タイ・チェンマイに孤児施設を開設


PROFILE
「バーンロイサム」代表
名取美和(なとりみわ)さん

孤児施設「バーンロイサム」代表。タイ・チェンマイ郊外在住。1946年東京生まれ。1962年、慶応義塾女子高校1年のときにドイツの美術学校へ留学、その後、商業デザインを学ぶ。帰国後、雑誌や広告の仕事に携わり、1966年にヨーロッパへ。日本とヨーロッパを往復しながら通訳、コーディネーターなどの分野で活躍。1981年、東京・六本木で西洋骨とう品店を営んだ後、1991年ヨーロッパへ。1997年にタイへ移住。インテリア小物のデザインや製作をしながら1999年より「バーンロイサム」("ガジュマルの木の下で"の意味)を運営。著書にフォト絵本『ガジュマルの木の下で』(岩波書店)がある。

下記の3点のポストカードは、ホームの子供たちが描いた絵。











大きな流れの中でたどり着いたところ

 私は、16歳でドイツの美術学校へ留学し、その後も、通訳や写真を撮る仕事など、いろいろなことをしていました。1981〜1991年まで東京・六本木で西洋骨董の仕事をしていましたがその帰り、自宅駅のロータリーで、疲労のため気を失って倒れたことがありました。でも誰ひとり立ち止まってくれなかったのです。皆、素通り。無関心。本当にショックでした。それを機に知人に店を譲り、1991年、ヨーロッパに出かけたのです。ドイツで生活したり、ギリシャの島でひとり暮らしをしていたのですが、1995年頃からアジアへ旅行に行き、1997年、お医者さんをしている友人を頼ってタイのチェンマイに行ったのです。そのお医者さんは亡くなっていく人たちをいかに心地良く看取るか、というワークショップをしていました。私はここで初めて200人くらいのエイズの人たちに会ったのです。

 私はクッションカバーやベットカバーをデザイン・制作する仕事をしていたのですが、当時はチェンマイに住む健常者の方に委託して作っていました。HIVのワークショップに出てみると、みんな大変な生活をしていることがわかりました。ご主人が亡くなって、子供と自分が残されて差別にあって働くところがない。それなら、こういう人たちと一緒に仕事をしたほうがいいのではないかと思い、私の仕事をしてもらうことにしたのです。

 私がチェンマイに来て1年半くらいたった頃です。ジョルジオ・アルマーニ・ジャパンという会社が「HIV感染者のために使ってほしい」と、支援の申し出があり、母子感染した子供たちの孤児院を始める決心をしたのです。最初から「やりたい、やらせてくれ」ということで始めたわけではなかったのです。

 土地を探して契約して、建物を建てて、スタッフを集めて、1999年の11月2日に12人の子供を受け入れました。それからは試行錯誤の連続です。これまで特に「ボランティアをしたい、福祉の仕事がしたい、子供の仕事がしたい」と思ったことはありませんでしたから、本当に、大きな流れの中でここにたどり着いたという感じなのです。私は今56歳ですが、この年で一生できる、やりがいのある仕事に出会ったということは非常にうれしいことですし、プロジェクトとして考えると大変興味深い仕事です。やることはいっぱいあるし、考えなくちゃいけないことがいっぱいあります。


自信を持って生きるとは

 HIVというのは感染していても発症しないかぎり元気で普通の子供たちと変りなく成長します。現在1〜11歳までの26人のHIVの母子感染をした子供たちとチェンマイ郊外で一緒に暮らしています。何人かの子供たちは両親が衰弱して亡くなり、村で差別にあって孤児になり親戚の家や施設を転々としていました。私たちから見れば短いながらも過酷な人生を過ごしてきたと思うのですが、とにかく明るい。彼らは肉体的には厳しい環境にいるのですが、精神的には元気いっぱいで生活できていると思います。

