早稲田大学グリークラブOBメンバーズ 演奏会の録音

[演奏会の録音:Concert2001より]
オペラ「ニコラ・シュービッチ・ズリンスキー」より 終曲〜U Boj

オペラ「ニコラ・シュービッチ・ズリンスキー」より 終曲〜U Boj ⇒再生する
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■録音日:2001年10月6日 ■録音場所:北とぴあ(東京都北区) さくらホール  
■Concert2001 アンコールにて演奏。(初演)
■演奏:早稲田大学グリークラブOBメンバーズ / 編曲・指揮:山崎知行 / ピアノ:片桐由佳
■WMA形式128kbps圧縮ファイル

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オペラ編曲版「U Boj」について

<男声合唱曲「U Boj」の源流>

1919年、第一次世界大戦の終結と共にウラジオストクから海路帰国途上であったチェコ軍のうち、【同年8月、847人乗船のヘフロン号が台風を避けようとして、下関沖で座礁。沈没は免れたが、船は修理のため神戸へ回航。チェコ軍は、同年9月列車で神戸着。修理の期間中は神戸市で待機となる。】 その神戸逗留中に英語通訳を務めたのが、当時関西学院グリークラブに在籍していた塩路義孝氏(大11卒)で、この縁からチェコ軍と関西学院グリークラブの音楽交流が行われた。
【チェコ軍の合唱は、グリークラブの青年たちの心をうった。特に、ボヘミアンソングの哀愁の響きには引きつけられた。 「レパートリーのうちのいくつかを、私たちに頂けませんか」とメンバーにせっつかれて塩路は頼みこむ。 兵士たちは、にこにこと「うん、欲しいのはどれでもどうぞ」
楽譜は、どれもこれも長い間のシベリア転戦と行軍ですりきれていた。グリークラブ員は苦労して判読しながら写していく。そして、兵士たちから聴いた曲を思い出し思い出しやっと、ガリ版刷りの男声四部合唱の楽譜ができ上った。その中にウ ボイ(U Boj)があった。
やがて、船の修理が終りチェコ軍の帰国の日が近づいた。その夜、送別会が宿舎で開かれ、グリークラブは譲ってもらったウ ボイほか数曲を歌った。兵士たちは、異国の学生たちが合唱する「自分たちの歌」にじっと耳を傾ける。歌い終ると、割れんばかりの拍手。兵士たちの眼には涙が浮かんでいた。】(【 】内は関西学院グリークラブWEBサイト/「ウ ボイ物語」より http://www.kg-glee.gr.jp/main.html)

以来、関西学院グリークラブ秘蔵の曲として歌い継がれ、第二次大戦後になってようやく楽譜が流出して日本中の男声唱団のレパートリーとなった。楽譜流出の経緯は、関西学院グリークラブの某団員が阪急西宮北口駅のベンチに楽譜を置き忘れ、これが広まった、という伝説もあるが、恐らくそうではなく、福永陽一郎氏や北村協一氏も携わっていた東京コラリアーズが出版した愛唱曲集 〜後の「グリークラブアルバム」の前身〜 に収録されたことで広まったと見るべきであろう。・・・それはともかく、楽譜を掲載したグリークラブアルバムでも、初期の頃の楽譜では関西学院グリーが代々伝えてきた意味不明な歌詩で掲載されており、とりあえずチェコ民謡らしいが一体どんな内容の曲なのだろう、というような謎の曲であった。
この曲が一体何者であるのか判明したのは、前述のチェコ軍との交流から60年近く経ってからのことである。

<「U Boj」の正体>

下記、関西学院グリークラブのHPより転載。

【ニューヨークの世界大学合唱祭でのドラマ】
関西学院グリークラブ゛は、1965年(昭和40年)世界大学合唱祭にアジアの代表として名誉ある招待を受け、ニューヨークのリンカーンセンターのフィルハーモニックホールに出演するために渡米。合唱祭初日(9月20日)の昼食会、その時である。劇的な衝撃が走った。その驚きの模様をグリークラブは『亜米利加見聞録』に下欄のごとく記している。

