(1)邪馬壹国
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末廬国名護屋浦に入港した郡使一行の総勢は、おそらく最低でも船3隻、人員120名を下ることはないと思うが、その内、水夫と兵士の半数はこの地に留まって、船の警護と維持管理にあたり、残りの約三分の一が、倭国滞在中の宿泊地になる伊都国の筑紫館(鴻臚館)を目指して陸行を開始することになる。
伊都国の筑紫館(鴻臚館)に直接に船を付けることが出来れば、陸路を行くよりはるかに楽ではあるが、博多湾岸あるいは唐津湾岸もそうであるが、そのほとんどは浅い砂地が続いており、船を陸付けすることは座礁の危険があり難しかった。それに陸路は、天候に左右されることなく出発が可能であり、今までの待機日の多かった船旅を思うと、陸路が賢明であった。ただ献上品などの多くの荷物は、後に天候を見計らい、小船に積み替える等して、筑紫館(鴻臚館)に直接荷揚げされたであろうと想像する。
さて名護屋浦を出発した一行は陸路を東南方向に進み、「草木茂盛、行不見前人」と記した草木の中を歩き、ようやく海岸に出る(唐津市)と、漁をする倭人の姿が目についた。「好捕魚鰒、水無深浅、皆沈没取之」と記している。 唐津市の菜畑遺跡は日本最古の稲作遺跡として有名であるが、郡使一行はこの辺を通過し、松浦川に行き当たる。松浦川は現地の倭人の小船で、大土井(唐津競艇場)付近で渡り、末廬国の聖地である鏡山の、裾野に到達する。名護屋浦からここまでが約24kmであり、この辺で一泊することになる。勿論、野宿ではない。この鏡山周辺には横田下古墳や島田塚古墳など多くの遺跡が散在しており、弥生時代後期の末廬国の中心地はこの辺にあったと思われ、当然に有力豪族の館があり、そこが宿泊地となった。
翌朝、郡使一行は玉島川を渡り、海沿いの山の縁を張り付くように歩いて、二丈町吉井から二丈町深江に到着する。これが末廬国と伊都国の国境越えであり、名護屋浦を出発してここまでが、ほぼ40kmである。「東南陸行五百里」は、この伊都国の入口までの距離を示している。 海岸沿いに押し迫っていた山は、深江を過ぎると南に後退し、眼前には糸島平野が広がる。視界の先には伊都国の聖地、高祖山が見え、この山に向かって一行は先を急いだ。
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