その12 メータ指揮ウィーンフィル

2001.4.19 19:30〜
 場所:楽友協会大ホール
 楽団:ウィーナーフィルハーモニカ
 指揮:ズービン・メータ(Zubin Mehta)
 曲目:フランツ・シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)
     交響曲第7番 h-Moll, D756 「未完成」《Unvollendete》
    アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schoenberg 1874-1951)
     室内交響曲(Kammersymphonie)第1番 E-Dur, op.9
    ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
           (Peter Iljitsch Tschaikowskij 1840-1893)
     交響曲第4番 f-Moll, op.36

 今回の席はセルクル(Cercle)の2列目、すなわち前から2列目の真ん中。指揮者の足下といった感じの場所である。この席は、弦楽器(ヴァイオリン)弾きの私にとってなかなか「おいしい」席である。何よりコンサートマスターは目の前、弦楽器のトップは全員間近に見え、指揮者の指示も背中越しにではあるがきちんと見られる。ちなみに、パールテール(平戸間)の前列(ムジークフェライン大ホールの場合は前3列)をセルクルと呼ぶのはオーストリア語だそうだ。今日の演奏会は、特に日本人の多さが目立つ。ウィーンフィルをメータが指揮するとなれば、まあ当然だろう。

 1曲目はシューベルトの未完成交響曲。私は低弦の動機で始まるこの曲の冒頭が好きだ。オーケストラが舞台に上がり始めてから曲が始まるまでの間、様々に想いを巡らせた。昨年、この曲を演奏する機会があった。ヴァイオリンの出番はしばらくないのだが、指揮者を見つめつつ鼓動が高まったのを覚えている。さて、メータはどのように棒を振りだすのか?ウィーンフィルの低弦はどのようにそれに応えるのか?楽友協会大ホールでは特に低音がきれいに響くことは、この1ヶ月間のコンサート通いで既に知っているため、さらに期待が高まる。指揮者の振り出しは静かなものだった。
 予想より少し遅めのテンポ。しかし低弦の音に陰鬱さはない。これまで私が持っていたメータに対するイメージに反して、その後も彼の指揮は物静かだった。どちらかというとオーケストラへの指示を次々と繰り出し、指揮台の上で跳ねる様な指揮をする印象があったのだが。

 シェーンベルクの室内交響曲はこの演奏会で初めて聞いた。編成が特殊なので記しておこう。ヴァイオリン2、ビオラ1、チェロ1、コントラバス1、フルート1,ピッコロ1(フルート持ち替え)、オーボエ1、イングリッシュホルン1、クラリネット2、バスクラリネット1、コントラファゴット1、ホルン2。メータはシューベルトの時と同様に暗譜で指揮を振る。指揮者の頭の中にはどのように曲が(楽譜が)織り込まれているのだろう。シェーンベルクのような旋律を追いにくい曲の場合、なおのこと不思議に思う。

 さて、休憩後は待望のチャイコフスキー。ホルンを先頭に金管によって奏でられる冒頭のファンファーレは運命の動機。容赦ない運命が魂を震わせ、楔を打ち込む。いや、空気を切り裂くような金管の音が文字通り体にぶつかってくる。鼓膜のみならず体中の骨が振動するのが感じられる。ファンファーレを断ち切るトゥッティの強勢が、ホールの床や壁をも震わせる。オーケストラは音が割れる寸前の力強い音を出している。先日聴いたバイオリンコンツェルトの時と同じくコンサートマスターはキュッヒルさんだ。彼の音は特別鋭く聞こえてくるが、今回は「みんなでコンマスに合わせましょう」というような雰囲気はない。とにかく全員がばりばり弾いている。
 弦のトップを目の前にした席から弦楽器の音がよく聞こえるのはある意味当たり前だが、管・打楽器の音も遜色なく聞こえてくる。指揮者とオーケストラの間に異常に高いテンションが感じられる。
 思わず身を乗り出して聴いていると突然「びんっ」という音。コンマス、キュッヒルさんのE線が切れたのである。一瞬次席と目をあわせたが、そのままA線で弾き通した。楽章が終わり次席と二言三言交わした後、彼は自分の楽器を足下に置き、譜面台にぶら下げられたヴァイオリンを手に取った。ウィーンフィルの演奏会では左右にそれぞれ1台ずつ予備のバイオリンが置かれている。今日のシェーンベルクの時は、チェロの譜面台にぶら下がっていた。この予備ヴァイオリンは一種の「お守り」だという話を聞いた。その「お守り」が演奏に使われる場面に立ち合うことになるとは。
 第2楽章、まず気になるのは予備バイオリンの音色。キュッヒルさんの元のバイオリンは、明るい音色だった。それに比べ、予備バイオリンは思いのほか良い音だった。渋い音だ。ただ、少し高音が弱い。他人の楽器というのは弾きにくいものだが、彼は速いパッセージも音をはずすことなく弾く。腕はもちろんのこと、よほど耳が良くなければこうはいかないだろう。
 第3楽章。弦楽器はピッチカートが続く。演奏者は皆とても楽しそうだ。そこここで目配せして微笑み合っている。客席でも、私の隣席の女性が笑っていた。なにか楽しい場面を目撃したに違いない。メータはどんな表情で指揮をしていたのだろう。私の位置からはまったく見えなかったのが残念だ。
 第4楽章は、第1楽章と同じくまたすさまじい勢いだ。「また弦が切れたらどうするんだろう」「今にも足下のバイオリンを踏み倒しそうだ」という私の心配をよそに、コンサートマスターを始め弦楽器も管楽器も打楽器も全員が身を乗り出して演奏している。チャイコフスキーでは指揮者も前半2曲とうって変わって力強い指揮をしている。足を踏みならすことも断然多い。大振りで跳ねる様な指揮、私のイメージ通りのメータだ。最終音が出た直後に飛んだブラボーの声も許せるような、勢いあるフィニッシュだった。

 帰りがけに母が言った。「チャイコフスキーの入った演奏会って、なんだか得した気がしない?」その通りだ。チャイコフスキーのいささか過度な感情表現に、演奏者も聴衆も振り回される気がする。しかし、今回の演奏での高揚感は、チャイコフスキーの音楽技法以外にも要因があるだろう。ウィーンフィルは、シューベルトとシェーンベルクといった「ウィーンの音楽家」の曲を演奏する時とチャイコフスキーのような「外の音楽家」の曲を演奏する時では演奏姿勢が異なるようだ。メータの指揮も、前の2曲と後半では指示の数が全く違った。チャイコフスキーでのテンションの高さは、まるで指揮者とオーケストラが競い合うかのようにも見えた。指揮者とオーケストラの間にどのような感情が行き交ったのか。様々な想像が頭に浮かぶ。