「ヨーロッパ中心史観」と「脱亜入欧」観に対する批判
1. はじめに
19世紀の出来事として、私がどうしても気になったのが日本の「近代化」である。日本はどうしてアジアの中で唯一植民地化を免れ、「列強」とみなされるまでに成長することが出来たのか。当初、私の問題意識はそこにあった。
しかし、調べているうちにこの考え方に対する批判が目につくようになった。この「脱亜入欧」観は「ヨーロッパ中心史観」に基づくものであるという。それでは、これらを批判する見方に基づいた「近代」とは一体どのようなものなのか。日本社会に今も息づいている「脱亜入欧」観はどのように批判されているのか。そして今後どうなっていくのだろうか。
以下は「ヨーロッパ中心史観」への批判と「脱亜入欧」観の考察を、四人の研究者の著作を基にまとめたものである。
2. ヨーロッパ中心史観への批判
T.柴田三千雄
柴田三千雄はいわゆる「ヨーロッパ中心史観」について、「ヨーロッパの歴史だけが人類の文明化のプロセス」とする見方としている。すなわち、ヨーロッパが主導しなければ他の地域では文明が「進行」することはなく、ヨーロッパ人だけが世界を一体化することができる。そしてこの場合の世界の一体化とは他地域の文化も遍くヨーロッパ化することであり、あらゆる地域が均質化することを意味する、と。ここでの「世界の一体化」とは地域的な一体化、つまり世界の諸地域がお互いに交渉をもつことと、文化的な一体化、つまり均質な文化をもつことがイコールになっている、とも。
しかし、柴田はその両方に疑問を提示する。まず地域的な一体化について、確かにヨーロッパ人の海外進出以来、文化の相互交渉の機会は劇的に増大したとしながらも、しかし文化の相互交渉自体は古来より行われており、歴史的性格上は何ら目新しいものではないとする。また文化的な一体化についても、たとえば日本は中国から律令制や仏教などさまざまな文化を輸入してきたが、それらは日本社会のなかで変形しその後の歴史的展開も異なっている。そしてそれは「西洋化」についても同様であるという。
私も、そもそも文化の相互交渉というもの自体が、その混交と融合の過程によって新たな文化を作り出す存在であると考える。社会状況の異なった地域から導入されるどんな文化も、そのままでは別の社会に適合し得ない。その文化が廃れずに受け入れられるためには、新しい社会風土に適応するために変形をとげなければならないからである。柴田はこのプロセスを「不可避的に異質なものを創出ないし再生産するという構図をもっている(参考文献1,p.8)」と表現している。
U.浜下武志
浜下は従来の歴史観においてアジアの近代は「ヨーロッパという鏡に映し出されたアジアであり、近代であった(参考文献2,p.3)」という。つまり、いわゆる「西洋の衝撃」という言葉に象徴されるように、アジアの歴史に動因を与えたのはヨーロッパであり、アジアは被動者としてあくまでヨーロッパに対応する存在であった。また、「アジアの近代」も「ヨーロッパの近代」をモデルとして追及したものに過ぎないであると。
このようなアジア近代像が描かれた理由は三つ挙げられ、一つには「アジアの近代」がヨーロッパの「帝国」的・「植民地主義」的進出に抵抗もしくは模倣として描かれる民族独立や国民形成の歴史であったからだということ。二つ目は、ヨーロッパに対抗して形成されるアジアの近代を描くために、アジアはヨーロッパによって「覚醒」される存在である必要があったということ。三つ目にはヨーロッパの「近代」をモデルとして「遅れた」アジアを啓蒙することがアジアの知識人のテーマであったため、「アジア的」なものが変革されるべき対象として描かれてきたことを挙げている。
そしてこの歴史観を脱却し「アジアの近代」をとらえるために、近代を普遍的な価値としてではなく、ヨーロッパ地域とアジア地域との交渉が緊密化したことによってとらえようとする。つまり、ヨーロッパはアジア地域間関係に参画した一要因なのである。
