かなり強気な女の子のようにも見える。
 ショートカットで亜麻色にすれば、今でも十分魅力的な女の子として通用するだろう。
 本人はいやがるだろうが。
 冬来が驚くような非常に困ったような顔を浮かべて節良を非難するのを、にらみつけて鼻息で圧倒する節良。
「五月蠅いな。『本人』の前でそんなことできるか。……それに、一体何のようで」
 イライラと応える彼を少しばかり冷ややかな目でにらむ冬来。
 小刻みに身体を震わせている舞。
 片方の眉を下げて、怪訝そうに首をかしげると姉に目を向け、彼女の視線と真っ向から対峙する。
 姉がわずかに貌を緩め、答える。
「ちょっとね。気になることがあったから」
 ついっと彼女が視線を向ける。
 と、はっと舞は冬来と顔を合わせる。にこっと笑みを浮かべる冬来に、ほんのわずか緊張をほぐして節良に顔を向ける。
 こうしてみれば、話に聞いていたよりも柔らかい顔立ちをしており、なかなかの美人顔だ。
 なるほど、可愛いとは雰囲気が違う。このままあと十年もすれば男を惑わす美女という奴に変わるかもしれない。
「気になること?」
 と、節良は目を向けてきた彼女に問う。
「あ、あの」
「ああ、話しにくいよな」
 と言って髪をむしるように変装を解き、デイバックから自分の服を取り出す。
 そしてちょいと視線を姉に向ける。
「舞ちゃん」
 小さく声を上げるのが判ったが、動く気配を無視してズボンを脱ぎ、変装道具をはずす。
 自分のズボンを叩いて伸ばし、裾に足を通すと無造作に上着を脱ぎ捨てる。
「いいぜ」
 そういって舞の前でパイプ椅子を広げ、フロアにおくと逆さまに座り、背もたれに両腕を乗せて彼女と向き合う。
「うわぁ」
 何故か顔を真っ赤にして、舞は口元に手を広げて当てる。
「……なんだよ」
「えっ、えっと、私、秋月さんの妹だって聞いてたから」
 ぱん、と音を立てて節良は額を叩いた。
 呻きながら自分の姉が、さっきどんな顔をしていたのかを思い出して歯がみする。
――女の振りしてればよかった
 ゆっくりと顔が紅潮するのが判る。だが、どうにか気を鎮めてそれを押さえ込んでから顔を再び向ける。
 ふっと視界に入った姉が笑っているのが見える。
――畜生
 とりあえず無視して、続ける。
「それで」
 できる限り落ち着いた、静かな声で問う。
 思わぬ横からの一撃で軽いショック状態にあった舞。
 自分の代替として変装した人間が芸をやってると聞いていたが、まさか男とは思っていなかった。
 そんなある意味女性としてのショックと、中身の男の子がひどく美形であることでさらなるショックを受けるというものだ。
 尤も中身がひどい醜悪な男だったら多分自殺していただろうが。
「え、と」
 ともかく、そんな色んなショックから立ち直れないまま、肝心なことを思い出して彼女は興奮を抑えた。
 いや――抑えたのではない。無理矢理、まるでタンクに穴を開けられたようにすぅっと一気に引いていった。
「……今回、私が仕事を病欠した訳が、あります。まさか代理が立てられてると思わなくて、それであわてて連絡したんです」
 節良はゆっくりと耳を傾けながら、彼女の様子をうかがっていた。
「そういえば、元気なのか」
 別段病気、風邪という雰囲気ではない。
 熱があるようでもない。女の子特有の、という訳でもなさそうだ。
「私が付き添いで来たのはそう言う訳」
 冬来がフォローするように言う。
 一人で来たのではないらしい。冬来も呼ばれた訳ではない。
 そこで、あの視線の正体に気づき、したり顔でうなずいてみせる。
 姉は二重の理由で着いてきたのだろう。
 舞と、節良を心配して。もちろんその心配の方向は全く逆の方向を向いているのは言うまでもなかったのだが。
「ふぅん。確かに、あんたみたいな女の子にはちょっと苦痛だったろうよ」
 えっと言う顔をして、舞はおろおろと視線をさまよわせ始める。
 節良はため息をついて小さく笑うと椅子から立ち上がって、土間のような畳の縁に腰掛ける。
 縁は木製の柱が埋め込んであるので、それなりに座りやすい。
「ストーカーだな」
 びくっと身体を一瞬震わせて、そしておずおずとうなずいた。
「セツ」
「会った訳じゃない。ちょっと見られただけだから、気づくのも遅れたけど」
 本当にそれだけ。
 目だけで合図する。
 姉のわずかに目を伏せる仕草を確認して、続けて舞に言う。
「俺は無事だし、キミも今は無事だ。良かったな」
 それだけ言うと、舞よりも肝心な話がある。
「――てことは、姉ぃはもしかしてそれだけの用事で俺んとこに顔を出す訳ない」
「でしょ」
 それだけで姉弟の会話は十二分に通じた。
 ふっとデイバッグのそばにおいた自分の上着に目を走らせてから、姉に目で合図する。
「じゃ、一応そう言うことなら、私は舞ちゃんを送らなきゃいけないから」
 と冬来は言って一回だけウィンクする。
「その方が自然だしな。何かあったら頼む」
 と右手の小指と親指を立てて二回振る。電話してくれ、の意味だ。
「うん、あんまり頼りにしないけどね」
「るせぇ。気をつけろよ」
 そう言って立ち上がる冬来に、節良は声をかけて自分の上着に手をかけた。
 だが、呼ばれたような気がして視線を戻すとそこに姉の顔があった。すぐそばに。
 驚いて身を引こうとすると、両手で肩をつかまれて彼女の真正面に固定されてしまう。
「気をつけてね」
 その時の貌は、言葉にしがたいものだった。
 どこか心ここにあらず、と言う感じの能面のような、表情のない貌。どこも作ってない、彼女本来の貌。
 普段からきゃいきゃいところころ変化するめまぐるしい貌をしている彼女の、素の、節良にしか見せない貌。
 彼だけが見ることのできる、彼女が彼女自身を支えきれなくなっている時に見せる貌――だが、今、何故。
「っ……」
 何かを言おうとした。でも、その貌が何故か彼を抑え付ける。
 ころっと笑みを浮かべて舞に声をかける姉を見ても、その妙な胸騒ぎが取り除けない。
 だから。
 だから節良は、彼女が舞を連れて控え室を出て行くのを黙って見送った事を後悔した。
 既に使い込まれた濃いインディゴのジーンズ、だぶだぶの袖をまくった白いTシャツ。この上から、袖無しの革製のジャケットを羽織る。
 ジャケットの下には、いつもの剣鉈が仕込まれている。
 彼の本当の仕事着だ――本当に、いつも持ち歩いているのだ。
「――行くか」
 それだけで準備は終わった。既に姉が餌をまいている。
 あとはそれを追うだけで、獲物を狩ることができる。
 いつもの狩りよりも確実な、精密な、そして効率の良い狩りができる。
 彼は懐の剣鉈を確認して、かつん、と床を蹴った。


 狩りというのは、高尚な趣味だと言われる。
 昔時間をもてあました貴族共が、そのルールなどを色々考案した。
 しかし、狩りというのは元々食料を得るための一つの方法であり、ある種命がけの行為の一つである。
 食われる物を追い、逆に食われる事だってある。
 この性質のため、肥沃な大地を持った人間は通常農耕民族として発展していく。
 狩りとは、はじめから命と命のやりとりでしかない。
 食うか食われるか。
 狩るか狩られるか。
 緑の一つもないアスファルトで敷き詰められた、摩天楼の建ち並ぶ街並みで。
 節良はただ一人の狩人として、獲物を追っていた。
 自らの気配を溶かし、獲物に気づかれないように進む。
 今回はおとりを使った狩りだ。
 狩りの方法はいくつかある。
 マタギと呼ばれた、雪山で銃を使った狩りを続ける狩人たちは最も命がけの手段と獲物を選んでいた。
 大自然という一つの脅威にさらされながら、小さな獲物のみならず、熊を屠り生活の糧を得る事が一人前であると認められる方法だった。
 中には熊と一騎打ちせざるを得ない状況下での狩りもあるであろう。
 自らの命をさらした狩りでは、生存本能と経験が物を言う。
 全身が死の危険を感じ、ぎりぎりまで研ぎ澄まされた感覚が肉体を支配する。
 その感覚さえあれば、狩人は熊の一撃ですら避ける事も可能なのだ。
 彼らはそして、食べる分しか狩る事はない。その目は飛ぶ鳥の雌雄の区別もできると言われる。
 しかしおとりを使う狩りでは、いわば狩人は気配を殺しただひたすらに待ちの一手となる。
 獲物が狙うのはおとりであり、自分ではない。だから、おとりの危機を感じる事も難しくなり、ともすればおとりがぎりぎりの危険の中で獲物を狩る必要性がでてくる。
 これは自ら修羅場に飛び込むような狩り方をする狩人にとっては非常に辛いものと言えるだろう。

