倫理学9

第9回(7月6/7日)


環境倫理

功利主義のもたらす帰結の一つとして、今回は、

環境倫理のいくつかの問題について考えます。

今日は、人間以外の自然の生存権。代表的な倫理学者は、

ピーター・シンガー(Peter Singer 1946-)

正論を述べ、それを実行してる(らしい)オーストラリアの倫理学者。

「動物解放論Anomal Liberation」が有名。


前回の課題

君の友人のお父さんの悩みに、答えなさい。

「今、アフリカや中近東で、バッタが大量発生して、農業が壊滅状態です。

コロナ危機とあわせて、放っておけば、どれくらいの人が死ぬか分かりません。

人命救助のために、私は、収入の八割を義捐金として送りたいと思うのですが、

私の妻と子は、「私達の生活はどうなるの?」、と言って反対してます。

200万(私の収入は1000万円です)あれば、最低限でも生活はできるだろう。

金と人の命とどっちが大事だ?」と言っても納得しません。

私は、妻と子に何と言えばいいでしょうか?」



これも功利主義について持ち出される難問の一つです。

前回、功利主義の立場だと、格差を埋めること(平均効用説)が、

全体の幸福を増やす結果に繋がることについて述べました。

ですから、このお父さんの言っていることは、正論です。

もし、奥さんと子供さんが、このお父さんと同じ功利主義者ならば、

基本的には、この提案に賛成してくれるかもしれません。

でも、たぶん違います。奥さんはこう言うでしょう。

「なんで、見ず知らずの人を助けなくちゃならないの?」

「散歩してて、池で子どもが溺れていたら、助けないのかい?」

「でも、それ、近所の子でしょ。アフリカとか、中近東とか、知らない国の知らない人よ?」

「遠くの知らない人だから助けなくていいって、君の言う理由がわからないよ。」

「でも、私は、コロナで仕事がなくなって困っている友人を助けたいわ。」

「仕事がなくても、死にはしないだろう。アフリカじゃあ、多くの人が死ぬんだよ。」

「そんなの、国に任せておけばいいでしょ。一人の力でできることなんて、たかが知れてるわ。」

「国で援助するから、自分は何もしなくていいって、それは単なる言い訳だね。」

「なんで、私たちがしなくちゃならないの?」

「むしろ、なんで私たちがしないでいいんだ、と訊きたいよ。」

「家はどうなるの?200万じゃ、子供の授業料も払えないわ。」

「大学生なんだろ。授業料くらい自分で払わせろ。」

「私も、善いことはしたいわよ。

でも、善いことをする人が損をするなんでやり方、やっぱり変です。

それに、あなたには家族の幸せを配慮する義務があるんじゃないかしら?」

「君が、こんなに頭の悪い人だとは思わなかったよ!」


基本にあるのは、まず、どこまでが義務で、どこからが

「義務を超えた善行」(supererogation)なのか、という問題です。

(「スーパーエロゲーション」、超エロい、エロゲー、じゃないですよ。)

功利主義はこの二つを区別しないからダメだという批判があります。

でも、別にダメではないでしょう。

電車の中で、若い女性が酔っ払いに絡まれて困っていたら、

その女性を助けるのは正しい行為です。

実際には、面倒なことに巻き込まれたくないとか、

乱暴な酔っ払いに自分が殴られるのは嫌だとか、

見て見ぬ振りをする人もいるでしょうが、

助けるのが正しい行動であることには変わりはありません。

それが義務なのか、スーパーエロゲーなのか、どうでもよい。

正しいことは正しい。

でも、このお父さんのように、収入の八割を寄付するのは、

よっぽどの金持ちでなければ、現実的には、無理でしょう。

現代の功利主義者、ピーター・シンガーは、

「毎年、収入の一割を寄付しよう」と言っています。

(それなら、持続可能でしょう。)

