べじたりあんふと思う


すぴりちゅある



★2006. 8. 1 〜

M 2007. 6. 1 fri.   究極の許し
L 2007. 4.13 fri.   マスタリー・フォア・サービス
K 2007. 4. 3 tues.   なんでこうなるの?
J 2007. 3. 6 tues.   この世で一番うまいもの
I 2007. 2. 6 tues.   からだをおろそかにしない
H 2006.10.26 thur.   どこで生きようと
G 2006. 9.13 wed.   「わたし」からの解放
F 2006. 9. 7 thur.   次の瞬間すべてを失っても
E 2006. 8.31 thur.   ブレサリアン化の暁
D 2006. 8.21 mon.   ジグソーパズルをひっくリ返す
C 2006. 8.17 thur.   消化のスピード
B 2006. 8.15 tues.   月のまわりの大きな天使の環
A 2006. 8.15 tues.   セミの羽化
@ 2006. 8. 1 tues.   太陽との交信




M 2007. 6. 1 fri.   究極の許し


わたしが今こうして存在することは、究極的に許されている。
すべての存在が究極的に許されてそこに在ると思う。

わたしが許されるのと同じように、
わたしもみんなに究極の許しを与えんといかん。
どんなに悪くても、どんなに間違っていても、
どれだけ傷つけられても、
どれほどの理不尽な言葉を浴びせられたとしても、
もう絶対許されへんわと思ったとしても、

究極の許しを与えんといかん。

許せんまま、怒ったまま、恨み憎んだまま、見くだしたまま、軽蔑したまま、
小ばかにしたまま、存在を否定したままで、交流すべきではない。

先ず、究極に許す。
話はそれから始まる。




L 2007. 4.13 fri.   マスタリー・フォア・サービス


(mixi 2007年04月09日00:57) sipoちゃんへのコメントより

わたしたちひとりひとりが生まれながらに背負っているものはとても大きいと思います。
それらをいかに乗り越え学び成長してみんなのために生きていけるか。
奉仕への練達。ひとはこの意識で動くときとても幸せだと思います。


わたしにおとずれる試練は、わたしの成長のためにあります。
わたしの成長は、みんなのため全体のためにあります。

全体に望まれてそれぞれに与えられる試練。

ひとつひとつの課題を乗り越えていった先に、
ひとりひとりの使命としての動きがあります。

みんなのためにわたしが存在し、全体への奉仕のために鍛えられ成長していく。
この意識と幸せの度合いは連動しているような気がします。




ちなみにわが母校である関西学院大学のスクールモットーは、
“Mastery for Service ”
「マスタリー・フォア・サービス(奉仕のための練達)」であります。




K 2007. 4. 3 tues.   なんでこうなるの?


なんでこんなことが起こるのか。
なんでこんなことになってしまったのか。
どうしてこんなめにあわなければならないのか。
どうしてこんな思いをしなければならないのか。

なんでこうなるの?

無意味に起こってくることなんて、
不必要に起こってくることなんて、
ないとおもうから、

なんでこんなことになったのか、
自分の動きに問題はなかったか、
やるべきことをやっていたか、
いま何をすべきか、どうしていくべきか、
これを通して何を学ぶべきなのか、
どう成長していくのか。

ひとつひとつ、課題と思って、正面から問題に向き合って、
ひとつひとつ、丁寧に乗り越えていきましょう。





J 2007. 3. 6 tues.   この世で一番うまいもの


不食を思う日々のなかで、
野菜もあんまり食べなくなって、
玄米もほとんど食べなくなっていたころ、

お友達に白米を食べさせていただく事がたまたま続いて、
一気に、白米のおいしさに目覚めてしまった。

やっぱりお米は美味しいなぁ。

その頃に、ある程度の結論が出た。
今もそれは変わらない。

結局、この世で一番うまいものは お米 だ!


