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つくしまほろば
倭国筑紫王朝
邪馬台国を行く
つ く し 伝 説

 

電称倭国伝

用語・解説

阿蘇ピンク石
 
阿蘇山の約9万年前の大噴火の火砕流が堆積し、冷えて固まってできたのが阿蘇溶結凝灰岩であり、阿蘇石とよばれる。そのほとんどは灰黒色をしているが、宇土半島の宇土市馬門(まかど)地区で産出される馬門石にはピンク色をしたものがあり、「阿蘇ピンク石」とよばれる。

 

天照大神(あまてらすおおみかみ)
 日本神話に登場し、皇室の祖神で、日本民族の総氏神とされている。神産みにおいて伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉の国から帰還し、日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわきはら)で禊を行ったときに産まれた。高天原(たかまがはら)を治めている。

 

天忍穂耳命(あまのおしほみのみこと)
 天孫「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の父神。素戔嗚尊(すさのおのみこと)と天照大神の誓約(うけい)の際に生れた神。正哉吾勝勝速日(まさかあかつかちはやひ)天忍穂耳尊。

 

伊奘諾(いざなぎ)
 伊奘冉(いざなみ)と共に夫婦の創造神。於能碁呂(おのごろ)島で夫婦の交わりをし、大八州(おおやしま)国と万物およびその支配神を生む。火神を生んで死んだ伊奘冉(いざなみ)を追って、黄泉(よみ)の国に行くが、死体を見て逃げ帰り、筑紫の檍原(あはきはら)で、禊(みそぎ)をする。そのときに天照大神・月読尊・素戔嗚尊(すさのおのみこと)が生まれた。

 

伊奘冉(いざなみ)
 伊奘諾(いざなぎ)と共に夫婦の創造神。於能碁呂(おのごろ)島で夫婦の交わりをし、大八州(おおやしま)国と万物およびその支配神を生む。火神「軻遇突智(かぐつち)」を生んだ為に焼かれて死に、黄泉(よみ)の国に行く。

 

乙巳の変(いっしのへん)
 中大兄皇子(なかのおおえのみこ・天智天皇)、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。

 

怡土平野
 
糸島地方で最も大きな平野。東に福岡平野との境となる高祖山系、南に佐賀県境となる背振山系で、川原川、瑞梅寺川、雷山川が運ぶ土砂の堆積よって形成された東西3kmほどの扇状地形をなし、中央には弥生時代の大集落遺跡である三雲・井原遺跡群があり、東の高祖山には怡土城が立地するなど糸島の古代主要遺跡の大半がこの地に集中しており、古代糸島の歴史はこの平野を中心として展開された。

 

壱与(いよ)・台与(とよ)
 西暦248年、邪馬壹国の女王「卑弥呼」が死ぬと、男王が立ったが国が治まらず、卑弥呼の宗女「壱与(いよ)・台与(とよ)」13歳を王として、ようやく国中が治まったという。

 

磐井(いわい)の乱
 
「日本書紀」によれば、任那(みまな)をめぐる新羅(しらぎ)との争いの中で、筑紫・豊・肥を基盤とする筑紫君磐井が新羅と内応し、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)の軍を阻み、叛乱を起こした。このため大和朝廷は、物部麁鹿火(もののべのあらかび)を大将軍として派兵し磐井を斬殺したとする。岩戸山古墳(福岡県八女市)が筑紫君磐井の墓とされる。

 

宇佐八幡宮
 全国四万社以上といわれる八幡宮の総本宮。祭神は八幡大神(応神天皇)、比売(ひめ)大神、神功皇后の三神。初代神武天皇が東征に先立ちこの地に寄ったことが「記紀」に記されている。また、769年の皇位を狙う「弓削道鏡」事件において和気清麻呂(わけのきよまろ)が神勅を授かるために、宇佐神宮に参拝する。

 

鵜葺草葺不合尊
 
日子穂穂出見尊と豊玉姫尊の子。神武天皇の父。

 