できるか、できないか、はひとまず置いておいて、

何が善い行為かを考えることは、大事なことです。

功利主義はラディカルですが、何が正しいことかを指し示します。

ただし、その手段については、いろいろ考えなければなりません。

(反論として、シンガーの言うことを認めたら、

二つある自分の腎臓を一つ他人に提供することも、義務になる、

という議論があります。でも、これは反論になっていないかもしれません。

ラディカルな功利主義者なら、腎臓を提供しない理由がみつからないからです。

佐藤秀峰『新・ブラックジャックによろしく』では、これもテーマになってましたね。

私は、臓器を提供した人のその後の健康状態に不安を感じますし、

自分の健康については利己主義者ですから、腎臓は提供しません。)


次に、我々が「世界市民主義者」として振舞うのが正しいことなのか、

それとも身近な集団のメンバーへの配慮(共同体主義communitarianism

を優先するべきなのか、これも考えるべき大きな問題です。

生物としては、自分の遺伝子をできるだけ多く残すために、

自分の家族を大事にすることには、大きな意味があります。

それは進化論の前提になっている、生物学的事実です。

世界は不平等に満ちています。それも人間社会の事実です。

しかし、先週も言ったように(本当に言いましたか?)、

事実と、それに対してどういう態度をとるか、は別の問題です。

事実を事実としてそのまま肯定するか、違う考え方をするか、

そこに倫理というものがあるのです。

(これはカント的に言えば、自然界と知性界の違いです。)

 →シンガー『飢えと豊かさと道徳』 (児玉聡訳) 勁草書房

  辺りを、興味があれば、読んでみてください。

  というか、シンガーで読むなら、『実践の倫理』の方でしょう。



動物解放論

さて、今回のテーマ。動物の権利。

功利主義の原理は、「最大多数の最大幸福」でした
ベンサムは、「快楽は善であり、苦痛は悪である」という快楽主義の立場にたち、

快楽と苦痛の総体である「幸福」を、快楽計算によって決定しました
しかし、快楽と苦痛を感じるのは人間だけではありません。

神経組織がある動物なら、何らかの快楽と苦痛を感じているはずです。

人間以外の動物も、快楽と苦痛を感じる能力がある以上、

その快楽と苦痛も快楽計算の中に含めるべきではないのか?
これは、功利主義の元祖ベンサムが、ひそかに考えていたことで

「人間以外の動物たちが、暴力的専制によってでなければ奪われなかったであろう権利を、再び獲得する時がいつか来るかもしれない。皮膚の色が黒いからといって、ある人間が虐待者の気まぐれな手に委ねられたままであってもよいことにはならないと、フランス人たちはすでに気づいている。同じように、足の本数や皮膚の毛や、あるいは仙骨の末端(尾)がどうだという理由で、感覚をもった生き物を同じような目にあわせてよいことはないのだと、認識されるようになる時がいつの日か来るかもしれない。では、いったいどこで越えられない一線を引けるのだろうか。理性という能力だろうか、それとも、もしかしたら、話すという能力だろうか。しかし成長した馬や犬は、生後一日や一週間、あるいは生後一カ月の人間の幼児と比べても、比較にならないほど、より理性的で、より話のできる動物である。だが仮にそうでないとしても、何が(線引きに)役に立つだろうか。問題となるのは、理性を働かせることができるかということでも、話すことができるかということでもない。苦しむことができるかということである。」
ベンサム『道徳と立法の原理序説』

「フランス人たち」と言っているのは、フランス革命と人権宣言(1789年)のことです。

「自由、平等、友愛」がフランス革命の標語でした。

権力をもつ集団が、自分の属している集団の利益だけを特別扱いすることを、差別といいます。

人種(race)だけを特別扱いする「人種差別(racism)」

性別(sex)に基づいて人を差別する「性差別(sexism)」のように、

人間という種(speciesだけを特別扱いするのが、「種差別(speciesism)」です。

それは悪い意味での「人間中心主義」と言ってもいいでしょう。

西欧では、人間は特別な存在だということが自明の前提になっています。

『聖書』の冒頭では、人間を「神の姿に似せて」創造した、と書いています。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ。そして、空の鳥、海の魚、地の獣を支配せよ」とも書いています。

