トップページ
 
資料集

つくしまほろば

邪馬台国を行く
つ く し 伝 説

更新 16/05/25

1. 寧楽の都
2. 開府
3. 太宰府
4. 太傅府
5. 太保府
6. 鴻臚館
. 磐井の乱
. 火の国日本
. 神籠石
10. 神郡宗像
11. 大和王朝
12. 大化の改新
13. 白村江の戦い
14. 壬申の乱
15. 奈良の都

 

 

 大和王朝

 『記紀』解釈によれば、大和王朝は、西暦紀元前660年2月11日に初代の神武天皇が、畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮)で即位したことから始まるらしい。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)が、孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に「豊(とよ)葦原の中つ国」を治めさせようと、高天原(たかまがはら)を天降りさせてから、179万2470余年後のことだという。もとよりこれは創作神話であり史実ではありえない。

 皇祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)のモデルは、魏志倭人伝に記された邪馬台国の女王「卑弥呼」である。

 卑弥呼は「日の巫女」であり、豊の国(魏志倭人伝では不弥国)の王であったが、邪馬台国連合の王に共立され、連合の盟主になって南の山に入った。ここが女王国であって、日本神話では高天原(たかまがはら)となった。

 不弥国の南の山は、豊の国の聖地、英彦山(ひこさん)である。ここを源流に九州北端で玄海灘にそそぐ「遠賀(おんが)川」の名は、「大神(おおがみ)川」が転化したもので、この川の流域が「豊(とよ)葦原の中つ国」である。

 『先代旧事本紀』によれば、天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)の降臨の前に、兄の饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天照大神の命令で、天磐船(あまのいわふね)に乗り、河内の国の河上の哮峰(いかるがのみね)に天降りしている。

磐船神社 磐船神社

 祭神 天照国照彦天火明奇玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)
 饒速日命は天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨した。舟形の巨岩を「ご神体」とし、拝殿だけが設けられている。

 大阪府交野市私市

 饒速日命(にぎはやひのみこと)は物部氏の始祖とされ、天降りに際しても、その従者として遠賀川や紫川(北九州市)流域の物部氏を引き連れている。物部氏の本貫地は、「豊の国」であり、女王卑弥呼の命令で瀬戸内海を渡り、淀川を遡って木津川流域(交野(かたの)市付近)に入った。後漢書等に記された倭国大乱後の西暦200年頃のことである。

 饒速日命(にぎはやひのみこと)は、木津川流域の豪族であった長髄彦(ながすねひこ)の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻にしている。土地の豪族と結びついた物部氏は、大和北部を拠点にして各地に勢力を拡大していった。

物部氏本貫地 物部氏本貫地(先代旧事本紀より)

筑紫弦田(つるた)物部 ▶宮若市鶴田
二田(にいた)物部 ▶鞍手郡小竹町新多 
芹田(せりた)物部 ▶宮若市芹田 
鳥見(とみ)物部 ▶北九州市小倉北区富野
横田(よこた)物部 ▶飯塚市横田
嶋戸(しまと)物部 ▶遠賀郡遠賀町島門
赤間(あかま)物部 ▶宗像市赤間
大豆(おほまめ)物部 ▶嘉穂郡桂川町豆田 
肩野(かたの)物部 ▶北九州市小倉北区片野 
相槻(あひつき)物部 ▶朝倉市秋月
筑紫聞(きく)物部 ▶北九州市小倉南区企救 
筑紫贄田(にへた)物部 ▶鞍手郡鞍手町新北
田尻(たじり)物部▶田川郡糸田町泌(たぎり)
その他(不明地を含む)
当麻(たきま)物部 浮田(うきた)物部 巷宜(そが)物部 足田(あしだ)物部 須尺(すじゃく)物部  久米(くめ)物部 狭竹(さたけ)物部 羽束(はつかし)物部 尋津(ひろつ)物部 布都留(ふつる)物部 住跡(すみのと)物部 讃岐三野(みの)物部 播麻(はりま)物部

 いっぽう邪馬台国では、狗奴国との戦いが終結し女王「卑弥呼」が死ぬと、後継の男王に服せず内戦状態になったが、卑弥呼の宗女「台与(とよ)」が新たな女王になって内戦が治まると、再び移民団を畿内に送り込んだ。饒速日命の東征からおよそ50年後の西暦250年頃のことである。その長(おさ)が後に神武天皇と言われることになった。

 大きな争乱の後に、こうした集団移民の起こることは、その後の歴史においてもたびたび繰り返されている。

 神武天皇東征の出発地が遠賀川河口であったことは、『記紀』ともに書き記している。洞海湾から関門海峡に入り、瀬戸内海を渡った神武天皇は、大和入りに際して長髄彦(ながすねひこ)の抵抗に遭うが、神武天皇が同族であることを知った饒速日命(物部氏)によって、長髄彦は殺されてしまう。物部氏の恭順によって、大和入りを果たした神武天皇は、大和王朝建国の祖となり、現在の天皇家に連なることになっているが、大和王家の歴史はそう簡単ではない。