他には何もいらない。

それをどこまで味わえるか、どこまで楽しめるか、
どこまでわたしの身になるのか、どこまで満たされていくのかは、

わたしたちサイドの問題で、それは究極的に自由だ。




I 2007. 2. 6 tues.   からだをおろそかにしない


菜食化の場合、
「肉食ってたらあかんな」という考えに至る残酷で悲惨な動物たちの現実がある。
それは、もう相当あからさまにあるといえる。
見えにくい隠された現実だったものが、本人のアンテナ次第といえる所まできている。
それだけ菜食やベジタリアンが身近になった。

不食化の場合
「食べないほうがイイ !!」という考えに至る現実は、
実際に「食べない」方へ向かう過程であからさまになる。

本当に自分にとって適量なのかと疑ってみましょう。
単に菜食や壱食や微食や不食がイイ !!ということではなくて、せっかく「わたし」に与えられた肉体なのですから、食欲の犠牲や習慣の犠牲にするのではなく、感謝といたわりの気持ちをもってできる限りからだの声を聞いて最大限に生かしてやらねばならんと思います。




H 2006.10.26 thur.   どこで生きようと


どこで生きようと
わたしにとっては、すめばみやことなるでしょう。

どんな場所でも、
すべては、その場所ではなくて、
その場所に生きるわたしにあるのでしょう。

わたしは、
わたしに与えられた場所で、
わたしで在り続けます。




G 2006. 9.13 wed.   「わたし」からの解放


すべてを手放す準備ができたとき、すべてが動きだす。

失うものは何もないから、恐いものは何もないから、
わたしの本当の動きが始まる。




F 2006. 9. 7 thur.   次の瞬間すべてを失っても


次の瞬間すべてを失っても、かまわない。

わたしの持つすべてをうしなっても、
わたしというものがなくなってしまっても、

それでいい。




E 2006. 8.31 thur.   ブレサリアン化の暁


2006.7.4 に、お友だちに送ったメールより
ブレサリアン(breatharian)はね。
きっと、ブレサリアン化した暁には、
特に何もないんじゃないかと思うの最近。

ブレサリアン化したからどうこうではなくて、
ブレサリアンについて考える今、
ブレサリアン化しようと思ってる今、
ブレサリアン化に向かってる今、
こうしてメールを送ってる今、
ブレサリアン化の過程である今にすべてがあるんじゃないかと思う。

過程でいろんなことに気づくんじゃないかな。
いろんなことを感じたり考えたりするんじゃないかな。
その時、その瞬間、その感覚。それがすべてと思うです。

ブレサリアン化の過程でそういうことも見えてきて、
ブレサリアン化の暁などに夢を描くのをやめていくのかもです。
ブレサリアン化の暁には特に何もなくて、
ブレサリアンですが何か?的な境地にあるのかもです。

その境地ゆえにブレサリアンたることを許されるかのかもです。





D  2006. 8.21 mon.   ジグソーパズルをひっくリ返す


完成に近づいてきたパズルをぐちゃぐちゃにできる人間は強いと思う。
それは、今までの私に執着しない人だということだから。
1000ピースのパズルをぐちゃぐちゃにして、やり直したら、
人間のパズルの場合は、完成が近づくころにはピースが増えてるんだ。
1200ピースとか1500ピースとかにね。

ある程度安定してきても、新しい出会いとか本とかによって、
どんどん新しい刺激は入ってくるわけで、
今、できあがりつつある自分を守ろうとするばかりに、
自分と違うものを遠ざけたりしていると、人生に新たな展開も寄ってこなくなって、
その人は、ハイそこまでの人、という感じになっちゃうと思う。
完成した「わたし」というパズルに、のりを塗って固めてはダメと思う。

なぜなら、私の可能性や存在の意味は、
私の思考でもって勝手に制限されるべきものじゃないから。
うん。だから、無制限にガツガツ向上心をもって生きろ、というんじゃなくて、
ガツガツもっともっとでは無しに、勝手に脳味噌で制限かけたりしないで、
もっともっと自分自身を無執着で最高にフリーな状態にしておいて、
そういう自分に起こってくる新しい展開などの流れをありのまま受け入れて動く時、