人間だけが、精神と自由な意志を持つ、特別な存在であるという考えは、

西欧文化の前提として長い間、人々の考えを支配してきました。

動物は、人間の所有物とみなされ、ほんの50年ほど前まで、物件扱いでした。

人間だけを特別扱いすることを止めるということは、別の難しい問題も生みます。

それは、どこからどこかまでが「人」か、という難問です。

下の図に見られるように、黒人、女性、子供など、かつては「人」ではありませんでした。

今でも、胎児や脳死状態の人は、「人(person)」なのか、議論される難問です。

人工授精や脳死体からの臓器移植が可能となったことで、現実的な問題になっているのです。

脳死の状態(心臓は動いている)が生きている人なら、臓器を摘出できません。

胎児が人なら、人工妊娠中絶は殺人になります。

(胎児に関しては、「母体外生存可能性(viability)」を理由にして、多くの国で、

妊娠22/23週以前の胎児は、人工妊娠中絶が認められます。)



具体的には、実験動物、家畜、動物園と水族館、など

人間の都合だけで、不必要に苦しめている動物が存在します。

動物が味わっている不条理な苦しみは、出来るだけ減らさなければならない

それが、功利主義の帰結です。

シンガーの功利主義の標語は、「利益に対する公平な配慮」です。

「今後一〇年のあいだに、人間の生命の神性さに対する態度は顕著に変化するだろう、と私は考えている。つまりその生命がホモ・サピエンス(人間)に属するかどうかという単純なことがらよりも、生命の質こそが重要だと考えるような態度を、われわれは身につけるようになるだろう。…正常な人間の生命を奪うことの道徳的な意味は、たとえば魚の生命を奪うことよりも重大であるとわれわれが考えるのは、われわれの種をえこひいきする偏見ではない。このちがいの理由をひとつあげるとすれば、正常な人間は未来に対する希望と計画をもっている。正常な人間の生命を奪うことは、それゆえに、これらの計画を破壊し、その成就を妨げることを意味するのである。魚は、自らが過去から未来への時間の流れの中で生きるという、明確な意識をもっていないと、わたしは考えている。…
動物解放論は、したがって、すべての生命が同等の価値をもっているとか、どんな利益についても人間の利益と他の動物の利益がみんな同等の重さをもつ、と主張するわけではない。この運動が主張するのは、動物と人間が同等の利益をもっている場合――たとえば、肉体的な苦痛をさけることに対しては人間も動物も共通の利益をもっている――その利益は平等に考慮されるべきであり、人間ではないという理由だけで、自動的に利益を軽視されるということはあってはいけないということである。単純な点だが、それでもやはり、この主張は広範囲にわたる倫理革命の一部なのである。」
(シンガー『動物の権利』戸田清訳)

この引用には、ちょっと難しい点、納得できない点があるでしょうが、今回はパス。

突っ込みを入れたい人は、自分で適宜、入れてください。



倫理の対象の拡大

(斜めの線がうまく引けない)

↑                     / 宇宙

↑                    /  地球

↑                   /   生態系

↑                  /    岩石 

↑                 /     生命

↑                /      植物

↑              /        動物

――――――――――――――――――――人間中心主義

↑            /          人類

↑          /            人種

↑        /              国家

――――――――――――――――――――差別主義

↑      /                地域

↑    /                  部族

↑  /                    家族

――――――――――――――――――――倫理以前

↑/                      自己



一番下の自分だけしか考えないという段階は、倫理以前で、過去の段階です。

一番身近な家族、さらに部族や地域の人々の幸福を配慮する段階は、倫理的ですが、差別的です。これも過去。

全ての国民、人種、人間が、等しく倫理の配慮の対象になる段階、それが現在。でも、まだ人間中心主義です。

そして現在は、人間を超えて、一部の動物の幸福も倫理的配慮の対象になる、段階にきています。

特に大形の動物を殺すことは、道徳的に避けるべきことだと考えられるようになってきています。

動物の真ん中くらいまでが現在で、その上は未来の課題です。

(しかしすでに、生態系や地球環境の保全は、倫理的配慮の対象として視野に入ってきています。)

