倫理学13
第13回(8月3/4日)
仏教の倫理
重要なおしらせ
前期の倫理学の講義は今回で終わりです。徳の倫理の系譜で、今回は仏教を扱います。
今年は夏休みはないものだと思っていましたが、来週から休みです。
授業内到達度試験は、15/16回目に行うことになっていますので、
次々回の15回(8月31日)は、試験。
LETUSを使って、オンタイムで行います。統合コースではなく、
自分が履修している時間で、受けてください。それぞれ60分。
月曜(8/31)の4限(2:30-3:30)と5限(4:10-5:10)
間違えずに受けてください。
試験中に何を見ようと自由ですが、他人の答案だけはNG。
記述式で同じような答案が二枚以上あることは不可能ですから、
カンニングが疑われる答案には、少なくともAは出さないことにします。
(倫理学の試験でカンニングをするのは、法の番人である黒川さんが賭けマージャンをするのと同じです。)
毎回出してもらっている課題も参考にします。
いかにもコピペという答案も、評価は低いと思ってください。
薬学部は予定を見ると、今回で講義は終わりのようです。
この後のスケジュールを確認したら、何も入っていません。
薬学の事務から連絡は来ないので、理学部と同じだと思っていましたが、違うようです。
講義は半期で13回行い、その後試験というのは、文科省の方針です。
どうなっているのか、私には分かりません。
仕方がないので、課題を読み直して、成績をつけます。
前回の課題
次のテーマについて、400字程度で、述べなさい。
「私は20歳の女子大生です。今年のコロナ禍で、アルバイトの仕事がなくなってしまいました。
実家は観光業で、同じくコロナで、大打撃を受けています。このままでは学費も払えません。
水商売でもして、学費を稼ごうと思うのですが、どうでしょうか?」
つい出してしまいましたが、400字で答えられる問題ではありません。
コロナ禍の状況で、実際に、そういう女性が増えているようです。
日本だけじゃなく世界中に、同じような学生さんがいると思います。
アルバイトなんて、今探しても、ほとんど見つからないでしょう。
どうしてもお金が必要だという場合に、考えられる一つの選択肢ではあります。
基本的な考えは、優先順位つきで、
1)お金の奴隷になってはいけない(←自由=義務倫理)
2)犯罪は避けよう(←義務倫理・功利主義)
3)建前としては職業は自由(←自由主義)
4)なるべく多くの人が幸せになる選択肢を選ぶ(←功利主義)
5)共同体の価値観も無視しない方が吉(←徳の倫理)
6)フェミニズムの主張も考慮してみる
まず、水商売といっても、いろいろです。
1) 町のスナックや銀座などのクラブで接客する(「接客を伴う飲食業?」)という普通の仕事のレベルから、
2) キャバクラなどで、お色気を振りまく「お・も・て・な・し」
3) 先日クラスターが発生した札幌の「おっぱぶ」がそうであるらしい、ボディ・タッチを含む性的サービス(→)
4) 売春にまでは至らない性的サービス、いわゆる、風俗
5) ほぼほぼ売春と、ちょ〜売春(「パパ活」とかAVとかは、ほぼ売春。ちょ〜はveryの意味で使われています。)
あなたが「水商売」と言っているのは、どのレベルですか?
多分、1)か2)の、軽い接客業のレベルかもしれません。
だとすれば、それは甘い。
このレベルの水商売は、普通のアルバイトと同じく、現状では厳しいでしょう。
あなたが、ぶっちゃけ、もの凄くかわゆい、あるいは、
対人スキルに長けているといった売りがあるなら別ですが、
仕事そのものが見つからない可能性が高いと思います。
5)は違法ですから、他にないというのでなければ、避けるべきです。
大学は、そこまでして行くような所でしょうか?