 特に――今回。

 節良は姉の髪の毛が揺れるのを見ながら舌打ちする。
――なんでこんなにイライラしなけりゃいけないんだ
 彼の苛々の原因はおとりをやっている姉、ではなかった。
 気づいていなかったが、先刻見た姉の無表情なあの貌。
 彼が一番恐れている貌、それを姉がわざわざ見せた原因がわからないから、苛々し続けるしかなかったのだ。
 そんな不安定な精神状態では、おとりによる狩りは自分の感覚を刺激しないせいで難しいものとなる。
 特に人気の多い町中を歩いているような状況で、まるで姿をとけ込ませるようにすっと消える視線の主を追うなど――できない。
 しかし節良はそれに気づいていなかった。
 冬来自身、節良をそこまで追いつめているとは思っていなかった。
 時折気配を探れば、狩人としての特有の気配がゆらり、ゆらりと近づいてきているのが判る。
 節良の気配を読む事は難しくない。
 冬来自身もまた、同じ訓練を受けた身であるというだけではない。
 彼の事だったらどれだけ離れていても判る。
 そのぐらいの自信がある。
 わずかな会話で何もかも理解できる。近くにいるなら、呼吸をしたタイミングも、心臓の鼓動まで理解できる。
 ……と、彼女は考えていた。
 実際今も精確に節良の居場所を捉え、彼がどのように歩いているかも感じる事ができているが――彼女は、彼を追いつめたあの貌、それを理解できていなかった。
 他人をどれだけ理解したつもりでも、自分を理解できていない――それもある意味、致命的と言うべき状況かもしれなかった。
 あの貌の時、彼女は節良の事を理解できていなかった。
 今の彼の精神状態だって、把握しているつもりで大きなずれができていることに気づいていなかった。
「秋月さん」
 舞が冬来を見上げる。冬来の瞳は削りだしたガラスのようで、舞の姿を映しているのかどうかは彼女からは判らない。
 そんな冬来にも舞が怯えているのが判った。
「いる?」
「先刻からっ……」
 ちらっと視線を向けた先。
――ん
 冬来は気配を探って、ゆっくり絞り込む。
――……つけてきてるわね
 あからさまではないが、明らかにこちらに向かう人間が一人。
 他の人間と違う点は、その足取りだ。
 普通たまたま同じ方向に移動しているなら、こちらの動きに合わせて立ち止まったり、誤魔化すようにふらふらと歩いたりしない。
 しかも距離がぴったり同じ。
 尾行のやり方そのものを知らない素人のやり方だ。
 気配を殺す事すらしない。殺されても文句を言えない状況下で。
――でも
 今、冬来は心配で仕方なかった。

 奇妙な事に気がついた。
 姉の気配(節良も姉の位置を把握する事は簡単だからだ)とほぼ同じ位置関係を保つ人間がいるのだ。
――?
 疑問符が一度飛ぶ、が、すぐに考えを改めた。
――見つけた……っ?
 彼の視界に入った獲物を見て、彼は再び眉をひそめた。
 動きを見る限り、舞を追っている、姉の方向を向いているのはほぼ確かだ。
 しかもその動きは弩素人としか思えない。
 間違いない条件がそろっているのだが、一つだけおかしなところがある。
――女、だよな
 節良ではないが、女装の可能性はある。
 だが、臭いは隠せない。よほどなりきれる人間でなければ、外観を装うだけにしかならない。
 素人で節良程の女装ができるとは考えがたい。
 動き、肉付き、そして仕草、それらは男の物とは思えない。
 若い女、それも高校生ぐらいではないだろうか。
 この町中であればいきなり踏み込んで斬りかかるという真似もできない。
 それは向こう側も同じ事だし、何より素人丸出しだから。
「よぉ、お姉ちゃん」
 節良は一気に間合いを詰め、無造作に背後からそう声をかけた。
 びくっと一度身体を縮こまらせたが、そのままの勢いで振り向き、節良に全身を見せた。
「な、なんですか」
――やっぱりな
 振り向いたのは、どこかの制服であろう灰色の野暮ったいブレザーに紺と茶色、赤のチェック地のスカートという格好に、白い短いソックスと黒い飾り気のない革靴といった出で立ちの女の子だ。
 三つ編みに眼鏡、子供も良いところだ。
 節良はわざとらしく顔をしかめ、大きな音を立てて舌打ちすると続けた。
「おっと、悪いな、人違いだったぜ。じゃあな」
 と彼女の肩を強めに叩き、肩をすくめて彼女のそばを通過する。
 目。
 耳。
 指先。すべてが、怯えの色に染まっていた。
――ふん
 これで終わりだろう。この少女が振り向いた瞬間、姉は既に動いていた。

 その日はそれで終わり。
 舞を安心させることが出来たかどうかは判らない。
 あっという間に視界から姿を消した二人を、彼女は追うことが出来なかったようだ。
 何故なら。
「ただいまー♪」
 帰ってきた冬来の機嫌があまりにもあからさまに、良かったからだ。
 扉を開けた時の軽快な音。
 彼女の履いているお気に入りのスニーカーが立てるきゅっというゴムの音。
 恐らく勢いよく跳ねたのだろう、衣擦れの音。
 そして、元気な声。
「お帰り」
 それを節良は台所から声だけで迎える。
 彼の前には鍋があり、ことことと音を立てるのをおたまでかき混ぜている。
 先日から準備しているビーフシチューだ。
 ブーケガルニを使って、一応丁寧に煮込みを続けているものだ。
 熱湯をかけて皮をむいたトマトをすりつぶし、赤ワインとトマトピューレを混ぜたものを入れ、野菜くずやブーケガルニを取り除いた後、カラメルソースを加えてから具を戻して、煮込む。
 気をつかって新じゃがを皮ごと入れたりしている。
 芯まで熱が通って、じっくり味がしみこんでいる事が重要。
 ビーフシチューと言っても、秋月家ではマッシュルーム代わりに椎茸が入る。
 まるごとごっそり。
 節良がそれをゆっくりかき混ぜていると、ぱたぱたと足音がして台所に姉が顔を出す。
「ちょっと、夕食の買い物行ってきたのに」
「昨日シチューにするって言ったでしょ」
 振り返りもせずあきれた声で返して、おたまをくるり。
 そのたびに良い匂いのする蒸気が鍋から上がり、空気に溶ける。
 ふっと一呼吸分ほど沈黙して、何の気なしに顔だけ振り返ろうとして。
 むぎゅ。
 真後ろから羽交い締めにされる。
 背丈の差から、ちょうど姉の冬来が抱きしめると、節良の頭が彼女の顎の高さにあり、肩を上から抱きしめる事が出来る。
「姉ぃ、じゃま」
 邪魔と言いながらもおたまの動きは変わらない。
「カラメルソース入れたいんだけど」
「入れれば良いじゃない」
 そう言ってきゅっと腕に力を込めて、身体全体を押しつけるように彼を前に押し出す。
「姉ぃ」
 いやがるように少し強めに声を上げる。
 身動きという意味では、節良の動きは妨げられていない。
 肩の前に回された腕も、押しつけられる程度に力が込められているが拘束するほどではない。
 砂糖と水を入れてフライパンでソースを作るのも、具と肉を入れ直す事もできる。
 でも気分的には重要な問題がある。
 冬来の体温が、おそらくおなかと胸が、柔らかい部分が背中感じられる。
 体温というのはどこか安心させるものがあるが――それと気づかない場合には違和感と気恥ずかしさしか節良に思い起こさせない。
「セツ」
 しかし冬来はひるまなかった。
 彼の名前を呼んだ冬来の声。
 冬来の貌が、視線の焦点が合わない無表情へと変わっていることに、今の節良には気づかなかった。
「セツ、お姉ちゃんね、別にお母さんでもよかったんだけど」
 冬来は、生気のない瞳でにっこりと笑って、彼の頭に自分の顔を押しつけるような格好で小首をかしげる。
 彼の頭の匂いがする。嗅ぎなれた節良の匂いに、おかしくなってくすりと声を漏らす。
「セツの姉を選んでよかったかな、って思ってるからね」
 言ってからくふふっとこもった笑い声を上げる。
「お母さんだったらこうはできないもんね」
 節良が料理して、それを見守りながら抱きしめる。
 それは母親だったとしても別段『不可能』ではない。
 が、節良はそれ以上何も言わなかった。
 冬来がこうしている間は何を言っても聞かないし、何より感じる物があって、彼は彼女の好きにさせることにした。
 一瞬唇が震えて、下唇を上の歯でかみしめる。
――カズ
 くふふ、と笑いながらゆっくり身体を動かしている冬来。
 多分節良の匂いをかいでいるのだろう。
 時折首筋に彼女の吐息がかかる。
 その間にも、彼はソースを漉し鍋に投入、具と肉を入れ直すと、様子を見ながらおたまでかき混ぜ続ける。
 ことことと音を立てるシチュー。
 ぷぅんとひどく良い匂いを立て始めても、冬来はシチューより節良に夢中だ。
 脂を多く含んだバラ肉を使い、かなり本格的なビーフシチューになっているので、節良はそれも気に入らなかった。
「カズ、邪魔だって」
「邪魔?」
 きゅ、とさらに力を込める。
 さすがにおたまを回す手が動かしにくくなって、彼は鍋の火を止めてふたをする。
 もうどちらにせよほとんど完成だ。
「夕食の準備に入らないと駄目だろ」
 抗議する節良を無視して、さらに彼女は力を込める。
「そうだね」
 答えは正反対なのに。
「セツ、セツは――」
「好きだってば」
 何を聞いているのか判ったから、彼は質問に割り込むように答える。
「どうしたの。変だろ、カズ。今日は何があったんだよ」
「何もなかったのよ」
 嬉しそうな声で応えて、彼女は鼻の頭で節良の後頭部をつつく。
「何もなかったから、すごくうれしいの」
「あっただろ……ストーカー、女だったみたいだけど」
「そう?」
 もはや冬来にはストーカーが誰であろうと関係ないようだ。
 ほとんど首を抱きしめるような格好で、鼻をぐりぐり押しつけている。
「殺してないでしょ?」
 節良は眉をひそめた。
 使うつもりで提げていた剣鉈。
 革製のホルスターに納めたそれを脇に提げて。
 いざとなればもちろんためらう事などなかった。第一。
「……カズ、仕事をもってくるのはカズだろ」
 殺せというのは冬来だ。
 殺すべき相手を何の容赦もなく彼女が節良に告げる。
 それはもしかするとお金が絡んでいるのかもしれない。
 誰か、代わりに死にそうな人間の身代わりなのかもしれない。
 それともただの快楽のためなのかもしれない。
 少なくとも節良には知らされていない。
 ただ、冬来と一緒に過ごし、冬来と共に訓練した技を使う場所として、使うべき時期として、彼女が告げるだけ。
 人を殺す術を操る事を彼女が命じるだけ。
 だから、今の彼女の態度が異常に感じた。
 冬来の言葉に矛盾を感じた。
 節良の言葉に冬来は身じろぎを止めてただ彼の匂いだけを感じる。
 落ち着かせるように。
 気持ちだけ走り出さないように。
 教えるべきなのか、教えざるべきなのか。今はその時期なのか。
「そう……だよね」
 すっと身体を離して、冬来は節良から距離をとった。
 その間に節良は彼女を無視するように、シチュー皿とスプーンを棚から取り出して並べる。
 もうシチューは出来ているから、肉を皿に並べてからシチューを注ぐ。
 それをお盆に乗せると、隣のリビングにあるテーブルへと運ぶ。
「セツ」
 とん、とんと小気味良い音を立てる皿。
 節良のその様子を冬来はただ眺めている。
「――今日のは、仕事じゃないの」
 皿を置いてお盆だけを持った彼と目が合う。
 節良は足を止めた。
 姉は少しだけ困ったような顔で彼を見つめている。言葉を探しているのか、本当に困っているのか。
 やがて彼が足を動かすより早く言う。
「仕事じゃなかったら、殺すのは良くない。殺しても良い場合じゃない限り駄目」
 言っている言葉の意味が伝わるだろうか――と冬来は言葉を選んだつもりでも、心配していた。
 何を伝えるべきなのか、彼女自身が判っていないのかもしれない。
 本当は判っていても表現できないのかもしれない。
「それはどういう事?」
 まだ節良には伝えていない事がある。
 節良は、実際に殺す技を使うためだけの場所で戦いを続けている。
 考えなくても動けるような人材として。
 冬来自身そうであれば楽だったのかもしれない。そう思う事もいくらでもある。
 特に節良に仕事を与えなければならない場合。
 自分で行こうかと思うことすらある。実際には節良に行かせる必要があるから出来ないのは判っていても。
 本当は伝えなければいけないのかもしれない。
 規則で縛られている訳ではない。タブーという訳でもない。
 でも今更。
 言い訳のように聞こえる理由を言うべきだろうか。
「殺してもいいモノと殺してはいけないモノがこの世にはいるの」
「たとえば」
「……」
 一瞬冬来はためらうように黙ると、節良は彼女の視線を避けるようにして食器棚へ向かい、白い小さな皿を二つ取り出し、冷蔵庫からバターロールをいくつか取り出してトースターへと入れる。
 時間は1分。
 かりかりとタイマーが音を立てる。
「姉ぃ、いいから、夕食にしよう。今日は自信があるんだ。食事の感想が聞きたい」
 そう言って促すようにリビングのシチューを見る。
 ふらり、と冬来がそちらに向かうのが見えて、彼は続けて言う。
「パン、すぐ持って行くから待ってて」
 返事があったかどうか、確認せずに節良はパンの様子を見ながら牛乳を出す。
 いつものように並んだパックを一つつかむと、小さなグラスを二つ手にとってそのままリビングに持って行く。
 その時、ちん、とトースターが音を立てた。
「あ」
 同時に冬来がキッチンに向かう。
「ごめん」
「いいよ、セツは座ってて」
 とっと軽い音を立てて彼女はトースターに駆け寄ると、ぽんぽんと皿にパンを盛りつけて戻ってくる。
 そして、どちらからともなくテーブルに並んでつき、料理の前で両手を合わせた。

