秘密のアッくん 1 『秘密のコンパクト』の巻
「アッくん。起きなさーい、アッくんっ!」
珍しく母さんの声が僕を起こそうとしている。大抵は学校に間に合うぎりぎりの時間に鳴る目覚ましで起きる僕だけど、母さんに起こされるときは、その三十分は早い。
だからとっても眠いし、しかも昨日は遅くまで衛星中継でサッカーを見ていたから、更に起きるのが辛いのだ。
せめてあと十分・・・いや五分寝かせて・・・
「あーつーしーっ!」
突然目の前が光で一杯になり、布団が剥がされたことに気付いた。
業を煮やした母さんが、強硬手段に出たらしい。
「まぶしーよ、母さんっ・・・」
「何言ってるの。母さんもう仕事に行かなくちゃならないんだから、さっさと起きてちょうだい」
眠りを誘う暖かい布団が剥がされたことで、渋々僕はベットから体を起こした。
部屋のカーテンを全部開けきった母さんは、スラリとしたシルエットで立っていた。
朝から母さんの派手なピンクのスーツは、少し目に痛い。
「ご飯はテーブルの上。父さんはもう出かけちゃったわよ。あっ、母さん今日は遅くなるからよろしくね」
「今日って、連ドラの撮りだったっけ?」
僕はパジャマを脱ぎながら、学校の制服に着替える。
「そーよ。井上君と共演の・・・ね。やっぱり若い子はいいわねぇ。役とはいえ、あんな子を口説くなんて、おいしいと思わない?アッくん、羨ましいでしょう」
母さんは今年三十六歳とは思えない若々しい仕草で、僕を見て笑った。
ニッコリ・・・ではなく、ニヤリだ。
「ふん・・・別にいいもん。それより、下で高籐さんが呼んでるよ」
「あらっ、いけないっ。それじゃあ、ちゃんと起きて学校行くのよ。じゃあっ」 下の階から母さんのマネージャーである高籐さんの焦る声。
それに返事をしながら、母さんはさっそうと出かけていった。
「いってらっしゃーい」
僕はおざなりに手を振って、学校へ行く仕度をはじめた。
僕、沢村篤、十三歳の母親である沢村明子は、芸名神沢亜希子という名で女優をしている。そう、いわゆる芸能人って奴だ。人妻で、歳もいってるけど、そのちょっときつい感じの姉御肌な芸風と、色気のある外見で、あちこちのドラマでは必ずと言ってもいいほど、顔を見る人気役者だと思う。
旦那である僕の父さん沢村忠士は、普通のサラリーマンをしていて、芸能界とは全く関係ないのだが、芸能人である母さんと並んでいても釣り合いがとれるいい男だ。ダンディで紳士服のモデルやっても似合うと思う。
そんな美形二人の間に産まれた僕が、不細工なわけがなく、着々と美少年に成長している・・・途中だ。はっきり美少年と言い切れないのは、まだまだ子供っぽさが抜けない顔つきと、身長のせいだ。それでも、人並み以上に整った顔を無駄にせず、日々美少年に磨きをかけるよう努力はしている。

僕が通う学校は、芸能人や金持ちの子息が多く通う事で有名な私立の清涼学園の中等部だ。
それなりに勉強とスポーツが有名な学校だが、男子校で、高等部まではずっとその状態が続く。ボンボンが多い学校だけど、そこにはやっぱり男子校ならではの悪癖があって、いわゆる同性愛者の巣窟であるのは、もはや伝統といっても過言ではない。そんな僕も、入ったばかりの中学校の校風に慣らされ、男相手に情熱を燃やすことになんら違和感を感じなくなっている。
まっ、僕の情熱はもっと年季が入ってるんだけどね。  
つまり、現在僕が好きな人も男だってこと。しかも、その相手は同じ清涼学園の高等部にいる。
井上恭一。十七歳。
容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能という、三拍子揃ったスーパーアイドル。
日本国中の女性、年齢問わずに人気のある、芸能人なのだ。
高校生には見えない大人びたクールな芸風と、男っぽい色気を持つ彼は、トレンディドラマで引っ張りだこの役者でもある。
最近では歌も歌ってるし、先日発売されたばかりのファーストアルバムもオリコンチャートのベスト5に入っている。
でも、そんな彼も学校では普通の十七歳と変わらなくて、まだまだ子供っぽい所を見せたり、やんちゃな冗談を飛ばすキャラクターだと知られている。
だから同性からの人気も高くて、校内でも彼はアイドルなのだ。
そんな彼を好きになるのは当然だ。
おまけに、僕と彼、恭兄(と僕は普段呼んでいる)は、かなり親しい。
母さんがさっき言ってたように、ドラマで共演したりする機会も多いし、恭兄の両親と父さんが友達で家も近いこともあり、僕が小さい頃から、恭兄は本当の兄のように僕を可愛がってくれているのだ。
だから、他の奴等に比べれば、僕は誰よりも恭兄の近くにいるし、無条件で可愛がってもらっている。
でもね、僕はそれだけじゃ嫌なんだ。
弟ではなく、恋人になりたいんだ!
物心ついた頃から、恭兄を見てきた。大好きな恭兄を、優しいお兄ちゃんとしてではなく、恋人にしたいと思ったきっかけは、恭兄の芸能界デビュー。自分だけに向けられる彼の笑顔を、テレビの電波にのせて、日本中の人にばらまかれるのが悔しかったからだ。独占欲といわれればそれまでたけど、僕が恭兄とラブラブになりたいと思うのは、仕方がない環境だろ?