医者になりたいとか薬の開発をしたいといった明確な目的があれば話は違いますが、
それでも売春という手段は、よいとは思えません。
ですから、残るのは、3)と4)のレベルです。
5)のように違法ではないし、1)と2)に比べれば、需要はあるかも。
あなたが考えている「水商売」は、もしかしたら、このレベルの仕事かもしれません。
そこで気になるのが「水商売でも」という言い方です。
「水商売」を甘く見ていませんか ?
同じような状況でも、男子学生には「水商売」の選択肢はありません。
なぜですか。
女性は、広い意味で「身体を売る」ことができるからですよね。
では、性的な魅力や性的なサービスを売るというのはどういうことなのでしょうか?
「性的」の方は難しいので、いまは「売る」方だけ考えましょう。
仕事と仕事の対価(お金)は、労働を売ることから生じます。
私たち教師も授業という労働を売っています。
(大学の労働のメインは、実は、研究の方で、授業は二次的。)
売っている以上、つまらないから金返せ、と言われても、
金返すから、二度とくるな、といえるようなプライドは必要です。
何かを売って生きていくのなら、それなりのものを売る必要があるのではないですか?
そのことは、以前アルバイトはしていたようですから、あなたもお分かりでしょう。
「水商売でも」という甘い気持ちで仕事ができるものでしょうか?
(気持ちを軽くするために、わざとそういう軽い言い方をしているだけかもしれませんが。)
「生理的にムリ」というタイプの客もきっと来ます。というか、そんな客ばっかりかも。
そういう場合でもお客さんを楽しませるのがプロでしょう。
酔っ払いのおっさんが来て、あなたに嫌みを言ったり、怒鳴ったりするかもしれません。
そういう時でも、冷静に対応できるのが、プロ。
それなりの覚悟とプライドは必要です。
世間の公式見解は、「職業に貴賎なし」でしょうし、
犯罪でなければ、何をして生きていくのも自由だ、というのが自由主義の社会です。
だからプライドを持って「水商売やってます」と言えるのなら、
その選択肢でもよいと思います。
功利主義的な観点から見れば、職業に貴賎はあります。
(何の価値も生み出さない仕事よりも、多くの価値や満足を生む仕事の方が尊い。)
客が満足して帰ってくれるのなら、それは立派な仕事です。
逆に「親や友達には知られたくない」という気持ちなら、
とても勧めることはできません。
得られる利益よりも失うものの方が多いと思います。
その理由は、今回の仏教でも、説明します。
仏教の倫理
徳の倫理の系譜で、今回は仏教の倫理を扱います。
仏教には、紀元前4/5世紀に始まった原始仏教と、紀元後に展開された大乗仏教があります。
今回は、時間もないので、主に、原始仏教を扱います。
原始仏教
仏教は、ブッダ( Buddha)が始めた宗教です。
buddha(その音を漢字で写したものが「仏陀」)というのは、
古代インド語で「目覚めた人」という意味の普通名詞。
名前ではありません。名前は、ゴータマ・シッダルタ(シッダッタ)。
釈迦族の王子として生まれました。だから「お釈迦様」とも呼ばれます。
また、宗教と言いましたが、宗教的要素は非常に薄い。
実際は、倫理学か心理学かもしれません。
後に神格化されますが、ブッダ自身は、一人の人間で、人類の教師でした。
ブッダは29歳のとき、妻子を捨てて、修行の旅に出かけました。
5/6年のあいだ、有名な先生の許を訪ねたり、苦行に耐えたりしましたが、
ついにはそれらを捨てて、菩提樹の下で瞑想に入り、悟り(=菩提)を開きました。
「四諦」はブッダが最初に説いたと言われる教えの一つです。
(「諦」は「真理」の意味)。
四諦
1)苦―この世は苦しみに満ちている
(四苦=生老病死、八苦=怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五蘊盛苦)
2)集―苦しみには原因がある(→縁起)
3)滅―苦しみをなくす事ができる(→解脱/ニルヴァーナ(涅槃))
4)道―そのための方法がある
(中道、八正道=正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)
仏教が現代人にいまいちアピールしない理由の一つは、
「人生は苦しみだ」という最初の出発点にあるような気がします。
世の中には楽しいことがいっぱいあるよ!
