「大人―子ども」と「小さな大人」の誕生
1. はじめに
私が興味を持ったのは、現代的「子ども」観は作られたものである、というテーマだった。「子ども」とは近代になって作られた概念であり、ニューメディアの登場によってその境界が消滅しつつあるという。テレビの登場によって「子ども」は「小さな大人」化しつつある。そう説かれ、思い当たることが多数あることに驚いた。そして例えば私が小学生の頃、学校というものに対して感じていた息苦しさを解き明かす観点は、ここにあるのではないか。そしてそれを解き明かすことは、自分にとって新しい何かが開けるのではないか。そういう希望を抱いたので、このテーマを取り上げることにした。
そこで、先ずは「子ども」観とは何かから整理してみることにする。
2.近代的「子ども」観の成立と変遷
古代にはそれに似たような概念があったものの、中世においては現代的な意味での「子ども」期は存在しなかったと、N・ポストマンは言う。ギリシアやローマで発達した読み書きの文化は衰退し、中世で文化は口頭伝承が基本となった。またそれに伴って「大人の秘密」は話す能力のみとなり、子どもを性の秘密から隔離すべきといった意識(ポストマンはこれを「羞恥心」と呼ぶ)も消滅した。これが、中世では子ども時代が七歳で終わっている理由だという。子どもは七歳になれば自由に話せるようになる。話せるようになれば、もう「一人前」であるというのだ。こうして中世の七歳以上の子ども達は現代のように「大人だけの秘密」から保護されることなく、まったく同等に扱われたのである。
ところが、印刷技術の発明によって「子ども」概念が発生する。「読み書き能力」を身に着けることが「大人」になるための条件として不可欠となり、「一人前」になるまでの期間が飛躍的に引き延ばされたのである。そして、この能力を身に着けるために一定の訓練を必要とされ、「子ども」は「学校」に隔離されることとなる。隔離されたことによってそこには差異が生じ、「子ども」という概念は固定的なものとなっていく。すなわち、子どもは大人の知る数々の秘密から隔離されていなければならず、その態度、服装、言葉に至るまで大人とは異なった存在であるとして定義されたのである。つまり、「性的関係についての秘密だけでなく、金、暴力、病気、死、社会関係についての秘密(N・ポストマン『子どもはもういない』pp.77)」を共有することによって大人は「大人」として区別され、また、子ども達が成年期に近づくにつれ「私たちはこうして秘密を順々にかれらに明かしてゆき、最後に「性についての啓蒙」に到達する(同)」仕組みが出来上がったのである。
こうして誕生した「子ども」観はロックの「タブラ・ラサ」という有名な言葉や、ルソーの「自然状態」といった意見によって大きな影響を受け、二つの視点を生み出した。ロックの観点から言うと「子ども」は「白紙状態」で生まれてくるのであり、教育がそこに書き込みを加えることによって完成する。これをポストマンはプロテスタント的であると評し、ここでの「子ども」は「読み書きと教育、理性、自制、羞恥心をとおして強要のある大人になってゆく、未成熟な人間である(同, pp.91)」と述べている。
一方、ルソーに言わせると子どもは純真で無邪気な理想的状態であり、「生まれながらにして率直さと理解力、好奇心、自発性という能力をもっているが、読み書き能力と教育、理性、自制心、羞恥心がこれらの能力を鈍らせる(同)」。これをポストマンは浪漫主義的と言っている。
ロックの考え方は現在も続く、学校教育において支配的な論理であるが、ルソー的観方も廃れておらず、子どもの美点を損なわずにいたいという心理もまた共存しているとポストマンは述べている。
3.「子ども」の変化
ところが電信に始まった電気的コミュニケーションの発達によって、「子ども」という概念は揺らぎ始める。ポストマンはその原因をテレビが「大人の秘密」を秘密でなくしたからだとしているが、佐藤直樹はそこから発展して高度消費社会というシステムの介入を挙げている。何れにせよ、消費社会自体がテレビに支えられたものである以上、ニューメディアに責任があることは間違いないようである。
ポストマンが「テレビを観るのに、技能はいらないし、テレビを見たからといって技能が発達するわけではない(同, pp.119)」と言うように、テレビは見るひとを選ばない。このことは、大人の間に共有されていた「秘密」を秘密でなくしてしまう働きを持っている。子どもはあらゆる情報を知ることが出来るようになったのである。その結果として、「子ども」を作るのに重大な役割を果たした羞恥心が希薄になり、マナーは低下しているのは周知の事実であろう。言葉づかいも、服装も、食べ物の嗜好でさえも、かつては大人と子どもの間に明確な区別があったものが、消滅しつつある。論理を求めないテレビ・コマーシャルは大人にも子どもにも同じように魅力を訴えかける。十代の少女たちが性的素材として取り上げられる。ここに境界のない「大人―子ども」が誕生したと言えるだろう。
