倫理学6

第6回(6月15/16日)


功利主義

カントに引き続き、今日は、ベンサムの功利主義。

第一回で触れたように、功利主義とは「最大幸福」の理論です。

目指すべきよい行為は、「結果として全体の幸福が最大になる行為」です。

その応用として、生命倫理(安楽死/尊厳死と臓器移植)についても触れます。


ベンサムの功利主義

ベンサム(Jeremy Bentham 1748-1832)は、カントより少し若い同時代のイギリス人。

『道徳と立法の原理序説』(1788

で、功利主義を理論化しました。

(ここの「立法」は法律を作るという普通の意味。

功利主義という原理から道徳と法律を導き出すことを目指しています。)

ベンサムの功利主義は、後の功利主義と比較して、

行為功利主義とか、古典的功利主義と言われることもあります。

ちなみに、功利主義という訳が定着していますが、「功利」という日本語は、

「功名と利得。功績と利益。また、功績や利益を上げること。」(goo国語辞典)

といった意味でしょうが、それは、功利主義ではありません。

功利主義は、utilitarianism の訳。功利主義者(utilitarian)が持つ考えのこと。

功利主義者は「功利(utility)」つまり、有用性で善悪を判断します。

人間の生活にとって役にたち有用なもの、それが大事だ、という主義です。

功績や利益が大事だ、という意味ではありません。

ちなみに、何が有用かは、結果で決まります。

だから功利主義の前提には、結果主義/帰結主義(consequentialism)があります。


1)快楽主義

出発点は「快楽が善であり苦痛が悪である」という快楽主義の立場です。

すべての人間は快楽を求め苦痛を避ける、それは自然法則であり事実である。

(エピクロスみたいな煩いことは考えません。)


2)快楽計算

感覚には、閾値つまり、これ以上小さくなったら感じられなくなるという最小単位、がある。

これを1とすると、快楽の大きさは、数値化できる。

さらに、どんな種類の快楽があるか、数え上げて、一覧表にすることが出来る。

だとすれば、ある個人が得ている快楽の全体量も計算可能である。

その値に、その社会の成員の数を掛ければ、その社会全体の快楽の量が得られる。

この値を「幸福(happiness)」と呼ぶ。

(この辺りは、私のホームページでも、もっと詳しく説明していますが、

とりあえず、付録の『倫理学ノート』を読んでください)。


3)功利性の原理

この「幸福」の値を増やす行為を「善」と呼び、

この値を減らす行為を「悪」と呼ぶことが出来る。

これが「功利性の原理(the principle of utility)」である。

功利主義とは、

「最大多数の最大幸福(the greatest happiness of the greatest number)」

に他ならない。


もう一度まとめると、

行為の善悪は、その結果によって判断できる。―結果主義

快楽が善であり、苦痛が悪である。―快楽主義

社会全体の快楽の総量を幸福とよぶ。―全体主義

最も多くの幸福をもたらす行為を選べ。―最大化原理

一言で言うと、「結果としての全体の幸福」を考えるのが功利主義です。

(ほとんどが、カントの立場の反対です。

カントは、それぞれ、目的、理性、個人、義務、ですから。)


例1

君は、混んだ電車の座席に座っています。

途中の駅から、いかにも体の弱そうなお婆さんが乗ってきて、君の前に立ちました。

1)寝た振りをして、やりすごす

2)お婆さん、どうぞ、と言って席を譲る


功利主義では、どちらが善い行動ですか?

二つの状態を、快楽計算して、比較すればよいですよね。

電車内や電車の外の、他の条件は同じだとすれば、違いの差を考えれば十分です。

1)の場合は、お婆さんの大きな苦痛と、君の小さな快楽が電車内に存在します。

2)の場合は、お婆さんの大きな快楽と、君の小さな苦痛が電車内に存在しまず。

(快楽と苦痛の大小は、年寄りは足腰が弱くて立っているのが苦痛である、という事実と、

若いやつは元気なんだから、ちょっとくらい無理しても平気だよ、という偏見から導かれています。)

単純に物理的な快苦だけを考えても、1)より2)の方が、幸福の量は上です。

(より大きな快楽と、より少ない苦痛)

なおかつ、精神的にも、1)の「どっか行けよ、ババア」と思いながら

寝たふりをしている君は、たいして気分がよくないでしょうし、

2)「最近の若者はアレだって言うけど、親切な若い人もいるのね」

と思ってるお婆さんは、その点でも幸せな気分です。

1)より2)の方が、世界全体の幸福の量が大きいのです。

功利主義者なら、こちらを選ぶしかありません。

(俺より隣に座ってるオッサンの方が元気そうじゃん。

俺よりこいつが席を譲る方がいいじゃん、と仮に思ったとしても、

それを考え始めると答えは永遠に出ません。

とりあえず、君が席を譲るのが吉。)


例2

安楽死/尊厳死

世の中には、考えても答の出ない問題が、山のようにあります。

そういう場合には、とりあえず、功利主義で考えてみるのが有効なことも少なくない。

安楽死/尊厳死は、「死ぬ権利」です。

「生きる権利」は認めない人はいないでしょう。でも、ありますか、死ぬ権利?

チャップリンの「ライムライト」という古い映画があります。

(先日、BSで放送してました。)

アパートに帰ってきたチャップリンは、ある部屋がガス臭いのに気づき、

その部屋に住んでいる、自殺を試みた女性を助けます。

医者を呼んで、入院した方がいいか尋ねると、医者はこう言います。

病院に行くと、警察沙汰になり、罪に問われることになるから、

容体も悪くないし、病院に行く必要はない、と。

設定は20世紀初めの英国です。欧米では20世紀中頃まで、自殺は犯罪でした。

その背景には、キリスト教があり、命は神が与えたものだから

人が勝手に捨ててはならないという考え方が強かったのです。

自殺を試みた者は、犯罪者として処罰されました。

自己決定権を重視したカントも、自殺を否定しています。

苦しいので自殺する人は、自分の命を幸福を得るための手段にしてしまっている、

というのがその理由です。(分かりますか?)

でも、現在では、死ぬ権利を認めようという流れが、一部の国で出てきています。


日本人は自殺者の数が多いので有名ですが、

その半数近くの原因は、病苦です。

いま、余命3か月ほどの患者がいて、病気の苦しみに耐えているとします。

その人の一日は、ほぼ病苦との戦いで、死を待っているだけの毎日だとします。

治療して命を長引かせることが、かえって残酷な結果を生むことにはならないでしょうか?

この人が自分から安楽死を望んでいるとき、医者が楽に死なせてやるという

選択をするのは間違ったことでしょうか?

まず考えないといけないことは、その人が本当に死にたいのか、ということです。

お金とか家族への負担とか、死を選ばされている原因はないのか。

というのは、ほとんどの人は、本当は死にたくないからです。

自殺未遂で生き残った人に、例えば10年後にインタビューすると、

8割の人が、あの時死ななくてよかった、と答えます。

病気で未来への希望をなくして死のうとした、チャップリンの「ライムライト」の女性もそうです。

彼女も病気や仕事のストレスで生きていることに意味を見出せない状態に陥っていました。

今度の、新型コロナウィルスでも、自殺者の数が増えることが予想されますが、

多くの人は、本当は死にたくないはずです。

だから自殺しようとしている人がいたら、とりあえず助けてください。

死にたいと言っていても、本人は、正常な判断力を失っていることが多いのですから。


いろいろ考えても、簡単に答は出ません。

そこで功利主義者なら、こう考えます。

この人は未来に希望がなく、生きる喜びよりも、病気の苦しみの方がずっと大きい。

何もしてあげなければ、この人は毎日の大きな苦しみが3か月続くことになるだろう。

一日の苦しみをマイナスαとすれば、それが90日、合計で-90αの苦しみ。

もし今安楽死の処置をすれば、苦しみはゼロ。-0×90=0

0

本人が本当に望んでいるのなら、医者は安楽死の処置をするべきだ。


もちろん家族の意向とか、考慮すべきことは他にもありますが、それも問題ないとしましょう。

病苦で苦しんでいる人が、安楽死ではなく、自分で自殺を試みることによって

もっと苦しい死に方をするのならば、それは不幸をより増やすことになります。

それは現実にいま日本で起こっていることです。

だったら日本でも、安楽死を認めるべきなのではないですか?

功利主義者は、結果として幸福が増えるか減るかだけを考えます。



例3

脳死と臓器移植

神の委員会

トリアージ

(1)

臓器移植の最大の問題は、臓器が足りないということです。

臓器移植は50年ほど前から実験的に行われてきましたが、

その頃は免疫反応を抑制できなかったので、上手くいきませんでした。

しかし90年代に免疫抑制剤が飛躍的に向上したことで、

臓器移植は、難病を治す、有力な治療の一つになりました。

臓器移植で一番多く行われているのは、腎臓移植です。

もし君が、例えば糖尿病で、腎臓が悪くなって、治療を受けるとします。

とりあえず、人工透析という手段があります。

機械が腎臓の代わりに君の血液を浄化してくれます。

しかし透析は、週に3日、一回に4時間くらいかかります。

毎日の生活でも、水は少ししか飲めません。食事もいろいろ制限されます。

運動もできません。酒もダメ。女性なら、子供も産めません。

臓器移植の手術を受ければ、そうした制限はほとんど無くなります。

でも、君が移植を希望しても、手術を受けることはできないでしょう。

脳死状態の患者から腎臓を摘出して移植に回すのですが、

君がそのチャンスを得ることは極めて難しいからです。


臓器移植は、いわゆる心臓死、

つまり呼吸が止まり心臓も止まり脳も機能していない状態から、

臓器を取り出して移植しても、上手くいきません。

肺と心臓は動いており脳の機能だけが停止している「脳死」でないと駄目なのです。

この状態は人工心肺(人工生命維持装置)がある大きな病院でないと起こりません。

また本人の生前の同意がなければ、臓器を取り出すこともできません。

ですから臓器を手に入れることが出来るチャンスは極めて少ないのです。

(日本で腎臓の移植手術を受けている人は、いわゆる生体間移植が多く、

家族や親戚から二つある腎臓の一つを提供してもらって移植しています。)


さて、君は、もし臓器萎縮でしか治らない病気になったとき、手術を受けますか?

また、君は、もし君が脳死状態に陥ったとき、臓器を提供することに同意しますか?

(もし君が同意するなら、健康保健証や運転免許証の裏に、サインする箇所がありますから、

すぐそれにサインしておいてください。

また日本では、家族と話し合い、家族の同意を得ておくことも必要です。)

君は、すぐに決断するのを、ためらうでしょう。

でも、君が功利主義者ならば、こう考えます。

脳死という状態は、大脳を含めて脳の機能が失われている状態なのだから、

快楽も苦痛も、感覚はすべてゼロの状態だとみなしてよい。

つまり自分自身に関しては、幸福の大きさは、ゼロだから、無視して考えてよい。

もし臓器移植に同意しなければ、家に引き取られ葬式をして火葬場で焼かれ灰になって終わりだ。

しかし臓器移植に同意しておけば、その前にいくつかの臓器を摘出して、

その臓器が何人かの人の命を救うことが出来る。

臓器を摘出した後は、前の場合と同じだ。感覚はないのだから、ゼロ。

でも、僕の臓器で、臓器移植が受けられずに死ぬしかなかった人たちの命が助かる。

お医者さんも、手術すれば助かるのに臓器がないので手術できない、という苦しい立場から救われる。

僕の家族も、生前は世間に迷惑ばかり掛けている、ど〜しようもない息子だったけど、

(だから死んでくれたことだけでも、世間にとって善いことなんだけど)

死ぬ前にやっと一つだけ善いことをした、と喜んでくれるかもしれない。

臓器移植に同意することで、不幸が増えることはない。

臓器移植に同意すれば、世界全体の幸福の量を増やすことが出来る。

うん、すぐにサインしておこう、と。


(2)

例3は、すでに長くなってますが、ますます長くなります。

君が提供してくれた臓器を、誰に与えるのか、という問題があるからです。

臓器移植を受けたい人は、何万人もいます。

でも提供される臓器は、毎年、百件もありません。

誰を選ぶのか、という資源の配分の問題があります。

この問題についての、古典的な事例は、人工透析で起こりました。


神の委員会

今では、人工透析は誰でも受けられます。保険に入っていれば無料です。

でも今から50年以上前、初めて人工透析が行われたときには、事情は違いました。


私のホームページから引用します。


腎臓の透析が始まった1962年、シアトルのスウィーディシュ病院では
週に17人の患者に透析を行うことができたが、

透析を必要とする患者の数はそれより遥かに多かった。
そこで患者の選択に関する意思決定をするための委員会が作られた。
(委員会は地域社会を代表するのにふさわしい構成となるように、
聖職者、弁護士、労働団体の幹部、州の役人、銀行員、外科医、の7人に加え、

透析の専門医2人がアドヴァイザーとして参加した。)
当初、患者は、透析の費用(年間2万ドル)を負担できる、

45歳未満のワシントン州在住者に限られたが、それでも数が多すぎた。
そこで委員会は、
「候補者が定職に就いているか、子供を扶養する親であるか、

教育を受けているか、意欲は強いか、

すぐれた業績をあげているか、他人に役立つ何らかの能力があるか、

を検討事項に加えるようになった。」(ペンス『医療倫理』)
この事実は『シアトル・タイムズ』や『ライフ』など雑誌や新聞に取り上げられ、
「誰が生き、誰が死ぬべきかを決めるという、神のような役割を演じている」

<神の委員会>だと非難された。
こうした「社会的価値」によって治療する人を決定するという選択は、

倫理的にどう考えるべきなのだろうか?


この基準で患者を選んだら、君たちのうちの誰一人、選ばれることはないでしょう。

(大学なら、若くて優秀で家族もちの教授だけが選ばれるでしょう。)

今回のコロナ騒動でも、誰を治療するか、という難しい問題に医者は直面しました。

イタリア、スペインなどヨーロッパで死亡率の高い国では、

ベッドも薬も医者の手も、すべてが足りないという「医療崩壊」の状況下で、

どの患者を治療するか、現実の問題になったのです。

ニュースやドキュメンタリーを見ていると、ヨーロッパでは、

死亡率の高い老人よりも、助かりそうな若い人を優先して治療した、

ということは実際にあったようです。

病院の医師もそう証言しています。

またスウェーデンの政府は、老人は後回しだと、国民に公言しました。

(いま人種差別の問題で各地で暴動が起きているアメリカでも、

白人やヒスパニックより、黒人のコロナでの死亡率がずっと高いのですが、

これは、さすがに人種差別の問題ではなく(少しはあったかもしれませんが)、

すぐに病院に行って治療を受けられないという医療保険の問題でしょう。)


(3)

トリアージ

大災害が起きて、病人や怪我人がたくさんいるのに、医者や薬など医療資源は限られているとき、

誰を最初に治療するか、という緊急時の選別を、トリアージといいます。

原則を確認します。

1)自由と尊厳

誰にも治療を受ける権利があります。

誰も手段として扱われてはなりません。

この第一原則に従うと、先着順か抽選しかないでしょう。

金持ちや有力者が優先される「社会的価値」など認められません。

実際に、我々はこの原則に従って、ラーメン屋に行列を作るのです。

被災地でも、治療を受けたい人は、先着順で並んでもらいます。

しかし、そうして列を作っていると、こういうことが起こります。

列の一番前に並んでいる奴が言います。

「先生、二日酔いで気分が悪いんです。点滴してください。」

「はいはい、寝てれば治ります。あなたはあそこで大人しく寝ていてくださいね。」

二番目の奴もこう言います。

「先生、寝過ごして試験受けられませんでした。追試受けさせてください。」

「それは自分の責任ですから、追試は認められません。帰って。」

三番目に並んでる奴はこう言います。

「先生、白内障の手術のために、今すぐ入院させてください。」

「ええい、白内障ごときで入院たぁ、ふてえ野郎だ。とっとと…」

こんなことをやっている間に、列の後の方に並んでいる、

いますぐ治療を植受けないと危険だという患者が死んでゆくのです。

それでは頭が悪すぎる。

2)最大幸福

ここで功利主義の登場です。

時間も資源も限られている状況下では、

限られた医療資源を最大限に有効活用するために、

緊急に治療が必要な患者を優先的に治療するのです。

現実には、日本で大災害が起こって、大勢の患者がいるとき、

訓練された消防士や看護師などが、患者に、三つのタグを貼っていきます。

青(緊急の治療は要しない)

黄(急いで治療する必要がある)

赤(今すぐ緊急の治療が必要)

信号機と同じです。この順番で治療していきます。

トリアージとは三分法という意味ですが、実は、四つ目のタグもあります。

黒(死亡あるいは治療しても助からない)

というタグです。


さて、新型コロナウイルスでも、同じような状況が発生したわけです。

日本のような状態だったら、優先順位をつけて、老人は後回しにする、

というような事実はなかったと思いますが、仕方がない状況もあるでしょう。

誰に臓器を与えるか、これも同じ問題です。


(4)

やっと、臓器移植の話に戻れます。

限りある臓器を誰に分配するか、もう分かったでしょう。

まず、先着順です。移植手術を受けたい人は、リストに登録します。

リストの上にある人から順に臓器は提供されます。

次に、このリストには、優先順位がついています。

緊急に移植が必要な人の方が、リストの上位に登録されるのです。

だから現実的には、

たまたま運がよかった人や、

ずーっと待っていて容態が悪くなり、緊急に移植が必要になり、

リストの順番が繰り上がった人が、

たまたま臓器を受け取る、ということになります。

結局、現状では、臓器移植を受けられるのは、運のよい人なのです。

君が臓器提供に同意してくれれば、その幸運な人の数が増え、

「最大幸福」の値が増えることになるのです。


臓器移植の最終的な解決は、

IPS細胞などから本人のDNAを持つ臓器を人工的に作れるようになり、

人の死を待っている必要がなくなるという状況になることでしょう。

でもそれは、何十年も先の未来の話です。

臓器売買については、今回はパス。



臓器移植の話が長くなったので、残りは次回。

次回は、J.S.ミルその他の功利主義と、自由主義です。



課題

次のテーマについて、400字程度で、述べなさい。

「君は、アメリカをテロから守るCTUCounter Terrorism Unit)という大統領直属の組織のメンバーです。

あるテロリスト・グループが核爆弾をアメリカに持ち込んで、君をこう言って脅します。

『おい、ジャック、お前が上司を殺すなら、核爆弾は発射しないでやる。

でも、断って上司を殺さなかったら、核爆弾をロスに向けて発射することになる。

50万人が死ぬことになるぞ。ただの脅しじゃないぞ。』

君がジャック・バウアーなら、どうしますか?」


前回の課題のコメント

Uberの配達員、いちおう金をもらってるプロなんだから、交通ルール守れよ、

と前にも書いたような気がします。

でもこの問題の場合は、プロかどうかは関係ないでしょう。

「車が来ていないから赤信号を無視してよい」というルールは、普遍化不可能、

という点が、今回では一番重要でしょう。

次に、行為の目的という点も抑えておくとよい。


「赤信号を無視してよい」というルールは、自己矛盾。

「赤信号」とは、進行してはならないならないことを指示するものであるが、

それを無視するという行為は、進行することを意味するからである。

矛盾したことを、理性は選択できない。

(理屈っぽい)


赤信号を無視してよいという君の格律は普遍化不可能だ。

誰もが信号を無視したら、信号や交通ルールの意味がなくなる。

(これが一番普通の回答)


「道徳的行為は、無条件の定言命法という形をとる。

いかなる時でも赤信号では止まらなければならない。

「車が来ていないときは別」という例外は認められない。

(カント的ではあります)


宅配のアルバイトで急いでいるから、と君は自分を例外扱いしようとしている。

でも結局は、信号で止まるのは、だりい、という感情、

楽をしたいという動物的欲望に支配されているだけだ。

(これも、標準的な回答)