 HIVは、感染している妊婦さんから生まれた子供の約3割が母子感染します。うちの子供たちはHIVを背負って生まれてきたのだけれども、彼らに罪はない。しかし、これから社会に出ていくとき、彼らにはなんらかの差別があります。そのときに、自分を大事に、自分を信じ、自分を愛して、自信が持てれば、どんな状況になってもくじけないで生きていくことができるのではないかと思います。自分が自信の持てるもの、それが絵でも勉強でもいい。音楽でもいい。大工さんになるのでもいい。お金を稼ぐということだけではなく、自信を持って生きていくことができれば、差別も乗り越えられるのではないか、と思うのです。

 26名の子供たちのうち、絵を描くことの天才がいます。粘土をしてもうまいし、遊びを見つけるのも上手。踊りが上手な子。勉強ができる子・・・。十人十色といいますが、26人それぞれの才能をもって生まれて来ます。私が努力しているのは、子供の才能、好きなことを伸ばしてあげること。大人になって好きな職業に就くことができれば幸せだと思うのです。幸せのときってみんなに優しくできます。

 タイでは大きな子が小さい子の面倒を見るのはあたりまえです。子供たち同士仲がいいと思います。具合が悪い子がいたらそばに座って背中をさすってあげる。自分たちがひとつの家族だと思っています。ホームは自然の真ん中にあって、スラチャイは棒が1本あったらまたの間に挟んで魔女になるし、葉っぱを見つけると首飾りを作ります。木に登ったり、ハンモックやブランコに乗って遊んだり、じっとしていない、いつも動き回っています。

 これが子供本来の姿であって、テレビゲームや塾に通う・・・日本の子供たちの方が不自然で病んでいるように思います。日本では小さいときに芽を摘まれ、芽が出る前にこうあるべきという型にはめられてしまう。息苦しいけれどもそうやって学校生活を送っているのではないでしょうか。日本に帰っていつも思うのは、子供たちは周りに生かされている、という状況で、自分で生きている、という実感がないのではないかな、ということです。ものは豊かですし、子供たちは学校へ行きます。三食おいしいものを食べることができるのになぜこんなに元気がないのかな。


死を見つめるということ

 タイでは基本的に三世代、おじいさん、おばあさん、それからお父さん、お母さんと生活しています。ですから兄弟が生まれるところ、おじいさん、おばあさんが病気になって亡くなっていくところを目にする機会がありますけれど、日本では自分の家では子供を産みません。たいてい病院で産まれて、病気になると病院に入れられて、亡くなると病院からそのまま火葬場へ運ばれます。

 うちの子供たちは、荼毘にふされて煙が上っていくところまで見ています。死は、誰にでも訪れることですし、それを知っているほうが元気にしっかりと生きられると思うのです。うちの子供たちは友達が亡くなっていくところを見ていますから、"生きる"ことに日本の子供たちよりも一生懸命になっていくと思います。

 これまで10人の子供を看取りました。9歳の男の子ロートが亡くなったときは、病院でした。日本の病院と同じに管をつけられ、蛍光灯の光の中で、酸素マスクをつけようとしたとき、「もう何にもしないで死なせてちょうだい」と言ったそうです。もう病院では死なせたくない。ホームで、そして腕の中で看取ってあげたいと思いました。

 この前亡くなったピシットはモン族という山岳民族のかわいい6歳の男の子でした。亡くなる20分くらい前でした。彼が苦しそうな顔をしたとき、保母さんが泣いてピチットにしがみつきました。するとピチットは保母さんを手でなでて慰めるのです。小さい死に行く子供たちがどれだけのことを考えているか・・・。

 ピシットはホームで2年3ヶ月一緒に生活していました。亡くなる2日前に他の子供たちみんなに話をしました。「人はみんな死んでいくのよ。そこのトカゲだって、ヤー(犬)だって死んじゃったね。この木だって葉っぱが枯れちゃって、形あるものはなくなるね。ただいつ死ぬかっていうことは神様が決めていて私たちには決められないのよ。でもピッチットには、そのときが来て、たぶん今日か明日、天の母さん、父さんに会いに行くよ」。話を聞いた子供たちが、「ピチット死んだらお化けになるの?」と尋ねました。その後「ピシットは死んじゃったの?天国にいるの?」と、自然に受けとめてくれましたね。火葬はオープンエアで、薪を組んでガソリンをかけて燃やします。それを私たちは最後まで見ています。やっぱりそこで何かが終わったと思います。ピチットの魂は天に昇って、いつか生まれ変わると思います。子供たちにも、「体は洋服でトカゲは死んじゃったら腐っちゃうよ」と説明しました。

