(1)邪馬壹国
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倭人在帯方東南大海之中、(中略) |
ここまでが合計一万里で水行十日の船旅であるが、出発から十日めに到着した訳ではない。当時は目視航行であり、目標とする島や岬が見えなければ出航することは出来なかった。当然に夜間の航行などは有り得ないし、風が強く波の高い日も出航は見合わせざるを得なかった。また、航海中の食糧はそのつど現地調達していくために、必ず陸行が伴った。水行十日一万里の船旅は、そうした待機日を含む陸行が、二十日は必要であって合計約30日が、当時の平均的な所要日数であった。したがって帯方郡を出発して末廬国に到着するには、約一月を要した。
末廬国から、残りの二千里を約十日間で陸行し女王国に至るのであるが、二千里という距離は、對馬国と一大国の距離千里の二倍、つまり対馬・壱岐間約80kmの二倍で約160kmということになる。問題は陸行の出発地、すなわち水行の終点である入航地は、末廬国のどこなのかということになる。

魏志倭人伝の文中に「草木茂盛、行不見前人」という記述があり、季節は夏であるが、これは当然のことであって、つまり当時の船では、冬の玄海灘は渡れなかった。ということは、帰路は翌年の夏になり、滞在期間一年が普通であって、その間は船を安全な港に係留しておく必要があった。
豊臣秀吉が朝鮮半島出兵のため、松浦半島の北端に名護屋城を築くが、ここは単に壱岐に最も近いと云うだけではない。長期戦になる兵員輸送用の船舶係留地としての名護屋浦の地形は絶好の場所であった。
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松浦半島の北端にある名護屋浦は周囲を山に囲まれ、前面を加部島で守られた正に天然の良港である。今から410年ほど前、豊臣秀吉は、徳川家康などの全国の戦国武将のほとんどをこの地に結集した。 |
邪馬台国の時代も、この地は大陸交易の玄関口であり、国際港として、あるいは軍港として大いに栄えたであろうと想像する。帯方郡から水行一万里の旅の終着点、そして女王国への陸行二千里の旅の出発点は、ここ名護屋浦である。