 ビーフシチューという料理は、作り方はだいたい同じだが日本ではパターンが二通りある。
 スープ状のものと、どろどろに煮込まれたものだ。
 どろどろの場合は肉がメインディッシュであり、ステーキのような感覚で肉に多めのソースをかけたような雰囲気になる。
 逆にスープ状の物はインスタントでルーが販売されており、ご家庭でもよく作られるものだろう。
 元々シチューとは煮込むという言葉であり、結果的にどちらもシチューなのだ。
 煮込む時間をより長く、火をより小さくしことこと長時間煮込む事、それが一番大事な事だった。
 同じ材料、同じ調理法を行っても、この煮込みの時間が長ければ長いほど、シチューのとろみがでる。
 たとえばある調理人は、赤ワインを最初に三分の一になるまでぐつぐつと煮詰め、アルコールを飛ばすだけではなく濃く甘くしてしまうのだという。
 節良の作った物はそこまで凝った物とは言えなかったが、しかし決して手を抜いた物ではない。
 スプーンで肉をつつくと形を崩す事はないが、口の中で肉がぼろぼろと崩れるぐらい煮込まれている。
「美味しい」
 冬来は思わず口にしていた。
 節良は少しだけほっとして、自分の分を口に運ぶ。
 冬来ではないが、確かに美味しいと思った。
 しばらく黙々と食事が続く。こんな静かな食事も珍しい。
 普段は冬来がにこにこ笑いながら色々話しかけてくるから、そんな些細な差ですら節良のかんに障る。
 静かに食事できないのか、と思っていたのに、いざ静かな食事をしていると苛々するのは何故なのか。
「美味しいよ」
 彼が黙り込んでいる事に気づいたのか、冬来が続けて言う。
 右手でパンをちぎり、シチューをすくって食べながら。
「そ、良かった」
 節良が素っ気なく返すと、むっと眉を寄せる。
「違うでしょ、セツ、そこはもう少し嬉しそうに応えるの。出来ればほおを染めて少し恥ずかしそうなのがいいかな?」
「ばかやろ」
 ほんの少しだけ調子が戻ったのをちらりと一瞥して、彼もパンに手を伸ばす。
 きつね色より焦げ目の強い皮は、ぱりっと音を立てて彼の手の中で崩れる。
 それを半分に引きちぎり、どろりとしたシチューのソースを拭き取るようにしてつけると、口に含む。
 肉の味とソースの薫りが強く、こうしてパンを食べるのは非常に美味しい。
 いくつでも行けそうな気がする。
「……なんだよ」
 半切れを口に放り込み、咀嚼するとミルクを飲み干す。
 その様子を冬来はじっと見つめていた。自分の分を食べる事もせずに。
「――仕事、したくない?」
 彼女はゆっくりと単語を刻んで紡いだ。
 節良は一瞬口をつぐんだが、考えるように視線をはずして少しだけうつむく。
――カズは一体何を聞きたいんだ
 彼が殺しをすることがいやなのか。
 それは否定される。彼女が『仕事』を選びもせずに持ってくる。
 第一、彼女にとって彼が殺しをしないことは――実行部隊からはずれることは、彼女自身が困る事になる。
「……したい、なんて言ってほしくないみたいだけど」
 案の定彼女は複雑な貌をしてみせる。
 だが、やがて自嘲するような苦笑を浮かべて、小首をかしげた。
「ヒトゴロシに何の感情も持たないよりはましかもね」
 節良は再び唇を噛んで黙り込んだ。
 好き――ではない。
 嫌いかと聞かれると、実はそこに何の感情も抱けない、ただたんたんと仕事としてこなしている自分に気づく。
 斬りかかる瞬間に考えているのは、効率の良いバラし方であり、そこには自分の剣鉈の痛み具合を心配する自分がいる。
 『殺す』ことは『処分する』事であり、彼女の言うように何かの感情を挟み込むような物ではなく、ただ、死んだ虫を捨てるように。
 いわば鉄道事故に巻き込まれた死体を運ぶように。
 ただ淡々と。いわば何の感情も抱くことなく済ませるだけ。
「変だよ」
 だから端的に指摘する。
 冬来は笑いながら背中を壁に預けて、ずるりと床に滑り込むように倒れる。
「へんだね」
 ずるずると壁から崩れるようにして、手近なクッションを引き寄せて抱きしめる。
「今更へんなのは、判るけどね。セツ。注意してほしい事、教えたよね。仕事中の」
 絶対してはならないこと。
 仕事中、人に見つかってはならない。
 このために仕事は素早く、絶命させる際には声を立てないよう。
 死体の処置は彼自身は行ってはならない。
 専門の『後処理部隊』がそれぞれに見合った方法で処理する。
 これはこの手合いには珍しい事ではない。簡単に言えば、死体そのものを完全に消してしまったとしても人間にはその周囲の『網』がたぐれるため、『存在を消す』事が難しいからだ。
 つまり情報操作・死体への適切な処置を行い、事故に見せかけたり実は全く別の事故に巻き込ませてしまったりするのだ。
 だから実行犯は『死亡推定時刻』から早く逃れる必要性があるということだ。
 そして最後に一つ。
「何があっても、目標以外毛一つの傷を付けてはならない」
 それが一番大事で、これを破ってはいけないと言うことを彼女は何度も彼に教えた。
「そう。仕事では目標を素早く殺してしまう事が必要なの。でも、それ以外には全く触れてもいけない」
 ごろん、と床に寝っ転がって、座ったまま彼女を見つめる弟を優しく見返す。
「何故だかは教えてなかったけどね」
「なぜって」
 無駄に殺してはならないから?違う。
 殺しという最小限度の必要悪を、目標にのみ限定しなければならないのは何故か。
 冬来は這うようにその体勢のまま節良に近づく。
 身体を折り曲げて、くるっと腰を中心に身体を回して、顔を彼のおなかのすぐ前まで持ってくる。
 顔だけを突き出すように、両肘で突っ張って。
「もう一つだけ質問」
 そう言うと、慌てて後ろに下がる節良に、両腕と両膝で身体を起こして覆い被さる。
 逃げられない彼をゆっくり抱きしめる。
「――セツ、あなた、自分を人間だと思ってる?」
「え」
 抱きしめられて、耳元で囁かれる彼女の言葉。
 耳朶を叩く彼女の声と、熱い吐息。
「今こうしてここに二人で住んでいる私たちは、本当に人間だと思う?」
 その質問は簡単だ。
 人間の親から生まれて人間として育てられて、ただ人を殺さなければならないと、その術を学んだだけの姉弟。
――いや。
 節良は否定してはいけない部分を否定しなければならなかった。
 節良と冬来は。
「人間だろ」
 ヒトとして育てられた訳ではない。人間であるように命じられた覚えもない。
 しかしもし、であるならばオオカミとして育てられた少女はオオカミなのだろうか?
 答えは否。
 ヒトとして育てられたオオカミは、果たして人間だろうか。
 これも、答えは否。
 たとえどれだけ苦労したとしても、ヒトはヒトでしかなく、オオカミはオオカミでしかない。
 それを超える事もそれを変える事もそれを拭う理由すらもこの世には存在できない。
 この後どれだけ科学技術が発展したとして、チューリングテストに合格する事の出来るプログラムでも、それは人間の思考とは違うと。
 一つだけ反論がある。
 チューリングテストに合格するほどうまく『化けた』プログラムは、本当に人間と同じ思考をしていないと言えるのだろうか。
 アラン=チューリングが提唱した『模倣ゲーム』をこなすデジタルコンピュータとは、本当に人間ではないと言うべきなのだろうか。
 それはヒトが作った、ヒトが育てた、ヒトではない物から生まれたヒトではないのだろうか。
 それすらも人間。
「そう、思えているうちは人間と思っていていいわ」
 冬来は大切な物を守るように、節良を抱きしめる。
「ヒトがヒトを護るためには、ヒトの枠組みの中では生きていられないけど、ヒトであることを忘れてはいけない」
 冬来はまるで歌でも歌って聞かせるように、まだ彼に伝えていない、伝えなければならない、彼が理解していない事を話す。
 言葉を紡ぐ。
「だから、『目標』以外の『ヒト』を殺してはいけないの。殺さなければならない『目標』は私が教えるから」
 そう言って彼を解放し、両肩をつかんで彼女の真正面に固定する。
 小さくて、生意気で、まっすぐで、彼女が願った弟の節良。
 彼のためなら何だって出来る気がする。
「ごめんね」
 そして彼女は続けて言った。
「これから『仕事』よ」