男同士という障害も、清涼学園の校風で何のその、っていう気分になったし、僕には両親から受け継いだ美貌もある。
これを磨いて、いつか絶対に恭兄を誘惑して、メロメロにしてやるんだっ。
その前に、恭兄が僕を可愛い弟として、まだ子供扱いしているという難関が待っている。
当面の目標は、恭兄にもう僕が子供ではないと分からせることからだろう。
対等になって初めて、僕は恭兄と恋人になれると信じている。
先は長いけど、努力は惜しまない。
前向きなこの性格で、僕は日々努力してるんだから。
取りあえず、今はさっさと朝御飯を食べて学校に行かなくては。
折角早めに母さんが起こしてくれても、恭兄のことばかり考えていたらすっかりいつものぎりぎりの時間になっている。
遅刻しないよう、慌てて僕は階下に降りていったのだった。
夜九時。
僕はいつものようにカフェオレとポテチを横に用意して、テレビの前に陣取った。
毎週火曜日のこの時間は、母さんが主演しているドラマの放送があるからだ。
仕事から帰ってきた父さんも、新聞を見ながらも、やっぱり母さんの出ている番組は気になるらしく、ちらちらとテレビを見ている。
僕が毎週欠かさずこのドラマを見るのは、母さんが出ているからという理由だけではなく、もちろん、恭兄が出ているからというのが一番だ。
『SECRET SECTION』というアクション刑事ドラマなんだけど、これはずっとシリーズが続いているぐらい人気のあるやつで、主人公の二人組の刑事が、はちゃめちゃなアクションとルックスで、事件を解決していくんだ。
恭兄が演じるのはその主役の刑事の片割れ。スーツが似合う情熱的な若き刑事。 実年齢を感じさせない大人っぽい演技で、時々恭兄が十七歳だということを忘れそうになる。
ドラマの中の恭兄は最高に格好よくって、そんな彼を見るために、ビデオもしっかり録画セットし、そして生でも見るという熱の入れよう。
ちなみに母さんの役は、主人公達の警察署の女上司。警察官とは思えないいつも派手な服装とお色気で、型破りな上司を演じる。主人公達の暴走を抑制する立場のはずの彼女は、いつも逆に煽るような行動をする。そのキップの良さが、視聴者の女性ファンをも惹きつけるらしい。ま、とにかく母さんもそれなりにいい味出した演技してるけど、あれは殆ど地でいってると思う。普段からああだし・・・
「おい、篤・・・明子の奴・・・ちょっと若作りし過ぎじゃないか?あれ」
テレビを見ていた父さんが、画面に出てきた母さんを見て言った。
丁度、母さん演じる女上司が、真っ赤なボディコンのスーツで足を組み、部下の二人にお色気満点で説教している場面だった。
「いいんじゃないの?若く見えるに越したことないし」
「俺がついていけなくなるだろう。あんまり差があると、一緒に歩くのもなんだかなぁ・・・」
至って普通のサラリーマンの父さんにしてみれば、芸能人というきらびやかな母さんに気後れするらしい。
「大丈夫だよ。父さんだって一張羅のスーツ着てビシッと決めれば、全然遜色無いから。そのままメンズモデルの仕事もOKだよ。自信もちなよ」
「お前はいつも自信たっぷりだな・・・」
「当たり前。僕は美形の父さんと母さんの子供だよ?美形に決まってるじゃん」
「・・・はあ・・・」
僕は顔も母さん似だから、性格も似たらしい。
自信過剰で前向きな性格。でも、本当のことだから、いいよな。
「ああっ・・・恭兄っ・・・格好いいっ」
恭兄が演じる刑事が、拳銃を構えて、犯人を追跡しているシーンだ。もうっ・・・なんでこんなに格好いいかな。いつも学校で見てるときも確かに格好いいけど、テレビの中の恭兄はさらに格好いい。
「はあ・・・・今日も恭兄が見れて幸せ」
放送が終わった後も、僕はうっとりと余韻に浸る。父さんは呆れてさっさと寝室へ行ってしまった後だ。
でもあんまり浸ってばかりもいかない。宿題やってお風呂入って・・・明日の準備して・・・。中学生って、やらなきゃいけないことが沢山あって大変だ。あーあ・・・恭兄なんかは、こんな学生の本分もしっかりやりつつ、あのハードスケジュールもこなしてるんだから・・・もっと大変なんだよね。それに比べたら、僕なんてまだましか。
気を取り直して、僕は先にお風呂に入ることにした。

着替えを用意してお風呂場に行こうとしたとき、いきなり居間の電話が鳴った。
こんな時間にかけてくるのは・・・
「はい、もしもし、沢村ですが」
『アッくーん、私っ』
「母さん?」
そう、だいたい母さんしかいない。
今日も今日とて、朝も昼も関係ない芸能人のスケジュールで、母さんはドラマの収録中のはず。それも、さっきまでやってた「SECRET SECTION」の収録だったはずなんだけど・・・。
『ごめんっ、母さん忘れ物したのっ。届けて欲しいのよ、今直ぐ』
「えーっ・・・今ぁー?」
だってもう十時を過ぎている。中学生の僕にとっては、もうかなり遅い時間だ。しかし、母さんが忘れ物をするのはよくあることで、今更驚かないが、もう少し早く言って欲しい。
『どうしてもいるのよっ。父さんに車だしてもらって、ねっお願いっ』
「だったら父さんに頼めばいいじゃんか。どうせ車出すなら・・・」
『父さん、スタジオに顔出すの嫌がるのよ。テレビ局の前まで送ってもらって、あんたが中まで持ってきてちょうだい』
「面倒くさい」
『・・・あっそ。今ここに恭一君いるんだけどなー。これが終わったら、彼は上がりだから、一緒に帰れるかもしれないのにねぇ・・・』
急に母さんが、意味深なセリフをはいた。
「・・・ううっ・・・」
母さんは、僕が恭兄を無茶苦茶好きだってことを知っている。
それを恋人になりたいほど好きっていう意味で知っているかどうかは不明だけど、とにかく、時としてこんな風にからかい口調で煽ることがある。
「分かったよ・・・しかたないから届けてあげるっ。で、何を届けるの?」
『母さんの三面鏡の前に、ブルーのコンパクトがあるはずなの。本当は小道具なんだけど、前に自分のと間違えて持って帰っちゃったのよ。今日の収録で使うから、忘れずに持っていくはずだったんだけど・・・』
「はいはい・・・いつものことだよね。ブルーのコンパクトね」
『それじゃあよろしくねっ』
用件だけ言うと、母さんは一方的に電話を切ってしまった。
ううっ・・・何か上手くはめられた感じ・・・。
仕方ない、恭兄に釣られた僕が悪いんだから。
僕は風呂に入るのをやめて、母さんの三面鏡を見に行った。
そこには女優らしく、たくさんの化粧品が並んでいて、どれがそのコンパクトか分からない。
「ブルーのコンパクト・・・ブルー・・・うーん・・・ないっ」
白いのとか、赤いのとか、黒いのとか・・・はあるんだけど。
本当に母さん、ここにあるのかよっ。
「早くしないと・・・」
焦ってきた僕が引き出しを開けたり、鏡の裏を見たりしていると、急に自分が映っている鏡に、ブルーの物が一緒に映っているのに気付いた。
「なんだ、こんな所に・・・って・・・あれ?」
確かに、ブルーのコンパクトが、鏡の向こう側には映っているのに、現実のこちら側にはないのだ。
・・・どういうことだろう。
僕の目の錯覚?
