その13 フェドセーエフ指揮ウィーン交響楽団

2001.4.21 19:30〜
 場所:コンツェルトハウス大ホール(Proszeniumloge 左3列目14番)
 楽団:ウィーナー・シンフォニカ
 指揮:ウラジミール・フェドセーエフ(Vladimir Fedosejev)
 ソリスト:ロベルト・ウォルフ(Robert Wolf); Floete
 曲目:アントン・ウェーベルン(Anton Webern 1883-1945)
     大管弦楽のための牧歌「夏の風の中で」
     (Im Sommerwind. Idylle Fuer grpsses Orchester 1904)
    クリストファー・ロウゼ(Christpher Rouse 1949−)
     フルート協奏曲(1993)
    ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
     (Peter Iljitsch Tschaikowsky 1883-1945)
     交響曲「マンフレッド」 h-Moll op.58 (Symphonie《Manfred》1931)

 4月21日つまりコンサート当日、18時40分、コンツェルトハウスでウィーン交響楽団の演奏会が行われることに気付いた。ウィーン交響楽団のコンツェルトハウスでの演奏は、まだ解説付きの「ロ短調ミサ」でしか聴いていない。今回を逃すわけにはいかない! 18時45分、大急ぎで服を着替えて家を飛び出した。開演20分前にコンツェルトハウスに到着。チケット売り場は開いているが、ほとんど人がいない。半ば諦めつつ窓口に行った。「今日のシンフォニカーのチケットありますか?」「学生さん?」「はい。」「ちょっと待って。・・・もう見にくい席しか残ってないけどいいかしら。150シリングよ。」「はい!ありがとう。」なんとか手に入れることができた席は、左側の Proszeniumloge(舞台横のロジェ)3列目。前2列の人の頭を右に左によけつつ、真横からオーケストラをのぞき込むことになる。

 プログラムの曲目のページをざっと見たところで、開演のベルが鳴った。私は演奏が始まってからプログラムを見るのは好まない。演奏中にページを繰るのは周囲の迷惑になるだけでなく、自分自身が音楽に耳(そして心と頭)を傾けられなくなるからだ。今回の曲目は私にとって馴染みのない物ばかりなので、曲についての「予備知識」なしに聴いてみることにした。今後プログラム、特に曲目解説というものの功罪について考えるための参考として。

 第1曲目はウェーベルンの「夏の風の中で」。オーケストラの編成は大きく、かつ変則的なようだ。ぱっと見て目に付いたのは6本のホルン。どのような使われ方をするのか。曲はあまりに小さいため音程も判らないような低音の微かな響きから始まった。わずかなクレッシェンドと共にだんだんと高音の楽器の数が増え、音量的にも和声的にも音の厚みがましていく。フルートをきっかけに、のんびりとした旋律が複数のソロ楽器に受け継がれる形で始まる。「夏の風の中で」と題されたこの曲、私は「夏の風がみた物語」として聴いた。音楽はそよ風やつむじ風など様々な風の表情や、風が「見た」周りの風景を次々に描写していく。仮に「夏の風」と言うキーワードがあらかじめ私の頭に入っていなかったとしても、私は同じように感じただろう。私が「聴いた」朝靄の中の湿った空気や木漏れ日といった自然描写をウェーベルンが意図したとすると、ホルンが6本並んだ理由も納得がいく。

 ロウゼのフルート協奏曲。管楽器の入れ替えが行われる。ゆっくりと静かな楽章と、速くて賑やかな楽章が交互に現れる。楽章ごとに特定のモチーフが繰り返し形を変えて出てくる。フルート協奏曲という形をとっているが、フルートを中心に音楽が進むというより、オーケストラの中でフルートが重要な旋律を受け持つ割合が大きいという感じだ。特に私はフルートよりもむしろ目の前に並ぶ打楽器群に目(と耳)を奪われた。とにかく楽器の数が多く、この曲がフルート協奏曲だとはとうてい信じられないほど派手に鳴らされる。打楽器は音楽の要素としても、かなり重要な位置を占めているようだった。中でも印象的だったのはティンパニのド、ラ(下)、ミ、シ(下)という音型の繰り返しだ。だんだんクレッシェンドしていき、最後は両手で叩く。間近で見ていたので、その迫力はなおさらだった。

 休憩を挟んでチャイコフスキーの交響曲「マンフレッド」。この曲がバイロンの劇詩「マンフレッド」をもとに作曲された標題交響曲だということは既に知っていたが、これまでまじめに聞いたことがなかった。ちょうど良い機会なので、劇詩のストーリーも知らないまま聴いてみた。第1楽章が始まる。なにやら「現代曲」の様相。不協和音の積み重ねだ。作曲年からいくと交響曲の4番と5番の間になる。この時期チャイコフスキーは作曲に行き詰まっていたと聞くから、状況を打開するための新しい試みだったのだろうか?それとも、チャイコフスキー自身の苦悩を音楽で表したかったのだろうか?曲が進むにしたがって、いわゆるチャイコフスキーらしさが顔をのぞかせ始める。第3楽章の弦楽器による甘いメローディーは、まさしくチャイコフスキー。フェドセーエフは、細かく指示を出し続けていた。オーケストラもその指示に忠実に従っている様子。ただ、サヴァリッシュの時のような「意気投合」の感は、やはり感じられなかった。さて、第4楽章、オルガン奏者が演奏台に上る。(それまで階段の下に椅子を置いて、スコアを見ていた。)オルガン奏者は、徐々にテンションを上げるオーケストラの音を背中で聞き続けていた。オルガンの出番は終曲間近。荘厳に終止音型が響きわたる。それまでの叫ぶような音楽とは全く対照的に、消えるように静かに終曲。やはり、チャイコフスキーは曲の終わらせ方が巧い。「得した気がする」のは、このためなのだろう。

 さて、家に帰って独和辞書を片手にプログラムを読んでみる。読みとれたことを自分の聴いてきたことと照らし合わせていく。すると、プログラムには私に聞こえた音楽の「理由」が書かれている。かいつまんで例を挙げると「夏の風の中で」はウェーベルンの学生時代の習作だが、すでに彼の音色(音の色彩)へのこだわりが見られるということ。ロウゼはアイルランド系アメリカ人で、小さい頃からクラシック、ロック、ポップミュージック、ジャズ、アイルランド(ケルト)音楽、とあらゆるジャンルの音楽に興味を持ち続けてきたこと。そしてもちろん「マンフレッド」の楽章ごとの場面設定。プログラムの功罪について一概に言うことはできない。例えば今回の場合は、プログラムを有効に活用できたと思う。

 最後に座席について。やはりオケの真横というのはどうも良くない。まず第一に音が構造的に聞こえてこない。普段聞いている音楽とは、音の位置関係がバラバラなのだ。なにせ、ハープの音など足下から聞こえてくるのだから。そうなると、どうも視覚に頼りたくなる。指揮者を見る。しかし、私の席からでは相当頑張らないと見えないので、ずっと見ているのも疲れる。そこで気になるのは間近に見える打楽器群。これでは、余計に音楽全体を聴くことはできない。さらに、団員が近いので余計なことまで気になる。今回のシンフォニカーは男性は棒ネクタイだったのだが、みんなお揃いのようである。灰色のチェック。数人違うネクタイの人がいたのはエキストラだろうか。などなど。