ミクロの視点でマクロを考える

「与那国島サトウキビ刈り援農隊」30周年記念講演会に出席して
                       

 沖縄最西端に、与那国島という小さな離島があります。その島に、本島から、毎年、サトウキビ刈り援農隊というのが出かけて行きますが、それが、今年で30年を迎えることになったそうです。

 その送り出し機関は援農舎といい、代表世話人をしているのがジャーナリストの藤野雅之氏という方です。その藤野氏の講演会があるというので、11月26日、会場の東京経済大学に行ってきました。

 第一回の「サトウキビ刈り援農隊」が、与那国島に送り込まれたのが、1976年ですが、私はその最初のメンバーのひとりとして参加していたのです。

「サトウキビ刈り援農隊」に参加した理由とは…

 ここで、私が、なぜ「サトウキビ刈り援農隊」に参加することになったのか、動機について触れておこうと思います。当時、私は、共同通信社の「レジャー文化部」に、若者をテーマにした原稿を書いていました。そこに、共同通信社の記者が、一般の若者を募って、沖縄にサトウキビ刈りの「援農」に行こうという計画をしているらしい、という話しが伝わってきたのです。

 では、ちょっと、面白そうだから,取材してみよう、と現在の代表世話人,当時、共同通信社の文化部の記者、藤野氏と、同じ社の、社会部記者、黒田勝弘氏(現在、産経新聞ソウル支局長)に会い、話を聞いたのが、そもそものきっかけでした。そこで、私も、同行体験取材をすることになったというわけです。

 私には、もうひとつ別の動機がありました。それは、当時、アメリカやヨーロッパ、オーストラリア、日本などの、学生運動に疲れた若者たちや競争社会からドロップ・アウトした若者たちが、自己発見とオルタナティブな生き方を求めて、盛んにロンドン(イギリス)─カトマンズ(ネパール)間を、バスや列車で行き来していました。私は、それまでずっと、若い世代が抱える問題に関心をもち取材を続けていました。

 しかし、そのころ、若者たちが、社会に突きつけていた諸問題、カウンターカルチャーやサブカルチャーなどが、次第に変化し、いわゆる大人社会に吸収され始めていることに気づき、「若い世代の問題」として取り上げる方法は、そろそろ終わりに来ていると考え、一応の決着をつける意味で、若者たちが放浪するロンドン─カトマンズ間を、彼らと同じように旅をしてみようという計画をたてていたのです。しかし、肉体的に多少の不安があり、また、アジア・ハイウェイ沿いの暑さに耐えられるかどうかにも自信がなかったため、事前にシュミレーションの必要を感じていたのです。

 そこに、「与那国島サトウキビ刈り援農隊」のニュースが飛び込んできたというわけです。もちろん、援農隊に参加したいというひとたちの考えや動機など、特に若い参加者のそれは、私自身の仕事のテーマでもあったことは確かです。その意味でも、良い機会ではあったのですが、しかし、参加の動機としては、やや、よこしまだったことは、隠しようもありません。

 その点、私とは違って主宰者の藤野氏、黒田氏たちの、動機や問題意識は真剣そのものです。沖縄が、日本に返還されたのが1972年5月15日。同じ9月には日中国交の回復締結となり、沖縄は様々な矛盾や問題を抱えることになりました。なかでも与那国島は深刻でした。石垣島と与那国島間の距離は、127キロ。これは台湾との距離、111キロよりも遠く、離島というより“孤島”と呼ぶ方がふさわしい、大変不便なところにあります。学校は中学校までしかありませんから、高校は島の外に出て行かなければなりません。しかし、いったん島を離れると、帰っても仕事がないということもあって、藤野氏の報告にもありますが、99%は戻ってこないという状況です。そのため、与那国島の人口は、次第に減り、1960年ごろには、6000人いた島民が、70年には、2200人強、それが、現在は、1800人と激減、”過疎孤島”となってしまっています。

 島の主産業は、漁業と農業(コメとサトウキビ)、現在は、和牛の生産に力をいれ始めていますが、肝心の若い労働力がないため、復帰前は、台湾からの季節労働者に頼らざるをえなかったそうです。ところが、72年の9月、日中間の国交回復によって、台湾との国交が断絶となり、台湾からの季節労働者が島に来ることができなくなったのです。

