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更新 09/08/09
1. 寧楽の都
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寧楽の都福岡の観光名所と言えば、学問の神様「菅原道真 (すがわらのみちざね)」を祭る太宰府天満宮を思い浮かべる人が多い。右大臣であった菅原道真は901年に、政争に敗れ、太宰権帥(だざいのごんのそち)として太宰府に左遷された。床が朽ち屋根も雨漏りするような官舎で2年を過ごし、悲痛のうちにこの地で没した。道真の埋葬地に建てられたのが太宰府天満宮である。
その天満宮から西南方向2km程の所に太宰都督府(だざいととくふ)跡がある。菅原道真もここの長官として赴任したわけであるが、現在は礎石だけを残し、閑散とした風景が広がる。しかし、かつてはここが筑紫王朝の王宮であり、倭国の都であった。日本の古代史はここを中心に展開した。
「おをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり」この歌は730年頃に太宰府で、小野老(おののおゆ)によって詠まれたものであるが、なぜか奈良を偲んだ歌だと解釈されている。しかし素直に文面を読む限り、そんな切なさは微塵も感じられない。眼前に広がる美しい風景、すなわち太宰府の春を謳歌したものとしか思えない。それに「寧楽」を「なら」と読ませているが、「寧」に「ナ」の音はない。「ネイ」のはずである。 同時期に太宰府赴任中の大伴旅人(おおとものたびと)は、「沫雪(あわゆき)の ほどろほどろに 降り敷けば 平城(なら)の京(みやこ)し 思ほゆるかも」と詠んでいる。これは明らかに奈良を偲んだ歌であり、奈良を「平城」と書き「寧楽」とは書いていない。これを、単に両者の書癖の違いで、京(みやこ)といえば奈良しか在りえない、と考えた後人の解釈の過ちである。それがいつしか寧楽(ねいらく)を「ナラ」と読ませることが、普通になってしまっているのだから、恐いといえば恐い気もする。現在の若者の、日本語の乱れを気にするむきもあるが、五十歩百歩である。 「寧楽」は、やすらかに楽しむの意味であり、「安楽」と同じである。「帰寧(きねい)」という言葉があって「さとがえり」のことであるが、「京で天子にまみえ、帰って後、人民を安じ治めること」の意味もある。日本書紀は小野老が、昔からの大和王朝の役人であったように書いているが、事実は疑わしい。おそらく小野老は、かつての筑紫王朝の役人であり、太宰府が、その昔に倭国の都であったことを意識し「寧楽」という言葉を使ったのである。 730年は、太宰帥(そち)の大伴旅人が山上憶良(やまのうえのおくら)や小野老らを招いて梅花宴を行っている。大和ではこの頃は天平文化真っ盛りで、わが世の春を謳歌していた。しかし古都「太宰府」の太宰府の役人たちも、決して悲観していない。春を共に我が物としている。 倭国筑紫王朝滅亡の原因となった「白村江の戦い」(663年)から5年後に天智天皇が、ようやく即位し、その5年後に壬申の乱を経て、大海人皇子が天武天皇として即位する。歴史はこの時、実にドラマチックな展開を見せているが、後に書いていきたい。 730年は、大和政権から筑紫警備を担わされていた東国の兵「防人(さきもり)」も廃止され、それぞれの故国に帰っていった。
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