ダライ・ラマ法王の"慈悲"          
河音 元

 
チベットの死者の書

 チベット仏教に、初めて関心を抱いたのは、いまからおよそ30年前のことだったと思います。おおえまさのりさんが、「チベットの死者の書」(w・y・エバンス−ウ"ェンツ編、ラマ・カジ・ダワ−サムドプ訳)を訳し終えた直後、その内容と、チベット仏教について解説してもらったのを、いまでも記憶しています。

 この「チベットの死者の書」は、最初、おおえさんは、茶褐色の布製カバ−を施した、チベット経典そっくりの私家版の本をつくり出版しました。それが、後、当時、講談社の役員をしていた方の目にとまり、1974年、新たに講談社版「チベットの死者の書」として出版され、今なお、ロングセラ−がつづいています。


「地球交響曲」第二番

 それ以来、書店でチベット仏教関係の書籍を見かけると、思いつくままに買っては読むようになったのです。なかでも、ダライ・ラマ14世の著書は、比較的よく読んだ方だと思います。もちろん、修行が伴っていないので知識としては、中途半端なものに過ぎません。それでも、おこがましいことながら、いつしか、インドのダラム・サラまで出かけて行き、じかにダライ・ラマ法王の法話を聞いてみたいと思うようになっていたのです。とはいえ、それはいまだ実現してはいません。

 テレビのドキュメント番組では、何度かダライ・ラマ法王のあの独特の話し方と微笑みは拝見しています。しかし、より身近に感じることができたのは、龍村仁監督制作の「地球交響曲」の上映会を主催したときでした。上映会は計3回催しましたが、ダライ・ラマ法王が出演しているのは、そのうちの第二番でした。厳冬の夜明け前、ツクラカン大聖堂の屋上で、ダライ・ラマ法王を中心にして数百人の高僧が、一心に読経するシ−ンがあります。その研ぎ澄まされた精神の気迫は、僕自身、すっかり日常の生活のなかに置き忘れていたものでした。

  そして、この映画のなかで、ダライ・ラマ法王は、「その素晴らしい能力(知性)が建設的に使われるか、破壊的に使われるかは、その人が心の奥底に秘めている動機や意図によって決まってくるのです。だから、心の動機・意図が実は最も大切なものなのです。どんなに小さく見えることでも、それ単独で起こっていることは一つもない。すべては地球規模でつながっているのです。だからこそ地球を一つの生命と見る目が、今、必要なのです」(「地球交響曲の軌跡」龍村仁・編/人文書院)など、心に響くたくさんのメッセ−ジを語っています。


 そうした記憶が残るなかで、今年11月「ダライ・ラマ法王来日講演」が、東京・両国国技館で催されました。若いひとたちを対象とした講演ということでしたが、そうめったにある機会ではないので、応募はがきを出しておいたところ、入場券が送られてきました。当日、国技館の二階桟敷席からとはいえ、初めてダライ・ラマ法王を直接拝見することができました。無料だったということもあってのことでしょうが、館内には4500人ものひとがつめかけ、ダライ・ラマ法王ひとことひとことに耳をそばだて終始、静かに聞き入っていたことも感動的でした。

 たったひとりの人物の話に、4500人ものひとたちが、身じろぎもしないで耳を傾ける姿は、いまどき珍しい光景といわねばなりません。ダライ・ラマ法王の類稀な"慈悲のパワ−"には改めて心底驚かされたものです。ちなみに、この日の講演のテ−マは、まさしくその「慈悲の力」、英訳では「Power of Compassion」でした。


"慈悲"とは何か?

 ダライ・ラマ法王の著書を読んで気づかされることの一つに"慈悲"についての記述が繰り返し出てくることです。それまで、僕は、"慈悲"という言葉に特別な意味をこめて用いてきませんでした。しかし、ダライ・ラマ法王の教えによると、人間誰もが備えもつ最も重要な、根源的性質、感情だとされています。日常の瑣末な生活に追われ、あるいは、取り紛れて過ごしていれば、"慈悲の心"は小さく縮み、弱弱しいものに。逆に、つねに意識して、"慈悲の心"を育て、瞑想を通して鍛え続けていると、慈悲心は、ゆるぎない強固なものになるのだそうです。

