みのりのある日々

恩返し

深田みのり(日本語教師)


 今、アパートの1階に住んでいる。ここに越してきて、私ははじめて1階に住む人の気持ちを知った。2階のドスンドスンという足音。時にはジャンプもしている。庭には洗濯物が落ちてくる。風が強い日はマットや敷布団も落ちてくる。ベランダの植木に水をやっているのか、水がジョーっと滝のように降ってくる。酔っ払っているのか空き缶も飛んでくる。さすがに空き缶は許せないが、それ以外は決して怒る気になれないどころか、私はいそいそと落下物を届けに上がる。恩返しである。

 越してくる前に住んでいた部屋は2階だった。その1階の住人は一人暮らしのおばあさんであった。私が外出先から戻ってポストを開ける。すると私が落とした洗濯物の靴下が、ティッシュにくるまれて入っていた。ある時は洗濯挟み。お礼を言いに訪ねると、「ああ、いいんですよ」とメガネの奥の目を細くして言った。

 しかし、がさつな新米店子はあまりによく落とすため、訪ねるのも気が引けて、そのうちポストの前で頭を下げるようになった。

 もちろん、落としたことに気づけば自分で取りに行く。ペコペコしながら庭に侵入するわけだ。庭は丹精に手入れされている。思わず「きれいですね」と言うと、「これは昨日植えたの。こっちのは・・・」というふうに、ふと気づくと花園に招かれたような気になって帰ってくるのである。

 ある日、私は何と敷布団を落とし、おまけに気づかなかった。そして彼女はやせた体で2階の私の部屋の前まで担いできたのだ。すまない気持ちでいっぱいになりながら、「パンジーは大丈夫だったでしょうか」と聞くと、「大丈夫でした」と言ってはいた。が、ベランダから見下ろしてみると、右端の群れがひしゃげているのが2階からでも瞭然だった。

 後日、お詫びに和菓子を持って訪ねた。以前、山口県に住んでいて広い庭を持ち、染色をやっていたこと、ご主人が亡くなったこと、娘のいる東京にやってきたが、結局この小さな2Kの部屋にひとりで住んでいること、長年俳句をやっており、最近先生に薦められて初めて句集を自費出版したこと。

 話のひとつひとつが、初めて聞くことなのに前から知っていたかのような不思議さで染み込んでくる。四季折々の花を咲かせ、ご主人と眺め、染物作業をしたその庭は、今も彼女のなかにある。

 あれは春一番が吹いた日だった。買い物帰りだろうか、アパートの門のところで出くわした。片手に花を持っているのを私が見つけると、いたずらを見られた子どもの表情になった。「道端で摘んだんです。可愛かったので」 そういう彼女こそ可愛かった。春風に吹かれて、白髪がタンポポの綿毛のように、野原に飛んでいきそうだった。

(地球人通信1997.4)