その19 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」 ザルツブルク音楽祭

2001.8.22 18:30〜
 場所:ザルツブルク音楽祭大ホール(Parterre Rechts 27列43番)
 演目:『ムツェンスク郡のマクベス夫人』《Lady Macbeth von Mzensk》全4幕
 脚本:アレクサンダー・プレイス(Alexander Preiss)
    ドミトリー・ショスタコーヴィッチ(Dmitri Schostakovitsch)
 作曲:ドミトリー・ショスタコーヴィッチ(Dmitri Schostakovitsch)
 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)
 演出:ペーター・ムスバッハ(Peter Mussbach)
 楽団:ウィーナー・フィルハーモニカ
 合唱:サンクトペテルスブルク・マリンスキー劇場合唱団

 念願のザルツブルク音楽祭にやってきた。たとえオーストリア人が自らの国を「音楽の都ウィーンを除き、今では取り柄のない弱小国」と認めたとしても、「夏のザルツブルク音楽祭」は世界中のクラシックファンの憧れのイベントだ。そこはオーストリア人もしたたかに心得ているのか、ザルツブルク音楽祭のチケットは、ことのほか高い。しかも半年前の予約料金に比べ、現地で買うチケット料金は正規料金がすでに3割増しである。それに加えてこの期間はホテルも割り増し料金。だが「マクベス夫人」をなんとしても見たかったので、安宿探しを始めた。おもしろい事にこの時期のホテルは高い方から順に埋まっていくのだそうで、運良く手頃なホテルをみつけられた。
 そして、オペラ当日。お洒落をして祝祭会場に出かける。宿のある新市街から旧市街まではバス、旧市街入り口から祝祭会場までは徒歩で行く。慣れないハイヒールで石畳に足を取られ、「貴婦人は馬車で会場前まで乗りつるけるから、こんな苦労は知らないんだわ。」と独り言ちつつ。

 残券のため席はパールテールの最後列だ。だが、祝祭会場大ホールは近代的なホールで、パールテールには傾斜がつけられている。舞台がよく見えるのみでなく、指揮者の姿はもちろん、オーケストラピット内もかなり見える。

 セットは木張りの白壁を左右に配置したシンプルな物だ。壁は背が高く、しかも舞台手前に置かれている。この壁の圧迫感には違和感を感じたが、外界から隔離された閉塞的な屋敷を表現しているようだ。舞台に現れた主人公カテリーナは、屋敷での退屈な日々を嘆く。

 登場人物の感情をそのまま描き出したような音楽を、ゲルギエフとウィーンフィルは起伏に富んだ演奏で聴かせてくれた。ショスタコーヴィチはテクストに合わせて音楽をつけたのだろう。ロシア語ならではの子音の多い台詞の語調が、旋律に乗せてはっきりと伝わってくる。ロシア語はわからないため、台詞の意味を知るには舞台上方の英語とドイツ語の字幕に頼るしかないが、それでもやはりオペラは原語で見るべきだと感じた。

 カテリーナが旋律を覚えることは難しそうな長いアリアを歌う間、コントラバスはただ淡々とトレモロを続ける。オケピットの中で「いまどこだろう?」なんていう素振りが見えてしまうのはある意味仕方がないかもしれないが、コントラバスが並んでいるのはカテリーナのすぐ足下。胸の張り裂けんばかりの白熱の演技をみつめていると、隣の奏者を覗き込んでにやにやしながら慌てて音程を直すコントラバス奏者が目に入る。ゲルギエフみつかって睨まれたのだろう。すぐに真顔に戻り、慌てて譜面を見つめていたが。

 舞台の上、マリンスキー劇場の歌手達は、主役から端役まで役者の一人一人が役を演じきっていた。群衆一人一人の動きに必然性が見えた。例えば、カテリーナと使用人セルゲイが力比べをする場面。取り囲む使用人達の反応は様々で、けしかける者もいれば、少し離れてにやにやと眺める者、ただ仲間に合わせてその場にいるといったそぶりの者もいる。見ているうちに舞台が現実になり、私もその場面に立ち合っていた。なにより圧巻だったのは、第4幕、シベリアに連行される囚人達の様子だ。極寒の地で仮眠のため横たわる囚人達。1人が寝返りをうつと、その隣もごそごそと動く。主人公達の悲劇も、もはや囚人の群のほんの片隅で起きたいざこざに過ぎない。監視人の合図で囚人達は何事もなかったかのように歩を進めていく。

 このように使用人達、囚人達といったロシアの民衆が非常にリアルに描かれているのに対し、第3幕の司祭、警察官など権力者はひたすら滑稽に描かれている。3メートルはあろうかという背高の司祭、黄緑色の制服に身を包み机と椅子をまとった!蛙のような警官達。衣装と演出が醸し出す滑稽さの中で、ショスタコーヴィチの音楽はブラックユーモアに聞こえてきた。