妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百九十一話:晴れ時々曇り――所により一時魔法少女(前)
 
 
 
 
 
 すすり泣くような風がひっそりと頬を撫でる大草原の一端に黒瓜堂は、いた。
 空気の成分、ではなく空気そのものが異質に思える大草原に、人の気配は全く感じられない。かつて悠久の昔、自然の摂理だけが幾星霜にも亘って地上を支配した、あの地球に取っては理想的な姿がここにはある。
 見渡す限りの大草原は、オリンピック開催に伴い国土の緑化を唱えたものの、到底手に負えず枯れ葉を薬品で緑に染めたとある共産主義国の愚作などとは違い、れっきとした本物である。この光景は、大地を汚染し自然を減少させ、自然界を侵略する人間達をあざ笑っているのかもしれない。
 その中で、亘っていく風にウニ頭を揺らしながら、黒瓜堂がひっそりと立っているのは、小さな墓標の前であった。決して大きくはないのだが、苔生す事もなく毎日磨かれているようなそれが、実際は年に一度しか見に来る者が居ないと知れば、目にする者は驚くだろうか。
 墓標の前に黙然と立ち尽くしたまま、危険な男は微動だにしない。
 何時しか風は止み、大草原に静寂が訪れた。自らの悪の親玉と称して憚らない、世にも傍迷惑な悪の塊は、墓標を見つめたまま何を思うのか。
 やがて二時間以上が立った頃、黒瓜堂はゆっくりと身を翻した。無表情でてくてくと歩き出し、数百メートルを進んだ時、その横に何かが音もなく舞い降りる。
 戸山町の貴公子――夜香だ。
 かつて、偉大なる魔道士ガレーン・ヌーレンブルクがこの地で邪悪な魔を封じた後、ここを訪れるのは黒瓜堂の主人と夜香の二人しかいなくなっていた。シンジでさえも、ここに来た事はない。
 ただし、夜香の場合には――付き添いと言うより監視と言った方が合っているかも知れない。大魔道士の墓標はそれ自体がオーラを放っており、それに中毒っておかしな暴走でもされた日には、帝都がえらい迷惑を被る事になる。
「あの方は何と?」
「百年早い、と」
「そうでしたか」
 夜香の端正な口元に笑みが浮かぶ。夜香のような吸血鬼とは違い、単純に呪詛によって不死になっているこの男が、墓標の前で何をしていたのかはよく知っているらしい。
「シンジさんのご両親は、あなたに託されたのでしょう。あの方が完成するまでには、もう少し時間がかかる。シンジさんには、まだしばらく必要ですよ」
 ゲンドウとユイは、シンジを碇財閥の立派な後継者にしてくれ、と黒瓜堂に頼んだわけではない。そもそも――そういうまっとうな頼みなら、黒瓜堂の出番などあるはずもないのだ。
「異世界(むこう)では、結構頑張ったようだが。案外、崖から放り出した方が成長するタイプ、と言う気もする」
「……」
 
 
 
