(1)邪馬壹国
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不弥国魏志倭人伝の伊都国は「世よ王あるも、皆女王国に統属し、郡使の往来に常に駐まる所なり」と書き、また「常に伊都国に治し」とも記している。これは邪馬台国の実質的政治支配は、伊都国王によって行われていたことを意味する。女王卑弥呼は「王に為りてより以来、見る者あること少なり」とし「男弟ありて佐けて国を治む」とある。これが伊都国王のことである。 したがって倭国滞在中の郡使は、伊都国の鴻臚館(筑紫館)を拠点に活動し、伊都国王と折衝することで、その任務の達成は可能であるので、伊都国より先の国には行っていない。行く必要がなかった。この事は伊都国以前の記事の詳しさと、それ以降の記事の簡素さが如実に物語っている。伊都国から邪馬台国までの記事を原文で抜粋してみると、以下の通りである。 東南至奴國百里、官曰シ馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。 たったこれだけである。方向、距離、正副官名、戸数を記しただけである。文章の性格上「女王之所都」までの道程は簡略でも省略はできなかった。だから気をつけて読まないと、これから先はまちがいやすい。書き方の基本は、(方向)至(国名)(距離)であるが、奴国の「至」の前に「行」という字がなく、不弥国の「至」の前には「行」の字がある。これは伊都国の東南方向約8km(国境の幅)にある奴国は紹介記事であり、実際に伊都国の次に行くのは東方向約8km(国境の幅)の不弥国であることを意味する。 そして投馬国と邪馬台国の記事は不弥国を起点に考えるのが妥当であり、これも紹介記事であることは、同様に考えれば、一目瞭然であろう。投馬国は不弥国の南にあって、船旅で20日ほどかかると紹介し、邪馬台国は不弥国の南に接し、ここが女王の所在地であり、帯方郡より水行十日と陸行一月で到着すると紹介している。(水行陸行のページ参照)
邪馬台国の邪馬(山)は本来は不弥国の聖地であって、卑弥呼の祖先は、代々この山に居て不弥国の支配を行っていた。やがて「倭国大乱」によって、不弥国は伊都国と長く対立したが、婚姻政策をもって戦乱を終息させ、このとき両国王の血を引く卑弥呼を女王として共立し、不弥国の聖地である山(邪馬)に入(居)れた。これが「邪馬台国(邪馬壱国)」の始まりである。西暦190年頃のことである。魏志倭人伝は、この様子を以下のように記している。「其の国、本(も)と亦(ま)た男子を以て王と為し、住(とど)まること七八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。」 不弥国は「記紀」に書かれた「豊葦原の中つ国」のことである。すなわち「天照大神」が自らの子孫が治めるべき所とし、天孫「邇邇芸尊(ににぎのみこと)」を降臨させたとする日本建国神話発祥の地である。「豊葦原の中つ国」の「豊」は「豊の国」であり、「葦原」は葦の多く生えた土地のことで、「中つ国」は北部九州(邪馬台国の支配域)のまん中の国のことである。「葦原」を形成するのは、彦山川・穂波川・中元寺川・犬鳴川など72支流を合わせ、芦屋州口まで全長56Kmを流れる「遠賀川」である。遠賀(おんが)は大神(おおがみ)が転化したものである。 その遠賀川も近年は護岸が整備され、河川敷いっばいに生えた葦の原も、ほとんど見ることはできなくなったが、つい最近まで、葦でうめつくされた河川敷を目にすることができた。河口の町「芦屋」の地名は、「葦野」のことであろうという。
芦屋のすぐ上流に遠賀町の島門(しまど)という地名の所があるが、万葉歌人の柿本人麻呂(没年708年頃)がここで作った歌がある。 大王之 遠乃朝廷跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念 人麻呂の生きた時代、邪馬台国の後身である倭国筑紫王朝は、白村江の戦いの敗戦によってその命脈を断たれ、以後、名実ともに大和朝廷の時代となる。大和朝廷の舎人(とねり)であった人麻呂は、この頃に大和と筑紫の間を幾度となく往復し、瀬戸内海から関門海峡を通り洞海湾に入って遠賀川河口の島門に到着し、ここで船を降りる。 船を降りた人麻呂の目に映る風景は、遠賀川の流れと、その上流に遥かにそびえる英彦山の姿であり、この風景を前にして人麻呂は、「大和の大君(おおきみ)の祖先の地である島門(しまど)に来ると、神代(かみよ)のことが偲ばれる」と歌っている。
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