こうした広範な倫理の進化の途上に、動物の幸福への配慮があるのだと考えられます。

人類の歴史を振り返れば、人種差別など、ついこの間まで(今でも)、当たり前でした。

アメリカやオーストラリアは、今では「アメリカ人」や「オーストラリア人」の国ですが、

西欧の移民が移り住む以前は、「インディアン」や「アボリジニー」といった先住民の国でした。

南アメリカの多くの国もそうです。

白人の移民たちは、先住民を駆逐して、そこを自分たちの国にしたのですから、

現在の目で見ると、NGです。

ついこの間まで、倫理なんて存在しなかったと言いたくなります。

(ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』は、参考になるかもしれません。

我々がいまコロナ・ウイルスに悩まされている理由も分かるでしょう。

スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』も、長いけど読む価値のある本です。)

同様に、50年ほど前まで、動物に対する倫理など、存在しなかったのです。

今でも、動物の権利などと言うと、冗談だと思う人もいるでしょう。

どうせ殺すのに家畜の幸福とか、偽善的だ、と言う人もいるでしょう。

(でも、人間もいつかは死にますが、生きている間は幸せに生きたいと思うはずです。)

それが事実だからという理由で肯定してよいわけはありません。

繰り返しますが、事実に対して、それをどう考えるか、そこに倫理があるのです。



家畜―肉を食べてよいのか?

動物園・水族館や実験動物については、今回はパス。

いちばん身近な、家畜について、考えてみましょう。
日本人が肉を大量に消費するようになったのは、ほんのこの半世紀くらいの間のことで

1960年には日本人の肉類の消費量は、一人当り一年間に、3.5Kgに過ぎなかったが、

1995年には、43.5Kgまで増加している。ほぼ12倍である。

特に牛肉の増加が大きい。

(高松修「いま『肉を食べる』ということ」『世界』1997/11
こうしたことが可能になったのは、その間に、

効率よく穀物を肉に変換する「動物工場」と呼ぶべきシステムが普及したからです
「家畜は配合飼料で飼われ、その原料はアメリカの大規模農場で生産されている穀物(トウモロコシ・大豆粕)が主体である。…太陽の当らない人工照明の倉庫のような場所で朝から晩まで薬漬けで食っちゃあ寝の生活を強いられ、ニか月足らずでぶくぶく太らされて出荷される。」(同上)

「動物工場」の例としては、鶏をケージで飼うという方法が挙げられます。

(→NAVERのまとめ記事「狭いカゴの中で一生を終える鶏たち 激安卵の黒い秘密 」)

