『父と子』水上勉著
(2000年4月1日発行 朝日文庫)巻末エッセイ
『父と子の年譜』父と子について書こうとすると気が重くなり、筆先の凍る思いがする。殊にエッセイとなれば胸に鉛の塊を抱えた気分になる。何故なら、親不孝をしたくないからだ。四十一歳にもなって田舎で隠居暮らしをしている老いた親に心労を重ねさせたくないのだ。
半年前、新聞のインタビューで私が自分の生い立ちについて語った記事の中に「暴力的だった父との確執」という一行があり、たったそれだけの短い文章が波紋を呼んだ。父の会社の取引先からの過剰な心配、親戚からの抗議や説教で私だけでなく母もくたくたになった。父に関して語る時は慎重さを欠いてはならない。父を愛していればこそ、なおさらだ。
私には十六歳の息子がいるが、息子とその父親に関してなら幾らでも書く事が出来る。それは、母親として息子のすべてに責任を負う覚悟が出来ているからであり、息子なら母親の私がきちんと説明すれば柔軟に理解出来るはず、なにしろ私が育てた息子だから、という親馬鹿に近い確信もあるし、息子の父親は自分たちがどんな風に書かれようが筆を私に任せるような寛大で温厚な理性の人だ。筆は滴る墨で勢いづくだろう。『父にとって子である自分』と『息子にとって母親である自分』には、せつなさやいとおしさの量では比較出来ないが、質や温度にかなりの差がある。父と子をテーマに何かを書くには今の私には時期尚早でもある。この気持ちは、今、ここでうまく説明出来ない。ただ、父の人生を認識する、という点でなら私なりの自信があり、父そのものを書く事は出来る。
一年前、私は父をモデルに小説を書いた。主要な登場人物の男を集めて一人にまとめると父になる、つまり、父を分解すると数人の登場人物になる、という形で書いたのだ。母が買って来た掲載誌を読んだ父は黙り込んでしまったらしい。普段、怒るばかりの人が深く考え込み、何も話さなくなったため、傍にいる母は余計に怖かったと言う。暫く日を置いてからの電話で「あれは、俺のことだな」と畳み掛けて尋ねられ、私は詫びた。怒鳴られると覚悟したのだが、意外な事に父は、あれはあくまでも小説であって事実ではない、というところから理解を示し、おまけに「自分をモデルに書くのは、おおいに結構だ、俺の人生をおまえの小説のネタにくれてやる、どんな風にでも書いていいぞ」と、作家というには駆け出しで心許無い娘に太っ腹な背中押しをしてくれた。初めは驚愕したらしいのだが、じっと考えているうちに、子のためになれば好い、と潔く結論づけ、いずれ必ず自分の人生を代筆すべし、という以前からの申し伝えを念押して私を許してくれたのだった。 父は『自叙伝』を私に代筆させて自費出版し、自分の葬儀の際、香典返しで無料配布するのが夢らしいのだ。
波乱に満ちた父の人生がある。
小学生時代の私は、父の幼少時から青年期のエピソードを熱心に聞いた。魚市場前に建てた事務所と自宅を兼ねた大きな屋敷には、常時、数名の使用人が住み込み、商売が最優先で決して緊張が緩む事のない家庭環境だったが、父は晩酌の時、自分の生い立ちを話す事が時々あった。兄や弟は余り興味がなさそうだったが、私は「お父ちゃん、生きて来た今までのこと、年表に書いてみるといいのに」とませた口で提案した。それ程に、熱心に聞いた。 まるでドラマのようで面白く、父の語り方もまたドラマチックだったのだ。奥底にある大きな哀しみや苦しみは子供の私には理解し得ないにしても、父が苦労を語る時、本人から直接には滅多に聞く事の出来ない偉人伝を披露しているようでもあった。父のドラマは昭和十年、六歳の時の悲劇に始まる。父の父、私にとっての祖父が、父を頭に三人の子供と妻を置き去りにして恋人と逃げたのだ。祖父が恋人を同伴して家に戻る迄の六年間、父は祖母と一緒に行商をして食い扶持を稼いだが、乳飲み子だった父の妹は栄養失調で死んだ。