あり得ない現実に、僕は自分を疑った。
鏡には、ちゃんと自分の姿も映っている。
他の物も、全部うりふたつに見えるのに、それだけが、まるて間違い探しの答えのように、一つだけ向こう側にある。
「えーと・・・」
迷った末、僕はとにかく必要なそれを手に取ろうとした。
鏡の表面に跳ね返されるはずのそれは、僕の手が触れた途端、まるで水面のように歪んで僕の手を呑み込んだ。
「うわっ・・・うわわわっ」
ズルッ、と鏡の中に自分の手が入る。
その感触に、思わず手をひっこめた。
水面は直ぐに静かになり、やはりそこにはただの鏡のようになっている。
大丈夫らしいと分かった僕は、再度手を近づけた。
そして、ブルーのコンパクトを掴む。
確かに、手応えがあった。
「よしっ・・・」
鏡から引き抜いた手の中には、ブルーの蓋に金の細かい細工が入った綺麗なコンパクトがあった。
なんだか・・・よく分からないが、とにかくこれを母さんに届けなければ。
今体験した不思議な出来事に関しては、どう考えても答えは出そうにないので、僕は取りあえず今やるべき事を優先することにした。
その手に、コンパクトを握って・・・
自宅から車で二十分。
夜ということもあって、比較的道路が空いていたから、意外に早く着いた。
二十四時間明かりの灯るテレビ局は、午後十一時近くても、まだまだ活気がある。僕をその正面で降ろすと、無情にも父さんはさっさと帰ってしまった。どうも、父さんはテレビ局とかマスコミが苦手らしい。母さんと結婚したときにさんざん追いかけ回され、いまだに時々取材されたりして、平凡な生活を脅かされているせいかもしれない。僕なんかは生まれたときからこういう環境だったから、別に平気なんだけどね。
仕方なく、一人でテレビ局のビルに入った僕は、既に顔見知りの守衛さんに会釈して、一階ロビーの受け付けに向かった。
母さんの忘れ物を届けるのは、もう何度目か。だから、こっちも向こうも慣れている。受け付けの綺麗なお姉さんは、ニッコリ笑って収録中のスタジオを教えてくれた。もう顔パスなんだよね、僕。
一応形式的に来客表に名前と理由を書き、関係者用のパスをもらう。それを首から下げて、僕は『SECRET SECTION』を収録している第三スタジオに向かった。案内図を見なくても、場所は分かる。エレベーターに乗って、バタバタと人が忙しそうに走る廊下を進むと、第三スタジオの扉がある。今は休憩中なのか、防音の扉は開けっ放しだった。ドアから中を覗き込んで、僕は取りあえず母さんを捜した。
「よっ、篤じゃないか」
そんな僕の肩を、誰かが軽く叩いた。
その声を間違うわけがない。
「恭兄っ」
振り向いた僕は、そこに大好きな恭兄の姿を認めて、喜色満面になった。
「どうした、こんな時間に。また亜希子さんの用事か?」
ドラマ用のダークスーツを着た刑事姿の恭兄は、大人っぽく髪もバックに流し、マジで見とれるほど格好いい。
ああっ・・・幸せ。
「うん、そう。忘れ物届けに来たの。恭兄はまだこれから?」
「ああ、今ちょっとリハーサル前。あとワンシーン撮って、今日は終わり」
「大変だよね。こんな遅くに・・・明日だって学校あるのに」 
「仕方ない。好きでやってるんだしな。篤もこんな遅くに、わざわざ届け物なんて、えらいな」
そう言って僕の頭を撫でる恭兄。
うううっ・・・嬉しいけど、これってやっぱり子供扱いだよなぁ。
「篤くんじゃないか。久しぶりだね」
そんな僕と恭兄の後ろから、別の誰かが声をかけてきた。
「あっ、飯田さんっ。こんばんわっ」
「こんばんわ。相変わらず礼儀正しくて可愛いなぁ」
飯田猛さんは、ドラマで恭兄とコンビを組むもう一人の主役刑事を演じてる役者さんだ。今二十七歳。超二枚目で、しかもベテラン俳優。映画や舞台で培ってきた実力派で、現在はレギュラー番組もたくさん持つ人気二枚目俳優だ。少し気障ったらしい役が似合うタイプなのだが、実際は大らかで明るく気さくな人だ。だから、時々顔を出す僕にも気軽に声を掛けてくれるし、なかなかいい人である。でもね、僕にとってはどんなに二枚目な人でも、恭兄以外はアウトオブ眼中なのさっ。
「亜希子さんなら、多分今は控え室の方だよ」
親切にも、そう教えてくれる。
「ありがとうございます。じゃあ忘れ物届けてくるので、失礼します」
「また後でこいよ」
「見学してく?」
二人にそう言われて、僕はニッコリ笑った。
「母さんがいいって言ってくれたら・・・絶対見たいっ」
素直な僕は、そんなことを言って二人に笑われた。
ふんっ・・・どうせまだ僕はガキだよ。
なんか、こうしてみると、本当に恭兄って大人だよな。
二十七歳の飯田さんと十歳も違うのに、ああして並んでいても全然違和感なく同僚って感じがする。それは決して恭兄が老けてるってことじゃなく、あれも演技と役作りの成果なのだ。そんな努力家の恭兄を知っているから、僕は好きになったんだ。
見かけだけの彼を好きなのは、きっと日本中にたくさんいるけど、中身を知っていてなおかつこんなに愛してるのは、僕だけ。うん、これだけは絶対に自信ある。
「それじゃあ、また後でね」
僕はいったん恭兄達と別れて、母さんの控え室に向かった。
女優「神沢亜希子」の控え室はちゃんと個室の立派な物。僕は軽くノックして中に入った。
「あっ、アッくん」
椅子に座って、衣装である派手なスーツを着た母さんが、僕を認めて嬉しそうな顔をした。
「ごめんねー、頼んじゃって。今度お小遣いアップしてあげるからー」
「もう、いい加減僕を当てにして忘れ物する癖治しなよ。こんなにしょっちゅうだと、困るよ」
「本当に悪いと思ってるのよ。でもね、どうしても時々忘れちゃうの。許して。
あっ、今高藤さんに飲み物買ってきてもらってるから、一緒にお茶してきなさいよ。どうせ忠士さんは帰っちゃったんでしょ?」
「父さんなら、さっさと帰ったよ」
「やっぱりね。あの人テレビ局嫌いだから」
「それより・・・忘れ物のコンパクトって・・・これ?」
僕は鞄に入れておいた例のコンパクトを取り出した。
「そうそうブルーの・・・あら、なんかちょっと違うわ」
「えっ?これじゃないの?」
「・・・確か、もっと濃いブルーで、蓋は無地よ。こんな細かい装飾は無かったはずだけど・・・・」
「・・・・」
やはり、あの鏡の中から取り出したから、違うんだ。
「あのね・・・実は・・・」
僕は母さんに、信じてもらえないかもしれないしれないが、鏡から取り出した不思議な体験を話した。
すると母さんは、ものすごく驚いた顔をしたと思ったら、急に納得顔で頷いた。「なるほどね・・・鏡の中から・・・」