 巴里から戻った黒瓜堂が聖地に夜香といて、しかもろくでもない会話を交わしていることなど、無論シンジは知らない。
 この日は朝から全員出払っており、さっき本邸に赴いてピラニアに餌をやり、今し方戻ってきたところだ。
「さてと、掃除のお時間だ」
 箒を担いで玄関を出たところで、電話が鳴った。
「姉貴、なに?」
 電話はミサトからであった。
「巴里の街が一部破壊?へえ、旦那が…え?」
 北大路花火が洗脳されて敵に回った、と聞かされて、使えない団員を飼ってるなと笑ったシンジだが、黒瓜堂が暴走したと聞いてその表情が微妙に変化した。
「姉貴、それ見たの?」
「え…?」
 見たに決まってるじゃないと茶化そうとした瞬間――背筋を寒いものが走り抜けた。ミサトの本能が、強烈な危険信号を発したのである。
「いえ、あたしは見てないけど。それがどうかしたの?」
「それならいいけど」
(シンちゃん…)
 最愛の弟が、電話の向こうで不意に別の生き物と化したような気がして、ミサトの全身は刹那硬直した。
 だから、
「で、しばらく世界周遊を?」
 いつもの口調で訊かれた時、ミサトは心底ほっとしたのだ。
「まあ、ね。もう見つけたらしいんだけど、今回は自力で捜してみるわ。あの馬鹿共をとっ捕まえたら戻るから」
「ん、分かった。ま、あまり無理はしないで」
「ありがと。じゃあね」
 電話を切ってから、シンジはしばらく宙を見上げていた。
「子守なんかしてるから。まったくもう」
 ぶつくさぼやくのは、その場に居合わせられなかったからだ。先だっては、巴里で全力を出さなかった為に敗戦を喫したシンジだが、その時も黒瓜堂が発動して暴走したと後から聞かされており、シンジ自身はまだ見ていないのだ。
「私は見たよ。残念でした〜」
 とミサトが言ったら、即刻巴里へ飛んでいって逆さ吊りにしているところだ。
「一度は、お目に掛かりたいものだ」
 シンジが妙に物騒な事を呟いた時、不意に空が暗くなった。
「ん?」
 見上げると、女神館の上空だけが妙に暗くなっており、シンジの表情がすうっと引き締まったものに変わる。無論、降魔の降下部隊が落ちてくるのかと警戒したのだ。
 その手がある種の形を――印を結んでいる間にも、非常に狭い範囲で上空はますます暗くなっていき、とうとう雷鳴まで聞こえだした。
 なお、ほんの少し視線をずらせばそこは快晴の空模様である。
「……」
 明らかにここの上空だけが異様な状態になっているのだが、幸い今は館内に誰もいない。何が降ってきても、シンジ一人で始末する自信はあった――黒瓜堂の大群でもなければ、だが。
 その直後、一際大きな雷鳴が轟き、辺り一面を閃光が覆った。さすがのシンジも一瞬耳をおさえかけたのだが、違和感を感じてふと上を見上げた途端、その目が大きく見開かれた――何かが空から降ってきたのである。
 降魔を予想していたシンジだが、それが棒を持った少女らしいと気づき、反射的に身体が動いていた。落下地点へ跳躍し、落ちてくる肉体(からだ)を受け止める。
「…なんだコレア」
 妙な杖を持ち、あちこちにダメージを負った少女が落ちてきた、とそこまでは理解した。マリアで慣れたから、別に珍しくもない。そして、マリアの時とは違い落ちてきた状況からして、どこか次元のすき間にでも落ち込んだのだろう。
 現在、日本にいる術士は魔道省に登録する事になっているのだが、その理由の一つに余計な行方不明を防ぐ事も含まれている。というのは、無登録のぼったくりバーならぬぼったくり術士に法外な料金を告げられ、仕方なく見よう見まねで――怪しげな解説本を読みながら――術を行い、そのまま消息を絶つケースも少なく無かったのだ。一時的に次元のすき間に巻き込まれ、どこかに飛ばされるくらいならまだしも、最悪の場合妖物を呼び出してしまい、犯されたり殺されたりするケースもある。
 だが、どうして帝都上空ではなくこの女神館の上空だけが雷雲に覆われ、しかも雷鳴轟くと同時に少女が降ってくるのか。
「むう…ん?」
 首を傾げたシンジの目が僅かに細くなる。少女の身体から魔力を感知したのだ。あちこち怪我を負っているが、降魔に襲われた傷跡から感じるような、そんな微力なものではない。邪気こそ感じないが、量は結構なものである。
 比例、と言うわけでもないだろうが、全身に負っている傷も決して浅いものではなく、中には深傷になっているものもある。
 転んだとか崖から落ちたとか、その手のものではなしに、攻撃で受けた傷だとシンジは見抜いた。
 だが、今の日本ではこんな幼女とも言える少女を、いかに才能があるとはいえ術士にする事は認められていない。縦しんば魔道省の誰かの娘だとしても、こんな実戦に臨ませる事など絶対に有り得ないといってもいい。
「つまり?」
 首を捻ったシンジが、少女を抱きかかえたまま一旦館内に戻る。ソファに寝かせて傷の治療を始めたところへ、