赤貧の家から持参出来る弁当が無いため学校は昼前に早退し、近所や親戚から差別され、屈辱の子供時代を過ごしたという。そこから数々の苦労が始まり、高度経済成長期と自分の働き盛り期が合致した父が、なにくそ!という憤懣を拳に握って財を成すまでの、いわゆる父の青年期は、恋あり、座礁あり、借金あり、苦学あり、骨肉の争いあり、仏あり、出会った人々との関わりも様々な情に溢れ、悲劇の中に喜劇やロマンも揃っており、清濁あわせ飲むような複雑さなのだが、何処か正義や楽天をも感じさせ、他人ごとなら面白い展開の話になる。年表に書き出してみれば一体どのくらい長い帯になるのか、『自叙伝』の代筆を約束させられている私には気の遠くなるような数の事件や事故や物語に満ちている。
商売を成功させた父は人生にも成功した、と言っていいかもしれない。しかし、その過程には誰かの忍耐がある。母や私たち子供四人、そればかりか同業者、親戚、関わったありとあらゆる人たちに絶対服従を強いた父は、自分の父親によって齎された苦労によって魂が傷ついた人なのだった。癒しの代わりになったのは、母であり、子供らであり、商売だったが、並大抵の忍従ではなかったから思春期の私は父を憎み、目を合わせず、会話もしない、という反抗を十年近く続けた。父の魂の傷を理解出来るようになったのは、自分も親の立場になってからだ。祖父が亡くなり、息子達に商売を任せる年齢になっても、父が自分の父親への憎悪を解消出来ずにいる、と私が気付いたのは、私自身が子育てに苦悩するようになった頃だ。実は、祖父もまた魂に傷を負った人だった。不本意な入り聟で祖母と結婚したものの生まれて来る子供が次々と死に、一歳の誕生日を無事に迎えたのは五番目に生まれた私の父が最初だったという不運を蓄え、ハイカラを望む性格と地味な暮らしとの相違や暗い方向へ続く時代の流れとも相まって、たくさんの遣り切れ無さを抱えていた人だったのだ。
父から子へと繋がる年譜には、癒し難い哀しみの連鎖も記載される。自分が親になってみて、息子をいとおしく思えば、その連鎖を断ち切りたいと願うのは当然のこと、私は理想的な母親になれない自分への言い訳も含めて、こう考えた。どんな親であれ、子供は親の人生を受容した上で『学び得るもの、切り捨てるべきもの』を選択していけばいい、と。しかし、現実には息子に対して祖父の代から続く苦しみや哀しみの痛みを手渡してしまうのだ。
「お母さんに逆らってはいけない、どこまでも我慢しなさい、世の中には、もっと理不尽で、もっと悔しい事がたくさん有るんだ、我慢の練習を家でやっていると思えばいいじゃないか」今、まさしく思春期の息子が母親である私に反抗する時、息子の父親は母親を反面教師として規定するという妙な説得の仕方で、優しく静かに諭す。こういう父親なら私から息子へと繋がるはずの哀しみの数珠を断ち切ってくれるかも知れない。
過日、大病を患った父に「まだまだ生きていてよ、『自叙伝』の執筆をするのは、だいぶ先だし、お父ちゃんの取材も終わっていないんだからね」と私は言った。筆を磨き、父の人生最後の夢を実現させ、いずれは小説の形で残さなければ。父から子に手渡された年譜を最高の財産として昇華させるためにも。
2001年9月10日、父は亡くなりました。
私の2冊目『世間樣かくありき』の発行日でした。
通夜の日、父の書斎の机で書き物をしていたところ、真正面に、文庫本『父と子』があるのを見つけました。
途中まで水上先生の作品を読んでいたらしく、栞が挟んであったのですが、巻末の頁のみ、くたくたに汚れていました。
父が繰り返し、私のエッセイを読んでいたと分かり、父の願いをかなえてやれなかった詫びにもならないにせよ、祭壇に、この文庫本を供えました。
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