 『日本書紀』には、神功皇后(じんぐうこうごう)六十六年に「武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ」という『魏志倭人伝』の記事を引用して、神功皇后が「卑弥呼」のことであるとしている。

 第14代「仲哀天皇」の后(きさき)神功皇后は、卑弥呼の事跡を大和の女王の事跡とするために創作された人物である。

 三韓遠征を終えた神功皇后は、皇子を筑紫で出産し、大臣の武内宿禰(たけうちのすくね)と供に大和入りをめざすが、皇子の異母兄の攻撃を受ける。どうにか戦いに勝利して摂政に就き、百歳で崩御(太歳己丑(つちのとうし))したことになっている。西暦換算すると269年で、卑弥呼の死に符合させている。

宇美八幡宮 宇美八幡宮

 祭神 応神天皇・神功皇后・玉依姫・住吉大神・伊弉諾尊
 社伝『伝子孫書』によれば、創建は敏達天皇三年。神宮皇后は新羅より帰国後、応神天皇をこの地で出産した。地名「宇美」の由来は「産み」に由来する。

 福岡県糟屋郡宇美町宇美

 神功皇后崩御の翌年に第15代「応神天皇」が即位する。初代「神武天皇」の東征物語は、応神天皇東征の事跡を繰り上げて重複や分割記載したものである。大和王家の歴史を悠久のものとする必要があったのだ。

 神武天皇を「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と『日本書紀』は書く。つまり応神天皇のことでもある訳だが、「始めて天下を治めた天皇」の意味である。もう一人このように書かれた天皇がいる。第10代「崇神天皇」で「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」という。崇神天皇は四方(北陸・東海・山陽・山陰)に将軍を派遣し各地を平定したと『記紀』は書き記すが、これは物部氏(饒速日命)の事跡を、ここで描写したものである。

 物部氏の軍事力を背景にして、大和王朝の勢力は、出雲王朝や吉備王朝などを制圧し拡大して行くが、応神天皇から10代め武烈(ぶれつ)天皇までの約200年で、この皇統は終息する。

 武烈天皇の父である仁賢(にんけん)天皇が崩御すると、大臣(おおおみ)の平群真鳥(へぐりのまとり)は、政(まつりごと)をほしいままにして、大和の王になろうとした。これを「大伴金村(おおとものかなむら)」が討って、武烈天皇を即位させている。大伴金村は筑紫王朝の外交官的職を担い、大和王朝の監視役でもあった。

 武烈天皇は極悪非道の天皇として、『日本書紀』は書いているが、これは次の第26代「継体天皇」即位の正当化のために造作された可能性が高い。

 世継ぎを残さずに武烈天皇が崩御すると、大伴金村は、応神天皇の五世の孫である男大迹(おおど)(継体天皇)を越国(こしのくに・北陸地方)から迎えている。だがこれは結果として、大伴金村の人選の誤りであった。応神天皇の皇統に拘り過ぎたのであろう。

 男大迹(おおど)王は、樟葉宮(くすはのみや・大阪府枚方市)で即位(507年)し、第24代「仁賢天皇」の皇女「手白香皇女(てしらかのひめみこ)」を皇后にして、王統の正当性を確保するが、容易に大和入りを果たせなかった。これは大和王朝内部に後継を巡る抗争が生じ、結局、三回の遷都と二十年の歳月をかけて、ようやく大和の地に入っている。

 男大迹(おおど)王(継体天皇)が、大和に入ると、これまでの筑紫王朝を宗主国とした大和王朝の、政策は一変した。

 もともと日本海側の越国(こしのくに・北陸地方)を勢力基盤とした男大迹(おおど)王は、大陸との交易には執着心が強く、瀬戸内海航路を手中にすると、それまで筑紫王朝が、ほぼ独占してきた大陸との交易権益の奪取を画策した。

 継体二一年(527年)、筑紫王家にも後継争いが起き、肥国の王(肥君)が磐井の嫡出でない「葛子」を擁立して蜂起した。これに男大迹(おおど)王は、物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣して、かねてより好を通じていた胸形(宗像)王ともに参戦した。

 一年半に及ぶ騒乱の末に、筑紫王朝は「葛子」が新たな王となり、『日本書紀』は筑紫火君(つくしのひのきみ)と記している。

 物部麁鹿火は、葛子から論功行賞として糟屋(粕屋)の地を与えられるが、この「糟屋」の地は宗像の西に隣接し、現在の福岡市東区箱崎付近までを含む領域である。ここにきて大和王朝は、念願の大陸交易ルートの確保に成功した。