「この世界のものではないな。どこからか飛ばされて来たと見える」
 背後から声がした。
「何で分かる?」
「オーラが違う。この世界の人間界にいる者は人間界の、魔界にいる者は魔界のオーラを量の差はあれ帯びているもの。この娘、中身は人間だが帯びているオーラは、この世界とも魔界とも異なるものよマスター」
「ふうん…」
 フェンリルが言うのなら間違いあるまいと、シンジは軽く頷いた。今はシンジの従魔となっている美女だが、その実態は古の書に名を強く残した神である。
 何カ所かに深傷は負っていたが、シンジの水治療の範疇を出るものではなく、二十分程で治療は完了した。
「治ったぞ」
「分かってる。ちょっと待って」
 立ち上がり、少女の側へ来たフェンリルが、その白い手を少女の頭部に宛がった次の瞬間、フェンリルの手は手首まで吸い込まれていた。
 少女が見たら卒倒しかねない。
 すぐに手は引き抜かれ、
「分かった」
「ほう――」
 それから三十分近くが経過した頃、ようやく少女は目を開けた。傷はさっさと治っていたのだが、フェンリルに説明された内容を、シンジが理解するのに少々時間が掛かったのだ。
「ん…こ、ここは…」
「お目覚めかな、高町なのは嬢?」
「!」
 聞こえてきた声に、高町なのはと呼ばれた少女はびくっと肩を震わせた。
「あ、あなたは…」
「碇シンジ。ここの管理人です」
「…どうして私の名前を…」
「記憶を少し見せてもらった。フェイト某なる者の仲間じゃないから、心配しなくていい。とりあえずこれを飲んで」
 カップに入ったココアを差し出され、少女――なのはは警戒するようにシンジを見ていたが、敵ではないと思ったのかくいっと飲んだ。
「美味しい…」
 こくこくと飲んでいき、なのはがカップを空にしていくのを、シンジは珍しく口元に笑みを浮かべて見ていた。
「あのっ、ありがとうございました」
「どういたしまして」
 カップを受け取ってから、
「なのは嬢、君が今知りたい事を結論から言うと、フェイト何とかというのと戦ってる時に、結構なダメージを受けた君は次元のすき間に巻き込まれ、この世界に飛ばされた。この世界は、君がいた世界ではない」
「…ふえ!?」
「但し、君の記憶を見せてもらった時点で、元いた世界の座標もほぼ分かったので、さっきいた場所から半径十数メートルのところへ送り返す事は可能だよ。海上だから、すぐに浮遊しないと危ないけれど」
「あ、あのっ!」
「ん?」
「わ、私がフェイトちゃんと戦っていたとか、ここが私のいた世界じゃないとか…どうしてそんな事が分かるんですか」
「世の中には、常識で計れない能力を持った者もいる、と言う事」
 パキッと指が鳴ると同時に、シンジの指先から炎の球が飛び出し、空中で縦横に動き回ったかと思うとある一点に終結した。
 それがハートの形を取ったのを見て、なのはの目が丸くなる。
 なお、フェンリルはこの場にいないのみならず、魔界へとその姿を消している。理由は簡単で、シンジの一撃を受けたのだ。
 この高町なのは、と言う少女がジュエルシード、なる石を捜しており、その石を捜して敵対する少女と戦っていた事をフェンリルから聞かされたシンジは、なぜこんな少女がとその顔をじっと見つめていたのだが、なのはの服はあちこち破れており、下着も見えていた。
 止せばいいのに、
「美幼女の下着姿はマスターの…」
 言いかけた途端、凄まじい殺気を帯びた一撃がフェンリルを襲ったのだ。本気、と言うより文字通り必殺の一撃であり、四本足であれ二本足であれ今頃はやや不自由しているはずだ。
 想定外の一撃は、さすがのフェンリルもかわしきれなかったのである。
「なんとなく納得した?」
「は、はい…きゃっ!?」
 頷いた途端、可愛い悲鳴をあげてなのはが前をおさえる。自分の服が破れており、少々大胆な姿になっていると今になって気付いたのだ。
「これを」
 シンジは別段の反応も見せず、傍らに置いてあったカッターシャツを引き寄せてなのはに渡した。
「す、すみません…」
 身長が190センチ近くあるシンジのシャツは、無論なのはが羽織ればぶかぶかで、膝を抱えた体勢がほぼすっぽりと包まれ、顔だけひょこっと出した。
「さてと、話を戻しますよ。この世界では、魔力とか妖力は別に珍しいものではない。別に君の力を見たところで、不気味に思ったりもしない。とは言え、自分の居た世界ではないのだからさっさと帰りたいでしょう。望むならすぐに送り返してあげますよ」
「じゃ、じゃあ…っ」
「所要時間は分からないが、多分十分もあれば着くでしょ」
 頷いてから、
「ただし」
「た、ただし?」
「記憶を見た限りでは、自分で勝手に崖から落ちたとかそう言う事ではなかった。君の負っていた傷は、すべて攻撃によるものだ」
「う、うん…あれっ?」
 
