ダライ・ラマ法王 来日 『心を訓練する八つの教え』(2日目)

 2003年11月1日、2日東京・両国国技館で「慈悲の力」をテーマにしたダライ・ラマ法王の法話会が開かれた。2日目は「心を訓練する八つの教え」。「慈悲の力」を得るためには、まず心に慈悲を育てる訓練をと、チベット仏教ランリ・タンバ著の『心を訓練する八つの教え』を用いわかりやすく説いた。

 ノートから要点を抜粋したもので、再録ではありませんが、ここにその内容を紹介します。いたらぬ部分があるかもしれませんが、ご容赦ください。(さとあみ)




 暴力を用いず他者におもいやりをもつとは。命あるものに害を与えない。知恵を育んで自分の心を高めていく。慈悲の心とは、他に対するおもいやりの心。私たちの心の本質はけがれのないもの。一時的にけがれていても取り除くことができる。


 どんな生き物もみな幸せを望んでいる。苦しみを望んではいない。どのようにして苦しみをなくすことができるのか。苦しみをもたらすものは、心が煩悩によってかきみだされるから。煩悩という間違った心のありようによって悪い行いをし、それによって苦しみが生じる。望まぬ苦しみは間違った考えから生じるのだとすれば、悪い行いをしなければ苦しみを抱かない。

  苦しみをどのように克服するか。 慈悲の心により解放される。物事はすべて因がある。因は自ら作り出すもの。苦しみがあるのなら、その因を取り除かない限りなくならない。「苦しみがなくなりますように」と願ったり、祈っているばかりでは、一向に変わらない。苦しみの因をなくすためには行動すること。

  幸せもまた同じで、「幸せになりますように」と祈ったり、願っているだけでは苦しみは取り除けないし、待っていても訪れない。幸せの因を作ればいい。自分も他者も共に幸せになる因を。すると同時に苦しみの因は消滅していく。幸せになるためには、まず幸せになるような因をつくらなければならない。

  苦しみは一瞬一瞬移り変わっていく性質をもっている。普段、幸せであると思っていることが苦しみに変わってしまう。ものは一時たりとも同じ状態ではない。何かが生じていずれはなくなっていく。そのとたんに滅していく。感覚による苦しみだけではなく、潜在する苦しみが顕在するということを認識しなければならない。

  苦しみの因を取り除くためには、願いとか祈りではなく、苦しみを自滅させることで、実現できる。間違った考えをなくし、正しい見解を自分の中になじませ、それを育てていくこと。

  空が晴れていることと、空に雲があることは、それが同時にあり得ない。寒い、暑い、これは同時には相容れないこと。どちらかが大きくなるとどちかは小さくなる。赤い花ととらえるか白い花ととらえるかは相容れない。心も同じで、対象物を正しくとらえるか、間違ってとらえるか、それは相容れないもの。だからもののありようを正しく知識として得たうえで、それを自分になじませて育んでいくことが大事。怒りの心をなくすためには、その反対の心、愛を育むこと。間違った行いをなくし、正しい知恵を自分の中に育んでいくことで、心にあるけがれをとりのぞくことができる。


 すべてのものが他に依存して存在している。自分のことだけを考えるのではなく、数限りない人のことを考えることによってより広く功徳を積んでいくことができる。私は黄色い僧衣をまとっているが、小さい時から解脱を遂げているわけではなく仏教を通して修行によって育んできているもの。

  他人を思いやると自分の心が広がりを持ってくる。自分、自分、私、私・・・と言う人やそういう心をもった人はより狭い心に囚われる。すべての人を思い、人をより大切に考えることによって自分自身の苦しみを小さく変えることができるし、気持ちがゆったりとしたものになっていく。いくらそう心がけても変わらないじゃないかと落胆するかもしれないが、長い時間をかけてなじませていくもの。心を訓練していくことで人生をよりゆったりと過ごすことができる。心の勇気をなくすことで何かを成し遂げられることはない。いつか成し遂げられるという自信をもって。人間は優れた知性を与えられているのだから。