 そこで、沖縄県は、政府に、韓国からの季節労働者の受け入れを要請、5年間という期限つきながら、沖縄復帰特別措置というカタチで認められたのです。ところが、与那国島にも、韓国からの季節労働者が、サトウキビ刈りに来島してくれたのですが、日本語が通じない、食の習慣が違うといったことなどから、いろいろなトラブルがたえなかったそうです。なかでも、2年続けて発生した作業中の交通死亡事故は決定的で、与那国島は、3年で韓国人労働者の受け入れを断念せざるをえなくなったのです。こうした背景があって、藤野氏、黒田氏らの「援農舎」設立はあったということでした。

 彼らは、これを機会に、本島の若者たちに、サトウキビ刈りを体験してもらい、かつ、与那国の人たちと交流し、沖縄の文化、経済、歴史などの理解を深めてもらえたら、このプロジェクトの試みにも大きな意義が生まれるのでは、と考えたようなのです。
その点、私などは、一回限りの参加なので、思いは主宰者と同じだとはいえ、コミットの深さには、雲泥の差があったのです。

 そのことを、つくづく思い知らされたのは、昨年、出版された藤野氏の著書「与那国島サトウキビ刈り援農隊―私的回想の30年」(ニライ社刊)=1800円+税=を読んでからでした。とても真摯で、かつ目配りのきいた報告書ですから、与那国、そして沖縄に関心のある方は、お読みください。

 テーマはもちろん、「与那国島サトウキビ刈り援農隊」の30年の回想ですが、その与那国島から、沖縄が、そして日本列島全体が見えてくるという仕掛けになっています。即ち、ミクロの視点で、マクロの世界を考えることができるという、とても質の高い内容の本なのです。


四度目の受難を迎えている与那国島

 講演会での藤野氏の話によりますと、与那国島は今また、四度目の受難に見舞われているのだということでした。その受難というのは、「平成の大合併」の荒波に,”孤島”与那国島が呑み込まれようとしているということです。以下は、藤野氏の講演会の話と、彼の著書からの、受け売りとご承知ください。

 この合併問題は、2004年にもちあがったのですが、それによりますと、石垣市と竹富町、与那国町の一市、二町が合併したらどうか、というものでした。そこで、与那国町では、島の伝統にのっとって、15歳以上50歳までの男女による住民投票が行われたのだそうです。

 結果、合併反対600票、賛成が300票で否決となったということでした。理由はいろいろあると思われますが、藤野氏の説明では、与那国島から石垣島までは、台湾に行くより遠い127キロも離れています。現在、ジェット機が1日2便運行されていますが、石垣市に役所の中心が置かれることになると、手続きにでかけるにしても、収入の少ない老人と子供主体といわれる島民生活にとって、大変な経済負担となってきます。もし、交通費の安い船を使うとなると、どうしても石垣市で一泊しなければなりません。老人が船で往復するわけですから、経済的負担のうえに、健康上の問題もでてきます。その他にも、いろいろ不都合な問題が横たわっているようです。

 与那国町の町役場では、現在の赤字財政を乗り越えるために、全島民あげて、島の自立を必死になって考えているところだということです。昨年、与那国町役場は、「与那国自立ビジョン」を決定、発表したそうです。

 ひとつは、役場の人員削減とスリム化です。町長の給与はカット、役場職員は、現在の120人を、80人に削減する。役場の仕事の一部は、住民自らが行う。ふたつ目は、政府が提唱している「地域間国際交流特区」の申請を行い、台湾との交易を認めてもらい、タックス・フリーの交易中継基地にする。という内容のものでしたが、今年(2005年)10月に却下されたそうです。しかし、与那国島民は、死活問題なので、これからも、粘り強く、政府に働きかけをしていくそうです。

 与那国島は台湾と、111キロしか離れていないため、昔から、緊密な交流が盛んに行われていたそうです。1972年9月、日中国交回復が締結される前までは、与那国のサトウキビ刈りの援農には、台湾から大勢の労働者が来島していたのだそうです。

