(1)邪馬壹国
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奴国「筑紫次郎」の異名を持つ筑後川は九州第一の川であり、阿蘇山・九重連峰に発し、有明海に注ぐ。流域は九州最大の筑紫平野が形成され、弥生時代、ここは奴国と呼ばれた。
奴国は伊都国の東南にあって、戸数二万余戸の、邪馬台国中最大の国である。南は敵対する狗奴国に接し、長い間(おそらく20年以上)戦争状態に措かれている。この長い戦争状態が、奴国二万余戸(人口約十万人)、伊都国千余戸(人口約五千人)とする人口の偏在を生じさせる事になった。 これは不弥国においても同様であるが、すなわち、狗奴国との戦争を遂行するために、伊都国と不弥国の人間は伊都国王と女王卑弥呼の命により、半ば強制的に奴国に移住させられた。
「魏略」によれば伊都国の戸数は万余戸であるのに、魏志倭人伝では千余戸としている。伊都国の人口激減は、狗奴国との戦況が邪馬台国にとって、決して優位に展開していないことを物語っている。 しかし、その長く続いた狗奴国との戦闘も、女王卑弥呼の死を以って終息すると、邪馬台国の総戸数七万余戸の内、三分の一近い二万余戸が奴国に集中していた訳であるから、必然的に権力の中心は伊都国から奴国に移ることになった。このことは同時に、連合国家「邪馬台国時代」の終焉を意味し、統一国家「倭国筑紫王朝時代」の誕生するところとなった。西暦300年頃のことである。 後に倭国筑紫王朝の太保府の地になった小郡官衙遺跡は、筑後国御原郡の郡役所跡と推定されているが、そうだとしても、それは8世紀以降のことである。郡役所以前は太保府であり、それを更にさかのぼれば狗奴国との戦争に兵員や物資を供給する後方基地であったろうと想像する。それでなければ、あれほど大規模の掘立柱式建物群が、何の歴史もなくあの場所に存在するはずはない。
小郡官衙遺跡から南へ12kmほど行くと、耳納山脈西端の高良山に行き当たる。ここが狗奴国戦争の時は邪馬台国の前線基地であった。山頂に立つと筑紫平野全体が眼下に広がる。やがて倭国筑紫王朝の王となる人物も、この山の山頂から狗奴国との戦況を見守っていたに違いない。 奴国にはもう一ヶ所、弥生時代を語るとき避けて通れない場所がある。「吉野ヶ里」である。吉野ヶ里遺跡は、稲作農耕の開始から古代都市が形成される過程をつぶさにとらえる事のできる極めて学術的価値の高い遺跡であるが、その戦時色の濃さはひときは目を引く。巨大な物見櫓、高床式倉庫群、そしてひしめく住居跡や、幾重にもめぐらした環濠跡は、まさに「魏志倭人伝」の記述とその世界を彷彿させるものがある。そして、地下に埋葬されたおびただしい数の甕棺墓の中には、頭部のないものや矢を打ち込まれたものなど戦死者と考えられる人骨が多数存在する。
吉野ヶ里遺跡がもつ、こうした戦時色の濃さは狗奴国戦争と決して無関係ではない。筑紫平野一帯には、吉野ヶ里ように戦時色の強い古代都市が数多く点在し、それらが奴国を形成したと考える。
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