ほら、こんなに美味しいものが君を待ってるよ!
そんなメッセージで世界は満ちています。
それは資本主義社会、消費社会の特徴です。
(欲望をかきたて消費をうながすことが消費社会の基本です。)
そして事実、ブッダの生きていた時代に比べれば、現代は、
苦しみは減り、楽しいことは増えているでしょう。
(例えば、病気や飢えという苦しみ。)
でも、人間の本質は、たかが数百年や数千年では、変わりません。
いまでも我々は、様々な苦しみに日々つきまとわれています。
「 生・老・病・死」は言うまでもなく、
怨憎会苦(おんぞうえく)―会いたくない嫌な人と顔を合わせなければならない
愛別離苦(あいべつりく)―いつまでも一緒にいたい好きな人と分かれなければならない
求不得苦(ぐふとくく)―欲しいものが自分のものにならない
五蘊盛苦(ごおんじょうく)―この世界は五つの構成要素から出来ているが、それらがもたらす苦しみ
こうした苦しみは普遍的なものです。
最後の「五蘊盛苦」は、ちょっと分かりにくいですが、
コロナ禍でこんな形で授業を受けなければならない、といった苦しみなどがそうです。
(大学生なのに、大学に通えない、というのは苦しみでしょう?)
では、そうした苦しみは、どこから生まれるのか?
高い授業料払ってるのに、自宅学習!?
自分が思っていたのとぜんぜん違う!
パソコンも、ぜんぜん思い通りにならない!
小学生も中学生も学校に通っているのに、なんで大学生は大学に行けないの!?
―でも、もし、大学がこういうものだと初めから分かっていたら、
それほどの苦しみではないのではないでしょうか?
ブッダはこう考えました。
全ての苦しみは、「自分の思い通りにならない」ことから生じる。
上の四苦八苦のことを考えてみてください。
世の中は自分の思い通りにならないことばかりです。
では、なぜ自分の思い通りにならないのか?
それは、「自分の思い通り」ということ、その「自分の」ということ、
そこに誤解があるからです。
自分というものの誤解、これを仏教では「無明(=根源的無知)」といいます。
あなtが「自分」、「自分のもの」と思っているものは、存在しないのです。
ブッダはこう言いました。
君は何が自分だと思うかい?
君は、自分の身体を指して、この身体が私だ、と答えます。
するとブッダはこう言います。
身体が自分なら、なぜ身体は君の思い通りにならないのか?
身長があと10センチ高いといいなと思っても、そうならないだろう。
あと10キロ、やせたいと思っても、なかなかそうできない。
それに身体は病気になる。
身体が自分のものなら、なぜ病気になるのだろうか?
君が「自分のもの」だと思っている君の身体は、君のものではないのだ。
そこで、君はこう言うかもしれません。
私の心が私です。
ブッダはこう言います。
君の心が君なら、なぜ君は自分の心を思い通りにできないのか?
