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資料集

つくしまほろば
倭国筑紫王朝

つ く し 伝 説


更新 10/07/31

(1)邪馬壹国
 1.水行陸行
 2.末廬国
 3.伊都国
 4.奴国
 5.不弥国
 6.
投馬国
 7.女王国
 8.侏儒国

 

 

奴国

 「筑紫次郎」の異名を持つ筑後川は九州第一の川であり、阿蘇山・九重連峰に発し、有明海に注ぐ。流域は九州最大の筑紫平野が形成され、弥生時代、ここは奴国と呼ばれた。

筑紫平野

筑紫平野

 筑後川の沖積平野で面積約1200ku、福岡・佐賀両県にまたがる。写真は耳納山脈西端の高良山より見た筑紫平野。高良山は奴国の聖地である。
 福岡県久留米市高良内

 奴国は伊都国の東南にあって、戸数二万余戸の、邪馬台国中最大の国である。南は敵対する狗奴国に接し、長い間(おそらく20年以上)戦争状態に措かれている。この長い戦争状態が、奴国二万余戸(人口約十万人)、伊都国千余戸(人口約五千人)とする人口の偏在を生じさせる事になった。

 これは不弥国においても同様であるが、すなわち、狗奴国との戦争を遂行するために、伊都国と不弥国の人間は伊都国王と女王卑弥呼の命により、半ば強制的に奴国に移住させられた。

奴国地図

奴国地図

 奴国は伊都国の東南にあり、その南には狗奴国があって敵対している。女王卑弥呼は、この戦争が原因で没した。狗奴国は現在の熊本県地方を勢力範囲にし、有明海の制海権を有していた。

 「魏略」によれば伊都国の戸数は万余戸であるのに、魏志倭人伝では千余戸としている。伊都国の人口激減は、狗奴国との戦況が邪馬台国にとって、決して優位に展開していないことを物語っている。

しかし、その長く続いた狗奴国との戦闘も、女王卑弥呼の死を以って終息すると、邪馬台国の総戸数七万余戸の内、三分の一近い二万余戸が奴国に集中していた訳であるから、必然的に権力の中心は伊都国から奴国に移ることになった。このことは同時に、連合国家「邪馬台国時代」の終焉を意味し、統一国家「倭国筑紫王朝時代」の誕生するところとなった。西暦300年頃のことである。

 後に倭国筑紫王朝の太保府の地になった小郡官衙遺跡は、筑後国御原郡の郡役所跡と推定されているが、そうだとしても、それは8世紀以降のことである。郡役所以前は太保府であり、それを更にさかのぼれば狗奴国との戦争に兵員や物資を供給する後方基地であったろうと想像する。それでなければ、あれほど大規模の掘立柱式建物群が、何の歴史もなくあの場所に存在するはずはない。

小郡官衙遺跡

御原郡役所跡

 小郡官衙遺跡は、7世紀末から8世紀の間存在した御原郡の郡衙と推定されているが1郡衙にしては規模が異常に大き過ぎる。
 福岡県小郡市大保

 小郡官衙遺跡から南へ12kmほど行くと、耳納山脈西端の高良山に行き当たる。ここが狗奴国戦争の時は邪馬台国の前線基地であった。山頂に立つと筑紫平野全体が眼下に広がる。やがて倭国筑紫王朝の王となる人物も、この山の山頂から狗奴国との戦況を見守っていたに違いない。

高良大社本殿

高良大社

 筑後国一宮高良大社は西暦400年の創建といわれるが、奥宮は「高良廟」・「御神廟」とも称し武内宿称の葬所と伝えられ、高良山信仰の原点ともいうべき聖地である。
 福岡県久留米市高良内

 奴国にはもう一ヶ所、弥生時代を語るとき避けて通れない場所がある。「吉野ヶ里」である。吉野ヶ里遺跡は、稲作農耕の開始から古代都市が形成される過程をつぶさにとらえる事のできる極めて学術的価値の高い遺跡であるが、その戦時色の濃さはひときは目を引く。巨大な物見櫓、高床式倉庫群、そしてひしめく住居跡や、幾重にもめぐらした環濠跡は、まさに「魏志倭人伝」の記述とその世界を彷彿させるものがある。そして、地下に埋葬されたおびただしい数の甕棺墓の中には、頭部のないものや矢を打ち込まれたものなど戦死者と考えられる人骨が多数存在する。

吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里遺跡

 弥生時代の前・中・後期全般を通じて変化・拡大していった継続的な集落跡であり、その規模は弥生時代の環濠集落として全国最大であり、発掘調査は現在も続いている。
 佐賀県神崎市吉野ヶ里

 吉野ヶ里遺跡がもつ、こうした戦時色の濃さは狗奴国戦争と決して無関係ではない。筑紫平野一帯には、吉野ヶ里ように戦時色の強い古代都市が数多く点在し、それらが奴国を形成したと考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(Google Map)

 

 

 

 

 

 

(Google Map)

 

 

 

 

 

 

 

 

(Google Map)