 タイでは、人は亡くなってまた生まれ変わる、って信じられています。ある意味、HIVに関してはいいことではありません。また来世があるから、やりたいことやろうって、他の人と関係をもって感染者を増やしてしまうという事実もあるわけです。

 私たちが成長するには90年、100年生きても足りないと思いますから、例えば今、小学校の3年生だとしたら、今度は小学校4年生に生まれ変わって来る。タイではそう思われています。子供たちは何の罪も犯していないし、何のカルマもしょってないって言い方するのですが、次回生まれてくるときには、本当にすばらしい人生が待っているだろうって。私も、そう言われたほうが楽ですからはじめはそう自分を納得させていたのですが、今では本当にそう思います。ホタル見たりちょうちょ見たりすると、ああ、○○ちゃんが帰って来た、と思ったり・・・、亡くなった子供たちが身近にいる気がします。こうした体験から、生きるってすばらしい、ひとりひとりの人間ってすばらしい、って教えられました。


モノづくりをしてクリエイティブな場所にしていきたい

 私の父は写真を撮る人(※名取洋之助氏=昭和時代の名写真家)でしたから、ほとんど家にはいませんでした。母は私が4歳のときから病気治療で家にはいませんでした。そういう意味で親は教育してくれなかった。わりと放っておいてくれたのです。中学校の最初の日、私はスキーへ行っていて始業式には出ませんでした。親が、「一緒に行こうよ」って連れて行ってくれたのです。周りの人に何か言われるのではないかということよりも、今日はこうしたいから、こうすると。価値判断の問題ですね。

 私が小さいころ絵を描いていると、よく父がほめてくれました。「大きくなったら何になりたい?」と父に聞かれて、「デザイナーになりたい」と答えると、「じゃあ、中学卒業したら外国へ行っていいよ」と言ってくれました。まだ、外国へ行く人が少ない時代でしたから、母は「15歳では早過ぎる。高校を出てからにしなさい」と反対でしたので高校へ行ったのですが、学校が嫌いになって1年で辞め、16歳でドイツの美術学校へ行きました。ドイツの先生は描いた絵をほめてくれました。先生はほめるのが上手ですね。子供は怒るよりもほめるほうがいい。ほんのちょっとのことでもほめられるとうれしい。日本の学校ではほめられた記憶はありません。

 西洋はカトリックの国ですから、困った人がいたら手をさしのべようというのが普通です。日本は、どちらかというと自分のために人に親切にしようとする・・・、これって何か違うと思います。また、最近は人と人とのコミュニケーションも殺伐としているように感じます。隣の家の人にも「ちょっと出てくるからよろしくね」って、気楽に迷惑のかけっこをしたほうが、コミュニティとしてはうまくいきます。「私は絶対に迷惑をかけないようにしよう」と思っても、そんなことはありえないわけですから。もっと自然でいいと思うのです。あたりまえに人が親切になって、その延長線上にボランティアが広がってくれればいいな、と思っています。

 ホームの運営は、今のところ企業や個人のご寄付に頼っているのですが、できるだけモノを生産し、それを買っていただいて運営できればベストだと思います。絵を描いたり、陶器、陶芸・・・・。それから今私たちは草木染めをやっています。ホームにある葉っぱを使ってブラウスを染めています。日本の福祉は何か暗くて規制が多くて開放的じゃない。それがいやなので、もっともっと明るく楽しくモノを作っていく、クリエイティブな場所にしていこう、そんなふうに将来は考えています。




(ステップアップぴあ2003.2掲載)