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資料集

つくしまほろば

邪馬台国を行く
つ く し 伝 説

更新 16/05/25

1. 寧楽の都
2. 開府
3. 太宰府
4. 太傅府
5. 太保府
6. 鴻臚館
. 磐井の乱
8. 火の国日本
. 神籠石
10. 神郡宗像
11. 大和王朝
12. 大化の改新
13. 白村江の戦い
14. 壬申の乱
15. 奈良の都

 

 

肥の国日本

 『魏志倭人伝』によると、邪馬台国の奴国(筑後平野)の南に狗奴国(菊池平野)があり、邪馬台国とは交戦状態(245年頃)にあったが、女王「卑弥呼」が死ぬと、新たに男王が立ち、の塞曹掾史(国境守備の属官)張政の介入もあって、奴国と狗奴国は和睦した。

 この事態を巡って、邪馬台国の国々は、卑弥呼の後継の男王に服せず内戦状態になったが、卑弥呼の宗女で十三歳の「台与(とよ)」を新たな女王に立てて、ようやく内戦は治まったと『魏志倭人伝』は記す。ここに「筑紫・豊・肥」の三国を主軸にした倭国の原形ができ、筑紫王朝が成立する。

江田船山古墳

 5世紀末頃に築造されたと推測され、豊富な副葬品(銀象嵌銘大刀など)、が出土し、国宝に指定されている。古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置され、岩戸山古墳と同様である。

 熊本県玉名郡和水町

 以後、肥(火)国は筑紫王朝の外戚として、倭国発展の一翼を担ってきたが、527年(継体天皇21年)に筑紫王朝の王位継承争いが生じ、肥国王は「筑紫君葛子」擁立に成功した。

 記紀はこの事件を「磐井の乱」として大和政権への反乱だとしているが、もしそうなら、肥国王も磐井と共に敗者であり、その後の肥国の発展はあり得ない。しかし、八世紀に作られた戸籍や他の文献を見ると、肥国は広く各所に侵出していることが分かる。

 「磐井の乱」以降、筑紫王朝は葛子が王となり、事実上は肥(火)国の傀儡(かいらい)政権となって継続していく。

 それから約70年後の600年(推古天皇8年)に筑紫王「阿毎(あめ)多利思比孤(たりしひこ)」は隋の高祖文帝に使者を送り、「倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす。天いまだ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して坐し、日出ずればすなわち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」(『隋書倭国伝』)と述べている。

 要約すれば、「倭王は隋の文帝を兄と思い、日(肥)王を弟としてきた。隋朝の建国以前から、中国王朝には政(まつりごと)を相談してきたが、日(肥)王が倭国の真の実力者になったから、政権は日(肥)王に禅譲(ぜんじょう)する」と言っている。

 これを聞いた文帝は「これ大いに義理なし」と。つまり「全く理屈が合わない」と言い、「ここにおいて訓(おし)えてこれを改めしむ」、つまり、認めないと言っている。

 『隋書』は、この記述の後に、倭王には妻と太子と、後宮には女が六〜七百人いて、内官には十二等級の官位があり、阿蘇山があることも書いている。そうした体制を有する筑紫王朝が、日(肥)王に禅譲すると言い出したのだから、これはとても道理ではないと文帝が訝(いぶか)るのも当然であった。

 中国の冊封体制は、朝貢をしてきた周辺諸国の君主に、中国皇帝が官号・爵位などを与えて君臣関係を結び、彼らにその統治を認める一方、宗主国対藩属国という従属的関係におくことである。

 「倭の五王」の時代には、倭国はその冊封を求め、受けてきた。しかし多利思比孤は、勝手に政権を日(肥)王に禅譲すると言っているのだから、統治の任命権者を自負する中国皇帝としては認められるものではなかった。

鞠智城 

 『続日本紀』文武天皇二年(698年)に大野城・基肄城・鞠智城を太宰府に命じて修理させたという記載のあることから、「白村江の戦い(663年)」のあとに大和政権によって築かれたと推測されているが、鞠智城は肥国王によって建造されたものである。
 熊本県山鹿市菊鹿町米原