淵蓋蘇文(えんがいそぶん)
 『日本書紀』には伊梨柯須彌(いりかすみ)として現れる。唐との親善を図ろうとしていた第27代高句麗王・栄留王、ほか穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王(前王の弟の子)を第28代王に擁立して政権を掌握する。(642年)

 

延喜式
 
757年に公布、施行された養老律令の施行細則を集大成した法典。927年完成する。延喜式神名帳には、全国3132座の記載がある。これを式内社という。

 

応神天皇
 
第15代の天皇。仲哀天皇と神功皇后の子。香椎宮で仲哀天皇が没すると神功皇后は、臨月が近い身でありながら三韓に渡り、帰国後に宇美八幡宮で応神天皇を生む。

 

大伴金村(おおとものかなむら)
 大伴氏は、天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされ、物部氏と共に軍事の管理を司り、親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という役割であったという。

 

柿本人麻呂
 万葉歌人。没年は708年ごろ。7世紀後半、持統・文武の両天皇に仕え、官位は低かったが宮廷詩人として活躍したと考えられる。万葉集に多くの歌がみえ、古来歌聖として仰がれている。

 

笠紗の御前(かささのみさき)
 四国の愛媛県佐田岬。日本書紀では「笠狭碕」と記し、鹿児島県南さつま市笠沙町の「野間岬」に比定しているが、記紀の文脈を見れば不自然。

 

糟屋(かすや)
 
福岡県糟屋郡(宇美町・篠栗町・志免町・須恵町・新宮町・久山町・粕屋町 )と古賀市及び福岡市の東部を含むものと考えられる。

 

加羅(から)
 伽耶(かや)ともいう。朝鮮半島南東部にあった諸小国全体をいう場合もあり、特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)を指す場合もある。562年新羅により併合。

 

義慈王(ぎじおう)
 百済の第31代、最後の王(在位:641年 - 660年)。高句麗と共同し新羅を攻めていたが、逆に唐・新羅同盟を成立させてしまい、660年に唐に滅ぼされた。

 


 
中国の三国(魏・蜀・呉)時代に華北を支配した王朝(西暦220年 - 265年)。首都は洛陽。

 

魏志倭人伝
 中国史書のひとつで陳寿(生233〜297没)によって、晋代に編纂された「三国志」全65巻の内、「魏志」全30巻の中の「東夷伝倭人条」のことを云う。

 

魏略
 「魏志倭人伝」は晋の陳寿(233〜297)によって編纂された「三国志」のひとつ「魏志」の「東夷伝倭人条」のことを云うが、その大半は魚拳(ぎょけん)の「魏略」を参考にして書かれた。魚拳の生卒年代は定かでないが陳寿とほぼ同時代人らしい。「魏略」の原本はほろびて伝わっていないが、諸書にその逸文がある。

 

金春秋
 武烈王(ぶれつおう)は、新羅の第29代の王(在位:654年 - 661年)であり、姓は金、諱は春秋。654年3月に先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就いた。在位中に百済を滅ぼし、三国統一の基盤を為したことから新羅の太宗の廟号を贈られ、太宗武烈王とも称せられる。韓国では古代の君主の廟号を受けた最初の君主でもある。

 

旧唐書
 
中国歴代王朝の史書のひとつ。五代晋の劉昫(りゅうく、生887〜946没)よって945年に完成する。全200巻。その内の「東夷伝」に倭国条と日本国条がある。

 

熊襲(くまそ)
 古代九州南部の地域とその地に住む人々の総称。日向・大隅・薩摩地方(宮崎県、鹿児島県)に当たる。律令時代の行政区画には、クマに当たるものとして肥後国球磨(くま)郡の名があり、ソは大隅国贈於(そお)郡の名がある。

 

継体天皇(けいたいてんのう)
 第26代天皇として507年即位。武烈天皇の死後、後継者がなかったため、北陸地方から大和(やまと)に入って皇位を継いだ。応神天皇5世の孫だという。男大迹(おおど)王ともいう。

 