ブタや牛に、抗生物質や女性ホルモンを注射して、肉の量を増やす、なんてことも普通です。

現在では、遺伝子操作の技術を使って、多くの肉を提供できる家畜を創り出すことも試みられています。

「肉を食べる」ということがどういう意味を持つのか、次の引用を読んでみてください。

「肉食の弊害として一般に認識されているのは、肉食は、動物を苦しめ、飢餓を生み、健康を損ない、環境を破壊するという四点である。…
 飢餓を生む
 現在、世界では一日に四万人が飢餓で死んでいるといわれている。そして、飢餓に苦しむ人びとは、三〇ヶ国で五億人に達し、彼らを救うためには、二七〇〇万トンの穀物を供給すればよいという。一方、世界の年間穀物生産量の一七億トンのうち、半分近い八億トン以上の穀物が、家畜の飼料に使われている。そうだとすると、人びとが肉の消費をわずか三パーセント減らして、家畜用穀物の三パーセントを、ODA(政府開発援助)のような国際機構を通じて、飢餓に苦しむ人びとにまわせば、かれらをすべて救うことができる。
 …二一世紀は飢餓の世紀になるだろう。そのとき、人類は飢餓を解決するために、効率の悪い肉食を止めざるを得ないだろう。何故なら、一キログラムの動物性タンパク質を肉として生産するために、飼料として家畜に与えなければならない植物性タンパク質は、牛は一七キログラム、豚は七キログラム、鶏は三キログラムだからだ。
 健康を損なう
 肉食が健康を損なう理由は主な三つある。第一は、牛肉や豚肉に多量に含まれる飽和脂肪酸は、体内で固まりやすく、多量に摂ると、血液の粘度を高めて血流を悪くするため、酸素や栄養素が細胞に届きにくくなる。
 第二は、飽和脂肪酸はコレステロールや中性脂肪を増やす働きがあるので、多量に摂ると、動脈硬化、心疾患、脳血管疾患などを引き起こす。…
 第三は、多量の肉の摂取は、ガンと密接な関係がある。…」
(山内友三郎・浅井篤編『シンガーの実践倫理を読み解く』(昭和堂) 第四章 岩沢直樹「動物の解放と菜食主義」より)
パレオ・ダイエットといって、旧石器時代の食生活に帰ろう、という主張があります。
肉を中心とした食生活が、進化論的に見て、人の体に一番よく適合しているというのがその理由です。
(→ウィキペディア「パレオダイエット」)
しかし、これに対しては、石器時代の食生活は肉中心ではなかった、という反論や、
肉(とりわけ赤身の肉)の取りすぎは、健康に害がある、というデータがあります。
(今年は、後期の倫理学で「食の倫理」について話そうと思っていますので、
これについても、今回は詳しく触れません。)
これとは反対に、肉は食べない、という、菜食主義(vegetarian)、
さらに、その極端な一派、ヴィーガン(vegan)という立場もあります。
菜食主義は、動物を殺すことを避けるために、肉は食べないという立場です。
でも卵や牛乳は、OK
卵は無精卵ですから、食べても生き物を殺すことにはなりません。牛乳も同じ。
(さらに魚貝類は痛みを感じないから食べても良い、と言う功利主義者がいるかもしれません。
私は、魚は傷みを感じていると思いますが。)
ヴィーガンは、卵や牛乳もNG。動物性タンパク質は一切口にしないという立場です。
T・コリン・キャンペル他『チャイナ・スタディ』(松田麻美子訳)は、
動物性タンパク質の摂取が、ガンの原因であることを証明しています(!?)。その根拠は、
1)マウスに、発ガン性物質と5%のタンパク質、及び発ガン性物質と20%のタンパク質を与えたところ、前者ではガンが発生せず、後者ではガンが発生した―というマウスでの実験
2)1980年代の中国での大規模な調査をみると、低タンパク質の食事のせいで、ガンの発生は低い―というデータ
の二つです。これによって、
動物性タンパク質がガン(とその他の病気)の原因であることを証明し、そこから、
植物ベースの全粒食品(Plant-Based Whole Food)中心の食事を推奨しています。
(全粒食品というのは、例えば玄米のような、精白する前の穀物です。)
これだと、動物性タンパクを一切摂らない、ヴィーガンの食事になります。
しかし、
1)このマウスでの実験の結果にも、また、
2)牛乳をよく飲むがガンの発症率も低い村のデータが無視されているなど、
中国のデータの解釈にも、問題があります。
そもそも「ガンの発生に遺伝子は関係ない」とか
「中国人は人種的に均一なので、遺伝子のバラツキは考慮する必要がない」といった
トンデモ的な記述もあって、いろいろ怪しいと思います。