 一つ例え話をしよう。
 郭公はオオヨシキリなどの巣に、彼らの卵の代わりに自分の卵を産んで、雛を育てさせる。
 『托卵』と呼ばれる習性だが、オオヨシキリは自分より大きな郭公の雛をそれと気づかず育てる。
 オオヨシキリはこの場合『仮親』と呼ばれ、自分自身の卵を失っている事にも気づかないとされている。
 郭公が育てられている間、彼は親に雛と認められているのだろうか。
 少なくとも巣立つまでの間、郭公ではなくオオヨシキリの雛扱いなのだ。しかし、巣立ってしまえば彼らもただの郭公であって、オオヨシキリではない。
 巣の中にいる間だけ、オオヨシキリなのだ。
 いったん巣の外に押し出された卵も雛も、もうオオヨシキリでもなければ雛でもない――あくまでも、オオヨシキリにとっては。
 醜いアヒルの子は現実には存在しない。
 その枠からはずれない限り、たとえその本質が白鳥であったとしてもアヒルとして認識されなければならないのだ。

 今回の仕事は難しい物ではなかった。
 食事を終えた彼は早速黒いジーンズに、タートルネックのシャツ、ホルスターに納めた剣鉈を装着してジャケットを着込む。
 靴は、格闘戦に持ち込むならブーツが良いに決まっているが、残念なことに重さが軽い方が身軽に動けるため、ブーツは厳禁だ。
 ヒットアンドアウェイ、一撃離脱で一撃必殺。
 今回の彼は『おとり』だ。

  『バスで二つ。停留所から国道沿いに三つ目の信号を左、細い道を上って住宅地を抜けると見えてくる山に隣接した公園にいるはずよ』

 姉の指定通りに国道を歩き、信号を左に曲がると、車両進入禁止の標識の向こう、狭い道幅の歩道がすっと延びているのが判った。
 まっすぐではないし、またずっと登りだ。
 彼はちらりと後ろを眺めて、緩やかな坂を登り始める。
 彼の視線は、坂の向こう側に見えてくるだろう山を探して、前方を見据えていた。
 結構急な坂道の左右は古びた商店街になっていて、肉屋、さびれた看板に黄色と茶色のひさしがのびた、窓の茶色い洋食屋がある。
 赤いひさしに白文字でラーメンの看板もある。
 既に暮れた日差し、穹はゆっくりと灰色に染まっていく。
 そんな中、行き交うのは買い物かごを提げた日常。
 彼はまるでその川の流れに逆らうように、ゆっくりと歩を進める。
 路地を覗くと、意外にきれいに整理されていて出入り口にも水色のペールボックスが置いてある程度だ。
 ここは『クリーニング』しにくい。
 目立ちすぎるのだ。
 だから良い場所ではない――彼の判断基準で街を眺めながら、ゆるりと坂道を登り切る。
 すると、道幅こそ変わらなかったが、一気に視界が開けた。
 多分新しい住宅街なのだろう、規則正しく同じような家が建ち並び、まっすぐのびた道の向こう側に緑色の塊が見える。
 そしてその向こう、距離にして20kmぐらいだろうか、小高い山がある。
 今回の目標、そして彼の目にはそれが良質な狩り場に見えた。
 距離と見えるサイズを考えれば、公園は意外に広く大きいようだ。
――本当に待ち受けのおとりで大丈夫なのか
 公園のベンチで座っていれば寄ってくる、という。
 節良自身をおとりとして、目標をおびき出してその場で殺す。
 時刻はおおよそ日暮れ前後、人気が引いてから。
 今までの状況を整理すると、一番可能性の高い人気のない時間帯は七時の日暮れ直後の時刻。
 目標は人気が引いた直後、狙いを定めた相手に近づくという。

 『大丈夫よ』

 姉は言った。

 『セツは、きっと好みのはずだから』

――どういう意味だよそりゃ
 今回女装ではない。
 きりきりと頭が痛くなる気がした。
 つまり、姉の情報を総合するとこうなる。
 今回の目標は、仕事帰り前後の時間、公園で遊んでいる男の子を拐かす、もしくは誑かす少年趣味の男と言うことだろう。
 それだけなら十分犯罪性があるが、直接彼が手を下すような話にはならない。
 犯罪者は彼の目標になり得ない。