後漢書
 
中国歴代王朝の史書のひとつ。范曄(生398〜445没)により、南朝劉宋の代に成る。全120巻

 

五摂家(ごせっけ)
  摂政・関白に任ぜられる家柄で、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)を祖とする。近衛・九条・二条・一条・鷹司(たかつかさ)の総称。

 

古事記
 
天武天皇の企画に基づき太安麻侶(おおのやすまろ)が712年に撰録した日本最古の歴史書。天地開闢(かいびゃく)から推古天皇までの記事を収め,神話・伝説と多数の歌謡を含む。

 

コロンブス
 
1451年頃生-1506年没。イタリアの航海者。大西洋を西航してインドに達し得ると考え、1492年バロスを出航し、バハマ諸島のグアナハニ島に上陸した。

 

差錯
 
間違いの意味

 

防人(さきもり)
 多くは東国から徴発されて筑紫・壱岐・対馬などに配備された兵士。

 

冊封(さくほう)体制
 
中国の歴代王朝が、東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策。中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に、官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで、彼らにその統治を認める一方、宗主国対藩属国という従属的関係におくことをさす。

 

三国史記百済本紀
 三国史記は朝鮮半島の三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1145年完成。全50巻の内、巻23〜巻28が百済本紀。

 

刺史
 
中国古代の地方官。漢代では監察官、隋・唐代では州の長官。

 

徐福伝説
 
紀元前210年、秦の始皇帝の命を受け、徐福は不老不死の薬を求めて、童男童女3千人と五穀の種を持って、東海の三神山を目指し船出したが、再び国に帰ることはなかった。日本に徐福が上陸したかは定かでないが、日本各地に徐福に係わる伝説が伝わっている。

 

新羅(しらぎ)
 古代朝鮮の国名。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降、加羅諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。

 

神功皇后(じんぐうこうごう)
 
第十四代、仲哀天皇の皇后で応神天皇の母。「記紀」が創作した架空の人物とするのが、現在の一般的な見方である。和風諡号
(しごう)は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)

 

新唐書
 
中国の唐代の正史で、1060年の成立。

 

神武天皇(じんむてんのう)
 
初代の天皇。筑紫を発った神武天皇は、安芸から吉備を経て大和に入り、即位する。

 

(ずい)
 中国の統一王朝。随国公の楊堅(ようけん・高祖文帝)が北周の国を奪って581年に即位。国号を隋と称し、都を長安に定めた。西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一したが、第2代煬帝の失政により618年に滅亡。

 

推古朝
 大和政権初の女帝。欽明天皇の皇女で母は蘇我堅塩媛(きたしひめ)。敏達(びだつ)天皇の皇后となる。592年崇峻(すしゅん)天皇が蘇我馬子に殺されると蘇我氏の出として擁立されて即位し、628年まで在位。甥の聖徳太子を摂政とした。

 

隋書倭国伝
 
隋書は隋の統一から滅亡(581年〜618年)までを記した中国の史書で、636年に魏徴(生580〜643没)によって本紀5巻、列伝50巻が完成する。その内の「東夷伝」に「俀(タイ)国伝」があり、倭国について記している。なぜ当時、倭国を「俀(タイ)国」と言ったかは定かでないが、文中に「都は邪靡堆(タイ)、魏志の説に則れば、邪馬臺(タイ)というなり」の記載があるので、これによるのかもしれない。

 

菅原道真
 
平安前期の貴族・学者。宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任、894年(寛平6)遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議。醍醐天皇の時、右大臣となったが、901年(延喜1)藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷され、配所に没。死後、種々の怪異が現れたため御霊として北野天満宮に祭られ、のち学問の神として尊崇される。

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)
 日本神話に登場し、神産みにおいて伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉の国から帰還し、日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわきはら)で禊を行ったときに産まれた。

 

聖明王(せいめいおう)
 百済の第26代の王。(在位:523年 - 554年)
新羅への対抗のために殊更に倭国筑紫王との連携を図った。

 

先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)
 
全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。平安時代初期(800年代)に成立したと推定されている。