 『日本書記』は、宣化(せんか)天皇は元年(536年)に、那津(なのつ・博多大津)に宮家(みやけ)を急ぎ建て、河内・尾張・伊勢・伊賀の籾を運び込むよう命じている。「非常に備えて民の命を守るため」だと書いているが、これは潤色であろう。

 朝鮮半島では倭国(筑紫王朝)内の混乱に乗じて、新羅が金官国(駕洛国)を攻め併合(532年)している。大和と新羅の間に密約があったであろうことは想像にたやすい。

 「磐井の乱」の後、継体天皇は、新羅の任那(みまな)進出を止めさせるために、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)を派遣したと『日本書紀』は書くが、近江毛野臣は、任那(みまな)に行って百済と戦っている。

 筑紫王朝は、512年に任那を百済に割譲しているので、、百済は近江毛野の一連の行動を、筑紫王に訴え処分を求めた。結局、近江毛野は大和に戻る途中の対馬で病死したことになっているが、恐らく殺された。

 この後、大伴金村は子の狭手彦(さてひこ)を任那(みまな)に派遣して新羅と戦わせている。しかし、筑紫王朝からすれば大伴金村の失策は明らかであり、失脚することとなった。

佐用姫伝説

 海原の 沖行く船を 帰れとか
  領巾振らしけむ 松浦佐用姫
      山上憶良(万葉集巻五874)
 
任那に派遣される狭手彦(さてひこ)との別れを惜しむ佐用姫(さよひめ)は、玄界灘を見渡す領巾振山(ひれふりやま・鏡山)から、この岩に飛び移った。

 佐賀県唐津市和多田

 大伴金村の失脚は、大和の筑紫王朝支配からの脱却でもあった。大和では蘇我(そが)氏が台頭し、新羅との交易を活発化させ親「新羅」色を強めていった。

 『日本書紀』は、筑紫王朝の外交政策と、大和の外交関渉を一緒くたにして書いているので非常に判かりずらいものになっているが、筑紫王朝の存在を書けない『日本書紀』編纂者の苦心作である。仏教の公伝年(538年説や552年説など)の混乱なども、これに起因している。

 仏教は公伝以前に大和においては、司馬達等(しばたちと)が522年(継体天皇16年)に渡来し、大和国高市郡において本尊を安置し礼拝していたと『扶桑略記』にもあるように、この頃には、主に流入渡来人たちによって普及し始めていた。

 新羅の仏教は、法興王(ほうこうおう)が528年に公認し、534年には寺院の建立を始め、仏教を広めることに努めている。これを蘇我氏が受け入れ、大和における仏教の布教を図るが、物部氏の神道信仰との摩擦をひき起こし、丁未(ていび)の乱(587年)で物部氏は滅びることになる。

 饒速日命(にぎはやひのみこと)の東征から凡そ380年、供に筑紫を発ち、大和勢力拡大の原動力となってきた物部氏は、「磐井の乱」で、その故地に兵を進めたことによって、自らの命脈を絶つことになったとも言える。

 蘇我氏は、『記紀』によれば武内宿禰(たけうちのすくね)を祖としているが、おそらく百済系の渡来人である。蘇我満智(そがのまち)・韓子(からこ)・高麗(こま)・稲目(いなめ)・馬子(うまこ)・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)と代々続く異国風の名が、それを如実に物語っているが、『扶桑略記』によれば飛鳥寺の仏舎利埋納儀式に、馬子と従者百余人が百済服を着て出席したともある。

 592年に蘇我馬子は、配下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って崇峻天皇を殺害し、前天皇の皇后であり馬子の姪である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を天皇にする。大和王朝初の女帝、推古天皇である。

そして馬子の甥の用明天皇と、姪の穴穂部皇女(あなほべのひめみこ)を両親とする厩戸皇子(うまやとのみこ)を皇太子にする。聖徳太子である。

 こうして馬子は、盤石の蘇我政権を築き上げ、子の蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)の代になると蘇我本宗家は、大和王家を凌ぐ権勢を誇るようになっていた。

 舒明天皇三年(631年)、百済の義慈王(ぎじおう)は、王子である扶余豊璋(ふよほうしょう)を倭国に送った。これを『日本書紀』は「人質」だと書いているが、改ざんであろう。豊璋は義慈王(ぎじおう)から、蘇我氏の情勢監視の命を受け入国した。このことが、やがて「乙巳の変(いっしのへん)」の引き金になり、「白村江の戦い」へとなっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

磐船神社
ホームページ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

物部氏本貫地
(Google Map)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇美八幡宮公式
ホームページ