 ぺたぺた…ぺたぺた。
 
 なのはの手がシャツの中でもぞもぞと動く。自分の身体を触っているのだろうが、見ようによっては少々妖しい。
「き、傷が…治って…る?」
「治しておいた」
「ふえー!?」
 素っ頓狂な声を上げてから、
「あ、ありがとうございます…あっ」
 律儀にぺこっと頭を下げたのはいいが、シャツから手を出していなかったせいで、バランスを崩してシンジの方へ倒れ込んできた。ころん、と転がってきた身体をシンジは片手で受け止める。
 腕に抱かれた格好になったなのはが、
「す、すみませんっ…?」
 うっすらと赤くなって謝ったが、ふとシンジの表情に気付いた。
 それは何故か、なにかを押し殺しているようにも見えたのだ。
「現時点で――」
「え?」
「少なくとも、現時点では明らかに力の差がありすぎる。少女しかいない世界ならいざ知らず、なぜあんな無謀な事を鍛錬も積んでいない少女に…」
「あのっ、あれは私が選んだ事なんです」
「……」
「それにその…最初はライバルがいるなんて思ってなくて…でも引き受けた以上はやっぱりちゃんとしたいからって…あう?」
 不意にその頭がくしゃくしゃと撫でられ、なのはが驚いたようにシンジを見る。
「なのは嬢は…強いのだな…」
 呟いたシンジの声には、万感の思いがこもっていた。効率を考えれば誰か適任の――もっと戦闘能力の高い者に任せた方がいい。少なくとも、こんな怪我までしながら素人が手を出す事ではない筈だ。
 こんな少女が、自分の決意をそこまで維持できる事にシンジは感嘆したのである。
「わ、私は別に強くなんて…」
「いや、その意志の強さは賞賛に値する。俺が言うのだから間違いない」
「え、えーと…」
 どう反応して良いのか困っているなのはに、
「さっき、傷は攻撃によるものと言った。とっととお帰り願うのは何ら問題ないが、このまま帰った場合また繰り返しになる。つまり、彼我の力量にかなりの差がある現状では、また戦った場合傷を負わされるのは目に見えているし、場合によっては命に関わる事もありうる。それは分かっている?」
「あの、ヒガってなんですか?」
「こっちとあっち。つまりなのは嬢とフェイト某との間に、今はかなり力の差があると言う事」
 少し経ってから、なのはが頷いたが、それはどこか重い動作であった。
 そのなのはをじっと見つめ、
「他に回避できないなら、例え勝算がゼロに近くても挑む事をよしなしとはしないが、手があるなら使った方が良い」
「で、でも…」
「うん?」
「フェイトちゃんとは何回かお話ししようとしたんだけど…」
「戦いの回避、ではなく」
「え?」
「なのは嬢が敵を圧倒できれば済むお話」
「う、うん、それはそうだけ…ええぇっ!?」
 餌を口に入れた状態でびっくりしたハムスターみたいな顔で、なのはがシンジを見る。
「帰るのは何時でも出来るが、戦闘能力の向上はそうもいかない。なのは嬢が望むなら、俺が教えてさしあげる。少なくとも――かすり傷一つ負わない程度の強さには」
「……」
 自分を見つめてくるなのはを見て、シンジは目の前にいる少女がひどく純真な心の持ち主である事に気付いていた。このなのはという少女は、猜疑心や不信感といった類のものを、それこそ欠如していると言っても良い程に、殆ど持ち合わせていなかったのだ。魔道省でその能力故に慕う者が多いシンジには、その位の事は見て取れる。
「どうして…イカシンジさんは…私にそこまでしてくれるんですか?」
「なのは嬢は、水に落ちてもがいている子猫や子犬を見た時、助けたら飼い主がお礼をくれるとか、そう言う事を考える?」
 反射的に、なのはが思い切り首を左右に振る。
「放っておけないから助ける、と。違う?」
 頷いたなのはに、
「俺も同じ事。ま、俺の場合はもう少し打算的だけど」
「打算的?」
「計算ずくって事。あまり、無駄な事は好まないんだ。今のなのは嬢は、持っている力が十分の一程度しか引き出せていないらしい、と奴が言っていた」
「やつ?」
「どこぞの変態狼女」
 ギリ、と歯を噛み鳴らす音が空間から聞こえたような気がしたが、当然無視する。
「つまり、結果を保証できるだけの素材だから手を貸そうと言うんだ。効果があるかどうか、分からないのに手を貸そうという程人間は出来ていない」
 と言われてもよく分からない。
「う、うん…」
 頷いたが、黒瞳をくるくるさせて考え込んでいる。
「あ、あの…」
「ん?」
「ここへは…また来られるんですか?」
「送り返す事は可能だが、なのは嬢がまた来られるかどうかは何とも。時空移動の魔法、とかいうのはあるの?」
「いいえ、無いです」
「だとすると、難しいかな」
「う、うーん…うーんと…えーと…」
 シンジの言葉に、なのはのきれいな眉が寄った。顔を左右に傾けて何やら懊悩の最中だ。
(何を迷っているのか、だ。大方見当はつくところだが)
「言ってくれたのは嬉しいけど、私やっぱり帰り…で、でもあうぅ…」
 ぶかぶかなシンジのシャツに、文字通り身を包んで悩んでいるなのはの姿に、最近はすっかりご無沙汰になっている普通の少女を見て取り、シンジはうっすらと微笑った。
 それから二十分後。
 なのはの頭を膝に乗せて、その髪をそっと撫でているシンジがいた。
 しかも、
「知恵熱だな」
 などと呟いている。
 なのはが何を迷っているのかは、大凡見当がついていた。天涯孤独ではなく、家族もいる身のなのはに取っては、やはり家族を心配させたくない。それ故に、一度帰って家族を安心させてからまた来られれば、と思ったのだろう。
 だがシンジは難しいと言った。だから諦めて帰ろうとしたのだが、このまま帰ってもまた同じ状況にある、とシンジに言われた事を思い出したのだ。
 思い悩んでいる内に、眠ってしまったらしい。
「しかし…純粋な魂に出会うなど久方ぶりだな」
 管理人が真顔で呟いている事を知ったら、住人達から袋叩きに遭うのはまず間違いない。
 