「母さん、信じるの?」
「・・・実はね・・・母さんも昔似たようなことがあったのよ」
「ええっ?母さんもっ?」
「母さんがまだ小学生の頃よ。学校の踊り場に、大きな姿見の鏡があって、そこに映った鏡の国の人にコンパクトをもらったの。そのコンパクトには不思議な力があって、呪文を唱えるとどんなモノにでも変身できるすごいコンパクトだったの。・・・結局、最期はそれを鏡の国の人に返したんだけど・・・それまでにはたくさんのモノに変身したわ。大人になったり、猫になったり・・・」
母さんは昔を懐かしむように目を閉じた。
「もしかしたら、その時のコンパクトと同じかもしれないわね。私のはピンクのコンパクトだったけど、貴方のはブルーね。よく見ると、装飾は同じ感じだった気がするわ・・・。それは、貴方のものよ。きっと」
「え・・・そんなこと言われても・・・」
信じられない話なら、今言った母さんの話の方が上手だ。
そんな・・・なんにでも変身できるなんて、あり得ない。
でも・・・確かに鏡の中から取りだした経緯を考えれば・・・。
「ま、試してみれば分かるわよ。呪文は『テクマクマヤコン、テクマクマヤコン』って唱えて、なりたいモノを言えばいいの。ただし、変身してる所を誰かに見られたり、正体がバレルと魔法は使えなくなるわ。だから、絶対人目のあるところで変身しちゃだめよ」
「そんなこと言われても・・・別に今なりたいモノがある訳じゃないし」
僕としては、なんだか使い道に困るものだ。
「そんなこと言わずにやってみなさいよー」
母さんは興味津々で、僕に催促する。
そんなとき、控え室のドアがノックされた。
「はーい」
「あっ、亜希子さん、コーヒー買ってきました。篤君、ご苦労様」
母さんのマネージャーの高藤さんだ。
今年四十歳になる彼は、二人の子持ちのおじさんだ。人のいいタイプで、いつもニコニコしてて、色々と気の回るマネージャーさんだ。母さんのマネージャーになって長く、信頼できる人でもある。
「お邪魔してます」
「篤君が来るって聞いたから、ホットココア買ってきたけど、飲む?」
「もちろんっ。飲む飲む」
僕は高藤さんからココアを受け取って、飲み始めた。
「それで、忘れ物はちゃんとありましたか?」
「えっ?!」
そういわれて、僕が持ってきたのは違うコンパクトだったことを思い出す。
僕は困って母さんを見た。
「あらっ・・・それは・・・ええっと・・・」
母さんも困った顔で僕を見ている。どうしよう、小道具のコンパクトがないと困るんだよね。
「なんだ、ちゃんとあるじゃないですか。もうあんまり篤君をこき使っちゃだめですよ」
高藤さんがいきなりそんなことを言った。
「えっ?」
さっきのコンパクトは僕が今持っている。
しかし、高藤さんがそれを見ていっていないのに、不思議な感じがした。
「小道具もって帰るなんて、亜希子さんらしいですけど、係りの人が困るんですから、もうしないでくださいよ」
そう言って高藤さんは、控え室のメイク用の鏡の前の棚から、ブルーのコンパクトを手にした。
「ああっ」
「なんでっ」
僕と母さんは二人して驚いた。
それは確かに、無地でもっと濃い色をした、まさしく小道具用のコンパクトだったのだ。
そんな・・・さっきまでそこにはなかったはずなのに・・・
「どっ・・・どうしたんですか、二人とも」
「えっ・・・いいえっ、何でもないわっ、ほほほ」
「う・・うっ、うん」
僕と母さんは笑ってごまかした。
「それじゃあ、私はこれを係りの人に届けてきますね」
「お・・・お願いするわ」
「じゃあ、篤君もごゆっくり」
そう言って、高藤さんは出ていった。
「・・・なんで・・・」
「無かったわよねえ・・・あれ」
「うん・・・」
「やっぱり・・・なにか不思議な力が働いてるのかしら・・・」
僕と母さんは二人して今目にした不思議に溜息をついた。
「こんなコンパクトに・・・本当にそんな凄い力があるのかな」
もう一度手に乗せたコンパクトをまじまじと僕は見た。
そんな時、また高藤さんが慌てた様子で戻ってきた。
「すみませんっ、今プロデューサーに聞いたんですが、次のシーンのラストで使うはずだった役者さんが怪我で来れなくなったんですよ。その関係で、リハーサルの時間も遅れるそうなので、スケジュール変更します。私は事務所に連絡してくるので、済みませんが待機でお願いします」
「あら・・・」
そう言うと、高藤さんはまたバタバタと忙しそうに走っていった。
「大丈夫なの?」
「んー・・・多分、ラストで使う予定の人って、ピアノも弾ける人っていう指定だったのよ。犯人の息子役で、バーでピアノ弾きをしているっていう設定だから、リアリティを出すために、実際に弾ける人を捜して頼んでいたはずなんだけど。
・・・今更代役っていっても・・・そう簡単に見つかるかしら?今日のシーンが延期したら役者さんのスケジュールが全部狂っちゃうのに」
このドラマに出ている人はみんな人気のある人ばかりだから、全員のスケジュールを合わせるのは大変だろう。
「ピアノ弾けるだけじゃなくて、それなりにテレビ映えする程度に顔が整っていないとだめだし・・・年齢も若い設定だったから
・・・あっ!」
急に母さんが立ち上がった。
「なっ・・・何っ、何っ?」
「篤」
「何だよ」
母さんがアッくんではなく篤と呼ぶときは、あまり油断できない。
たいてい、僕にとって難題をふっかける事が多いから・・・
「あなた、そのコンパクトで変身しなさいっ。今直ぐピアノ弾きの青年にっ」
「えええええっ?!」
「そうよっ、いいアイデアだわっ。それだったら、ピアノ弾きになりたいといえば、ちゃんとピアノの弾ける人間になれるんだもの。
年齢だって自由自在だし、あんたの顔なら、成長したって美形に決まってるわ。さあ、さっさと変身しなさいっ」
「そ・・・そんなっ・・・急に言われても・・・」
僕はいきなりのことに、戸惑う。
しかし、立ち上がって僕に詰め寄る母さんの迫力に、僕が勝てるわけがない。
「とっとと変身しないと、恭一君にあんたのおねしょの証拠写真見せるわよ」
「わーわーっ・・・それだけは勘弁してよっ。ずるいよっ、脅迫なんてっ」
「つべこべ言わないの。ねっ」
「・・・もうっ・・・母さんの卑怯モノ・・・」
泣く泣く僕は、母さんの命令で、変身することになってしまった。
しかし、まだ僕は半信半疑なのだ。
これで本当に変身できたら・・・
もしかしたら、これはチャンス?だって、恭兄と共演できるってことでしょ?
