普遍的概念での発信不得手な日本

民族特有の主張では伝わらず

なぜ執拗に批判続くのか

グローバル化が進展する中、現代日本が抱えているモットの根源的な問題は
「普遍的に通用するコンセプト(概念)や理念を世界にうまく発信できない」
ことである。

中国や韓国における反日感情は戦後60年を経た今日、ますます燃え盛っている。

はるかに長く、広範な植民地政策を行った英仏などのヨーロッパ諸国が
被支配国からこれほど長期にわたる反感をもたれた例は少ない。

なぜ日本がかくも執拗に批判され続けるのか。

もちろんそこには歴史的な経緯、中国や韓国が文明的に日本の先輩にあたる
といった民族感情など複雑な要素が絡んでいるから、議論は簡単ではないが、
その原因の一つとして、日本が日本人以外にも共感できる普遍性のある
理念や哲学を掲げることに必ずしも成功しなかったこと、さらに「大日本帝国」や
「天皇への忠誠」など、日本民族にしか共感されないようなことを外国に押しつけた
ことがあるのではないだろうか。

近代世界史は、大ざっぱに言えば、いち早く近代化に成功した西洋が自分たちの
論理や理念を日本を含む非西洋社会にいかにして押しつけ、あるいは浸透させ
るかという「西洋」対「非西洋」の確執の歴史であったといえる。

そして西洋が非西洋を席巻することにかなりの程度成功したのは、キリスト教の
ミッション、それを背景とした民主主義や人権思想、自由貿易などの「民族を超えた
理念」を掲げたからであろう。

もちろん、そういった理念を浸透させるうえで、産業革命の成功で培われた
強力な経済力(や軍事力)がものをいったことはいうまでもない。

独善の日本に偽善の西洋

繰り返しになるが、大事なことは、これら西洋の理念が、多くの場合、特定の民族に特有のものではなく、普遍的な色彩を持っていたという点である。

たとえば、キリスト教は、その発生の経緯はともかく、現代では特定の民族に
属さず、教えの中身も「汝の隣人を愛せよ」といった普遍的な教養が中心である。

これに対して、日本の宗教は仏教、神道などが混交したもの(神仏混交)であり、
明治以降は、天皇という現人神を戴く民族色の強い性格を持つものであった。

民族的色彩の濃い教義を韓国や中国などの外国に持ち込んでも共感を得られなかったのは当然であった。

もちろんこのように書いたからといって、西洋が正しく、日本が間違っていると
短絡的に主張しているのではない。これは正しいか正しくないかの問題ではない。

問題の核心は、それが異民族にどれだけ訴求力を持つかという点にある。
実際、普遍的な大義名分があっても、とてつもなく非道なことが行われることは
歴史上しばしば観察される。十字軍遠征の際の残虐、スペイン人が南米を征服
したときの現地人虐殺、アメリカ建国に見る奴隷売買などその一例にすぎない。

テレビキャスターの田原総一朗氏は、かつて日本人と西洋人の気質の違いを
「日本人は独善的、西洋人は偽善的」と表現したという。これはなかなかの
至言であると思う。

日本人は、自分たちが正しいと信じることをとことん相手国にも実践させようと
する。それがかえって当該国の反発を呼ぶとしても、それにはおかまいなしである。

これに対して、西洋人は、相手社会における支配構造や文化を冷静に観察して、
どうすれば自分たちの価値観をうまく受け入れさせることができるかを考える。
彼らは、必要に応じて「二枚舌」を使い分けることも辞さない偽善的な対応が
得意だというわけである。

求められるコンセプト力

偽善が独善よりも道徳的であるわけではない。しかし、偽善は独善よりもおそらく
はより実践的である。このことはマキャベリの『君主論』を引用しなくても理解
できるところであろう。

つまり、日本がグローバル社会の中で他国の共感を獲得し、尊敬を集め、
影響力を行使するには、独善的思考を改めると同時に、民族を超越した
普遍性のある概念を構築する努力が欠かせないだろう。

日本の歴史、文化を考えるとき、民族を超えて適用するコンセプトを打ち出す
ことは決して簡単なことではない。しかし、グローバル化の進展はこれまで以上に
日本に強力な「コンセプト力」を要求している。

日本が教育改革などを通じてこの能力にいっそうの磨きをかけることは、いまや
避けて通れない民族的課題だと思う。

 

多摩大学学長 UFJ総研理事長 中谷巌(なかたに いわお)

2005.5.31 産経新聞より

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