 彼が動くということは、それ以上の原因が必要になる。

「さて」
 彼はひとりごちるようにつぶやき、ポケットに両手をつっこんだ。
 ゆらり、と身体を揺らしながら、獲物が潜むであろう森へとゆっくり歩を進めていった。

 ちょうど同時間、冬来はいつものように外出していた。
 一人で住宅街はずれにある店に。
 高架になった国道と、その下に走る大きな道、そして国道沿いと言っても住宅地に面しているために不思議と店は少ない。
 見落としそうなそんな場所に店はあった。
 バー『麿宇戸(Malodor)』。
 小さな白い店舗に、黒い看板が掲げられている。
 ガス灯を模した蛍光灯が二つ、入り口にともされているなら開店している印だ。
 入り口のドアを引くと、からん、と低い音を立ててドアの上にぶら下げたカウベルが鳴る。
「いらっしゃい、冬来さん」
 店内は薄暗く、玄関に掲げた蛍光灯と同じオレンジ色の柔らかい照明と、ベージュから濃いブラウンが作る色合いが独特の雰囲気を作り上げている。
「昌信さん、とりあえずいつもの御願い」
「はい」
 カウンター向こう側にいる、柔和な顔立ちをした白いワイシャツの青年。
 いや、実際の年齢は判らない。この薄暗い照明と服装のせいで三十代にも見える。
 そのくせ、眼鏡と柔らかい髪質の素直なストレートヘアは子供っぽく感じさせるのだろう。
 彼は慣れた手つきシェイカーのふたを開けながら、カウンターの下にある冷蔵庫から一瓶酒を取り出す。
「お疲れのようですね」
「いぇ、いつも通り。いつものこと」
 冬来は言いながらカウンターのスツールに腰掛けるというより、倒れ込むように身体を預け、カウンターに両肘をつく。
 昌信は微笑みを絶やさず、眉をわずかに動かすと酒に伸ばした手を隣の酒瓶に移す。
 そしてそのまま計量カップに注ぎ、シェイカーに入れる。
 手早くストレーナでふたをして、小刻みに振る。
「いえ。顔を見れば判りますよ」
 数回手早く手首を返すと、彼は中身を小さなグラスに注いだ。
 細かい泡が立った酒に、彼は半分に切った小さなゆずを絞り込む。
「これなら少し気分が良くなりますよ」
 昌信が気を遣っていつもと同じじゃない酒を作ってくれるのも、やっぱりそれでもいつもの通り。
 いつも通りの、異常な時間。
 冬来は差し出された小さなグラスのカクテルに口を付ける。
「……昌信さん」
 かちん、と甲高いガラスがたてる音。
 どうやらその硬質な響きを聞く限り普通のガラスではない。おそらくクリスタル・ガラスと呼ばれる硬度の高いものだ。
 決して安物ではでない上品な響き。
「これアルコール入ってない」
 昌信はむすーっとむくれてからのグラスをにらむ冬来に、小さくくすりと笑って応える。
 その間にも包丁はまな板の上を踊り、ソーセージを輪切りにする。
 彼がこのバーのマスターであり、すべての料理は彼が自分で作ってその場で差し出すのだ。
「だから言ったじゃないですか。気分が良くなるって」
 天然果汁と濃縮還元のジュースに、簡単な隠し味。
 もちろん見た目ではこのオリジナル・カクテルが全くノンアルコールのカクテルなどと区別はつかない。
 多分、普通に飲んでも判らないだろう。
「さいあくー」
「おや?」
 今度は声に出して笑い、フライパンを返しながら冷蔵庫の中身をチェックする。
「おさけがのみたいの」
 昌信は苦笑を浮かべ、今度こそウィスキーのボトルに手を伸ばした。
 手早くソテーしたソーセージにスクランブルエッグ、ポテトフライとスライスチーズ。
 冬来が一番好きなのはスクランブルエッグだ。
 ここのスクランブルエッグはたっぷりクリームを泡立てて入れているので、柔らかくふわりとふくらんでいるのが特徴。
 そしてバターを使っていないので香りも独特だ。
「……少しは気分が晴れそうですか」
 からん、と氷が音を立てる。
 カウンターに座るのは彼女一人。
 麿宇戸はいつもこのぐらいの客いりだ。別段不自然でも何でもない。
 冬来はグラスをじーっと見つめると、もう一度グラスを振る。
 からん。
「いつも思うけどね、あたし、このままでいちゃ駄目な気がするのよ」
 カウンターに両肘をついて、右手のグラスをくるくる回しながらずるずると頭を下げていく。
 殆どカウンターに寝そべるような格好になって、グラスを睨み付ける。
「何が、駄目なんですか?」
 カウンター越しに彼女を眺めながら、小首をかしげる昌信。
 昌信は、少し手が空いたから、グラスを磨き始めている。
 手元には小さなグラス。酒ではない。彼は仕事中にはアルコールは一切摂取しない。
 ミネラルウォーターだ。
「あたしは姉を選んだのよ」
「そうですね」
 ぱたりとグラスを持った手も落とす。
 完全にカウンターに体を載せて、酔っぱらいの態勢である。
 そんな格好で顔だけ無理に上に向けて、昌信を睨み付ける。
「節良さんはどうなんですか?」
 冬来は大きくため息をついて、体を起こした。
 長い綺麗な艶のある髪の毛が、今ではほつれてどこか痛々しい。
 伏し目でカウンターの隅を見つめ、寂しそうに両腕を重ねる。
「……昔から、変わらないわよ。あなたも知ってるとおり」
 そう言って完全にグラスを空けて昌信に差し出す。
 昌信は無言で、琥珀色の液体が満ちたボトルを注ぐ。
 とくとくと音を立て、雫が僅かに散る。
「本当に?」
 昌信は短い疑問を唱えながら、ボトルを拭いて蓋を閉める。
 舌を湿してグラスを僅かに傾ける冬来は、眉を顰めてじろりと彼を睨む。
「何が」
 彼も彼女の言葉に刺が混じるのに気付いて、とぼけたように笑みを浮かべてみせる。
 勿論それが逆効果である事ぐらいは承知の上で。
 冬来は――酒のせいで感情自体を抑えられなくなっているのだろうか、彼の態度に釣られるようにさらに強く睨む。
 少し子供っぽい顔つきをした彼女の睨みなど、しかし昌信には可愛らしい拗ねた貌にしかうつっていない。
「判ってるわよ。……大きく成長してるわよ」
「そんな話じゃない。それも判ってるんでしょう」
 ふっと彼女の顔が寂しそうにゆるみ、目が踊り。
 一瞬崩れそうに儚い貌を見せて顔を上げた。
 すがる貌――普通の男が普通の女相手なら、誘われているようにも見えるかも知れない。
 しかし昌信は笑うだけ。
 変わらない笑みを湛えるだけで、それをさらりとかわす。
――いや、実は彼には笑み以外の感情を浮かべる手段を持ち得ないのかも知れないが。
「……でも、セツがいなくなったりしたらあたし駄目になる。ダメ。そんなの」
 我が儘を言い始めた。もう充分に酔っているのだろう。
 昌信は完全に非論理的に感情をぶつけ始めた冬来の様子に、少しだけ表情を変える。
 そしてボトルを取り出して、彼女のグラスに注ぐ。
「そんなに冬来さんを不安にさせるような仕事なんですか?」
 とくん、とボトルが音を立て、からんと氷が揺れた。
 冬来はグラスにゆっくり口を近づけて、嘗めるように飲む。
 そして、揺れる氷を凝視するように眺め、目を伏せる。
 何かに草臥れたような貌。しかし、迷いよりも冷めた何かがその瞳の奥に潜むように。
 時折黒く静かに澄みわたるかと思えば、すっと暗く濁り何も写さなくなる。
「昌信さん、私達の『仕事』に良否や可否はないと思うの」
 昌信は答えない。やはり黙々と、ただ笑みだけを湛えてグラスを磨く。
 きゅ、と余韻を残して拭き終わるとグラスをとん、と棚に戻す。
 そして下の引き出しに布を片付け、袋入りの小さなパックを出してカウンターにおく。
 良くお通しに出すおつまみだ。
「そうですね。可否も是非もない」
 否定されてはいけない。
 肯定されてもいけない。
 そして、成功しても失敗してもいけない。

 はじめから 無かったことにしなければならない。

 昌信はおつまみのビニール袋を開けずにつまみ、すっと自分の前に持ってくる。
「これは、誰もが知っている柿の種と呼ばれるおかきですが」
 そして始めて袋を開けて、彼女の前に差し出す。
 冬来は何を言おうとしているのか気になって、差し出された袋より昌信の目に視線を向けている。
 からん、と氷がグラスを叩く。
 それにも気付かずに彼女はグラスを掲げている。
「おつまみとしても有名で、大抵の人は酒のつまみにします。何故でしょうか」
「何?何かクイズ?それともあたしをからかってるの?」
「からかうなんて、まさか。――少し興味がわいたみたいですね」
 昌信はようやく口元をほころばせて、笑みを浮かべた。
 そして少ししゃがみこんで、冷蔵庫の中身を探りながら話を続ける。
「酒のおつまみというのは、色々種類が有ります。元々お酒を飲むという習慣自体、食事とかけ離れて考える事は出来ません」
 探していたモノが見つかった。
 彼はさっさとまな板にタッパウェアを並べ始める。
 そのうち一つを開き、まるい白い団子を出すと小さな木製の棒でこれを一気に伸ばす。
「ビールには揚げ物、赤ワインは肉料理、白ワインは魚料理と定番の組み合わせもありますが」
 他のタッパにはミンチや野菜を刻んだ幾つもの材料が入っている。
 それを慣れた手つきで手に取り、手早く混ぜて閉じていく。
 小さな餃子のできあがりだ。
「これらは全て、食事から酒を考えられたモノです。どのお酒を飲もうか。長きに渡り考えられた組み合わせです」
 出来上がった餃子を、タッパの一つ、小麦粉にまぶして皿に並べていく。
 フライパンを火にかけて、油を引く。
「しかしこの『柿の種』は、酒のつまみとして考案されたモノです。だから、大抵の日本向けの酒に合います」
 そう言うと少しだけ意地悪に口元を歪める。
 冬来は小さく口を尖らせる。
「……だからなに」
「ええ」
 だから。
「役割を演じるというのはそう言うことではないんですか」
 フライパンから湯気が上がるのを確認して、昌信は餃子を一気に放り込む。
 じゃっと油が立てる香ばしい音がして、手製の餃子が色づき始める。
 それを眺めるようにして、耐熱ガラス製の蓋を構える。
「求められて選ばれるのは勿論のこと、演じることで引き合う形が合って当然ではないかと私は思うのです」
 小さなカップに一杯の水。
 昌信はそれをフライパンに流し込んで蓋をする。
「冬来さん」
 もう一袋柿の種を彼女に差し出す。
 市販品故に、幾らかピーナッツが混じったものだ。
「如何ですか?」
 無言でグラスを置き、それを受け取るとぴっと袋を破り中身を掌にあける。
 冬来は先程手元に置かれた分も掌に移すと取りあえずひとつまみ口に入れる。
 かりっと甲高い音をたて、口の中で弾ける柿の種。
 同時にほのかな醤油の味と辛味が口の中に広がる。
「それでも、あたし達が認められる訳じゃない」
「そう言う話じゃないんですけどね」
 昌信は苦笑しながらフライパンの様子を窺う。
 まだ水が沸く音が聞こえる。
「判ってるけど」
 冬来はもぐもぐと柿の種をかじりながら続ける。
「昌信さん、あたしがおかしいのかな。それとも、この世界がおかしいのかな」
 昌信は顔色を変えない。
 決して笑みを崩さない。
 ただ、彼女があまりに深刻な言葉遣いで聞いてきたから、こう返すことにした。
 他に彼も言葉を知らないように。
「この世界ですよ、冬来さん。ヒトって言うのは頑丈にできてるのにそれに逆らうことなんか、出来はしないでしょう?」
 世界と答えたが、実際には社会というべきだっただろうか。
 昌信は思った。結局人間が作った社会という名前の世界が、彼女を苦しめているのではないかと。
 もしそうならば――やはり間違っているのは世界だ。
 彼女のような、彼女達のような存在を認めなければならない世界に存在してしまった事が最大の間違いなのだろうと。
 そしてそれを容認できるような社会を人間が作れなかったことが、間違いなのだと。
 ただ。
 目の前で酷く草臥れた貌をしている冬来に対して、それ以上の感情を抱くことはなかった。