「よしっ、やってみる」
「その意気よっ、アッくん」
母さんの声援(?)に、僕は意を決した。
ブルーのコンパクトの蓋を開け、手のひらに乗せる。
その小さな鏡に映る自分を見ながら、僕は呪文を唱えた。
「テクマクマヤコンテクマクマヤコン・・・ピアノ弾きの青年になーれっ」
馬鹿らしい・・・と思いながら唱えていた僕は、急に体がカッと熱くなるのを感じた。
「っ・・・わあっ」
なんだか体の細胞の一つ一つが書き換えられるような、爪先から水面に飛び込んで、海に潜るような・・・そんな感覚が体を取りまいた。
「・・・・はっ・・」
痛みとかはないんだけど、なんだか息苦しい。しかしそれは一瞬で、次の瞬間にはもう元の状態に戻っていた。
なんだ・・・別に何も変わって・・・
「あらら・・・」
母さんが嬉しそうな声をあげた。
「篤ったら、やっぱり私の子供よねー。美形になるのは当然よね」
「って・・・母さんっ・・・あれ?」
僕は自分が発した声の違和感に気付いた。
「なんか・・・違う・・・」
「そりゃそうでしょう。今の貴方は、多分十七歳ぐらいかしら?当然その歳なら声変わりしてるでしょう」
「声変わり・・・」
なんか、少し低めの自分の声は、全く違うの人間のもののようだ。
「・・・母さんかが縮んでる・・・」
「お馬鹿・・・私が縮んだんじゃなくて、貴方の背が伸びたんでしょ」
「僕、大きくなってる?」
そういえば、なんだか視界が広い。 
僕は慌てて、メイク用の大きな鏡を覗き込んだ。
「あ・・・」
そこには、確かに僕が立っていた。
ただし・・・4年後の。
顔の雰囲気は、確かに僕のものだけど、幼い童顔が成長して、少し憂いのある艶やかな美青年になっている。何処から見ても子供っぽくはないし、身長も175pぐらいある。いつのまにか服装まで変わっていて、濃い藍色ジャケットに白いシャツ。大人っぽい色気のある、いかにもピアノが弾けそうな繊細な指。
「これ・・・本当に僕?」
「ええ、そうよ・・・。四年後にはちゃんと、そうなるはずよ」
「僕ってやっぱり美形だったんだ・・・」
思わず鏡の中の自分にうっとりしてしまった。ううっ・・・今やってる美形を磨くための日々の努力は無駄じゃなかったんだ。
「その姿なら、誰も篤だって分からないわ。恭一君にだってばれないわよ」
「そうかな・・・」
「ええ、二人で並んだら、とってもお似合いよ」
「本当っ?!」
そうかっ、この姿なら恭兄と並んでも、子供扱いされないんだ。対等な立場で、恭兄を口説けるっ?!
「でも・・・僕だって分からないなら意味無いか・・・」
「あら、でもその姿の篤に惚れたら、いずれ大きくなる貴方に惚れるはずよ。その四年後を狙って、頑張ってみたら?」
「うんそうだね・・・・って、か・・母さん!なんでっ」
僕の考えていたことを全部見抜いたような発言に、僕は焦った。
「あら、貴方が恭一君にラブラブなのはとっくに知ってるわよ。別に母さんは貴方がホモでも差別しないわ。安心してゲットしなさい」
「・・・親がそんなこと言っていいの・・・?」
「篤が好きなら仕方ないじゃない。それに、貴方ぐらいの美形に釣り合う人間はそうそういないでしょうし・・・それなら恭一君は文句ない美形でしょ?ちょうどいいんじゃないかしら。
まあ、別に可愛い女の子と結婚したいならそれでもいいけど・・・」
「って・・・なんか違う・・・」
でも、母親に公認(?)されてるなら何も心配ない。心置きなく恭兄をゲット出来るってものだ。
「よしっ、母さん、僕頑張るっ」
「さすが私の息子。頑張ってねっ」
「うんっ」
なんだか上手く乗せられたような気もしないでもないが・・・まっ、いいか。
僕は意気揚々と、母さんに連れられてスタジオに向かったのだった。
「代役?」
スタジオに戻った母さんは、慌てているプロデューサーに代役を連れてきたと話した。
「そうなの。私の知人の息子さんなんだけど、ピアノも弾けるし、顔立ちも文句ないと思うわ。使ってみてくれないかしら」
「亜希子さんの知り合い?いくつぐらいの人なの」
プロデューサーと一緒にいた恭兄と飯田さんも、母さんの言葉に質問する。
「恭一君と同い年なんだけど、ちょっと訳があって素性は教えられないの。名前は仮名だけど、取りあえず淳君っていうの」
「大丈夫ですか?一応ピアノの弾ける美青年っていう設定だから、あんまり素人くさい顔でも困るんですよ。それなりにテレビ映りのいい顔でないと、恭一君とのシーンが見劣りしちゃうんですよね」
あまり乗り気でないプロデューサーが、心配げに言う。
「大丈夫よ。とにかく本人をその目で見てもらってから意見を言って欲しいわね。さ、淳君、こっちに来て」
「えっ、もう呼んであるんですか?」
みんなが母さんの視線を追って、入り口の影にいた僕の方に注目した。
真打ち登場みたいな場面で、僕は少し緊張しながら一歩踏みだした。僕はバレやしないかと内心ヒヤヒヤしながら、それでも真っ直ぐ顔を上げて母さん達の元に歩み寄った。そして、ふと、僕の顔を食い入るように凝視する恭兄の視線に気付く。
まさか・・・バレたのかな・・・。
そんな心配はよそに、その場にいた人達は、ホウッと溜息をついた。
「驚いたな・・・亜希子さん。こんな逸材、どこに隠してたんですか」
飯田さんが感心したように言った。
「確かに、芸能人を見慣れている我々が見ても、ハッとする美形じゃないか。これなら代役どころか、元々頼んでいた役者よりいいよ」
プロデューサーも手放しで誉めている。
・・・ほっ・・本当かな・・・。僕、ちゃんと美形?