そしてそのために三つの課題が設定されている。第一に、アジア史の内的構造と歴史展開の論理を導き出し、ヨーロッパの近代を援用するのをやめること。これは同時にヨーロッパの近代をヨーロッパ地域史の中で位置づける試みもすべきであると述べている。第二に、アジアの近代と前近代との関係、連続性を検討すること。これは近代を、アジアの内部からその歴史的連続性に導かれたものとして明らかにしなければならないということであるという。第三に、アジア分析がヨーロッパにも問題を投げかけるものとしてあらねばならないということ。アジアを能動態としてとらえ、そこにヨーロッパが参画するという構図としてアジアの近代をみることが求められているのである。
3. 日本の「脱亜入欧」観
溝口雄三によると、明治時代に日本人の実感に支えられて成立した「脱亜入欧」観は現在に至るまで続いているという。だがしかし、それはあくまで尊崇する文明が中華文明からヨーロッパ文明に変わったという日本人の実感的な問題であって、歴史的な実際はそうではないと溝口は言う。
浜下も同様であり、明治日本は決してアジアからヨーロッパに転換したのではなく、むしろヨーロッパを手段としてアジアに加わり、東アジアの華夷秩序に対抗しようとしたのだと述べている。明治政府は「開国」はしたが朝貢秩序に基づいた華夷体制への復帰を拒否し、西洋化というナショナリズムの表現をとって華夷秩序への再参加をしなかったのだと。そして浜下は19世紀の東アジアにヨーロッパ的な等質の国家関係を見る視点を批判し、日清戦争を「宗主権と国家主権との交渉および衝突(参考文献2,p.45)」であると表現している。
並木頼寿によると、そもそもは儒学の古典に通じ、それらの経典に基づく人倫を身につけていることが「文」であり、天子を頂点にした秩序の体系のもとで、そのような価値観を広めることが「文化」、そのような「文化」に浴さぬ人々が「夷狄」であるという。ところが明治の日本ではこの考え方に大変動が生じ、「文明」と「野蛮」に逆転現象が起きていた。つまり、東洋的な伝統を尊重するような考え方を遅れとみなし、欧米流の進歩を目指す「近代的」な文明観がひろがったのである。そしてこの逆転現象は日清戦争で決定的となったと並木は言う。たとえば福沢諭吉はこの戦争を文明と野蛮の戦いととらえたし、日露戦争に反対した内村鑑三もこのとき清を「世界の最大退歩国」と表現している(『国民之友』1849年9月3日)
並木は、明治維新後の日本人は「開化」達成への自負だけではなく、中国に対する一種の恐れの念から「文明国」日本の自意識をいっそう駆り立てられたのではないかという。そしていち早く「文明開化」を成し遂げつつあるという自覚をふまえ、他のアジア諸国・地域から日本を差別化しようとしたのである。私は、これが溝口の言う「脱亜入欧」観を支える日本人の実感につながっていたのではないかと考える。
4.おわりに
自分の中にも根付いていると認めざるを得なかった「脱亜入欧」観は、ヨーロッパを「先進」、アジアを「後進」としている点で現在批判の対象となっている「ヨーロッパ中心史観」と同種と言えるだろう。自らに根付くこの考え方を批判していく必要性を感じるとともに、自分の「世界史的視点」を深く反省させられた。
ところで「近代」後期に入り、研究はあらゆるものを批判の対象とするようになったように思われる。「マルクス史」を失い、「進歩史観」を否定するに至った「近代」の世界史研究は、これからどのような方向に向かうのであろうか。今後の研究が注目されるところである。
参考文献
1.柴田三千雄・木谷勤『世界現代史』(木谷勤,山川出版社,1985)
2.浜下武志「アジアの<近代>」(『岩波講座:世界歴史20 アジアの<近代>』,岩波書店,1999)
3.並木頼寿「近代の日本と『アジア主義』」(『岩波講座:世界歴史20 アジアの<近代>』,岩波書店,1999)
4.溝口雄三『中国の衝撃』(東京大学出版会,2004)
2006/07/08
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