論考 中韓の教科書 −中国編−
異なる二つの日本像
「アジアに対し、一貫して本当の謝罪をしていない」
中国政府は学校現場での「反日教育」教育を強く否定し、その理念はあくまでも「愛国主義」であると説明する。
この公式見解の当否を考えながら中国の歴史教科書を読むと、二つの事実に気づく。一つは日清戦争(1894年)に始まり、第二次世界大戦の終結(1945年)に至るまでの日中の膨大な記述。そしてもう一つは、こうして与えた知識をもとに日本の歴史責任を問う現在、そして将来にわたる政治的な視点だ。
首相の靖国神社参拝など、今日的な動きに焦点を当てて日本の歴史責任を糾弾する記述は、2001年に中国の歴史教科書を検証した時点では突出した印象を受けなかった。歴史責任をめぐる中国側の日本追及は、2001年の日本側での教科書検定から格段に強まっており、この政府方針が教科書に反映されたようだ。
将来にわたる問題では、昨年(2004年)5月に作成された高校用の試用版歴史教科書「歴史1」が2003年8月チチハル(黒竜江省)市内の工事現場で旧日本軍のものと見られる化学剤により作業員が負傷した事件を紹介。日本側が今後、条約上の義務として巨額の処理費用を負担することになる遺棄化学兵器問題について、資料集めと中国側の被害への分析を研究課題としている。戦争責任に対する日本の対応と、中国の経済建設に対する協力に関してはどうだろう。高校教科書「世界近代現代史・下」(2003年版)を引用しよう。
《第二次世界大戦後の半世紀あまり、日本の右翼勢力は失敗に甘んじていない。日本政府もまた日本ファシズムの侵略を受けたアジア諸国の人民に対し、一貫して本当の謝罪をしていない。経済発展につれて日本の軍国主義も再び台頭し、日本の閣僚は頻繁に侵略の歴史を粉飾する言辞をろうし、政府の要路を含む政界人がほぼ毎年、東条英機らA級戦犯をまつる靖国神社を参拝している》
特定の史実を素通りして語らないことは、歴史に関する情報操作の手法である。どんな謝罪ならば「本当」になるのかは議論があるだろうが、「世界近代現代史」の記述による限り、終戦50周年にあたりアジア諸国への植民地支配と侵略に対し「痛切な反省」と「心からのおわび」を表明した「村山談話」などは、そもそも存在しなかったことになる。
過去への反省や謝罪については、1972年の日中国交正常化がすべての歴史教科書に取り上げられる反面、この時の日中共同声明で、日中戦争での中国側の「重大な損害」に関して、日本が「責任を痛感し、深く反省する」と表明した事実すら書かれていない。
同様に、改革・開放路線後の中国が築いた経済発展や民生向上に関する紹介でも、そこに貢献した3兆円あまりの日本の政府開発援助(ODA)への記述も、歴史教科書には見当たらない。
外国の教科書に、日本の態度表明や経済援助に関して個別の記述が「ない」ことをあげつらうのは、本来ならば意味がない。しかし、日中戦争に関する詳細、かつ膨大な情報の提供や、日本の歴史責任追及に関する記述があふれるほど「ある」ことを思えば、日本に関する記述の不均衡はあからさまだ。
こうした指導を受けた生徒が、日本の戦争責任については十分すぎる理解をしても、日本の「謝罪」やODA供与の努力については白紙のまま、社会や上級の学校に進むことは当然の結果だ。4月の反日デモで「愛国無罪」の叫びとともに日本の大使館や総領事館に石やペットボトルを投げ込んだ若者がまさにこの教科書で学んだ世代だったことは偶然ではないだろう。
教科書を含めた官製情報以外で中国の若者が接する「日本」といえば、Jポップスや世界的に人気を集めるアニメ作品となる。官製情報が政治のプリズムによって等身大とかけ離れた日本像を結ぶ一方、大衆文化は生のままで流入する。
異なる二つの日本像が交わることはない。日本のアニメを愛好する中国の若者が、何の矛盾も感じることなく反日を叫ぶという奇妙な図式は、いびつな日中関係の象徴かもしれない。
(山本秀也)
2005/6/15