怒ったり、悲しんだり、勉強しようと思ってもやる気がでなかったり、
自分の心を思い通りに出来ないのは、それが君のものではないからだ。
毎日家でオンライン授業じゃ、うつ病になると君は言う。
そう、心も病気になる。
心が君のものだったら、心が病気になるはずがない。
人が「自分だ」と思っているものは存在しないという仏教の思想を、「無我説」といいます。
これは仏教の中心思想です。
そしてあらゆる苦しみは、その誤解から生じる、とブッダは言うのです。
例えば、水がなかったら、君は生きていけません。
でも、水の有り難味なんて、普通は考えません。
君の両親やいろんな人がいなかったら、君は今の君ではいられないでしょう。
でも、普通はそんなこと当たり前だと思っているでしょう。
君の身体のなかでは、今も体中の細胞がすごいスピードで再生を繰り返しています。
コロナウイルスが入ってきて、免疫細胞が戦って殺しています。
そのことを意識することは、まずないでしょう。
普段の我々は、ものすごく狭い範囲で、目先の関心だけで生きています。
そして自分中心にしか考えられないから、
いろんな愚かな事を行って、自分で苦しみを生み出しているのです。
すべてのものには原因があります。
これを「縁起」といいます。
「縁起が悪い」という言い方でしか使わないでしょうが、もともとはそういう意味ではありません。
「縁」は原因、「起」は結果です。
「あれがあるから、これがある」というのが縁起です。
ブッダが最初に覚った真理がこれだったと言われています。
「自分」に関する誤解を取りされば、余計な苦しみはなくなります。
病気になれば苦しいでしょうから、苦しいことはあります。
すべての苦しみをなくすことはできないでしょう。
でも苦しみの原因が分かれば、余計な苦しみはなくなるのです。
ブッダは、そのための方法も説きました。
その代表が、四諦の四つ目、道諦の、 八正道です。
簡単に言えば、それは、正しく考え、正しい生活をし、正しく生きることです。
そして、もっと簡単に言えば、それは、善いことをし、悪いことをしない、ということです。
仏教の教えは、単純です。曰く、
「善いことをせよ、悪いことをするな」
中国語訳で、「諸悪莫作、衆善奉行(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう)」といいます。
あるいは、
「うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、
人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。」
(『ダンマパダ』―引用は、中村元『原始仏教』から)
という美しい言い方も、ブッダはしています。
なぜ悪いことをしてはいけないのか?
悪い行為は、無意識のうちに、深いところで、その人の考え方を歪め、さらに悪い結果を生み出すからです。
例えば、君が試験でカンニングをしたとします。
次に、君は「みんな、やってる」とか「誰にも迷惑かけてない」とか呟いて
自分の行為を自分に納得させようとするでしょう。
真面目にやってる人に、「いい子ぶりやがって」と毒づくかもしれません。
それは自分がやった悪い行為が、いちばん君の魂を傷つけているからです。
逆に、何か善いことをして、誰かに感謝されると、それが君を支えて、
生きていることが善いことだと君に感じさせてくれます。
そうしたことは、心の深いところで、半ば無意識に起こります。
(そうした無意識の働きを分析するのが、大乗仏教の「唯識」(ゆいしき)です。
自分中心にしか考えられないのは、マナ識という無意識、
自分の命が起こしてる無意識が、アラヤ識。今回は省略。)
では、なぜ善いことをせよ、と言われるのか?
「生まれによって<バラモン>となるのではない。行為によって<バラモン>なのである。
行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。」
バラモンというのは、古代インドでの最高位の高貴な人。
「生まれつき」とか、「性格的に」とかでなく、行動がその人をつくる。
こういう考え方を行動主義(behaviorism)といいます。
人を善い人にするのも、悪い人にするのも、その人の行動だからです。
我々の行動の多くは、無意識に行われますが、
無意識の心の動きを変えることができるのは、まず、行動です。
では、具体的に、どんなことをすべきであり、どんなことをしてはいけないのか?
ブッダはこう言っています。
「次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。
1)生きものを殺してはならぬ。
2)与えられないものを取ってはならぬ。
3)淫行を回避せよ。
4)他人に向かって偽りを言ってはならぬ。
5)酒を飲んではならぬ。」
(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳)
道徳/倫理の基本は、だいたい同じです。
『旧約聖書』の十戒と比べてみると、
1)人を殺すな
2)盗むな
3)姦淫するな
4)偽証するな
と重なっている部分は多いですね。
でも1)は「生き物」全般ですから、キリスト教の人間中心主義を超えています。
2)も落ちているものを拾ってもダメですし、自然破壊も禁止されます。
仏教の生き方は、環境倫理の主張と通ずるものがあります。
それは人間が自然の一部であることが仏教では前提にあるからです。
自分だけで生きているのではない、ということは無我説の重要な帰結です。
(最後の「酒を飲むな」というのは、少なくとも私には、微妙です。
昔は酒の質が悪く、健康を害することがよくあったからだとも言われています。)
「自分のしたいことが何でもできる」という事が幸福の意味だとすれば、
西洋の倫理学の根底にある、「自由」と「幸福」という二つの価値は、同じものだと言えるかもしれません。
仏教はまさに、それを否定しています。
個人の自由など幻想に過ぎないのです。
自分をとりまく自然環境や人間関係のなかで、「自分」中心でしか考えられない誤解を捨て、
事実をありのまま見ることによって、正しい生き方をすること。
そのためには、自分で考えて、その場にふさわしい適切な行動をとるように努力しなければなりません。
これは、アリストテレス倫理学の主張でもあります。
「この世界は常に変わってゆく。人に頼らず、自分に頼りなさい。理(ことわり)に頼りなさい。努力しなさい。」
これが、ブッダの最後の言葉です。
今回は省略した、大乗仏教の中心思想である「空」の理論については、
下の付録3と4を読んでみてください。
付録1
ブッダの言葉(原始仏典)
「見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>に執着している。「これこそ真理である」と考えている。」
(『ブッダのことば(スッタニパータ)』中村元訳 岩波文庫)
「人々は「わがものである」と執着したもののために苦しむ。」
(『ブッダのことば(スッタニパータ)』中村元訳 岩波文庫)
「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁(よ)って起こるのである。しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない。」
(同上)
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。―車をひく(牛の)足跡に車輪がついて行くように。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う。―影がその体から離れないように。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われに打ち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われに打ち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」
(『真理のことば(ダンマパダ)』中村元訳 岩波文庫)
付録2
ブッダの最期の言葉
「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」
「わたしはいまお前たちに告げよう、――もろもろの事象は過ぎ去るものである(諸行無常)。怠けることなく修行を完成なさい。」
(中村元『原始仏教』 ちくま学術文庫)
(「法」はインド語「ダルマ/ダンマ」の訳。「法律」の意味ではない。元来は「自分を保つもの」という意味だと言われるが、ギリシャ語の「ロゴス」のように、「法則」「真理」「言葉」「存在者」といった広い意味を併せ持つ。ここでは、「私(ブッダ)の語った真理(の言葉)」という意味にも解せるが、もっと一般的に「この世界の法則=真理」と理解する方が、「あれがあるから、これがある」(縁起)というブッダの最初の説教の言葉に繋がって、よいように思う。
「島」は「洲」でもよい。海や大河の中の拠り所を意味する。また「灯り」という解釈も可能。漢訳は「自灯明」。)
ブッダは、「29歳で善を求めて出家」し、「人生の旅路を通り過ぎ」、「齢80となった」後、最後の旅に出て、
「この世界は美しい」、「精進せよ」と弟子たちに言い残して亡くなった。
(『ブッダ最後の旅』中村元訳 岩波文庫)
付録3
「空」の意味―『ミリンダ王の問い』より
「大王よ、…いったいあなたは、歩いてやってきたのですか、それとも乗り物でですか?」
「尊者よ、わたしは歩いてやってきたのではありません。わたしは車でやってきたのです」
「大王よ、もしあなたが車でやってきたのであるなら、<何が>車であるかをわたくしに告げてください。大王よ、轅(ながえ)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「軸が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「輪が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「車体が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
…