当日配られた
心を訓練する八つの教え(byゲシェ・ランリタンパ・ドルジェ・センゲ)


第2部「科学と仏教の対話」より

 お昼の休憩をはさみ、午後からの第二部は、映画監督・龍村仁氏の司会で、ダライ・ラマ法王とノーベル賞受賞・小柴昌俊氏、DNA研究・村上和雄氏との対話が行なわれた。

  龍村監督:「私達に物質的豊かさと幸福をもたらしてくれるはずの科学の進歩が、20世紀後半、私たちはどこか何かおかしいんじゃないか、という思いを抱いた。たった一人の人間の破壊的な感情によって、大きな惨事を引き起こしてしまえる時代・・・9.11のテロ事件はジャンボジェット機、超高層ビル、情報機器など、科学技術の進歩がなければ起こりえなかった事件。それが苦難と全地球的規模の破滅をもたらしかねない状況を生み出した。しかし、20万人のアメリカ人がセントラルパークでの法王の講話会に集まったことを聞いて、当事国の人でさえ、これでいいのか、という不安を抱いていると思った。法王は20年近く前から科学者との対話を積極的に行なってきた。科学の進歩に見合うだけの私たちの進歩はあったのだろうか」

法王の話を抜粋して紹介します。



 日本の科学者とこうして会えて嬉しい。私はチベットの小さな村に生まれて仏教も科学の知識もなかったが、ダライ・ラマの名を得てから、回りの人からもらった車のおもちゃを壊したり、13世が持っていた映写機をいじったりして遊んでいた。機械のテクニックに強い中国人の若者(のちに僧侶)の影響で、テクノロジーに関心を持つようになった。私は仏教の勉強をしてきたと同時に、身体、宇宙、物理学、心理学を学んできた。仏教徒は自分で真偽を確かめる、つねにリサーチする、この立場は科学者の姿勢と似ているのではないかと思う。

 約20年前、私が科学者と会うことを熱望したときに、アメリカの女性が手紙をくれた。「科学は宗教を否定するかもしれないから科学者と会うのは危険です」と。私は「そんな心配ありませんよ」と返事した。それからアメリカ、ヨーロッパ、インドの科学者と対談を重ねてきた。意見を交換することによってお互いにとって役に立つことがあると思う。仏教は、心のサイエンスととらえる。心を助けてくれる力をもつ。祈りや瞑想で成し遂げられるわけではなく、科学的なアプローチで訓練していくことで、心の平和を得ることができる。


@@@(小柴氏の質問を受けて)
  さまざまな宗教は同じメッセージを伝えている。愛や、より幸せになるためのメッセージを伝えている。各宗教の教えが、修行者にまじめに伝わっていないのではないか。ある人たちは、宗教の名を使って権力に利用してしまう。また、大切な教えの実践が正しくない、間違えている。だからといってあるひとりの修行者だけが悪い、というわけではないと思う。

 仏教の中でも違ったさまざまな教えがある。釈迦は1つなのにその後さまざまな解釈がされている。1つの宗教があって1つの教えがある。そこに入ることで自分の心が狭くなってしまう場合もある。大きな国、あるいは地域にいくつかの宗教がある、コミュニティがある、ひとりひとりに会った選択があった方がいい。そして相互理解が必要。

  世の中にはさまざまな人が存在する。それぞれに違った教えの必要性があった。仏教だけでなく、他の宗教にも尊敬の気持ちをもたなければならない。私がイスラエルへ旅行したとき、大虐殺のことを聞いた。愛情、同情を示すならば、ヒットラーであってもスターリンであっても慈悲の心の種がある。ビンラディンも子どものころからそうだったのかといえば、そうではないと思う。彼を取り巻く環境によって育まれてきたのものだと思う。