妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第二百一話:ケモミミ(リアル)のことはケモミミ(仮)に任せるに限る
 
 
 
 
 
 その書物に魔を集めよ――。
 魔道書を守護するものとして、いつから存在するのか、そもそも誰が自分たちを生み出したのか。
 幾星霜を生き、転生を繰り返しても、その存在目的に変わりは無く、常に自分たちは魔道書と共にあるものであった。
 無論、その置かれた境遇に共通性などなく、あらゆる場所での生を繰り返してきた。
 たとえいかなる場所であろうとも動じる事は無い――筈だった。
 ここへ来るまでは。
 なのはが地に小さな魔方陣を描いたことも、その中へフェイトを背負った自分諸共吸い込まれ他ことも、シグナムにとっては何ら驚くに値しない。
 だが、植物で囲まれた敷地内に立った途端、シグナムの全身を強烈な悪寒が走り抜けたのだ。
 手足に一瞬で鳥肌がたった事を自覚したのは、いったい何時以来だったろうか。
 総毛立ってくる我が身を抑えようと、呼吸を整えようとしたシグナムの目に映ったのは、緊張どころか平然そのもののなのはであった。
「き、貴公は…なんともないのか?」
「え?」
 きょとん、とした表情で聞き返すなのはに、周囲から漂う妖気に反応している様子は微塵もない。
(なんなのだこの邪悪な妖気は…。しかもここには…血の臭いがする…)
 妖気を発する物がある、とかそんなレベルではなく、それは四方八方から押し寄せてくる錯覚すら起こさせるほど周囲に満ちていた。
 無論、シグナムは知らない。
 見た目には、何の変哲も無い手入れの行き届いた垣根だが、侵入者に対しては、重火器をはるかに上回る防御力を発揮することを。
 シグナムが感じ取った通り、この植物たちが幾多の屍を作り出し、その血を吸って邪悪に輝いていることなどは、知りもしないのだ。
「…さて、高町なのは。ここからどこへ向かうのだ?」
「玄関はこっちです」
 歩き出したなのはの後に続こうとした瞬間、
「おーっと、動いちゃだめよう」
 背後からドスの利いた声がした。
「動いたらアンタの首、へし折れるからねい?」
(!?)
 男にしては気持ち悪い声だが、背後から浴びせられる殺気は本物だ。
 だが、いくらフェイトを背負っていたとはいえ、声が掛かるまで、シグナムは全く相手の存在に気付かなかったのだ。
 自分達と同様、どこからか転移してきたのかとも思ったが、男の位置からしてあり得ない。
「アンタ、黒ちゃんの敵よねい。おっぱい採られて大人しくしていればいいのに、わざわざおやつ持って来るなんて、イーイ度胸よねーい!あ、お嬢ちゃん。あんたは行っていいわよ」
「で、でもフェイトちゃんが…」
 事態が分からず振り向いたなのはだが、初めて見る派手なオカマに、やや引き気味である。
「ああ、この黒ちゃんのおやつね。だーいじょうぶ、あちしがすぐに持って行くから。その前にあちしがこいつの首落として――」
「ボン・クレー、構わないよ」
 どこからか、邪悪な声がした。
 シグナムは視線だけ周囲に飛ばしたが、スピーカーやカメラの類いはどこにも見当たらない。
「黒ちゃん、本当にイーノ?ガキンチョ二人だけ、あちしが持って行くわよぅ?」
「君の手に委ねては、不利を承知で運搬役をつとめたヴォルケンリッターの騎士に、なのは嬢の面目が立つまい」
 それだけ言うと、通信の途切れる音がした。
(?)
 黒瓜堂の主人の言葉に、シグナムの表情が動く。
 前回とは違い、黒瓜堂の言葉にはあしらうようなものが微塵もなかったのだ。
(どういうことだ…)
 答えが出るはずもない自問は、背後からの言葉で断ち切られた。
「黒ちゃんがああ言ってるから行かしたげるわ。でもアンタ、黒ちゃんに指一本触れたら――生まれてきた事を後悔するわよぅ?」
 背後の殺気と共に、人の気配もそのまま消えた。
「じゃ、じゃあシグナムさん、行きますよ」
「あ、ああ」
 なのはの後に続き、まもなく着いた先は洋室であった。