第一回で、自粛中にパチンコに行く人たちの話をしましたが、

あれは普遍化不可能という以上に悪質です。

真夜中に赤信号を無視しても、たぶん誰も困りません。

コロナの場合は、みんなで外出を控えてコロナの感染を防ごう、というのが自粛の目的です。

そんな状況で、若い人が集まって誕生パーティをやったり、

三密が予想されるパチンコに行ったりするのは、

感染を広め、ウイルスを撒き散らすことによって、

他の人がやっている努力を無駄にするという意味を持つ行為です。

カント的にもダメですが、それ以上にダメな行為です。

功利主義的に考えても、自分たちの一時の快楽と引き換えに、

他の多くの人の命を危険にさらすのですから、全然ダメです。



付録

清水幾太郎『倫理学ノート』より
 ここで、バウムガルトが全文を発表したベンサムの原稿に戻ることにしよう。「快楽を生むすべての物は、それが生む明白な快楽に比例して、善である。苦痛を生むことが明らかでない限り、それが生むと見られるすべての快楽は、明白と考えるべきである。このことは、これに反対する一切の偏見および一切の美辞麗句にも拘らず、永遠に真理でなければならぬ。……ニュートンの自然法則にしても、ユークリッドの公理にしても、これ以上に明確ということはない。」 こうして、ベンサムは、快楽および苦痛の測定について語り始める。しかし、差当って、二つの注意が必要になる。第一に、快楽について言えることは、そのまま、苦痛についても言えるのであるから、快楽について語れば十分である。第二に、『道徳および立法の原理』によって知られるように、快楽の価値の大小は、有名な四つの条件によって左右される。四つの条件は、強さ(intensity)、長さ(duration)、近さ(proximity)、確さ(certainty)である。
 先ず、強さという条件について考えれば、快楽が次第に減って行くと、やがて、人間は、いかなる快楽も感じられない無差別状態に達する。これが快楽の量のリミットである。このリミットに近いところに、辛うじて快楽として知ることが出来る、極めて弱い快楽がある。この最も微弱な快楽の持つ強さは、1として表わされる。原稿の欄外に、ベンサムは書いている。「こういう強さは、日常の経験のうちにある。」 反対の方向に、快楽の強さが次第に増して行くと、快楽の量は、例えば、2になり、3になり、5になるが、この場合は、どこまで進んでも、人間はリミットに達することはない。
 同様に、長さという条件について考えれば、時間の最小部分は瞬間であって、一瞬間より短い快楽は、存在することが出来ない。「こういう快楽の長さは、日常の経験のうちにある。」 強さの場合と同じように、一瞬間の快楽を1とし、長さを増して行くと、それは、2になり、3になり、5になるであろうが、どこまで行っても、人間はリミットに到達することはない。
 ところが、近さという条件になると、事情は少し変ってくる。最初に、最大量が現れる。それは、現在である。何人にとっても、現在の快楽よりも近い快楽はないであろう。現在の快楽より価値のある快楽はないであろう。「現在の快楽というのは、日常の経験のうちにある。」 快楽の強さおよび長さは、これを限りなく大きくすることが出来るのに反して、近さにおいてはこれを減らすことが出来るだけである。現在の快楽が1であるとすれば、他の快楽は、例えば、一瞬間の後に、二瞬間の後に、一日後に、一年後に享受される快楽である。時間は限りなく大きくなり、近さは限りなく小さくなる。いや、限りなく、と言うべきではない。個人について言えば、彼の寿命が自からリミットになるであろう。しかし、諸個人の集合としての社会について言えば、話はまた違って来る。
 最後に、確さという条件が現れる。この条件は、近さという条件に似ているところがある。なぜなら、最大の確さ、すなわち、絶対的な確さは、現在の快楽にしかないであろうから。人間が現に享受している快楽以外の快楽は、程度の差こそあれ、すべて不確実な快楽である。そして不確実性のリミットはどこにも存在しない。
 強さにおいては、最も微弱な快楽が1であり、長さにおいては、一瞬間の快楽が1であるから、それより大きい強さおよび長さは、すべて整数によって表わされる。これに対して、近さと確さとにおいては、現在が1であるから、それより小さい近さおよび確さは、すべて分数によって表される。
 右の四つの条件を考慮することによって、個人が享受する快楽の価値を規定することが出来る。ベンサムにとって、社会は、こういう個人の集合である。いかに多くの人々が、この社会観を批判して来たことであろうか。しかし何(いず)れにせよ、彼にとって、社会は、多くの個人の集合である。この個人は、最も微弱な快楽を1とする或る強さの快楽を、また、一瞬間の快楽を1とする或る長さの快楽を、また、現在の快楽を1とする或る近さおよび或る確さの快楽を追求し享受するところの人間である。彼の生活は、微分化された快楽のアトムによって隅々まで満たされている。こうした個人の集合が社会であってみれば、社会そのものも、微分化された快楽のアトムの集合であるほかない。全体としての社会の快楽は、それに含まれる一個人の快楽の量に個人の数を乗じたものに等しい。そして、社会全体の快楽の場合は、これを「幸福」と呼ぶ方が適切であろう、とベンサムは考える。


→資料集

→村の広場に帰る