 
 
「本来なら、シンジの手に依る傷は引き受けないのが私のポリシーよ」
「余計な事を言っていないでさっさと治せ」
「世話が焼ける上に態度の大きな患者ね」
 立場は一応医者と患者なのだが、言葉の端々に火花が飛び交うのを、人形娘はどこか不安そうに見守っていた。
 一旦魔界へ退散したフェンリルだが、シンジに受けた一撃は予想以上の深傷であり、仕方なくシビウ病院へやって来たのだ。
 が、この魔女医は常日頃からシンジを想い人と言って憚らず、しかもシンジに付けられた傷は癒さないと公言している。加えて、シンジの従魔でありその実態は巨大な妖狼だが、大抵は妖艶な美女の姿を取っているフェンリルとは、シンジを挟んで微妙な関係にあるから当然と言えば当然なのだ。
 とは言え、その気になればシビウが治せぬ傷ではない。患者、とシビウが口にした時、それは治す意志の表れである。
 綺麗に治してから、
「随分と殺気を帯びた一撃のようね。訓練ごっこでもあるまいし、何をして主をここまで怒らせたのかしら?」
「…異世界からの客人だ」
「!」
 それを聞いた時シビウの手は一瞬止まり、とりあえずこの院長室を起点に嵐が吹き荒れる事はなさそうだと、ひっそりと一礼して立ち去ろうとした人形娘もその歩みを止めた。
「…どういう事」
 話を聞き終えたシビウの顔色は、僅かに変わっていた。シビウが顔色を変えるところなど、ここの職員は誰一人として見た事がない。
「その娘との接触でもしもシンジが――」
「その心配はない。マスターが瀕死の重傷に近いダメージを受ける事が条件だし、かの世界とやらに関して、座標が分かっているのは黒瓜堂の男だけだ。あの男以外に、マスターを行かせられる者はいないし、あの男がそれを言い出すと思うか?」
「そんな事は分かっている。そうじゃなくてシンジの…」
「あの男が自称する悪の親玉の名に賭け、そしてそれに応じたのは――私もお前も好まぬ身の碇シンジ、だ」
 不意に、沈黙が室内に充ちた。それは、妙に重苦しいものであった。
 ややあってから、シビウが一つ息を吐き出した。顔と顔が触れ合うような距離で話していても、吐息をまったく感じさせぬ魔女医の動作に、人形娘は何故かほっとした。
「心安らかに過ごさせてくれない想い人ね」
 それは、人形娘にとって激しく同意できる呟きであった。
 