 部屋はさして広くないが、置かれた家具が事務机と椅子のみ、そして窓の配置が部屋を妙に広く感じさせる。
 どういう使用目的なのか、机上には書類や電話機など、一切の物が置かれていないのだ。
「く、黒瓜堂さん、おじゃまします」
 頭を下げたなのはに、黒瓜堂は軽く片手を挙げて応えた。
 シグナムも、何も言わず軽く頭を下げる。
 理由はどうあれ、さっきはこの男のおかげで助かったのだ。
 あの声がなければ、死亡はともかく、到底無傷では済まなかったろう。
「魔法少女と魔法騎士がようこそのご入来だ。さてなのは嬢、開発し過ぎたかな?」
 すうっと赤くなってから、ぶんぶんと首を振ったなのはを見て、シグナムはなのはとフェイトの関係を朧気に察した。
「あのっ、フェイトちゃんもすっかりお尻に指…じゃなくてっ!黒瓜堂さん、大変なんですっ!フェイトちゃんが、フェイトちゃんがっ!」
「承知している。主に、生命に関わる程の痛打を浴びせる気がなかったのは幸いだったかな。床へ寝かせて」
「!」
 見た目には汚れていないが、治療器具どころかベッドすらない床へ寝かせるよう指示され、シグナムは無論、なのはも一瞬躊躇したが、黒瓜堂はもう一度促す事はしなかった。
「しょ、承知した…」
 刹那、躊躇ったものの、結局背負っていたフェイトを腕に抱き、そっと床へ寝かせる。
 シグナムが下がった次の瞬間、音もなく床が動き始めた。
 左右に開いた床がフェイトを吸い込み、また元の位置へ戻るのをシグナムとなのはが、半ば呆然と見つめていたが、床が開く寸前、黒瓜堂がすっと手を挙げた事には、二人とも気付いていなかった。
 無論、その手には通信機など握られておらず、指輪のようなものも見当たらない。
「通常の治癒術では五精使いには及ばないが、霊的なものなら彼を超える子が知り合いにいてね。今日は運良く滞在中だ。どちらにしても、数日で回復するだろう。で、どうするね?」
「え?」
「君達に提供したあの部屋には、幾つかの仕掛けがあってね。君があの娘の服を剥いだ時、外傷はなかった筈だ。違うかな?」
「そういえば…フェイトちゃんの裸はとても綺麗でした…あっ」
 身の置き所に困ったような表情をしているシグナムに気づき、なのはが小さく声を上げたが、黒瓜堂は気にした様子もなく、
「うちの店員が魔界の入り口までお送りした時も、傷はつけていない筈だ。つまり、おそらくはジュエルシード回収に失敗したことで、主から責められたのだ。このまま返しても、同じ事になると思うが――どうしたね?」
「わ、わたしの…私のせいでフェイトちゃんがあんな…あんな…」
 フェイト負傷の原因が、黒瓜堂の言うとおりだとすれば、もし傷が治ってもまた同じ事になりかねない。
 ユーノに頼まれて決意したとはいえ、フェイトの怪我は自分が原因だと、なのはは泣きそうな表情になっている。
「それは否定しないが」
 なのはを慰めようともせずあっさりと肯定し、
「君の自責が正しいかどうかは、確かめてからでも良いでしょう」
「た、確かめる?」
「本拠地を聞き出して、私とシンジ君で家庭訪問してきますよ。映像は繋いでおきますから、君は見物しているといい」
「聞き出すって、あのっ…フェイトちゃんに酷いこととか…」
「その必要はない。先日、君たちの熱いプレイに触発されたケモミミ娘が、リアルケモミミをゲットしてきた。拷問するだけが聞き出す術(すべ)ではないから、安心するといい。ケモミミのことはケモミミに任せるに限る」
「は、はい…」
 頷きながら、何やらいかがわしい事を言われている、と早熟な魔法少女はぼんやりと感じ取っていた。
(ケ、ケモミミって何だろう…)
 可愛らしく小首を傾げたなのはから視線を外し、
「乳拓を採られて、二度と顔は見せまいと思ったが、何用で来られたかな」
「…え?」
(乳拓を抑えられたから…来ない…と?)
 言葉の意味を解するのに数秒を要し、理解した後も脳がそれを受け入れる事を拒み、烈火の将は小さく口を開けたまま、その場に立ち尽くした。
 
 
 
 
「ちょ、ちょっとあんた、何言ってるのよっ」
 アスカがシンジの手から反射的に電話機を取り上げると、
「あのっ、オーナーアスカですっ。お金とか、一円も要らないのにうちの馬鹿がすみませんっ」
 確かに金銭など一銭も発生しない事案だし、そんな事でシンジに要らぬ負担をかけてはならない、との思いがアスカを反射的な行動に移らせた。
 アスカの両親に請求された金額からは大幅に減額されたとは言え、シンジが数億円の金額を躊躇いもなく引き受けたことを、アスカは無論忘れていない。
 一生忘れないだろう。
 フユノに頼むことなく、独力で稼ぎ出せる能力があるとは言え、小娘の失態に対して、はいそうですかと首肯する金額ではない。
 だが、
「うちの馬鹿が、とは?」
 返ってきた声はいつも通り邪悪で――明らかに冷ややかなものであった。
「オ、オーナー?」
「君がうちをどう認識しているのかは知らんが、うちは碇家の現金自動支払機(ATM)ではない。用立てを依頼するのは勝手だが、何らかの形で利息は支払ってもらう。無論、今回の件もそうだ。君たちの為になら、私の出す要求は全てのむ覚悟で私に依頼した管理人を、他の娘ならいざ知らず、君が蔑ろにするとはね」
「わ、私は…」
 無論、アスカにそんな発想はない。
 ただ、絶対不可欠の場面ならいざ知らず、金銭の必要性など皆無の状況で、シンジに余計な負担を負わせるわけにはいかない、との乙女心から出たものだが、雇用主にはまったく明後日の方角で受け取られたらしい。
 言い訳をすることも出来ないアスカに、
「君を雇用したのは時期尚早か、或いはそもそもが誤っていたのか。いずれにせよ君には――」
 黒瓜堂の台詞は、最後まで吐き出されることはなかった。
「ちょ、ちょっと待つクマー!」
 今度は、シンジがアスカの手から電話機を奪い取ったのだ。
 いや、自分の物だから奪還と言うべきか。
「旦那。この馬鹿と、仲魔の愉快な馬鹿共には、某からよーく、よーく言って聞かせますので、その儀だけはどうか、どうかお待ちを」
 頼み込むシンジの姿を見て、優しいんだ、と単純に感心している者、先走ったのはアスカなのに、なんで私たちまで愉快な馬鹿、で括られているのかと複雑な表情をしている者、と娘達の反応は分かれていたが、
「まあ、いいでしょう。明朝、君が一人で来るように」
 シンジの反応を待たず通話は切れたが、ふうっと息を吐いたシンジの表情には、安堵の色がある。
「シ、シンジ、あたし…」
 半分、涙目になっているアスカの頭を軽く撫でたシンジの口から、アスカを責める言葉は紡ぎ出されなかった。
「あの〜、碇さん?」
 そっと手を挙げたのは、さくらであった。
「何?」
「その、どうして全部聞く前に、携帯を取り上げたんですか?」
「もう来るな、と」
「『え?』」
「その言葉が最後まで出たらもう、それを覆す術は俺にはないからね。君たちにも、今一度言っておく。旦那の口から、何かを決定する言葉が出てしまえばもう、それを翻意させるのは極めて難しい。ただ、出る前なら、結構なんとかなったりする――らしい、とは聞いた事がある」
「ふうん、そーゆーものなんですか〜」
「そーゆーモンです」
 織姫に頷いてから、すみれに向き直った。
「で、用は済んだの?」
「え、ええ…お詫びしたかっただけですから」
「ん?」
「『え?』」
 僅かに首を傾げてから、
「それで、君らの目的は達成されたのですか?」
 一つ一つの単語を区切るように、ゆっくりと訊ねた。
「え?で、ですからお詫び…を?」
 あいにく、ここにはマリアもレニもいない。
 シンジの意図をはかりかね、少女達は顔を見合わせたが答えは出なかった。
 シンジの首が更に傾くと、少女達の首もつられて傾いていく。
 やや傾いてから、ふっと元に戻り、
「質問が悪かったようだ」
 ぽむっと手を打った。
「俺の部屋へ侵入して、目的は達成できたの?」
「あ、そのお話でしたの?それは…その…ねぇ?」
 やっとシンジの意図を理解した娘達が、顔を見合わせてうっすらと赤くなる。
 スパパパン!!
「『いったーい!』」
「合否を訊いてるんだ。何を赤くなってるか、気持ち悪いんだよ!」
「気持ち悪いとかゆーな!まったくもー、碇さんはいっつも野蛮人デース」
「ねー」
「まったくですわ」
「……」
 さすがにアスカは、シンジの糾弾には参加せず見物人と化していたが、シンジの手がそっとハリセンを握り直したのを見て、慌ててすみれの袖を引っ張った。
「なんですのアス…あ」
 アスカの視線の先にあるものに気づき、ケホンと咳払いしたすみれが、僅かに顔を赤らめたまま、
「さ、さすがに四人が一緒だったので…ちょ、ちょっと狭かったですわ…」
「つまり、俺に悪夢を見せることには成功したけど、別にそれが目的ではなかった、と」
 娘達が揃って頷く。
「ふーん」
 それをどう取ったのか、シンジは暫く宙を眺めていた。
 沈黙にたまりかね、お茶でも入れましょうかと、さくらが言いかけた時、
「再チャレンジしてみる?」
「『?』」
「もう一度泊まりに来るか、と聞いてるんです」
「『…ふぇ?』」
 奇妙な声が重なった数秒後、同時に声を上げかけて、慌てて互いの口をおさえる。
 自分たちの思い人が、屡々突拍子もないことを言い出すのは理解しているつもりだったが、普段は恋愛どころか、そもそも異性としての認識すらされているのか、今ひとつ怪しい言動ばかりの為、嬉しさよりも驚愕の方が大きかったのだ。
 がしかし。
「ほ、ほんとに?」
「うん」
「ほんとのほんとに?」
「イエス」
 さくらとすみれの重ねた問いに頷いたシンジの表情には、乙女を部屋に招く風情が全く見られない。
(なんか…やな予感がする)
 疑惑は口に出さず、
「あ、あの…どうして喚んでくれるの?」
 訊ねたアスカに、
「傷心で戻った日の晩とはいえ、俺に全く気付かれずベッドに潜り込むとは、衣装にそれだけの細工がある筈。是非、再現してみたいんだ」
(…ん?)
「それってつまり、私たちの身体(なかみ)には興味が無い、ということデスか?」
「そんなモン、あるわけないじゃない。なんで俺が君らの…あ」
 ゆらあ、と幽鬼のようにふらりと立ち上がった娘達を見たとき、シンジは失言を悟ったがもう遅い。
 
 ゲシゲシ!
 
「ちょっとは気を遣おうって気は無いんですかっ!」「す、少しは優しくしてくれても良いんじゃありませんの!」「ったくもー、日本の男は役立たずデース!」
「誰が役立たずじゃ!」
 袋叩きに遭っていたが、織姫が余計な事を口走ったせいで、サッカーボールと化していたシンジがムクッと起き上がった。
 さすがに、今度はハリセンを振り回す事はせず、
「ま、まあ、あれだ。ちょっと言い過ぎたかもしれない。が、片っ端から住人に欲情するような管理人では困るでしょ?ということで、君らへの欲情の話は終わり」
(むー!)
 アスカ以外の三人は、シンジの前で痴態を晒している。
 すみれは陰毛を剃り落とされたし、織姫とさくらは女同士で股間を押し合わせる痴戯に誘導されている。
 三人があまり強く言えないのは、全くもって眼中にない、というほどではないと、身を以て知っているからだし、アスカはアスカでさっきのことが未だ尾を引いている。
 黒瓜堂の地雷を踏んでいなければ、踏みつけるのではなく吊していたかもしれない。
「じゃ、話を戻しますよ。君ら、来るの?来ないの?」
「い、行くと言ってるでしょう!」
 ビシッと指が突きつけられたが、行く、とは未だ誰一人として言っていない。
「分かった。じゃ、あとは君らで適当に決めておいて。俺の条件は二つ。四人セットでないこと、旦那にもらった服を着ること。さすがに人数が変わらないと狭いからね。OK?」
「『Sir,yes,sir』」
「じゃ、そういうことで」
「『あい』」
 腰を浮かせたシンジに、
「今晩、お邪魔してもいいデスか?」
「今日は用があるんだ」
 織姫が訊ねたが、あっさりと却下された。
「ふうん、じゃ仕方がないデスねー」
 と、そこで止せばいいのに、
「そんな急に言っても、碇さんだって予定があるでしょう。今日はアイリスですか?」
「……」
 さくらの台詞に、立ち上がりかけていたシンジの動きが止まった。
「その話はアイリスから?」
 表情も口調も変わらない。
 が、さくらは自分が地雷に足を掛けたことを知った。
(し、しまった…!)
 黒い翼と尻尾を生やした生き物が、さくらの背後で宙に浮遊しながら、何かで背中をさわさわとなぞってくるような気が、さくらにはした。
 触れてはならぬ公然の秘密項目だったらしい。
 情報源はマリアだが、なぜマリアがそれを?、と聞かれたら首を吊るしかなくなる。
 シンジのベッドを奪い合い、すみれとはしたなく股間相撲を繰り広げた挙げ句、最後は乳首を吸い合ったまま眠りこけてしまったところをマリアに見つかった、などとは死んでも言えない。
 シンジと二人きりならいざ知らず、ここにはアスカと織姫もいるのだ。
「さくらちゃん?」
 視線は向けられぬまま重ねて問われ、唇は勝手に動いていた。
「マ、マリアさんに…お、教えられたんです…」
「そうか、マリアの仕業か。余計な事を宣伝する隊長には、お仕置きしないといけないね」
「『……』」
(なんで?)
 無論、アスカと織姫はその場にいなかったから、どういう経緯でさくらがそれを知ったのか、そしてマリアがそれを教えたのかは知らないが、シンジの琴線に触れたらしい理由が分からない。
(ロリで毎晩酒池肉林?)(あんた、マジでぶっ殺されるわよ)
 二人は中身が分からないから口が出せず、さくらはというと完全に硬直している。
「さて――」
 シンジが立ち上がったところへ、
「もぅ、碇さんてば、怖い顔やですわ」
 すみれの鼻にかかったような甘い声に、シンジの動きが止まった。
「…すみれ?」
「ほら…その、碇さんが巴里に行っておられた時、わたくし達があんまり占領していたから、程々にとマリアさんが言われたんですの。おかしな事ではありませんわよ?」
「ほほう?」
 宙を見上げること数秒、その口が何を紡ぎ出すのかと、さくらにはまるで刻が止まったかのような気さえしたが、
「分かった」
 シンジはあっさりと頷き、さくらは心から安堵した。
 まだ表情が幾分強張っているさくらに、すみれは目で頷いてみせた。
(分かってますわよ、さくら。女同士の秘密、でしょ?)
(すみれさん〜)
「じゃ、用は済んだので、この辺でお開きにしよう。アスカはちょっと残って」
「え?あ…うん」
 さっきはさっさと立ち去りそうな気配だったが、何やら気が変わったらしいと、アスカは素直に従った。
 三人がぞろぞろと出て行くと、シンジは再度ソファに腰を下ろし、指で自分の横を指した。
(す、座るのかな?)
 おずおずとシンジの横に座ったアスカが、次の瞬間、あっと小さな声を上げた。
 肩を抱かれたと思ったら身体が横倒しにされ、気付いた時にはもう、頭はシンジの膝に乗せられていたのだ。
「さて、言いたいことはある?」
(え…)
 内心で首を傾げたが、すぐにさっきの事だと気付いた。
「あ、あのね…その、ありがと…」
 にゅう、と伸びてきた手がアスカの頭をよしよしと撫でる。
「ごめんね、などと口走らない理性は残っていたな。安心したよ」
 どうやら、試されたらしい。
 謝る事も一瞬脳裏を過ぎったのだが、わざわざ呼び止めて謝らせるような性格はしていないと、短い付き合いながらアスカは何となく理解していた。
「あ、あの〜」
「なに?」
「も、もし謝ってたら…!」
 シンジは黙って親指を立てて横に曲げ、そのままくいっと横に動かした。
(うげ!)
 どう見ても、首を斬られるポーズである。
「で、でもシンジ…」
「ん?」
「お、怒られるのは分かってる。でも…やっぱりごめんね。あたし…シンジほど強くないから…」
「……」
 アスカの言葉をどう受け止めたのか、シンジはすぐには反応しなかった。
 何も言わず、黙って柔らかなブルネットを指で梳いている。
(な、何か言ってよ…)
 激情に身を任せるタイプではないと分かっていても、無反応でいられるとやはり怖い。
 どれだけの時間が経ったのか、漸くシンジが口を開いた。
「アスカ、覚えておくといい」
「は、はい…」
 アスカの身体が一瞬硬直する。
「君らの管理人は強くなどないよ――あの時から、そして――今も、ね」
(え!?)
 アスカの耳元で、囁くように告げると、そのまま何もなかったかのようにアスカの髪を梳き続けるシンジ。
 失望した、とか、或いは怒られるとばかり思っていたのに、シンジの口から出たのは、思いも寄らない言葉であった。
 が、言葉の真意を問い質すことは出来なかった。
 髪を梳かれている内に、わらわらと睡魔が襲ってきたのだ。
 黒い翼を生やしたそいつらがアスカの意識に群がり、ワサワサと漆黒の闇の中へ連れ去っていく。
 アスカがすやすやと寝息を立て始めるのを確認すると、シンジはそっとアスカの髪から手を離し、入り口へ視線だけ向けた。
「仲魔が心配かな?大丈夫、お仕置きなどしていないよ。安心しておやすみ」
「『!』」
 硬直した気配が伝わって来たかと思うと、
「『おっ、おやすみなさいっ』」
 うわずった声が三つ重なり、足音がパタパタと遠ざかっていく。
「君ら、何だかんだ言っても良い仲魔だよな」
 仲間、ではなく仲魔であるところがシンジらしい。
 良い友人関係だと暢気に感心していたシンジだが、実状はそんなにほのぼのなどしていなかった事など、知りもしないのだ。
 
 
 
 その日の夜更け、シンジの姿は新宿の夜空にあった。
 アスカは部屋まで背負っていって寝かせたし、珍しく一人でやって来たアイリスも、シンジに抱きついたまま寝入ったところを置いてきた。
 眼下には繁華街が広がり、煌びやかな夜の蝶達と、それに群がる男達の絵図がそこかしこに見られる。
 その一方では、懸命に逃走する小さな魔物と、それを追い立てる用心棒らしき男達の逃走劇が繰り広げられている。
「強くなんか…ないさ」
 それを見ながら、シンジがぽつりと呟いた。
「強くなった坊やが、納得ずくで散っていた親の死に様を聞いて、発狂などするかい」
 発狂まではしてない。
 が、夫婦二人して世界中を放浪、そう聞かされていた両親が、実は神宮寺一馬の失態のせいで人柱に、そう知った時、確かに自分は理性を喪いかけたのだ。
 おまけに巴里ではその流れを断ち切れず、初めて愛を告げた少女を守り切る事が出来なかった。
 悪の親玉の策謀と吸血美姫の献身で、少女が新たな生を得たとはいえ、そこに自分は何ら関与できなかったのだ。
 サリュが散った地で自らの髪を切り落とした時は、ちっとも成長していないなとある意味、諦観にも似た感情があったのだが、アスカの言葉で幾分、精神的外傷(トラウマ)になっていたそれが甦ってきたのである。
 男達に腕を絡めるキャバ嬢を見ていたシンジの目に、危険なものが過ぎった。
 掌を彼らに向け、右手首を左手でおさえる。
 大抵の精(ジン)なら、片手で放出できるシンジが、こんな場所で反動をおさえる程の技を放てばどうなるか。
「あーもう、なんかもう全部吹っ飛ばして…吹っ飛ばし…て」
 だが、その手から、夜の街へ危険な波動が放たれることなく、はぁ、とため息をついてシンジは手を下ろした。
 ビルの屋上から、へにゃへにゃと地上へ降りてくると、携帯が鳴った。
「はい、碇…薫子?」
 相手を確認もせずに出ると、全く想定外の相手であった。
 向こうから電話してくることなど珍しく、しかもこんな時間に掛けてくるなど、ほとんど記憶にない。
「若様、今、お暇ですか?」
「やや暇」
「では、今宵は私にお付き合いくださいますか?」
「別に…構わないけど」
「ふふ、嬉しい。お迎えに参ります」
「迎えって…今から?」
「いいえ」
「?」
「今すぐに」
 声は、すぐ真後ろから聞こえた。
 振り向くと、薫子が立っていた。
 スーツ姿で携帯を手にしているその表情には笑みがある。
「…何なんだお前は!」
「若様付のメイド筆頭、工藤薫子です。お忘れですか?」
「そうか、そうだった。俺のメイドさんだった」
「御意」
 恭しく一礼すると、
「では、参りましょうか」
 身長180センチを超えるシンジを軽々と背負うと、音もなく歩き出す。
 シンジも抗うことなく、黙って身体を預けている。
 いくらシンジの信任が厚いメイドとはいえ、こんな時間にピンポイントで自分の背後に立って電話してくるなど、あり得ないと気付いたのだ。
 
「想定外のところで住人の庇い立てを強いられる管理人には、休息が必要だ。そうは思わないかね?」
 
 シンジは、どこかで邪悪な声が聞こえたような気がした。
 
 翌朝――。
「な、なんであたしの髪、こんなに艶々してんのよ?気持ちワリー!」
 明け方戻ってきたシンジは、聞こえてきた素っ頓狂な声に少しだけ眉を寄せたが、その表情から、昨晩の昏く危険なものは消えていた。
「今度はモヒカンにしてやる」
 明るい表情で、ろくでもない事を呟いた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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