そういう極端とも思える立場もありますが、肉を食べる量を減らすという行動だけでも、
動物の苦しみを減らし、健康に良い、といった効果はあるのですから、
なぜそれを実践しなくてよいのか、よく考えると、理由はないかもしれません。
(「美味しいから」という理由については、後期の「食の倫理」で論じます。)
下の付録を読んでみてください。


シンガーの故国オーストラリアでは、魚の活け作りは、犯罪行為です。
(→魚や甲殻類(ロブスター・イセエビ・カニなど)の人道的な殺し方
鶏をケージで飼うにしても、ある程度、自由に動ける環境を作ることは可能です。
人間の都合だけで、動物たちを苦しめてもよい、という考え方の方が、むしろ異常だったのです。


地球環境の保全

環境倫理の三つの主張 は、加藤尚武氏によると、

1)自然の生存権

2)世代間倫理

3)地球全体/有限主義

という三つにまとめられます。

今回、扱ったのは、1)の一部だけでした(動物以外の生存権も問題もあります)。

「乗りかかった船」とか、「毒喰らはば皿まで」という諺もあります。


来週も環境倫理の続き。


課題

次のテーマについて、400字程度で述べなさい。

(今回の講義内容にはあまり関係がない。)

「マスクって、したくないんだよ。俺って、若いから、コロナに罹っても大丈夫だし、

マスクするかしないか、個人の自由だろ。」

というアメリカ人に、適切なアドヴァイスをしなさい。



付録

「しかしながら、くり返すと、シンガーの議論は「苦痛は悪である」、また「不必要な悪を意図的に引きおこすこと、あるいはわれわれが自分の小さな犠牲でその痛みを除去することができるときそうしないことは、不正である」といった、非所に単純で一見議論の余地のない前提にもとづいている。つぎの文はこの点を示す最もよく知られた箇所である。


私の大学の図書館から人文学部の講堂へ通じる道は、観賞用の浅い池のなかを通っている。講義に行く途中で、小さな子供が池に落ちて溺れそうになっているのに、私が気づいたと仮定してみよう。私が池のなかに入って子供を引き上げるべきだということを否定する者があるだろうか? 池に入って子供を引き上げることは、私の衣服が泥だらけになり、私は講義を中止するか、あるいは着替える物を見つけることができるまで講義を遅らせることを意味するだろう。だが、避けることのできる子供の死と比較すれば、それは微々たることだ。

 私が池から子供を引き上げてやるべきだという判断を支える、もっともだと思われる原理はこうである、「もしわれわれが何か非常に悪いことが起こるのを妨げる力を持っており、かつそのことによってそれと比較すべき道徳的に重要なことを何も犠牲にしないですむのであれば、われわれはそれをなすべきである」。


この穏当な前提に依拠して、シンガーは、われわれの食事のわずかな味の違いのために工場的農場で何百万頭もの動物に最も酷い苦しみを与えることは不正であり、貧しい国々で多くの人が飢えており、われわれがわれわれ自身にとって耐えられない犠牲を払うことにはならない程度の寄付を行なうことによってかれらの死を防ぐことができるときに、かれらが死ぬにまかせるのは不正である、と論ずる。このような仕方で論じつつ、彼は、われわれのほとんどが、彼と同じベジタリアンになり、――各自の置かれた状況により多少の幅はあるが――少なくとも収入の一〇%を、世界の最も恵まれない人びとを助けているオクスファムが行っているような慈善活動に寄付するべきであるという議論など、多くの議論を展開する。」

(パルマー編『環境の思想家たち』所収、ポーラ・カサル「ピーター・シンガー」より)


シンガーが活動を始めた50年前に比べると、いろいろ状況は改善しています。

100万部超のベストセラーだという、オーラ・ロスリング他『ファクトフルネス


→資料集

→村の広場に帰る