その動きは、
 すべて が 私 に求める動きであって、
 私 が すべて のために動けていて、
 私 は すべて であって、
 すべて のいちぶである 私 は、
 私 の すべて のための動きによって、
 すべて と共に満たされて幸せと思う。




C 2006. 8.17 thur.   消化のスピード


壱食タリアンのせいか、ベジタリアンのせいか、ブレサリ志向者であるせいか。
それとも単なる体質か。

うすうす感じてはいたんだけども、
どうやら、消化のスピードが著しく早いらしい。

食べてから、消化吸収を経て排泄にいたるまでの時間が、たぶん、著しく早い。
反応が早い。
腸にいらぬものを残しておかないという体の意気込みが伝わってくる。

壱食タリで生きるときの排泄ペースがある。
食べたら、数時間後に排泄準備が整う。

東京に行くたびに、おなかの調子が悪くなるのは、
食べ過ぎによる消化不良というよりも、
排泄が追いつかなくて、いつもにない腸の重苦しさを感じるためであると思う。

今回の東京旅行中も、豆にトイレに行くよう心がけたけれど、
なかなか、そうそうタイミング良くトイレがあるわけでもなく、
腸の重みが消えていったのは、帰宅後、2日ほどたった頃でした。


注 : 事情により東京旅行中は3食いただきました。(3日間で約10日分)




B 2006. 8.15 tues.   月のまわりの大きな天使の環


あの、月のまわりの環を見たことが、大きかった。

そんなふうに、ふと思った。
短期間に2回も見て、心底感動した。
月が、メッセージを送ってる感じだった。
言語化されないので、兎に角感じるだけだった。

いつ頃だったかと、HPを振り返ってみてみると、
去年、2005年の11月頃だった。

あの頃から、月が語りかけてくるようになった。
月が大好きになった。

月曜日生まれだと知った。
わたしは月だと知った。


大きな天使の環は、「月のかさ」、「月暈(つきがさ、げつうん)」などと呼ばれる現象だった。

現象は、明らかに外側で起こった。けれど、
たぶん、きっと、内側で起こっていたんだと思う。
同時だと思う。

最近、太陽がガンガンなのは、
同時に、わたしの内側がそうであるからだと思う。

太陽を感じれる状態にようやくなりつつあるんだと思う。

既にそうであるものに対して、
わたしがどれだけ開いているかであると思う。




A 2006. 8.15 tues.   セミの羽化


8月あたまだったかな。

セミの、たぶんクマゼミの、幼虫が門柱を登ってくのをみたよ。

夜中の12時ころだったかな。
はじめてみた。
6本の足で、器用にロッククライミングしてた。

足が左右に3本づつある意味が、なんとなくわかった。

幼虫(ってか羽化前の成虫?)はデカかった。抜け殻で見るよりもだいぶ大きく見えたし重量感があった。ふだんはスカスカだから、ずっしりした感じに違和感があった。

重たそうな胴体を、ゆっくり、しかし、着実に、うえへうえへ、持ち上げる。


翌日、おなじ道を通って帰宅。
気になって、みてみると、抜けてた。門柱の上のほうで。

急に変な気がしてきた。



わたしたちは、これを経験するんだな。



この絶妙なタイミングで、いちいち、セミの羽化を見せつけてきやがった。
2012。わたしは結構楽しみにしてます。

すべてを受け入れます。




@ 2006. 8. 1 tues.   太陽との交信


最近、太陽が語りかけてくる。


ちょっと前まで、月だったんだけれど、

太陽が、ガンガン語りかけてくる。


脳味噌ではなくて、

全身で、感じる。


こんなこと、いままで無かった。
新しい。


今日なんか、すごかったよ。

太陽と月の共演。

美しかった。


すべてが、そこにあった。幸せだった。







とっぷぺーじへGO!