少し心配しながらも、僕は取りあえず無表情を繕った。
「淳です。はじめまして」
僕は母さんと予め打ち合わせしていた名前で挨拶した。
ちなみに淳っていう名前は、母さんが僕につける名前の候補として考えていた奴だそうだ。結局は父さんが篤って名前を選んだらしいから、没になったんだって。
「あ・・ああ・・・はじめまして」
僕はもちろん恭兄しか目に入ってないから、視線は彼に向いたままだ。
だから、慌てて恭兄が僕に返事したんだけど・・・なんか変な顔してる。本当にばれてないよね?でも、相変わらず恭兄は僕の顔を凝視している。それとも、どこか変なのかな・・・。
「このまま芸能デビューしてもおかしくないな。どうなの」
飯田さんの言葉に、母さんが慌て言った。
「ダメよっ。この子は大事な預かりものなんだから。
あ、言っておくけど、スタッフロールにも彼の名前は出さないでちょうだい。全部秘密よ」
「そんなのもったいないなぁ」
プロデューサーがそう言うが、もちろん僕も母さんもそんな危ない橋は渡りたくない。
「まっ、取りあえず延期せずに済むみたいだから、助かったよ。
じゃあ少し彼に説明して、リハーサルしよう。じゃあ、ええっと・・・淳君、こっちに来て」
プロデューサーに呼ばれて僕はセットに近寄った。
「シーンは君の役が勤めるバー。
君がピアノを弾いている所に、井上君演じる刑事がやってきて、今回の事件の犯人である君の父親の所在を尋ねられる。
君はピアノ弾いたまま、父親が既に自殺した後だと告げるんだ。
特にセリフは多くないけど、後は井上君がリードしてくれるだろうし、とにかくピアノさえちゃんと弾いてくれれば大丈夫。
あっ、曲なんだけど、ショパンの『別れの曲』弾ける?」
そう聞かれて、僕は慌てた。
本来の僕は、もちろんピアノなんてまったく弾けない。楽譜も読めないし、せいぜい歌を歌う程度ならできるけど・・・音楽の成績は並だ。 でも、ここがこの魔法の凄いところで、咄嗟に頭の中に、僕は「別れの曲」のメロディーと音符が浮かんだ。
そして、弾けると確信できる。
「はい、大丈夫です」
「良かった。一応楽譜無しで弾いてもらうけど、暗譜してなければ見てもいいから。カメラに映らないようにするし」
「大丈夫です。暗譜してあります」
「そうかい。じゃあ早速だけど、実際に少し弾いてもらって、井上君とリハーサルしてもらおう。
井上君、リハーサルいくよ」
呼ばれて恭兄がやってきた。
「じゃ、シーンの最初から通しで簡単に流していこうか」
僕はグランドピアノの前に座らされ、軽く指慣らしをした。
本当に弾けるのか、鍵盤に触るまで自分でも半信半疑だった僕だが、指が鍵盤に置かれた途端、本能でそれが動くのを感じた。流れるようなメロディを奏で、僕は淀みなく「別れの曲」を弾いた。もちろんリハーサルだから全部弾く必要はないので、適当に止めたけど。
「凄いな・・・本当にちゃんと弾けるんだ。プロ並みの腕じゃないのか?」
驚いたように、側にいた恭兄が言った。その目は真面目に感心していて、僕はちょっと照れくさかった。
なのに・・・
「弾けなかったらここに来ないよ」
なんて、僕は生意気な言葉を返しちゃったんだっ。
あううっ・・・何言ってるんだよ、僕っ。
「そっ、そうだな。別に君の腕を疑った訳じゃないんだ。すまない」
僕のきつい言葉に、恭兄は慌てたように謝った。
おかしいな・・・僕ってば、恭兄相手ならいくらでも猫被っていい奴を演じられるのに、どうしてこんなにいつもと正反対の冷たい態度をとってるんだろう。 折角美形の大人っぽい姿になったんだから、もっと積極的にアタックして、口説くんじゃなかったのか?