ユーゴ代表がウ ボイを唱和した!
(中略)南米の連中は、大はしゃぎだ。食事がまだ終らないというのに、手拍子・足拍子、ほんとうに楽しくてたまらないという感じで、とうとう歌いだした。これに触発されて、「一発、やるか」とばかりウボイを歌い出すとどうだろう、ユーゴの連中が立上がって調子を合わせているではないか!
後で聞くと、ウ ボイはユーゴのオペラに出てくる有名な行進曲だという。 第1次世界大戦後、我々の先輩がチェコ軍に写譜させてもらった『ウ ボイ』は半世紀にわたって、「チェコ民謡」として歌われてきたのである。思いがけない収穫であった。
これには、林先生(林雄一郎・新月会会長・昭和9年卆)もいささか驚かれた様子であった。

関西学院グリークラブとて、この曲の由来を調べなかったわけではなく、古くから探索を続けていたのだが、この世界大学合唱祭でついに大きな手がかりを掴んだ訳である。その後の調査実績については関西学院グリークラブのWEBサイトを参照願いたい。

 「U Boj」は、現クロアチアの国立ザグレブ歌劇場で1876年11月4日に初演された歌劇「ニコラ・シュービッチ・ズリンスキー/"Nikola Subic Zrinski"」(台本:Hugo Badavic/作曲:Ivan pl. Zaic)のフィナーレ部分に該当する。関西学院高等部グリークラブのHP(現在閉鎖)によれば、まずアカペラ男声四部合唱の「U Boj」が先に独立して作曲され、後に歌劇に組み込まれたようである。男声四部合唱と歌劇とでは2箇所で歌詞が異なっており、前者では「兄弟」という普遍的な歌詞になっているところが、後者では物語の筋に揃えて「君主/ズリンスキー」と替えられている。
歌劇全体を聴くと、前段・中盤まで淡々とした運びで、あまり面白いものではなく、所々に「U Boj」のモチーフが出てくるというもので、穿った見方をすれば、歌劇の構想の一環で「U Boj」が作曲されたのか、名曲「U Boj」が出来あがってしまったのを幸いに、これを拡張させて歌劇にしてしまおう、ということになったのか、どうも後者のような感じがする。

<オペラ編曲版/早稲グリOBメンバーズ風「U Boj」について>

 2001年7月に山古堂本舗/取締役営業本部長の古賀準一氏(関学グリー1989卒)経由で歌劇「ニコラ・シュービッチ・ズリンスキー」のCDを入手して聴いた時に、フィナーレ「U Boj」が関西学院グリークラブの伝統的な演奏とあまりに異なる曲想でありテンポである事から、「オリジナルになるべく忠実な演奏をしてみたい」と思ったのが発端です。関学グリーOBの所蔵する指揮者用フルスコア・練習用ピアノ伴奏スコアの存在も知っていましたが、やはり早稲グリOBメンバーズ風とするためにCDから聴き起こすこととしました。実務としては、まず東京芸大別科(作曲専攻)在籍中(2001年当時)の吉澤篤さんの協力を得て、オーケストラ部分をピアノ譜にラフスケッチしてもらい、それをベースに各楽器の特徴的な音や旋律を整理して装飾していき、また全体の構成を見通して、本来は管弦楽のみの最終部に合唱を付加することとしました。


 まず、歌劇全体の概要は以下の通りです。(文・歌詩中では、文字化けを防ぐため、本来はクロアチア語に特有のアルファベットや記号があものを、普通のアルファベットのみで表記しますので御諒解下さい。)

歌劇「ニコラ・シュービッチ・ズリンスキー」は、1566年8月20日から9月7日までの19日間をオスマン・トルコの大軍と戦い、壮烈な戦死を遂げたフルヴァト国城塞都市ジゲット(現在のユーゴスラビア国境に近いハンガリー領のセゲド市)の城守ニコラ・シュービッチ・ズリンスキー4世の史実を題材としている。