これに加えて、佐藤は市場原理が家庭に介入したことを取り上げる。近代市民社会は先ず「外部」である伝統的な村落共同体、そして植民地を食いつぶし、遂に「内部にある唯一の外部」である家族と学校の市場化に至った、という山崎哲の論を援用(佐藤直樹『大人の<責任>、子どもの<責任>』pp.139)した上で、子どもは高度消費社会における「消費者」として行動するようになったのだと言うのである。
4.「大人―子ども」から弾かれた子どもたち
未熟な大人が増えたと言う主張は、成年者の「子どもっぽい」犯罪が取り上げられるにつれて今や馴染みのものとなりつつある。テレビではローティーンの少女が露出の高い服装をして歌い、電車内のモラルの低下が盛んに言われ、成人式がテーマパークで行われる現代にあって、子どもが「もういない」ことに対して異論を挟む余地はないように思われる。だがしかし、ポストマンの提言から十年、状況はそのままに進んできているだろうか。
ここで主観的ではあるが私自身の過去を振り返ってみる。思えば、小学校の教室には確かにモノが溢れていた。玩具から鉛筆に至るまで消費文化が浸透しており、そこにはいくつかの複雑な序列が存在していた。しかし、親の方針によりテレビやコミックから隔離されて育った私は消費文化に上手くついて行くことが出来ず、「大人―子ども」にもなれない息苦しさを抱えていたように思う。その為、彼らをテレビの本能的なアピールに踊らされる「子ども」として自分と差別化し、理性と教養を尊ぶロック的な観点からひたすら「大人」になりたいと願い始めたのである。それは現在も変わっていない。
「大人」への憧れも手伝って読書に励んだ私は、周囲よりも早く「読み書きの能力」を身に着けたように思う。八歳の時には新聞を隅から隅まで読むという習慣を始めて様々な殺伐とした事件を知るようになったし、十二歳の時には家にあった小池真理子の恋愛小説からあっけなく性の秘密を知ることになった。そんな自分が年齢を理由に「子ども」扱いされることにひどい違和感を覚え、自分はもう「大人」である、対等であると意識し続けてきたように思う。また、幼い頃からPCに親しんでいたことも拍車をかけた。十二歳の時にはインターネットを回遊して「教育上良くない」ものを多数目にするようになり、同時にブラインドタッチを覚えた。これが生きて十四歳の時には自分でウェブサイトを作成し、自分の書いたものを公開するようになる。
随分長くなってしまったが、はっきり言って、今時このような「子ども」は珍しくない。インターネットにアクセスしてテキストサイトを検索してみれば、似たような少年少女がそれこそ星の数ほど存在していることがわかるだろう。ここで見えてくるのは、「大人―子ども」に同化できない「小さな大人」たちの存在ではないか。
彼らは中高生が多数であるが、中には小学生もいる。彼らは様々な事物に対してテレビ的に捉えることを拒み、深く考えることにこそ価値があると考えている。テレビ的な社会に対して多大な危機感を抱き、議論を好む。この中には深く考えすぎて哲学の迷路にはまり、生きることに対して希望を見出せなくなる者も一定数存在する。彼らの一部は犯罪や自殺に興味を示すようになる。
こういった中高生の状態は今まで一般に思春期特有のものとみなされてきた。だがしかし、「大人」「子ども」のボーダーが曖昧になっている現代、一概に過渡期とは言えないというのが私の意見である。テレビは確かに「大人」と「子ども」を区別しないが、インターネットが読み書き能力を要求するという事態が問題を変質させたのではないか。また、教育がニューメディアに追いついておらず、学校ではブラインドタッチを身につけられないことや、情報化社会の影響で読み書きを覚える場所が学校だけでなくなったというのもあげられるだろう。
テレビが生んだ「大人―子ども」が一定数いる中で、上のような「小さな大人」たちも増え続けている。現代の「子ども」たちは、永遠に大人にならない「大人―子ども」と、早い段階で「大人」になってしまう「小さな大人」へと二極化しているのではないか、というのが私の意見である。
5.おわりに
「子ども」は近代の印刷技術が生み出した概念であり、絶対的なものではない。ポストマンや佐藤は「子ども」や「大人」が消滅し、どちらでもなく感覚的に生きる「大人―子ども」の誕生や「中世」への回帰を主張した。
だが私は、「大人―子ども」から弾かれた「小さな大人」たちが増えてきていることを主張したい。彼らは感覚的に生きることを拒否するので、「大人―子ども」概念の一部と言うことはできない。インターネットの誕生はロック的「子ども」観を復活させたのかもしれない。
個人的にも、答えがなかなか見えてこなかったこのレポートであるが、文献の主張から自分を顧みることが出来たのは大きな収穫であった。息苦しい思いをしてきた過去を、自分なりに消化することができたのではないかと思っている。
引用・参考文献
佐藤直樹『大人の<責任>、子どもの<責任>;刑事責任の現象学』(青弓社,1993)
向井吉人「市場社会における感受性の行方」(芹沢俊介編著『解体される子どもたち;少年犯罪の政治学』,青弓社,1994)
ニール・ポストマン『子どもはもういない』(小柴一訳,新樹社,2001)
2006/01/20
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