トップページ
 
資料集

つくしまほろば

邪馬台国を行く
つ く し 伝 説

更新 16/05/25

1. 寧楽の都
2. 開府
3. 太宰府
4. 太傅府
5. 太保府
6. 鴻臚館
. 磐井の乱
. 火の国日本
. 神籠石
10. 神郡宗像
11. 大和王朝
12. 大化の改新
13. 白村江の戦い
14. 壬申の乱
15. 奈良の都

 

 大化の改新

 筑紫王家の内乱(527年の磐井の乱)で、体力を衰退させた倭国の朝鮮半島への干渉が弱まると、それまで弱小国であった新羅は、532年には金官加羅(きんかんから)国を併合し、以後着々と加羅諸国を浸食していく。

 『日本書紀』欽明天皇5年(544年)に、百済の聖明王(せいめいおう)が、安羅(あら)の日本府の的臣(いくはのおみ)・吉備臣(きびのおみ)・河内直(かわちのあたい)らが、新羅に通じており、早く召還するよう訴えているが、天皇(すめらみこと)は、「的臣(いくはのおみ)らが新羅に行ったことは、自分の命じたことではない」という。ここでいう天皇は、筑紫の倭国王のことである。

筑紫君葛子から糟屋の地を得た大和王朝は、そこを足がかりに念願の朝鮮半島進出を果たすが、そこでの、大和国王の命で渡った者の好き勝手な行動を、筑紫倭国王が咎めることはできなかった。

 百済と新羅は、この時期、羅済同盟(らさいどうめい)を結んで高句麗の南下進出に抵抗していたが、加羅諸国の領有争いで、この同盟は553年に破たんする。

562年には大加羅国も新羅に併合されて、いわゆる任那は消滅する。朝鮮半島は高句麗・百済・新羅の三国時代を向かえることとなった。

 大和では、新羅との交易が生みだす莫大な利益が蘇我氏の権力基盤となり、丁未(ていび)の乱(587年)で物部氏を滅ぼすと、592年には崇峻天皇を殺害し、蘇我馬子の姪である推古女帝をたてて蘇我政権を確立する。

 大和の蘇我政権は、表面上は筑紫王朝に追従し親百済を装っているが、内実は新羅と通じていた。

『日本書紀』推古天皇11年に、新羅征討の将軍であった聖徳太子(しょうとくたいし)の同母弟の来目皇子(くめのみこ)が、筑紫で急逝すると、異母兄の当摩皇子(たぎまのみこ)が、代りの将軍となり難波を船出するが、明石で同行していた妻が死に、当摩皇子は引き返して征討をやめている。

二万五千人の兵を動員したとしながら、相次ぐ事故に遭遇したとはいえ派兵中止はあり得ない。最初から新羅に派兵などする気はなく、事故は事実であったとしても、それは派兵中止の口実に過ぎない。

久米神社 久米神社

 祭神 底津綿津見・表津綿津見神・中津綿津見神・来目皇子
 来目皇子が率いた軍の本営地、あるいは皇子の仮埋葬地とも伝わる。周辺集落には、「大館庁・小館庁・射手」など皇子屯営の頃より伝わるとされる地名も残っている。
 福岡県糸島市志摩野北

 そのころ中国では、三百年ほど続いた南北朝分裂状態を589年に「隋」が統一する。600年に筑紫倭王「阿毎(あめ)多利思比孤(たりしひこ)」は隋に使者を送り、「倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす。天いまだ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して坐し、日出ずればすなわち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」(『隋書倭国伝』)。

筑紫倭王は、政権を日(肥)国王に禅譲(ぜんじょう)すると述べ、隋の文帝は、「これ大いに義理なし。ここにおいて訓(おし)えてこれを改めしむ」、つまり、認めないと言っている。

 607年に、筑紫倭王「阿毎(あめ)多利思比孤(たりしひこ)」は再び遣使を送り、あの有名な国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」を送っている。「帝はこれを見て悦ばず。蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と『隋書』は記している。

 『日本書紀』は、推古天皇15年(607年)に、「小野妹子(おののいもこ)を大唐に遣す」と書き、これは隋の間違いであるが、同年に大和王朝は、初めて中国王朝に遣使を送っている。『新唐書』に「隋の開皇末に直り、始めて中国と通ず」とあるのは、大和王朝ことである。

 そして翌年(608年)、隋の煬帝は、裴世清(はいせいせい)を使者として倭国に派遣してきた。大和王朝の使者、小野妹子も一緒に帰国し、煬帝から授けられた書を「帰国途中に百済人から掠め取られた」と報告した。

群臣は妹子を流刑に処すべきとしたが、天皇はこれを赦したと『日本書紀』は書く。だが隋の煬帝が、その不確かな存在の大和王朝に国書など授けるはずはない。裴世清(はいせいせい)の派遣は、その存在確認の意味もあった。

 一方、筑紫倭王の多利思比孤(たりしひこ)は、このときに裴世清と会い「願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい」と、日(肥)国王への禅譲を認めるよう迫っているが、裴世清は「隋帝の意思は既に示している通りであり、禅譲は認められない」として帰って行った。

『隋書』倭国伝は「この後、遂に絶つ」で終わる。国交断絶である。倭国筑紫王朝は、この時から中国の冊封を離脱し、対等外交に挑むことになる。

 612年、隋は高句麗遠征を開始する。113万の兵力で三度の攻撃を受け、高句麗は遂に煬帝に恭順の意を示すが、何とか持ち堪えていた。いっぽう隋では、高句麗遠征の無理がたたって内乱が起き、隋王朝は瓦解し唐が建国する。

