終章.

 刹那の論理
   『刹那』は、非常にわずかな瞬間のこと。1/75秒など色々な説がある。『万物は刹那に生じ、刹那に滅し、かくて流転していく』という仏教の一理は、すでに以前から理論物理学においては、量子論などとの類似が指摘されていた。この循環型の世界観は、転ブの社会化に伴い、魂の完全な永遠の連続を唱う蓄積型の西欧的世界観に代わって、一般社会に迎えられた。『刹那主義』、『刹那的な感情』といったネガティブな用法との混同には注意したい。


 告発は順調に進んだ。
 キクラは示談に持ち込もうとして、再三幸哉たちに懇請したが、幸哉たちはもちろん、ヨヨハト弁護士とサマリーの同席を求めたし、顧問のニルノーデも同席を強要してきたので難航した。やっとのことで一旦交渉に及んだものの、従来の示談と変り映えせぬ交渉態度に加え、四人の人権をほぼ無視したニルノーデの暴言が続出、キクラはさらに悪条件を抱え込んで、示談は決裂となってしまった。
 同時にサマリーはこの事件を慎重にマスコミにリーク、ヨヨハトは以降の和解要求をことごとく拒否、厳然たる姿勢で裁判に臨んだ。結局重複転ブの調整部は検察の家宅捜索を受けることになり、政府主導の隠蔽工作が暴露された。アオウシはとうの昔に雲隠れしていて、キクラは完全に失脚した。ニルノーデは知らぬ存ぜぬで通しきっていたが、彼が調整部の立役者だったことは、そのうち明らかになるだろう。
 しかし――これで転ブ技術が衰退・停滞したというわけではなかった。被害者の精神的苦痛や生命倫理への懸念はさほど関心を引かず、一般社会にとっては政府を巻き込んだ醜聞と、システムのさらなる安全化が重要だった。事故率の格段に低いこの夢の技術は、幸哉たちの事件をものともせず、その奔流に呑み込んで発展してゆくだろう――。
 
 ナリタ空港の閑散としたロビーに、幸哉たち四人の姿があった。
 彼らはマンションを処分した後、幸哉と恵里、ユキヤとエリに分かれて――この別離にも彼らはかなり悩んだのだが――、一切転ブを使わない生活をしていた。これにはヨヨハトおばさんと、喫茶『飛天』のマスター達が大きな助力となっていた。
 「……じゃ、後のことは、よろしくね」
 「そっちも、アオウシ君を見つけたら絶対連絡してくれよね」
 「ははは、半分それが、目的だしね。ま、転ブに関係無いところでゆっくりするよ」
 「私たちも決着がつき次第……。転ブ社会って、ほんと、気の休まるもんじゃないしね」
 「途中で代わるわよ、裁判が長期化しそうだったら――」

 肩をすぼめたエリは、ふと回りを見渡して、口をあんぐりと開けた。
 少し離れたところに、いつかどこかで見た風貌。
 「へんてこおじさん……」
 「え?」全員がその方向を見た。
 忘れもしないあの日に、ぶつかったパイロット姿のその男。日に焼けた初老、その帽子の正面のエンブレムは、いくつかのハートに大きな波が二つ――そう言えばタクシーの運転手にしては、ご大層な帽子をかぶっていたな……。
 「たたた、タクシーの運ちゃん?」
 「はあ!?」
 今度はユキヤに全員が向き直り、大きな声を上げた。あのタクシーの運転手は、ヨヨハト弁護士も身に覚えのない、まったく謎の人物だったのだ。ユキヤはその男を指差したまま硬直している。
 「――そう言えば」恵里が口を開いた。「あの人、あの駅員……」
 「あ!」幸哉も口をぽかんと開けた。サマリー宅に向かう時、へんてこりんな経路を教えられて、やたら時間がかかってしまった、あの――。
 男は、彼らに向かって脱帽してニコッと一礼すると、脱兎の如く走り去ってしまった。
 四人はしばらく、全員口を開けたまま、呆然と立ち尽くしていた。
 
 「――え。この度は当機をご利用いただきまスて、誠にアリガトウごじゃーまス。当便はァ、ナリタ発みィーんなが知っちょるとこ行きのデスな、非常に希少な便でごじゃーまスてぇ、ハイ。じゃもんで、到着時間は当てにしてほしゅうナイけん、言わんとくね。ま、到着までこのワタスが、ワタスがですな。え? ワタスの名前? そんな名乗るほどの者ではござらんがの。そんなこまきゃあことまで、気にしん気にしん。心配性はカラダに毒だべ。あー心配ちゅーか、機長からのオネガイなんじゃけんども、後ろの転ブに悪サせんとってね。ワシ嫌よ、皆さんと心中するの。最近多いんだワ。いわれの無い怒りを、いわれの無いトコにブツケル人。気持ちは少うしだけ、分かるけど……ダメダーメ、そがいなこつ。あ、もう時間? ほな、いきまひょか。アレ? あー、今のん全部、離陸してから言うのじゃったっス。もう。そんなこと先に言ってよね。いや、先に言ったのはワタスじゃったりして。……まあそんなことは、よろし。いざ――」
 
 ――――自由と混沌の、空へ
 
 遠く、太陽の光を反射した銀の翼が飛び立ってゆくのが、展望ロビーの二人に見えた。
 二人はいつまでもいつまでも、その光を見つめていた。
 
 
 
 

(完)

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© A.Matsu! 2000-2001 大禍時(おおまがとき)Indexへ