 

宋書
 
中国歴代王朝の史書のひとつ。沈約(生441〜513没)により、南朝斉代に編纂(488年)された。全100巻 

 

宋朝
 
420年劉裕(武帝)が東晋から王朝を譲られて建国。北魏との交戦に失敗が続き、やがて内乱が起こり、478年、8代にして武将の蕭道成(斉の高帝)に国を奪われた。

 

捜露
 
点検の意味

 


 
古代中国の官名。天子の師傅となる官。左大臣にあたる。

 

太保
 
古代中国の官名。天子の徳を保ち安んずる官。右大臣あたる。

 

帯方郡
 
古代朝鮮半島の西海岸中央部に置かれた中国の植民地。現在のソウル付近が中心で、のち(四世紀前半)に、この地に百済がおこる。

 

大宝律令
 律6巻・令11巻の古代の法典。大宝元年(701)刑部おさかべ親王・藤原不比等ら編。ただちに施行。天智朝以来の法典編纂事業の大成で、養老律令施行まで、律令国家盛期の基本法典となった。古代末期に律令共に散逸、今日では養老律令から全貌を推定するのみ。

 

平将門の乱
 承平天慶の乱。平安中期の武将、平将門は摂政藤原忠平に仕えて検非違使を望むが成らず、憤慨して関東に赴いた。伯父国香を殺し、939年(天慶2)常陸国府を襲撃して公然と朝廷に反抗するに至った。居館を下総猿島に建て、文武百官を置き、自ら新皇と称し関東に威を振ったが、平貞盛・藤原秀郷に討たれた。律令国家崩壊を象徴した事件。

 

高天原(たかまがはら)
 日本神話における天津神(あまつかみ、天神)の居所。天上にあると考える説と、地理的な比喩として地上に求める説とがある。

 

武内宿称(たけうちのすくね)
 
記紀によれば成務(第十三代天皇)朝の大臣となり、神功皇后の新羅出兵に同行した。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝にわたって仕えたという。蘇我・葛城・巨勢・平群などの諸氏の祖先とされる。

 

太宰
 古代中国の官名。天子を補佐し、諸政をつかさどるもの。時代によって名前が変わり、「太師」と云うこともある。太政大臣にあたる。

 

筑紫(つくし)
 現在の福岡県は、七世紀末の律令によれば、筑前国・筑後国と豊前国に相当する。律令以前は、筑前国と筑後国を併せて「筑紫国」と言った。豊前国と豊後国は「豊国」である。

 

筑紫国大地震
 
678年12月27日夜、筑紫で大地震が発生し、幅二丈、長さ3千丈の地裂ができ多数の舎屋が、倒壊し破損した。豊後国日田郡では各所に温泉が湧き出たという。
 尚、684年にも、日本列島が大地震に見舞われ、諸国の官舎や寺塔神社が数えきれないほど崩壊し、土佐では、田畑が海底に没した。とする記録が日本書紀にある。

 

筑紫火君(つくしのひのきみ)
 
日本書紀の欽明十七年(556年)に百済本記の引用文して「筑紫火君(つくしのひのきみ)は筑紫君の子、火中君(ひのなかのきみ)の弟なり」という記載がある。

 

仲哀天皇
 
第14代の天皇。熊襲征伐のため筑紫入りをした仲哀天皇と神功皇后は、香椎宮で、新羅を征服せよ、との神託をうけ、これを疑った仲哀天皇は急死する。

 

丁未の乱(ていびのらん)
 用明天皇2年(587年)、物部守屋大連と蘇我馬子大臣との間で軍事衝突が起こり、蘇我馬子が勝利する。崇仏派蘇我氏と敬神派物部氏の宗教戦争の様相を帯びるが、蘇我氏と物部氏との覇権争いでもある。

 

天孫降臨
 
天照大神の孫、すなわち天忍穂耳命の子である邇邇芸尊(ににぎのみこと)が天降ったことをいい、その地は一般的には宮崎県の高千穂峡だと云われている。

 

天平文化
 天平時代を中心とする奈良時代の文化の称。盛唐期の文化を国家的な規模でとりいれ、建築・彫刻・絵画・工芸などあらゆる部門で、高度の技術的習練による古典的様式を作り上げ、大陸的・仏教的な特色をもつ。

 

舎人
 天皇、皇族などに近侍し、雑事にたずさわった者。

 

豊玉姫尊
 海神の娘。海幸彦の釣針を探しに来た山幸彦は、豊玉姫と出会い結ばれる。神武天皇の祖母。

 

長髄彦(ながすねひこ)
 大和の豪族。妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を饒速日命(にぎはやひのみこと)に嫁がせている。神武天皇の東征に抵抗して、物部氏(饒速日命)に殺された。

 

中大兄皇子(なかのおおえのみこ)
 後の天智天皇(在位668〜671)。舒明天皇の第2皇子。中臣鎌足と図って蘇我氏を滅ぼし、ついで皇太子として大化改新を断行。661年、母斉明天皇が筑紫で没後、称制。667年、近江国滋賀の大津宮に遷り、翌年即位。庚午年籍を作り、近江令を制定して内政を整えた。

 

菜畑遺跡
 縄文時代晩期(約2500年前頃)の日本最古の水田跡が発見された。

 

饒速日命(にぎはやひのみこと) 
 天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)ともいう。神武東征に先立ち、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降りした。

 

二十一国
 
斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国

 

日本書紀
 
日本最古の勅撰歴史書。古事記とあわせて「記紀」という。天武天皇の皇子「舎人親王」が勅を奉じて太安麻侶らと編纂し、720年に完成する。神代から持統天皇の終わりまでを漢文、編年体で記す。

 

白村江の戦い(はくそんこうのたたかい・はくすきのえのたたかい)
 唐と新羅の連合軍によって滅亡した百済の再建と筑紫国の権益を守るために、筑紫国王は大和国からの援軍も加えて出兵するが、663年8月27・28日の白村江(朝鮮南西部の錦江河口付近の古名)での海戦で惨敗する。敗戦の主原因は大和国の唐・新羅への内応が十分に考えられる。

 

幡多荘(はたのしょう)
 土佐国幡多(はた)郡のほぼ全域と高岡郡の一部を占めた土佐最大の荘園。現高知県幡多郡・中村市・宿毛(すくも)市・土佐清水市などにわたる。一条家領。13世紀初頭に土佐国は九条家の知行国となり,九条道家の時代に幡多荘が成立したとみられるが,立荘の経緯や年次は不明。

 

英彦山
 福岡県と大分県の県境に位置し、標高1200メートルで北岳・中岳・南岳の三峰からなる。中世は修験道の霊場として栄える。

 

日子山
 
英彦山伝承によれば、天照大神の子である天忍穂耳命が天降った山であることから「日子山」と呼ばれるようになった。

日子穂穂出見尊
 天孫、邇邇芸尊(ににぎのみこと)の子で山幸彦のこと。神武天皇の祖父。

 

肥国
 
火の国ともいい、現在の熊本県地方。

 

卑弥呼
 魏志倭人伝に記された邪馬壹国の女王。西暦190年頃に連合国家の女王として共立され、248年没す。鬼道に仕え、よく衆を惑わすとあり、巫女(みこ)的性格をもつと考えられる。夫はなく弟が政治を補佐し、239年魏に使者を送り、親魏倭王(しんぎわおう)の称号を受けた。

 

ビュート
  
浸食作用により周辺が低下し,あとに取り残されて台地状をなす地形をメーサと言い、地表が溶岩その他の水平な構造をもつ硬岩層におおわれるときできる。メーサが周辺から浸食されさらに小さくなって孤立した小丘。

 

殯宮(ひんきゅう)
 
天皇・皇族のひつぎを葬式の日までしばらく仮に安置しておく御殿。あらきのみや。もがりのみや。

 

