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資料集

つくしまほろば

邪馬台国を行く
つ く し 伝 説

更新 16/05/25

1. 寧楽の都
2. 開府
3. 太宰府
4. 太傅府
5. 太保府
6. 鴻臚館
. 磐井の乱
. 火の国日本
. 神籠石
10. 神郡宗像

11. 大和王朝
12. 大化の改新
13. 白村江の戦い
14. 壬申の乱
15. 奈良の都

 

 

開府

 寧楽(ねいらく)(みやこ)と詠われた太宰府が、いつ誰によって造られたものであるのか、日本の文献上の記録は何も残っていない。

 日本誕生神話が筑紫に始まり、日本の古代が太宰府を拠点に展開したことは明らかである。太宰府造営が大和政権の事業であるとするなら、正史『日本書紀』当然にそのことを記すはずなのだか、何も語らない。

竃門神社下宮

 宝満宮竃門神社

 太宰都督府の北東約4kmに位置し、鬼門の守り神として奉られ主祭神は玉依姫命である。玉依姫命は、
神武天皇の母で、御子の建国の大業に心をくだき、この宝満山(かまど山)に登り、祈念された。
 福岡県太宰府市内山

 中国の正史『宋書』倭国伝には、「倭の武王」が478年に宋朝の順帝に上表文を送り、「使持節都督、倭、新羅任那加羅、泰韓、慕韓、六国諸軍事、安東大将軍」に除せられたことが書かれているが、『日本書紀』は、この事にも触れない。

 倭王武は第21代「雄略天皇」のこととするのが現在の定説になっているのだが、武王を含む「倭の五王」は近畿大和政権の王ではない。朝鮮半島への支配権を執拗に拘り続ける倭国筑紫王朝歴代の王のことである。

 武王はその上表文の中で「竊(ひそか)に自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸(み)な仮授して、以って忠節を勧む」と書いている。「三司」とは中国古代の官名で「三公」のことであり、太宰(だざい)(だいぶ)太保(だいほ)をいう。倭王武は中国皇帝に忠節をもって励むために、「中国に倣って自ら都を開き、三公も設置した」と述べている。

 奈良に都(平城京710年)が造られる、およそ240年ほど前の西暦470年頃に、倭王武によって造られた都が、現在の太宰府である。

 太宰府の北東約15kmの所に、飯塚市大分(だいぶ)の地名があって、ここには宇佐八幡宮が本宮とする大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)がある。大分八幡宮には「応神天皇産湯地」の伝承があって、「天子の師傅となる官」の太傅府はここにあった。

 太宰府の南約14kmの所には、小郡市大保(おおほ)の地名があって、こちらは「大保」の読みが違うが、ここには延喜式にも記載される御勢大霊石(みせたいれいせき)神社があって、仲哀天皇の「殯葬傅説地」の伝承が残る。「天子の徳を保ち安んずる官」の太保府の地である。

 もうひとつ、都の機能として欠かせない施設に、外国使節を迎える客館、現在風に言えば迎賓館(げいひんかん)であるが、古代中国風には鴻臚館(こうろかん)と言い、太宰府の北西約16km(福岡市中央区城内)に所在する。

 太宰府を中心に太傅府・太保府と鴻臚館は、一日で往復が可能な位置にあり、都の機能として計画的に配置されたものである。

 太宰府を都とした「倭国筑紫王朝」は、その勢力範囲を、九州北部を中心にして四国と中国地方の西部および朝鮮半島南部を含む海峡国家を形成していた。

 

 

倭国筑紫王朝関連地図
(Google Map)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

倭国筑紫王朝三府と鴻臚館
(Google Map)