 
 
「ん…ん?」
 ふっと目を開けたシンジは、どうやら自分までもが眠ってしまっていたらしいと気付いた。
「俺が眠ってどうする」
 ご丁寧に、自分に自分で突っ込んでから膝を見るとなのははまだ眠っており、目覚めた様子はない。頷いたシンジの顔が上がり、掛かっている柱時計に目をやると、時計の針は既に午後二時を回っていた。
 初対面の魔法少女を膝に乗せて、数時間も寝入ったというのはシンジも初体験である。
 さては眠りの魔法でも秘かに使われたのかと、なのはの寝顔をまじまじと眺めた時、
「うにゅ…うぅ…」
 子猫みたいな声と共に、なのはがもぞもぞと動いた。ゆっくりとその目が開き、顔を左右に振ってその視界にシンジを捉える。
「あっ…お、おはようございますっ」
「ん」
 自分が膝枕されている事に気付き、慌てて起きあがろうとしたが、依然としてその身体はシンジのシャツにくるまれており、再度ころころと転がった。
「Sサイズのシャツを買っておくべきだったな。大丈夫?」
「す、すみません」
 抱き起こしたなのはに、
「それで、どうするか考えは決まった?」
「は、はい。あの…せっかくイカシンジさんに――」
「ちょっと待て」
「え?」
「脚が多い、というのは悪くないがイカじゃない。碇だ」
「……」
 左右に一度ずつ首を傾げてから、
「ごめんなさいっ」
「ま、大した事じゃないから。それで?」
「あ、うん、その…私を強くしてくれるって言ったけど関係もないのに――!?」
 言いかけたなのはの身体が、不意に硬直した。
 シンジの存在は関係ない。その視線はシンジの肩越しに通り過ぎているのだ。
(そう言えばそんな時間だったか)
 閉め出しておけば良かったかな、と邪悪な事を考えながら、
「おかえり――アイリス」
 顔は動かさず言葉だけかけたシンジの後ろから、何とも言えない禍々しい気が伝わってくる。
「おにいちゃん…その娘(こ)だーれ?」
 表情だけはなんとか平静だが、目元はまったく笑っていないのは見るまでもなく分かる。
「俺の分身に見えるか?異世界からのお客様だ」
「イセカイ?なんでおにいちゃんにそんなにくっついてるのっ」
「その件は後回し。いいから着替えておいで」
「やだっ!」
 ずかずかと入ってきたアイリスが、シンジとなのはの横で仁王立ちになり、腰に手を当ててなのはをじっと見る。
「あの…い、妹さん?」
「似てるように見える?実妹でも義妹でもない」
「ふうん…」
 シンジに抱き起こされたから距離が近いだけなのだが、事情を知らないアイリスには見知らぬ少女がシンジのシャツにくるまって、しかもシンジとぴったりくっついているようにしか見えず、自分に取っては危険な存在だと認識したのだ。
 警戒心、と言うよりも敵意を露わにして自分を睨んでくるアイリスをちらっと見たなのはがシンジに向き直った。
「さっきの事、お願いします」
「その気になった?」
 うん、となのはは頷いた。
「やっぱり今の私じゃ戻っても全然勝てそうにないから…。よろしくお願いします先生」
「せ、先生〜!?おにいちゃんっ、それどういう事!」
「魔界に行ってくる、ということ」
「…え?」
 アイリスの視線を軽く受け流したシンジが、内心で首を傾げた。ついさっきまで、なのはが断る気だったのはほぼ間違いない。それは本人の自由だし、無理強いする気は毛頭ないのだが、何故かアイリスを見て気が変わったような、そして――なのはがアイリスに向かって笑ったような気が、したのである。
(気のせいか?)
 
 
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT