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モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全
体に語った後、
水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、 契約の書自体にも民全体にも振りかけ、 「これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である」と言いました。 また彼は、幕屋と、礼拝に用いるすべての用具にも同様に血を振りかけました。 律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。 血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。 ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、 天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、 きよめられる必要があります。 キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、 天そのものに入られたのです。 そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、 キリストはご自分を何度も捧げるようなことはなさいません。 もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、 何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。 しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、 ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、 二度目には、罪を負うためではなく、 ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。 〜詳しくは聖書をご覧ください〜
(新約聖
書 へブル人への手紙
9章19〜28節)
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牛津
キリスト集会