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資料集

つくしまほろば

邪馬台国を行く
つ く し 伝 説

更新 16/05/25

1. 寧楽の都
2. 開府
3. 太宰府
4. 太傅府
5. 太保府
6. 鴻臚館
. 磐井の乱
. 火の国日本
. 神籠石
10. 神郡宗像
11. 大和王朝
12. 大化の改新
13. 白村江の戦い
14. 壬申の乱
15. 奈良の都

 

 

鴻臚館

 外国使節を迎える客館、すなわち迎賓館(げいひんかん)は、都の機能として欠かせない。古代中国風には、これを鴻臚館(こうろかん)と言い、太宰府の北西約16kmに所在する。鴻臚館」の名は文献上838年に初出するが、勿論この時期に設置されたものではない。

 『日本書紀』に、688年に新羅の使節を筑紫館(つくしのむろつみ)で饗応したとする記録があり、これが鴻臚館のことであるが、日本書紀編纂時には既に難波に大和政権の迎賓館が設置されており、これとの区別のため筑紫館(つくしのむろつみ)という名で記された。

鴻艫館発掘現場 筑紫館

 福岡城跡に建てられた平和台球場も、今は解体され、鴻臚館(こうろかん)の発掘調査が続いている。

 福岡県福岡市中央区城内

 筑紫館(つくしのむろつみ)すなわち筑紫鴻臚館は、文献上688年が最古の記録であるが、これより遥か以前の邪馬台国の時代、240年頃には既に存在していた。

 『魏志倭人伝』によれば、伊都国(いとこく)は「郡使の往来、常に駐まる所なり」とあり、これが筑紫の鴻臚館のことであるが、筑紫王朝成立以前のことであり、どういう名前で呼ばれたかは定かではない。

 魏志倭人伝伊都国は、「委奴国」であり、『後漢書』に紀元57年、漢の光武帝が倭に「漢委奴国王」と刻印された金印を贈ったと記す国である。この金印は、1784年に志賀島で発見され、「かんのわのなのこくおう」と読むということになっているが、「かんのいとこくおう」と読む方が自然であり正しいと思う。

 この委奴国王(いとこくおう)が、紀元57年以前に志賀島から糸島半島、すなわち博多湾岸一帯の福岡平野を統治し、邪馬台国の時代には女王国を成立させ、やがて筑紫王家へと発展し、太宰府を造営するのである。

 太宰府から鴻臚館は、北西に16kmの位置にあるが、近年の発掘調査で、両側に幅2m深さ1mの側溝が完備された、幅員10mの一直線の道路で結ばれていたことが確認されている。これはまさに古代の高速道路であり、アジア大陸につながる国際道路だったのであるが、遅くとも700年代末には既に廃道になっていたことも、発掘調査の結果から解っている。

 もし本当に、宰府「白村江の戦い」の敗戦後に造営されたものであるとするなら、この高速道路も、宰府や水城(みずき)とほぼ同時期に造られたことになり、そしてわずか100年たらずで消滅したことになる。これはどうにも不自然さが拭えない。


太宰府側(天拝山)から博多湾方向を望む。中央を横切る緑の帯が水城。

 水城は、福岡平野(博多湾)から太宰府への進入を遮断するように築造された、全長1.2km、高さ13mの堤であるが、古代の高速道路は博多湾から太宰府への進入を容易にし、太宰府防衛上の観点では、築造目的が明らかに相反する。この二つの施設が、同時期に造られたとは考えにくい。

 太宰府が、西暦470年頃に倭王武によって造られた時、卑弥呼の時代から外国使節の客館としてあった施設が、倭国筑紫王朝の「鴻臚館」となった。そして太宰府と鴻臚館は、当時としては超一級の高速道路で結ばれ、外国商人や使節団もこの道を往来したに違いない。しかし首都が奈良に移ってのちは、この道路は必然的に使われなくなり、まぼろしの古代国際高速道路となった。

 

倭国筑紫王朝関連地図
(Google Map)