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)
 614生-669没。藤原氏の祖。中臣鎌子(なかとみのかまこ)とも。中大兄(なかのおおえ)皇子らと蘇我氏を倒し,大化改新後は,内臣として政府の中核となった。臨終には,天智天皇から大織冠(たいしょくかん)の冠位と藤原の氏(うじ)を賜った。

 

藤原純友の乱
 承平天慶の乱。平安中期の官人であった 藤原純友は西国で海賊討伐を命ぜられていたが、936年(承平6)自ら海賊を率いて朝廷に反抗、941年に敗死。律令国家崩壊を象徴した事件。

 

扶桑略記(ふそうりゃっき)
 平安末期に成立した編年体の歴史書。引用文献は82種に及び,六国史以下の史書や寺院縁起,流記,僧伝などを典拠とし,現在散逸したものも含まれる。記事の大部分は仏教関係で,仏教史として後世まで重視された。

 

扶余豊璋(ふよほうしょう)
 百済最後の義慈王の王子。舒明天皇3年(631年)に人質として送られてきた。

 

法興王(ほうこうおう)
 新羅の第23代の王(在位:514年 - 540年)

 

放生会(ほうじょうえ・ほうじょうや)
 
放生とは捕らえられた魚介、鳥、動物などを殺生をしないで池、川、山林に放す事であり、720年(養老4年)それまでの戦において多くの兵の命を奪った罪への禊ぎとして宇佐神宮で行なわれたのが放生会の最初とされる。「日本書紀」天武天皇5年(677年)に「諸国に詔して、放生せしむ」とあるのが放生の初見である。

 

まほろば
 
すぐれた場所のこと

 

任那(みまな)
  4〜6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった伽耶(かや)諸国のひとつで金官国(現、慶尚南道金海)の別称。

 

矢野一貞(やのいってい)
 矢野一貞(1794〜1879年)は久留米藩士で国学者。

 

邪馬台国
 「魏志倭人伝」に書かれている、女王「卑弥呼」に統属された連合国家。普通「邪馬台国」と書くことが多いが、「魏志倭人伝」には「邪馬壹国」と書かれている。「壹」は「壱」であり「台」ではない。

 

大和政権
 近畿大和地方を中心に勢力を、日本列島全域に広げたとする政権。現在の天皇家の祖先とされ、「記紀」によれば、初代の神武天皇が九州から東征し興したとされている。

 

米原長者伝説
 
むかしむかし菊鹿の里に米原長者が住んでいました。自分の五千町歩の田植えを一日で終ることが何よりの自慢でした。ところがある年のこと、まだ田植えが終らないうちに日は西のほうに傾きました。そこで長者は、持っていた金の扇で太陽をあおいで返しましたが、それでも田植えは終らずに、とうとう日は沈んでしまいました。怒った長者は、西の日岡山に油をまいて火をつけて、昼のように明るくして、やっと田植えを終らせました。その晩のこと、山の残り火が長者の屋敷に飛び火して、何もかも焼けて、長者も死んでしまいました。それから、日岡山の頂には大きな草木が生えないということです。

 

羅済同盟(らさいどうめい)
 433年に、百済と新羅が、高句麗の南下政策に対抗するために結んだ軍事同盟。加羅諸国の領有争いで、この同盟は553年に破たんする。

 

令集解(りょうのしゅうげ)
 9世紀前半(868年頃)に編纂された養老令の注釈書。全50巻(うち36巻が現存)。

 

倭国大乱
 中国史書(後漢書・隋書・梁書等)によれば、西暦180年頃に、倭国は互いに攻め合い、長い間大いに乱れたが、女王「卑弥呼」を共立することで、争乱が治まったことを記している。

 

倭の五王
 中国史書(宋書・南斉書・梁書)に登場する五世紀の倭王で、讃・珍・済・興・武を云う。たびたび中国(宋)に遣使して、日本列島及び朝鮮諸国の支配権を認めさせようとした。雄略天皇などに当てる試みもあるが、近畿大和政権の王ではない。倭国筑紫王朝の歴代の王のことである。