フォローしよう思っても、僕は恭兄を無視した形でそっぽを向いてしまった。 そしてそうこうしている内にリハーサルは終わり、僕はヘアメイクさんにいじられ、衣装を代えなくてはならなかった。
簡単にメイクされ、髪型も少し変えられた。
衣装は黒っぽいソフトスーツに白いシャツ。
その格好でスタジオに戻ると、スタッフの中から溜息が漏れた。
「すごいな・・・メイクしたら、益々美形が映えるね。君ほどの美形は芸能界でもそういないよ。
それよりどう?今度一緒に食事にでも行かないかい?」
そう言って近寄ってきたのは飯田さんだ。そうそう・・・この人業界では有名なゲイなんだよね。
普段の僕は年齢制限に引っかかるのか、それとも好みじゃないのか分からないけど、今の所お誘いは無い。とすると、今の淳は彼の好みにジャストミートしているらしい。
「機会がありましたら」
しかし僕は簡単に返事してはぐらかした。
まさか本当に飯田さんと食事に行くつもりは全然ないからだ。これが恭兄だったら、一も二もなくオッケーなんだけどな・・・。恭兄は、飯田さんみたいに淳である僕に興味はないのだろうか。恭兄は今の所学校でも芸能界でも、ゲイだなんて噂は全くない。でも、逆に男から言い寄られるのは多くて、僕はライバルが多い。今の所恭兄がそいつらに応える確率は全然ないけれど、それは僕がアタックしても成功する確率も低いってことになる。
少しぐらい・・・その気にならないかな・・・。
僕は気になって、スタッフと打ち合わせをしている恭兄を眺めた。
すると、視線を感じたのか、恭兄がハッと顔をあげて、僕と目を合わせた。そして僕に気付いた途端、なぜかボッと顔を赤くして俯いてしまったのだ。
なっ・・なに?
もっ・・・もしかして、これって脈あり?
恭兄は僕が気になるらしく、ちらちらと視線を送ってきて、そわそわしている。 やっぱり今のは僕って恭兄も気になるぐらい美青年ってこと?
なんだか希望の光が見えてきて、僕は頑張ろうと思った。

本番が始まった。
さすがに本番になると、プロの恭兄は直ぐに役者の顔になって、格好いい刑事になりきっていた。暗いバーのセットのに中央にグランドピアノがあり、僕はそこに座ってピアノを弾き始めている。店内の客が数人。静かなざわめきとピアノの音だけが流れる渋い空間が演出されていた。
そこへドアベルを鳴らして恭兄演じる篠田孝司刑事がやってくる。
彼は少し店内を見回し、そして目的のものを見つけたのか、静かに店内に進んだ。ピアノを弾く僕の横へ。
『南署の篠田です』
彼はピアノの邪魔にならないよう、静かなしかしはっきりとした声で言った。僕はチラリと視線を流しただけで、すぐに正面に顔を戻す。警察手帳を確認したのだ。
『あなたのお父さん、松本義一は・・・どこにいる』
『・・・』
それに対する僕の返事はない。
無言でピアノを引き続ける。曲はショパンの「別れの曲」
『この曲は父へのレクイエムです』
『!』
篠田刑事はその意味を理解する。
『父はついさっき、自殺しました。もう・・・この世にはいません』
『・・・そうか』
僕の役目は、淡々とピアノを弾き続け、そして黙って恭兄が背中を向けて店を出ていくまでのはずだった。
もうセリフもない。
なるべく父親の死に感情を表さない青年を演じればよかった。だけど・・・
自分でもよく分からないんだけど、なぜか僕は悲しくなった。
別れの曲を弾きながら、大事な人が離れていってしまうような気がして、悲しくて・・・そして気がついたら涙がこぼれていた。背中を向けたはずの恭兄も、なぜかくるりとまた僕の方を振り返り、そして泣きながら淡々とピアノを弾く僕にギョッとする。しかしプロの恭兄は、とっさに僕の涙を指で拭い、軽く抱きしめたのだ。
えーっえーっ・・・!
ちょっとまってよー。
内心の僕はパニックだった。
だって台本と違うし、恭兄に抱きしめられてるし、僕、どうしていいかわかんないよっ!僕は素人なんだから、アドリブなんてきかない。誰でもいいから、さっさとNG出して止めてくれーっ。
「はいっ、カット!OKです」
やっとカットの声が入ったけど・・・ちょっとまて、これでOKなのかっ?!
カメラが止まって、もうスタッフが次のシーンのために動き始めているというのに、僕はまだ恭兄に抱きしめられたままだ。
「・・・ちょっと・・・離してくれないか」
僕は内心役得って思いながらも、努めて冷静にそう言った。
「あっ・・・ご・・・ごめんっ」
恭兄は慌てて僕を離した。なぜか、顔が赤い。
「恭一、お前今のアドリブおいしいなあー。わざとだろうっ。淳君に抱きつきたくて、わざとやったんだろ」
からかうように、飯田さんが恭兄の後ろから羽交い締めする。
「ちっ・・違いますよっ。あれはっ・・本当にああした方がいい思って・・・」
恭兄は焦ったように弁解し始めた。
あはははは・・・どっちにしても、僕はラッキーだったかも。
「いやあ、君、本当にいい味出してたよ。あの涙も台本とは違うけど、いい絵が撮れたし、よかったら本気で役者とかならないかい?」
そこへプロデューサーのおやじがやってきて、熱心に僕をくどき始めた。
冗談じゃない。
今の僕はあくまでも一時的な存在だから、芸能界デビューなんて無理だ。
僕が篤でいる時なら・・・。ううーん・・・ちょっと考えるけど(ク○ーミーマミとかじゃあるまいし)。あくまでも、今回は緊急措置のために変身したんだ。そんな危ない橋は渡らない。
「それじゃあ、もう俺の出番はないみたいですし・・・失礼します」
さっさと帰ろう。ぼろが出ないうちに。
「えっ、もう帰るの?」
飯田さんが慌てて聞き返してきた。
当たり前だ。
だって、もう夜中の十二時を過ぎてるんだよ?僕は本当は中学一年生で、明日・・・いやもう今日か・・・も学校に行かなくちゃならないんだ。おまけに・・・あああっ、宿題やってないよっ!恐ろしいことに気付いてしまった僕は、マジで焦った。早く帰らなくっちゃ。
「あの・・・亜希子さんは?」
僕は早いところ元の姿に戻って、帰りたい。そのためには、母さんに元に戻る方法を教えてもらわなくちゃいけない。
きょろきょろと辺りを探す。
「ああ、神沢さんなら、もう帰られましたよ」
「な・・なんだって?!」
僕は驚いて叫んだ。どうやって帰れっていうんだ、あのクソババアっ!