 私が、援農隊のメンバーの一人として与那国島に行ったときにも、地元の人から、「台湾の人たちは、島のキク科の薬草を取りに、小さな漁船で来ては、島の人からお茶をよばれて、帰っていっていた」という話を、よく聞かされました。昔から、与那国の島民と台湾の人たちの間には親密な交流があったことは、確かなようです。

 それでは、与那国島の最初の受難について書いておきます。もちろん、これも藤野氏の受け売りです。それは、今から遡ること約400年まえのことです。島津藩は、琉球王国を侵略、全島に苛酷で、重い「人頭税」を課したのです。与那国島もそれを免れることはできず、大変苦しい状況に追い詰められた生活を強いられたのです。

 この島には、今も、トゥング・ダと呼ばれる場所が残されていますが、ここは、田んぼのあとで、村長の号令で、全島民に集合がかけられたといわれます。そして、田んぼに入れなかった幼児や、障害者、老人たちが犠牲にされたと、伝えられています。「人頭税」が、あまりにも重いので、島民の数を減らさざるを得なかったのです。農業で自給自足の生活しかできなかった当時の島民の悲惨な物語です。

 二番目の受難は、沖縄の、日本復帰直後のことです。ちょうど政府の音頭とりもあって、大々的に、「沖縄海洋博」が打ち上げられました。その関連事業に、与那国農協は、組合員の預金を、貸し付けたところ、会社が倒産、農協は破産状態に陥ってしまったのです。

 ちょうど、私たちが、第一回「与那国島サトウキビ刈り援農隊」として、出発直前のことでした。そのため、1月出発の予定が大幅に遅れ、結局、私たちの作業開始は、2ヶ月遅れの3月6日ということになったのです。

 島のサトウキビ農家にとって、サトウキビが畑でそのまま立ち枯れということにでもなったら、それこそ、現金収入の道がとざされ生きていけなくなってしまいます。与那国島町役場は、方々に手を尽くし、借金をして、製糖工場を買いうけ、サトウキビの購入費用などを捻出、なんとか、この危機を乗り切ったというわけです。

 では、三番目の受難とは、どのようなことだったのでしょうか、それを、次にご紹介しておきます。それは、この第一回サトウキビ刈り援農が終わってまもなくのことだったそうです。つまり、与那国島を石油備蓄基地にしようという計画がもちあがったということです。島の住民は、上よ下へよ、の大騒ぎとなり、島民の意見は賛成派、と反対派に、真っ二つにわかれました。

 政府からの巨大な補助金が入れば、島の経済は大いに潤うと考えた人たちと、島の自然と、周辺の美しい海が汚され、島の経済に重要な漁業がダメになると考える人たちが対立したのです。しかし、この問題も、「ムラドウライ」(伝統的なムラの寄り合い)で、石油備蓄基地は誘致しないことに決定したそうです。

 このムラドウライという、与那国島独特の行政組織は、辺境の孤島という、悪条件のもとで生み出された先祖代々続く、島住民の優れた知恵のようにも思えます。

 ムラドウライは、4月と12月の年二回催されることになっているそうです。15歳から50歳までの男女全員が参加の義務があるそうです。この、ムラドウライの下部組織に部落ドウライがあり、ドウムティという人望の厚いリーダーが選出されます。その下に組ドウライという組織があり、世にも珍しい直接民主主義体制が、つくりあげられているのだそうです。50歳以上になると、ディキノーヤとよばれる顧問役、長老扱いということでしょうか。現在は、ムラドウライは、同志会に名前を変えて続けられているそうです。

 話しは変わりますが、与那国島の現在の年間予算は、およそ29億円だそうです。そして、毎年、1億5000万円の赤字がでているのだそうです。そこで。「与那国自立ビジョン」が重要になってくるのですというわけです。政府は、地方交付税などの補助金を今後減らしていく方針を固めています。そうすれば、なんとしてでも、自立体制を確立する必要がでてきます。しかし、孤島の与那国島には今も、決定的な妙案は、見つかっていない、ということです。
12月5日