「秋月節良さん?」
 あれから二時間。
 きっかり予定していた時刻を過ぎた時、突然声がかけられた。
 公園のベンチに腰掛けて、項垂れて時が過ぎるのを待っていて――有り得ないことだった。
 既に周囲は闇に落ち、視界の殆どを奪われてしまった山の麓の公園。
 もし冬来の言葉の通りであれば、まさにこの時刻、この場所。
 格好の狩り場――おとりである彼にとってまさに最高の舞台。
 恐らく『目標』にとっても彼は格好の獲物に見える、そんな最高の条件で。
 周囲に人の気配はなく、彼自身も身軽で荷物もないところに。
「え」
 彼が声に面を上げると、半身を闇に沈めた少女の姿。
 闇を切り取ったような街灯の下にすいっと歩を進める。
 姿を現したのは、舞をストーキングしていた少女だった。
 混乱した。
 彼女は何の迷いもなく彼の隣までくるとちょん、と彼のとなりに腰掛けた。
 身の丈は150cmあるだろうか。少なくとも彼よりも低い。
 あの時は気にしなかったが、こうして隣に座ると小柄な事がよく判る。
 肩幅も小さい。
「……どうして、俺の名を」
 混乱から抜けきれず彼はどうにかそれだけ聞いた。
 彼の隣で両脚をぶらぶらさせる少女は、困ったように数回首をかしげる。
「私の名前は春日野比奈(かすがのひな)」
 そして一方的に自己紹介を始める。
「ここからすぐ近くの高校に通ってたんだ。今は自主退学したけど」
 話ながら少女は足をぶらぶらとさせ続ける。
 時折、膝の横でベンチの縁についた手を開いたり閉じたりしながら。
 彼を真横から見つめる少女の目。
 酷く滑稽だったかもしれない。
 しかし節良にとってはそれはあまりにも異様で、訳が分からなかった。
 判るはずがない。――そもそも何故、あの時のストーカー少女が自分を知っていて、今こうして隣に座っているのか。
 そして今節良は、心の奥底から何度も何度もけたたましく鳴り響く警鐘を感じるのが精一杯で、それに従う事ができないでいた。
 何故、こんな小さな少女に怯えなければいけないのか。
――怯える?
 自分の抱いた感情に気づき、言葉にして始めて実感する。
 今まで、何度も、ヒトヲコロシテキタノニ。

 怖ろしいという感情を抱いたのはもしかするとコレガハジメテなのかも知れない。

 怯える。
 自分の心の動きが理解できず、彼女が話す言葉はまるで砂が水を吸い込んでいくように脳髄に刻まれていく。
「酷いのよね、先生ったら。私はただ好きなだけなのに、止めてくれって何度も何度も叫んでたわ」
 だけど、その言葉その物に何らかの力でもあるのか。
 何を言っているのか理解できない。
 彼女の言葉の意味が理解できない。
「何故そんな話を」
 少女は黙るとぱちくりと不思議そうに瞬く。
 そして小首をかしげてまるで、それが当たり前かのように言う。
「あなたは私を見つけられたから」
 眉を寄せて怪訝そうにする彼女。ぴたりと両脚の動きも止まり、すっと視線を外すとぴょんとベンチから飛び降りて振り向く。
 両手を後ろに隠して、前屈みに顔を彼に近づけて。
「違うの?」
 反論しようとして。
 彼の脳裏を過ぎった昼間の記憶と同時に、大事なことを思い出した。
 目の前の少女に怯える前に、もっと重要な事があったはずなのだ――それが何なのかを思い出す。
 この少女が『ストーカー』だったということ、彼女を排除するのが『仕事』だったこと、そして今何をしているのかということを。
「悪いがすぐ立ち去れ。邪魔だ」
 二人組、それもどう見ても子供の組み合わせだといえ、『目標』はもしかしたら躊躇するかも知れない。
 『目標』が食い物にするのは男の子だけの可能性もある。
 ともかくこの少女、比奈は邪魔だ。
 後で目撃者になられても困る。しかし、ここで始末する事も難しい。
 もし『目標』が今のこの状況をどこかで窺っていて――いや、ならばここで邪険に追い払うのもどうだろうか。
 急ぐ。急(せ)く。焦る。
 でも解決法が思いつかない。
「何故?折角二人きりになれたのに」
「何を訳の分からない事を。第一、こんなに暗くなってきたんだ、早く帰れよ」
 少女は彼の言葉が分からないのか、ゆっくり右に左に首をかしげる。
「あなたは私を見つけた。私はあなたを知りたい。――あなたは私のことをもっと知りたいと思ってくれないの?」
「どういう事だよ」
 くすり。
 少女の口元が歪み、微笑み――とはお世辞にも言い難い笑みに形作られる。
 どこか拗くれたような歪さを残した、むしろ嘲りに近い笑み。それは間違いなく上位者たるものが見下しているとしか思えない笑み。
「好きって事」
 凍てつく闇。
 街灯の中で、二つの姿が切り取られたように浮かび上がっている公園。
 闇をひた走る音と風切る影に、その寸前まで少女は気付かず。
 少女に気を取られていた節良も、手遅れになってから体が反応した。
 尤も節良には危険ではなかったのだが。
 闇が少女の真横で炸裂した。
 正確には闇が突如少女を押しのけるように膨れあがって、小さな悲鳴と共に真横に転がったのだ。
「ねっ、カズ姉ぇ!」
 長い髪を闇のように纏い、首から下はレザースーツという或る意味きわどい格好で。
 両手にレザーグローブをはめて、全身真っ黒という出で立ちだ。
――っ
 節良は息を呑んだ。
 姉のこんな格好を見たことがなかったからではない。
 一見漆黒のライダースーツを身に纏っているようだが違う。
 脇、腰、袖口に幾つもの得物を仕込んでいる。
 革製のツナギも、その内側には恐らく鉄芯の網が巻かれた鎧になっているはず。
 動き、音、そして彼女の身のこなしは節良が見れば間違いなく『今すぐ狩りを行う為の格好』であることは理解できた。
「言ったよね」
 彼に背を向けて、『少女』の方を向き。
 ざきっと甲高い金属音を立てて全身を振るわせる冬来。
「セツは、きっと好みのはずだって。言ったとおりになったでしょ」
 同時に両腕に花が咲いたように光が走る。
 仕込んだナイフが刃を開いた。
 両腕でそれをつかみ、逆手に握るとつかつかと少女に向かう。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
 比奈は壊れたレコードのように『痛い』を繰り返している。
 節良の位置からは確認できない。先程のタックルの際、冬来は懐の一本を脇腹を狙って突き立てていた。
 転がって、不自然に突き立ったナイフに痛がっているようだったが、顔に怯えも痛みに怯みも見せない。
 左の脇腹に右手を伸ばし、柄を無造作に掴むと一瞬顔を歪めるが、何の躊躇いもなく引き抜いた。
 勢いよく抜き取ったせいで、圧が抜けるような音を立てて血が吹く。
「痛い痛い、なんてことをするの」
 くらっと一瞬体を揺らして、それでも彼女は体を起こした。
 冬来との距離、およそ5m。
「あなたも」
 冬来は直立から体を落とし込み、猫科の動物が襲いかかるように体を丸めて突進する。
 重心を加速に使い、ダッシュで間合いを詰める。
 手負いの少女には目で見えていても反応できなかった。
 冬来の左肩をかわしきれずみぞおちで受け止める。
 どん、と少女の体が不自然に浮き上がり、くたりと力を失って冬来に体を預けて倒れる。
 冬来はそれで終わりとばかりに少女を肩で押し上げると、比奈は抵抗もせずずるりと地面に向かって崩れ落ちた。
 抵抗できるはずもなかった。
 彼女は今の一撃を受けて完全に絶命していた。
 冬来の両手に握られた大振りのナイフは、狙い過たずみぞおちからきっちり急所へと刃を伸ばしたのだ。
 両腕を振って、袖に仕込んだ鞘にナイフを戻すと彼女はくるりと振り返った。
 唖然とした顔の少年が、状況を把握していないのは説明されるまでもなかった。
「帰ろう?」
 冬来の声に複雑に顔を歪めながら渋々頷くと、彼はこう言った。
「……何で、俺の仕事にちょっかい出してきたんだよ」
 と。


