(1)邪馬壹国
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女王国景初三年(239年)に魏の明帝は、倭国の女王「卑弥呼」に「親魏倭王」の金印を贈り、破格の扱いをしている。中国大陸は、この時期、魏・呉・蜀の三国鼎立の時代で、この三国のうち、最も勢力の強かったのが魏の国である。 238年に遼東太守の公孫氏(こうそんし)が、魏の司馬懿(しばい)に滅ぼされ、帯方郡が魏の直轄地になると、邪馬台国の女王「卑弥呼」は、朝貢使の難升米(なしめ)を派遣した。 女王「卑弥呼」の、このすばやい対応に、魏の司馬懿や明帝が小躍りして喜んだであろうことは想像するに易しい。後の朝鮮半島の経営を考えれば、魏にとってこれほど心強いことはなかったわけである。魏も早速に塞曹掾史(国境守備の属官)張政を派遣した。 それからおよそ500年後の、日本の正史「日本書紀」の編纂にあたり、中国の歴史書も参考にしたことは明らかであるが、その編者は、邪馬台国の女王「卑弥呼」が、魏の明帝から「親魏倭王」の金印を贈られたことも、当然承知していた。しかし、大和天皇家の万世一系を書き綴らねばならない「日本書紀」としては、その存在は書けなかった。代わりに登場させたのが「神功皇后」である。
「記紀」は、邪馬台国の女王「卑弥呼」の事跡を、形を変えながら「神功皇后」の事跡に、あるいは「伊奘冉(いざなみ)」や「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の伝説に置き換えていった。 不弥国が「豊葦原の中つ国」であることはすでに説明した。その不弥国の聖地であった英彦山こそが邪馬台国であり、魏志倭人伝は女王国とも記している。「記紀」は、ここを高天原(たかまがはら)として描いたに相違なく、英彦山伝承では天照大神(あまてらすおおみかみ)の子の天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)が天降った神体山であるとする。したがって古くは「日子山」と書いたが、822年に嵯峨天皇の詔(みことのり)により「彦山」とし、1734年の霊元法皇の銅鳥居(かねのとりい)御宸筆の「英彦山」によって、以後は「ひこさん」を「英彦山」と書くようになった。
英彦山は三峰からなり北岳の天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)、中岳に伊奘冉(いざなみ)・南岳は伊奘諾(いざなぎ)をそれぞれの峰の御神体とする。英彦山伝承が天忍穂耳命の降臨伝説だけだとすると、当然に天忍穂耳命が中岳に奉られるはずであるが、中岳には伊奘冉(いざなみ)が奉られている。これは英彦山に天子降臨伝説以外の伝説が存在したことを意味する。これが伊奘冉(いざなみ)卑弥呼伝説である。 伊奘冉(いざなみ)は火の神「軻遇突智(かぐつち)」を生んだ為に死に、卑弥呼は狗奴国(火の国)との戦争終結をもって死ぬ。伊奘冉(いざなみ)の死は、ここで死んだであろう卑弥呼をモデルにしたのである。 「記紀」の神代紀の大部分は、本来は筑紫伝説として存在していたものをベースに、出雲伝説などを加筆し修正をして、編纂されたものとしか思えない。 「古事記」によれば天孫降臨の地は、「筑紫の日向(ひむか)の高千穂の霊(く)じふる峰」だとして、「此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ笠紗(かささ)の御前(みさき)にま来通りて朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照(ひで)る国なり。」としている。「日向(ひむか)」は東の意味であり、「高千穂」は高い山の連なり、「霊(く)じふる」は雲間から射す光線のようすの事で、韓国に向い、朝日にも夕日にも照らされる高い所の集落(国)は英彦山以外には考えられない。
「笠紗(かささ)の御前(みさき)」の問題が残るので、もう少し説明する。日本書紀はここを「頓丘(ひたを)から国覓(くにま)ぎ行去(とほ)りて笠狭碕(かささのみさき)に到る」としている。これは「日田から国東(くにざき)半島を通って、佐田岬に到る」と書いていると解釈する。九州から佐田岬・四国を見れば傘の形に見え、国東(くにざき)を国の東と書く意味も分かる。 瀬戸内海は古代から、九州(筑紫)と近畿(大和)を結ぶバイパスであり、笠狭碕(かささのみさき)は、その海の道標として、重要な位置にあった。それゆえに「記紀」もその位置を記したのである。 日本書紀は天孫降臨の地を、「日向の襲(そ)の高千穂の添山峯(そほりのやまのたけ)」であるとも記している。添(そほり)はソウル、すなわち韓国語で「都」を意味する。英彦山の所在地「添田(そえだ)」とは偶然の一致ではない。 さて、中世以降の英彦山は、出羽の羽黒山、熊野の大峰山と共に、日本三大修験の霊山として栄え、広く九州全域の信仰を集めていた。最盛期には三千の衆徒と八百の坊舎(僧侶や修験者の住家)があり、英彦山中腹に巨大な山上都市を形成した。この山上都市の始まりは、ここが縄文時代を通じて山岳信仰のメッカであり、やがて弥生期の高地性集落となって、「女王国」と呼ばれた。女王は「日の巫女」として、ここから英彦山山頂に登り、神託を受け人々に伝え、邪馬台国を統治した。
魏志倭人伝は女王国と女王のようすを、「王と為りてより以来、見る者あること少なり。婢千人を以って自ら侍せしめ、唯だ男子一人ありて飲食に給し、辞を伝えて出入す。居処の宮室・楼観、城柵厳しく設け、常に人ありて兵を持して守衛す。」と記している。 鎌倉時代初期にできた英彦山の古文書「彦山流記」によれば、英彦山の開山は継体天皇25年(西暦531年)に、中国北魏の僧「善正」が英彦山に入山したことに始まるとしているが、英彦山の修験のルーツは、このはるか以前、邪馬台国の時代にさかのぼる。 魏志倭人伝によれば「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国、これを畏(おそ)れ憚(はばか)る」と書く。この「一大率」は女王の軍隊であり、女王国の警護、女王の意思伝達、各国の偵察などを、山の峰々を歩き実行した。これが後には「山伏」と言われ、修験のルーツになった。
また、魏志倭人伝は「女王国より以北は、其の戸数・道里、得て略載すべきも、其の余の旁国は遠絶にして、得て詳(つまびら)かにすべからず」として以下に斯馬国から奴国まで二十一国を列記している。つまりこれらの二十一国は女王国(英彦山)の南に位置し、最後は伊都国の東南にある奴国(筑後平野)に行きつくと書いている。 女王国(英彦山)の南は九重連山の山なみが連なり、そこを生活の場にする人々は、狩猟・採集を中心とした縄文期以来の生活から容易に脱却することなく、そのために集約化の遅れた小集落部族国家群であったろうと考える。
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