「しからば大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛(くびき)・輻(ふく)・鞭<の合したもの>が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「しからば大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛・輻・鞭の外に車があるのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「大王よ、わたくしはあなたに幾度も問うてみましたが、車を見出し得ませんでした。大王よ、車とはことばにすぎないのでしょうか? しからば、そこに存在する車は何ものなのですか?」
(『ミリンダ王の問い 1』 中村元・早島鏡正訳 東洋文庫)
(この対話は、直前の、ミリンダ王によるナーガセーナへの問いで始まる。
「あなたは誰か」という問いに、尊者ナーガセーナは、
「ナーガセーナ」という名で呼ばれているが、それは名前に過ぎず、そこに「人格的個体」は認められない、と答える。
それに対して、ミリンダ王は、誰がナーガセーナなのか、何がナーガセーナなのか、
髪の毛がナーガセーナなのか、心臓がナーガセーナなのか、脳がナーガセーナなのか、と
上のような仕方で問い詰める。
それに対するナーガセーナの反論が、上の対話である。
その結論は、
「轅に縁(よ)って、軸に縁って、輪に縁って、車体に縁って…、『車』という名称・呼称・仮名・通称・名前が起こるのです。」
つまり、縁起(=関係性)によって存在するのであって、実体は存在しない、というのである。)
付録4
大乗仏典(『般若心経』(大本)中村元・紀野一義訳 岩波文庫)
このように私は聞いた。あるとき世尊は、多くの修行僧、多くの求道者とともに、ラージャグリハ(王舎城)のグリドゥフラクータ山(霊鷲山)に在した。そのときに世尊は、深遠な知恵のさとりと名づけられている瞑想に入られた。そのときすぐれた人、求道者アヴァローキテーシュヴァラは、深遠な知恵の完成を実践しつつあったときに、見きわめた、―存在するものには五つの構成要素がある―と。しかも、彼は、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見ぬいたのであった。そのとき、シャーリプトラ長老は、仏の力を承(う)けて、求道者アヴァローキテーシュヴァラにこのように言った。「もしも誰かある立派な若者が深遠な知恵の完成を実践したいと願ったときには、どのように学んだらよいであろうか」と。こう言われたときに、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラは長老シャーリプトラに次のように言った。
「シャーリプトラよ、もしも立派な若者や立派な娘が、深遠な知恵の完成を実践したいと願ったときには、次のように見きわめるべきである―《存在するものには五つの構成要素がある》と。そこで彼は、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないということである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリプトラよ。この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ。実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。目もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。目の領域から意識の領域に至るまでことごとくないのである。
(覚りもなければ)迷いもなく、(覚りがなくなることもなければ)迷いがなくなることもない。かくて、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。
それゆえに、シャーリプトラや、得るということがないから、求道者の知恵の完成に安んじて、人は心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、転倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
過去、現在、未来の三世にいます目覚めた人々は、すべて、知恵の完成に安んじて、この上ない正しい目覚めを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。知恵の完成の大いなる真言、大いなる覚りの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。
その真言は、知恵の完成において次のように説かれた。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)
シャーリプトラよ、深遠な知恵の完成を実践するときには、求道者はこのように学ぶべきである―と。
そのとき、世尊は、かの瞑想より起きて、求道者・アヴァローキテーシュヴァラに賛意を表された。「その通りだ、その通りだ、立派な若者よ、まさにその通りだ、立派な若者よ。深い知恵の完成を実践するときには、そのように行われなければならないのだ。あなたによって説かれたその通りに目覚めた人々や、尊敬さるべき人々は喜び受け入れるであろう。」と。世尊は喜びに満ちた心でこのように言われた。長老シャーリプトラ、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラ、一切の会衆、および神々や人間やアスラやガンダルヴァたちを含む世界のものたちは、世尊の言葉に歓喜したのであった。
ここに、知恵の完成の心という経典を終わる。
(黒字の中間部分が、通常の般若心経
シャーリプトラ(=舎利子はブッダの一番弟子みたいな人)と
「求道者(菩薩=「悟りを求める人」)アヴァローキテーシュヴァラ(観音=「世の中の声を聴く人」)の対話部分を取り出したもの
課題
400字程度で、述べなさい。
「仏教の観点から、なぜ身体を売ることが善くないのか、先週の学生に、言いなさい。」
(「身体は自分のものではないから、売れない」という答は、なし。
「淫行は避けろとブッダが言ってるから」もダメ。その理由を訊いています。)