 餃子を皿に盛ると、特製ラー油をかける。
 昌信はこのラー油には自信があった。彼の料理は決して下手ではないが、確かにラー油は特別製だった。
 普通よりこくがあり、薫り高い為ラー油抜きに彼の餃子は語れない、そのぐらいの代物なのだ。
 だからといって辛すぎる訳ではないから、タレではなく直接振りかけても食べられる。
 ほどよく蒸された皮は半透明に中身を浮かび上がらせ、香ばしく焦げた表面にうまく絡むラー油。
 確かに餃子は他の店で食べられるものではなかった。
「どうぞ」
 小振りの餃子は冬来も嫌いじゃなかった。
 いつも通りの自分の食事量に合わせた彼のつまみの出し方も、酒の用意の仕方も冬来は好きだった。
 でも気分は決して晴れなかった。
 何杯目だろう。酒の量ももう判らない。
 二杯酢に餃子を漬けながら、じとりと昌信を睨み付ける。
「……話、聞いてる?」
「ええ勿論聞いてますよ。お仕事の話でしょう」
 客一人、マスター一人。
 とても繁盛しているように見えないこの『麿宇戸』だが、寂れた風ではない。
 そう見せないのもマスターの腕、ではあるが、その異質さ故に逆に不自然に見える。
「失敗したと思っているのですか?冬来さん、いつもより元気がないのはそのせいだけじゃないですよね」
「失敗したのよ」
 そうじゃなかったら飲みになんかこないわよ。
 言外の言葉はこぼさなかった。
 言葉通りの失敗ではない。だが、仕事は終わらせたが弟は納得しなかったようだ。
 別に、目的が達成されればそれで良いはずだ――が、姉の行動を弟が納得できていない。
 何故か?
「本当に失敗ですか。でも確かに気をつけるべき点はいくつかあります。節良さん、今回の目標の細部を知っていた訳ではないでしょう」
 冬来は黙る。
 言わなかったのか、言いたくなかったのか、それともそもそも言わない方が良かったのか。
 冬来自身どうしてそう言う事をしたのか判らない。
 たまたま忘れていたとも言えるし、判るだろうと思っていた事もあった。
「……あの子、私が家で待ってなかった事を怒ってるんだ」
 でも、今回は心配だった。相手が悪いと思った。
 一度でも顔を見た相手、相手も顔を知ってる。今までにない特殊な状況だ。
 今までにそんなターゲットを彼に与えた覚えはない。少なくとも、気取らせる事すらなかった。
 勿論節良にそんな事関係ない。殺さなければならない相手は殺す。殺してはいけない相手を殺さない。
 そういう風に教育されてるはずだし、今まで間違いなくそうしてきた。
 そして何より、切り取るような彼の行動は決して失敗はなかった。
 だから姉として彼を突き放すようでも、手助けもしなかったし見に行くこともなかった。
「違いますよ」
「何が」
「節良さんはあなたを心配して怒っているんでしょう」
 え?と思いがけないことを言われたと感じた冬来は顔を上げた。
 ひどく間抜けな顔で。
 半開きになった口はふるえるように動き、閉じることも開くことも、まして意味のある言葉を紡ぐこともなかった。
「そのぐらいは察してあげてください。……黙っておくつもりでしたが、言った方が良さそうですね」
 まだ目を丸くしたまま、今度は何を言われるのかとひどく狼狽して目が踊る。
 昌信はにやっと笑みを浮かべると、両肩をすくめてみせる。
「んーん、実を言うとあまり気乗りしません。というのも、これを言ってしまうとどうにも……」
 昌信が迷うように冬来の様子をうかがうが、やがて彼女はふっと目を伏せて再びぺたんとカウンターに突っ伏す。
 ふう、とため息をつくと昌信は彼女の頭の上から声をかけた。
「この店、節良さんよく来るんですよ」
 がばっとまるでバネ仕掛けの人形のように起きあがり、勢いをつけてそのまま立ち上がる。
 危うく顎をぶつけそうになり、一歩退く昌信。
「何!何、まだあの子未成年よ!まさか昌信さん」
「判ってます判ってます。そう言う意味じゃないですから安心してください」
 そのままつかみかかるように、カウンター越しに昌信に詰め寄る冬来を、両手でなだめるように押さえると軽く頭を下げる。
「脅かしすぎました。すみません。彼は、冬来さんのために来てるんですよ」
 今度こそ『訳がわからない』という風に、目を丸くしてぱちぱちと瞬き、真剣な表情になるとすとん、と座り込んだ。
 首をかしげて考え込む。
 冬来は、まずこのお店のことはほとんど話したことはない。
 だいたい、いつもなら店には彼が仕事中に来るのだ。
 彼に仕事をさせているから、その報告と彼女自身の罪の意識で。
 やはりどこかに罪悪感を感じて仕方がないのだ。本来なら自分がやるべき立場にあるはずなのに――と。
 しかし理由はそれだけではない。
「『姉ぃの事どう思ってる』って」
「え」
 冬来は驚きの声を上げて絶句する。
 言葉を継ぎたくてものどが動かない。まるでしびれてしまったように、頭の中が真っ白になっている。
 どんな言葉も出てこない。
 そう感じた瞬間――ふっと節良がこの店に来たこと、来ていることが飲み込めたような気がした。
 節良がわざわざここを調べて来た理由は少なくない。
 実際彼が仕事をする前後にはこの店に来なければならないのだから、節良ならすぐに調べられる。
 本来は知らせるべきだったのかもしれない、と冬来は下唇を噛む。
「……この店のことは」
「『お店』だと思っています」
 ぱち、ぱちと二回瞬くと、ふっとほおを緩めた。
「そっか」
 優しい目で少しだけ安心したように、嬉しそうにも見える笑みで。
 彼女はため息をゆっくりこぼすように言葉を吐いた。
「あの子は非常に優しい。自分が何をしているのかよくわかっているはずなのに、あんなに真剣であんなに不器用で」
 冬来は判っているのだろうか。聞いているのだろうか。
 昌信はそんな事はおくびにも出さず、ただ伝えるべきだと感じるままに言う。
「『お姉さん』のあなたを、大事に思っていますよ」
「……そっか」
 無言で数回うなずいて。
 たしかめるように応えて。
「だから、こんな店に入り浸るのも、私が騙してるからだとか」
「ちょっとまって」
 がたん、と先刻までのしあわせそうなとろけた笑みはどっかにかなぐり捨てて、ばたんと再びカウンターを大きく叩いて立ち上がる。
「――冬来さん。『家』のこと。きちんと説明していないようですけども」
 きゅきゅとグラスを磨く音が響く。
 まるで無駄にその音が間延びして聞こえて、少しずつ少しずつ汚れを拭き取り磨き上げるというその行程が、グラスを薄く薄く薄く削り取りいつか消し去ってしまうかのように錯覚を起こす程。
 妙に時間が引き延ばされたように、そのわずかな沈黙が長く感じられて、冬来はごくりとのどを鳴らした。
「――ええ」
 ただ事実を肯定した。
 その行為そのものをまるで忌避していたかのように彼女は大きく息をつく。
「私には説明できなかった。説明したくなかったのよ」
 伏し目で彼女はカウンターに視線を落とし、唇を噛む。
 昌信は彼女の様子をうかがうように、ただひたすらグラスを磨く。
 グラスを磨くという行為そのものが彼の存在意義であるかのように。
 きゅ、と余韻が残るような音を残し、部屋に沈黙が戻る。
「……最初に言いましたけど」
 昌信はグラスを元の棚に戻し、きれいに並べていた。
 カウンターに座ってその様子を眺めれば、整然と列んだグラスの森がある種の情景を作りあげていることに気がつく。
 それらが、天井からぶら下がったオレンジの灯りを反射し、ぼんやりと輝いている。
 写り込む昌信の姿。それがくるりときびすを返した。
「節良さんも、成長をしているんですよ」
 冬来は眉を寄せて困り顔を作ると、口をへの字に曲げる。
 困惑。
 冬来自身、節良の成長ぐらいは分かっているつもりだ。
 彼がどれだけ成長したか。そして、そんな彼から距離をどれだけ置けるようになったのか、自分自身の変わりようも理解しているつもりだった。
 でも、彼の丸い顔と、子供のように大きな目に見つめられると自分の居場所が分からなくなる。
 彼と自分との立ち位置。『姉弟』などという『くくり』、それぞれの役割、そんな後付の理由がどれだけ彼女を規制するのか。
「わかってる」
「判ってるなら何も言いません。『家』の管理人として、これ以上言う理由もありません。ついでにいえば、しばらく仕事をとることも辞めましょう」
 昌信は言うと、カウンターに両手をついて彼女を見下ろす。
「……そう。……そうしてくれたら、少し楽かな」
 昌信を見上げて、にこっと笑みを浮かべる。わずか目元に、かけらのような光を浮かべて。
「ではそうしましょう」

 それからしばらく、無言で冬来はウィスキーを傾けた。
 既に昌信も何度か止めたのだが、ほとんど奪うようにして冬来は飲み続けた。
 そして何度目かのおかわりをしようとした彼女の手を昌信は押さえた。
「冬来さん?いい加減にしないと弟さん呼びますよ」
 ぐっと彼女の手首を強めに握り、昌信は言う。
 一瞬抵抗するように力を加えたが、すぐに冬来は力を抜いてグラスを置いた。
「んうん……呼べばいいじゃない、けち。……泊めてくれたって、いいじゃない」
 言いながらカウンターにそのままの格好で突っ伏し、そのまま動けなくなってしまう。
 さすがに飲み過ぎたのだろう、規則的な寝息が昌信の耳にまで届く。
 完全に寝てしまったようだ。止める間もない。
 昌信は困った貌でため息をつき、起こす代わりに電話に手を伸ばした。