 広辞苑で"慈悲"を引くと、次のような意味に出会います。仏・菩薩が衆生をあわれみ、いつくしむここと、と。このことからも、"慈悲"が仏教から生まれた言葉だということがわかりますが、ダライ・ラマ法王は「ダライ・ラマ平和のメッセ−ジ」(チベットハウス発行)という小冊子のなかで「大乗仏教の伝統の中で育った者の一人として、私は愛と慈悲こそが世界平和の骨組みであると感じています。

  「
〜〜真の愛は、執着に基づくものではなく、利他主義に基づくものです。利他に基づく慈悲は、生き物に苦しみが存在する限り、その苦しみに対する慈悲深い対応を決してやめることはありません」と書いています。

縁起"とは何か?

 「相互依存性は、自然の根本原則です。生命の高次元の形態においてだけでなく、宗教、法律、教育といったものがない微細な虫の多くも自分たちの相互関連性を本能的に知覚し、それに基づいて互いに協力しあって生きています。ごく僅かな物理現象も相互依存性に支配されているのです。私たちの住む惑星から、私たちを取り巻く海洋、雲、森林、花々に至るあらゆる現象界はエネルギ−の微妙な形態によって生起しているのです。この正常な相互作用を欠くと、事物は解体し衰滅してしまうのです。」

  ダライ・ラマ法王は、仏教哲学の"縁起論"に基づいた見解を同じ著書の中で示しています。それゆえ、ダライ・ラマ法王は、人類の無知、欲望や執着といった煩悩により、その相互依存性が破壊的な方向へ傾くことは、是が非でも避けねばと世界中を説いて回っているのです。

"瞑想"とはなにか?

 その"慈悲の心"を育て、強化し,確固たるものにするには、どのような方法があるのでしょうか? ダライ・ラマ法王は、最適な方法として"瞑想"を挙げ、そのやりかたを教えてくれています。

 瞑想には、次のように二通りの方法があるそうです。一つは「分析的瞑想」、もう一つが「心を静め、安定させる瞑想」で、前者は、正しい見解を得るのを主目的とした方法です。後者は、心を陶冶し、利他の慈悲心を養うのを主目的としています。この二つの瞑想法は、別々のものとしてあるのではなく、適宜、入れ替えながら実践するのが良いようです。そして、瞑想は、短時間でも、毎日すこしずつでもつづけ、慈悲心を常に意識して育み、発達を心がけていけば、遂には「仏陀の境地」に至ることも可能だといわれています。

 その瞑想の実践修行を行う過程で、徐々に心から取り除かれてゆくのが、無知であり、怒りであり、傲慢さ、憎悪、疑心,妬みなど、執着と結びつきやすく、社会や世界に、苦の種を撒き散らす諸煩悩なのです。 
 
 ダライ・ラマ法王の著書「ダライ・ラマの仏教入門」(石濱裕美子訳/光文社)によると、チベット仏教には日本の仏教とは随分違った特徴を備えているようです。その一例に仏教論理学の重視があげられます。瞑想のなかに「分析的瞑想」があるのでもわかりますが、境内などで、試験担当僧と受験僧が両手を大きくひろげ、丁々発止の議論を戦わせる姿などは、テレビのドキュメント番組で見るまでは、まったく日本で見たことのない光景でした。また、ダライ・ラマ法王は、様々な仏典、高僧の残した仏教解釈の著書についても、鵜呑みにして覚えないように、と若い僧に忠告しています。自分でとことん考えたはてに、納得できる説を受け入れるようにと教えているのです。これは,師匠、すなはちグル(導師)を求める場合も同じで、何から何まで全て受け入れる必要はない、と説くのです。

 私たちは、つい、仏典や歴史上の高僧の書かれたものに、意見を言うとか、疑いの目を向けるなど、恐れ多くてとてもできないと思ってしまいます。だが、チベット仏教の世界では、「分析的瞑想」、「心を静め、安定させる瞑想」という実践的修行を通して得られた見解は尊重される伝統が確立されているようです。寺院の様々な儀式
五体投地のお祈りも日本の佛教界では見かけることはありません。

 瞑想も、修行もしたことのない一衆生にすぎませんが、なりゆきにまかせて、少しずつチベット仏教をカジッテ見たいと思っているところです。
 (2003.12.17)