 607年(推古天皇15年)に、倭王「阿毎(あめ)多利思比孤(たりしひこ)」は再び遣使を送り、あの有名な国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」を送っている。(倭王「阿毎多利思比孤」は聖徳太子ではない)

 隋朝に相手にされない日(肥)国王が、業をにやして、この居丈高の国書を作らせたのであろう。「帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く、蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と隋書は記している。そして翌年(608年)、隋の煬帝は、裴世清(はいせいせい)を使者として倭国に派遣してきた。

 多利思比孤(たりしひこ)は裴世清に会い「願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい」と、日(肥)国王への禅譲を認めるよう迫っているが、裴世清は「随帝の意思は既に示している通りであり、禅譲は認められない」として帰って行った。 

 『隋書』倭国伝は「この後、遂に絶つ」で終わる。国交断絶である。倭国筑紫王朝は、この時から中国の冊封を離脱し、対等外交政策に挑むことになる。

 612年、隋の煬帝は、200万の大軍で高句麗遠征を行うが失敗し、翌年と翌々年の出兵の後に講和したが、高句麗が朝貢の約束を履行しないため、617年、隋は4度目の高句麗出兵を計画するが、クーデターが起こり、隋は崩壊した。

 618年に「大唐」が成立すると、高句麗、百済、新羅は相次いで朝貢したが、倭国筑紫王朝は、唐に朝貢しようとはしなかった。

 『日本書紀』によると、630年(舒明天皇2年)に大和王朝は、犬上君三田耜と薬師恵日を唐に(第一次遣唐使)遣わした。これの返送使として唐の太宗は高表仁(こうひょうじん)を派遣してきた。 朝貢しようとしない倭国筑紫王朝の内情視察が第一の目的であろう。

 しかし、高表仁は、倭国の「王子と礼を争い朝命を宣しないで還った」と『旧唐書』は記している。宗主国としての体面に拘る高表仁と、既に藩属国ではないとする筑紫王朝の外交姿勢が、この対立を生じさせることになった。

 だが『日本書紀』によれば、大和王朝では高表仁を歓待し、何事もなく帰国したことを書いている。つまり高表仁は、この時に筑紫王朝と大和王朝の両方に訪れているが、『旧唐書』は大和王朝訪問のことを記していない。

 中国史書として初めて「日本国」の名が登場するのが『旧唐書』であり、945年に完成した。『旧唐書』日本国条は、「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと」と記している。

 1060年に成立した『新唐書』では、「倭国条」はなくなり「日本国条」だけになって、「日本は小国、倭に併合された故に、その号を冒すともいう」と、670年の遣使の弁として記載しているが、これによれば、そもそもは倭国(筑紫王朝)が号を「日本」としていて、大和王朝が併合されたから、そのまま「日本」を号としたということになる。

 『三国史記百済本紀』では531年に「日本の天皇及び太子・皇子、供に崩薨」の記事があり、これは「磐井の乱」で滅んだ筑紫王家一族のことを言っているのだか、「磐井の乱」の後、事実上、倭国は肥(日)国王の政権となって「日本」国号と「天皇」という呼称も使われ始めたと考えられる。

 「日本」の国号の語源は、「肥の国」が「日のもとの国」、そして「日本」となった。「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み」ということも当然あるが、倭国の実権は、「日の国王」が掌握していることを内外に知らしめるために国号を改めたものである。

不動岩

 古生代の「変はんれい岩」が永い年月をかけて崩れて海に流され、海水に洗われ小石や砂(さざれ石)になり、海底に積み重なって強い圧力を受け岩盤となり、その周囲が削り取られて、いわゆる国歌「君が代」の歌詞にある「さざれ石の岩盤(いわお)」となったものが不動岩である。
 熊本県山鹿市菊鹿町蒲生

 「肥の国王」の本拠地は鞠智城である。その地「米原」には、米原長者伝説というのがあるが、「肥の国王」の後裔の伝説ではないかと考える。

 

 

倭国筑紫王朝関連地図
(Google Map)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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