 618年に「大唐」が成立すると、高句麗はその翌年すぐに遣使し、その二年後には、百済と新羅も相次いで遣使したが、筑紫倭国王は、唐に朝貢しようとはしなかった。

 630年(舒明天皇2年)になって大和王朝は、犬上君三田耜(いぬがみのきみみたすき)と薬師恵日(くすしえにち)を唐に派遣する。

翌々年、唐は高表仁(こうひょうじん)を遣わして、三田耜(みたすき)を送らせた。これを大和では、難波津に船三十二隻を揃え、鼓をうち、笛を吹き、旗を飾って出迎えた。

 『日本書紀』によれば、高表仁は大和での大歓待のち何事もなく唐に帰ったはずだが、『旧唐書』は、大和での事には一切触れず、高表仁が倭国の「王子と礼を争い朝命を宣しないで還った」と記している。

高表仁はこのとき、大和と筑紫の両方を訪れたが、筑紫倭国王は高表仁に会見せず、その役を王子に当たらせたため、体面に拘った高表仁と揉めることになった。

結局、倭国筑紫王朝は、中国王朝が唐に変わってもその冊封を拒否し続けた。幾度も派兵を繰り返しながら高句麗を打ち破ることのできない、中国王朝をあまく見たのかもしれない。

 高表仁の来使は、筑紫倭国と大和国の動向探索が目的であったが、百済の義慈王(ぎじおう)も、その前年(631年)に、王子である扶余豊璋(ふよほうしょう)を倭国に送っている。

これを『日本書紀』は「人質」だと書いているが、やはり倭国と大和国の動向探索が目的であった。筑紫倭王も、そのことは承知で、義慈王と謀って、豊璋の大和行きには同意したに違いない。

大和の蘇我氏とっては、豊璋は祖国百済の王子であり、滞在中の身柄引受ぐらいは当然のこととして招致したのであろうが、これが蘇我氏滅亡の原因となった。

三輪山 三輪山

 乙巳の変(いっしのへん)の前年(643年)に、豊璋が三輪山で養蜂を試みたが失敗した、という記述が『日本書紀』にある。豊璋が乙巳の変に係わったことの暗示であろう。

 奈良県桜井市三輪

 642年に百済の義慈王は高句麗の淵蓋蘇文(えんがいそぶん)と軍事同盟(麗済同盟・れいさいどうめい)を結び、加羅諸国の奪還を開始する。新羅の金春秋(後の武烈王)は、高句麗に救援を求めて来使するが、捕られて一時監禁されている。

 644年、唐の太宗は高句麗に対して新羅との和解を勧告するが、淵蓋蘇文はこれを拒否し、激怒した太宗は645年に10万余の大軍を率いて高句麗に侵攻した。

 同年に新羅は、大和王朝にも救援依頼のため使者を送り、『日本書紀』は三韓(新羅・百済・高句麗)からの調(みつぎ)を(たてまつ)る儀式を朝廷で行うとあるが、この時期、三韓の使者が揃って進貢するなどということはありえない。

恐らく新羅が大和に救援を請う使者を派遣したものであろうが、この使者を前に、蘇我入鹿(そがのいるか)は斬殺された。乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)である。

首塚 蘇我入鹿首塚と飛鳥寺

 中大江皇子らクーデター派は直ちに法興寺(飛鳥寺)へ入り戦備を固めた。漢直(あやのあたい)らは一族や兵を集めて戦を起こそうとしたが、中大兄皇子が巨勢徳陀(こせのとくだ)を派遣して説得すると、武器を捨てて立ち去った。
 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥

 この事件の首謀者は中臣鎌足で、中大江皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と計り、蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだのまろ)、佐伯子麻呂(さえきのこまろ)、葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)らを引き入れて、宮中大極殿で起こしたクーデターである。

 この時、大極殿には他に皇極女帝と古人大江皇子(ふるひとのおおえのみこ)が居たが、古人大江皇子は私宅に走り入って、人々に「韓人(からびと)が鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺した。われも心痛む」と言っている。

「鞍作臣」は蘇我入鹿のことで、「韓人」は中臣鎌足しか該当者はいない。つまり中臣鎌足は、豊璋と同一人物であり、緊迫する半島情勢の最中にあって、新羅に肩入れする蘇我氏を、百済の王子として看過することはできなかったのだ。当然に義慈王の指令があったであろうことも十分に想像できる。

 中大江皇子(なかのおおえのみこ)にしてみれば、丁未の乱で蘇我馬子が物部氏を亡ぼして以後、およそ六十年ぶりの王権の奪還であったが、蘇我倉山田麻呂にとっては蘇我政権内部の権力争いであった。

 この事件の翌日に入鹿の父の蝦夷(えみし)は、自らの邸宅に火を放ち自殺する。その翌日に皇極女帝が退位し、古人大江皇子は出家して吉野へ隠退したため、弟の軽皇子(かるのみこ)がやむなく即位して孝徳天皇となったと日本書紀は書いている。

 孝徳天皇は即位後、数々の政治改革を行い、これを「大化の改新」というが、孝徳天皇の即位事情からして、また、蘇我本宗家は滅亡したとはいえ、それまで蘇我政権の屋台骨の一角であった蘇我倉山田麻呂を新政権の右大臣に置いて改新などできるはずわない。「大化の改新」は、書紀編者の潤色である。