画像:CDブックレットより、包囲されるシゲット城。最近のイタリア銅版画との由
画像:CDブックレットより、突撃するズリンスキー。絵の中央奥で朱旗を持つのが旗手のユラニッチ、白馬に乗るのが側近のアラピッチか。絵の由来の記載なし。

西ヨーロッパ征服をうかがうオスマン・トルコは、率いていた大帝・スレイマン1世の病状が悪化したこともあって、せめてウイーン攻略の鍵となるジゲット城は陥落させようと、やや強引に3万の大軍を推し進める。ジゲット城を包囲したトルコ軍は降伏を勧告するが、ズリンスキーはこれを拒否、数度の挑発と戦闘の後、ついにトルコ軍は総攻撃を開始する。

ズリンスキーの愛娘イェレナは、トルコ軍の手にかかるのを嫌い、許婚であり城守の信頼厚い青年将校ユラニッチに刃を懇願して果てる。
一方で、実は総攻撃の前日、9月6日にスレイマン1世は病没するのだが、スレイマン1世の側近はその死を隠し、全軍に翌日の総攻撃を命令するのである。

ユラニッチからイェレナの死を告げられたズリンスキーは、愛娘の天国での幸福を願いつつ、城門を開け放ち、旗手のユラニッチを先頭に全軍突撃していく。

なお、史実では、戦死したズリンスキーの首はトルコ軍将軍のテント上に晒されたが、最終的にはガシュパール・アラピッチなど生き残った数人のズリンスキー側近に返された。この戦闘に時間をかけ過ぎ、兵力も消耗したトルコ軍は、その後撤退を余儀なくされ、結果としてズリンスキーは故国(現代のクロアチア)を救ったとして、今でも英雄として扱われている。
(参考文献:CDブックレット)



今回楽譜を起こした部分は、ユラニッチが太守ズリンスキーにイェレナの死を告げる所からで、ここに登場する歌手は以下の通りです。


Zrinski
ニコラ・シュービッチ・ズリンスキー4世/シゲット城の太守

Eva
エヴァ/ズリンスキーの妻

Juranic
ユラニッチ/イェレナの許婚、太守の信頼厚い青年将校

Alapic、Paprutovic
アラピッチ、パプルトヴィッチ/共にズリンスキーの側近

Casnici i vojnici
士官・兵士達(男声合唱)

また、大意はおよそ下記のようなものです。

<Zrinski>  
<ズリンスキー>
Gle milog sina, zeno!
A gdje je nasa kci? 

見よ、我等の息子が来た
だが、娘は何処に?

<Juranic>   
<ユラニッチ>
Andelak nam je Jelena!
Ispred nas ode gore u vjecne Bozje dvore.

イェレナは今、天使となりました!
私達より一足早く天国へ行ったのです

<Zrinski i Eva> 
<ズリンスキー、エヴァ>
O, Boze, tebi hvala, koj' blago uze nju!

神を讃えよ、娘の魂を受け入れて下さる様に!

<Casnici i vojnici> 
<士官・兵士達>
Stijeg hrvatski visoko se vije!
Hrvat rado svoju krvku lije 
Za kralja, rod i dom!

フルヴァト(現クロアチア)の旗が天高く舞っている!
フルヴァトはもはや戦闘準備が整った、
王のため、一族のため、家のため!

<Zrinski> 
<ズリンスキー>
Sad naprijed, braco,
vec zove bijesno Ture!
Ti, Juranicu, nosi Zastavu,
ja za tobom, 
a za mnom ti, a tada Alapic!
Ali prije nego izginemo,
hajd'mo braco, da se zagrlimo!

(Casnici se okupe;on se grli i rukuje s njima.) 

前進せよ、兄弟よ
猛り狂ったトルコ軍が誘っている!
ユラニッチ、軍旗手を務めよ
我もその後に続こう
アラピッチも続くぞ!
だが我らの宿命を迎える前に
集え、兄弟よ、いざ抱擁を!

(士官達が集い、ズリンスキーは皆と抱擁し手を握り合う)

<Juranic>(digne zastavu)
<ユラニッチ>
U boj, u boj!
Mac iz toka, bane,
nek dusman zna kako mremo mi!

突撃、突撃だ
剣を執れ、君主よ
敵に示さん 我等が死に様!
<Zrinski, Alapic, Paprutovic, Eva,Casnici i vojnici > 
<ズリンスキー、アラピッチ、パプルトヴィッチ、エヴァ、士官・兵士達>
Grad nas vec gori,
stize do nas vec zar:
rik njihov ori,
bijesan je njihov jar!

街は既に戦火に喘ぎ
熱風既に我等に届く
我等が喊声四囲に響き
彼等が怒り狂わんばかり
<Juranic>
<ユラニッチ>
K'o pozar taj grudi nase plamte,
utisa rik maca nasih zvek!

街を焦がす業火の如く 我等が胸も燃え盛る
我等が高揚の声高けれど 剣戟の響きこれに勝る

<Juranic, Zrinski i zbor>
<ユラニッチ、ズリンスキー、合唱>
K'o bratac brata
Zrinskog poljub’te svi!
Zrinskom na vrata,
vjerni junaci vi!

皆の者 同じ腹の兄弟として
ズリンスキーに接吻し
ズリンスキーに続け
城門に向けて 頼もしき汝ら勇士
<Zbor>
<合唱>
Sad, braco!
Pun'mo puske, samokrese,
nase grome, nase trijese, 
neka ore, ruse more!
Brus'mo ljute nase mace,
neka sijeku jace, jace! 

さあ兄弟よ
銃砲に装填だ
我等が雷 我等が稲妻の響き渡りて
敵を打ち砕くように
剣を磨け いよいよ鋭く
首級を挙げん

< Eva, Juranic, Paprutovic, Zrinski>
<エヴァ、ユラニッチ、パプルトヴィッチ、ズリンスキー>
Sad zbogom bud',
dome nas zauvijek,
oj, zbogom, od svud i svud
na te dusman ide prijek.
I vec u grob sveti trup sklada tvoj, al' nece!
Za te sin svak u boj se krece!
Dome nas, ti vijekom stoj!

これでお別れだ
我等が祖国よ
さあ 永遠にお別れだ
十重二十重と群敵は祖国を襲い
聖なる祖国は絶命に喘ぐ
だが 民衆はそうはさせじと突撃す
我等が祖国よ永遠なれと願いつつ
<Svi>
<全員>
Hajd' u boj, u boj!
Za dom sad u boj!
Ma paklena mnos
na nj dize svoj noz;
Hajd' u boj!
Nas mal, al' hrabar je broj!
Tko, tko ce ga strt'?
Smrt vragu, smrt! 

いざや突撃 突撃だ
祖国の為突撃だ
兄弟よ 祖国の為突撃だ
血に飢えた敵が祖国を威す
いざ突撃だ
精鋭少数の我等
我等を滅ぼす怨敵に
死を 死を

<Zrinski> 
<ズリンスキー>
Za domovinu mrijeti kolika slast!

祖国に殉ずる死の心地良さ

<Svi>
<全員>
Prot dusmaninu! Mora on past'!

