トップページ
 
資料集

つくしまほろば

邪馬台国を行く
つ く し 伝 説

更新 16/05/25

1. 寧楽の都
2. 開府
3. 太宰府
4. 太傅府
5. 太保府
6. 鴻臚館
. 磐井の乱
. 火の国日本
. 神籠石
10. 神郡宗像
11. 大和王朝
12. 大化の改新
13. 白村江の戦い
14. 壬申の乱
15. 奈良の都

 

 

太宰府

 太宰府史跡の発掘調査は、昭和43年に始まり現在も続いているが、これまでの発掘調査結果から、それまで言われてきた定説を、変更しなければならないことになった。

 それまでの定説は、太宰府は663年の「白村江の戦い」の敗戦による唐・新羅の本土進攻に備えるため、中大兄皇子(後の天智天皇)の命によって現在地に、水城(みずき)・大野城(おおのじょう)・基肄城(きいじょう)とほぼ同時期に建造された。現在、地上に見える礎石は創建時のもので、上層の建物は、941年の藤原純友の乱によって炎上し、その後に再建されることはなく、太宰府は事実上終息したとするものであった。

太宰府都府楼

太宰都督府跡

 関東の
平将門の乱と藤原純友の乱は、日本の東西で相呼応するように勃発する。奈良時代から二百数十年続いた律令制度は、これを境に崩壊の一途をたどる。純友によって焼かれた太宰府を再建するだけのちからは、もう大和政権には残っていなかった。
 福岡県太宰府市観世音寺

 ところがこれまでの発掘調査の結果、現在地上に見える礎石の下、約60cmに同じような配置の礎石が確認され、さらに、その下層に掘立柱建物の柱穴があり、遺構は大別して三期からなることが明らかになった。

 そこで、定説の変更になる訳だが、第一期の掘立柱建物は663年の「白村江の戦い」の敗戦後に、水城・大野城・基肄城と同時期に建造され、第二期の地中の礎石建物は大宝律令施行の702年頃に建造され、941年の藤原純友の乱により焼失した。現在地上に見える礎石は、その後に再建された建物のものということになった。

一緒に出土した瓦や土器片が、それを裏付けるらしいが、どうも俄には信じ難い。10世紀なかば以降の太宰府再建ということであれば、その国家的大事業が記録に残らないはずはない。

 第二期の建物にしても、大宝律令施行の702年頃の建造だとすれば、律令制のシンボルとして記録も必ず残されるはずであるが、しかし太宰府建造の記録は一切存在しない。

 第一期の建物にも不可解なことがある。同時期に建造されたとする大野城・基肄城の倉庫群は山頂にあるにもかかわらず、礎石建物であるが、平地の太宰府中枢建物が、掘立柱で建造されたというのも腑に落ちない。これは明らかに建造時期に相当のずれがあると考えるのが自然である。

 それに大野城・基肄城・水城と太宰府建造物を同時に建造しようとすれば、当時の土木技術では数万人の労力をもってしても二年や三年でできる代物ではない。ましてや敗戦直後の倭国に、それほどの労働力の創出などできるはずがない。

大野城跡

 太宰府の北に、なだらかに拡がる四王寺山にある山城で、約8kmにわたる土塁や石垣で山頂を囲み、その中に建物を建てた。現在も倉庫跡と思われる約70棟分の礎石が、山中に点在している。
 福岡県大野城市四王寺山

 発掘調査の結果、明らかになった第一期の掘立柱建物は筑紫王朝創期ものであって、第二期の礎石建物は、西暦470年頃に倭国筑紫王「武」によって、都として整備された時に建造されたものである。そしてこれは527年の、いわゆる磐井の乱により焼失したと考えられ、第三期の礎石建物は、その後の筑紫王によって再建されたものである。

 681年に天武天皇の律令制定を命じる詔によって、大宝律令が701年に完成する。大宝律令の施行によって筑紫と大和の政権は統合され、国号も「日本国」に正式に改められた。

 以後、太宰府は地方役所として存続することになったが、やがて律令制の崩壊が始まると、藤原純友の乱(941年)が勃発し太宰府は炎上する。その後は中央政権によって再建されることもなく、歴史の表舞台から姿を消し、現在地上に見える礎石だけを残すこととなった。

 

 

倭国筑紫王朝関連地図
(Google Map)