2005年“聖夜”に考えたこと

ウルクの遺跡の空に

ウルクの遺跡の空に
きょうも青い星が瞬いていた
砂漠を流れるユーフラテス
霧に霞む大河は6000年もの
殺戮の歴史を浮かべ
きょうもペルシャの海へと注ぎこむ
なぜ、人間は神の名をかりて人間を
殺し続けるのか?
メソポタミアの大地は、きょうも
赤い血に染まり
砂嵐の泣き声に覆われている
ウルクの遺跡の空に
きょうも白い月は輝いていた


 この詩は、私が参加している、友人主宰の小さな研究会で、出された宿題のために書いたものです。先生は竹内靖幸牧師。その課題は、空、青、赤、白という四つの言葉を使って、詩を書いてきてください、というものでした。

 ちょうどそのころ米英軍のイラク爆撃がはじまって間もないときで、連日のように、民間人の被害がニュースに取り上げられていました。それが、とても気になっていて、このような詩が生まれたのでしょう。ちなみに、ウルクは、史上最古の文章(粘土板)が見つかったシュメールの古都です。世界で最初に文字が発明されたのも、ここウルクではないか、といわれています。他に、円筒印章も発見されており、旧約聖書にでてくるノアの洪水物語の原型となったであろう話も、紀元前3000年のシュメールに残されていました。このほかにも、旧約聖書と重なる物語が数箇所見つかっているそうです。

 さて、この小さな研究会は、元共同通信社で記者をしていた佐藤恵子さんが、竹内牧師の説教に魅せられて自宅を開放して始めたものです。彼女は、クリスチャンですし、常時出席されている8人ほどは、私を除いて、全員、ほぼ信仰を持っておられる方ばかりだと思います。しかも、男性は牧師さんと、私だけという女高男低の会となっています。

 では、なぜそのような会に、クリスチャンでもない者が、月に1回とはいえ、足しげくかよっているのかといいますと、佐藤さんと、過去、長年一緒に仕事をしてきたという関係もありますし、「旧約聖書」を、無料で、かなり本格的に教えてもらえる機会は、そうそうあるものではないからです。そうはいいながら、場的には、醜いアヒルといいましょうか、ストレイシープといいますか、ちょっと、行き場を失って迷い込んだ、闖入者といった感じは免れません。それは、調子っぱずれの声で、賛美歌を歌ったり、クリスチャンなら決してしないような質問を、牧師さんにしてみたりして、不躾なことこのうえありません。現在、東京神学大学に通い、将来、牧師になることを目指して、勉強に励んでいる女性もいますし、小さいころから、教会に行っていた方もいるので、私の幼稚な疑問に答えてくれる先生に、不足するという心配はありません。その点は大変恵まれています。

 「なぜ、バチカンは、強い影響力があるといわれながら、”イラク戦争“を止めることをしないのか」、とか、「なぜ、ユダヤ教の国、イスラエルは、逃げ場のないパレスチナ人の難民たちを、痛めつけるのか」など、宗教界の歴史や内情に無知な私は、つい、このような、単純で、素朴な疑問を口にしてしまうのです。

 現代において、神を戴く宗教が、戦争や、民族紛争を止めることができず、おまけに、異なる宗教同士、相対立して抗争に堕するようでしたら、それは、人間を超えることができない、単なるナショナリズムと同じで、宗教としての存在意義は、あまりないといってよいのではないでしょうか。あるとき、竹内牧師は、そのような不満をもつ私に気づいてか、さりげなく、次のようなことを口にされたのでした。「申命記には、神のことばとして、ユダヤ人以外の他国人を、虐待してはならない、とちゃんと書かれていますから、国の指導者たちが、旧約聖書を読んでいないか、聖書に書かれていることを忘れているのかもしれません」と教えてくれました。聖職者と政治家とは違うということかもしれません。政治家は個人的にも、党派的にも、あるいは国家間においても利害と矛盾を超えて活動をするということはほとんどありえないのですから…。

 そこで、私は、家に帰り、さっそく旧約聖書を開いてみることにしたのです。申命記24章の14節に「貧しく乏しい雇人は、同胞であれ、またはあなたの国で,町のうちに寄留している他国人であれ、それを虐待してはならない」(旧約聖書)。そして、その理由としては、18節に「あなたはかってエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主(しゅ)がそこからあなたを救いだされたことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである」(同上)と。しかし、殺してはいけないという神の命令は、見つけることはできませんでした。旧約聖書を全部丹念に読んではいませんので、どこかにそのような神の言葉を見つけることができるかもしれません。時間をかけてじっくり読んでみたいと考えています。

 それはそれとして、旧約聖書に、ざっと目を通しただけでも、驚くことに侵略はもちろん、戦争、殺戮の話しが、次から次に出てくるのです。なかでもカナンの地を中心としたあの辺り一帯では、紀元前から、シュメール人、アッカド人、イスラエル人、ぺリシテ人、バビロニア、アッシリア、ペルシャ、トルコ、エジプトと、ともかく、絶え間なく戦いは繰り返され、まさに、征服、侵略戦争の博物館といってもいいほどのところです。

 古代では、神と王様は仲がよく、神もしばしば率先して、戦争に加担することも多かったようです。イスラム教のコーランでは、戦争や殺人などについて、どのように書かれているか、残念ながらまだ調べていないのでわかりません。最近よく耳にする「ジハード」(jihad)について、宗教事典で調べてみますと、一般には、“聖戦”と訳されていますが、語意は、“努力”だとありました。イスラム教の信仰者は、不信仰者に対して戦いを挑むのは、モスレムの義務とされていると説明されています。ただし、それが“聖戦”か、否かを判断するのは、宗教指導者たちだそうですが、これは、他の宗教を信仰している者、あるいは、信仰をもっていない人間にしてみれば、迷惑この上ない話です。しかし、イスラム教の問題は、私自身勉強不足ですから、よく研究する必要があると思います。

 ニューヨークの9・11以来、ヨーロッパ、中東、アジアなどで、イスラム教徒の“自爆テロ”というのが、盛んに繰り返されていますが、つい、日本でも、かって第二次世界大戦のときに、“特攻隊”というのが存在したことを、思い出さないではいられません。“特攻隊”を命じられた当事者、なかには、志願した人もいるかもしれませんが、いったい、戦時とはいえ、“死”をどのような納得の仕方で、受け入れたのか、そのことが気になって仕方がありません。イスラム教徒と同じように、“信仰”、もしくは、“信仰”に近い心理状態と考えるべきなのか、理解の難しい問題です。

 しかし、いずれにしても、地球上の生きとし生けるもの、人間の命もそうですが、もし、神、あるいは、サムシング・グレート、呼び方はなんでもいいのですが、ともかく、人間を超えたなにかによって、命が与えられたのだとすれば、人間の都合や勝手な考えで、寿命を端折って、しかも罪もない他者の命まで巻き込んで犠牲にするという行為は、神、グレートスピリットに対する冒涜とはならないのでしょうか。人間が、細胞か何かを、いじくってつくりだした命でしたら、その作者に生殺与奪の権利はお任せするしかないにしてもです。“天国”や、“極楽”にどうしても行きたいということであれば、この世で、与えられた命と能力を、十二分役立て尽くしてからでも遅くはないと思います。ともかく、学校や会社勤めに行くわけではないのですから、急いで、自らの命を犠牲にする義理はなにもないと思います。私たちは、この世に生まれてきた理由や意味、を理解することは、そう簡単なことではありません。それに気づくことがないままに、早々と、命を放棄してしまうというのは、やはり、神、グレートスピリット、人間を超えたなにかにたいする、背信行為といわねばなりません。

 自爆テロについても、同じような疑問が残ります。イスラム教の“指導者”と日本帝国の指導者”を相互に入れ替えて考えてみると、そこには、あまり違いはないようにに思えるのです。つまるところ、人間が人間の利害のなかで、人間に自死”を強いる、命ずるなどといった権利は、誰ももってはならないことではないでしょうか。

 それにしても、旧約聖書にまでさかのぼると、もう、目もくらむような戦いが、繰り返し、繰り返し行われていることに、驚かないではいられません。偉大なる神が、あちこちに存在していながら、この有様ですから、人間の戦争好きには、神様もお手上げだったのかもしれません。

 現在のイスラエル人、パレスチナ人の祖先たちは、紀元前1100年代の初めから紀元前1000年代の終わりにかけて約200年の間、サウル王、ダビデ王の時代に、早くも激しい戦いをしています。それ以降も、領土を取ったり取られたり、何度となく戦いを繰り返しています。豪傑で有名なサムソンは、イスラエル人ですが、彼はぺリシテ人、即ちパレスチナ人の美女、デリラに恋をして熱心に通い詰めたという話しは有名です。現代でしたら、絶対、週刊誌やテレビのワイドショウが、ほっとかないスキャンダルだと思います。古代では、イスラエル人とパレスチナ人とは、結構、交流は盛んで、交際、結婚なども少なからず、行われていたのではないでしょうか。申命記の神のことばなどを読むと、今ほど、人種偏見や、宗教的対立はひどくなかったのでは、とも想像してしまいます。

 こうみてくると、どちらが正しく、どちらが間違っているかなど、容易に判定はくだせません。おまけに、第一次世界大戦時に、イギリス政府は、政治的思惑から、アラブとは「フサイン・マクマホン協定」で、戦後のアラブの独立を約束し、一方では、「パレスチナの地に、ユダヤ人の民族的郷土を設立する」という、いわゆる「バルホア宣言」をし、今日まで、その混乱の尾を引きずってきています。これでは、政治的に収拾をつけようと思っても、容易に決着をつけることはできません。しかし、私が常々思っていることは、「宗教」だけが、様々な利害を超えることができる可能性を秘めているのだと考えたいのです。「宗教」が、政治や経済といった世俗の事柄に関与し、国家間の戦争、地域紛争(宗教や民族対立など)、組織間、家族間、個人レベルの問題であれ、殺傷行為にコミットするようでは、オウム真理教と同じく、「宗教」の存在意義はまったくなくなってしまいます。私は、個人的にですが、国家や民族の利益を代表するような「宗教」、政治や経済と結びついた「宗教」は、信じないように日ごろからこころがけるようにしています。なぜなら、ある特定の国、民族、組織が、まず、政治や経済と結びついていることがわかったら、戦争や紛争、殺人などを阻止できるはずはありませんし、それが、できないようでしたら、そのような「宗教」は百害あって一利なしといわねばなりません。しかし、歴史を振り返ると、「宗教」は、いつの時代でも、国や政治に利用されましたし、また、逆に利用したりという例も、数多く認められます。したがって、これからは、「宗教」自身、しっかりした宗教哲学、教義を確立し、政治、経済から距離を置き、自立した活動を展開できなければ、存続していけないのでは、と考えています。