敵を道連れにして彼等ももはや死を逃れられぬ
(Svi odu)
(全員舞台を去る)
Katastrofa
(劇終末)

前段の三重唱〜詠唱の部分はレコードブックレットの英訳を基に作成しています。 「U boj」については1975年田中一生氏訳/山崎にて一部修正補作した意訳ですが、本来の歌詞とはやや意味合いが異なる部分もあるようです。 なお、" U Boj ! "とは、" u "が方向や目的を表す前置詞、" boj "が「戦争」の意で、直訳すれば「to battle = 戦争へ/戦場へ」という意味ですが、チェコ軍隊用語では「前進/進め」という意味もあるようです。 上記の背景や訳でお分かりの通り、この「U Boj」という曲は民族の名誉と独立、そして侵略者への徹底抗戦を全て象徴することが可能な曲でもあります。 最近では1999年のコソヴォ紛争において、戦場の兵士が残虐行為と共にこれを歌っていたことがCNNでも報道され、そのことで関西学院グリークラブに「U Boj」封印を強いる論調もWeb掲示板で見受けられました。 なお、もう少し世界史の流れの中で理解したいという方は下記を御覧下さい。 以下、「超人」早崎隆志様のサイト/ハイパーリンク世界史事典より転載しました。

オスマン・トルコ 第10代スルタン(族長):スレイマン1世(大帝)

治世1520年〜1566年、オスマン帝国の全盛期を現出した最大のスルタン。
トルコでは「立法者(カヌーニ)」、ヨーロッパでは「壮麗者 (エル・マニフィコ)」と呼ばれる。
46年間の治世に13回の遠征を行い (うち10回は東中欧、3回はイラン)、最大領土を保有。
ヨーロッパとアジア、アフリカにまたがる最強帝国としてオーストリア、フランス両国の紛争に関与するなど、
16世紀中期のヨーロッパ政局に大きな発言力をもった。
内政面では正規軍を増強、封建制度・教育制度・法制を確立し、基本法典『ムルテカ・エル・エブハル』を集大成するなどして、文運の隆盛を招いた。

〜〜治世中の主な出来事〜〜

1521
ベオグラード遠征(スレイマン最初の親征)

1522
ロードス島攻略(第2回親征)。
ムスリムに対する海賊活動を行っていたヨハネ騎士団を降伏させ、東地中海の制海権を確保。

1526
モハッチの戦い
ハンガリー王ラヨシュ2世を敗死させ、ハンガリーのほぼ全土を
支配下に置いた。
この後ハンガリーは1918年に至るまで独立を失う。

ハンガリーの防衛ラインが突破されたため、オーストリアはオスマン・トルコと直接対峙することに。
フランス王フランソワ1世は、宿敵ハプスブルク家のカール5世を倒すため、オスマン帝国に接近。

1529
第1次ウィーン包囲
2万4000の兵と砲30門、ドナウ渡河用の舟800艘を用意して、ウィーン攻略に向かうが、大雨で地面はぬかるんだため大砲の威力が発揮できず、失敗。それでもこの事件はヨーロッパ世界を震撼させた。

1534
スペインに服していたチュニスを奪取。
北アフリカにおけるオスマン帝国の地位を強化。

1535
フランスに「キャピトゥレーション (トルコ領内での居住・通商等の保証状)」を与える(最初のキャピトゥレーション付与)。

1536
フランスと同盟。

1538
プレヴェザの戦
大提督(カプダン・パシャ)バルバロス・ハイレッディン指揮のトルコ艦隊が、ギリシア西岸アルタ湾口のプレヴェザ攻囲中の西欧諸国(スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇) の連合艦隊を撃破。
この結果トルコは全地中海の制海権を獲得。

1541
ハンガリーを再び属州化。

1543
サファヴィー朝に対する遠征を開始。
バグダード、バスラを占領、イラクのほぼ全土を支配下においた。

第7次遠征
東欧のトランシルヴァニアに進軍。

第8次遠征
トランシルヴァニアに宗主権を認めさす。

第9次遠征
ハンガリー諸市の反乱を鎮圧。

第10次遠征
サファヴィー朝の内乱に乗じ、ダブリーズ、イスファファンまで進入。

第11次遠征
ヨーロッパに向かう。

第12次遠征
再びサファヴィー朝の内乱に干渉。

1566年9月6日
ヨーロッパ戦線へ出陣したスレイマン1世は、ハンガリーのジゲットヴァル要塞の攻略中に陣中で没す。