倫理学3
第3回(5月25/26日)

ギリシャ哲学における徳の探求―ソクラテス

義務倫理と功利主義の説明としては、少し寄り道になりますが、

広い意味での徳の倫理として、ソクラテスの倫理思想と

カントの先行者としてのストア派、功利主義につながる快楽主義の立場エピクロス派

について見ていきます。

今日は、ソクラテス。

学問としての倫理学というものを始めたのが、ソクラテスです。

ソクラテスの生涯

ソクラテスの思想は、その生涯と切り離して論じることはできません。

とりわけ、70歳の時(紀元前399年)、裁判で訴えられ、その結果死刑になって死んだ

という事実は、非常に重要です。

なぜ訴えられ、どうして死刑になったのか、それを生き生きと描いたのが、

プラトンの『ソクラテスの弁明』。

(ソクラテス自身はほとんど何も書き残していませんが、弟子のプラトンが

ソクラテスが登場して誰かと対話する、多くの「対話篇」を書き、

ソクラテスの人となり、その思想を後世に伝えました。)

その裁判の原告は、メレトス以下三人の若い政治家で、

「国家の認める神々を信じず、新奇な神を信じている」

「青少年たちを堕落させている」

というのが、その訴状の内容でした。

当時のアテネは民主主義の栄えた国でしたから、政治も裁判も

一般市民の投票によって決められました。

この時も、アテネの一般市民が500人集まり、原告と被告の両方の話を聞いた後で

最初に有罪かどうか、次にどういう刑に処すかを、それぞれ投票による多数決で決めました。

メレトス以下三名の弾劾演説の後で、ソクラテスが行った弁明の様子を描いたのが。

『ソクラテスの弁明』です。

その始まり。

「アテネ市民の皆さん、私を告発する人たちの話を聞いて、皆さんがどういう気持ちになったかは分かりません。でも、私は、自分が誰なのか、分からなくなってしまいそうでした(笑)。それほど彼らの演説には説得力があった。でも、本当のことは、彼らは何一つ言わなかった。本当のことは、皆さんがこれから私の口から聞くことです。」

ソクラテスの主張

先に行く前に、ソクラテスの主張を簡単に三つにまとめておきましょう。

魂の配慮

無知の知

対話法(青年の教育)

人生はただ生きているだけでは意味がない。

大事なことは、善い人生を送ることだ。

なぜ人は、お金が欲しい、綺麗になりたい、強くなって勝ちたい、みんなに好かれたい、といった

外面的などうでもいいことばかりに夢中になって、

一番大事な、自分の魂を善くするという課題に目を向けないのだろうか。

よい魂、優れた人生の追求こそ、あらゆる学問がめざすべき究極の目的なのに。

しかし、私ソクラテスは、残念なことに、その一番大事なことを何も知らない。

何が善いことなのか、真に美しいものは何なのか、知らない。

知らないけど、知らないから、それを愛し求めている。

(知恵を愛し求めることを、Philo-Sophia=哲学と名づける。)

もう年だし、私はダメかもしれない。

でも、若い人には可能性がある。

「徳」というと、「私の不徳の致す所で」とか、政治家が言いそうな言葉で、

あまりいいイメージがないかもしれない。

しかしギリシャ語で「徳(アレテー)」とは「優れていること」、

つまり優秀な善い人間であることを意味する。

そして、君たちは信じないかもしれないが、徳は知識である。だから教えられる。

何が善いことか、本当に知っていたら、人はそれを目指し、善い人になる。

私のお母さんは産婆さんだった。その技を受け継いで、

若者が自分で知恵を生み出し、善い人間になる、その手伝いをすることはできる。

若い人たちとの対話の中で、彼らの精神をかき乱し刺激を与え、

善い人生を送れるように、手助けすることはできる。

おい、おい、そこの、プラトン君、どこへ行くんだい?

――という訳で、ソクラテスの日常は、若い人との対話に占められていました。

プラトンの書いた多くの本を読めば分かります。

しかし、これが「若者を腐敗堕落させている」という訴状の理由にもなったわけです。

実際に、ソクラテスの弟子だと思われていたアルキビアデスという若者は

アテネに損害を与えていますし、この時代は少年愛が大流行でしたから、

青少年を集めて何かしているらしいという事実には、若干のいかがわしさが感じられた可能性もあります。

それから、もう一つの、ダイモンの合図についても一言しておくと、

ダイモンというのは守護霊で、悪いものではありません。

(ギリシャ語の幸福eudaimoniaという語は善いダイモンに守られているという意味です。

後にキリスト教が入ってくると、これがデーモン=悪魔という悪い意味に代わってしまいます。)

ソクラテスはときどきダイモンの声が聞こえるということがあったそうです。

それは何かを勧めるのではなく、禁じる声として聞こえたそうです。

これが二つ目の「新奇な神」という非難の原因になったのでしょう。

無知の知

あまりにも有名ですから、無知の知について見ておきます。

『ソクラテスの弁明』の続きを読んでみましょう。

「[私の友人の]カレイフォンは、かつてデルフォイに赴き、大胆にも次のような問いに神託を求めました。――皆さん、騒がないで聞いてください――、つまり彼は、私よりも賢い者がいるだろうか、と尋ねたのでした。巫女は、いない、と答えました。この事については、彼はもう死んでいるから、彼の兄弟が証言するでしょう。
私がなぜこういう話をするのか、考えてみて下さい。どこから私に対する非難が来たのか、皆さんに説明しようとしているのです。――これを聞いた後で、私は独り考えました。神は何を言おうとしているのだろうか、いったい何を示唆しているのだろうか、と。というのは、自分が何事においても賢くはないということは、私自身よく解っているからです。私が最も賢いと言うことによって、神は何を意味しているのだろうか。神が嘘を言うはずはない。それは神にふさわしくはない。
そして長い間、神が何を言おうとしているのか、私には理解できなかったのですが、ついに、次のような仕方で実際に調べてみることにしたのです。私は一人の賢いと思われている人の所へ赴き、そこで、こう言って神託に反論することが出来るだろうと考えたのです、「あなたは私を最も賢いと言ったのだが、この人は私よりも賢い」と。
そこでこの人を調べてみると、――名前を挙げる必要はないでしょうが、彼は政治家でした――皆さん、私はこの様な経験をしたのです。彼と話していると、私にはこう思われました、この人は他の多くの人からも賢いと思われており、またとりわけ自分自身でもそう思っているのだが、断じてそうではないと。そこで私は、あなたは賢いと信じているようだがそうではない、と彼に説明しようとしました。その結果、私は、彼とそこにいた多くの人たちから、憎まれるようになったのです。
その場から立ち去りながら、しかし私は独りこう考えました。この人より私の方が賢い。なぜなら、二人とも、美しいものについても善いものについても何も知らないのだが、この人は知っていると思っている。しかし私は思っていない。自分が知らないということを、彼は知らないが、私は知っている、と。
この後、私は彼よりももっと賢いと思われている他の人の所へ赴きましたが、全く同じように思われました。その結果、この人からも他の多くの人からも、憎まれるようになったのです。」

まあ、この犠牲になった政治家の方から見れば、余計なお世話でしょう。

でも、同じような目にあった、こういう大勢の人の反感が、この裁判の背後にある、と

ソクラテスは見ているわけです。

このとき、どんな対話が交わされたのか、ここでは述べられていませんが、

プラトンの他の本を読めば分かりますし、当時のアテネ市民も分かっていたでしょう。

多数決で政治や裁判が決まった当時のアテネでは、政治家は、

知識も豊かで、弁舌も巧みで、人に信頼されるような人柄でもあったと考えられます。

少なくとも、現代の政治家より、知恵があり信頼されていました。

現代でも政治家は、国民にとって善いことを知っており、それを実行すると約束します。

「安倍さん、あなたは、何が善いことなのか、ご存じですよね。

それを、一問一答形式で、これから、お話ししてもらえませんか?

「善い馬を育てるためには、馬のことをよく知っている専門家に任せますよね。

病気を治してもらうためには、病気や治療の専門家であるお医者さんの所に行きますよね。

では、政治家は、何を知っており、何の専門家なのですか?}

結論だけ言いましょう。

政治家が知っていることは、人間にとって何が善いことかではありません。

世間の人が何を望んでいるか、何を言えば人気が出るか、です。

年金とか医療費とか社会保障費を減らさないと、日本の将来は暗いでしょうが、

選挙で投票してくれるのは、中高年です。

数も多いし選挙に行く比率も高い。

だから「年金を減らします」と宣言する政治家はいません。

そんなことを言いったら、選挙で選ばれないからです。

若者は数も少ないし選挙にも行きませんから、若者に有利な政策など相手にされません。

簡単に言えば、大衆の願望を読み取って、それを自分の意見として言うのが政治家です。

政治家は、本当のことではなく、本当らしく思われること、を知っているだけです。

(というか、世間の声を汲み取って行動できるなら、それは善い政治家です。

先週の、検察庁法改正の問題は、難しい点があり、微妙だと思いますが、

タイミングも内容も良くなかった自粛要請、アベノマスク、YouTubeの映像、急展開した10万円給付、

などなど、あなたは何をやっているのですか、という世間の声が、

今回のきっかけで爆発したのでしょう。世間の声を聞け、と。

政治家は今やるべきことが山ほどあるのに、何をやっておるのか、と。

同じようなことを、9年前の東北大震災の時も思いましたよ。)

話が逸れました。

次に、ソクラテスは、作家、音楽家、技術者など、多くの知恵があると思われている人を訪れます。

そして、そこでも同じ経験をするのです。

「この人は、自分でも知恵があると思い込んでいるけど、そうではない。

自分には知恵がないと知っている私の方が、まだましだ。」

(これには、ちょっと注が必要かもしれません。

例えば、音楽家には、素晴らしい曲を作るという知恵があります。

それはソクラテスも認めています。

しかしその知恵は、霊感(=天才)として神から授かったもので、

本人は神懸かりのような状態で曲を作る。

そして、それがどんな曲かは、本人より、周りの人たちの方がよく知っている。

霊感で作曲しているのに、それを自分の知恵だと思い、自分を誤解している。

その思い上がった誤解で、知恵をダメにしている。

「古山クン、君は才能はあるのに、君の作った曲は、なんか鼻につくんだよね〜。」(廿日市誉)

だから、この場合も、私の方が、まだましだ。)

この言い方自体が、皮肉(アイロニー)ですよね。

ソクラテスと言えば皮肉屋として知られています。

無知の知も、徳は知識であるから、教えられる、という主張も、逆説です。

では生きているより死ぬ方が幸せだという逆説を次に見ておきましょう。

『ソクラテスの弁明』の終わりに箇所です。

ソクラテスの死

裁判は、一回目の投票で、僅差で有罪の判決が出ます。

そこで、次に、どういう刑に処すか、二回目の投票に移るのですが、

原告は、死刑を要求します。

これに対して、ソクラテスは、最初、「迎賓館で昼食を御馳走してもらおう」

という罰とは思われない提案をします。

その結果、当然のように、圧倒的多数で、死刑に決まってしまいます。

普通に考えれば、この時のアテネ市民たちが、ソクラテスを死刑にするつもりがあったとは思えません。

ソクラテスが最初から普通の刑罰を申し出たら、そちらに決まったのではないでしょうか。

でも、死刑と御馳走の二択だったら、死刑しか選べません。

ソクラテスは、意図的に、自分が死刑になるように仕向けているとしか思えないでしょう。

実際に裁判が終わった後、弟子たちが脱獄の手はずを整えて、ソクラテスを助けようとした時も、

ソクラテスはそれを断って、自ら死ぬことを選ぶのです。

裁判の最後に、ソクラテスは友人たちに向かってこう言います。

君たちは、死ぬことが悪いことだと考えているようだが、それはどうだろう。

だって、死とは長い眠りにつくことだとよく言われる。

死が眠りなら、それは大歓迎だ。

今日はたっぷり眠れた、なんて日は、人生の中でも喜ばしい一日だろう。

あるいは、死はあの世(ハデス)に行って暮らすことだとも言われる。

もしそうなら、これも大歓迎だ。

そこにはもう会えないと思っていた人たちが大勢待っているのだから、

いろんなことを議論しながら、楽しく過ごすことができる。

今日はダイモンの声が一度も聞こえなかった。これが善いことだという印だ。

「さあ、もう時間だ。私たちは別れねばならない。

君たちは生きるために、私は死ぬために。

でも、そのどちらが幸福なのか、誰にも分からない。神でなければ。」

プラトンの弁明―『ゴルギアス』

今回、もう一つ取り上げるのが、プラトンの傑作『ゴルギアス』です。

高名な学者ゴルギアスがアテネに来た時に、若き日のソクラテスが駆けつけて議論を挑むという設定です。

ただし、実際の対話の相手は、ゴルギアスではなく、若い政治家カリクレス。

この二人の間で、「正義とは何か」をめぐる、激烈な議論が繰り広げられます。

カリクレスの主張を要約すると―、

道徳とか法律というものは、嘘だ。

人間の優れた生き方とは、力を持ち、なんでも自分の好きなことができるということだ。

それが自然における真実であり、人生の本当の目的だ。

しかし、そうした才能のある強者は、数少ない。

この世の多くの人は、才能も力もない弱者たち、一言でいえば大衆だ。

この弱い連中が集まって自分を守るために作ったものが、法と道徳だ。

節制とか、公平とか、民主主義とか、体(てい)のいい嘘だ。

だから、弁論術を学び、政治や裁判で、大衆を操り、

自分のしたいことを自由にできるようになることを人は目指すべきだ。

これはなかなか面白い議論です。ちょっと納得する部分がある。

後に、ソクラテスに死刑を宣告することになるのが、その愚かな大衆なのですから。

しかし、これに対して、若き日のソクラテスは真っ向から反論し、

二人の議論は白熱します。

テーマの一つである快楽主義については、次回で扱いますので、

今回は、ソクラテスの、

「不正なことをして罰せられないよりも

不正なことをしていないのに罰せられる方がよい」

という議論を取り上げます。

普通に考えれば、これは逆説です。

脱税してもばれないとか、

税金を自分のために使って公費として申請する、とか、

銀行のコンピューターに侵入して、自分の口座に大金を振り込み、誰にも気づかれない、とか、

不利な裁判で上手く立ち回って勝って、敵を痛めつける、とか、

強くて賢い人間しかできないことでしょう。

その逆に、何も悪いことをしてないのに罰金を取られるとか、

何もしていないのに、痴漢だと言われて、拘置所に一週間も拘留だとか、

何かの冤罪で刑務所送りとか、

考えたくもないことです。

でも、ソクラテスは前者より後者の方が。ずっと善いと言うのです。

なぜですか?

結果を考えると、前の場合は得をし、後の場合は損をするのですから、

前者が善いと思えるでしょう。

でも、それは、君が、魂より、お金や世間体が大事だと思っている場合です。

この世で、最も大事なことは、自分の魂を善くすることです。

悪いことをして罰せられないのは、魂を悪くします。

逆に悪いことをしてないのに罰せられるのは、魂を悪くはしません。

子供の場合を考えてみてください。

子供が、泥棒をしたり、他の子を虐めたり、

悪いことをして叱られないのが善いことですか。

その子は、きっとろくでもない人生を送ることになるでしょう。

親や周りの人が、子供を叱るのは、その子がこれから善い人生を送れるようにです。

子供の場合には明らかなことが、大人ではそうではなくなります。

魂のことを考えないからです。

前々回、試験でカンニンングをする学生について聞きましたが、

そして功利主義ではそれが幸福を増やす、と言いましたが、

バレずに上手くいくことは、実は、不幸なことなのです。

(一言。普通の人の場合は、悪いことをしていないのに罰せられるというのは、

善いことではありません。世間を恨んだり、被害者意識を持つからです。

他人を恨むのは、魂にとって善いことではないでしょう。

新聞記者と賭けマージャンをしてバレなかった、ということが善いことですか?

犯罪を犯して罰せられなくてよかった、と言えるのはなぜですか?)

この議論は、プラトンがソクラテスのために行った弁明です。

生きることの目的は、善く生きることである、

そのためには魂を善くすることこそが最も大事なことである、

そう主張したソクラテス。

何も悪きことをしないどころか、アテネ国民の魂にとって善いことをしたのに、

そのアテネ人によって死刑を宣告され死んだソクラテス。

その魂は少しも傷ついていない。

むしろ、死ぬことによって、ソクラテスは魂の善さを持ち続けた。

そういうプラトンの声がこの箇所から聞こえてくるような気がします。

付録として、『ゴルギアス』の一部を、載せておきますから、後で読んでみてください。

課題

次のテーマについて、400字から800字程度で、述べなさい。

「コロナでも喫煙者は重症化してるし、煙草が身体に悪いことは、知ってる。よ〜く分かってるのよ。

でも、止められないのよ。」という友人のお父さんに、、ソクラテス的に、意見しなさい。

前回の課題のコメント

君はコンビニでアルバイト中に万引き犯を捕まえました。彼はこう言います。

「俺が警察に連れていかれたくないことは君も分かるよね。

「自分がその人なら、その人がしてほしいと思うことをしなさい」って『聖書』書いてあるよね。

警察に連れていくのはダメだよね。

君だって本当は面倒だし商品は返したし、見逃してやりたいって思ってるんだだろう。」

君は彼に何と言い、どうするべきですか。

これは、相互性から功利主義を基礎づけようとした、20世紀の倫理学者ヘアが立てた議論です。

6/7回目くらいで触れることがあるかもしれません。

今週の「魂の配慮」なら、答えは明らかでしょう。

「悪いことをして罰せられないならば、それは君の魂を悪くすることになるから、

君自身にとって不幸なことだ。見つからなければいい、とか、

万引きなんて、誰でもやってるんだから、悪いことじゃない、とか

考えていた、今までの自分の甘い考えを、警察に行って、悔い改めなさい。」

キリスト教でも、似たようなものです。

「僕が君の立場だったら、僕はこう考えるだろう。

『盗んではならないという神の言葉に逆らっているのだから、

神の目から見て正しい道に戻るために、警察で頭を冷す機会を与えてほしい』、と。

だから、君を警察に連れて行くよ。」

付録

『ゴルギアス』(加来俊彰訳)

カリクレス  すなわち、人は、正しい生き方をするためには、自分自身の欲望を抑制するようなことはしないで、これを最大限に許してやり、そして勇気と思慮をもって、その最大限に伸ばした諸々の欲望に十分奉仕し、欲望の求めているものがあれば何でも、その時その時に、これを充足させてやるだけの力を持たなければならぬ。しかしながら、けだしこのようなことは、とても世の大衆のなしうるところではない。そこで、彼ら大衆は、それに引け目を感じるがゆえに、こうした能力のある人たちに非難の矢を向けるのであるが、これも、つまりは、おのれの無能力を覆い隠そうという魂胆にほかならぬ。そして口を開けば、放埓は醜いことだと主張して、さきの話の中で私が言ったように、生まれつきすぐれた素質を持つ人たちを抑えつけ奴隷化しようとするわけだ。そしてまた、自分たちは快楽に満足を与えることができないものだから、しきりと「節制」や「正義」を誉めたたえるけれども、それは要するに、自分たち自身に意気地がないからなのだ。
なぜなら考えてもみよ。もともと初めから王子の身分に生まれたような人たち、あるいは、自らのもって生まれた素質によって独裁君主の位に就くとか、権勢ある地位を獲得するとかして、何らかの支配権をわがものとするだけの力を持っている人たち、そういう人たちにとっては、本当のところ、およそ「節制」や「正義」ほどに醜く害があるものが何かあるだろうか。そういう人たちには数々の善きものを享受することが許されていて、妨げるものは何もないのに、こちらから進んで世人大衆の法律や言論や非難などを自分たちの主人として迎え入れねばならぬというのか。そうした人たちが、正義や節制と称するあの結構な代物に従うならば、そしてそのおかげで、自分の味方の者たちのために、敵どもに与えるよりも何ひとつとして多くのものを分けてやることができないとしたら、どうして惨めにならずにいられようか? それも、支配者として自分自身の国に君臨していながら、そんな無能者でいなければならぬとしたら!
いや、ソクラテス、あなたは真実を追究していると称しているが、よろしい、それなら、そのありのままの真実とはこうなのだ。すなわち、傲(おご)りと、放埓と、自由とが、ひとたびそれを裏づける力を獲得するとき、それこそが人間の徳というものであり、幸福にほかならないのであって、それ以外の、あのお上品ぶったいろいろの飾り、自然に反した人間の間の約束事などは、馬鹿げたたわごとにすぎず、何の価値もないものだ。

ソクラテス まことに堂々と、カリクレス、君は議論を徹底させ、率直に披露してくれる。じっさい、他の人たちなら、心には思っていても口に出してはなかなか言いたがらないようなことを、君は今、あからさまにぶちまけてくれているのだから。
しからば、僕からも君にお願いしておこう。いかなることがあっても、その追求の手を緩めないようにしてくれと。人はいかに生くべきかということが本当に明らかになるためにね。
では、どうか言ってくれたまえ。君の主張によれば、人間本来のあり方にかなったような者になろうとするならば、諸々の欲望を抑制するべきではなく、できるだけ大きくなるままに許してやって、何としてでもそれに満足を与える途(みち)を考えてやらねばならぬ、そしてまさにそれが人間の徳性にほかならぬと、こう言うのだね?

カリクレス いかにも、それが私の主張するところだ。

ソクラテス そうすると、何ものも必要としないような人たちが幸福なのだと言われているのは、あれは間違っているわけだね?

カリクレス もしそうとしたら、石や死人たちが一番幸福だということになるだろうからね。

ソクラテス しかしね、君の言うとおりだとしたら、生とは恐ろしいものではないか。というのは、じっさい、僕としては、エウリピデスが次の詩句の中で言っていることが本当のことだったとしても、それほど驚きはしないだろう。
「誰が知ろう、この世の生は死にほかならず
 死こそまことの生でないかを」
そして、我々は恐らく、本当は死んでいるのだとしてもね。事実、僕はこれまでに、それを裏づけるような話を、一人の賢者から聞いたこともあるのだから。つまり、その賢者の話してくれたところによると、我々の現在の生は実は死なのであり、肉体(=ソーマ)とは我々にとって墓(=セーマ)に他ならず、また、魂のなかのいろいろの欲望が住みついている部分は誘惑されやすく、あれこれと変動しやすい性格のものだという。そして、ある気の利いた男が、人間の魂のそこの部分を、それが<口説かれやすく(=ピタノン)信じやすい>というところから、名前をもじって「甕(=ピトス)」と名づけ、また、愚かな人たち(=アノエトス)を「アミュエトス」(秘儀によって清められぬ者たち)と呼び、さらに、そうした愚かな人たちの魂の中のいろいろの欲望が宿っている部分について、その放埓さと締りのなさを見てとり、これを「穴のあいた甕(かめ)」と称して、いつもそれが満たされないでいるありさまを比喩的に表現したということである。
かくして、この命名者が示そうとするところは、カリクレス、ちょうど君の意見と正反対のことだ。…ハデスの国(冥界)にいる者たちの中でも、このような者たちが一番惨めであり、彼らは穴のあいた甕(かめ)のなかへ同じように穴のあいた別の容器、つまり篩(ふるい)で水を運びつづけるのだということを示そうとしているのだ。僕にこの話全体を聞かせてくれた例の賢者の言うところでは、この命名者が「篩」というのは、魂のことなのだ。そして愚かな人たちの魂が篩に喩えられたというのも、そうした魂は、信念がないのと、忘れっぽいのとで、何事もしっかりと自分の中に持ちこたえることができないから、穴だらけな状態にあると見なされたためにほかならないということである。
これらの話にはいくらか奇妙に聞こえる点があるということは、十分認めなければならない。しかし、この話は、僕が君に証明しようと思っている事柄を、明らかにしている。僕は、何とかできるものなら、それを証明することによって、君を説いて、考えを変えてもらい、満ち足りることを知らぬ放埓な生活のかわりに、秩序を持ち、その時々に与えられている物で満足して、それ以上を求めないような生活の方を、君に選んでもらいたいのだが。
しかし果たして、君は、僕の説得によって方針を変え、秩序ある人たちの方が放埓気ままな人たちよりも幸福だと考えるようになってくれるだろうか。それとも、いくら僕がこうした物語を他にたくさんしてみたところで、君の考えはそれによっていささかも変わることはないのだろうか?

カリクレス そう、後で言った方が本当だろうね、ソクラテス。

ソクラテス よし、それなら、今のと同じ学派から考えを借りて、もう一つの別の譬えを君に話してみよう。問題の二つの生き方、秩序ある生活と放埓な生き方のそれぞれについて、次のように言うことを君は認めるかどうか、まあ、考えてみてくれたまえ。
今にAとBの二人の人間がいて、二人ともそれぞれ、たくさんの甕を持ってるとしよう。Aの人が持っている甕はいずれも傷のない健全なもので、その一つには酒、一つには蜜、一つには乳というようにして、その他たくさんの甕がそれぞれいろいろのもので満たされている。ただ、こういったいろいろの液体の、一つ一つの補給源はめったにないうえに、近寄り難く、それを手に入るためにはさんざん困難な苦労をしなければならないものとしよう。
さて、Aの人は、一度甕を満たしてしまえば、あとはもう注ぎ入れることもしなければ、それに気を使うということもなく、こうした点に関しては平静な落ち着きを保っている。これに対してBの人の場合、補給源に関しては、一応補給可能ながら困難な仕事であるというAの人と同じ条件にあるけれども、ただ、それを入れる容器の方が穴のあいた傷ものばかりであって、そのため彼は、昼となく夜となく絶えずそれを満たす仕事を続けていなければならない。そうしないと、極度の苦痛を味わうことになのだ。
果たして君は、それぞれの生活がこのようなものであるとしたら、放埓な人の生活の方が秩序ある人の生活よりも幸福だというだろうか。どうだね、こんな風に言えば、いくらか君を説得して、秩序ある生活の方が放埓な生活よりも良いということに承認させることになるだろうか。それともまだ説得するには至らないだろうか。

ではひとつ言ってくれたまえ。そのような生き方について君が念頭に置いているのは、例えば、腹が減ることやまた空腹の時にものを食べることなどだろうね?

カリクレス いかにも。

ソクラテス それから喉が渇くことや、乾いている時に飲むことなども、そうだね

カリクレス そうだ。また、その他のおよそありとあらゆる欲望を持ち、それらを残らず満たすことができて、それによって喜びを感じながら幸福に生きるということを言っているのだ。

ソクラテス よくぞ言ってくれた、素晴らしい友よ。どうかそういうふうに最初始めたときの調子を最後まで続けてくれたまえ。恥ずかしいと思ってするのは禁物だ。しかしどうやら、そういう僕の方も、恥ずかしいのを我慢しなければならなくなったようだ。
まず手始めに聞くが、人が疥癬(かいせん)にかかって、かゆくてたまらず、思う存分いくらでも掻くことができるので、掻き続けながら一生を過ごすとしたら、これもまた幸福に生きることだと言えるのかね?

カリクレス なんとも突拍子もないことを言う人だね、ソクラテス。まったく、大道演説家そのままだ。

ソクラテス さあ、とにかく、僕の質問に答えてくれたまえ。

カリクレス ではやむを得ない。そういうふうに掻きながら生を送る者も、やはり快く生きることになるだろう、と言っておく。

ソクラテス 快い生ならば、幸福な生でもあるだろうね?

カリクレス いかにも。

ソクラテス それはただ頭だけが痒いという場合なのだろうか…。それともまだ何か質問を続けるべきだろうか?
さあ、カリクレス、君は何と答えるかね、もし誰かが君に、これにつながるあらゆる問いを片っ端から次々と尋ねていったとしたら? そして、こういったような事柄の究極には、男娼たちの生活というものが考えられるが、そんな生活こそはまさに恐るべきものであり、恥ずべきものであり、惨めな生活ではないだろうか。それとも君は、そういう人たちでさえも、欲求するものが存分にかなえられるならば幸福であると言う勇気があるのかね?

カリクレス そんなにいかがわしいことへ話を持っていって、ソクラテス、あなたは恥ずかしいと思わないのか。

ソクラテス 一体、こんなところへ話を持ってきたのは、この僕なのかね、高貴な友よ? それとも、それはただ何でもかんでも喜びを感じるものでありさえすれば、それがどんな喜び方であろうとも、幸福なのだと言ってすましていて、いろいろな快楽の中でどれが善い快楽で、どれが悪い快楽であるかを、一向に区別しようとしない男なのかね?
さあ、今からでも遅くはないから、言ってくれたまえ。君は、快と善とは全く同じもだのと主張するのかね、それとも、快楽の中には善からぬ快楽もあると主張するのかね?

カリクレス では快と善とが別のものであると言って、私の説が首尾一貫しなくなると困るから、まあ両者は同じものだと主張しておこう。

ソクラテス そんなことでは、カリクレス、初めの約束を裏切るというものだ。そして君はもう、僕と一緒に物事の真相を徹底的に調べることができないことになるだろう。仮にも君が自分で本当にこうと思った事柄に反するようなことを言うようではね。

カリクレス そういうあなたも、そうしているではないか、ソクラテス。

ソクラテス それなら僕の方も、もし本当にそうしているのなら、君と同じように、正しいやり方ではないということになる。しかしまあ、君、よく注意して考えてみてくれたまえ。何が何でも楽しみさえすればそれが無差別に善いことだとは、おそらく言えないのではあるまいか。なぜなら、それがその通りだとすると、そこからの帰結として、さっきほのめかされたような、ああいう多くのにいかがわしい事柄が、他にもまだ、いろいろとたくさん出てくるのは明らかだからね。

カリクレス と、まあ、あなたは思うわけだ、ソクラテス。

ソクラテス しかし君は本当に、カリクレス、そんなことはあくまで頑強に主張し続けるつもりかね?

カリクレス そうだとも。


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