 結果だけ言うなら、冬来は起きた。
 ただし、彼女はもう酔っぱらって寝たふりを続ける事にした。
 節良が店に貌を出した時には、既に看板は下ろしており昌信もカウンターに座って彼を待っているところだった。
 その隣ですうすう寝息を立てる冬来の背中が見える。
「昌信さん、すみません」
 入り口をくぐるなり頭を下げると、節良はづかづかと大股で彼女に近づき、両肩をつかんで大きく揺らす。
「カズ、起きろよカズ!こんなところで寝るんじゃねえって」
 節良に大きく体を揺らされて、意味不明の言葉を漏らすがそれ以上は何も言わず、再び動かなくなる。
 冬来の様子に額に手を当ててうめく節良。
 そのうちぎりぎりと歯ぎしりをすると、振り上げた拳でぶんと空をたたく。
「あーんもう!昌信さん」
「お代はいただいてます」
 と、ぴらりと領収書を見せる。
 もちろん昌信の手書きで、彼がそれを帳簿から切り離すと、写し取ったコピーが姿を見せる。
 昌信はそれを節良に渡し、にっこりと笑うと再びカウンターの片付けに取りかかった。
 節良はありがとう、と言うとぶつくさ文句を言いながら冬来を背負い、店から出て行った。
 ふう、とため息をついて二人を見送ると昌信はにこやかな表情のままで肩をすくめる。
「全く、世話の焼ける二人ですね。『ツユリ』と『ホヅミ』ですね」
 と言いながら首をこき、こきと横に傾ける。
「『木』には貸しを作りたくありませんからね」
 きゅい、とグラスを磨く音を立てる。
 どこかそれが、先ほどまでよりも鋭く、耳に残すように、夜の闇が染みこんだ店内に余韻を残した。
 そして、灯が消えた。
 看板は既に灯を落としていたが、ふっと急に店そのものがなくなってしまったような錯覚を受けて、節良は振り返った。
 だがもちろん店はそこにあり、動く気配も電気が点る気配もない。
 先ほどと何ら変わらない――のに、何故かもう店が開くことが二度とないような、そんな錯覚を覚えて、しばらく店を見つめると頭を振った。
 背中がほんのりと温かい。寒く冷えた空気の中を白い息を吐きながら店に来た彼には、それが代え難いものに感じられた。
「くそ」
 そして、そんな自分に悪態をついてちらりと右後ろを見るようにして、冬来を見る。
 前髪で顔が見えない。
 彼の背中に貌を押しつけているように見える。わずかに呼吸で上下する頭に、酒臭いにおい。
 そんな彼女の様子を見て、前を向いてため息をつく。
「こんなになるまで飲むなよ」
 力なくだらんと、彼の両肩にぶら下がる彼女の腕を丁寧に自分の首に回してみる。
 引っかかったみたいに綺麗に巻き付いたので、彼は彼女の太ももをがっちりと抱きしめる。
 彼にとってはかなり大きな姉だが、こうやっておぶってみれば重さを感じない。
 軽い物だ。それに……暖かい。
「あんまり迷惑かけんなよ」
 ほとんど独り言のようにつぶやいて、彼はごすごすとあごで彼女の腕をたたく。
「せっかくあんなに良いヒトなんだし、嫌われたりしたら寂しいんじゃねーのか?」
 もちろん返事なんかないし、期待していない。
「俺、昌信さんは信頼していいと思ってるけどさ。姉ちゃんの事は逆に心配だよ」
 何かあるとあの店で飲んだくれて、今日みたいになるのは今までなかったけど。
 何度かその理由も考えてみた。たいがい『仕事』の前後に麿宇戸に通う姉。
 それも、彼がいない時を見計らうようにして、だ。
 唇を噛んで、いつの間にか彼女の腕にあごを乗せている節良。
 ふっと思い出したのは仕事のこと。
 この間、彼女に割り込まれた仕事のこと。
 歪な笑みをたたえたストーカーの少女の貌と、その時に自分が感じたことを。
 本当にあの少女が目標だったのか。いや、冬来がそれを間違うはずはない。
 節良は眉を寄せて悔しそうに目を閉じる。
 背中の彼女のぬくもりだけしか判らなくなる。
「カズ姉」
 節良は思わずつぶやいた。
「なぁに?セツ」
 まさか返事が来るとは思っていなかったので、思わず彼女を落としそうになったが、慌てて彼女の顔を探して振り向く。
 そこには、にんまり笑顔をたたえた彼女の顔が真ん前にあった。
 いつの間にか、彼女の腕に力が込められて、しっかり抱きしめられているという事にも気づく。
 いや、そもそも寝ている人間が首に腕を巻き付けるというような真似をできるだろうか。
 ほんの一瞬、わずか二呼吸ほど驚いた顔で彼女を見つめていたが、顔を赤くしてぎりぎりと歯ぎしりして冬来を睨む節良。
「カズ」
「セツ?」
 にたっと笑ったと思うと、彼女はそのまま頭を一気に抱き寄せて。
 節良も油断していたわけではなかったが、寝たふりをした冬来が背中で彼を抱きしめていた時点で、彼には主導権は一切なかった。
 気づいたときには彼女の顔は完全に見えなくなって、唇に触れる暖かい物が滑り込んでくるのが判った。
「……!……?!」
 冬来は右手を節良の後頭部に当てて逃げられないように抱きしめて、丁寧にキスをした。
 ゆっくりと彼から離れても、腕はしっかりと彼の頭を捕まえていて放さない。
「大好き」
 節良は一気に顔を真っ赤にして、ふりほどくように彼女をおろすとぶんぶんと腕を振る。
「あーっっ!」
 どう表現して良いのか判らないがともかく怒ってる、という風にじたばたとしばらく暴れると、彼は肩で息をしながら大きく右腕を振り下ろして冬来を指さす。
「カズ!おまえ目が覚めてんだったらさっさと降りろ!このバカ!」
 両肩を大きく揺らせて呼吸し、興奮のせいで貌を真っ赤にして、冬来は睨み付けられながらもぜんぜん堪えてなかった。
 節良は、にこにこと笑みを浮かべたまま彼を見つめる冬来に、結局何を怒っているのか判らなくなってくる。
 そして、なんだか自分だけ顔を真っ赤にして怒っている事自体がむなしくなって、彼は大きくため息をついて、力無く両肩を下げた。
 冬来は節良のそんな様子を見て、小さく笑いながら彼の真横に来て、彼の肘から手を差し込んで、くるっと自分の腕を絡める。
「ありがと」
 しがみつくようにすり寄る彼女に、もはや驚くどころかあきれた顔で見返す節良。
「いいえどういたしまして」
「棒読みー。感情こもってない。やりなおし。ていくつー!」
 やー!とうれしそうに右腕を空に向かって突き出す。
 まだまだ酔ってる勢いのまま、彼の腕を引っ張って自分のマンションへと向かう。
「カズ、普通こっちがそんな感情こめてどうするの」
 酔ったハイテンションな姉を眺めて、ひどくくたびれてあきれた顔を浮かべ、困ったように眉を寄せる。
 冬来は彼の顔色なんか気にしない。
 絡めた左腕をするすると動かして、彼の右手を見つけて、手のひらを押しつけるようにして指を絡める。
 節良は、ためらうように応えて。
「だって不公平じゃない?セツ、あたしすっごく感情こめてるんだよ?」
「うるさい」
 むぅ、と口をとがらせて眉を八の字にすると、冬来はじとっと節良をにらむ。
 しばらくそうやっていたが、節良も謝らない、繰り返さない、そして冬来も謝るまで許さない空気を漂わせていた。
 冬来が先に、諦めたようにため息をついて優しく微笑みを浮かべた。
「好きだよ、セツ」
 そう言って頬を寄せる。
 節良は抵抗しない。自分の右側を完全に占拠し、ぴたりと密着した暖かさと柔らかさを感じながら、節良はゆっくり歩いている。
「姉いは」
 抱きつかれるままにさせておくと静かになったので、節良は言葉を探すように彼女に声をかけて。
 身じろぎで返事する彼女に、どう言葉をかけようか迷いながら。
「どうして、そんなに」
 好きだ、と。
「俺を構うんだ」
「んー」
 冬来は、節良の手のひらの感触に、彼が優しく握り替えしてくれていることに、そしてその時にひどく不慣れな感じがしたことがうれしくて、顔を彼の右肩に押しつけるような格好で。
 節良の質問に態度で応えるように、節良が自分のすぐ側にいるという事実をいつまでも確かめるようににおいを嗅ぐ。
 何度も嗅ぎ慣れた彼のにおい。
「そうかな?セツは、お姉ちゃんの弟じゃ不満?そーかー」
 節良に、すぐ側の顔に冬来は顔を上げて、首をかしげるようにして聞く。
「お、俺は別に」
「セツ、お姉ちゃんね、別にお母さんでもよかったんだけど」
 冬来はにっこりと笑って、少しだけ顔を離して、貌がよく見えるような位置で小首をかしげて微笑む。
「セツの姉を選んでよかったかな、って思ってるからね」
 そう言うと彼の腕を解放して、ちょっと身体を離す。
 ふっと気配が遠ざかって、節良は思わず姉の方を向いた。
 一瞬冬来の背中が、節良の目に映る。自分より一回りくらい大きな姿をした、女性らしいシルエット。
 それが離れていくような錯覚と同時に、くるっと半回転してこちらを向く。
「じゃ、もし」
  くるっと冬来が振り返って、笑った。
「私が年下の恋人だったら」
 と、一気にまたすぐ側まで身体を寄せて。
 節良は身を引こうとするが、逃さないという風に彼の胸の前に、下からのぞき込むような格好で身体を寄せる。
 ぴたりと節良の胸に、冬来の胸が当たる。
「うれしかった?」
 どうだろうか。冬来自身は自分で自分に問う。
 母の方がよかっただろうか。いや、自分に母親は無理だ。
 恋人でよかったのだろうか。たぶん恋人でも問題はなかったかもしれない。
 いっそ夫婦という選択肢だって考えられるはずだ──その時には、若い夫婦として小さな子供があてがわれるだろうが。
 冬来は、節良が困った貌を浮かべているのを見て思考をやめた。
──そっか
 そして、再び彼の右腕を取る。
「そーだよね、セツはお姉ちゃん好きだもんね」
「ばっ、馬鹿こら!誰がだ!」
 叫ぶ彼を無視して、再びぴたりと身体を密着させ、今度は彼の手が冬来の手を探して、節良の方から握り替えして来たのを喜んで。
「セツはまだまだおこちゃまだもんねー。恋人よりお姉ちゃんの方が良いよね。別にお姉ちゃんでもやることやれるし」
「ちょ、ちょっと待て」
「姉が弟に手ほどきするっていうのも、シチュエーションとしては良いよね?」
「何の話してる!酔っぱらってるからって暴走しすぎだって、姉い!」
 
 
 秋月節良、秋月冬来。
 仲の良過ぎる姉弟。彼らがどこで何をしているのかを知るものは少ない。
 
 そしてその正体も。
 
 
 からん、とカウベルの鳴る店内。
「いらっしゃい、冬来さん。お久しぶりですね」
 にこ、っと相変わらずの明るい笑みを浮かべる彼女の後から、こそっと一人の姿が見える。
「おや」
 冬来の隣に立つのは、中性的な顔立ちをした少年。いや、年の頃は青年と言うべきだろう。
「ご一緒されるのは初めてですね。何か心境の変化でも?」
「そんなんじゃないけど」
 青年は素早く反論する。
「仕事、なんでしょ、昌信さん」
 どこか不機嫌そうな貌で、彼は静かに言った。
「ええ、お仕事です。大事な、誰かがかぶらなきゃいけない仕事なんですよ、節良さん」
「判ってる」
 節良は応えて、冬来の手を握りしめた。


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