「俺が送っていってやるよ」
「えっ?」
突然恭兄が言った。
「今日はバイクで来てるし、メットも二つあるから、家まで送っていってやるよ」
「ででで・・でもっ・・・」
「恭一ずるいぞっ。俺も淳君送っていきたいっ」
飯田さんが割ってはいる。
「飯田さんはまだ別のシーンの撮りが残ってるんでしょ?俺はもうこれで終わりですし・・・」
「くそーっ・・・」
「なっ?いいだろ」
なんて、恭兄は僕にウインクした。
あううう・・・困ったよう。でもなんか、逆らえる状況じゃない。
「・・・じゃあ仕方ないから・・・送らせてやる」
僕は内心どうしようって慌てながらも、高飛車な言い方で恭兄の申し出を受け入れだのだった。
ワインレッドの車体の250tバイクは、恭兄の大切なものだ。
ホンダのブロスという奴で、レーサーレプリカのような派手なカウル装飾はなく、シンプルなタイプのバイク。恭兄が見せてくれることはあっても、後ろに乗せてくれたことは一度もない。どんなに僕が篤であるときに頼んでも、危ないからダメだとという理由で、絶対に乗せてくれないのに・・・今は自ら喜んで僕を・・・淳を乗せている。恐々と始めて乗るバイクに緊張しながら、恭兄の背中にしがみついた僕は、クスリと笑われた。
「もしかして、怖い?」
「べ・・・別に怖くないっ」
「そう?じゃあスピード出しても大丈夫だな」
「えっ・・・」
うわーっうわーっ・・・うそっ・・怖いってばっ!スピード出しすぎだよっ。
僕はどうも淳でいるときは強がり過ぎる性格になるのか、生意気な口言いになる。そんな僕をからかうように、恭兄はわざとスピードを出しているようだった。
「ぶっ・・・ぶつかるっ!安全運転しろよなっ!」
「気が強いのかと思えば、本当は弱いのか・・・どっちかわからないな、君は」
「う・・うるさいっ、前みて運転しろっ」
さっきまでは僕の顔を見る度に赤面して可愛い態度だったくせにっ、なんだよ、急に余裕たっぷりな態度になって。
でも・・・確かにいつもの僕になら、こんな姿を見せないだろうな・・・。
淳であるときは、歳も態度も対等に渡り合えるから、恭兄も僕も・・・普段はみせない態度が出来る。対等であるという意識が、僕から彼に対する甘えをなくしているようだった。今の僕は、彼の保護欲をそそる小さな弟ではない。だからこんな、意地悪もするんだ。
僕は恭兄の黒い革のジャケットにしがみついて、彼の温もりを確かめた。
ドキドキする。
いつもと違う位置。手を伸ばせば、並んで立てば、彼に届く身長。そして、この場所。
切ない気持ちになって、僕はしばらく無言のまま、バイクの流れに身を任せていたのだった。

「本当にここでいいのか?」
「ああ」
僕は結局自宅まで送ってもらうことが出来ずに、少し離れた公園の前でバイクを止めてもらった。
「淳の家はこの辺なのか?亜希子さんの所から近いな」
いつの間にかちゃっかり呼び捨てされている。しかし、その言葉の内容にドキッとした。
「ま・・・まあね・・・。じゃあ、送ってくれてありがとう」
僕はばれないうちにと、さっさとメットを返してその場を後にしようとした。
「ちょ・・・ちょっと待てよっ。おい」
「何っ」
恭兄が慌てたように僕の腕を掴んで引き留めた。
「あのさ・・・・また会えるかな・・」
「・・・」
僕は硬直した。
これって・・・まさか、いややっぱり・・・そうだよね。
「俺・・・淳に一目惚れしたみたいだ・・・。あっ、別に芸能人とか、そういうのでからかってるわけじゃなくて、マジで・・・さっき共演したときも、その前に紹介された時から・・・気になってしょうがなかった。
あー・・・俺、別にいつもこんな風に口説いてるんじゃないぞ。自分から口説くのは、淳が初めてだ。だから・・・また・・・会いたい。どこへ行けばお前に会える?せめて電話番号でもいいから教えて・・・」
どどどどどとーしようっ。
きょ・・・恭兄に告白されてるっ。口説かれてるっ!
嬉しいんだか、分からない。だって、今の僕は僕であって僕じゃないっていうか・・・あああっ、混乱してきた。
「好きなんだ・・・淳が」
「あっ・・・」
混乱している僕をどさくさに紛れて、恭兄は抱きしめた。
おまけに・・・
「淳・・・なんか・・・すげぇ綺麗だよな・・・お前」
なんて目を潤ませて、その大好きな顔で僕の・・・僕の・・・唇に・・・
キス。
しちゃったよ。マジで。
キス・・・キスだよっ。
しかもファーストキスっ!
「なっ・・・なななっ、何するんだよっ」
僕は思わずどもる。
「あれ・・・初めてだった・・・とか?」
「っ・・・」
あたりまえだっ。だって僕はまだ中学生で、ファーストキスは絶対恭兄としようと思って大事にとっておいたんだから。あれ?ってことは、これでいいのか?
「なんだ、てっきり淳程の美形ならとっくに経験済みかと思ったけど・・・意外に初だったんだ。なんかちょっ嬉しいな・・・」
ニヤニヤ笑う恭兄が、なぜか憎らしい。
「淳も・・・俺のこと好きだろ?」
しかもそんなことまで言い出す。
えーえー、確かに好きだよ。
「また・・・会ってくれるだろう?」
「・・・気が向いたらな」
僕はわざと素気ない答えをした。
それが僕も恭兄を好きだと白状しているようなものだった。
「待ってる」
恭兄は悔しいぐらいに格好よく笑って、もう一度不意打ちのように軽いキスを僕に落とした。
「恭一っ!」
「やっと名前を呼んだな」
「・・・」
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
恭兄はそう言うと、バイクの排気音を響かせて、夜の街へと消えた。
残された僕は、この数時間の間に起きた出来事にどっと疲れた。いろんな事がありすぎて、整理ができない。ただ一つ分かることは、恭兄が僕を好きだと言ったこと。これは・・・やっぱり喜ぶべきだろうか。まだこれからどうなるかなんて分からないけど、少なくとも僕は幸せだった。真夜中の住宅街の真ん中で、僕は手にした青いコンパクトにまだ見ぬ未来を映そうとした。
まっ、いいか。
楽天的な僕は、そう結論づけた。
母さんだって今幸せそうだし、きっと僕にも幸せな未来が待っているはずさ。
魔法は夢を叶えてくれる。
僕は崩れそうな笑みを浮かべながら、軽やかな足どりで家路を急いだのだった。

『秘密のコンパクト』の巻 完